『巨人ポール・バニヤン』 ベン・C・クロウ編 ちくま文庫

 副題に「アメリカの奇妙な話」とあるように、アメリカに伝わる様々なジャンルの説話を集めた説話集。続巻の『ジャージーの悪魔』とセットで全2冊になっている。ひとくちに「説話」といっても範囲が非常に広いが、本書(および続巻)においても、都市伝説/ホラ話/おとぎ話/宗教講話/歴史に関する通説など、大変にバラエティにとんだ多くの話が収録されていてとても面白い。監修および解説の西崎憲氏によれば、元の本はもっと大部なものであって、その中から特に日本人好みのものを精選した抄訳とのことらしい。余談だが、説話研究というのは分野でいえば民俗学に属するもの。民俗学といえば日本では柳田國男の『遠野物語』などが有名だが、アメリカでは説話以外に音楽分野の研究もさかんらしい。そちらのジャンルはよく知らないが、ギターやバンジョーの弾き語りによるフォークソングやブルースの成立背景などを研究するのかな?
 題名にある「ポール・バニヤン」とは、アメリカ人なら皆知っている有名なおとぎ話の主人公で、天を衝くような大男の樵(きこり)。かなり昔にNHKで彼を主人公にした子供番組を見て以来ひそかにファンだったのだが、本書が刊行された時には見逃してしまった。その後、ふとしたことで知ってから1年余り捜していたのだが、残念なことに現在では2巻ともに絶版との事。つい先だって古本屋で見かけてやっと購入した(*)。
 買って早々に1巻目(『巨人ポール・バニヤン』)を一気に読み切ってしまった。もったいないので2巻目(『ジャージーの悪魔』)はもっとちびちび読もうと思ったのだが、結局そちらも一気読み。『聊斎志異』や『捜神記』、『耳嚢』や『日本霊異記』『今昔物語』といった類の本はもともと“大好物”なのだ。それにポール・バニヤン以外にもデイビー・クロケットなどお馴染みのキャラクター達がぞくぞく登場するので、読んでいると知らず知らずのうちに顔がにやけてくるのがわかる。

   *…2冊セットで1500円とちょっと高めだった。そのことをツイッターで書いたら
     西崎氏ご本人からのご返事を頂いて、とても驚くとともに嬉しかった。
     しかしそこら辺のエピソードは本書の内容とは直接は関係ないので省略。(笑)

 冒頭の「都市伝説」の章を読んだ時には、『聊斎志異』(蒲松齢)のように本書でも著者(クロウ)が狂言回しとなって語っていくのかと思ったがそうではなく、集めた話をそのままの形で記載しているものが多い。最近の例で言えば『新耳袋』シリーズの体裁を思い浮かべてくれれば分かりやすいと思う。解説でも西崎氏が『耳嚢』(根岸鎮衛)を喩えに出していたので納得。
 とくに気に入ったのは(「ポール・バニヤン」の話はもちろんだが)、本書で言うと中盤の「熊、狼、栗鼠」や「狩猟と釣り」あたりの章。それらを読んでいると、『トムとジェリー』や『ロードランナー』などのカートゥーン(=昔風に言えば子供向け“まんが映画”)に出てくるギャグの多くは、アメリカの伝統的なホラ話の系譜であることに気が付いた。簡単な例を挙げると、ロードランナーを捕まえるためにコヨーテが用意する道具が段々と大袈裟なものになっていったり、ジェリーによってトムが遭わされる災難が次々エスカレートしていったりするシーンなどがそう。
 思えばR・A・ラファティやテリー・ビッスンといった作家たちも、ホラ話の要素をふんだんに取り入れた作品を沢山書いてるし、ホラ話というのはアメリカ文化を理解する上で大事なキーワードのひとつなのかも。説話とかアメリカ文化の源流に興味がある人は、どこかで見かけたら是非読んでみるといいかもね。

<追記>
 ちなみに続篇の『ジャージーの悪魔』も、悪魔や魔女に関する説話や、「アラモの戦い/トラヴィス中佐」の歴史的エピソードなど(=日本でいえば「白虎隊」や「西南戦争/西郷隆盛」みたいな悲劇の英雄ネタ)が載っていて、本書と同じくらい面白い。

<追記2>
 ところでちくま文庫とちくま学芸文庫、それに講談社学術文庫って良い本を出してくれるけどドシドシ絶版にするなあ。こういう本こそ速やかに電子書籍化してロングテールで売ればいいのに。ちくま&講談社学術系と平凡社ライブラリーの絶版本が電子書籍になるなら、すぐにでも電子ブック買いに行っちゃうけどねえ。(笑)
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『迷宮としての世界(上/下)』 グスタフ・ルネ・ホッケ 岩波文庫

 「マニエリスム」と呼ばれる美術様式がある。本書はドイツの評論家(哲学者?)ホッケによって書かれた、「マニエリスム」についての極めて長大な論考。文庫になる前の元本は、1966年に種村季弘によって紹介されて、その後の本邦におけるマニエリスム研究の嚆矢となったものである(とのこと)。ただし著者にとってはマニエリスム美術について語ること自体が最終目的ではなく、あくまでも手段に過ぎない。真の目的は「ヨーロッパ常数」について語ることにある。(「ヨーロッパ常数」とは何か?については後述。)
 ところが本書の副題には「マニエリスム美術」とあるだけだし、本書を読んでもそんな事はどこにも出てこない。実はホッケの考えの全体像が示されるのは、何と一番最後の第30章に至ってからなのだ。美術史の一分野についての本だとばかり思って読んでいると、話がどんどん横にそれて題名通りの「迷宮」に入り込んでいくことになる。
 解説で高山宏氏も述べているように、本書はまず後ろから読んで全体像を頭に入れた上で、改めて最初に戻って読んだ方が理解しやすいだろう。でもいちいち全部読んでいられない人のため、以下にまとめて書いてしまう。(笑)

 もともと「マニエリスム」という名前は、16,7世紀(すなわち後期ルネサンスとバロックの間)に出現した“ある種の特徴”を持つ美術様式に付けられたものだった。(以下「狭義のマニエリスム」と呼ぶことにする。)
 美術史における狭義のマニエリスムというのは、それまでの「古典主義」から逸脱した絵画に対して付けられた蔑称の意味合いが強かったらしい。「古典主義」がギリシア彫刻のように自然な姿態の描写を主体としていたのに対し、「マニエリスム」と呼ばれた絵画は、例えば凸面鏡をつかってわざとイビツな構図にするなど、技巧に走り過ぎて一種異様な雰囲気を持っている。多くの人が知っている画家といえばアンチンボルド(*)などが挙がるだろう。最初は宗教的な寓意を持たせるなどの目的で、画家の精神的な主張を絵に盛り込むための手法だったはずだが、やがていつの間にか理念の追求は“珍奇性”の追求へとすり替わってしまい、“芸術性”とかけ離れた別の価値を示すようになった。それらの一群を指し示すために造られたのが「(狭義の)マニエリスム」という言葉だった。ちなみに日本では「衒奇的(げんきてき)」という訳語もあるようだ。

