『ナマコの眼』 鶴見良行 ちくま学芸文庫

 ナマコに焦点をあてて、文化人類学やら経済学やら社会学やら様々な学問分野を横断しつつ、考察を重ねた労作。(書き上げるまで20年くらいかかったらしい。)盛り込まれた情報量たるや、確かに20年というのも納得できるほど膨大なもの。しかもフィクションではなく、全て事実かどうか検証を行ったものなのだから恐れ入る。時には現地まで出向いて調べているようだし。なぜそこまでナマコに拘泥するのか、本人自身もさっぱり分からないといっているのが面白い。話はあちこち脱線して飛びまくるし、小説ならガルシア=マルケスの『百年の孤独』のような“全体小説”というやつに近い。
 著者はちょっと変わった物の見方をするのが好みらしくて、他にもバナナやマングローブなどに着目して独自の視点から世界史(特にアジア史)の研究書を書いている。いずれの著書も狙いは同じで、権力者によって書かれた正史では埋もれてしまうような、(例えば少数民族などの社会的弱者や民間交流などの)陰の歴史に光を当てようというもの。その結果、教科書で習ってこなかった新しい世界史が見えてくる。
 本書では、第1部から第3部には東南アジアおよびオセアニアを中心としたナマコの加工品の交易史が述べられている。第4部は我々に身近な日本~朝鮮半島の東アジア地域なので、内容をさらに掘り下げてナマコの交易史だけでなく文化史まで広げて考察している。

 ではなぜ「ナマコ」なのか? 理由を一言で言えば、ナマコは香料や絹、または貴金属や宝石のように価値が極めて高いものではないためだ。国家戦略的にみて重要な品目ではないので(*)、ナマコの交易は民間貿易が主体であり、西欧諸国の動きに左右されない。そのため従来の帝国主義的な世界観に影響されない独自の視点から世界を眺める事ができるという。
 また産出場所がアジア・オセアニアの全域に亘っているので、一大消費地である中国に運ばれるまでに数多くの国々が関わることになるという点も、今までとは違う図を描くことに貢献している。特定の食物に焦点を当てて世界を見るという手法は、例えば『一杯の紅茶の世界史』(文春新書)とか『コーヒーが廻り世界史が廻る』(中公新書)に共通するものといえる。

   *…ただし江戸から明治期においての日本だけは例外で、国際貿易のための重要な
     品目であったらしい。

 この手の本を読む醍醐味は、今までの見方をひっくり返して「目からウロコが落ちる」というところ。その点で言えば、第1部~第3部は網野善彦の『東と西の語る日本の歴史』(講談社学術文庫)や『無縁・苦界・楽』(平凡社ライブラリー)ほどには、(残念ながら)愉しむことができなかった。それは本書の内容が悪いからではなくて、単に自分が太平洋史に詳しくないから。そのため、本来なら「まさかあの○○が××だったとは!」という驚きになるはずのところでも、「ヘえー、そうだったんだ...」という感想に終わってしまう。第4部については日本国内を中心にナマコの文化史が載っているので面白かった。話は相変わらず飛びまくり、ナマコが伊勢神宮の奉納品として使われている話に始まって、やがて伊勢つながりでアワビへと話が飛んだりと縦横無尽。全部が第4部くらい理解できればもっと愉しめたのだが、如何せん全体で550ページにもおよぶ大著だけに、遅々として読み進むことができないのがきつかった。
 本書を隅々まで愉しめるようになるには、落語家の古今亭志ん生じゃないけど「もういちど勉強しなおしてまいります」だ。(笑)
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『シモーヌ・ヴェイユ入門』 ロバート・コールズ 平凡社ライブラリー

 シモーヌ・ヴェイユといえば20世紀前半に活躍した女性思想家であり、そのストイックな性格と壮絶な最期により現在では半ば伝説と化している。最晩年にはグノーシス主義のようなキリスト教系の神秘思想への接近でも知られているが、本書はそんなシモーヌの生涯を、悩みながら行動した等身大の思想家として描いた本である。
 原著はアメリカのラドクリフ大学による著名な女性たちの伝記をまとめた叢書の一冊で、著者の本業は精神科医。したがって哲学や思想の中身そのものというよりも、どちらかといえば(心理学的な観点から)思想が生まれた背景について論じている感が強い。また邦題では「入門」となっているが、原著はもともとそのつもりで書かれたものではない。ヴェイユの人生や残された断片的な文章から読み取れる彼女の思想について、考察を行うのが主な狙いであって、決して全体像を判りやすく紹介するために書かれた本ではない。

 シモーヌが活躍した時代はまさに第2次世界大戦の真っただ中。ユダヤ系フランス人である彼女は(当然のことながら)ナチスドイツを始めとする特定の者への社会的圧力や暴力への抵抗を、思索でも実践でも繰り広げた。その他にも、様々な政治的発言や倫理的な探求、社会システムに関する考察など、彼女の活動の範囲は多岐に亘っている。
 食事を自ら絶ち、(事実上の)飢餓による死に至るまでの晩年の5年間、彼女が救済手段として急速に接近していったのはキリスト教信仰であった。彼女の宗教的な面で重要なのは、「堕落した」ローマ・カトリックへの侮蔑から独自の思索によってキリスト教の原初へと遡行し、最終的には異端・カタリ派を彷彿とさせるほど“純粋”な信仰に立ち返った点。(*)アッシジの聖フランチェスコに対して愛着を感じていたようだが、自分も好きなのでこのあたりの彼女の考えはとても良く理解できる気がする。

   *…ユダヤ系という出自をもつ彼女が、ユダヤ教を否定してキリスト教に帰依したのは
     大変に興味深い。

<追記>
 いかにも「アメリカ的」と感じたのは、著者本人の身近にいる人々へのインタビューがなぜだか数多く収録されている点。別に彼らがシモーヌを理解する上ですごく参考になることを述べている訳でもなく、著者の友人の声だとか、自分のクライアントである工場の労働者のコメントだとかが、いかにも演出的にあちこち挿入されているのは、なんだかテレビのドキュメンタリー番組を見ているようだった。本書のようにヨーロッパ的な知性をアメリカ的な知性のスタイルで料理しようとすると、どうしても安っぽい感じになってしまう。
 卑近な例を引き合いに出すことで、読者に身近に感じてもらおうという意図は判らないでもないが、本書でこのような手法を用いるのは如何なものだろうか。ワイドショー的な「軽さ」によるアプローチがとても有効なテーマも確かに世の中にはあるが、少なくともヴェイユのような骨太の思想家を語るには、似つかわしくないと思うよ。

