2010年10月の読了本

『インフレーション宇宙論』 佐藤勝彦 講談社ブルーバックス
  *現在の宇宙科学のパラダイムになっている「インフレーション理論」の提唱者が書いた、
   最新宇宙論の入門書。
『書物狩人』 赤城毅 講談社ノベルズ
  *一風変わったミステリ。歴史の闇に埋もれ、表には決して出てこない稀覯本がテーマ。
『東京ミキサー計画』 赤瀬川源平 ちくま文庫
  *超芸術トマソンや路上観察などで有名な赤瀬川源平が、若かりし頃の思い出を語った本
   だが、これがべらぼうに面白い。ハプニング芸術が盛んだった時代の、芸術家たちの
   熱気あふれる様子が生き生きと伝わってくる。有名な「千円札裁判」に至った経緯や
   裁判の様子なども今となっては貴重な記録だろう。
『すすれ!麺の甲子園』 椎名誠 新潮文庫
  *全国の代表的な麺類を全て食べつくして日本一を決定しようという、シーナ流の
   “脱力系”食べ歩き紀行。麺類好きからするとこういう企画本は何ともバカバカしく
   って好いが、流石にこれだけのボリュームが全て麺に関する話だと、正直いって途中で
   すこし飽きてくる。(笑)
   旨いものは「旨い」不味いものは「不味い」と(店の実名を出して)感想を述べるのが
   清々しくて良いと思う人と、自分のお気に入りをけなされてムカッとくる人とで、
   この本の評価は真っ二つに分かれそうだな。納得できる意見も結構多いけどね。
   ラーメン激戦区である関東で、行列ができる有名ラーメン店について述べたくだりなど、
   他の人はどんな感想もつかな? 個人的には「気に入らないなら書かなきゃいいじゃん」
   と思うけど。好きな人が読んだら不愉快になるだけだし。
『異端者たちの中世ヨーロッパ』 小田内隆 NHKブックス
  *カタリ派など中世ヨーロッパにおける代表的な異端信仰についての研究。
『泥棒日記』 ジャン・ジュネ 新潮文庫
  *フランスの有名な“泥棒作家”による、「泥棒/同性愛(男色)/裏切り」をテーマに
   書かれた自伝的小説。
『パイナップルの丸かじり』 東海林さだお 文春文庫
  *まいどお馴染みの食エッセイ。文庫版は単行本にはない特典として解説が載っているが、
   今回はマンガ家・吉田戦車だったのでさらに得した気分。「ほぼ日刊イトイ新聞」の
   サイトで連載していた「吉田戦車の逃避メシ」の裏話が載っていたのは嬉しい。
『寛永無明剣』 光瀬龍 ハルキ文庫
  *江戸寛永年間を舞台にタイムパトロールが活躍する著者お得意の歴史モノ。
   うろ覚えでジュブナイルだと思っていたら、いやはやとんでもない間違いだった。
   大人向けの立派な伝奇小説です。(笑)
『珠玉』 開高健 文春文庫
  *開高健の遺作となった短篇集。宝石を題材にした3つの作品からなる。
『アポトーシスの科学』 山田武/大山ハルミ 講談社ブルーバックス
  *予め細胞にプログラミングされた“死”である「アポトーシス(細胞自滅)」の
   メカニズムについて書いた一般向け科学書。
『生物から見た世界』 ユクスキュル/クリサート 岩波文庫
  *客観的な唯一の「世界」というものはなく、生物にはそれぞれ固有の独自世界がある
   ということを、豊富な事例で紹介した古典的名著。
『怪人対名探偵』 芦部拓 講談社ノベルズ
  *江戸川乱歩の“通俗もの”へのオマージュとして書かれたミステリ。
   「本格」と銘打たれているが、ある種の「叙述トリック」に近いと思う。
『エロス的人間』 澁澤龍彦 中公文庫
  *澁澤自らが、60年代後半に書いたエロティシズム関連の文章を取捨選択した、
   ワンテーマのエッセイ集。
『読書会』 山田正紀/恩田陸 徳間文庫
  *2人の人気作家による対談集だが、やっているのは文字通りの「読書会」。古今東西の
   SF/ファンタジー系の小説(一部マンガ)を題材にしているが、今の人はどの程度
   読んでるんだろうね? 恩田陸のファンが読んだらさっぱり分からなくて「損した」
   と思うんじゃなかろうか、ちょっと心配。
   ところで余談だが、98ページで山田正紀が題名を思い出せなかったSF短篇は、
   ちょうどこの前『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』に収録された「旅人の憩い」
   (ディビッド・I・マッスン)にきっと違いない。
『トランスクリティーク』 柄谷行人 岩波現代文庫
  *カントの超越論的方法論を用いて、『資本論』を始めとするマルクスの思想を蘇らせる
   壮大な試み。
『夜と陽炎/耳の物語**』 開高健 新潮文庫
  *開高の青年時代を描いた『青い月曜日』と同様の自伝的小説で、日本文学大賞を受賞。
   子供時代から青年時代を描いた第1部『破れた繭』と、学生結婚してから執筆当時までを
   描いた第2部の本書からなる。新潮文庫版では2分冊だったが、現在は文庫ぎんが堂から
   合本になったものが出されている。書かれている内容(エピソード)は、今までの
   開高作品で取り上げられていたお馴染みのものが殆どだが、裏話的な愉しみ方もできる。
『新訳聖書Ⅰ』 文春新書
  *新書版で初めて出された新約聖書で解説は佐藤優。全2巻のうちの1巻目で、本書には
   イエスの言行録であり、キリスト教の正典でもあるマタイ/マルコ/ルカ/ヨハネの
   4福音書を収録。(Ⅱには使徒の言行録などを収録の予定。)
『砂漠の反乱』 T・E・ロレンス 角川文庫
  *“アラビアのロレンス”によって書かれた回想記『知恵の七柱』の簡略版。第1次世界
   大戦におけるトルコからのアラブの独立戦争を、それを支援するイギリス将校の立場
   から描いたもの。『知恵の七柱』では自身の思想についても多くのページが割かれている
   ようだが、本書では思い切って事実関係だけに絞り、ダマスカス陥落までが描かれる。
   一応は映画『アラビアのロレンス』の”原作”にあたるのかな?
『奇蹟の次元』 ロバート・シェクリィ ハヤカワSFシリーズ
  *『人間の手がまだ触れない』『不死販売株式会社』などの作品で知られる(といっても
   今では完全に忘れられてしまった)作家、シェクリィの長篇作品。F・ブラウンや
   星新一にも通じる軽妙さと洗練された雰囲気が割と好きな作家なんだけどな。
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『トランスクリティーク』 柄谷行人 岩波現代文庫

 ベルリンの壁とともにソビエト連邦が瓦解し、世界貿易センタービルが自爆テロとともに崩壊した現代にあって、「経済(産業資本)」、「民族/宗教」、「国家(国際政治)」という3つの主題は、これからの世界の行く末を決定する重要な要因である。地球環境や生物多様性、資源/エネルギーといった、最重要課題の解決もこれらの因子を抜きにして語る事は出来ない。もしも「哲学」や「思想」と呼ばれるものが、人が生きていく上において礎にならんとするのであれば、現代社会が抱えるこれらの問題に光を当てるものでなくてはならない…。
 ―― 柄谷行人がこんなことを本書で言っている訳ではないが、本書が2001年に出版された背景にはきっと、彼のこのような思いがあったに違いない。
 『探求Ⅰ・Ⅱ』における内省を経て『探求Ⅲ』の名で連載された本書が、やがて大幅な加筆修正を経て『トランスクリティーク』として世に出された訳だが、書名まで変わったその理由はテーマが前2作から大幅に変化してきた為。副題に「カントとマルクス」とあるように、コミュニケーションが成立しない“絶対的な他者”との関係を中心に考察した『探求Ⅰ・Ⅱ』と違って、本書では(それらを踏まえてはいるが)カントとマルクスの思想をジャンピングボードにして、資本主義と国家を巡るアポリア(難問)に関して、前著よりも更に踏み込んだ具体的考察と解決案を示そうとしている。それではさっそく内容について。

 著者が行おうとしている事をざっくりと纏めてしまえば次のようになるだろう。すなわちマルクスの『資本論』を批評的に読み解く事で、現代社会の閉塞感というアポリアを解決する手段を得ようと言う事。なお、全体が2部構成になっているが、メインは第2部の「マルクス」であって、第1部の「カント」はマルクス本人の意図を正しく理解するための「理論的な視座」を与えるために書かれたものである。
 それがどんな視座かというと、「A」もしくは「B」という二つの立場のどちらをとるのでもなく、また「どちらでもないというCの立場(=特権的な/隠蔽された第3項)」もとらないこと。すなわち「Aの立場からBを批評的にみるとともにBの立場からAを批評的にみる」という“いったりきたり(=トランスクリティーク)”という立場を戦略的に貫くということである。またカントが『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』といういわゆる“三批評”を書いたとき、彼が示した「超越論的態度」を用いてマルクスの著書を批評的に読み解くことで(*)、マルクスが思想を作り上げたときの問題意識へと遡行し、後世のマルクス主義者たちや思想家たちによって誤解されつづけてきた彼の思想が、現代に通用するものであることを示そうともしている。

   *…あくまでも建設的な意味合いの「批評的」であって「批判的」ではないので注意。

 第1部「カント」では、先述の“三批判”を巡ってカントの哲学的な方法論が論じられる。筆者によれば『純粋理性…』『実践…』『判断力…』はそれぞれ「科学認識」「道徳」「美術」(≒真・善・美)の領域について、それらが持つ特異性と互いの関係性をテーマにしているのだそうだ。それらを論じる際にカントが用いたのは、それまでの哲学が「科学」「道徳」「美学」について考える時に、それらに対して「主観と客観のどちらなのか?」という問いかけしかしてこなかったのに対して、ふたつのどちらか?を問うのではなく、「客観的(論理的)な対象であること」を“疑う”とともに「主観的(感性的)な対象であること」も“疑う”という、“行ったり来たり”の立場を貫くと言う戦略的方法だった。さらに重要なのは、カントの独自性はこの“疑い”そのものを主観性においた点であるということ。―ここらへん、説明が判りにくいがもう少しお付き合い頂きたい。
 (なおここで少し気になったのは、著者が述べるように“疑い”そのものを「主観」だと仮定すると、「“疑う”ことを“疑う”という主観」、さらに「“疑う”ことを“疑う”ことを“疑う”という主観」と言う風に合わせ鏡のような無限後退が出現することにならないのだろうか?ということだ。もっとも、自分が柄谷の論旨を充分に理解できていないが故の誤解なのかも知れないが。)

 話を戻そう。物事を判断する時ということは、「真か偽か(認識的判断)」「善か悪か(道徳的判断)」「快か不快か(美的判断)」という3つの判断を同時にもつことである。科学者の立場というのは、上記のうち「真か偽か(認識的判断)」だけを強調して、残りの二つの判断を取り敢えず括弧に入れてしまうということだ。道徳家や美術家も同様であり、自分の関係するものだけを強調して他の判断は括弧にいれるという立場である。これらのうちどの立場をとるにせよ、選択するにはもっと上位に「意思」のステージが存在しなければならない(はず)。それは「①選択が完全に本人の自由意思によるものだと考える(実践的な)立場」と、「②全ての選択は因果的で決まっていて人間に自由意思など無いという(=理論的な)立場」の二つだ。後者(②)の立場を違う表現に言い換えるとすれば、「一見自由な選択と思われることも、原実は因が充分に判っていないことによる誤解に過ぎない」ということになる。
 カントが主張したのはこの①②のどちらの姿勢が正しいか?ということでなくて、両方の姿勢を同時に持たなくてはいけないという戦略的方法論なのだそうだ。そしてこの“行ったり来たり”こそが本書の題名である「トランスクリティーク」である。(本当にカントがこういったのかどうかは知らない。カントの原著なんてとてもじゃないけど手が出ない。あくまでも柄谷行人が本書でこう説明しているということ。)
 以上、判りにくい表現で恐縮だが、第1部は柄谷の著書には珍しいことだが「読みづらい」ので、どうしても要約も難しくなってしまう。カントの思想そのものに原因があるので止むを得ないのかな?