   *…野菜や書籍を組み合わせて人の顔を描いた作品が有名。

 ホッケの恩師であったクルティウスという人物は、後に「マニエリスム」という美術用語を“単なる自然描写”から逸脱した作品群全てに対して使用することを主張した。彼が「マニエリスム」の範疇に含めたのは、「紀元前200年前後のアレクサンドレイア」「1、2世紀ごろのローマ『白銀ラテン』時代」「17世紀半ば~18世紀半ばに亘る最盛期のバロック」、そして「19世紀初頭のロマン派運動」「20世紀初頭~半ばのダダおよびシュールリアリズム運動」などである。
 クルティウスの主張は正統的な美術史の中では定着しなかった(という話もある)ようだが、ホッケはその主張を継承/徹底し、絵画から対象を更に文学の分野まで広げた。すなわち修辞的な技巧を多用した詩や散文なども「マニエリスム」の概念に含めてしまったとのこと。(これを仮に「広義のマニエリスム」と呼ぶことにする。)
ちなみに「マニエリスム」の意味は「マニエラ(=手法/様式)を重視する主義」ということであって、ラテン語の“manus(=手)”から派生した「人の手による技術」に由来する。すなわち「(自然物をそのまま描写するため)具体的知覚にそぐうよりも、(作者の)心理的体験や情動に重きを置く芸術の手法」のことである。具象ではなく抽象的であったり非現実的な表現を特徴とする。
 「広義のマニエリスム」の例としては、ミケランジェロの宗教画などにおいて苦悩を表現するために人物に異様なポーズをとらせたり、文の意味が崩れてしまうほど韻を踏むことにこだわった詩などをイメージすると雰囲気が分かりやすいかも。

 前フリの説明のつもりが長くなってしまった。要するに本書『迷宮としての世界』というのは、著者ホッケが膨大な例証を挙げて「広義のマニエリスム」に対する自らの主張を説明した本なのだ。
 「広義のマニエリスム」にまで至ってしまったホッケはもはや歯止めが効かない。彼によれば「マニエリスム」とは単なる美術・芸術の概念ではなく、ヨーロッパの思想や文化の奥底深く流れる潮流のひとつであり、もう一つの潮流「古典主義」に対峙するものという事になる。―えらく大仰な話になってきた。(笑)
 彼の言葉を借りると、「古典主義」とは神による世界の秩序を重んじるものであって、「整然とした」「端正な」「自然主義的な」といった修飾語がよく似合う。極論すると理性や規範に対する親和性を持ち「“明るみ”に出されるもの(≒顕在化)」を優位とする価値観の総称ということになる。
 それに対して「マニエリスム」とは、作者が表現しようとする概念や頭の中のイメージが溢れだして創作物にまとわりつき、何とも形容し難い「豊饒な」「奇怪な」「ユニークな」形に結晶したものといえる。曖昧さや神秘性に対する親和性を持ち「“秘匿”されたもの(≒隠された叡智)」を優位とする価値観の総称である。
 このふたつを合わせ鏡のように一対のものとして捉えることで、ヨーロッパを支配する思考方法の祖形が解明できると著者は考えており、それを「ヨーロッパ常数」と呼んでいる(ようだ)。

 このあたりの話、つまり著者のスタンスは(あとから読み返してみると)実は巻頭の「緒言」で確かに述べられてはいる。述べられてはいるのだが、美術史における「狭義のマニエリスム」に関するガイドブックを期待して読み始めた読者には、何が書かれているのか全く理解が出来ない。そして先程も述べたように、再びこれらの話題に戻って著者の考えが包括されるのは、およそ670ページ後の(!)第30章に至ってからなのだ。(初読で全体像を理解するのは、はっきりいって不可能に近い。)
 その代わりといっては何だが、最後まで読んで全体像が理解できた時には、目の前がいきなりパッと開けるような爽快感があった。もうすこし詳しく言うと、第30章「神の隠喩」においてホッケはテーマを更に「神の想像」という領域にまで進めていく。「古典主義」は(神を)具象的に想像する方法であり「マニエリスム」は(神の)抽象的な想像を目的とする方法であるとし、それらが相俟って西洋の2大潮流となるというところまで話は及ぶが、流石にここまで広げ過ぎると著者の手にも少し余るようだ。美術におけるマニエリスムをテーマにした本書は一旦ここで終了する。そして「ヨーロッパ常数」を巡るホッケの思索は、文学や詩といった修辞に関する続篇『文学におけるマニエリスム』に引き継がれることになる...。
 まさかこれだけの大著が2部作の“前篇”に過ぎないとはホッケ恐るべし。もしもマニエリスム論の全貌を知りたければ、これ以上の労作であるらしい続篇を読まなくてはいけない訳だが、とてもそこまでお気楽読者のパワーは続きそうもなく、一応いまのところは本作で打ち止めとしたい。(笑)

 それではつぎに本書に関する感想を。
 第1部は「(広義の)マニエリスム」の様式に関する総論が続くため、狭義と広義の区別すら理解できていない読者にとってハードな状況(笑)が続く。そこで救いになるのは豊富に収録された奇妙な図版の数々である。不思議な雰囲気を待つそれらの絵は、難しい議論を読み進むのに疲れたときのちょっとした清涼剤代わりになる。
 本書が俄然面白くなるのは、死の不安/神と天使/時計/廃墟/キュビズムといった、「マニエリスム美術」を代表する各モチーフに関して各論が展開される第2部から。イメージを膨らませる為の道具としてよく用いられる使われるアイテム等を個別に取り上げていって、膨大な例章でその概念を解説する構成をとっている。その為に随所に掲げられた膨大な絵をみているだけでも楽しい。
 「マニエリスム」の代表作家としては先述のアンチンボルドやミケランジェロの他、エル・グレコやブリューゲル、ルドン、シャガール、それにエルンストやダリ、ピカソ、デュシャンといった画家たちや、詩人のブルトンなど錚々たる名前が挙げられている。対する非マニエリスム(古典主義)の代表作家としては、ダンテ、シェイクスピア、レンブラント、モーツァルト、ゲーテ、J・S・バッハなどこちらも凄い名前のオンパレード。
 自分が思うにどのような概念であっても、一度造られてしまうと時間とともに様々な意見が纏わりついて大きくなっていき、やがて雪ダルマのように膨らんでいく。そしてその結果、当初とは違う意味に使われ始める。おそらく「マニエリスム」においても同様で、時の権力/秩序の象徴たる「古典様式」に対置するものとして、無秩序や改革・革命というイデオローグを持たされたのではないだろうか。(**)