『エステルハージ博士の事件簿』 アブラム・デイヴィッドスン 河出書房新社

 バルカン半島に位置する架空の国スキタイ=パンノニア=トランスバルカニア三重帝国を舞台に、多くの不思議な事件が発生する物語。収録作は全部で8つであり、以下のような話。(ネタバレしないようにかくのは難しい。/笑)

 1話目)催眠術により数十年も年をとらないまま眠り続ける少女にまつわる怪奇譚。
 2話目)国宝「エルサレムの宝冠」の盗難事件の犯人を、博士が得意とする骨相学を使って
     プロファイリングしていく話。
 3話目)辺境の地を舞台に、人狼ならぬ「人熊」と呼ばれる人物を巡る悲しい物語。
 4話目)「神聖伏魔殿」と名乗る異端教団によって引き起こされようとする帝国の危機を
     回避しようと博士が奔走する。
 5話目)イギリス人魔術師との交流および「オッド力(りょく)」なる未知の力の探求。
 6話目)現代によみがえったローレライ(人魚)伝説の謎。
 7話目)古より伝わる叡智が引き起こした“事件”を超人的推理で解決。
 8話目)現実と幻が交差する不思議な世界に迷い込んだ男の話。

 これらの事件(もしくは謎)を解決するのが、法学/医学/哲学など7つの博士号を持つ、天才・エステルハージ博士。彼はシャーロック・ホームズを彷彿とさせる一種の知的スーパーマンである。戦前の探偵小説の雰囲気を漂わせる話だと聞いて、頭の中で小酒井不木や夢野久作の短編と比較しながら読みはじめたが甘かった。作者が仕掛けた“遊び”の量が半端でなく多い。架空の歴史書として三重帝国の文化や地史を愉しむもよし、博士がつぶやく言葉をいちいちヒモ解いて衒学的な愉しみに浸るのもよし、もちろん幻想的な物語やミステリとして読んでも面白い。(というか、どの枠にも収まりきらない。)まるで太い道が何本も伸びている大きな森の中のようなもので、自分の進む方向をしっかり定めて読み進まないと、「気の向くままにフラフラと」では足をとられて迷ってしまいそうになる。正直言って、3作目のあたりまではどこをポイントにして読めば良いのかわからずかなり戸惑った。しかし各話に通じる読み方を見つけて、自分なりの見方(*)が定まった4話目あたりからはグングンと面白くなり、あとはラストまで一気読み。

   *…どんな見方か一言でまとめると、S・ホームズがゴーメンガーストで活躍する
     『怪奇大作戦』。前述の内容紹介もそれに沿ったまとめ方をしてある。
     (もちろんこれは自分なりの読み方であって、他の人がどのような読み方をして
      も自由だし、またそれだけの読み方を許すだけの度量をもった作品でもある。)
     なお、これでは良く分からない人のために少し補足しておく。
     「ゴーメンガースト」とはマーヴィン・ピークが書いたゴシックファンタジーの
     傑作で、架空の城ゴーメンガーストを舞台にした城主タイタス・グローンの物語。
     細部までリアル且つグロテスクなまでに作りこまれた設定が見事。
     『怪奇大作戦』とは1960年代末に放映された岸田森が主演の特撮テレビドラマで、
     科学捜査研究所のメンバーが怪奇な犯罪に立ち向かう物語。

 翻訳家の柴田元幸氏もツイッターでつぶやいていたように、ある程度続けて読まないと面白さが判らない類の本だから、本シリーズはバラバラに発表されるのでなく本書のようにまとまった形で世に出されて良かった。読み方さえ見つければ、U・エーコの本ほどには敷居も高くないし気軽に再読も可能なのだが、中途半端な形で読まれると、何がどう面白いか判らないまま酷評される恐れもあったかも知れない。ハードカバーなので読む気のある人しか手を出さないというのもある意味正解かも。ハードカバーがふさわしい本というのも確かにあるんだね。安けりゃいいという訳でもないようだ。
 巻末の刊行予定リストをみるとウィリアム・コッツウィンクルの『ドクター・ラット』とかジョン・スラデックの『ロデリック』など、幻とされてきた作品が挙がっている。国書刊行会の『未来の文学』や『レム・コレクション』などと同様、楽しみなハードカバーのシリーズがまたひとつ増えた。

<追記>
 中身についての感想を書くのを忘れていた。
 ドタバタが愉しい4、5話もいいが、情感あふれる6、7話の渋さも好み。そして最後の第8話「夢幻泡影」に至っては、まるで夢幻能を見ているような法悦感に浸れた。解説にもあったように小品ながら同じ作者の名作「ナポリ」にも匹敵する出来とおもう。なお先程の『怪奇大作戦』に喩えるなら最終回が名作『京都買います』だったようなものか。(笑)

その他の作家・作品(国内)_My favorite 19

 個別に取り上げなかった作家や作品をまとめて挙げていく4回目。今回は国内の作家・作品について、思いつくまま順不同に挙げていく。(実は国内作家はそれほど読んでいるわけではない。きっとこれ以外にも面白いものは数多くあると思うのだが。)

