2010年9月の読了本

『寝ながら学べる構造主義』 内田樹 文春新書
  *大人気の著者による、世界を席巻したフランス現代思想「構造主義」の、とっても判り
   やすい入門書。
『捜査』 スタニスワフ・レム ハヤカワ文庫
  *比較的初期に書かれた、ミステリの体裁をとるメタフィクションの試み。
『「もの」の詩学』 多木浩二 岩波現代文庫
  *①中世ヨーロッパの家具、②産業博覧会、③ルードヴィヒ2世による「まがいもの」
   としての城(ノイシュバンシュタイン城など)、④ヒトラーによるナチス総統都市&
   建築物構想という、4つのテーマを題材にした様々な「もの」の意味についての
   記号論的な考察。
『薔薇の女』 笠井潔 創元推理文庫
  *思想と推理を融合させたミステリの極北「矢吹駆シリーズ」の3作目。バタイユの
   エロティシズム思想を背景に、被害者をバラバラに切り刻む連続殺人と矢吹が対決する。
『定本 想像の共同体』 ベネディクト・アンダースン 書籍公房早山
  *現代の世界に蔓延する「ナショナリズム」というものが、どのように生まれて広がって
   いったかを明らかにした政治・社会学の名著。
『日本の朝ごはん』 向笠千恵子 新潮文庫
  *フードコーディネーターである著者が日本中の色んな朝食を食べ歩いたルポルタージュ。
『バリの魂、バリの夢』 大竹昭子 講談社文庫
  *独特の文化をもつインドネシアのバリ島に嵌まってしまった著者が、バリの社会や人々
   の生活について旅人の目線から語った紀行文。
『コインロッカー・ベイビーズ(上・下)』 村上龍 講談社文庫
  *村上龍の言わずと知れた初期代表作。我々が住む世界と少し違っている日本を舞台に
   したバイオレンス描写が刺激的。
『薄妃の夢』 仁木英之  新潮文庫
  *第18回の日本ファンタジーノベル大賞を受賞した『僕僕先生』の続編。古代中国を舞台
   に、少女の姿をした仙人の「僕僕」と、その弟子「王弁」が繰り広げる物語。何とも
   のんびりした感じは『しゃばけ』シリーズより好みかも。
『リンボウ先生 イギリスに帰る』 林望 文春文庫
  *『イギリスはおいしい』などで有名なリンボウ先生による久々の純粋なイギリス(だけ)
    を題材にしたエッセイ。
『ヴァリス』 P・K・ディック サンリオSF文庫
  *カルトSF作家ディック晩年の作にして最大の問題作。
『ミラーニューロンの発見』 マルコ・イアコボーニ ハヤカワ新書juice
  *脳神経科学者により、ミラーニューロンの最新研究について解説した本。ひょんなこと
   から発見されたミラーニューロンとは、分子生物学におけるDNAの発見にも匹敵する
   大発見らしい。「ソマティックマーカー仮説」の検証にもつながるかも。
『赤朽葉家の伝説』 桜庭一樹 創元推理文庫
  *推理作家協会賞を受賞した、著者の初期代表作。山陰の名家・赤朽葉家の女3代に亘る
   年代記。これを読んで、良くできた「全体小説」が自分の好みだということに気付いた。
   考えてみると『百年の孤独』も『リトル・ビッグ』も『ゴーメンガースト』も、全部
   「全体小説」だものなあ。特に赤朽葉毛毬が主人公の第2章が気に入った。89点くらいを
   付けてもいいかな。(笑)
『日本の鬼』 近藤喜博 講談社学術文庫
  *渡辺綱と羅城門の鬼を始めとして、様々な鬼の文化史や日本神話の神々などを分析した、
   民俗学の研究者による自説のデッサン。
『ここがウィネトカなら、きみはジュディ』 大森望/編 ハヤカワ文庫
  *時間をテーマにしたSF短篇の傑作選。最近は編者らの大活躍で数多くのアンソロジーが
   読めるので、「アンソロジー好き」としてはとても嬉しい。本書には全部で13篇の作品
   が収録されていてどれも面白い。5点満点で点数付けしたら平均点が4.15点という驚異的
   な数字になった。
   ちなみに(あくまで個人的な好みだが)5点を付けたのは以下の作品。
   「限りなき夏」クリストファー・プリースト
   「去りにし日々の光」ボブ・ショウ
   「旅人の憩い」ディビッド・I・マッスン
   「しばし天の祝福より遠ざかり……」ソムトウ・スチャリトクル
   「ここがウィネトカなら、きみはジュディ」F・M・バズビイ
   知ってる人には当たり前すぎる、ベタなセレクトですいません。(笑)
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『ヴァリス』 P・K・ディック サンリオSF文庫

