My choice/2010年印象に残った本

 2010年のblogを締めくくるにあたり、今年読んだ本の中から特に印象に残ったものを挙げて
おこう。―― 題して“マイチョイス”

<新刊部門> ―今年出版された本―
『極限の科学』 伊達宗行 講談社ブルーバックス
  *超低温・超高圧などの極限状態における物性の研究者自身が、最新知見を分かりやすく
   紹介。良い科学読み物に出会えるとすごいストレス解消になる。
『宇宙飛行士オモン・ラー』 ヴィクトル・ペレーヴィン 群像社
  *いかにも旧ソ連っぽい無骨な小説。口当たりが良い英米のSFを読み続けていると、
   たまにこんなのが読みたくなる。ネタばらしになるので言えないが、某映画とアイデアが
   かぶっているのはご愛敬。
『質量はどのように生まれるのか』 橋本省二 講談社ブルーバックス
  *好きとか嫌いとか人間関係のドロドロした世界を遠く離れて、純粋に物理事象を追求
   する自然科学の本は、(『極限の科学』と同様、)読んでいて心洗われる。10月に読ん
   だ『インフレーション宇宙論』も大変よかったが、既に知っている内容が多かった
   のがちと残念だった。
『ピエール・リヴィエール』 M・フーコー編著 河出書房新社
  *フーコーの本格的な著作を初めて読んだけどとても面白かった。これ以来、『監獄の
   誕生』や『狂気の歴史』を無性に読みたくなった。
『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』 大森望編 ハヤカワ文庫
  *SFの「物語としての面白さ」を満喫できた。今年出版された数多くのアンソロジーの
   中でも、面白さでは群を抜いている。
『トランスクリティーク』 柄谷行人 岩波現代文庫
  *そのボリュームゆえ読もうか読むまいか正直迷ったのだが、思い切って読んで良かった。
   カントとマルクスの批評的解読によって現代社会が直面する難問を解決しようとする
   試み。思想家は現代に直結していてこそ存在意義があるとする著者の姿勢が潔い。
『エステルハージ博士の事件簿』 アブラム・デイヴィッドスン 河出書房新社
  *「何度も読み返したくなるかどうか」という基準で考えると、“My favorite”の一冊に
    入れても良いかも。一冊で色々な角度から愉しめる。

<既刊部門> ―古本・絶版とりまぜてとにかく今年自分が読んだ本―
『二十世紀の知的冒険』 山口昌男 岩波書店
  *対談集なのだが、自分が知らなかった人を沢山取り上げてくれるので、これから新しく
   チャレンジしたい本のネタ探しに最適。すごく古い本だけどとても「勉強」になった。
『空の思想史』 立川武蔵 講談社学術文庫
  *仏教の根本にある「空」の思想を懇切丁寧に解説。読んでいる間中、自分でも脳味噌が
   興奮しまくっているのがわかった。(笑)
『知覚の呪縛』 渡辺哲夫 ちくま学芸文庫
  *臨床精神科医である著者が、統合失調症の患者との10年を書きつづった本。全身全霊を
   傾けた取り組み方は半端じゃない。読んでるうちに思わず居住まいを正された。
『アフォーダンス入門』 佐々木正人 講談社学術文庫
  *この本の”アフォーダンス理論”と『知恵の樹』の”オートポイエーシス理論”、
   それに”アポトーシス理論”を加えた3つ巴の戦い(笑)が、今年いちばん自分の頭を
   悩ませたネタだった。一応自分なりには決着つけることは出来たけど。
『定本 想像の共同体』 ベネディクト・アンダースン 書籍工房早山
  *社会学や経済学や(本書のように)政治学系の本を読むと、現実世界を読み解く力が
   すこし付いた気がして嬉しくなる。これは良い本だった。

<特別賞(笑)> ―本ではないけれど特別に―
 『午前十時の映画祭』 TOHOシネマズ
  *『パピヨン』『ゴッド・ファーザー』『ベン・ハー』『アラビアのロレンス』など
   往年の名作映画を久方ぶりに(しかも大スクリーンで!)見ることが出来たのは今年の
   大収穫。来年の第2シリーズも必ず行くつもり。

【中入り】
 2月に生まれて初めてのblogを立ち上げて、ここまで好き勝手書き散らしてきましたが、2010年のblog更新もこれが最後となります。ここまでお付き合い頂いた方々には大変ありがとうございます。(訪問頂いた皆さんから色んな形で元気をもらってます。)
 2011年もこの調子で続けていきますので、末長いお付き合いをお願い致します。
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2010年12月の読了本