 ★筒井康隆
  『馬の首風雲録』 ハヤカワ文庫→扶桑社文庫
  『夢の木坂分岐点』 新潮文庫
  『驚愕の嚝野』 河出文庫(この作品のみ単独収録のもの)
  「ヨッパ谷への降下」「遠い座敷」などの短篇 新潮文庫ほか
   *基本的にどれも好きなんだが、1981年の『虚構船団』から断筆宣言前の1993年
    『パプリカ』までの活躍は鬼気迫るものがある。
 ★山野浩一
  『X電車で行こう』『鳥はいまどこを飛ぶか』 以上、ハヤカワ文庫
  『レボリューション』 NW-SF社
   *日本におけるニューウェーブ運動の中心人物。もっと評価されてしかるべきだと
    思うけどなあ。ハヤカワの2冊は古書価も安いからお薦めだが、本当は『殺人者の空』
    なんかが普通に読めるようになって欲しい。
 ★稲垣足穂
  『一千一秒物語(新潮文庫版)』他、ちくま文庫や河出文庫など
  『ヰタ・マキニカリス』河出文庫など
   *自分が「モダニズム」に対して持つイメージのもとになったひとり。無機質な感じ
    が堪らなく好い。『一千一秒物語』は各社からでているが、他の収録作も粒ぞろい
    なので新潮文庫版がとくに気に入っている。
 ★山田正紀
  『宝石泥棒』 ハルキ文庫
  『地球・精神分析記録(エルド・アナリュシス)』 徳間文庫
   *作者自身も自分の作品に対してどこか醒めたところが感じられるせいか、ずば抜けた
    「大傑作」と思えるのは意外と少ない気がする。(失礼/笑)
    でも確実に80点以上のレベルをキープしてくれるので、安心して手に取れる作家の
    ひとり。ミステリに軸足を移してからもだいぶ追っかけている。
 ★堀晃
  『アンドロメダ占星術』 徳間文庫
  『梅田地下オデッセイ』 ハヤカワ文庫
  『遺跡の声』 創元SF文庫
   *中高生だった自分にとって堀晃は「かっこいい作家」だった。宇宙ハードSFを
    書ける貴重な日本人作家として多分全作品を追っかけていたと思う。「トリニティ」
    のシリーズが『遺跡の声』としてまとめられたのは嬉しい出来事だった。
    『梅田地下オデッセィ』は残念ながら復刊はされないだろうなあ。
 ★笠井潔
  『テロルの現象学』 ちくま学芸文庫
  『バイバイ、エンジェル』『サマーアポカリプス』『薔薇の女』『哲学者の密室』
                                以上、創元推理文庫
   *笠井潔はミステリやSF小説の作家だけでなく他にも評論家など色んな顔をもって
    いる。しかし自分にとっては「ミステリと現代思想の幸福な融合」を実現して
    くれる作家のイメージがいちばん。矢吹駆シリーズ(海外篇のほう)は、完結まで
    ちゃんと追っかけるつもり。
 ★島田荘司
  『占星術殺人事件』『斜め屋敷の犯罪』『御手洗潔の挨拶』 以上、講談社文庫
  『奇想、天を動かす』 光文社文庫
   *「御手洗潔」と「吉敷竹史」を主人公にした2大シリーズが有名だが、御手洗の方は
    傑作とそうでないものとの落差が激しいので油断がならない。(笑) 
    ノンシリーズでは『火刑都市』や『死者が飲む水』なんかも渋くて好きだ。
 ★山口雅也
  『キッド・ピストルズの冒涜』『キッド・ピストルズの妄想』『生ける屍の死』
  『日本殺人事件』 以上、創元推理文庫
   *急病でしばらく休んでいたがまた復帰してくれて嬉しい。病気になる前までの
    作品群はまるで奇跡のような出来栄え。
 ★京極夏彦
  『魍魎の匣』『鉄鼠の檻』『絡新婦の理』『巷説百物語』『続巷説百物語』
                              以上、講談社文庫
   *『姑獲鳥の夏』を初めて読んだときにはぶっ飛んだ。京極堂シリーズでは
    『絡新婦の理』までは全部複数回読み返してるんじゃないかな?百物語シリーズでは
    『続巷説…』の後半が特に好き。
    ちなみに『魍魎…』はミステリとしての面白さで、『鉄鼠…』はペダンチック
    (衒学的)な面白さで、そして『絡新婦…』は小説としての完成度でそれぞれ一番。
 ★高橋源一郎
  『さようなら、ギャングたち』『ジョン・レノン対火星人』 以上、講談社文芸文庫
   *自分の頭のなかでは高橋源一郎と村上春樹と村上龍の3人は、全部同じイメージで
    まとまっている。(なんだかポップでカッコイイという感じ。)
    ただ単にデビュー当時に感じた雰囲気が更新されてないだけなんだけど。(笑)
 ★山田風太郎
  『魔界転生』『甲賀忍法帳』 以上、角川文庫や講談社文庫など
  『幻燈辻馬車』 河出文庫など
   *云わずと知れた日本を代表する娯楽小説の大家で、何年かごとにリバイバルブームが
    訪れる。忍法帳シリーズと明治物はほぼ読んだと思うが、あまりの面白さに一時に
    集中して読んでしまうため、そのうち食傷気味になって見る気が起きなくなる―と
    いうパターンを繰り返している気がする。
 ★他/以下はコメント無しで作者と書名を列挙。
  半村良『産霊山秘録』 ハヤカワ文庫→集英社文庫
  眉村卓『消滅の光輪』 ハヤカワ文庫→創元SF文庫
  河野典生『街の博物誌(正・続)』 ハヤカワ文庫→ファラオ企画
  水見稜『野生の夢』 ハヤカワ文庫
  村上春樹『羊をめぐる冒険』 講談社文庫
  いとうせいこう『ノーライフキング』 新潮文庫→河出文庫
  横溝正史『獄門島』 角川文庫/創元推理文庫など
  殊能将之『ハサミ男』『美濃牛』 講談社文庫
  上田秋成『雨月物語』 ちくま学芸文庫/角川文庫ソフィアなど
  根岸鎮衛『耳嚢』 岩波文庫など
  作者不詳『今昔物語』『日本霊異記』 岩波文庫、平凡社ライブラリーなど

『ベン・ハー』 1959年(アメリカ映画)