  **…そのまま先鋭化が進んだばあい、行き着く先は、“頽廃”もしくは“狂気”への
     散逸か、はたまた“倒錯的な猥雑”さか? いずれにせよ最終的には自閉症的な
     ナルシシズムへと堕することになりそう。

 ただこれらの膨大な論考を通じて著者が示そうとした結論自体については、ちょっと首肯しかねる点がある。まずひとつめは「(広義の)マニエリスム」に含まれるものと含まれない物の線引きが良く分からないこと。
 ホッケはミケランジェロやレオナルド・ダ=ヴィンチまでマニエリスムの範疇に含めてしまっているが、そこまで入れておいてレンブラントが含まれない根拠がさっぱり理解できない。あらゆる創作物には程度の差はあれ何らかの形で作り手の意図が込められており、「不自然なポーズ」のごときものまでマニエリスムに含めてしまうなら、どこに線引きするかは殆ど自由裁量になってしまわないか? スーパーリアリズム絵画はおろか写真ですら、意図的な構図や演出を完全に排除することは出来ないだろう。
 また、キュビズム(ピカソ)やデュシャンのように技巧的な奇想と、ブリューゲルやボッスのように技巧は普通だが書かれている対象物が異様なものを全て同列に語ってしまうのもどうかと思う。技巧に走り過ぎてしまったが故の「演出過多」と、手法は古典的だがテーマ自体が「奇想」になっているものとは分けて考えるべきではなかったか。個人的にはせめてミケランジェロなどは外すべきではないかと思う。自分の意見が絶対的に正しいとは思っていないが、少なくともここまでマニエリスムの定義を広げ過ぎると、収拾がつかなくなるだろう。却って意味のないものになると思われるが如何か。
 次に納得できない点は、あらゆるマニエリスム美術の目的を「神への奉仕」という観点で説明しようとしているところ。ベルクソンやハイデガーまで引き合いに出して懸命に説明してくれてはいるが、精神的なものや技巧的なものを全て一神教的な世界観に集約してしまうのはちょっとなあ。西洋美術とは全く別の流れをくむ“奇想の系譜”が存在することを知っている我々日本人としては、「若冲や蕭白は神への奉仕はしてないぞ!」と言いたい。月岡芳年なんてどう考えても宗教とは正反対の指向だし。
 それに西洋においてもマニエリスムの理念が宗教に因っているのは、せいぜいが市民社会の成立する頃までであって、それ以降の美術作品も全て同じとは思い難い。カンディンスキーやミロの抽象画のどこに宗教的な崇高さを感じればよいのか、自分にはさっぱり分からない。
 このあたりの話はもしかしたら続篇『文学におけるマニエリスム』で全て解決するのかもしれないが、そこまでつきあう気力は無いしなあ、うーん。(笑)

 以上、長々と書いてきたが、巻末の高山宏氏による解説がとても好かったので、それに触れて最後としよう。
日本に本書が初めて紹介された経緯や、マニエリスムを巡ってその後に繰り広げられた熱気ある議論の様子が、生き生きと描かれていて素晴らしい解説になっている。本書を翻訳・紹介したのが種村季弘だったこともあって、面白いことが大好きな種村や友人の澁澤龍彦らは基本的にホッケの立場を支持したらしい。その彼らが70年代の思想シーンを牽引したため、日本におけるマニエリスム理解は本書の考えに沿った「広義」のものになっているようだ。
 高山宏氏によれば日本におけるマニエリスムの例としては、先述の若冲や蕭白はもちろんのこと、漫画家の丸尾末広や荒木飛呂彦、果ては水木しげる迄もが含まれるそうだ。(自分が思うに松井優征の『魔人探偵脳噛ネウロ』も仲間に入れるべきかと。)

<追記>
 話はころっと変わるが、本当に本書の文章は読みにくかった。専門用語が多いだけじゃなく文意が掴みにくい。いわゆる「翻訳調」による読みにくさとも違う。例えば文の最初と最後で意味が繋がらなかったり。おそらく原著自体が悪文なのだ。翻訳にあたってはきっと苦労しただろうと思う。
でも自分は悪文については山口昌男で訓練を積んでいるので、内容さえ面白ければこの程度ではへこたれはしないのだ。(笑)
 思うにある種の思想家にとっては「何を書くか」だけが重要であって、「どう書くか」は大した関心事ではないのだろう。ちなみに文学者は逆で「どう書くか」に腐心しているが、両方を上手くこなせる人は稀であって、「何を書くか」が単になおざりにされているだけの人も多い。何事もバランスが大事ということだね。

『論語』 岩波文庫

 ぼちぼちと読んできた『論語』が読み終わったので、今回はおそれ多くも感想を述べてしまう。(笑)
 今さら説明の必要がない程の世界的な名著だが、孔子の時代にリアルタイムで書かれたものではなくて、後世の弟子たちにより編纂されたものだというのは今回初めて知った。言ってみれば新約聖書と似たような成り立ち。
 孔子と言えば乱れた世を立て直すための「政道」を説くにあたって、失われた古代国家“周”の政治を理想とし、「礼」と「徳」を持って語ったのが特徴。細かく言えば『論語』の中で孔子が述べるキーワードには、他にも「仁」とか「孝」とか色々あるが、興味のある人はビジネス書のコーナーに解説書が山ほど売られているので、本屋で各自で探して頂きたい。でもまあ、彼の主張を簡単にまとめるならば、基本的な考えは凡そ以下の文章に集約されていると思って良いだろう。

  「政」で以て導き「刑」で統制すると人民は法の網の目をすりぬけて恥ずかしいとも
  思わぬが、「道徳」で以て導き「礼」で統制するならば、人民は法をすり抜けることに
  羞恥心をもつようになる。

 つまり「縛りつけるのでなく思いやりをもって互いに敬い合う精神で臨めば、世の中は自ずとうまくいく」ということ。皆が漠然と心の中で感じている“当たり前”のことを、改めて言葉にしてくれたのが孔子の偉いところ。つまり『論語』で孔子が述べているのは「アフォリズム(警句)」みたいなものなので、おもわず「そうそう、そういうこと!」と言いたくなるフレーズを愉しめば良いのだと思う。