 ディックの神学2部作の1冊であり、ディックのカルト作家としての地位を不動にした有名な問題作。小説としては完全に破たんしていて、物語の筋は有ってなきがごとしなので、普通にあらすじを紹介しても全く面白くないと思う。中で開陳されている膨大な神秘思想の知識を愉しむという読み方もあって、それはそれでとっても面白いのだが、おそらく読者を選ぶ。興味が無い人は苦痛以外の何物でもないだろう。
 なので、思い切って『ヴァリス』の世界観みたいなものを判りやすくする、見取り図みたいなものを考えてみた。

「生・老・病・死」すなわち生きる事がつらい時に、人は色んな方法を考えてきた。選択肢は大きく分けて3つある。 
(1)誰かが助けてくれるのにすがる ⇒例:神(超越者)への信仰
(2)自力で何とかしようと頑張る  ⇒例:仏教やニーチェの超人思想
(3)こんなものだと諦めてしまう  ⇒例:ニヒリズム(虚無思想)
この中で(2)(3)は本書では殆ど関係してこないので省略して、(1)について考える。(1)の方法を選んだ場合は、更に選択肢があって、神を a)「完全なる神」と考えるか b)「不完全な神」と考えるかで変わってくる。
 a)の「完全な神」を選ぶと、自分が不幸な理由は次の2つが考えられる。
  a-1) 何か理由があってわざと試練を与えている ⇒ユダヤ教のような選民思想
  a-2) 何か理由があって、害を与える存在を黙認している。⇒キリスト教

 b)を選んだ場合は次の2つ。
  b-1) 悪の行為に気付いてはいるが神の力不足により、悪から守りきれない
  b-2) 悪の行為を全ては認識しきれていない。気付いたら助けてくれる。

 本書『ヴァリス』でホースラヴァー・ファットが考えたことは、概ね b-2)の立場といえる。正確に言うと悪の行為をなすものは「創造の神」と名付けられていて、この世を作った張本人なのだが、不完全であるが故に悪をなしてしまう存在である。キリスト教で一般にイメージされるような「悪魔」ではなく、いわば「邪悪な神」であって、<帝国>などとも呼ばれている。それに対して善の側は「真の神」と呼ばれており、創造の神とは双子として生成されたという設定。このあたり、正統的なキリスト教の教えから大きく外れ、グノーシス主義とも共通するディック独自の異端思想が花開いている。このアイデアで面白いのは、この世は基本的に歪んでいて、そこに正しい世界を作ろうと善なる神が侵入しようとしていると考えている点だろう。(これが神学2作目の『聖なる侵入』へとつながる。)
 話をややこしくしているは、この設定自体を頭の狂ったファットが考えた妄想なのか真実なのか判らないようにぼかしてある事と、物語の語り手がファットの頭の中にいる「私」という存在(二重人格?)であって、彼はファットを完全な狂人として認識している点。その通りに読むと、本書は「自分の気がくるっていることを知っている狂人が、妄想と知りつつこの世の真実を探求する物語」ということになってしまう。(さっぱりわからん/笑)
 なおかつ主人公のホースラヴァー・ファットはディックの分身であって、前半でも幾つか思わせぶりに書かれているところはあったが、後半に至ってファットは遂に消滅し、ディック本人が主人公になる。したがって本書自体をディックの妄想として読むというメタフィクショナルな愉しみ方もできる訳だ。もしも夢野久作が自分自身を主人公にして『ドグラ・マグラ』を書いたとしたら、きっとこんな感じになったのではないだろうか。
 ディック本人が登場する後半からは、実は神は存在せず時空を超えた人間(?)しか存在しないだの、「VALIS(=神の如き能力をもつ人工物で“巨大にして能動的な生ける情報システム”の頭文字をとったもの)」を説明する2歳児の救世主(メシア)の登場だの、物語はますます混迷の度合いを深めていく。(と、ここまで書いて初めて気が付いたのだが、本書はもしかしたら「アンチSF」なのかな? そんなこと今まで全然考えたこともなかったが。)

 学生時代にリアルタイムで読んだ時は何だか訳わからなくてつまらん話だと(笑)思ったものだが、今回読み返したところ、(面白いかどうかは別として/笑)ちょっと印象が変わった。“神学を題材にしたヴォネガット”みたいな感じがしたのだが何故だろうか。自分で自分のことを突き放して描写しているところなんか、ちょっと諦観も混じったりしてユーモアさえ感じてしまったのだ。
 年取って人生経験を積んだ分、人に対して前よりも優しくなれたということかなあ?(笑)
 なお自分が読んだサンリオ文庫版は現在は絶版だが、表紙イラストまで同じで創元SF文庫から復刊されているので興味がある人はどうぞ。