『書店はタイムマシーン』 桜庭一樹 創元ライブラリー
  *驚異的な読書力を誇る作家・桜庭一樹の読書日記(第2弾)。本書を読んでいると、
   自分も何だか無性に何か小説が読みたくなってくる。
『酒にまじわれば』 なぎら健壱 文春文庫
  *無類の酒好きで知られる著者が体験した、酒にまつわる珍談・奇談・失敗談をつづった
   エッセイ。なぎら健壱ってテレビで見ると「昔の幇間(たいこもち)は、こんな感じ
   だったのかなー」と思っていたが、文章を読むと益々その感を強くした。いかにも関東
   の芸人という雰囲気。
『おにぎりの丸かじり』 東海林さだお 文春文庫
  *丸かじりシリーズの3カ月連続刊行もとうとう最後。東海林さだおの食エッセイは
   大別すると次のようなパターンがある。①店の食べ歩きルポ、②食材を印象によって別
   の物に見立てたもの、そして③色んなメニューや調理方法に挑戦する実験ものの3つ。
   どれも面白いんだけど自分のお気に入りは特に③の実験もの。今回も「どんぶり一杯の
   白飯を何もオカズ無しで食べたらどうなるか?」などのおバカ且つ面白い実験に挑戦
   している。このレベルの面白さを数十年続けているというのはホントに凄い。
『20世紀イメージ考古学』 伊藤俊治 朝日新聞社
  *20世紀の各年代を代表するイメージ(キーワード)を写真付きで紹介する労作。
   20世紀はこんな時代だったのか…というのが一目でわかる。
『秘密結社』 綾部恒雄 講談社学術文庫
  *世界各地に古くから伝わる「秘密結社」について人類学的な観点から分析した研究書。
『NOVA3』
  *大森望・責任編集の書き下ろしSFアンソロジー。編者の人脈で東浩紀や瀬名秀明、
   円城塔ら豪華執筆陣が入れ替わり参加しており、好評に付き3冊目が上梓された。
   今回は面白いのが多かったが、中から特に個人的な好みを選ぶとすれば、小川一水
   「ろーどそうるず」/谷甲州「メデューサ複合体」/瀬名秀明「希望」あたりかな。
『職業としての政治』 マックス・ヴェーバー 岩波文庫
  *20世紀を代表する社会学者の記念碑的な講演記録。第1次大戦後のドイツで行われた
   講演だが、今の時代にこそ読み継がれるべき。
『本は、これから』 池澤夏樹/編 岩波新書
  *電子書籍の登場で大きな転換期を迎えた「書籍」と「出版産業」と「読書」。作家や
   編集者や古書および新刊書店の経営者など、「本」に携わる各界の人達に対して「本は
   これからどうなるか」について語ってもらったテーマエッセイ。書く/作る/読むなど
   様々な角度から語られた、40名近くの論客による「本」についての思いが並ぶ様は
   まさに圧巻。
『千のプラトー(上)』 ドゥルーズ/ガタリ 河出文庫
  *30年ほど前に日本の思想界を席巻したフランス現代思想を代表する著作が満を持して
   遂に文庫化。覚悟して読み始めたが歯ごたえは充分。じっくりと腰を据えて残りの2冊
   も読んでいこう。
『スティーヴ・フィーヴァー』 山岸真/編 ハヤカワ文庫
  *「ポストヒューマンSF傑作選」と銘打たれた海外作家のアンソロジー。
『風眼抄』 山田風太郎 角川文庫
  *忍法帳シリーズや明治物、推理小説などで有名な風太郎のエッセイ。晩年のものは死を
   題材にしたものが多くちょっと敬遠気味だが、これはよかった。中公文庫版では読んで
   いなくて、角川文庫で再刊されたのを本屋で見て衝動買いしてしまったのだが、結果と
   しては大正解だった。
『キリストと聖骸布』 ガエタノ・コンプリ 文庫ぎんが堂
  *十字架に架けられたキリストの遺体を包んだとされ、表面にキリストの姿が浮かんで
   見える不思議な聖遺物「聖骸布」。日本に在住するキリスト教の聖職者である著者が、
   世界における過去からの研究成果について予断を交えず紹介した本。
『水妖記』 フーケー 岩波文庫
  *ホフマンと並び称されるドイツ・ロマン派の代表的な作家。中世ヨーロッパを舞台に、
   水の妖精ウンディーネと騎士フルトブラントの恋と破局を描く。題名に惹かれてこれも
   衝動買いしてしまったが、こちらも大正解。(今のところ打率高い。/笑) 
   それにしてもいい話だなあ。
『乱歩と東京』 松山厳 ちくま学芸文庫
  *1920年代(大正期)の東京と、同時期に書かれた江戸川乱歩の諸作品をお互いに
   参照させながら解読した本。同じ手法は後の著作『群衆』でも取り入れられている。
『晩夏に捧ぐ』 大崎梢 創元推理文庫
  *駅前の新刊書店でおこる"日常の謎“を、探偵役の書店員が解決するミステリシリーズの
   第2弾。
『バガヴァッド・ギーター』 岩波文庫
  *古代インドを代表する叙事詩『マハーバーラタ』の中で最も有名な部分。思想書として
   も読めるため、古来多くの人々に愛唱されてきた。題名は「神の歌」の意味。
『旅行者の朝食』 米原万里 文春文庫
  *ロシア語の元同時通訳者である著者の、食べ物に関する文章だけを集めたエッセイ集。
『日本語のしゃれ』 鈴木棠三 講談社学術文庫
  *日本において「しゃれ」に代表される言葉遊びに関して、その概念や歴史を多くの文献
   からひも解いた労作。なお著者の名前は「とうぞう」と読む。
『サイン会はいかが』 大崎梢 創元推理文庫
  *『配達赤ずきん』『晩夏に捧ぐ』につづく書店ミステリの第3弾。結局今年は本屋を
   舞台にしたミステリで締めくくりとなった。このシリーズ、著者には申し訳ないが
   「ミステリ」としてよりも、気持ちのいい書店員がいる理想的な新刊書店の物語として
   愉しませてもらっている。願わくばこのシリーズがまだまだ続くことを祈って、気分
   良く今年を終わろう。

『バガヴァッド・ギーター』 岩波文庫

 インドの古典文学の中で最も有名な一冊。もとは一大叙事詩『マハーバーラタ』の中の一篇だがヒンドゥー教哲学の真髄が説かれていて、インドでは昔から宗派を超えて愛唱されてきたとの由。実のところ読む前は、古臭くて小難しくて退屈な話かとも覚悟していたのだが、いやいやどうしてとても面白い。終始ニヤニヤしながら最後まで堪能した。
 何について書かれた叙事詩かというと、古代インドのクル族という王族を巡る物語。親族同士のちょっとした行き違いが積み重なって一族が2派に分かれて抗争を始め、やがて血で血を洗う全面戦争へと発展する。そんな中、パーンダヴァ軍の戦士であるアルジュナ王子は、(今は敵となった)カウラヴァ軍の親族たちを前にして戦いの空しさを感じ、武器を捨てその場に座り込んでしまう。それを見たパーンダヴァ軍のクリシュナ(=バガヴァッド)は、「ヨーガの秘説」を説いてアルジュナを鼓舞することに見事成功する。その説得の顛末を描いたのが本書『バガヴァッド・ギーター(=神の歌)』である。
 「ヨーガ(=実践)」を説くということは、即ち古代インド哲学の真髄に触れる事に他ならず、優れた思想書である点こそが、長大な叙事詩『マハーバーラタ』の中でも本篇がとりわけ重要視されてきた理由だろう。以下にその哲学のエッセンスを簡単にまとめてみる。

<クリシュナの教え>
 この世に実在する「身体(肉体)」は有限であるが、しかしその本質である「主体(個我)」は不滅である。身体は滅びようとも、主体はあたかも古い衣服を捨てて新しい衣服を着るかのように、新しい身体に移るだけ。このように万物には始まりも終わりもないのに、今の身体が滅びようとも何の嘆きがあるものか。
 従って行うべきはヨーガ(実践)であり、それが生きるもの義務でもある。もしも戦いを避け、義務と名誉を放棄するならば、その者は永遠の不名誉を得ることになるだろう。このように思い悩むのは「サーンキヤ(理論)」における「ブッディ(知性)」にだけ頼って判断をしているから。それも大事だがそれだけでは不足で、「ヨーガ(実践)」における「ブッディ(知性)」を聞くことが必要。
 行為の結果(*)を動機(=自らの行動の理由)としてはならず、無為に執着してはならない。そうすれば唯一つある「真実の知性」に到達できる。それこそが「ブラフマン(梵)」の境地であり、不死(甘露)を得ることが出来るのだ。

   *…アルジュナの例でいえば、自分が武器を持つと親族が死んでしまうということ。

 要するに、「つべこべ言わずにやるべき事をやれ! そうすれば何をやっても行為自体に罪は無い。」ということなのだが、親族と殺し合いするのが嫌で思い悩んでいる人にこんな言い草は無いと思うよ。言ってる事もあきらかに詭弁だし。(笑)
 しかもそこからが更に凄い。なんであなたはそんな事を自信を持って言えるのだ?と問いかけるアルジュナに対し、クリシュナは「実は」と言って自らの正体を明かす。彼は今までパーンダヴァ軍の親族のひとりとしてアルジュナに接してきたが、実は幾度となく転生を繰り返した今までの記憶を全て持つ神なのだと。――まさに怒涛の展開。(笑)しかもアルジュナはそれを素直に信じてしまうのだ。
 「自分は神なんだから信じろよっ」ていうクリシュナもクリシュナだが、それをそのまま受け入れてしまうアルジュナもアルジュナだと思うよ。このあたりまるで、よしもと芸人のモンスターエンジンが得意とする“神コント”みたいで、普通の人がいきなり「私は神だ」と正体を明かすシーンを彷彿とさせる。(笑)