 ここまで「午前十時の映画祭」で『パピヨン』『大脱走』『ゴッドファーザー』と順調に見てきて、いよいよ今回は『ベン・ハー』である。往年の名画を大スクリーンで見るという悦楽は、結構病みつきになっている。幸いにして好評だったので来年も続けられるらしく、是非とも『ブラザー・サン シスター・ムーン』や『ロビンとマリアン』『汚れなき悪戯』などの名画も取り上げてもらいたいものだ。

 ところで、この催しがなぜ気に入っているかと言うと、フィルムが公開当時のスタイルのままに上映されるという点。(ニュープリントだからもちろん画面は明るくて見やすいが。)今回の『ベン・ハー』ではその愉しさを特に強く味わうことができた。上映が始まるといきなり真っ黒な銀幕に「序曲」という二文字だけが映し出され、あの有名なフレーズの曲が延々6分間にわたってフル演奏される。下には1分ごとに「あと○○分で始まります」というテロップが時々でるが、それ以外はただひたすら黒いスクリーンを眺めて音楽鑑賞しているだけ。でもそれが逆に新鮮でいいんだなあ。(笑)
 本篇が全部で3時間32分にもなる超大作なのだが、『ゴッドファーザー』の時と同じで、観ていても座り疲れもまったく感じない面白さ。しかしトイレだけは行きたいなあと思っていたら、2時間ほど過ぎたところで何とスクリーンに「休憩」の文字が。その後は「間奏」という文字が映って再びテーマ曲が流れ、10分間のトイレ休憩になった。休憩時間までちゃんと映画本編に組み込まれているあたりは、公開当時の雰囲気まで何となく想像できて思わず顔が綻んだ。この体験は家では味わえない愉しさだ。(中学生のころにテレビのロードショーで見たのだが、実際の上映がこんな風とだとは思いもしなかった。どうやら冒頭と休憩と終わりの黒スクリーンに音楽が流れるのは、当時の映画では一般的だったらしい。)
 
 折角なので中身にもちょっと触れておこう。
 名匠ウィリアム・ワイラーが監督して1959年に制作された映画で、主演のチャールトン・ヘストンは本作で一躍大スターの仲間入りを果たした。アカデミー賞歴代最多の11部門受賞という記録はその後も破られてはいない。(『タイタニック』と『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』でもタイ記録)
 原作はアメリカの作家ルー・ウォーレスが1880年に発表したベストセラー小説であり、ローマ帝政時代のエルサレムの人々がみんな英語を喋っているというのも思えば変な光景だが、元が荒唐無稽なエンタメ小説なのでいちいち目くじらたてる必要はないだろう。
 物語はみなさん良くご存じの内容だろうが、エルサレムに住むユダヤ王族のジュダ=ベン・ハーが、(幼馴染みである)ローマ人司令官・メッサーラの陥穽によって家も名誉も奪われて奴隷にされた後、数奇な運命によって復活を遂げ復讐を果たすというもの。中学生の時に見た記憶では、イエス・キリストの奇跡によりベン・ハーたちが救われるというラストに対して、実はあまりにも唐突という印象をもっていた。
 今回大人になって初めて見返したわけだが、おかげで長年の疑問が氷解した。いやー、観てよかった。なぜなら、タイトルバックにいきなり現れる副題が「キリストの物語」なんだもの。あくまでもキリストの誕生から処刑までが映画の主題だったのだ。ベン・ハーの数奇な運命を巡る物語は、娯楽映画として成立させる上でのエンタテイメントの部分を担っているだけと言う訳。(多分こんなことは映画ファンには当たり前のことと思う。往年の名画に再入門している素人の感想と思ってご勘弁いただきたい。)

 そう思ってみていると冒頭から「ヒント」はごろごろ転がっていた。ローマ帝国によってエルサレムに強制帰還される民衆のなかにヨゼフとマリアの夫婦がいるシーンとか、馬小屋でイエスが生まれたときにベツレヘムの星が三博士を導くシーンとか、キリスト教文化圏の人ならだれでも常識として知っているシーンが目白押し。途中でも「山上の垂訓」だとか「大工の息子のラビ」だとか、ラストに向けての布石は随所に挟み込まれている。単に中学生の自分が無知なだけだったのだろう。(^_^;)
 はからずも先日読んだ『新訳聖書Ⅰ』がこの映画を見る上での予習になっており、細部まで聖書の記述通りの設定がなされていることなど、余さず理解することができたのはとても幸いだった。
 例えばイエスがゴルゴダの丘に連れて行かれるときのシーンでは、十字架を背負えないほど身体が弱った彼の代わりに、ローマ兵士がたまたまそこにいたキレネ人に十字架をもたせるシーンなど、何でもない描写まで全て聖書のエピソードの通りなのが判り、おかげでより愉しむことができた。

 改めて感心したのは演出のうまさ。本作にとってもっとも大切なキリスト登場のシーンも、あくまで主人公のベン・ハーの眼を通して語られるだけであり、遠景か後ろ姿でしか登場しない。露出をすごく抑えることで、逆にイエスの崇高性と神秘性を高めることに成功している。こんなにスマートな形でしかも面白い宗教映画をつくるなんて、アチラの映画人はセンスあるなあ。仏教で言えば(立場はまるっきり正反対になるが、)ダイバダッタを主人公にして映画をとったような感じか。宗教エンタメの出来としては、対抗できるのは手塚治虫の『ブッダ』くらいしかないかも?