 ついで本書の主題である第2部「マルクス」について。
 柄谷はベネディト・アンダーソン『想像の共同体』を引き合いに出して、近代国家のもつ圧倒的な侵襲性と強靭さが生みだされる原因を説明する。現代社会が持つ病理の原因が近代国家の特性にあるのは明らかであり、過去から多くの思想家たちが問題を解決するために様々な分析と行ってきたわけだが、著者によればマルクスの『資本論』が問題解決に最も肉迫した思想であるようだ。
 しかし如何せん、マルクスは自らの思索を整理せず体系立てないままに他界してしまった。そしてその遺稿を整理して「マルクス主義」として理論化したエンゲルスは、決定的な部分でマルクスの意図を読み違えており、その後の思想家や活動家たちは誤った(=効果の無い)対策を現代社会に行ってきたのだという。生半可な対抗策では、近代国家の強靭なパワーにからめとられてしまって、吸収/同化されてしまうのが関の山なのだ。
 ではなぜ近代国家がそれほどまでの強さを持つようになったのか? それを明らかにしたのがマルクスだということなのだが、結論を先に言ってしまうと「資本主義」「ネーション(国民・民族)」「ステート(主権としての国家)」という、従来バラバラだった3つの要素が一体化したのが「近代国家」の正体なのだ。3つの要素がお互いに補完しあいながら(**)、“他者”である自分以外の「資本=国民=国家」に対して経済活動を行う。その結果、或いは搾取が発生し或いは紛争が発生する。これは資本が維持される為に必要な“余剰価値”を、他者である共同体同士の取引き(これは“命懸けの飛躍”が前提)に求めなければいけない資本主義の宿命なのだ。
 しかしそれを解決するために(かつての共産主義国家のように)労働者による蜂起と資本家からの生産システムの奪取を行ってみても、結局は資本や国家の担い手が変わるだけであって、構造が変わらない以上同じ苦しみは続く。

  **…毛利元就の「三本の矢」みたいだね。(笑)

 それではどうすれば良いのか? 柄谷によればその解決策は(明文化されていないだけで、「マルクス主義」ではない)マルクス自身の思想に示されているのだとか。
 具体的には、従来の『資本論』解釈でなされてきたように「生産過程」において労働者が資本の解体を行うのでなく(そんなことをしても無駄)、資本への余剰価値の回収が行われる“現場”の「流通過程」に着目する。商品は資本によって生産されただけでは「価値」は生じない。消費者によって購入されるときに初めて「価値」が発生するのだ。(売れなければ単なる無駄な投資に終わる。)消費者がそれらの商品にどれだけの価値を付けてくれるのか? それは異なる共同体間の価値の違いに起因している。異なる共同体(=価値を共有しない他者)との取引きによって資本の維持が成り立つ以上、資本と一体化しているネーション(国民)やステート(国家)がナショナリズムを強調する方向に進むのは、必然的であるといえる。
 かといって他の「資本=ネーション=ステート」からの外力によってある資本の矛盾を解決しようとしても、一体化したネーション=ステートによって抵抗/排除されるのがおちである。かくして今日の資本主義は国際社会全体を巻き込み、貧困と共同体同士の格差を増幅しているのだ。
 これに対抗するには、外部からではなく資本制経済の内部においてあくまでも「合法的に」新たな流通過程の仕組みを作り上げる必要があると柄谷は主張する。しかもその流通過程は資本の基になる「貨幣」に頼ることなく実現されなければいけない。(でないと結局は今の資本に変わる新たな地位を占めるだけに終わってしまい、今の「資本=ネーション=ステート」の構図から何ら変わりがない。)

 どうすればそのような仕組みが実現できるのか? ここでも「トランスクリティーク」の方法がカギになるという。経済活動の本質は付加価値を付けた商品と貨幣を「交換」することにあるが、それ以外にも「交換」の方法は3つある。ひとつはマルセル・モースが明らかにした「贈与」のシステムであり、次に封建性社会における領主による「収奪と再分配」。そして最後のひとつが「アソシエーション」とよばれるもの。この「アソシエーション」こそが「資本=ネーション=ステート」の三位一体に対して唯一、トランスクリティカルな対抗手段と成り得る可能性を秘めている。
 既存の貨幣に頼らない新しいクレジットシステムのようなものを立ち上げ、それに基づいて剰余価値を生まない自主的な流通システムを作る事。現在の生活協同組合のような既存の(国家の)社会システムによらず、ネーションやステートのくびきから完全に切り離された組合的な仕組みを作る事。それを柄谷は「アソシエーション」による解決法と呼ぶ。理想は1871年のパリにおいて、蜂起した革命政府により一瞬だけ成立した、奇跡のような「パリ・コンミューン」。最後の章では実現の方法について、あれこれと柄谷自身が考えた具体策を提案している。

 実は最後の章に関しては少し異論がある。近代国家に対抗するには「アソシエーション」による交換を推し進め、内部から無効化してしまう以外に今のところ良い方法が無い、という主張には一応納得できる。またそのためには生産過程でなく流通過程に着目して、余剰価値を無くすことで資本のサイクルを断ち切る、という戦術も理解できる。問題なのはそれがどれほど大変なことなのか、肌身に感じてはいなのではないか?ということだ。自分の経験からすれば、これはあくまでもアタマによって導き出された机上の推論に過ぎない。泥臭い部分を実体験として判っているものでなければ、実行は難しいはず。ここに書かれている方法論は、あまりにも美しすぎる感じがする。
 ぶっちゃけて言えば、おそらく著者は消費者の欲動の恐るべき深さと強さを実感できていないのだと思う。消費行動は心の奥底のドロドロした部分と直結しており、理性で判断して物を買おうとする人間などほんの一握りに過ぎない。またボードリヤールが『消費社会の神話と構造』などで分析したように、消費社会においては消費者の購買への欲動を煽りたてる産業資本や広告・マスコミなどがひしめいている。彼らは「扇動して買わせるプロ」であり、圧倒的に素人であるアソシエーションの活動など、彼らがその気になればひねりつぶしてしまうことなど簡単である。
 誤解が無いように補足しておくが、自分は何も柄谷の思索を根本から否定している訳ではない。分析やそこから導かれる帰結には納得はしている。ただ現実の企業活動に関する知識不足や実現法に関する“ワキの甘さ”が、現代資本や経済に学術側からアプローチする際の限界なのかもしれないとフト思っただけ。
 あとがきで本人も自覚しているように、まだまだ発展途上の理論であり、だからこそ大きな可能性はあると思う。これからさらに深耕されて「強い(実行力を伴なった)」理論になることを期待したい。続篇である『世界史の構造』(岩波書店)を読もうか読むまいか、迷うところだなあ。

<追記>
 実はこの本は文庫で出たばかりの時、買おうか買うまいか迷って、結局買わずに置いた一冊だった。そのままいけば読まずに終わった可能性もある。急に気が変わった理由は竹田青嗣『人間的自由の条件』が出版されたことにある。竹田ファンなので即買いして速攻で読もうとページを開いたところ、冒頭に大きく「トランスクリティークのアポリア」と書かれており、(柄谷の問題意識は認めた上で、)本書の主張に対する批判を述べたいという竹田の言葉が書かれていた。なので『人間的自由の条件』を充分に愉しむためには、先に『トランスクリティーク』を読んだ方が良さそうと判断したわけ。
 ということで、これでやっと『人間的…』を読む準備が整った訳だが、まだ問題がひとつある。今回『トランス…』の内容についてかなり乱暴に要約してみたが、もしかすると半分くらいしか理解できてないんじゃないか?という心配が頭から離れないのだ。“お気らく読書”の立場としては別に問題はないのだけど、問題なのは竹田による『トランスクリティーク』の批判が理解できるか?という点。
 もしかすると、むちゃくちゃ強い格闘家同士がリングの上で戦うのを、遠くから眺めている観客のようになりそう。更にひどいのは自分がレフェリーをしなくちゃいけないわけで、どっちが勝ったかすら判断付かないんじゃないかという…(笑)

<追記2>
 おちゃらけついでに小ネタをひとつ。『資本論』の論旨に倣い、「読書」について考えてみた。
【資本論による説明】
 「資本」の本質は自己増殖する“貨幣”である。生産した商品が買われるかどうかは「命がけの飛躍」が前提となる。実際には商品が売れると仮定して、ある程度の見込みで作り続けるわけであり、それが「信用」というもの。「信用」は「売買」の関係を「債権者と債務者」の関係に変えてしまう。売れるかどうかという危機は余剰価値が生めるかどうかの危機に転化し、やがて過熱した「信用」による取引は「恐慌」という形で清算される。
 ⇒これを読書に当てはめてみると…
 「読書」の本質は自己増殖する“蔵書”である。買った本が読めるかどうかは「命がけの飛躍」が前提となる。実際には蔵書が読めると仮定して、ある程度の見込みで買い続けるわけであり、それが「(自分に対する)信用」。「信用」は「読むから買う」の関係を「買ったから(仕方なく)読む」の関係に変えてしまう。読めるかどうかという危機は(部屋に)置けるかどうかという危機に転化し、やがて「ブックオフ」という形で清算される。