 さて、神である正体を明かしたクリシュナが次にどうしたかというと、なんと神でありアルジュナを導く導師でもある自分に対して、絶対的な帰依を求めるのだ。「何も考えずに全てを委ねることで涅槃に至れる」と説くクリシュナの教えは、親鸞の浄土真宗における「阿弥陀如来への絶対的な帰依」と重なってくる。その後のストーリーは涅槃(究極の幸福)にいたる道筋が詳細に説明されていてかなりややこしいが、大雑把にいえば次のような感じ。

<クリシュナの教えの続き>
 涅槃に至る道筋には「理論による知性」に沿った「行為の放擲(≒敢えてやらないこと)」と、「実践による知性」に沿った「行為のヨーガ(実践)」の2つがあるが、前者よりも後者の方が優れた方法である。心が揺らいで不動の境地になれずにヨーガが難しい人は、ただひたすらバガヴァッド(神/クリシュナのこと)に帰依することで手っ取り早く涅槃に至ることができる。涅槃に達すれば「自己(アートマン)」は無垢となり、万物の始原でありバガヴァッドの“住みか“でもある「梵(ブラフマン)」に同一化する。そしてひとたびその境地に至ったものは二度と再び転生することはなく、輪廻のサイクルから解脱して永遠にそこに留まることとなる。

 以上、延々とインド哲学の真髄が開陳されたのち、最後にはクリシュナに鼓舞されたアルジュナが、喜び勇んで殺戮に赴くところで物語は終わる…。
 衆生を転生の輪から解脱させる力すらもつ神自身が、なぜか幾度となく生まれ変わっている点など突っ込みどころは沢山あるが、とりあえず固いことは言いっこなし。古代のインドの人達はこんなことを考えていたのか―という程度で読んだので、あまり深く読み込んでもいないし。まあ、今の感覚とのズレをこれだけ愉しめたんだから、それだけでも元は取れたと思う。
 いやはや、油断して読んだらとんでもないオモシロ本だった。

『キリストと聖骸布』 ガエタノ・コンプリ 文庫ぎんが堂

 今回は小説ではなくてノンフィクションの方の「ミステリ」を久々に読んだ。いやあ愉しかった、まだまだ世界には面白いことが沢山あるな。(笑)
 題名になっている「聖骸布」とは、イエス・キリストが十字架に架けられた後に、遺体(遺骸)を包んだとされる布のこと。現在はヴァチカンが大切に管理・保管している。(ちなみにイエス本人が身にまとっていた布は「聖衣」と呼ばれる別物。日本人の中には結構ごっちゃにしている人も多いらしいので。)
 この世に1枚しかないその「聖骸布」だが、キリストの全身像が浮かび上がって見えるので、神の奇跡とされ“聖遺物”として崇められてきた。しかしまた一方では、後世に作られた真っ赤な偽物であるとの批判も多くなされている。本書は過去からの「聖骸布」に対する科学的研究の成果を、素人にも分かりやすいようにまとめたもので、肩の凝らない読み物として最適。(クリスマスにもいいと思うよ。/笑)
 なお著者は長年に亘って日本に住んでいるキリスト教の聖職者であるが、決して事実を曲解したり結論を誘導するような書き方をしないよう心掛けていて好感がもてる。肯定派/否定派の双方の意見が平等に紹介されているといえるのでは。
 本書の読みどころは「聖骸布」にまつわる疑問と憶測、そしてそれらを解明するための科学的&歴史学的なアプローチの方法と結果の詳細にある。したがって要約してもあまり意味はないのだが、一応は軽く紹介しておこう。

 肯定派と否定派の主張を大まかにまとめると次のような感じだろう。
   肯定派≒『キリスト本人のものが神の奇跡によって残されたもの』
   否定派≒『後世に人為的に作られた偽造品にすぎない』
 もちろんこれは一番極端な意見を書き出したものであって、肯定派には「キリスト当時のものだが別人のものが誤って伝えられた」もあるし、否定派にだって「人為的に作られたものではなく、何らかの化学変化で偶然出来たものが誤って伝えられた」という人もいる。それに、仮に「聖骸布」が“ホンモノ”でなかったとしても、別にいまさらキリスト信仰自体が揺らぐ訳ではないので、肯定派も別に真偽に拘っている訳ではない(出来ればそうであって欲しいともちろん思ってはいるが)。したがって、むしろ知的興味から真実の追求がなされているといっても良いのかも。つまり我々としては、探求の経過を純粋に歴史ミステリとして愉しむことが出来るわけだ。
 
 真偽論争をゲームに喩えるとすれば、否定派の攻撃をいかに肯定派が防ぎきれるか?という感じ。否定派は布の像が人工的に描かれたもの(=絵画)という物的証拠を見つけるか、出来たのが2000年前どころかせいぜい数百年前のものだということを証明できれば勝ち。もしくはエルサレムと違う場所で織られた布だということを証明するのでもOK。
 一方の肯定派は少し不利だ。キリスト本人のものだという直接証拠を見つけるのはまず無理なので、肯定派がとるのは否定派の論拠を崩していくという作戦。例えば人の手によらなくても自然現象(写真の感光などの物理現象)によって布に像が写ることを実験で証明するか、布が2000年前のエルサレム付近のものである証拠を見つければ、(完全勝利にはならなくても)少なくとも負けにはならない。
 ――どうだろう、ゲームとしてはなかなか面白そうでは?
 行われた科学調査は炭素14による年代測定を始めとして、布に付着した花粉の採取や種類の特定、布の織り方や使われている糸の材質、人物像(変色した部分)の物質解析など様々。歴史文献の調査についても「聖骸布」に言及した文書と実物との整合性や、古来伝えられる多くの複製画との特徴比較など綿密に行われている。
 しかし残念なことに、これだけ詳しく調査をおこなっても現在に至るまで決着はついていない。なぜなら少なく見積もっても過去数百年に亘って聖遺物として扱われてきたため。今まで数えきれないほど公開展示されてきて手アカや蝋燭の煤がついたり、複製画を聖別(*)するため「聖骸布」の上に直接重ねることも何度となく行われたので、当時の絵具によって布が汚染されてしまっているのだ。更には16世紀に火事に見舞われて一部が焦げたり水に濡れてしまい、それも炭素14による年代測定などの調査を難しくしている要因のひとつになっている。
 このように科学的な決着は難しいため、その代わりに両陣営は状況証拠を固めようと一生懸命。今のところは、どちらかというと肯定派の方が有利かなーという雰囲気。(ちなみに肯定派といえども今は「神の奇跡」なんてことは考えてなくて、何らかの自然現象でイエスの像が布に転写されたというのが基本的な立場のようだ。)