 もちろん競技場での競馬レースなど、映画史に残るスペクタクルシーンも大変に素晴らしい。(ガレー船による海戦のシーンはさすがに模型っぽさが否めないが、船内の様子や甲板での戦闘シーンなどは迫力満点。)
 こんな映画は今では絶対に作れないだろうな。CGを駆使すればもっとリアルな映像は幾らでも撮れるだろうが、巨大なセットと多くのエキストラを動員した「ホンモノ」の迫力や、ここまで開けっ広げな愛と平和と人間賛歌は、今の時代では絶対にむり。良いところも悪いところも全てひっくるめて、古き良きハリウッド映画のお手本のような作品だな、これは。
 やっぱり古典と呼ばれるものは(大人になってからでもいいから)一度目を通しておくべき ―― そんなことを考えながら映画館から帰ってきたのだった。

<追記>
 この文章を書いてから、来年の「午前十時の映画祭」の上映リストが公開になった。『ブラザー・サン シスター・ムーン』や『ロビンとマリアン』はダメだったが、どうやら『汚れなき悪戯』は公開されるらしい! これは見に行かなくては。(他にも『ダーティハリー』や『フレンチ・コネクション』『荒野の七人』『M★A★S★H』など、大スクリーンでもう一度観たいものが沢山。少なくとも来年までは、今年と同様に愉しめそうだ。)

『新約聖書Ⅰ』 文春新書

 前々から一度は新約聖書というものを読んでみたいと思っていた。でもちゃんとしたものを買うと高価だし分厚いので(キリスト教徒でもないのにそこまでの投資はちょっと…と、)気おくれしてしまっていた。ところが先日、(なんと!)新書で出ているのを本屋で見かけてびっくり。速攻で購入したのは言うまでもない。
解説は(あの)佐藤優が書いているのだが、彼の前書きによれば本書発行の意図も、まさにキリスト教徒でない普通の人が気軽に聖書の世界に触れられるようにとのこと。それが西洋文明の根幹にあたるものだから、最低限の知識は知っておくべきという彼の主張には全く同感だ。
 宗教は死生観に深く関わるものだけに、死というものが今より身近だった過去の時代においては、宗教が個人の価値観や社会文化に与える影響はずっと大きかった。(日本以外の世界の国に目を転じれば、今でも非常に大きいといえる。)したがってキリスト教に限らず仏教やイスラム教などにおいても、ある国の社会通念を深く理解するためには、宗教の理解は必要不可欠といえる。
 もうすこし書誌的なことがらについても触れておく。本書「新書版/新約聖書」は、プロテスタント神学者とカトリック神学者が共同で作成した日本聖書協会の「新共同訳」に依っている。全2巻で構成され、本書(第1巻)にはマタイ/マルコ/ルカ/ヨハネの四福音書を、そして第2巻にはイエス以降の使徒たちの言行録などを収録。なお新約聖書が「新書」という形で世に出たのは今回が初めてとのこと。「手軽に買える」というのがコンセプトであり、その意味では、まんまと出版社の策略に嵌まってしまったわけだ。(笑)
 
 さて中身についてだが、一読して大変驚いた。(やっぱり有名な本には一度は目を通して見るものだ。)
 先程述べたように、四福音書にはイエスの生前のようすや周辺の人々のエピソードが記されているのだが、それらの殆ど全てが何らかの形で今まで聞いたことのあるものばかりなのだ。このことは、いかにキリスト教が西洋文明の礎になっているかとともに、西洋文化が我々日本人の生活にいかに影響を与えているか良く示している。だって釈迦や弟子たちの行状について詳しく言える日本人なんて、僧侶を除いたら殆どいないもの。
 宗教家としてのイエスがうまいのは、さまざまな喩えを駆使して布教を行っていること。ユダヤ教のように律法によって理屈もへったくれもなく一方的に縛るのではなく、かといって仏教のように自らの教義を理論だてて説明するのでもなく、「喩え」という極めて“文学的”な表現を多用することで、判りやすく教え諭す手法をとったのは、天才的な手腕だといえる。結果、後世の人が彼の思想を時代に合わせて自由に解釈する余地を残すという余禄までついた。(*)
 全てを明らかに説明してしまうのでなく、敢えて寓意や象徴的な暗示に留めること。そして「つべこべ言わず無条件に受け入れるか否か」という決断を迫るようすは、信仰の原点がまさに「命懸けの飛躍」にあることをよく示している。まさに「信じる者は救われる」というわけだ。
 なお四福音書はキリストを巡るエピソードのまとめなので、基本的に同じストーリーの繰り返しである。(これも読んでみて初めて知った。4つのよく似たバージョンがあるという点では、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』みたいな印象。)後世の研究によれば、成立時期はマルコ福音書が最も古いものらしい。どうりで書きかたも簡易的であって、出来事が列記されているだけでそっけないわけだ。可もなく不可もなく標準的なのはマタイ福音書であり、ルカ福音書は表現が高尚で文学的に優れている。でも福音書を「物語」として読んだ場合、演出が上手でいちばん劇的なのはヨハネ福音書。(ぶっ飛んでる感じがして個人的にはいちばん好み。)
いや、細かいことを云わなけりゃどれもそれなりに愉しめたが。

   *…作品は作者の手を離れた瞬間から作者の意図とは無関係になるというのが、
     今どきの文学における考え方。読み手は作品を自由に解釈してよく、それに
     よって新たな作品の価値が生まれるということは、『聖書』という“媒体”に
     書かれていることが教義そのものであるキリスト教にとっては、(異端の発生
     というリスクはあったにせよ)後の世においても新たな価値が生まれ続ける
     という意味で幸いであったといえるだろう。
     なおキリスト教と文学の親和性が他の宗教に比べて極めて高いのは、まさに
     これが理由なのかもしれない。

 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
 キリストのこの言葉は、まるで浄土真宗の開祖・親鸞による「悪人正機」のよう。ただひたすら念仏を唱えて、阿弥陀仏に帰依することで成仏するという、日本仏教界に類を見ない過激さといい、意外と浄土真宗はキリスト教と通じるところが多いのかも。(と書いたら、やっぱり解説に同じような事が書かれていた。)
 全部で150枚という力のこもった解説を佐藤優が書いているが、惜しむらくは現在進行形の時事問題を取り上げている事。今後20年、30年と長く読み継がれる価値がある本なのに、このせいでおそらく本書の賞味期限は本来の10分の一以下になってしまったのではないだろうか? 柄谷行人の『世界史の構造』を引き合いに出し、「資本-ネーション-国家」の“三位一体”という資本主義の本質と宗教との関係を論じたくだり(**)など、自らの信仰告白の部分と合わせてとても優れた解説なので余計に残念。普遍的な価値観を求める宗教と今日の政局を巡る問題を同列に論じる文章は、読んでいてまるで木に竹を接ぐような違和感を覚えた。(功利主義者を自認し、「役に立たない読書は基本的にしない」と公言してはばからない佐藤にしてみれば、特に違和感は無いのかもしれないが。「愉しくない読書はしない」という自分の読書のポリシーとは全くの正反対。)
 というわけで、本書を読むのであれば1日でも早い方が良いだろう。おそらく1年もたてば解説の内容は限りなく古くなってしまうだろうから。それとも、今の政局が記憶の彼方になるくらい後になるまで待つかどちらかしかない。(本棚で20年くらい寝かせておく必要があるかも?)