 お粗末さまでした。

『生物から見た世界』 ユクスキュル/クリサート 岩波文庫

 ブログを始めてから色んな人と本の話をする機会が増えて、面白かった本を紹介されることもある。自分ひとりでは読まなかったであろうものに出会えるので興味深い。これも人から紹介された本の一冊。
本のジャンルでいえば行動動物学とか感覚生理学などになるのだろうか。原著は1934年と古いので「エーテル体」などの時代遅れの言葉も頻出するが、古典として読めばさほど苦にはならず、書いてある内容はかなりなもの。
 「客観的な唯一の世界」というものは存在せず、主体(生物)によって生きられている世界(*)はそれぞれ違うというのが著者の主張である。のちのアフォーダンス理論の先駆けともいえそうだ。

   *…それを本書では「環世界」と名付けている。

 視覚/嗅覚/聴覚/触角などを通じて生物に入力される外界からの物理情報により、どのように個々の生物固有の環世界が作られているか?という説明が具体例を挙げて満載である。ヤドカリや犬など色々な生き物の環世界をシミュレーション化したカラー図解もとても愉しい。キリスト教のように「世界中の生き物は人間の役に立てられるため神によって創造された」という価値観を持つ社会からすれば、かなりぶっとんだ主張だったのではないだろうか。全ての生物は人間とは全く違う世界を生きる、独立した存在と言っているようなものだから。今の時代に読んでさほど違和感を覚えないのは、本書の主張が一般常識になっているからか、それとも「森羅万象に神は宿る(=八百万の神)」という日本的な宗教観/世界観によるものなのか?ちょっと気になる。
 まあ、別にどっちでも良いことではあるが。

『怪人対名探偵』 芦部拓 講談社ノベルズ

 『殺人喜劇の13人』で第1回鮎川哲也賞を受賞してデビューした著者による、江戸川乱歩の『陰獣』『パノラマ島奇談』『人間椅子』などの”通俗モノ”を彷彿とさせる本格推理。次々と奇怪な方法で残虐な殺人を犯していく「殺人喜劇王」に対して芦部のシリーズ探偵である森江春策が挑むというもの。
 作者自らが「乱歩へのオマージュ」と言っている点からも判るように、物語の道具立てとしては申し分ない。しかし如何せん乱歩に求めるものが自分とは違っているようで、残念ながら趣味には合わなかった。いい題材なのにもったいないなアという感じ。
 一般の人々の身に世界から突然降りかかってくる理不尽かつ執拗な暴力(悪意)の描写が、被害者の視点で全体の3分の1にも亘って延々と続き、読んでいるうちに陰々滅滅としてくる。さらに一部メタフィクション的な構成をとっているために、どれが物語のフレーム(枠)なのかも判らなくてストレスが溜まってくる。(何の効果を狙ったのか知らないが…)
 しかし物語としての出来はともかくとして、本書を読むことで色んなことを考えるきっかけになったので、充分にモトはとれたと言えるだろう。(笑)

 この本を読んで強く感じたこと、それは「自分はもしかしたら乱歩が好きだったんじゃなくて、“怪人”が好きだったのかも知れない」ということだ。
 自分にとって「怪人」とはある意味「様式美」の世界。「猟奇的」であるのは重要なファクターだが、リアルに「猟奇」そのものを追求する「スプラッター」とは違うはず―という感覚がある。「猟奇的」と「猟奇」、言葉にすればわずかな違いだが、自分にとっての意味合いはかなり違う。舞台演出に喩えるなら、例えば血糊を沢山使って臨場感を高めるのは一向構わないが、リアル感を追求するあまりに本物の鶏の血を使ったとしたら、それは単なる悪趣味に過ぎないということ。「猟奇的」とはあくまでも「らしさ」であって、実物とは違うのだ。(*)「猟奇的」を標榜する小説において直接の殺害描写を延々と続けてしまっては、(自分の基準からすれば)「下品」極まりない。そのあたりを思い切って刈り込んでくれれば、もっともっと愉しめる作品になったろう。
 まああれこれ書かせてもらったけど、単に通俗モノがそれほど好みでないのと、冒頭にわざわざ少年探偵モノのテイストを持ってきておいて…というだけの理由だが。(笑)

   *…マンガ家・川崎ゆきおの『猟奇王シリーズ』なんか、このあたりのツボを
     良くわきまえて描いてると思う。

 折角だから、自分が惹かれる乱歩的なロマンについてもう少し触れておこうか。
 「猟奇的」に続くもう一つの大事な要素は「冒険」。人は冒険を通じて「宝(=価値ある何か)」を手に入れることができる。冒険には洞窟や敵のアジトなど神話的ともいえる道具立てがあり、かつ“死の危険”と隣り合わせであることも重要。さらにイニシエーション(成長儀礼)として冒険を考えた場合には、子供(=社会で成人と認められていない者)の視点も不可欠になる。『魔術師』や『パノラマ島奇談』など乱歩の大人向け通俗小説を支持する人々においても、「見てはいけない大人の世界」をのぞき見した子供時代の体験や、または子供時代の視点というフィルターを通して評価しているところは無いだろうか。
 子供にとっては大人にとって何でもないこと ――例えば知らない街で迷子になったり、夕暮れが迫る帰り道でいつまでも家がみえてこない不安なども、“死の危険”に直結する不安であったはず。そんな時に登場する“名探偵”とは、さしずめ神話的な英雄にあたるのかも知れない。
 この「子供の視点」からは、もうひとつの重要な要素である「ノスタルジー」が導かれる。時に時代錯誤とすら思えるほどノスタルジックな道具立ても、この手のミステリの舞台を構成する背景として不可欠な要素であるだろう。
 まとめると「猟奇的・冒険・ノスタルジー」の3つを兼ね備えたのが、自分の求める理想的な「乱歩」なのだということ。

<追記>
 現代に猟奇的な面白さを蘇らせようとしたら、ノスタルジックな舞台装置としては70年代の大阪万博なんかが手ごろではなかろうか。(『三丁目の夕日』は時代が古すぎる。当時の子供たちが夢中になった“少年探偵団ごっこ”自体が、もはやノスタルジーを掻き立てる背景にしかなりえない。)その意味で、『20世紀少年』をサブタイトルの「本格科学冒険漫画」としてではなく、乱歩作品が当時担っていたものを現代に再現するという文脈で読み解いていくと面白そうだ。マンガや映画の評論は読まないので知らないけど、誰か書いてる人居るかな?

『アポトーシスの科学』 山田武/大山ハルミ 講談社ブルーバックス

 研究者が書いた、(一応)一般読者向けの「アポトーシス(細胞自滅)」の発生メカニズムの解説書。専門家による科学解説書にありがちなパターンで、読者の知識レベルの想定がうまくできておらず、やたら専門用語や細かい記述が多いのはご愛敬。どのような手順で生体内においてアポトーシスが進んでいくのか大変詳しく書かれているが、あくまでも科学的な事実関係の記載が中心で個人的な思索や推論はほとんど述べられていない。それはそれで構わないのだが、刊行されてから少し時間が経ってしまっているので、できれば最新成果を盛り込んだ改訂版をだしてもらいたいところ。(しかし主執筆者が既に亡くなっているので叶わない夢だ。)

 「サイトカイン」と呼ばれる糖たんぱく質の一群がある。「ホルモン」と似ているが内分泌腺のような特定の臓器で作られるわけではなくて、全身に分布するリンパ球やマクロファージ、繊維芽細胞などで作られるものらしい。生理活性物質として免疫/造血/内分泌/神経などの各種系統に微量で作用し、細胞が増殖や分化するのを制御する。「サイトカイン」には何種類もあるようだが、ひとつで複数の機能をもったり、逆に複数のものがが同じ作用を起こすなど、複雑な相互作用をしている。サイトカインの過剰供給や欠乏は、細胞に対するアポトーシス(自滅)の起動シグナルとなり、信号を受けた細胞はやがて自壊して周りの細胞に吸収されてしまう。
 外傷や毒によって細胞が損傷を受けた結果によって起きる「ネクローシス(壊死)」とは違い、アポトーシスは炎症や痛みを伴わないのが特徴。(知らなかった!)つまり「プログラム化された」細胞死なのだ。
 語源はギリシア語に由来していて、「apo(離れて)」と「ptosis(落ちる)」の合成語。木の葉や花びらがハラハラと散発的に落ちる様子から名づけられた。厳密には細胞が死ぬプロセスも両者ではかなり違っていて、比較すると以下のようになる。

            ネクローシス(壊死) /  アポトーシス(自滅)
  1)プロセス開始     細胞質から    ⇔    細胞核から
  2)サイズ        膨大化      ⇔    凝縮化
  3)反応スピード     ゆっくり     ⇔    急激

 ぱっと見では「老化」と同じメカニズムを早回しでやっているような気もするが、専門家じゃないので良く分からない。(なんせ出てくる化学物質名も全く聞いたことないものばかり/笑) 損傷を受けて変異したり癌化してしまった細胞を排除/自滅させる仕組みと言う点では、少なくとも目的は同じような気がする。直観的には安楽死に近いのかな?

 白血球は自分の命と引き換えに異物を排除するわけだし、ミツバチや兵隊アリなどの高度な生物においても、自らを犠牲にして外的から巣を守ろうとする。アンコウのオスに至ってはメスの体に吸収合併されて痕跡しか残らない。自然界には「全ての命はかけがえが無く平等である」という考えがそもそも存在しないようだ。もっと大きなモノに使えるのが当たり前ということなのかな? もっとも人間だって建前こそ「平等」だがやっていることは全然違うが。(苦笑) 
 ――とまあ、以上がこの本を読んでの直接の感想だが、ここから先はちょっと哲学的なお題になる。本書に刺激されて頭に浮かんできた与太話としてもう少しお付き合い頂けるとありがたい。

 以前にも触れたことがあるが、H・マトゥラーナとF・バレーラが書いた『知恵の樹』(ちくま学芸文庫)という本がある。その中に出てくる重要な概念が「オートポイエーシス(自己創出)」というもの。どんなものかと言うと「生物を無生物から隔てている違い」とでもいえばいいかな。彼らによれば、次のふたつの特性を併せ持つものが生物なのだそうだ。
  ■自分の複製を作る。
  ■外部環境に応じて自分を最適化するとともに、周囲にも働きかけて変化させる。

 このアイデア(概念)の良いところとしては、単細胞に限らず多細胞生物はおろか人間などの高等生物までひとつの理論で説明が可能な点。それどころか著者らは強引にも「社会システム」の成り立ちまでも「オートポイエーシス理論」で説明し尽くしてしまう。この『知恵の樹』を踏まえて「アフォーダンス理論」や「ソマティック・マーカー仮説」などを読み継いできたのだが、本書に至って頭の中に「ハテナ?」が沢山浮かんできてしまった。それは「オートポイエーシス理論」の立場からすれば「アポトーシス」はどのように説明を付けるべきか?ということだ。「オートポイエーシス理論」に倣って対象を社会レベルまで広げた場合、「人体にとっての細胞自滅」と「社会にとっての死刑制度」を同じ次元で考えざるを得なくなるが、その場合「倫理」は一体どうなってしまうのだろうか?