   *…宗教的に特別な意味があるものとすること

 「聖骸布」の分析においては、サンプル採取は勿論のこと、調査時間や調査回数もかなり制限されている。宗教的にも歴史的にも貴重なものだけに止むを得ないとはいえ、ちょっとじれったい。そのうちヴァチカンから大々的な調査の許可がでて一気に結論が出せると良いんだが。(でもそうなると愉しみがひとつ減るから、今のままの方が良いのかな。/笑)
 インチキ臭いオカルト本やトンデモ本は興ざめだけど、こういう本ならこれからも大歓迎。とりあえず本屋に似たようなのを探しにいって、ナショナルジオグラフィックの『ユダの福音書を追え』を買ってきた。(笑)そのうちこれも時間を作ってゆっくり読もう。

<追記>
 キリスト教には他の宗教にない独特の魅力というのがある。それは何かと言うと、(旧約/新約ののどちらの聖書にも多くみられるのだが、)数多くの「奇跡」に関するエピソードである。“物語性”と言うか“語りの仕掛け”というか、そのあたりの面白さにはほとほと感心してしまう。なにしろドラマチックだ。
 この「聖骸布」はドラマを盛り上げる様々なアイテムの中でも、かなり重要なな位置を占めるものといえる。

『スティーヴ・フィーヴァー』 山岸真/編 ハヤカワ文庫

 オリジナルのテーマ別アンソロジーの一冊。副題は「ポストヒューマンヒューマンSF傑作選」となっていて、テクノロジーによって変容した人類や世界についての作品ばかり集めて編んだもの。前に読んだ同シリーズの時間SF傑作選『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』(大森望/編)と比べ、次のような印象をもった(というか再認識した)。
 時間テーマはSFが持つ「ものがたり」としての面白さを追求するのにとても適している。一方、本書のように「人類の未来」を考えるテーマは、SF独自の思弁性を追求するのに優れているといえる。ひとことでいうなら「おもしろい”時間SF”」と「すごい”ポストヒューマンSF”」という感じ。ま、どちらに軍配を上げるかは読む人の好みによるのでなんとも言えないが。

 ちなみに個人的に気に入った作品は以下の通り。
  「グリーンのクリーム」 マイクル・G・コーニイ
  「キャサリン・ホイール」 イアン・マクドナルド
  「ひまわり」 キャスリン・アン・グーナン
  「見せかけの生命」 ブラインアン・W・オールディス

 ここでコーニイやオールディスが挙がるのは、やはり年取ってる証拠かなあ? ――と、きっと僅かな人にしか分からないセリフでおしまいにしよう。(笑)

『職業としての政治』 マックス・ヴェーバー 岩波文庫

 第1次大戦後のワイマール体制のドイツにおいて社会学者ヴェーバーが行った講演の記録。「政治」に携わる人々を詳しく分析し、生計を立てる為の手段として政治を行う者や、収入源を別に確保した上で政治活動を行う者など、施政者の色々な違いによる参加意識の違いを明らかにした名著。政治と行政の違いを成り立ちに遡って分析するなど、大変に勉強になる。
 出版から90年近く経った今でも、殆どがそのまま現代の政界に通用する話というのが、たいへん驚かされるが、現在の日本の政治を巡る状況は19世紀のイギリスと違いがないのだと知って、大変に悲しくなった。まあそれだけヴェーバーが優れた分析をしたという証拠なのだろう。

 もっと怖いのは、この時点でこれだけの分析力と問題意識を持った人が居ながら、その後のドイツがファシズムへの道を歩んだ事実。(だって独裁者が生まれる危険性まで本書の中でちゃんと指摘されているのだよ。)
それを考えると今の日本の危うさが身にしみてくる。大衆迎合の劇場型政治とそれを煽情的に報道するマスコミ…。「衆愚」は避けて通れない民主主義の暗黒面であるわけだが、その衆愚とナショナリズムが結びついた状態で、カリスマ性をもった人間が現れると一気に同じ状況が生まれそうで怖い。東アジアの国際情勢も偏狭なナショナリズムの呼び水になりそうなことばかりだし。
 最近の漫画に対する東京都の規制条例とそれを巡る石原都知事の発言、阿久根市長の発言~リコール騒ぎなどを見ていると、なんだか胸のあたりにモヤモヤとした重いものが出来てくる。でも名古屋市民や大阪府民だって、決して遠い世界の話ではないのだ。

 こういうことは大人たちがきちんと子供たちに伝えていかなければいけない事だろう。ビジネスマンも「儲かりまっかー」みたいなハウツー本ばかり読んでないで、たまにはこういう本を読むのも良いものだ。
 (今回はクライ話ばかりですいません。)

<追記>
 肝心な話を忘れていた。本書の冒頭には(さらっと)とても大事なことが述べられている。それは「政治の本質」とは何かということ。政治とは権力を志向する取り組みのことであって、権力が他者にある状態を強制する権利のことである以上、政治には強制する手段である暴力が付いてまわる。そして権力は国家主権の形をとって国家の内部(国民)と外部(他国家)に対峙することになる。正確な表現ではないが概ねこのようなことが述べられている。――非常に卓見だと思う。そして国家主権を実現する手段として軍隊がある以上、軍隊はまさに暴力装置として機能するわけだ。世の中がキナ臭くなればなるほどヴェーバーの思想の重要性は増すばかりといえる。

『OZの迷宮』 柄刀一 光文社文庫

 本格推理モノの連作短篇集。構成そのものに仕掛けが施してあり、ネタバレになるので中身には一切触れる事はできないが、極めて硬質かつ良質なミステリだと思う。以前読んだ本の中で純粋な「悪意」とでもいうべきものが次々と人を変えて乗り移り、犯行を続けるという話があったのを思い出した。―ただし本書とアイデアがかぶる訳ではないので御安心を。(笑)

 笠井潔が『模倣における逸脱』(彩流社)を始めとしたミステリ評論で述べるところによれば、「探偵小説」という小説ジャンルが誕生するきっかけは第一次世界大戦だったのだそうだ。この大戦で人類は初めて「大量殺戮」と、それにより大量生産された「無意味な死」を目の当たりにすることになった。19世紀的な文学理念である「人生と相関わる謎を解こうとする小説(=純文学)」の図式は崩れ去った。その結果、厳粛であるはずの人間の死をパズルの断片のごとく扱う、特異な小説ジャンルが登場することになった。それが「探偵小説」なのだそうだ。 
 「探偵小説」はやがて様々な支流へと分岐しつつ、ミステリという大河を作り上げて今日に至っているが、その中で特に「本格モノ」とか「パズラー」と呼ばれるサブジャンルにおいては、初期の「探偵小説」が持っていた特徴が今でも色濃く残されている。極論すれば、パズラーにおける「ひとりの被害者の死」は読者を「トリックの解明」という愉悦に導くための単なる記号でしかないのだ。
 このようにミステリが手段として選んだのは、人間の死をパズル化することだったが、その狙いは(逆説的であるが、)個人の死に尊厳を持たせることであったとのこと。それによってひとりの人間の死に逆に“特権的”な意味合いをもたらすことができるのだとか。(かなりイビツな形だとは思うが。ここらへんは、中井英夫の『虚無への供物』のテーマにも共通している。)
  …とまあ、本書『OZの迷宮』のように良くできたパズラーを読むと、いつもこのような話を思い出してしまう。