  **…中沢新一が『緑の資本論』(ちくま学芸文庫)で別の角度から指摘しているが、
     同じテーマである。

<追記>
 余談だが、佐藤優は相変わらずの悪人面で損をしているなあ。外務省時代は“怪僧ラスプーチン”と呼ばれていたようだが、さしずめ“異端審問官”といったところか。“悪代官”と呼ばれる小沢一郎と好対照だ。(笑)

古本vs新刊

 一説によれば毎月新しく出版される書籍の種類は、5000点以上にものぼるらしい。自分がひと月に読める本の数がせいぜいがんばっても20冊程度が限界。とすれば毎月読みたい本がより取り見取りで、さぞかし目移りしてしまう程と思われるかもしれない。ところがどっこいそうはいかないのだ。(笑)
 「どんなものでも90%はクズだ」という“スタージョンの法則”が正しいとするなら、読むに値する本はたったの500冊になってしまう。更には小遣いや本の置き場所と相談するわけで、そうそう高額な単行本を買う訳にはいかない。選択肢は自ずと文庫・新書を中心に絞られることになる。
 なので読みたい本はなかなか見つからないのが実情なのだ。どうでもいい小説や実用書などを候補から除いていくと、読んでみたいのはせいぜい月に4、5冊あればいい程度。回転率の悪い本をいつまでも店頭に並べておくような奇特な本屋は、(東京ならいざ知らず)地方都市ではほとんどなく、せいぜいジュンク堂くらい。 畢竟、近所の本屋にはベストセラーや定番のものばかりが並ぶことになる。その結果、不思議なことに新刊書店において、「毎月変わり映えしない本しか置いてない」という逆説が生じてしまう。

 前置きが長くなったが、今回は新刊書店と古本屋の使い分けについて書いてみたい。
 前述のように今の出版業界の情勢をみる限りでは、新刊書店の状況改善は当分望めそうもない。ということで、自分が新刊書店を利用するのは主に以下の4つの場合である。
  1)初めての文庫落ちなど“封切り作”の購入。
  2)新しく興味が湧いた著者の本を系統的に漁る。(古本で安く見つけるまで待てない時)
  3)本を再読したいときに、家のどこかにあるはずだが捜すのが面倒でつい買ってしまう。
  4)出張先などで手持ちの本を読み終わってしまったときの、“非常用の備蓄倉庫”として。
   (購入の優先順位が低い予備本リストから購入)
 当然、読む本が上記の方法で全てあてがえるはずはなく、それ以外の本は違う手段で調達するしかない。そのときに登場するのが古本屋というわけ。

 自分のようにジャンルに関係なく読み漁る人間は、興味の対象もあっちこっち揺れ動いて定まらない。常に面白そうな本との新しい出会いを夢見ているので、変わり映えしない書棚は敬遠したい。そんなときに重宝するのが古本屋なのだ。古本屋の棚には古今東西あらゆるジャンルの本が脈絡なく詰まっている。時間があるときにそんな棚を渉猟して歩くと、思いがけない出会いが訪れることがあり、密かにそれを称して「出会いがしらの正面衝突」と呼んでいる。書名・著者名や書影で何となくピンときたものを手にとって中身をよく吟味し、アタリだったときの喜びといったら何物にも代えがたい。そうしてまた新しい世界が広がっていき、読書傾向はますます収拾がつかなくなっていくのだ。(笑)
 古本屋を利用する目的をあらためて整理すると、以下の3つになる。
  1)初めて見る本との正面衝突
  2)昔の本(絶版・品切れ)の探索
  3)読み返したい本を(均一台で)

 こうしてみると、自分の「活字生活」が如何に新刊書店と古本屋の両方のおかげで成り立っているかということがよくわかる。“予定調和”の安心感と“ビックリ箱”のようなワクワク感、“定価販売”と価値に応じた“バラバラな値付け”、そして“キレイ”な新刊と“味わい”のある古本。うーん、やっぱりどちらもそれなりに捨てがたい魅力があるな。出版不況だの新興の中古本屋の攻勢だの言われて久しいが、新刊/古本、どちらの本屋もずっと残っていて欲しいものだ。微力だけれどこれからも精いっぱい協力させてもらうからね。(笑)

<追記>
 自分にとって、新刊書店と古本屋のちょうど中間に位置するのがAmazonに代表されるネット書店。実物に直接触れて確かめることができない代わりに、買いに行ったけどまだ入荷してなかったという煩わしさがないのはネットならではの利点。また「この本を買った人はこんな本も買ってます」の情報は、初めて手を伸ばしたジャンルを掘り下げるのはとても役に立つ。でもリコメンドは対象の範囲が広がりはするが、結局似たような傾向の本になりがちだし、深く知るほど既読本ばかりが増えて“予定調和”に落ち着いてしまう。その点では古本屋の「正面衝突」に軍配があがる。一度に目に入ってくる情報の量(=見る楽しさ)でも、パソコン画面が本屋の棚に勝てるはずないしね。

『エロス的人間』 澁澤龍彦 中公文庫

 「エロティシズム」を題材にして澁澤が60年代に書いた文章を、編纂して一冊にしたもの。前半は割と「エロティシズムの定義」に関する学術的な話が多いが、後半は吸血鬼とエロスの話だの黒魔術に関する小論だの、バラエティにとんだ内容になっている。河出文庫と違って中公文庫には少し固めの物が多くて、ご多分にもれず本書もどちらかといえば「エッセイ」というより「評論」と言った方がいいかも知れない。
 まず学術系のものとしては、文学におけるエロティシズムと代表的作家について論じた「絶対と超越のエロティシズム」に始まり、人間のエロスの本質について気の向くままに考察した「エロス、性を超えるもの」「ホモ・エロティクス」など。その他としては『泥棒日記』や『花のノートルダム』などで有名なジャン・ジュネに関する小文や、キリスト教における悪魔崇拝とエロスを論じた「黒魔術考」など。
 以下、特に面白かったところを抜粋しておく。