 たとえばオートポイエーシスに倣って社会を大きな生物体に見立てると、国家によって執行される死刑とは、社会全体からみればアポトーシスにあたると言えるだろう。逆に体内細胞にとっては、アポトーシス(自滅)といえどもネクローシス(壊死)と同様に、外部からの理不尽な干渉によって強制された死、つまり死刑みたいなものとも言える。(それとも自爆テロのように英雄的な自己犠牲の一種だったりして。) 
 死刑の是非を問うにあたっては、判断基準を「細胞」でもなく「社会」でもなく、やはりその中間の「個人」におくべきだと思う。そうなると目指すべき水準はどこに設定すべきだろうか。「最大多数の最大幸福」などという多数決で一部が切り捨てられる世界ではなく、やっぱり「全ての生存に意味がある」世界ということになるのだろうか。(自然界ではそういった判断を超越したところで黙々と命が消えている訳だが…。)
難しすぎて正直よく分からない。

 少なくともオーウェル『1984年』のビッグブラザーが正しくないことは確かだ。ましてやビッグブラザーのふりをして自分の個人的な判断や好みを押し付ける、どこかの国の独裁者なんかも断じて違うということくらいは判る。しかしそれより細かい点になると、結局のところ自己了解の問題でしかなくなってくる気がする。自分が生きる上で必須の条件は自分が決めるしかない。自分が生きていく為には社会で守られることが必須と思う人であれば、社会の存続を第一優先に望むので国家による管理を受け入れるだろうし、社会の抑圧を強く感じる人であれば、極力個人(*)の生存を優先するだろうし。(このふたつの考えは絶対に相容れないな。)
 ちなみに国家の考え方としては、戦時下の日本や共産系国家はおおむね前者を優先していて、欧米系の資本主義社会は(すくなくとも建前上は)後者の立場をとっていると言える。

   *…あくまで一般通念としての個人のこと。「自分(あなた)自身」という、
     この世にひとりしかいない特別な存在のことではない。

 「正しい/正しくない」は論じる人の立場によってコロコロ変わる。絶対の真理というものが存在しないのと同じ。立場が違えば共通の議論の土台はなく、例えば「5cmと10cmのヒモではどちらの方が“青い”か?」みたいに、意味のない問題設定となる。…実存/存在/個人などどんな言葉で呼ぼうと構わないが、要するに「人間」に対する基準を、そのまま次元が違う社会に当て嵌めようとするから、こんなややこしい話になる。その意味では『知恵の樹』は最終章でちょっと話を飛躍させ過ぎたかも。

<追記>
 「社会VS個人」の関係について、思考実験をもう少しだけ続けてみる。
 癌細胞のように周囲の細胞に害を及ぼす部位が体内にできたら、人体の存続という立場から考えると癌細胞には気の毒だが死んでもらうしかない。でも癌細胞の立場にしてみれば、一方的に死刑判決を下されるのは納得できないだろう。逆に人体にしてみれば、更生の可能性が無いと判断された細胞には一刻も早く死んでもらうしかないといえる。
 癌細胞のように害を及ぼすものならまだ判りやすいが、「役に立たない」という基準で社会から差別や排除されるもの達もいる(たとえばある種の障碍者など)。人体に喩えるならホクロとかが、「邪魔だから削除」といわれたらどうか? そう考えると、美容整形と是とするか否とするかってことも、正義や倫理を考える上でのアナロジーとして面白い。ちょっと不謹慎と言われてしまうかもしれないが、死刑や捕鯨の是非などの社会問題も、結局はどの立場にたつか?ということだけであって、最終的には個人の趣味・嗜好になってしまう話なのかも?

 今回はテーマが大きすぎて、話が最後にとっ散らかってしまったがどうかご勘弁を。(笑)

『泥棒日記』 ジャン・ジュネ 新潮文庫

 著者は日本で言えば『塀の中の懲りない面々』を書いた安部譲二のような人。(ただしもっと文学的だが。/笑)小さい頃に親に捨てられて孤児院で育ち、窃盗を繰り返して無期懲役の判決を受けて服役中に書いた小説が絶賛されたという変わり種。本書はその“泥棒作家”が書いた自伝的な小説である。中身は『泥棒日記』というより『男色日記』と名付けた方がいいくらい同性愛の描写が延々とつづく。本人もそれは自覚していて、「男色」「泥棒」「裏切り」の3つが本書のテーマであると言いきっている。但し(本人の性格もあろうが)暴力的ではないため「暴力と聖性」といった方には話は進まない。乞食や盗み、仲間の裏切りといった反社会性が中心で、「反社会性による異化作用を通じた聖性」と言った方が良い。

 不潔で卑劣で恥辱にまみれた犯罪者、社会の底辺で虐げられている者たちであるが故に逆に「高貴」である、そんな逆説を主張することで文学的な普遍性を持つことに成功している。具体的には自分の犯した罪を(心を高揚させる)「冒険」と表現するなど。また男色についてだが、昨今の日本では新宿2丁目ゆかりの人達がテレビで活躍したり、カミングアウトする人も多いので珍しくもないが、発表当時はとんでもなく反社会的行為で衝撃も大きかったはず。
 色んな読み方ができる本だと思うが、とりあえず思いついたのは心理学的な見方と文化人類学的な見方だ。まず心理学的な見方からいくと、著者はモロに「反社会性パーソナリティ障害」の典型のような人物であるといえる。この障害は周囲から愛情を受ける事なく虐待を受けて育った人が、自己を守るために身につける(場合がある)性向であって、人を信頼するとか自分を慈しみ大切にするとかいった、精神的な成長がされないまま大人になってしまったのが原因と考えられる。親しくなればなるほどに裏切らざるを得なくなるという心理描写は、まさに心理学の教科書にでも載っていそうな事例。
 もうひとつの文化人類学的な見方というのは、山口昌男らによって述べられていた“カーニバルの王”。乞食/犯罪者/娼婦/女衒(ぜげん)といった、普段は一般社会から除け者にされている人々が、祝祭の時だけは一日限りの王となれる風習が各地に伝わっている。 ――これは頭の中に次のような図を思い浮かべると判りやすいかな。
 まず底辺を下にした正三角形をおく。次にその正三角形の底辺を使って、下側にも上下反対に正三角形を描く。これで真ん中に一本の線を引いた菱形ができる。真ん中の線を一般市民の社会的な地位だとすると、上方向に行くほど地位が上がることになり、封建社会においては最上位の頂点が王(小さな社会では領主)ということになる。喩えるなら「ヒエラルキーのピラミッド」とでもいえるかも。
次いで下側のピラミッドだが、下方向に向かうほどに生活レベルは下がっていく社会的弱者の逆ピラミッドになる。もしも真ん中の線で菱形を二つに折り曲げることができたとしたら、もっとも虐げられた存在である最下点の者が、記号の正負を入れ替えるようにして、最上位の王の位置と重なり合うことになる。記号の正負の意味がなくなる瞬間は、非日常的な空間において一時的に実現される。これがすなわちカーニバルの時というわけだ。(以上、いかにも山口昌男が好きそうな話題。/笑)
日常的な価値観を転覆させることで、マンネリ化した社会に再び活気を取り戻して新生できるという不思議。ジュネはこの構図を(経験的にか?)良く理解していて、まるで彼の人生は社会的な階梯を負の方向に“登る”ことをひたすら求めているようである。信頼の代わりに裏切りを、異性との愛の代わりに同性との愛を、そして労働の代わりに犯罪を。――彼は自ら「罪」に値する人間であることを求めている。「怪物的な例外」であること、それが彼の“美学”であり“人生哲学”であるらしい。
 やがて彼は無期懲役という状況から文学者として名乗りを上げ、やがて恩赦による釈放と社会的&経済的な成功を手に入れるという、(こちらもまた人文系の学問の教科書にでも載りそうなほど)見事に立場の逆転を果たした訳だ。

 主人公は自分にとって全く共感できないタイプの人間であるが、刺激という意味ではこれほど刺激的な本もなかった。石川淳、三島由紀夫、坂口安吾といった一種へそまがりな作家たちがこぞって絶賛したのも、むベなるかなといったところ。

<追記>
 澁澤龍彦の「ジャン・ジュネ論」によれば、彼の代表作である『花のノートルダム』や『ブレストの乱暴者』といった作品においても、本書と同様に男色と犯罪がテーマとのこと。だとしたら取り敢えずジュネはこの一冊くらいでいいや。この手の趣味は自分にはないので、続けて何冊も読んだら「お気らく」ではなく「修行」になってしまいそうだ。(笑)

『異端者たちの中世ヨーロッパ』 小田内隆 NHKブックス

 今回は歴史の「お勉強」。キリスト教の宗教史において避けては通れない「異端思想」について知るのに手ごろな本がでた。
 
 思想家のヴィトゲンシュタインではないけれど、人間の脳の仕組みからしても意識の外側には常に認知できない領域が存在する。とすれば、それに対する畏怖や恐怖から「至高の存在」を仮定して、その結果「宗教」が生まれてきたのは当然と言えるだろう。最初のうちは個人レベルの信仰心だったのだろうが、やがて社会の中にカリスマ性をもった人物が出現すると、ある程度共通した考えをもつ信仰集団は、彼を核にして一気に凝縮を始める。これが「教団」の始まりであって、集団をまとめる“核”になった人物はやがて「教祖」と呼ばれるようになる。
 年月が過ぎ、やがて教祖が死ぬと教団は一旦は存亡の危機に立たされるだろうが、運よく後継者に恵まれた集団は存続を続けるだろう。こうして何代かを経て教祖の直接の教えを知るものが世の中にいなくなると、残された経典類の解釈や教祖の教えに対する正統性を巡って教団内に対立が起こることになる。(もともと「正しい」教えなんて存在しないのだから、経典の解釈には後世の人による判断が常に付きまとう。人によって解釈が違ってくれば、それを巡って対立が起こるのは当然のこと。)
 対立はやがてそれぞれの集団の存続をかけた抗争へと発展し、その中で優位にたった集団が自らの正統性を主張して他の集団(および彼らが信じる解釈)を「異端」と名付けて歴史から抹殺していく。 ――とまあ、こんなのが世の中の宗教において繰り返される、おおよその筋書きなんじゃないだろうか。

 キリスト教において「正統」とはもちろんカトリック教会のことであり、教会は過去からさまざまな集団に対して「異端」というレッテルを貼ってきたわけだが、これは勿論キリスト教に限ったことではなく、イスラム教や仏教などあらゆる宗教において繰り返し起こってきたことではある。
 また同様の事象は宗教だけではない。例えば民主化運動の弾圧など、現代でも多くの国において「正しさ」を主張する体制側(多数派)によって、反対派(少数派)への弾圧は続いている。すなわち「異端」とは、時の権力者が自分らに対立する集団に貼りつけた、“差別化”の為のレッテルと考えてほぼ間違いは無い。