 とことんまで無駄をそぎ落としてトリックに奉仕するために書かれた物語。本書の硬質な筋運びを読むと、最初の内はそんな印象を強くもつ。しかし読み進むにつれて、2重3重の驚きが待ちかまえている。もちろんパズルの部分では「ミステリ」的な好奇心をきっちり満足させてくれるが、そこを踏まえた上で「小説」としての完成度も高めるという難題に本書はかなり成功していると思う。ミステリでありながら、なおかつ「ひとつの命のかけがえなさ」といったテーマを、(変化球でなく)ストレートに表現していて完成度は高い。
 島田荘司の『奇想、天を動かす』(光文社文庫)や松本清張原作の映画『砂の器』のような好印象をもった。

『本は、これから』 池澤夏樹/編 岩波新書

 今福龍太/上野千鶴子/内田樹/紀田順一郎/出久根達郎/松岡正剛などなど、総勢37名にもおよぶ名うての本の「読み手」や「送り手」たちが、電子書籍の時代を迎え「本」について語ったエッセイ・アンソロジー。初出がどこにも書いてないが、池澤夏樹による序文を読む感じでは、もしかしたらこれ全部書き下ろしなのかもしれない。―そうだとしたら凄いことだ。これだけ錚々たるメンバーを揃えられる岩波の力こそおそるべし。
 出てから1カ月もすれば新聞の日曜版の書評でとりあげられると思うから、誰も騒いでいない今のうちに早い者勝ちで書いてしまおう。(笑)

 中身は基本的にどこから読んでもOKで、且つどれを読んでも本好きには面白い内容ばかり。個々の内容について触れるのは止めておくが、紙媒体の行く末に思いを馳せる人や、物理的なツールとしての電子書籍に限界や可能性を感じる人など、スタンスは千差万別。装丁家や書店員など色々な立場からの意見もあり新鮮だった。
 どのエッセイをとっても、電子書籍と紙の書籍について語るということは、多かれ少なかれ「読む」という行為が持つ意味について考えざるを得ないわけで、それが堪らなくこちらの脳味噌を刺激してくる。まあ、なんせ総勢37人にもおよぶ大所帯なので、中には的外れに見えることを書いている人も居るには居るが。(笑)
 こうして愉しく読み進んでいった訳だが、2/3ほど読んだところで気が付いた。これって簡易的なデルファイ法(*)じゃないか? 皆が意見を集約している訳ではないからきちんとしたものではないが、共通する認識は数多い。それらをざっくり纏めて書き出してみると、本の未来は次のような感じ。

   *…未来予測法のひとつ。多くの専門家がそれぞれの意見を出し合って統計的に意見を
     集約し、それにより未来を直感的に予測する方法。命名は古代ギリシャで託宣を
     行った「デルフォイの巫女」の故事に因む。

【本を巡る未来予測】
 今後はかなりのスピードで紙の書籍から電子書籍への移行が進む。しかし紙の書籍も無くなってしまう訳ではなく、ある比率で棲み分けがなされる。ただしその比率は様々な要因が絡むので未知数。
 電子書籍の拡大により冬の時代を迎えるのは、電子化が起こる前から制度的に疲弊していた出版業界。本というハードウェアではなく編集にまつわるソフトウェアに長けた企業だけが生き残れる。新刊は基本的に電子書籍で出版されるようになるが、ある種の本は紙の書籍でも同時に出版される。またオンデマンドによる個別の出版が普及し、エンドユーザーが自分の気に入った書籍(で紙で出版されていないもの)を、自分用に書籍化するサービスの利用が増える可能性もある。
 出版社以上に壊滅的なダメージを受けそうなのは、市場が急速に縮小していく印刷業界と新刊書店。(特に地方の書店などは壊滅的になるかも。生き残るのは駅前の超大型書店と、地域密着で独自のマーケットを作り上げた一部の書店くらい。)
 一方で今と変わらないのは本(コンテンツ)の書き手と図書館と古書店。書き手にとっては、出版社がどうなろうがWeb販売など別の選択肢が増えるので問題はない。図書館も提供するサービスの内容が紙から電子ファイルになるだけ。古書店業界も膨大な古書のストックが有る限り、そしてそれらが全て電子化でもされない限りは全く問題ない。
 ユーザーは雑誌や読み捨ての本を全て電子書籍で買うようになり、より快適な環境を得られるようになる。もちろん紙の書籍を買うのも可能。電子化されていない本は古書店にいくかネットで購入する。もしかすると電子化によって書籍コンテンツに触れる機会が増える分、読者人口は今より増える可能性すらある。世界的には本の供給が困難な地域の住民にも書籍を届けることができるので急速に電子書籍の普及は進んでいく...。
 
 時期や程度に不確定さはあるが、概ねこんな感じではないだろうか? こうしてみると、電子書籍の普及がこのまま進んだとしても、本の「送り手」も「読み手」もさほど困ることはなく、むしろメリットの方が多いかも知れない。深刻なのはその間の出版&流通の業界なのだという事がよくわかる。
 水が高いところから低いところへと流れるように、市場原理の黒船がやってきた今、放っておけば市場環境はエンドユーザーにとって最適な形の実現を目指して動き続ける。かならずそうなる(=アメリカ国内の状況をみよ)。そんなとき既得権益の受益者たる出版社がいくら波に抗おうとしても、せいぜい溺れる時間を長引かせるだけに過ぎないだろう。それどころか、うかうかして市場が黒船に席巻されてしまった後では、時代の波に呑まれた者たちが活躍できる舞台はもはやない。とすれば波に呑まれるのを手をこまねいて待つのでなく、自ら進んで波に乗ってしまうことが必要なのは、子供にでもわかる理屈だ。それが判らないとすれば、自分を中心にして半径50mの範囲の世界だけで物事を判断しようとする“わからんちん達”が、関連業界のてっぺんに居座っているからじゃないだろうか。まあ“わからんちん達”がのさばるのは、どこの業界でも同じことかもしれないけど。

<追記>
 情報技術の進歩は早く、今では「ドッグイヤー」どころではないスピードで市場が急速に変化している。したがっておそらく本書の“賞味期限”も大勢が判明する数年程度までであって、その後は急速に古びていくのではないだろうか。しかしこれは直観だが、更に30年ほど過ぎた後からは、貴重な歴史の1級資料として本書の価値は年を経るほどに増していくと思う。大きな時代の節目において、はたして当時の人が何を感じていたのか…なんてね。
 それほど遠くない将来には、紙媒体の「本」を殆ど読んだことがなく、電子書籍だけで読書する世代がきっと登場することと思う。そのとき世界はどう変わっていくのだろうか? 恐ろしくもあるが実に興味深い。(その時に『華氏451度』の世界が出現しないことを祈ろう。)