 実際に目を通して見ると、あまりに有名な本だけに、どこかで聞いたことがある言葉が次から次へと、まあ沢山有ること。(笑)
 でも基本的には弟子が書いた孔子の“言行録”なので、孔子の研究者ではない一般読者の自分には、正直いってどうでもいいような話も数多い。また“思想書”として『論語』を読んだ場合も、「周公の治世を理想とした君主論であり臣下論」であって、「君は君として、臣は臣としてそれぞれ本文を尽くす」というのがその基本。封建制度がとうに崩壊して久しい現代では、もはや通用しない内容も多い。
 ありていに言って中国の思想家たちは、我々が普通に考えるプラトンやデカルトといった所謂「思想家」とは少し違うものだと思う。孔子の場合は弟子たちに説く政治哲学がそのまま彼の人生哲学ともなっていて、日々の生活がそのまま自らの思想を実践していく場になっているのが特徴。だからこそ言行録がそのまま思想書としても読まれてきたのだろう。
 しかしその為に『論語』はひとつの問題を後世に残すことになった。それは「礼」や「徳」と言った言葉について、それらが指し示す意味を明確にしていなかったこと。「礼」という概念は当時の彼らにとって自明のことだったのかも知れないが、そこで言葉の解釈を曖昧なままにしてしまったが故に、後世の支配層による恣意的な解釈を許すことになった。結果、孔子の意図に反する形で利用される余地を残してしまった。
 極端な事を言えば、これらの言葉を“符丁”のようなものと考えても良い。例えば“互いに慈しみ礼を尽くすこと”に対する言葉として「仁」をあてる代わりに、「のっぴょっぴょー(byしりあがり寿)」という言葉にしたって構わない。別にどんな呼び名であっても、意味が分からなければ同じことだ。(笑)

 思うに孔子は「何を伝えるか」だけでなく、自分の意図が後世に正しく伝わるために「どのように伝えるか」についても、「何を」と同じくらい重要視すべきではなかったか。その結果、色んな”手あか“が付いてしまい、今の世の中で「『論語』が好きだ」と公言してはばからない人には、碌なヤツがいない気がする。(失礼/笑)
素直に読めば常識的な話が多くて、決しておかしなことは言っていないのにねえ。

 次に本書の構成について。
 全体は巻第一から巻第十までの10部構成になっていて、およそ500余りの小文が収録されている。それぞれの巻は2章に分かれているので全部で20章となる。とはいっても書かれている中身によって章が分けられている訳ではなく、読みやすいように単に適当な分量ごとに分けたという感じ。内容は孔子が語った言葉を始めとして、弟子とのエピソードや日常の様子など多岐に亘っている。個人的に好きな文章が多く収録されているのは、巻第一の「学而第一」と「為政第二」、巻第二の「里仁第四」、それに巻第八の「衛霊公第十五」といったところだろうか。
 本書を読み終えた後に、全部で500余りある話を「A=好いなあ」「B=まあまあだなあ」「C=どーでもいいなあ」という3つのランクに分けて、各々どれくらいあるか数えてみたところ、なんと全体の約70%がCになってしまった。(笑)
 さらに残りの30%のうちBが約25%を占め、Aは僅か5%にも満たない程度。あくまでも自分の主観によるものだから、他の人が見ればもっとAランクの比率が増えるかも知れない。でも弟子が「○○さんについての印象」を孔子に尋ねるエピソードなどは、誰が読んでも“どーでもいい”と思うんじゃなかろうか?
 但しCランクのものであっても、(為になるかどうかは別として)孔子に関する“物語”として読めば充分に愉しめる。最愛の弟子・顔回を無くした時に彼が慟哭しただとか、不遇の晩年に周囲の人々が孔子を噂する様子など、Cランクの文章を読み進んでいくと、次第に孔子の人となりが見えてくる。単なる「朴念仁(ぼくねんじん)」だと思っていた孔子が、次第に身近な存在に思えてくるから不思議だ(*)。そう考えると『論語』の付きせぬ魅力はむしろCランクの文章にこそあるといえるのかも。(ちょっと褒めすぎか。/笑)

   *…余談だが孔子の愛弟子・顔回が主人公の伝奇小説『陋巷に在り』(酒見賢一)は、
     このあたりの話を元にイメージを膨らませていったのだというのが、本書を読んで
     良く分かった。

 こう考えていくと『論語』に対する印象は『新約聖書』に対するそれと本当に良く似てくる。イエスや孔子の人間的魅力だとか、語られる思想の持つ奥深さとか。実際に中国では孔子廟が造られ、熱心な信仰の対象にもなっているようだし。
 そう考えると、儒家がキリスト教のような教団にならなかった理由は、孔子が一切「怪力乱神」について語ることがなく、その思想は現世における人生訓に終始していたこと(だけ)に尽きるのでないか。両者/両書におけるそれ以外のスタンスは殆ど同じといっても良い。

 最後に自分が特に「好いなあ」と感じたところを幾つかピックアップしておこう。(「こんな言葉が本書に由来するものだったのか」と驚いたものも含めて。)

 「朋あり、遠方より来たる、亦(ま)た楽しからずや」
 「巧言令色、鮮(すく)なし仁」
 「四十而不惑、五十而知天命(四十にして惑わず、五十にして天命を知る)」
 「温故而知新」
 「これを知る者はこれを好むに如かず(及ばない)。
         これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」
 「子不語怪力乱新(孔子、怪力乱神を語らず)」
 「顔淵(顔回)死す ―『噫、天予れを喪ぼせり(ああ、天われをほろぼせり)』」
 「過ぎたるは及ばざるがごとし」
 「君子は和して同ぜず(君子は人と調和するが雷同はしない)」
 「これの欲せざる所、人に施すこと勿(な)かれ」

<追記>
 「古典は若いうちに読むべき」なんて偉そうに言う人もいるけど、自分はそうは思わない。専門の研究者ならともかく、一般の読者にとって古典教養が必要になる機会なんて人生でそうざらに有るわけじゃない。とすれば殆どは自分のように「愉しみ」を得るのが古典を読む目的となるだろう。しかしそれらの本当の面白さを理解するには、それなりの経験と知識が前提になると思うのだ。なぜなら書かれた時代や当時の社会情勢、人々の意識が現代とはかけ離れているのだから。分からない部分は知識や想像力で補うほかない訳だが、それを人生の経験浅い人達に強要したって酷だと思うのだ。
 読書は別に難行ではない。全体の僅か5%程度(20余り)の名文を読むために、つまらないと思いながら『論語』を読み続ける必要なんて全然ない。(但し、くどいようだが専門の研究者を目指すなら話は別。また本人が古典に興味があるならそれも結構。)
 「古典だから読んでおくべき」みたいに教条的な感じで無理やり読まされたって愉しくないということ。一生懸命読んだ結果、ただ単に「我慢して読んだ」「つまらなかった」という記憶が残るだけでは、本人にとっても本にとっても可哀想だものね。
 若いうちは「古典を読め!」じゃなくて「古典も読んだら?」くらいで充分ではなかろうか。そのうち読みたくなったら、そのときに読めば良い。