 以上、冒頭からいきなり小難しい話で恐縮だが、本書で取り上げられる「中世ヨーロッパにおけるキリスト教の異端」を考える上で背景となる考え方について、ざっとまとめてみた。
 本書はキリスト教の歴史において「異端」とされてきた集団に関する歴史研究の最新成果を紹介した本で、著者によれば「異端」の発生は(先程も触れたように)常に「教団の危機」とセットなのだそうだ。第1幕はキリスト教が成立してまだ間もない2~3世紀ごろ、イエスが死んだ後にまだ様々なバージョンの福音書やそれらの解釈が乱立していた時代。ここでカトリック教会は教団としての生き残りを賭けて、グノーシス主義などと熾烈な戦いを繰り広げ、その過程でカトリック教会による「異端宣告」が始まったのだという。
 そして第2幕はカトリック教会の威信も確立された11世紀。封建社会において絶大な力をふるう教団内において、権力の腐敗とイエスの教えからの逸脱がすすみ、その揺り戻し運動に対して新たな「異端」が乱発された。この時代には教会の権威はその頂点に達しており、「異端」に対する弾圧も過酷を極めることになった。
 著者は本書において、「異端」がクローズアップされたこれらふたつの時期について考察を行っている。

 まずは「異端」の定義から。
 「異端」を意味する“heresy”という単語の語源であるギリシャ語の“hairesis”は、本来「(特定の言説や学派の)選択」を意味する。では何を「選択」するのかというと、原始キリスト教において乱立していたイエスの教えに対する「異なる解釈」のこと。つまりカトリック教会からすれば「教義的な誤謬」にあたる考え、つまり「信仰における逸脱」の意味を持って使われたのが始まり。大事なのは、まだ聖書テクストの解釈が固定化されていなかった時代における、解釈(=選択)を巡る対立だったということ。あくまでもキリスト教内部に属する問題だったということである。(すなわち身内のもめごとだったというわけ。)
 『カトリック新教会法典』によれば、キリスト教の信仰そのものを捨てることは「背教(=教えに背く)」、カトリック信仰の真理は信じるけれどローマ教会への服従や教会の成員との交わりを拒否することは「離教」と呼ばれ、いずれも「異端」とは厳格に区別されている。それでは「異端」とはどのような定義なのか? 同じく『カトリック新教会法典』によれば「受洗(*)後に神的かつカトリック信仰をもって信ずべきある真理を執拗に否定するか、又はその真理について執拗な疑いを抱くこと」とある。
 この「執拗」というところがミソであって、実はカトリック教会が示した「真理(=聖書解釈)」に対して心の中で否定や疑義を抱くだけでは「異端」にはならない。否定や疑問を言葉でもって執拗に表明し、それが教会の権威によって「公式な非難に値する」と認定された場合にのみ異端宣告の発令となる。つまりカトリック教団が「くどい!」「しつこい!!」と認定したものだけが「異端」とされるということ。(笑)
 これってまさにフーコーが述べたのと同じ、権威による権力行使の見本のよう。

   *…キリスト教徒としての洗礼を受ける事

 ここで注意しなければいけないのは、先に「正統的な信仰」があってそれとの差異を問題にされているのではないということだ。まずユダヤ教や他の宗教との競合や、キリスト教自身の中でのテクスト解釈の違いがあり、それらによって逆照射された信仰がすなわち「正統的なキリスト教」となるわけ。
 判りやすく言えば、カトリック教会が様々な解釈について「これは聖書の教えと違うだろう」と判断することで、乱立する教義を絞り込んでいき、そこから外れなかったものが「正しい教え」だということ。こうして浮かび上がってくるものが、カトリック教会によって「唯一普遍の真理」として規定された。つまり正統と異端という構図そのものが、ひとつの鏡のオモテ/ウラに他ならない。極端な話が「聖書解釈として正しいかどうか」ではなく、「カトリック教会の見解に従うかどうか」だけが重要ということだ。詳しくは後で述べるが、事実11世紀の異端思想とは、腐敗した教会権力に対して聖書の教えに戻るよう主張した人々が、「教会への不服従」を理由に異端宣告をうけたものである。

 それでは第1幕、2~3世紀における代表的な異端思想「グノーシス主義」について。
 「グノーシス」とは「認識・知識」と言う意味がある。この世は狂った神によって創世されたのであり、人間は肉体という牢獄につなぎとめられて魂の救済から遠く隔てられている…という基本的な認識をもつのが特徴。(ディックの『ヴァリス』の項でも書いたように、生きるのがつらい人の“逃げ道”としては、こういう考え方が生まれるのも理解はできる。)グノーシス主義において人間の救済はこの認識(≒叡智といってもいいのかな?)に目覚めることでのみ実現する。キリスト/救世主とは神が人間に姿を変えて顕現したものであって、彼が身代わりとなって贖罪することで世界の救済が実現する。
 グノーシス主義と現在のカトリック教義を比較すると、仏教における小乗と大乗の違いにも似たところがあるような気がする。(グノーシスの方が小乗ね。) 歴史に「IF(もしも)」はないというが、仮に4世紀のローマ帝国で皇帝のテオドシウスによって国教化されたのが、カトリックではなくグノーシスの方だったとしたら、「真正なもの」はグノーシスであって、逆にカトリックの方が「異端」とされていた可能性もあるのだ。

 次は第2幕、11世紀の代表的な異端思想である3つの流れ、「カタリ派」「ワルド派」「聖霊派とベガン」について。これらはそれぞれスタンスは違っているが、いずれも封建社会における社会秩序(=聖職者/領主/一般信徒という位置づけ)に対する挑戦となり、そのためにカトリック教会から異端のレッテルを貼られて、過酷な弾圧を受けることになったという点で共通している。
 これらの思想が生まれた背景としては、皇帝という世俗的な権力と教皇の結びつきが強くなり、教会および中央の聖職者たちが「富と権力」による支配を強めようとしたことが挙げられる。これらの権力腐敗に対する一般信徒や地方の聖職者たちによる反発が「聖書の教え」への回帰を強める結果となり、やがて「キリストの貧者」を名乗る者たちが現れ始めたというのだ。(キリスト教の原理主義者みたいなもの。)
 彼らの活動が広がるにつれ、教会は自らの権力への脅威とみなして教会への服従を強制するようになった。「富と権力」か「キリストの貧者」か? そんな二者択一を迫られた結果、「人はふたつのものに仕えることは出来ない」として教会に背を向けた人々が、「(不服従の)異端」という宣告を受けたというわけ。しかし彼らには「間違っているのは教会側だ」という意識があるから強い。公式な活動が出来なくなってからも地下に潜伏して活動を続けたため次第に取り締まりも激しさを増して、12世紀後半から16世紀初頭には「魔女狩り」という形で活動のピークを迎えることになる。(そのころの様子が「異端」に対する我々の印象を形作っているようだ。)
 それでは異端を宣告された3つの思想の具体的な中身とは何なのか、順に述べていこう。

<カタリ派>
 身体は悪魔の創造物であるとした点はグノーシス主義にも共通。肉体を魂の牢獄として、精霊(精神)の優位を説いた。したがって「富と権力」にまみれた当時のカトリック教会は当然彼らの弾劾の対象となる。カトリック教会の遺骸崇拝に関するエピソード(=聖人の遺骸がいつまでたっても腐敗せず芳香すら放っていたというもの)は、カタリ派にとっては悪魔の所業としか思えない。すなわち彼らにしてみればカトリック教会こそが「サタンの教会」なのだ。
 ついでに言うと、「パンとブドウ酒がキリストの血と肉(聖体)である」とか、「カトリック司祭が聖体の秘蹟を執り行う時、司祭がキリストと同一視される」とかいうキリスト教の独特な論理は、この時に異端対策として無理やりひねり出されたものだったらしい。どうりで理解しがたいわけだ。

<ワルド派>
 一介の商人であったワルド(ヴァルデス)は、あるとき劇的な回心を経験したのちに、福音書に書かれたイエスの言葉に(文字通りに)従って清貧の信仰生活を始めた。また自らが街角に立ち、当時はカトリック教会の司祭にしか認められていなかった、他の一般信徒への説教も行うようになった。当初は革新派の教皇によって黙認されていたワルドの活動であったが、教皇が亡くなったあとに教会は手のひらを返したようにワルドたちに説教をすることを禁止する。これを「人間ではなく神に従う」として拒否したワルドたちは「不服従の異端」とされた。その後も長い間潜伏を続け、最終的にはルターの宗教改革を経てプロテスタント教会のひとつの会派になったという。

<聖霊派とベガン>
 「聖霊派」の正確な名称は「フランチェスコ会・聖霊派」という。カタリ派による腐敗追及を脅威と感じたカトリック教会の中で、13世紀に誕生した自浄運動に托鉢修道会というのがあって、代表的なのフランチェスコ会や後世に異端審問で有名になるドミニク会など。かれらは当時のカトリック教会にとって異端思想からの強力な防壁になったのだが、「富と権力」を巡る13~14世紀の葛藤を通じて、自らが新たな異端思想を生み出すことになった。
 創始者のフランチェスコ亡き後、カトリック教会の懐柔策にさらされたフランチェスコ会の後継者たち(コンヴェントゥアル派)は、「キリストの清貧」という自らの本分を忘れてしまった。「生きるために必要な最低限のものを除き過度の財産を持たない」というのがこの修道会のモットーであったはずだが、呆れたことにその読み替えを画策しはじめたのだそうだ。壮麗な教会でミサをしたり、豪奢な服と食事を享受しているにも関わらず、それらは全てカトリック教会から修道会に「貸与」された教会の財産であって、“使用”はしているが“所有”はしていないという建前を振りかざした。
 それに反対して修道会の会則を字義どおりに実践し「裸のキリストには裸で従う」という修道会の創始者フランチェスコと同じ生活を実践した急進的な一派が登場し、自らを「聖霊派」と名乗った。
 コンヴェントゥアル派と聖霊派の対立はやがてカトリック教会の介入を招くことになる。清貧を主張すると教会の権威を否定することにつながるため、聖霊派の司祭たちは厚顔無恥な教会によってなんと異端の烙印を押されてしまう。しかし納得できない彼らは地下に潜伏して、一般信徒の集まりである「ベガン」と一緒にその後も自らの信ずる信仰生活を続けた。ベガンの急先鋒たちはかつてのカタリ派のようにカトリック教会をアンチキリストが支配する「肉的教会」とみなし、自分達を「霊的教会」として対置した。
以上が中世ヨーロッパの代表的な異端思想の概要である。