<追記2>
 本書を読んで自分の電子書籍に対するスタンスはほぼ固まった。
 もっと使い勝手が良くて値段もこなれた電子書籍が出るまでは買わない。良いのが出てから入手して、一過性の読み捨て本はその後は電子書籍で買う。(多分エンタメ系とエッセイ本は殆ど電子化で費用も抑える。)一方で学術系や難しめの本は紙の本を買ってじっくり読む。電子書籍で買った本でも、手元に置いておきたいものは改めて紙で買い直す。―多分こんな感じになるんじゃないかな。

『エッフェル塔』 ロラン・バルト ちくま学芸文庫

 ルーブル美術館や凱旋門などと並び、パリを代表する観光スポットであるエッフェル塔。そんなエッフェル塔に対してバルトが記号論的な「読み」を行った掌編。
 そもそも記号論というのは「構造主義」の一派であり、そして構造主義というのは人類学者レヴィ=ストロースが、原住民の複雑な婚姻関係の分析において数学的処理を活用し、高度な社会構造の存在を解き明かしたことに端を発している。個別の事物の意味に囚われるのでなく、因子の関係性のみに着目して上位の構造を解き明かすことが構造主義の特徴であり、旧弊な固定観念に対する批判を行おうとする人達に多く利用された。
 それではバルトは何をしたのか? 彼が行ったのは、人が普段行っている文化的活動全てにおいて、言語や意味解釈におけるルール/構造を明らかにすること。そのためには社会的な出来事をすべて人が解釈するための「記号」として捉える必要があり、それが「記号論」というわけ。言語そのものに対する分析をするわけだから結構分かりにくいが、それが何となくスマートに見えたので、80年の日本で「フランス現代思想」として一世を風靡した。(なにしろ格好良かったので一種のファッションと化して、わけも判らず解説書を読む素人が続出した。―実は自分もその口のひとり。/笑)

 閑話休題、話を本書に戻そう。
 本書のテーマである「エッフェル塔」に対してバルトが行ったのは、ランドマークとして人々から“見られる存在”としてのエッフェル塔と、パリに初めて出来た「パリ全域を視野に入れることができる施設」という“見る存在”としてのエッフェル塔、その2重の意味があるという分析。
 “見る/見られる”というこの2つの視点を軸にして、エッフェル塔が内包する様々な意味を彼が読み解いていく様子は、探偵による謎ときを読んでいるようでとても愉しい。それは例えばどんなものかというと、エッフェル塔の材料である「鉄」がもつ火の神話作用や工業技術のメタファーとしての意味合い。また観光スポットとしては、聖と俗の両方が混じり合っているという点など。本論は写真を入れてもたったの100ページあまりしかないので、手軽で愉しい読書時間が過ごせた。

 実は本書には、本論を読み終わった後にも更にもうひとつの愉しさがあった。それは何かと言うと、後半に付されたバルト思想の解説。諸田和治と宗左近による解説は、バルト思想の全体像を初心者にも分かりやすく俯瞰していて大変に有りがたい。(ちなみに今までバルトは『表徴の帝国』を1冊読んだだけという初心者。)
 何となく読み始めたこの『エッフェル塔』だったが、本書はバルトの入門書としてちょうど手ごろなものだったようだ。以下、解説に沿ってなるべく簡単にバルト思想をまとめてみたい。

 先程も少し触れたように、バルトが行ったのは「言語そのもの」に対する構造主義的なアプローチだった。言葉には(例えば「みかん」「海」というように、)何かを表現するための音の連なりがある。それをバルトは「シニフィアン(=意味するもの)」と名付けた。対して「手に入るくらいの大きさで、丸くてオレンジ色をしていて皮をむくと甘い」といった、“み・か・ん”という言葉が指し示す意味がある。これを「シニフィエ(=意味させるもの)」と呼んだ。
 このように普通は「言葉と意味は対になっている」と思って生活しているが、実際はもっと複雑。「入道雲」を例にとろう。「入道雲」という言葉には、高層圏まで空高くのびた積乱雲の通称という現象/物理的な意味だけでなく、「夏だ! 海だ! ビーチだ!」「スイカ割りに水着にドライブ!」といった関連イメージがついてまわる。(通俗的な例で申し訳ない/笑) バルトはこれを「神話作用」と名付けた。
 言葉の本来の意味を核にして、色々なイメージが周囲にまとわりつき、全体でクモの巣のような関連性を形作っていく。これは神話において語られるエピソード群は単なる「お話」ではなく、もっと大きな「何か」を象徴的に二重写しで説明しようとしているようなものだ。「言葉」という糸によって織られた、様々な「意味」という図柄が描かれたタペストリー。その「意味」を作り上げるための「言葉」の関係性ことをバルトは「エクリチュール(表現性)」と呼んだ。(これはレヴィ=ストロースが「構造」と名付けたものにほぼ等しいと思う。)
 バルトは彼の評論活動において、あらゆる言語活動についてまわるこの「神話作用」の関係性を断ち切り、シニフィアンとシニフィエを裸にしたいと考えたようだ。(その状態こそが「エクリチュールの零度」ということ?)そしてその実践を行ったのが本書『エッフェル塔』と『表徴の帝国』の2冊というわけ。
 以上がバルト思想の概要だが、つたない解釈で申し訳ない。(笑)

 『エッフェル塔』はバルトが詳しいフランス本国の代表風景であり、そこに隠された意味もバルトにはお馴染みの物ばかり。当然バルトは塔がもつ様々なイメージを漏れなくあきらかにする事が出来るわけで、オモテの意味とウラの意味を全部丸裸にしていくのが本書を読む快感といえる。逆に日本訪問に刺激されて執筆された『表徴の帝国』では、彼にとって全く理解できないコードをもつ日本文化はあたかもオモテの意味(=表徴)しかもたないように感じられたようで...。これは我々日本人からすれば大変な誤読である訳だが、逆にそれが憶断を廃して新鮮な目で日本文化を見直すきっかけになり、またこれはこれで面白い。
 と言う訳で、本書の解説によればバルトは『エッフェル塔』『表徴の帝国』『神話作用』の3冊を読めば概ねいいようだ。でも素人がこんなこと言うと怒られそうだな。(笑)

『20世紀イメージ考古学』 伊藤和治 朝日新聞社

 1900年から1988年までにおける、建築/芸術/写真/ジャーナリズムなど様々なジャンルに関して(*)、その時代を代表するイメージを選び紹介したフォトエッセイ。現代における社会通念や文化の元を辿っていくと、当然のごとく過去のイメージの上に成り立っていることが分かる。したがってタイトルに「イメージ考古学」と銘打って20世紀初頭まで遡っていこうとする本書の取り組みは、まるで現代社会のルーツを捜しているようでとてもスリリングな経験となる。しかしまた、時代を下って現代に近づくにつれて中身に新鮮味がなくなり、どんどんつまらなくなるのも致し方ないといえる。