『胎児の世界』 三木成夫 中公新書

 東京出張の時には、帰りに東京駅・丸の内にある丸善4Fの松丸本舗へ時々寄らしてもらっている。新刊書店で「思いがけない本との出会い」が期待できる数少ない場所だ。(*)

   *…知っている人も多いと思うが念のために書いておくと、松岡正剛と丸善がタッグを
     組んだ、本の“セレクトショップ”。セイゴオが『千夜千冊』で取り上げた本は
     もちろんのこと、彼が責任をもってセレクトした本が所狭しと置かれている。
     でもこの場所、面白そうな本があまりにあり過ぎるので、本棚の角を曲がるたびに
     気になる本との「出会い頭の正面衝突」を繰り返してなかなか前に進めないんだよ
     ね。(苦笑)

 そんな松丸本舗の棚に書かれていたのが、松岡正剛の直筆による「こんな名著めったにない」という惹句だった。それを読んでつい心魅かれてしまい、ふところ寂しいのに買ってしまったのが本書『胎児の世界』というわけ。
 で、さっそく読んでみました、読みましたとも。読んでみて感想を書こうと思うのだけれど...。うーんと、困った。(笑)
 ひとことで言うと本書はある種の思想書なのだが、正直言って中身はブッ飛んでいる。もしも著者名を隠したままで読まされたら、岡本太郎が書いた本と言われても思わず納得してしまったかもしれない。茂木健一郎が自著の中で、若いころに多大な影響を受けた本として紹介もしているようだが、さもありなん。そんな感じの本だ。
 一読してみて、松岡正剛が“名著”と断言した理由は大変よく理解できた。しかし自分としてはそこまで本書の主張に対して手放しで賛同はしかねる。(20年ほど前に読んでいたら「何だこれは!」といってポンと放り出していたかも。)
 ただし誤解が無いように言っておくが、本書は決して「いい加減」な気持ちで書かれた本では無い。著者の想いはとても真剣である。書名と「東大医学部出身の解剖学&発生学者」という著者の肩書を見て、科学的な知見について書いた研究書だろうと勝手に勘違いして読んだので、思わず面喰ってしまったということ。
 だらだらと書き連ねてしまったが、これでは何のことかさっぱり分からないと思うので詳しく説明していこう。

 著者の三木成夫は大学で発生学の研究に没頭した経歴をもち、後には東京芸術大学の教授に就任している。そして鶏や人間の胎児を研究に用いた経験をもとに、地球上に存在する全ての生命を貫いている「記憶」について、自らの思うところを一冊にまとめた、それが本書。たしかに胎児の形態学的な知見なども書かれてはいるが、あくまでも「生命記憶」に関する自らの考えを読者が理解しやすくするための前奏曲に過ぎず、本書執筆の真の狙いは別にある。
 胎児には魚から両生類や爬虫類、そして哺乳類へと長い年月を経て進化してきた、生物の歴史(痕跡)の全て(*)が刻み込まれている。著者は鶏の卵が受精後4日から5日にかけて循環器系の劇的な変化を遂げる様子などの、克明な描写によってそれらを説明する。そしてやがて「生命」から「母なる海」や「地球」、そして「銀河宇宙」へと話は進み、最後には大宇宙と森羅万象がこころをひとつにして息づく「宇宙交響(=共鳴するリズム)」への共感に至って、著者独特の生命賛歌を高らかに謳い上げて幕を閉じる。

   *…いわゆる「個体発生は系統発生をくりかえす」ということ。

 思考の射程範囲は恐ろしく広い。「生命記憶」とか「胎児の見る夢」とか言う言葉が頻繁にでてくるのでもしやと思ったら、とうとう夢野久作(『ドグラ・マグラ』)にまで話は及ぶ。このように科学的な記述から詩的な独白までが同一レベルで語られているのが本書の特徴でもあり、また取っつきにくさの原因でもあるといえるだろう。

 次にどうしても納得いかなかった点について。
 著者は西洋の思想における限界を感じており、それに対するカウンターカルチャーとして、天皇制や伊勢神宮などに代表される日本古来の思想や、中国の老荘思想を賛美している。どうやらその理由(の少なくともひとつ)は、東洋思想の方が西洋思想よりも遥かに「生命記憶」に関して理解が深いからであるようだ。しかしその取り上げ方に問題がある。
 三木が好んで用いているのは、日本に古くから伝わる思考方法である「見立て」の手法だ。どんなものかというと、直接的には関係のない事柄を、連想ゲームのように列記することで、一種独特の繋がりを持たせようとするもの。文学や文芸作品で用いれば思わぬ効果を得ることもできようが、本書のように「思想」を伝えようとする本においてはそうはいかない。例えばかつて自分が『正倉院宝物展』を見て感激した体験を、日本人の先祖が遥かシルクロードより亘ってきた「記憶」によるものだと主張してみたり、伊勢神宮で20年毎に行われる「遷宮」が老荘思想における「道(タオ)」の実現であると言ってみたり、詳しい論証も無く直感をいきなり主張されても、果たしてどうして良いものやら途方に暮れてしまう。

 民族学者・折口信夫における『死者の書』のようなものと言えば想像が付く人もいるだろうか。要するに非常に “文学的” かつ “詩的”なのだ。まあもっとも、だからこそ著者は医学部ではなくて芸術学部の教授になった(なれた)のかもしれない。あまり真剣になって考え込まずにある種の“文学作品”として読めば、それなりに感動もするし面白いのではなかろうか。
 あ、今頃になって気が付いたのだが、本書は「論理と感性」や「西洋と東洋」といった枠組みどころか、もしかしたら「思想と文学」という境目すらも軽々と飛び越えてしまっているということか。…それならこの書き方にも納得。(笑)

<追記>
 最後になるが松岡正剛が本書を“名著”と断言した理由についての推論を付け加えておこう。
 松岡正剛が大好きなのはジャンルにとらわれず縦横無尽に、且つイマジネーション豊かに駆け回る思想の持ち主だ。本書の他にも立岩二郎の『てりむくり』(中公新書)などを、高く評価しているのがその証拠。彼(正剛)は「方法としての日本」の活用を以前から主張しており(=これは自分も納得)、日本古来の考え方に根差した上で、様々なジャンルの壁を越えていく三木成夫のようなタイプは、きっと「ツボ」であるに違いない。

『一寸法師』 石田英一郎 アテネ文庫

 かつて弘文堂のアテネ文庫という叢書があった。敗戦後の荒廃した時代に人々に少しでも心の糧を、という意気込みで創刊されたものだ。全部で300点ほどが出版されたらしいが、今回その中から40冊が復刊された。今の時代における文献的・学術的な価値は良く分からないが、刊行リストにはキラ星のような名前が並んでいて、書名と著者名をみているだけでも眼福といえる。新しい時代の日本に向けて、当時の著述家たちが伝えようとした真摯な思いは、今の我々でも充分に感じることが出来る。その心意気やよし。