 我々が「魔女狩り」とか「異端狩り」と聞いたときに、真っ先に頭の中に浮かぶのはS・コネリー主演の映画『薔薇の名前』みたいな光景だろう。しかしこれは「ワルド派」や「聖霊派/ベガン」によって「サタンの教会」「肉的教会」と呼ばれたカトリック教会側が、執拗に教会の権威を否定してかかる彼らの理由として「悪魔との取引き」を連想したのがきっかけ。恐怖に駆られて異端審問がエスカレートしていった14世紀から16世紀のことらしい。先程も述べたように、初期に「異端」の宣告を受けていたのはカトリック教会と違う教義の解釈をしていた者だけ。また「異端宣告=即処刑」ではなく、説得によって教会の教義への帰順を示した者は条件付きで許されてもいた。しかしのちには「キリストの清貧」を目指す者たちとの非難合戦を経て、高利貸しやユダヤ人、同性愛者やハンセン病患者など、カトリック教会の権威を揺るがすと判断されたものは軒並み「異端」であり差別や処罰の対象にされるという、理不尽がまかり通るようになったとのこと。もちろん「悪魔との取引き」について物的証拠なんてあるはずもなく、異端者たちに罪を認めさせるには拷問によって告白を引き出すしかない。その先に待っているのは火刑である。
 すなわち我々のイメージは教会と「異端者」たちがお互いに相手を“悪魔”とするアジテーションの結果によって作られたものであったのだ。

 本書を読んではっきりと見えてきたのは、「異端」というレッテルは時の教会権力者によって脅威とみなされた者たちに付けられるスティグマ(聖痕)に過ぎないということ。判断はそのときどきで変わる恣意的なものでしかない。ここにも多様な物の見方を認めようとしない偏狭な価値観が生んだ悲劇があった訳だ。
 時代を遡って2~3世紀の、グノーシス主義とカトリック教会の「正統性」を巡る戦いにしても、「喰うか喰われるか」の弱肉強食の世界を連想してしまう。不謹慎とお叱りを受けてしまいそうだが、まるでマフィアの抗争でも見ているような感じさえ受ける。どの宗派が教祖の教えにいちばん忠実か?なんて言い出して、正しいモノと正しくないモノを決めたがるのが宗教/教団のもつ性(さが)だとしたら、やっぱり宗教にどっぷり浸かる気にはなれないなあ。生きるのが辛くなくなるならどんな教えでもいいんじゃないの?と思ってしまう。「いちばん」を決めたり「いちばん以外は認めない」なんて世界には興味ないな、つまらないから。(今のカトリック教会はもちろんそんな風でないとは思うけど…。でも現法王であるベネディクト十六世の言動を見てると、ちょっと心配になってしまうのは自分だけ?)

 最後は話が重たくなってしまったが、これで『薔薇の名前』を映画だけでなくて原作でも愉しむ事が出来るかも?と思うと、ちょっと嬉しいかも。なんせ歯が立たないんじゃないかと思って、今まで手を出しかねていたもので。(笑)

『珠玉』 開高健 文春文庫

 うーん、やっぱりすごい。1989年に癌でこの世を去った文豪・開高健の遺作となった短篇集で、テーマはタイトルからも判るように「宝石」。この本、同じく文春文庫に収められている短篇集『ロマネ・コンティ・一九三五年』とともに、今まで何度読み返したか憶えていないくらい読んだ。
 「掌のなかの海」「玩物喪志」「一滴の光」という3つの連作掌編が収録されていて、取り上げられる宝石はそれぞれアクアマリン、ガーネット、ムーンストーンである。各々の宝石がもつ青色/緋色/乳白色という3つの色が何を意味するかは、読んだ人にだけのお楽しみということにして、ここでは敢えて触れずにおこう。(笑)
最初の「掌のなかの海」は遠洋航海の船医との交流を取り上げた作品だが、「卒塔婆小町(*)」を連想させるような瞬間の痛烈が印象に残る。次の「玩物喪志」は中国料理店の店主との交流を巡る話、そして最後の「一滴の光」はある女性との交流を描いて鮮烈である。
 「文房清玩(ぶんぼうせいがん)」とか「馬馬虎虎(マーマーフーフー)」、それに「道道無常道 天天小有天(≒この世に絶対不変の真理などないが、しかしまあ毎日、ささやかな別天地というものはある)」といったお気に入りの言葉は、全てこの本で教えてもらった。

   *…能楽の演目のひとつ。『ロマネ・コンティ・一九三五年』の表題作には開高健による
     名訳が収録されているが、どんな内容かだけ知りたい人はネットで「卒塔婆小町
     (そとばこまち)」と入力して検索すればすぐに出てくる。

 開高の小説の基になっているエピソードの多くは、実は『白いページ』や『ベトナム戦記』など著者のエッセイ/ルポルタージュで読むことが出来る。しかしそれが開高の中で蒸留されて一篇の作品になって出てくると、全く違うものに昇華されており、エピソードを「知識」として知っている事は、何ら作品の価値を減ずるものでは無いことが判る。
 よく「無人島に持っていく本」という話題がでることがある。もしも1冊しか選ぶことが出来ないとしたら、しかもこれから一生他の本と交換できずその1冊を繰り返し読むしかないとしたら、果たしてどんな本を選ぶだろうか? 少なくとも『ロマネ・コンティ・一九三五年』と『珠玉』の2冊は、どちらも有力候補になるのは間違いない。

『書物狩人』 赤城毅 講談社ノベルズ

 「世界を揺るがす可能性を秘めた古書を巡る数々の難事件、愛書家必読!」という惹句にひかれて読んでみた。エーコの『薔薇の名前』みたいのかと思ってたら、ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』の方だった。(笑) サクサクと軽く読めてしまうので、構えて読むとちょっと肩すかしに遭う。
 ミステリとしての謎は正直大したことないので(笑)、本書の眼目は歴史の闇に隠された稀覯本(きこうぼん)の出自に関するエピソードのみといって良いだろう。作者が「どう、こんな稀覯本。いかにも世の中にありそうで面白いでしょ?」とほくそ笑んでいる様子が目に浮かぶようだ。それを「あ、好いねえ」と面白がれるかどうかが、本書を愉しむ分かれ目とみた。

『日本の鬼』 近藤喜博 講談社学術文庫

 題名からして鬼の文化史や博物誌みたいな本かとおもって読んだのだが、そうではなかった。もちろんそのような部分もあるが、著者は鬼の正体を自然現象の「雷」に由来する(だけの)ものとして、初めから結論付けた上で話を進めていくので、ちょっと面喰うところも多い。したがって本書の読みどころは学術的な考察よりも、古来より日本各地に伝わる説話中の様々な鬼に関するエピソード紹介にある。渡辺綱と羅城門の鬼や安達が原の黒塚など、有名な鬼のオンパレードで結構愉しめる。
 実は本書でもうひとつ大きく扱われている話題があって、それは鬼ではなく日本神話の神。こちらでも自然現象の「雷」が重要なカギになっていて、落雷の放電から稲の穂のような枝分かれを連想して、「稲光」という言葉の語源や農業との関連を考察したり、形の共通性から滝(=落水が枝別れする様子)や龍・蛇の形象との関連を考えたりもしている。しかしこちらのパートにおいても、スサノオが天斑駒の皮を剥いで屋根から投げ落としたエピソードに落雷を強引に結びつけたり、牽強付会が過ぎるのでは?という点も少々見受けられる。
 どうやら著者の頭の中では、「鬼の説話や日本神話のルーツ=雷」という図式が過不足なく成り立っているようだ。あとがきを読むと、「本書の題名を『日本の鬼』ではなく『日本の神』とすべきか迷った」とあるが、それよりも『雷と日本の説話』と言う方がピッタリ。でもその上で敢えて言わせてもらうとすれば、鬼や神はもっと色々な因子の集合体であるわけだし、もともと雑誌等に独立して発表された原稿を直してまで「雷」で無理に筋を通さなくても、そのままバラバラで良かったんじゃないの? 一冊の本として体裁を整えるための加筆を行ったことが、逆に裏目に出てしまっている気も…。

 著者自身もあとがきで述べているが、論旨の飛躍し過ぎや逆に細部までこだわり過ぎの点など、理解しにくい点があるのを自覚しているようだ。しかしそれは著者が言うように「力不足」ではなく、論理の「強引さ」が原因だろう。1975年という初版の出版時期を考えれば致し方ないのかもしれないが、民俗学系の古い著作を読むといつもモヤモヤした感じが残ってすこし残念だ。(全体的に出来は悪くないけど。)

『定本 想像の共同体』 ベネディクト・アンダーソン 書籍工房早山

 注:のっけからで恐縮だが、今回は今まででいちばん長いので覚悟して頂きたい。(笑)

 現代の国際社会で様々な軋轢の原因となりつつも、人々をひとつに結びつける心の拠り所にもなる「ナショナリズム(国民主義)」というものがある。本書は、この厄介かつ不可思議な概念がどのようにして生まれ広がっていったかについて探求し、その後のナショナリズム研究の先駆けとなった政治学の新古典的な一冊。「ナショナリズム」についての著者の姿勢が冒頭で端的に表されているのでまずは紹介しよう。

 「国民はイメージとして心の中に想像されたものである。(中略)たとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は常に水平的な深い同士愛として心に思い描かれる。そして、この限られた想像力のために、過去2世紀にわたり数千、数百万の人々が、殺し合い、あるいはみずからすすんで死んでいったのである。」

 よいイメージとしてはオリンピックやサッカーW杯における盛り上がりが頭に浮かぶし、悪いイメージとしては世界各地で勃発する民族紛争やテロなどが思いだされる。日本においても右翼の街宣車や靖国参拝、東アジアにおける反日運動などキナ臭い話題には事欠かない。一方で大晦日の除夜の鐘や唱歌「故郷」の「♪ウサギ追いし かの山、コブナ釣りし かの川」というフレーズを聞くと「日本人でよかった」という気にもなる。韓国語における「ウリ(=我々)」という言葉がもつ概念に近いと思うが、「日本国民」というのも時と場合によって適用範囲が自由にかわる伸縮自在な概念といえる。
 うっとうしくも懐かしくもある、このアンビバレントな感覚は何なのだろうと前から不思議で仕方が無かったのだが、本書を読んでストンと腑に落ちた。ロールプレイングゲームで喩えるなら、まるで「○○○はレベルがあがった。“ナショナリズム”の呪文をおぼえた!」というくらいの感じ。(笑) キチンと理解できているかの復習も兼ねて、以下にまとめていこう。