 巻頭の「絶対と超越のエロティシズム」では、シュールリアリズム詩人のロベール・デスノスという人物(知らない^_^;)が作家達について論評した著作を紹介している。その著作はかつて澁澤自身が翻訳して日本に初めて紹介したが、小部数であったため現在では殆ど入手不可能であり、改めて内容を紹介したとの由。その論によればエロティシズム文学には2種類あるとのことで、あまりそんな視点で“その手”の文学を考えたこともなかったので面白かった。デスノスが高く評価しているのはサドをはじめボードレールやカサノヴァなどの作家たち。それらに共通する特徴は「フェティシズム、男らしさ、精神的な愛、荘重さ」といったところだ。逆にボロカスに貶されているのはラブレーやフォンテーヌ、バルザックなど。デスノスはエロティシズム文学の中において、「形而下的、陽気、野卑、物質主義」といった内容を極端に嫌っているのがよく分かる。ラブレーの『パンタグリュエル』なんてすごく愉しいけどなあ。でもその愉しさそのものがデスノスにとっては我慢できないようだから、「趣味が合わない」としか言いようがない。子供じみた「明るいスカトロ」などは一番嫌われるパターンだね。(笑)
 澁澤自身はどうか?というと、(自らの意見を表明するのを慎重に避けているが、)かつて本書を翻訳したのは他ならぬ澁澤自身だし、今回の文章を読んだかぎり、少なくともデスノスが評価している作家たちが澁澤の好みでもあるのは間違いなさそうだ。もっともラブレー達が嫌いと書いているわけでもないが。
 ちなみにデスノスの著作自体はかなり前のものなので、バタイユ/ジャン・ジュネ/ナボコフ/マンディアグなど20世紀になって登場したエロティシズム文学の作家たちは、当然のことながら取り上げられていない。そこでこれらの作家について澁澤の評価を知りたいと思ったが、それについても「評価は今後の課題」として言及を避けている。自分の趣味で好きなように文を書き散らしている印象が強い澁澤だが、意外と慎重なところもあることを知った。(いま挙げた作家たちについては、別のエッセイで頻繁に取り上げたりもしているので、結局は澁澤の“お気に入り作家”になったようだが。)

 次は本書中で(質的にも量的にも)いちばん読み応えがあった「ホモ・エロティクス」について。これを読む限りでは、澁澤はえらくフロイトをかっているようだ。面倒なので時系列的な順番は調べてないけど、ユング心理学が日本に体系的に紹介される前に書かれた文章なのかな? フロイトはエロス(生/快感原則)とタナトス(死の衝動)を人間の精神活動の根底においたので、澁澤の趣味にぴったりくるのは判るけど。ユングだって錬金術の寓意だとか澁澤が好きそうなネタは色々あるのにね。しかし澁澤の本を全部引っ張り出してユングに関するエッセイがないか調べるのも億劫なので、今はわからないままにしておこう。(笑)
 澁澤はこの中でフロイトを引き合いに出し、死とニルヴァーナ(涅槃)は同一であって、人間が目指すべきはエロス/快感原則とニルヴァーナの再統合にあると主張している。もしもこの考えに賛同できるとすれば、以前から悩んでいたアポトーシス(細胞自滅)とオートポイエーシス理論の矛盾についても、自分の中で整理が付けられるかも知れない。ここらへんのアイデアは、本書を読んだことによる意外な拾いものだった。

『インフレーション宇宙論』 佐藤勝彦 講談社ブルーバックス

 著者は、現在の宇宙科学のパラダイムになっている「インフレーション理論」の提唱者本人。こんなすごい人が書いた最新宇宙論の入門書だから、面白くないわけが無い。こういう本を高校生のころにぜひ読みたかったなあ。今の中高生がこんな本を気軽に手に取れる環境(雰囲気)作りができたら、巷で騒がれているような理科離れ問題なんて無くなると思う。少なくとも本書が池谷裕二『進化し過ぎた脳』や福岡伸一『生物と無生物のあいだ』と同様に、最上の科学啓蒙書であることは間違いない。
 蛇足ついでに付け加えるとするなら、今の宇宙物理学者たちの目標が「神の存在を仮定しないで宇宙の始原を説明したい」ということなのは素晴らしいことだ。やっぱり基礎科学は「何の役に立つか」じゃなくて「どれだけワクワクして面白いか」を基準にしなきゃ。科学研究に対して行う事業仕訳なんて“くそくらえ”だ。(下品で失礼/笑)

本を食べる【その2】

 物心ついた時にはもう本を読んでいた。ムシャムシャと本を食べてスクスクと大きくなった。ロバート・フルガムじゃないけれど、「人生に必要な知恵はすべて図書館と本屋の棚で学んだ」ということになるのかなあ?
 仕事とかで心に“毒”が溜まってくると、会社の帰りにふらっと本屋に寄る。(出来れば古本屋の方がいい。) 「何か1冊、本を買うぞ。」―そんなつもりで棚を隅から隅まで真剣に眺めていると、だんだんと心の温度が下がってくるのがわかる。ふつふつと沸騰していたものが静かになり、濁っていたものが澄んでいく感じがする。
 もしも本を読むことが無かったら、人生の愉しみは今よりも2割くらい少なかったんじゃなかろうか?いやそれよりも人生の苦しみが2割増しだったのかも。

 この前、ざっと数えてみたら、今まで読んできた本は多分4500冊くらい。そしてこれから読むことが出来るのは、(多めに見積もって)およそ3500冊くらい。一生かけても1万冊にも満たないのだと思うと、良い本と出会いたいものだと切に思う。今まで幾つかの「運命の出会い」があり、読書の範囲もそのたびに大きく広がってきた。これからだって新しい「運命の出会い」は期待していいはず。まさに本との出会いは一期一会、字が読めなくなるまでどんな本に出会えるのやら…。