 本書はそんなアテネ文庫復刊リスト中の一冊であり、文化人類学者の石田英一郎が昔話「一寸法師」のルーツについて考察したもの。ちなみにアテネ文庫はジュンク堂と丸善(の一部店舗のみ)の限定販売らしい。先程は偉そうに書いたが、実は自分も新年会の待ち合わせでジュンク堂をうろうろしていた時に偶然見つけただけ。(笑)
手にとって眺めているうち装丁に一目惚れしてしまい(*)、つい衝動買いしてしまった。
 前にネットでニュースをちらっと見かけたことはあったのだが、その時は全く興味がなく、実物を見るまですっかり忘れていた。こんなことならもっと前に立ち寄るんだった。(苦笑)

   *…紙が不足していた時代の本なので一冊が100ページに満たない小さな本なのだが、
     表面が経木(=昔の焚き付けなどに使われた、木を削いで紙のように薄くした物)
     で覆われているようで、ひとつひとつの木目柄が全部違っている。とても美しい上、
     手に持った時の感触や質感が何ともいえず良い。

 外見ばかり褒めていないで内容についても触れておこう。著者はさすがに柳田國男を敬愛するだけあって、基本的な見解は柳田のそれを踏襲している。同じ著者による『桃太郎の母』(講談社学術文庫)や『河童駒引考』(岩波文庫)と同様で、日本に古くから伝わる昔話や妖怪たちを古代の神々が零落したものとして捉えている。小松和彦らが活躍する今となっては、いささか古めかしさが否めない感もある。しかし一寸法師の正体を「小サ子」にもとめ、「うつぼ舟」や「原始(大地)母神」とのつながりから「水神」「竜神」へと進む本書の考察は、日本を遥かに超えてアジアまで視点を広げており、スケールが大きく読んでいて気分が良い。小冊子なので読み終わるのに時間もかからず、ちょっとした気分転換に最適だった。

 くどいようだが装丁については最後にもう一度繰り返しておきたい。今回アテネ文庫に出会うことで「物体」としての本の良さを再認識することが出来た。こればっかりはいくら電子書籍が逆立ちしても出来ない芸当であり、紙の書籍と実店舗の書店が今後も生き残っていくにはこういう方法もあったかと。
 何にせよ売り場にある同じ本の柄が全部違うというのはまさに壮観で、なるべく多くの人にぜひ店頭で実物を手にとって見てもらいたい。そして(定価はちと高めだが)なるべく多くの人に買ってもらいたいと切に願う。

 世の本好き達よ、ジュンク堂へ急げ!

『日本力』 松岡正剛/エバレット・ブラウン PARCO出版

 お馴染み松岡正剛と、日本在住の写真家でありジャーナリストでもあるエバレット・ブラウンの対談集。正剛の本質は作家ではなくあくまでも編集者であり、彼の持ち味がもっとも活かせるのは誰かをネタにして語ること。その意味で本書はかなり理想的だったと言えるだろう。相手が「連塾」のゲストとしても登場したこともある人物だけに、対談相手としては文句なし。正剛がライフワークとする「方法としての日本」を巡る話題が色々と取り上げられ、ブラウンの鋭い指摘と相俟って大変刺激的な対談が繰り広げられている。
 「“日本精神”を見直そう」というと、すぐに戦前・戦中のキナ臭い記憶が取りざたされ拒否反応が出るが、正剛が述べているのはそこではない。古代から連綿と続いてきたのに明治後期に途切れてしまった日本独特の考え方、つまり日本の伝統文化の背後にあるものを、西洋文化と同列に素直な気持ちで再評価しようというものだ。帝国主義や侵略戦争に結びつく思想については、明治後期以降に古き良き日本思想を捻じ曲げたものとして否定している。
 また西洋文化の優れた論理力を否定している訳でもない。彼が言っているのは、表面だけを中途半端に真似るのでなく、やるなら徹底的に西洋(の一神教的)論理を学びつくすべきで、その上で東洋(の多神教的)文化も学ぶべきということ。そうでなければいつまでも欧米の後塵を拝するだけに過ぎないし、その先に待っているのは西洋思想の行き詰まりを追体験することでしかないから。

 以下、2人のやりとりの中で気に入ったところを幾つか挙げる。
 <西洋のいいところ>
  ・○×教育や偏差値教育ではなく、「考える力」を養う教育が小さいころから徹底されて
   いる点と、論理をトコトン追求する立場を重んじる伝統。

 <日本のいいところ(ただし今ではなく過去の)>
  ・“○と×”や“世間と自分”のあいだに「間(ま)」(=一種のグレイゾーン)を
   設けること。
  ・世界に類を見ない「職人」の世界。バーチャルでなく実体験や長年の繰り返しによって
   初めて見えてくること。そして自分が加工しようとする材料や道具に対するリスペクト。
  ・“ガングロ”とか“ゴスロリ”などを生み出す日本人に残る潜在力 ――かぶき者に代表
   される異人としての「変な人」の力。

 他にもある。前からモヤッとしていたことを見事に言い当ててくれたのは、「大切なのは“ナショナリズム”ではなく“パトリオティズム”(*)」というくだり。そうなんだよな、今の国際社会で吹き荒れる民族主義やナショナリズム、すなわち“想像の共同体”の嵐に対抗するには、自分が属する社会の文化や地域、先祖の歴史に根ざすという事こそが、最も有効な手段であるはずなのだ。そしてその実践のヒントが日本文化にあるのでは?という2人の主張は、読んでいてわくわくしてくる。

   *…愛郷的精神とか郷土愛のこと。「日本国民」などという抽象的な概念ではなく、
     地元の「土」に根差した“ローカリティ”と言う意味。

 その点からすると、安倍晋三がかつて言った『美しい国、日本』というフレーズは、「美しい国」というローカリティと「日本」という国家/国体(=“想像の共同体”を守るための施政者による体制)を、無理やり結びつけるものであって全くのナンセンス。本書でばっさりと切り捨ててくれたのは、あの辺の2世議員に感じる胡散臭さの正体を暴いてくれたようで小気味よい。
 なお蛇足ついでに言えば上記の「嵐」を克服するには、「他者に対する不寛容を克服する」という程度では不充分であって、他者の存在や世界の多様性をもっと積極的に(文字通り命懸けで)、認め合うほどの気構えが必要になるはず。