 ナショナリズムの正体とは何か、それは次の言葉を引用すれば充分だろう。
  「ナショナリズムは国民の自意識の覚醒ではない。ナショナリズムはもともと存在していないところに国民を“発明”することだ。」(byゲルナー)
 ひとつの共同体として想像される「国民」という概念は、実は18世紀末になって初めて“発明”されたものだという。そんな新しい概念がなぜこれほど急速に世界各地に広まり、定着することができたのか? その理由はナショナリズムがもっている特徴にある。いずれの国においても、(たとえ建国から日が浅い国家であっても、)当事者は遥かな過去からの連続性を強調し「○○国民」としての正統性を主張するからなのだそうだ。
ではなぜこぞって連続性を主張しようとするのか? 
 著者の考えによれば、18世紀に登場した科学や新たな哲学・思想によって、それまで数百年に亘って心の拠り所になってきた人々の宗教感が揺らいだのが発端だという。そのため、人が生きる上で避けて通れない、病/悲しみ/老い/死などの“生の苦しみ”を受け止めてきた仕組みが崩壊してしまった。それに代わるものを求めた結果、死者や過去との連続性をもたせることで自らの生に意味を持たせる手段として、あらたに「ナショナリティ(国民としての帰属意識)」や「ナショナリズム(国民主義)」という概念が18世紀末に発明されたというわけ。ナショナリティが自らの正統性を過去の価値観に求めようとしても、古くからのそれは既に断絶してしまっているので不可能である。とすれば、正統性を主張するためには遥かな過去からの連続性を"捏造“するしかない。(このあたりの論理は、クーンが科学史の研究を通じて「パラダイム」に見出した特徴と全く同じなので納得できる。)
 34ページに良い例があげられている。
 「わたしがフランス人に生まれたのは全くの偶然である。されどフランスは不滅である。」
                                   (byドブレ)
  ―― フランスなんて国が出来たのはそんなに昔じゃないんだけどねえ。

 以上がナショナリズムが生まれた「Why(なぜ?)」の部分。次に挙げられているのが
「How(どのように?)」についての分析。
 著者は世界各地の事例を詳細に検証して、ナショナリティが何を核として生み出されていくのか検討していった。その結果、その始まりには大まかな幾つかの流れがあることに気付いた。
 まず世界で最初にナショナリズムが発生したのは南米であるということ。その影響を受けて次にヨーロッパにおいて、南米とは違う型のナショナリズムが発生したのだということ。そしてヨーロッパでおこった「ナショナリズム」という“考え方”は、列強諸国のアジア進出によって東アジア地域にも浸透し、ついで第2次世界大戦後にはアフリカや中東地域において、植民地からの独立の為に利用されて現在に至ったということ。
 これらの流れを頭に置いた上で、幾つかあるナショナリズムの型を知れば、現在の国際社会を理解する足がかりは出来たと言える。

 「ナショナリティ」とは、ある規模をもった集団が自分たちの団結を促すために作り上げた思想的な枠組みである。団結が必要になる背景は色々あるだろうが、いずれにせよ外部からの弾圧によって集団に危機が迫っていると意識されたときが、ナショナリティが生まれるきっかけとなる。著者によれば危機意識をどの階級が持ったかによって2つのパターンが考えられる。ひとつ目は独立運動の際などに民衆運動として下から盛り上がる「民衆ナショナリズム」と呼ばれるもの。もうひとつは政府が上から大衆のナショナリズムを煽る「公定ナショナリズム」である。ラテンアメリカ諸国がスペインから独立したケースは「民衆ナショナリズム」と考えて良いだろう。後者の例としては、日本の明治政府が推し進めた富国強兵策や臣民教育などが考えられる。これら「公定ナショナリズム」は、やがて帝国主義への端緒をひらくことになるものといえる。
 ちなみにコロンビアとかチリなどの国境線は、スペイン統治時代には単なる行政上の区分に過ぎなかったのだそうだ。ではなぜそれぞれの地域が強固な「国」という意識にまとまったのか? その経緯をみることがナショナリズム発生の秘密をとくカギになる。

 スペイン統治時代においては、現地の支配者層であった「クレオール(=植民地生まれの白人)たち」は、母国から赴任してくる者たちに対しては一段劣った存在として扱われていた。母国からみると「現地生まれ」という感覚が強く、行政組織上の待遇面でも差別されていたという。長年に亘るこれらの不満や母国に対する劣等感がやがて本国に搾取されているという認識へと変わり、怒りが飽和点を超えて遂に「独立国家」という選択がなされた。その時に怒りを「結晶化」する上で核に利用出来そうなものがあれば、それは何でもよかったのだ。それが単なる行政上の区分であっても、身近に利用できる手ごろなものをみつけてあれこれ理由を付けて団結心を煽る。それがクレオール達を中心に進められた母国からの独立運動のエンジンとなっていった。
 ナショナリズムというものは、いちど出来あがってしまえば自己強化を図ることになる。国際社会において他の国家に主権を行使する権利を持つのが「国家」という存在なのだとすれば、「国家」は(自己保存のために)経済的な利害や自由主義といった衣をまとって急速に形をなし、「自国民」というイデオローグで観念の自己再生産・強化を図ろうとする。その結果、ナショナリズムが定着していくことになる。
 また当時の中南米地域で新興出版業者が始めた「新聞」という新しいビジネスも、同じ言語・同じ地域の人々に共同体のイメージを植え付けるのに一役かったそうだ。(これについては少し補足が必要だろう。)
 グーテンベルグによって始まった西洋の出版業は、18世紀になって「小説」という新たなビジネスを見つけたことで、図らずも人々の啓蒙を果たすことになったのだという。
 「小説」という表現形態は従来の神話や説話とは違い、複数の人物の状況を同時進行で表現することでストーリーを進めていく。著者によれば、これにより「自分以外の人々の行動が今この瞬間にも同時進行で存在している」という考え方が広く社会に浸透したのだそうだ。自分が会ったこともない人を「同胞」として意識する土壌ができたこと。同じ言語を喋る人々がある規模で生まれ、自覚されたということ。このように抽象的な観念上の存在を「仲間」として意識できる土壌が完成した時、伸縮自在の適用範囲をもってある特定集団への帰属意識が生まれたといっても過言ではない。
 以上が南米におけるナショナリズム台頭の大まかな内容。続いてはヨーロッパにおけるナショナリズムの動きについて。

 ヨーロッパにおいても、出版によって地域ごとバラバラだった言語が整理され、ある規模で同じ言語を理解する人々が生まれ、会ったこともない人々を「同胞」とする意識されたという背景は、前述のラテンアメリカ地域と同じであった。しかしそこから先は少し違った動きを示していく。
 出版による啓蒙が進むにつれて、昔から知識(インテリ)層の共通語であったヘブライ語/ラテン語/ギリシャ語といった古代から伝わる言語の聖性や優位性は徐々に失われていった。またそれに伴って大学などの教育機関を中心にしてフランス語/ドイツ語/チェコ語など、土着の“卑俗”な言葉の重要性が増していった。こうして言語または文化・風習などによって区分された「民族」という概念が集団の核として取り入れられていった。ちなみにこの時代に勃興した国民音楽(ドボルザーク、スメタナ、バルトークなど)の考え方も、同じ視点で括れるとのこと。これらの「国民運動」を中心になって推進したのは当時の中産階級/ブルジョアジーであり、運動は出版やジャーナリズムを通じて徐々に社会意識として浸透していった。
 さてこうして19世紀半ばからヨーロッパに発生したのは「民衆ナショナリズム」であったのだが、そこから排除されそうになった旧支配者層/貴族らは、あわてて応戦を始めた。「我々の民族的なアイデンティティの危機」とか何とかいって様々なプロパガンダを駆使して国民を煽り、自分達に都合のよい体制を維持しようと画策した。それが「公定ナショナリズム」の始まりとなったということらしい。(「民衆ナショナリズム」を装って仕掛けたあざといやり口だな、これは。)

 ともかくこうして様々な経緯で生まれたナショナリズムのモデルはその後、アジアやアフリカなどで模倣されて複雑に入り乱れ影響を与えあい、やがて国際連盟ができるころには、民衆ナショナリズム/公定ナショナリズムを問わず、ともかく「国民国家(ネーション・ステートNation State)」が正統的な国際規範として定着して現在に至っている。なお集団を団結させるために最初の核になる概念はどんなものでも良く、言語や文化・風習以外にも「共産主義」などの「思想」やイスラム教といった「宗教」など様々なものが借用されているが、いずれにおいても、国家成立後は“過去からの連続性”を主張することによって、自分たちの国がその地域において永遠不滅の価値をもつことを述べている点では変わりはない。その地域にあった過去の「国家」とは全く関連が無いにもかかわらず(*)である。なお、これは「わが国・日本」においても同じことが言える。

   *…実はこれを維持・強化するのに重要な役割を果たした学問がある。それは19世紀
     初めに生まれた「歴史学」というもの。また当時発達した人口調査(=国民の
     特定)/地図(=国境線の策定)/博物館(=文化の線引き)といった仕組みも、
     過去から現在までをひとつの歴史解釈で連続させる動きを加速させた。

 以上が「How(どのように?)」についての概観。このあとは、ナショナリズムのために人が自らの命を進んでなげだそうとする「自己犠牲」の理由について述べる。
 なぜ「自己犠牲」がおこるのか? 簡潔に言えばそれは、ナショナリズムが人々を鼓舞しようとするとき、イマジネーションの源泉を人々が日常使う「言語」や「歴史的宿命性(=肌の色や出自、生まれついた地域や時代などそこに集いし人の同時代性など)」に求めるからなのだそうだ。
 誰しも自分の生まれる国を選んで生まれてくる訳ではない。そして自ら選んだものではない対象(自分が所属する国あるいは集団)のために自らの命を投げ出すということは、逆に「道義的な崇高さ」を帯びることになる。― これってイスラム原理主義者の自爆テロにも共通する認識だとおもう。フランス国歌の『ラ・マルセイエーズ』やアメリカ海兵隊の『星条旗よ永遠なれ』なんかを聞くのも同じで、「ああ、この素晴らしい国を守らなきゃ」という気持ちが高まってくるんだろうね。