 それでは前回に続いて、中学校から先の3つの「運命の出会い」について述べていこう。

 中学校の図書室で何気なく手に取ったのが、知る人ぞ知る青少年向けSF入門書の名著『SF教室』(ポプラ社)だった。これが第3の出会い。この本の著者は(今では考えられない事だが)何と筒井康隆だった。それまでは子供向けの物語か図鑑、そうでなければノンフィクションくらいしか知らず、「ブックガイド」なるものは目にしたことすら無かったので、初めて読んだ時は正直言って戸惑いを覚えた。書いてあることをどう受け止めればいいのか判らなかったのだ。それでも気になって何度か借りているうち、紹介されている本の題名と著者名をメモしたリストを作ることを思いついたのは我ながら感心。その頃には、行き当たりばったりの読書による当たり外れも身に沁みていたので、リストのSF本を読めばきっとはずれが無いだろうと思いついたという訳。

 そして家の近所にあった行きつけの本屋にいって、書棚でたまたま見つけたハヤカワ文庫がフレドリック・ブラウンの『発狂した宇宙』という一冊。今にして思えばこれが第4の「運命の出会い」だった。(実はこの本をレジに持っていったのは、巻末の解説を『SF教室』の筒井康隆が書いていたからというだけ。)
 この本によって「大人向けのSFの本」の面白さに目覚めてしまった自分は、その後、市立図書館で「ハヤカワSFシリーズ」(通称“銀背”とよばれる伝説的なSF叢書)や、創元推理文庫の“SFマーク”といった定番コースを見つけて読みふけり、高校から大学にかけてどっぷりとSF/ファンタジー/幻想小説といったジャンルに浸る生活が始まる事になった。(*)ちなみに高校生になってからは時間の都合で市立図書館には通えなくなり、少ないこづかいをやりくりしながら本屋で文庫を買う習慣に変わっている。

   *…このころは本当にのめり込んだ。SF系のサークルにも入って好き勝手やらかした
     甘い記憶は、おそらくその余禄だけで一生を持ちこたえられそうなくらい密度が
     濃いものだった。(笑)
     ちなみに最初のうちのお気に入り作家はブラウンやクラークといったところだった。
     そのうちシマックやヴォネガットといった少しマニア受けするところに進み、
     やがてレム/ストルガツキー/ディック/バラードなどへと進んで病は順調に膏肓
     へと入り、今に至っている。…以上、ごく一部の人にしか判らない名前ばかりで、
     誠に申し訳ない。(笑)

 大学時代のサークルにおける、他の学部の先輩・後輩たちや他の大学の友人たちとの交流は、狭いジャンルに固執していた自分を本の広い世界に引っ張り出すきっかけを作ってくれることになった。例えばそのころブームになったのは「ネオアカデミズム」と呼ばれる人文科学系の学問分野。浅田彰の『構造と力』などがベストセラーになり、先輩との会話で情報を仕入れては格好つけて読んだりしていたのだが、それが知らず知らず次の“運命の出会い”を準備していたのだ。
 
 その頃、友人たちの間で話題になったのが、第5の「出会い」であった笠井潔『バイバイ、エンジェル』(角川文庫⇒創元推理文庫)。ミステリと現代思想の合体という離れ業に、完全にノックアウトされてしまったスノッブな学生(=自分の事)は、それに感化されて意味も判らず現代思想の本を読みふけるようになる。(**)

  **…当時のサークル内では一時期、現代思想が大ブームになっていた。
     吉本隆明の『共同幻想論』に嵌まった先輩や、メルロポンティに嵌まって自分の
     下宿を「現象学の館」と呼ぶ人などが続出。(もちろん冗談としてだが/笑)
     あせった自分は何か自分なりの“得意技“を持ちたいと思い、柄谷行人や中沢新一
     に手を出したりもしていたのが、これが後に山口昌男を経てレヴィ=ストロース等
     への道を開くことになろうとは当時は思ってもいなかった。

 大学を卒業して就職してからは学生時代のようなムチャ読みもできなくなり、好きなジャンルの本をつまみ食いするような生活がしばらく続いた。そんな中でふと出会ったのが竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)。この本によって一度に竹田青嗣と現象学の両方の大ファンになってしまい、今につながる読書傾向が全て出揃うことになる。

 以上が自分の読書経験の大雑把な見取り図になる。こうしてみると「運命の出会い」というのは、本の質とともにタイミングがとても大事。その時は気付かなくても、後になって思うと自分の読書人生のなかで”太い枝の分かれ目”に当たっている本が必ずある。読書の趣味の方向性はそれらの本によってほぼ決まり、その後は読んだ本が次の本を呼ぶという状態が続いて、今では先も見通せないうっそうとした密林と化してしまっている。(笑) しかしその気になればこれからもまだ新しい太い枝を見つけられるはずだ、そう信じたい。

 今までの人生を通じて、かなり広い範囲の本を愉しみのため(だけ)に読んできたので、本を”愉しむ”ことにかけては結構自信がある。その代わりといっては何だが、いわゆる「何かの役に立てるための本」とか「文学に淫しているような小説」など、書き手が愉しんでいない本は苦手。わざとしかめ面して世の中を見ているようなのを読むくらいなら、エンタテイメントに徹しているのを読んですっきりしたい。本を読んでわざわざ悩みを増やすくらいなら思想/哲学書の一冊でも読んだ方がよほど気分良く頭を使うことができる。(これはもしかしたら新しい運命の出会いのチャンスを逃す行為なのかもしれないが。/笑)
 でも人生で読める数は限られているんだから、なるべく悔いは残らないようにすべきとも思う。「つまらないかも」と思って読んだ本がつまらなかったら、本当に後悔すると思うから。そして(勉強の為でなく)愉しみのために自分が選んだ本なら、どこかしら愉しいところを見つける才能「だけ」(!)は、それなりに磨いてきたつもりだからね。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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