 最後に好きなくだりをもうひとつ。
 自分の知の“ホーム・ポジション”、すなわち自分のバックボーンを作っている情報/文化を認識のがとても重要だと言うこと。例えばエバレット・ブラウンの場合、リルケやゲーテやフレイザーが彼の考え方の根底にあるらしい。また一般的なイタリア人の場合、ホーム・ポジションは一神教(キリスト教)の奥底におそらくまだ連綿と流れ続ける多神教(ローマの神々)の思想なのだそうな。なんだかシモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』にも繋がっていくような話だ。
 これを読んで痛烈に感じたのは、自分が今まで読んできた本が全て自分のホーム・ポジションになっているのだということ。山口昌男しかり中沢新一しかり、松岡正剛も竹田青嗣も、はてはミステリやらSFやら幻想小説やら澁澤龍彦から荒俣宏まで。
 自分は“本を食べて”育ってきたのだなあということを、再び実感することが出来た。

『乱歩と東京』 松山巌 ちくま学芸文庫

 裏表紙の紹介には「乱歩の視点を方法に、変貌してゆく東京を解読する。」とあるがどちらかといえば逆で、1920年代(大正時代)の東京に関する社会情勢などをもとに、江戸川乱歩の小説世界を読み説いた本といえる。乱歩作品を使って社会分析をしたと言えなくはないが、自分としては本書の目的はあくまでも乱歩の方にあると思いたい。(笑)
 明治と昭和の間に挟まれて、普段はあまり注目されない大正期だが、実は激動の時代だった。たとえば本書で取り上げている社会情勢を列挙すると、「地方からの急激な流入による人口増加/人口増加により新しく生まれた住居形態とプライバシー概念/職にあぶれて結婚できない無産市民の増加」。
 まだある、「第1次大戦による成金出現とその反動の大不況/家長制度の限界と古い価値観の崩壊の予兆」に、「震災後の国家保安強化と(中産階級指導のための)同潤会アパートの建設/浅草を中心とした芸の変遷」などなど、非常に多岐に亘っている。
 大正といえば「モゴ/モガ」に代表されるように近代文化が花開いた時代であったが、それによる社会の歪みが顕在化したり、帝国主義と侵略戦争への道筋が作られた時代でもあって、単純に一括りで語れるものではないのだ。
 次に本書で取り上げられた乱歩作品を思いつくまま羅列する。「D坂の殺人事件」「人間椅子」「盲獣」に「二銭銅貨」、「芋虫」「屋根裏の散歩者」「お勢登場」や「押絵と旅する男」、それに「陰獣」「吸血鬼」「一寸法師」等々。さらに巻末近くでは「少年探偵団」にはじまる子供向けシリーズまで、乱歩作品のほぼ全てが取り上げられている。

 次にこれらの題材がどのように組み合わされ、分析されているかについて例を幾つか挙げてみる。例えば「D坂の殺人事件」。
 明智小五郎は本作で初めて登場するわけだが、彼は当時地方から東京に流入した無産市民の一人であり、行き場のない彼らは急速に増えつつあったカフェに入り浸っていたことが、当時の社会情勢とともに詳しく説明される。また「屋根裏の散歩者」においては、本作が成立した背景に、当時増えつつあった住居形態である”アパート”の存在(=急激な人口増加に対応するために新しく生まれた)が不可欠だった事などが述べられる。
 当時の人々にとっては自明だったのに、今の我々には遠い世界になってしまっている出来事が、如何に多いかということを思い知らされる。自分は実は乱歩作品の本当の面白さを分かっていなかったようだ。

 もっとも、同じことは今のミステリにも言えるだろう。例えば『インディゴの夜』や『池袋ゲートウエストパーク』をあと50年たって読んだ読者が、本当に面白さを理解出来るだろうか? 風俗とかホストとか平成不況とかゆとり教育とか、今の社会情勢の知識なしで今の読者が感じているような面白さが分かるのだろうか?
 その一方で何十年たっても発表当時と同じ面白さを保つ小説もあるわけで…。
 
 話が発散してしまったが、とりあえず本書を読んだ一番の収穫といえば、乱歩のミステリにも「旬」があったというのが分かった事だろう。
 
<追記>
 松山巌の後の著作である『群衆』で用いられた「社会情勢を当時の小説をネタにして読み解いていく」という手法が、実は本書で培われたということが分かったのも大きな収穫。(夢野久作『ドグラマグラ』とかね。)これって結構使える方法かも。

『日本語のしゃれ』 鈴木棠三 講談社学術文庫

 いわゆる言葉遊びの「しゃれ」について文献や歴史的な観点から考察を行った本。言葉遊びの分類だけでなく、それらを背後で支える「しゃれっ気」の概念も含めてまとめてあり、自分には「しゃれ」そのものに関する記述よりもそちらの方が面白かった。以下、興味深かった部分をかいつまんで紹介する。
 
 「しゃれ」と言う言葉の語源は、「さる」という動詞が変化した「しゃる」の名詞形とのことだそうだ。変化する過程で微妙に意味が違う「しゃれ」と「じゃれ」の2つに分かれたらしい。
 「しゃる」という言葉は元々「風雅である」とか「世馴れている」「あだめいている」といった意味だったが、後になってそこに「戯れる」という意味が加わって「しゃれる」になったのこと。今でも「オシャレ」という意味で普通に使われている。また「じゃれ」については「じゃれる」という表現で今に残っている。
 ちなみに「しゃれ」を漢字で書くと『洒落』になるがこれは後世の当て字。「シャラク」という読みを持つ漢語起源の文字が、音の類似から流用/同一視されていったと思われる。『洒落』の本来の意味は「酒=ものごとに拘らずさっぱりしている」+「落=こせこせしない」の2つの漢字を掛け合わせたもの。それが「しゃれ」という日本語の当て字として使われた時に、更に意味の混合が起こり現在使われている意味のことばが成立した。
なお現在の意味は九鬼周造が『「いき」の構造』で分析した「粋」というものに(*)、陽気な楽しさや当世風の“軽さ”のエッセンスを加えたものと言えるかな。

   *…九鬼によれば「粋(いき)」とは江戸で武士と町人の文化が混じって生まれた
     概念で、次の3つの因子からなる。
      ①(異性に対する)媚び
      ②(弱みを見せない)意気地
      ③(物事に執着しない)諦観
     上方の「粋(すい)」とは似てるようだがちょっと違う。

 「しゃれ」という名詞は今では“言葉”に関する意味に限定して使われているが、江戸時代にはもっと広い意味で使われていたらしい。「細かいことに拘泥せずさっぱりしてこせこそしないさま」を表現するために使った「軽妙で粋な(=しゃれた)物言い」は、単にその人のスタンスを示すための手段のひとつに過ぎなかった。しかしやがて明治になると、一番分かりやすい「物言い」に限定されて使われるようになったそうだ。
 このあたりの分析は大変に面白い。面白いのだが、ただ残念なことに「しゃれ」の概念についての分析は始めと最後にちらっと出てくるだけ。本書の内容は「言葉によるしゃれ」の分類に殆どが費やされている。