 考えてみれば人間とは「言語」「人種」「地域」など色々な因子が入り混じって成り立っているのであって、単純に線引きなんて出来るものではない。そこに「国民」という人工的な線を引こうとする訳だから、絶対的なものに成りえないのはハナから明らかだ。文化や風習には愛着がありつつ、国体や政治体制に不満を持つ人がいたって何ら不思議ではない。大晦日に除夜の鐘を聞いて「日本人で良かったなあ」と思うのと、「もしも外国から攻めてこられたら銃を持って日本という国を守るか」とかいう議論は全く次元が違う話だと思うのだ。だけど「日本国民としてのアイデンティティ」という観点では同列に語られてしまうんだよなあ。なんか釈然としない。
 竹田青嗣が『人間の未来』(ちくま新書)で述べているように、弱肉強食の非情な世界になるのを防ぐためには、人間は(ホッブスの『リヴァイアサン』のように)お互いの主権をどこかに預けるしかない。「国民」が自らの主権を一時的に預ける先が「国家」と呼ばれる集合体である。だからこそ国家はルールを破った人間に対して死刑を執行する根拠をもつ、というのが近代国家の考え方だ。しかし国際社会においては、現在のところ相変わらず弱肉強食の野生のルールが適用されたままである。国際連合は主権をもった国同士が話し合う場であって、(ルールを守らない国に対して“国連軍”の名のもとに武力制圧を行う場合もあるが、)基本的には強制力を持つものではない。せいぜいが子供の社会のように「仲間はずれ」にしたり「皆で文句を言う」のが精いっぱいであろう。
 動物学的に考えれば、人間が集団行動をするのはおそらく自然な習性なのだと思うし、集団になることで個人で実現できない事もできるなど計り知れないメリットがあるのも事実。その意味ではナショナリズムという概念を発明したことは、近代社会のひとつの成果であるといっても良いかもしれない。しかしナショナリズムが県民性やお国自慢、学校自慢などと同じ水準で語られる限りにおいては問題は無いが、こんな不完全な国際社会において「民族」だとか「宗教」だとかの名を借りて極端な形で出てくるのはまずいと思うのだ。
 自分達の価値を守るための手段が、いつの間にか他の集団を排除する為の基準に利用される ――所詮「道具」のひとつに過ぎないナショナリズムが正統性を主張し始めるとしたら、そんな道具は無い方が幸せなのかもしれない。ジョン・レノンじゃないけど「国なんてない、そのために殺したり死んだりする必要なんてない」とか言いたくなってしまう。(ちょっと気恥ずかしいけど。) しかし「みんな同じ地球の生命体」という価値観を持つ人の中にも、捕鯨船に体当たりしてくるようなルール無視の輩もいるわけだし、結局のところ大事なのは多様性を認めるというか、自分の主張が唯一絶対的なものじゃないってことを常に自覚しておくことなのだと思う。誰だっけか、「君の言うことには全く賛同できないが、君がそれを主張できる環境は自分の命を賭けてでも全力で守る。」とか言った人がいたらしい。(それを言ったのが誰でどんな文脈だったのかは、すっかり忘れてしまったけど。)これっていちばん大事な事だ。正義を振りかざして相手を否定してかかるやつに昔からろくなヤツはいない。ブッシュとかね。(笑)

<追記>
 最後にちょっと感激したエピソードをひとつ。
 本書が初めて出版されたのは1987年で、今は無きリブロポートという出版社からだった。リブロポートといえばセゾングループの文化事業の中核をなしていた良心的な会社で、「儲けなくても良いから良い本を」というポリシーは今や伝説と化しているほど。事業としては書店部門のリブロとセットになっていて、ネオアカデミズムのブームを仕掛けた時の思い出などは、田口久美子『書店風雲録』(ちくま文庫)でも懐かしく紹介されている。
 ところで本書の出版社は「有限会社 書籍工房早山」という今まで聞いたことのない出版社。なぜこんな出版社(失礼)がナショナリズム研究の古典的名著といわれる本書を扱えたのかとても疑問だった。リブロポート版が絶版になってからは“増補版”がNTT出版から出されているが、本書は更にその後に出た“定本”(=決定版)である。初版あとがきも併録されているので何気なく読んでいたら、本書が初めて日本に紹介された経緯とともに「リブロポートの編集者・早山隆邦氏」に対する謝辞が書いてあった。あれっと思って本書の奥付をみてみると、出版者がズバリその「早山隆邦」ではないか。つまりはリブロポート時代に手掛けた「良い本」が絶版になったのを惜しみ、自分で出版社を興して再刊したというわけなのだろう。ベネディクト・アンダーソンの同僚でもあった訳者の白石隆・さや両氏と、早山氏の交流の様子が目に浮かぶようだ。
 昨今は出版不況と絡めて電子書籍化の話題が多く取り上げられるが、これこそ業界が死守すべき「出版文化」なのではなかろうか。本書がこれまで辿ってきた長い道のりを考えた時、(アンダースンの『想像の共同体』という著作だけでなく)この『定本 想像の共同体』という書籍自体が好ましいものに思えてきた。

『ミラーニューロンの発見』 マルコ・イアコボーニ ハヤカワ新書juice

 ミラーニューロンに関する研究解説書だが、原著が2008年に書かれたというから出来たてホヤホヤ。
「アフォーダンス理論」や「ソマティック・マーカー仮説」の登場によって、脳による認知~判断や意識発生の仕組みが、まるで精妙なドミノ倒し(またはバトンリレー)のようなものであることが徐々に判ってきたわけが、この「ミラーニューロン」はおそらく一つ一つのドミノの駒にあたる。「DNAが生物学の分野に果たしたのと同様の役割を、ミラーニューロンは心理学(神経科学)の分野で果たすだろう」と言う言葉が紹介されているが、本書を読むと全く持ってその通りだと思えてくる。

 中身はといえば、なるべく具体的な例を交えることで一般読者にも判りやすくした、ミラーニューロンの最新研究の紹介。具体的な例を挙げると、自閉症の直接原因が「ミラーニューロンの発達障害」にあると思われること並びに治療の可能性についての話とか、人間の「自意識」は「周囲の人の模倣」に始まって「他者への共感」の能力を獲得するところから生まれるらしいという話など。
 本書の前半には認知のメカニズムなど自然科学系の話題をオーソドックスにまとめてあるが、後半はちょっと驚き。なんとミラーニューロンによる模倣が個人のレベルでなく社会にも“直接的に”影響を与えているらしく、その根拠となる事例(仮説)について紹介されている。かなり大胆な仮説ではあるが、前半の内容を踏まえて読むと説得力がある。実はかなり恐ろしい話題も多い。タバコやギャンブルが止められない理由は、視覚的な刺激で(つまり他者がやっているのを見かけるだけで)反応してしまうミラーニューロンによるものらしい。また子供がテレビなどで暴力シーンを見たあとは、ミラーニューロンによって暴力シーンへの親和性が発生して、脳に長期的な影響が出る恐れがあるとのこと。ミラーニューロンは生きていく上で必要不可欠なものではあるが、それゆえの弊害もあるようだ。
 なお、少し前に「ニューロマーケティング(*)」なる言葉がマーケティング業界で取り上げられたが、その話の元ネタはどうやら本書らしい。ミラーニューロンの研究の一環としてアメリカで行われた実験があり、かなりセンセーショナルな結果だったので、ネタに困っていたマスコミが早速とびついたものと思われる。(ただし本書での取り上げ方はいたって真面目なもの。)

   *…未来の主流になるかもしれないマーケティング手法として取り上げられた。
     その内容は、コマーシャルを見ている時のニューロンの発火を調べることで、
     そのPR方法が本当に効果があるかどうかを調べるというもの。

 唐突だが、きっと脳科学におけるこれからのお薦めオモシロ分野は、海馬(記憶)とブローカー野(ミラーニューロン)に違いない。しばらくは追っかけてみても良いかも?

『薔薇の女』 笠井潔 創元推理文庫

 前に買ったのが家のどこかにあるんだけど、ブックオフで安売りを見かけたら読みたくなってつい買ってしまった。(笑) なんせこの「矢吹駆シリーズ」は第1作目の『バイバイ、エンジェル』が自分にとって“運命の出会い”の1冊であり、ミステリの中でもいちばん好きなシリーズだから仕方が無い。今までに何度読みかえしたことか。
 折角の機会なので、備忘録としてこのシリーズについて下記に整理しておきたい。読んでない人には何のことかさっぱり分からないだろうけれどご勘弁を。

■『作品名』 ――ミステリとしての設定・ネタ/とりあげられた思想ネタ
 ①『バイバイ、エンジェル』
   首無し死体/党派観念(自著『テロルの現象学』で分析されたテロ思想)
 ②『サマー・アポカリプス』
   ゴシック(古城)&見立て殺人/シモーヌ・ヴェイユ&キリスト系神秘思想
 ③『薔薇の女』
   バラバラ殺人(快楽殺人)/ジョルジュ・バタイユ&両性具有としての天使思想
 ④『哲学者の密室』
   密室殺人&ナチスの戦争犯罪/マルティン・ハイデッガー&エマニュエル・レヴィナス
 ⑤『オイディプス症候群』
   孤島と迷宮/ミシェル・フーコー&ルネ・ジラール
 ⑥『吸血鬼の精神分析』
   フロイト&ラカン、P・ジャネ&クリステヴァ(らしい)
                      …単行本になってないので未確認
 ⑦『煉獄の時』
   ?…連載中なので未確認

 うーん、こうやって並べてみると改めて見事なものだ。取り上げる思想もミステリとしての設定も1作ごとに全部変えていて読者を飽きさせない。全部で10作になるらしいので、これからどんな思想家が取り上げられるのかとても楽しみ。矢吹駆は果たして宿敵ニコライ・イリイチを倒すことができるのか? というシリーズ全体の仕掛けも気になるところ。

 ミステリ以外の過剰さを売り物とするものに所謂「アンチ・ミステリ」と呼ばれる一群の作品があるが(*)、どちらかというとそれらの作品では設定やトリックなどミステリとしての完成度は二の次にされている(気がする)。しかし矢吹駆シリーズにおいてはミステリとしても手を抜かずに一級品の出来に仕上げてある。凄いなあ。
このシリーズを自分がいちばん評価しているのは、ミステリの設定と取り上げられた思想とが有機的に絡み合って切り離せないところなのだけれど、その意味で総合的に優れているのはやはり『サマー・アポカリプス』と『哲学者の密室』の2作だろう。
 本書『薔薇の女』においては、犯罪自体とバタイユ思想が直接結びつく訳ではないので、その点はちょっと弱い。でも単純にミステリとして考えた時には出来はかなり高いと思うのだ。ジャン=クリストフ・グランジェによる傑作ミステリ『クリムゾン・リバー』を読んだ時の感じにも似た、猟奇的なミステリ独特のドキドキ感が病みつきになる。

   *…小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、夢野久作『ドグラ・マグラ』、
     中井英夫『虚無への供物』など。「アンチ・ミステリ3大奇書」とも、
     竹本健治『匣の中の失楽』を加えて4大奇書とも呼ばれてるらしい。

<追記>
 上述のアンチ・ミステリ4作品については、(どれもスゴイとは思うけど、)もう一度読めと言われると正直ちょっと辛いかも。(笑) そもそもが「アンチ○○」と呼ばれる作品は、どの分野でも同じようなものかもしれない。「アンチSF」として有名なB・W・オールディスの『世界Aの報告書』を読んだ時もキツかったものなあ。ディック『ヴァリス』の面白さだって、物語としてではなく、図らずもその枠からからあふれ出てしまった過剰な部分にこそあるわけだし…。
 その意味でも、笠井潔の矢吹駆シリーズが「過剰」且つ「面白い」というのは、とんでもないことだと思うのだ。(知る人ぞ知るディレーニィの大著『ダールグレン』が出版された暁には、果たして最後まで読み切れるのかとっても不安。ピンチョン『重力の虹』の時みたくなったりして。)
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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