   *…本書が刊行されたのは1992年。すなわち刊行時点におけるほぼ20世紀全てを網羅。

 本書の説明に倣って自分なりに20世紀のイメージを回顧してみると、だいたい次のような感じか。
 ■第0期:19世紀末~00年ごろ
  旧世界の閉塞感の中から新しい時代の予感
   ――パリ万博(エッフェル塔)、ニコラ・テスラ(電気)
 ■第1期:10~20年ごろ
  世紀末が終わり「科学」と「技術」による新しい時代の幕開け。
   ――ダダとシュールリアリズム、女性ファッション、摩天楼
 ■第2期:30~40年ごろ
  2度の世界大戦による大量死や圧倒的な暴力への直面。「バラ色の未来」の終焉。
   ――芸術の大衆/ファッション化、「流線形」の登場
 ■第3期:50~60年ごろ
  工業化の進展による矛盾拡大と世界各地で継続する戦争、最終戦争の予感。
  旧社会の否定と新しい価値観。
   ――テクノスケープ、原水爆実験、ベトナム、ロック、フラワームーブメント
 ■第4期:70~80年ごろ
   価値観の多様化と従来の社会価値観の相対化(日本=終わりなき成長を謳歌)
   ――民族芸術、バイセクシャル、バブル
 ■第5期:90~2000年ごろ
   社会主義崩壊と民族主義・原理主義の台頭、グローバル化、地球規模の環境問題
   ――インターネット、ECO、テロ、オタク文化・・・そして混沌へ

 こうして一気に20世紀を駆け抜けてみると、人間なんてたいして進歩してないんだというのが良く見えてきて、何だか恥ずかしくなる。しかしその逆に、混迷を極める21世紀の今だって、過去の世界大戦や冷戦の時代に比べれば(楽観はできないにせよ)まだマシところも有る気もして、希望を捨てずに頑張ればまだ何とかなりそうという感じも…。
 いずれにせよ大事なのは、どんなことも過去からの積み重ねの上に成り立つことを忘れず、謙虚な気持ちで今に取り組むことなんだろうね。

「謎」の観賞力、あるいはミステリ覚書

 先日、『エステルハージ博士の事件簿』についての感想をアップしたが、そこではとりあえず一番わかりやすいと思われるSF/幻想小説の視点から書いてみた。今度はミステリの視点からの読みをしてみたい。
 なお架空の歴史書として読むのは、自分には荷が重すぎるのでやめた。虚と実を見分けて読み解くのもきっと面白いだろうが、そのために割かなきゃいけない労力とかを考えるととても手が出ない、なんせ「お気らく」なんで。(笑)

  注:ここからは中身に触れるので、これから本書を読むつもりの人は読了後にすることを
    お勧めします。

 ミステリの定義は何か?と尋ねれば、おそらくSFに関するのと同様に千差万別な答えが返ってくるに違いない。ここでそれを仮に「何らかの“謎”に関する物語」とするならば、『エステルハージ博士の事件簿』は紛うことなきミステリである。第1話に出てくる食事をほとんど取らず眠ったままで年を取らない少女に始まり、最終話に出てくる皇帝の生霊(?)まで、全ての話に何らかの「謎」が登場している。しかしここで先程の定義を少し変えて、その謎に「事件性」を求めるとするならば、そしてその謎の「合理的解決」を前提とするものだけがミステリであるとするならば、話は全く違ってくる。
 何を「事件」とするかにもよるのだが、事件性のある謎は全8話のうち僅か3つしかなく、一応の合理的な解決をみるものも半数しかない。詳しくは下記のとおり。

       <提示された謎>   <事件性>  <謎の合理的解決>
   第1話  年をとらない少女    無し       無し
   第2話   国宝の盗難      有り       有り
   第3話    人熊        無し       無し
   第4話    ―(*)      有り       有り
   第5話  未知の力と人体消失   無し       無し
   第6話  実在したローレライ   無し       有り
   第7話  錬金術による黄金    有り       有り
   第8話  皇帝の生霊(?)    無し       無し

   *…悪魔崇拝教団が登場するが特に謎らしいものは無い。自分たちを正規の宗教法人
     として認めるように彼らが役所に申請をだしたことでおこる、ドタバタの顛末が
     語られている。

 こうして見ると、事件性があるものは一応何らかの形で解決がなされていると言えるが、合理的な解決がされず謎が謎のままで終わる作品も半数に上る。解決がなされない作品も何らかの形では、物語の(一応の)終結はされているわけだが、自分が想像するに、この作品に釈然としないものを感じた人達は、もしかして「事件性を持った謎とその合理的解決」という狭義のミステリの条件を無意識のうちに期待していたのではなかろうか?

 「謎」の魅力についてはそこら中の評論やエッセイで語られつくしている感じがあるが、ミステリにおける「事件性」の重要度については、意外と意識してない人が多いのではないかと思う。しかし実は「事件性」というのはミステリを成り立たせる上で、とても重要な役割を果たしているのだ。それは何かというと「謎を物語の中でくっきりと浮かび上がらせるフレーム」の役割。
 ちなみにこのフレームがなくてもミステリとして物語を成り立たせることは可能だが、選択できるスタイルがかなり制約を受ける。チェスタトン『ポンド氏の逆説』や柳広司『百万のマルコ』のごとく、誰にでもわかるように明らかな矛盾として読者に提示するか、あるいは北村薫の『空飛ぶ馬』に代表される“日常の謎”タイプのように、感受性豊かな主人公によって、日常生活のふとした出来事に謎が「発見」されるか ―― すなわち「謎」をきちんと「謎」として読者の前に示すことができるセンス(チカラ)をもつ登場人物が不可欠になるのだ。
 そのチカラのことを、街角の何気ない風景の中に芸術を超えた「超芸術トマソン」を見出した、赤瀬川源平になぞらえて「謎の観賞力」と呼んでも良いかもしれない。
 偉そうにいうほど過去の作品を読んでいる訳でもないので恐縮だが、初期のミステリにおいてはこのあたりの「物語」と「謎」の区分けが、今に比べて遥かに未分化であったのではないだろうか? ポーの「群衆の人」やあるいはドイルの「赤毛組合」においては(すくなくとも物語の最初では)事件性がなく、ある出来事が探偵役の人物によって「謎」であると認定されて初めて物語が動き始める。いうなれば探偵は「謎」を周囲と違うものとして認識(鑑賞)する役割を果たしているのだ。(単に謎を解くだけでなく、謎を作り出しているともいえる。)
 『エステルハージ博士の事件簿』が戦前の探偵小説を彷彿とさせるというのは、ここらへんに関係がありそうと考えているのだが。