 「言葉によるしゃれ」についての分析が本書の眼目であるので、そちらにも触れておこう。「言葉によるしゃれ」にも細かなニュアンスや目的の違いによって、「秀句」「興言・利口」「こせごと・かすり」「口合・地口」「モジリ・語呂合わせ」「隠語(廓などで使用)」などさまざまな種類があるらしい。
 これらの説明のくだりを読んでいて一番困るのは、その「しゃれ」のどこが面白いのか?現代の我々には全く理解ができないという点。しゃれの意味を聞き直すことほど野暮なことはないが、しゃれがその当時の社会文化や通念を前提につくられている以上、説明を聞かない事にはその言葉の持つ真の意味が全く理解できないのだ。しゃれの真髄は当意即妙で気の利いた受け答えにこそあるわけだから、専門の研究者くらいの前提知識がないと、(頭で理解することは出来ても)直感的に面白さが理解できず欲求不満だけが溜まっていく。
 本書を読んで、もしかしたら「笑い」こそが専門家と素人を分ける試金石なのかもなあ――ということを考えた。“お気らく”では太刀打ちできない世界もあるということか。まあ、そりゃそうだ。(笑)

<追記>
 インタラクティブ(双方向)で世相を反映した軽妙なやりとりということでいうと、現代社会では何がいちばん近いだろう。例えば寄席で落語家が噺のマクラに観客と行うかけ合いとか?
 文字記録として残るという点では、ツイッターやSNSなどがいちばん近いのかも知れない。50年後や100年後の人達がツイッターの記録を読んだ時には、我々が過去の「しゃれ」を見た時と同じもどかしさを感じるのだろうか。細かなニュアンスが分からなくてもどかしいどころか、話されている内容そのものが全く理解できなかったりして。

『秘密結社』 綾部恒雄 講談社学術文庫

 本書は「秘密結社」について行った人類学的な研究をまとめたもの。「秘密結社」と聞くとすぐに「世界征服をたくらむ悪の集団」というイメージが浮かんでくる。『仮面ライダー』の悪い影響だなこれは。(笑)
 実際には世界中で数多くみられる社会集団であって、別に怪しくも反社会的でもない。最も有名なのはフリーメーソンだが、要するにイニシエーション(儀礼)などを必須とするクラブ集団の一種のこと。正確に言うと「集団の外部に対して意図的に秘匿する情報」をつくって、それを「集団内だけで共有化」することで特権性を煽り、「メンバーの人間性の向上やある種の政治的目的の為に供する」という特徴を持つ。まあぶっちゃけたところが、秘密をもった仲良しクラブみたいなものに過ぎない。(一部個人の私益のためや反社会的な活動を目的とすれば、いわゆる「悪の秘密結社」ということになるわけだが、実際にはそんなのはいない。)

 語義からすると「社を結する」―すなわち他と隔離された「結界」を設けるということになろうか。そしてもちろん結界の中にあるのは外部の者に隠された「秘密」というわけだ。
 目的別では2種類に分かれる。ひとつは「入社的(祭祀的)な結社」でもうひとつは「政治的な結社」。入社的な結社ほうが成立は古く、未開社会の部族などでも普通に見ることが出来る。(いやむしろ民族社会の方が多いか?)沖縄のアカマタ・クロマタとか現代に残っているものも多い。
 一方の「政治的な結社」はある程度は社会制度が整備された社会で見られるもので、現状の政治体制に不満を持った人々が自らの行動を秘密にしてある目的を遂行するために結成する。ロシア革命におけるボリシェビキなどもそうだろうか。現代でいえばウィキリークスもその活動内容を見ている限りは秘密結社の理念に等しい気がする。
ちなみに著者による定義を引用すると、「血縁や地縁の原理によらない任意加入の、位階制に応じた秘儀を伴なう目的集団」ということになる。

 ここで話題はガラリと変わる。物語の中には我々が住む現実の世界と異なる独自の設定(≒世界観ともいう)を持つものがある。それがストーリーの信仰とともに徐々に読者に明かされていく仕掛けになっている。単に物語を進める上での背景に過ぎない物も中にはあるが、それが物語の重要なカギを握っている場合もある。(*)

   *…話の性質上、SFやファンタジー系の小説に多いようだ。前者の「背景」の例と
     しては、(異論は有ると思うが、)自分としてはトールキンの『指輪物語』や
     ル=グィンの『ゲド戦記』を挙げておきたい。また後者の「カギ」の例としては
     ウルフの『新しい太陽の書』やワトソンの『黒き流れ』などが当て嵌まると思う。
     (以上、一部の人にしかわからない話題で申し訳ない。)

 読者は話を読み進むにつれて、隠されていた「世界の秘密」が主人公たちの目の前に開示されていく場に立ち会うことになるが、その過程で味わえる独特の感覚は他のどんなタイプの小説にもない甘美な魅力を持っている。あまりに卑近な例を引き合いに出して恐縮だが、おそらく秘密結社における秘儀というのも、これと同じタイプの快感なんじゃないかな?と思っている。今この瞬間、世界の秘密に触れているという感覚が結社の構成員たちの強い結束を促すとともに、彼らの精神的な成長にも寄与しているのだろう。だからこそ新しい加入希望者に与えられる試練が難しく設定されているわけだし、結社のルールを守らないものへは半端じゃなく厳しい制裁が科せられるのだ。
 なぜなら結社の構成員として認められることは、その瞬間から社会の一員として責任を持つと言う事でもあるのだから。

<追記>
 あまっちょろい連中が各地の成人式で暴れたというニュースをよく聞くが、いっそのこと成人式にも秘儀を設けて、言うこときかない連中は“半殺し”にするくらいの方が、人間的な成長が出来てよかったりして。(笑)

2011年のご挨拶

 明けましておめでとうございます。昨年から始めたこのブログ『お気らく活字生活』も2年目を迎えることが出来ました。昨年読んだ本を数えたところ、数え間違いがなければ192冊。社会人になってから最高の数ではないかと。
(これはブログに読書記録を書くこともおそらくは励みになっている為と思われます。)
 しかし冊数よりも自分としてもっと嬉しいのは、それらの本が全て「愉しみのため」に読んだものばかりだと言うこと。資格や知識を得るため、つまり所謂「勉強のため」に読んだ本は一冊もありません。ただしこれは誇っていいことかどうかは分からないけど…。(^^;)
 もしもこのペースが保てるなら、残りの人生で読めると予想した約3500冊という本の数が、もう少し増えるかな?と思うとちょっと気分いいかも。まあいずれにせよ今年もボチボチやっていきます。

 それでは明日からはいつものペースに戻りますので、宜しくお願いします。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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