 ミステリを着物の柄に喩えるならば、土台となる物語の枠組みは「地」の部分にあたり、その上に描かれる謎が「図(図柄)」にあたる。「地」と「図(図柄)」の区分がはっきりしない初期のミステリにおいては、おそらく読者の側にも有る種の読解ルールというかテクニックが要求されただろう。しかし時代が移るにつれて技巧も洗練され、やがて誰でも愉しめるエンタテイメントとして確立していった。そんな今のミステリに慣れた読者が同じつもりで『エステルハージ博士の事件簿』を手に取った場合、(1975年という比較的最近の出版にもかかわらず)敢えて擬古調のスタイルをとった本書に戸惑うのは当然だろうし、逆に戦前の探偵小説を愛する読者からは概ね好評と思われるのもうなずける。
 ミステリ界では謎の合理的解決を放棄した小説も、広義のミステリ(「リドルストーリー」)として認められている訳だから、謎の扱い方に焦点をあてればミステリとして読むことは可能だし、謎の中身に焦点をあてればSFや幻想小説の文脈で解釈することも可能となる。もしも読者の判断に混乱が生じたとすれば、その一因は本書の題名を『事件簿』としたことにあるのかも知れない。無理にミステリっぽくせず、原題に忠実に『エステルハージ博士の探求』くらいの方が良かったのかも。

<追記>
 筒井康隆著の『現代語裏辞典』で「痴情」の項には次のように書いてある。
  「ちじょう【痴情】事件さえ起きなければただの恋愛。」
 まさに「事件さえおきなければただの謎」ということだ。(笑)

<追記2>
 仮に『エステルハージ…』の収録作品に関して、先述のように「事件性」と「謎の合理的な解決」の有無で①両方兼ね備えたものを『(狭義の)ミステリ』、②両方とも無いものを『SF/幻想小説』、③どちらかが欠けているものを『奇妙な味の小説』に無理やり割り振ってみる。すると①の『ミステリ』は第2話/第4話/第7話の3つ、②の『SF/幻想小説』は第1話/第3話/第5話/第8話の4つ、そして③の『奇妙な味の小説』は第7話のひとつとなる。とすれば、本書のジャンルが海外でSFに分類されているのも、あながち的外れではないということか。
 これはもちろん機械的に割り振った結果であって、ミステリ的な短編にもSFチックな謎が登場したり、逆にSF/幻想系の短編であっても(合理的ではないにせよ)一応の解決はなされるわけで、だからどうしたと言われればそれまでのことだが。(笑)

2010年11月の読了本

『霊性の文学 霊的人間』 鎌田東二 角川文庫ソフィア
  *宮沢賢治からノヴァーリス、ゲーテ、ラフカディオ・ハーン、はては遠藤周作まで、
   古今東西の作家たちを俎上にあげ、文学における「霊性」の追求を論じた本。先に出た
   『霊性の文学 言霊の力』の姉妹編。なお「霊性」とは鈴木大拙の定義によれば
   「宗教性」という事と同義であるが、本書の第6章では「理性」の意味で使われており、
   少し混乱してくる。しかし鎌田の本を読むといつも、いかに自分は理性面のみが肥大
   して、感情(情緒)面が未発達かということが思い知らされるなあ。(自分では情緒も
   それなりに発達してると思ってたんだが。)
『人生の奇跡』 J・G・バラード 東京創元社
  *著者最後の著作にして唯一の自伝。(「自伝的小説」としてはベストセラーになった
   『太陽の帝国』とその続編『女たちのやさしさ』があるが、フィクションの要素を
   省いた本当の意味での自伝は本書のみ。)
   SF作家としてのバラードに関する描写の面白さは、ニューウェーブ運動のきっかけ
   などの裏話や『沈んだ世界』『残虐行為展覧会』『クラッシュ』『太陽の帝国』あたり
   の執筆背景、それにバラード作品に頻出する世紀末的な風景の元になった体験などに
   あるといえるだろう。残念なのは取り上げられている自作品が偏っているので、もっと
   著者による自作解説が読みたかったことかな。
   一方、ひとりの人間としてのバラードの人生を見た場合、彼の人生観は“最高”だと
   思う。開高健ですら実は「火宅の人」であったように、作家としては尊敬すべき人物で
   あっても、人間的にはあまり知りあいに成りたくないタイプの人も多い。その点、
   「人間嫌いでSF作家同士の付き合いも殆どしない」と言われていたバラードがこれ程
   「いい人」だったとは発見だった。作家として大好き/人間としては完璧。もはや言う
   こと無いね。
『コロッケの丸かじり』 東海林さだお 文春文庫
  *丸かじりシリーズが累計で200万部突破したらしい。記念に3か月連続刊行するとの事。
   これで2か月目だが来月にも勿論、つまり全部買います。(笑)
『シモーヌ・ヴェイユ入門』 ロバート・コールズ 平凡社ライブラリー
  *第2次世界大戦中にその短い生涯を閉じた女性思想家シモーヌ・ヴェイユ。彼女の活動と
   思想についての紹介。
『OZの迷宮』 柄刀一 光文社文庫
  *連作短篇集であるが、主題はなんと「探偵」。柄刀一は今のところどれもハズレが無く
   気に入っている。
『エステルハージ博士の事件簿』 アブラム・デイヴィッドスン 河出書房新社
  *博覧強記の著者による虚実入り混じったジャンル横断型の連作短篇集で、まさに「スト
   レンジ・フィクション」としか言いようがない。気に入った。
『ナマコの眼』 ちくま学芸文庫
  *アジア・オセアニア地域を中心としたナマコの交易史および文化史。世界の見え方が
   ちょびっと変わるかも?
『魚舟・獣舟』 上田早夕里 光文社文庫
  *第4回小松左京賞を受賞してデビューした著者による短篇集。(この人の本は初めて
   読んだ。)表題作と「くさびらの道」は特に好みだな。
『エッフェル塔』 ロラン・バルト ちくま学芸文庫
  *記号論の大家ロラン・バルトにより書かれた実践的分析の代表作。本文は100ページしか
   ないが、ほぼ同量の解説がつく。(笑)バルト思想の入門には一番いい本かも。
『テンペスト1~4』 池上永一 角川文庫
  *沖縄を舞台にしたファンタジーの傑作『バガージマヌパナス(わたしの島のはなし)』
   でデビューした自分のお気に入り作家。本書で遂にメジャー作家の仲間入りをした。
   著者に対してはこれ以上は何もいうことは無いのだが、角川書店については是非ひとこと
   言いたい。4分冊に細かくして価格を上げたのはまだいいとして、それを8月末~11月末
   まで3カ月かけて1冊ずつ刊行する暴挙は許せん。まとめて読みたいから全巻そろうまで
   待たされることになった。こんなものは一度に出せ!(笑)
    注) My_favorite6の「沖縄」の項に本書へのコメントを追加。
『書物の敵』 庄司浅水 講談社学術文庫
  *有名な愛書家である著者がウィリアム・ブレイズによる古典的著作をもとに、およそ
   「書物の敵」と思われるものについて列挙した本。火や水は勿論のこと、はては紙魚や
   無頓着な輩など、書籍を痛めつける要因が次々紹介される。(真面目に書かれているだけ
   になかなか笑える。)後半には書物にまつわるエッセイも併録。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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