『寝ながら学べる構造主義』 内田樹 文春新書

 無事に「内田デビュー」を果たしてからの2冊目。他にお薦めされた本もいくつかあるんだけど、取り敢えず著者のバックボーンがどんな感じか知りたくて、今回は「構造主義」の解説本を選んでみた。結果は大正解。『街場のメディア論』を読んだ時にモヤモヤしていた、著者が拠りどころにする考えについて、ある程度はっきりした気がする。
 最近のベストセラー群で内田樹がしているのは、世の中の色んな物事を対象に自分なりの流儀で「料理」することだが、それらの”食材“を切るための道具(の少なくともひとつ)に、「構造主義」を始めとするフランス現代思想を使っているというのが分かった。プロフィールを見ても「フランス現代思想」と書いてあるだけで詳しい専攻は書いていないけれど、少なくとも本書でとりあげているソシュール、フーコー、バルト、ラカン、レヴィ=ストロースはしっかり読み込まれている。(ドゥルーズやデリダなどの「ポスト構造主義」なんかはどうなんだろう? 判りやすさが身上の人だから、読みにくい「ポスト構造主義」は、たとえ読んでいたとしても好きじゃないかも知れない。またサルトルの実存主義なんかはどうなんだろうね。)

 「構造主義」というのは、現代思想の重要な山脈のひとつでありながら、難しい単語や言い回しが災いしてとっつきにくい概念でという印象がある。本書はその概念について「寝ながら」でも判るくらい平易に紹介しようというもの。著者が自慢するとおり、今まで読んだ現代思想の入門書の中では一番読み易かった。もっとも、哲学・思想に興味が無い人にはこれでも充分に読みにくいとは思うが。(笑)
 本書の最初は「構造主義」自体の概要説明に充てられていて、「構造主義」と呼ばれる思想に共通する特徴だとか、ソシュールに始まる成立の歴史なんかも説明されている。しかし何といっても詳しく取り上げられているのは「構造主義の四天王」こと、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、クロード・レヴィ=ストロース、ジャック・ラカンの4人について。この中で曲がりなりにも著作をまともに読んだことがあるのはレヴィ=ストロースくらいなもので、フーコーとラカンに関しては解説本を読んでいるだけ。バルトに至っては『表徴の帝国』1冊読んだきりでどんな人かも良く知らなかった。(面白かったけど。) 今までこの4人が「構造主義」という言葉で一括りにできることすら知らなかったのだから、いい加減なもんだ。(笑)
 フーコーやレヴィ=ストロースなどある程度は理解できている(と自分では思っている)思想家への記述から判断するに、内田サンは少なくとも構造主義に関しては完全に自家薬籠中のものにしてしまっているようだ。なので残りの2人についても内容は信用できそうだと判断、じっくり腰を据えて読むことにした。その結果、前に解説書を読んだ時良く分からなかったラカンについては、今回もやっぱり難しかったので、もともと解かりにくいんだということで納得。バルトについては手を付けあぐねていたのだけれど、「記号論を用いて世の中のありとあらゆることについて分析を加えた人」ということが判った。そのうち『エクリチュールの零度』でも読んでみよう。

 しかし本書のいちばんの収穫は、『街場のメディア論』(光文社新書)において、マスコミの無責任な言説を批判するくだりの元ネタが、多分ロラン・バルトだということが分かったことだろう。著者はバルトの功績として、独立した社会的集団においては個々の集団に固有な「エクリチュール(*)」が存在することを示した点を挙げている。さらにバルトはどの集団の「エクリチュール」とも特定しがたくなった語法が存在することを、「無徴候的なことばづかい」「覇権を握った言説」「客観的なことばづかい」という彼独特の言い回しを用いて指摘した。内田によれば、バルトはこの語法が「いちばん危険」と主張しているそうだが、これってそのまま『街場のメディア論』で内田が批判したマスコミの態度(=「国民は」とかいって自らの隠れ蓑にしつつ、安全な位置から糾弾する態度)に等しくはないだろうか?

   *…もとの意味は「文字」とか「書かれたモノ」という意味だが、思想用語としては
     人によって定義が違うし、J・デリダが話をむっちゃくちゃ難しくしてしまった。
     ひとことでは説明できないので説明は省略。お気らく読書人としては、何か知らんが
     そんな概念があるってくらいに考えておけばOK。

<追記>
 料理で喩えるなら、本書は色んな事象を切るための「道具」としての思想を紹介しているので、「素人向けのレシピ本」にあたるといえる。最初のうちは「こうすれば美味しい料理が作れるよ」といっていた著者は、やがてそれだけでは我慢できずに、とうとう自分で厨房にたって料理の腕をふるいたくなった。それが今の内田のベストセラー群なんじゃないかな? あとがきを読む限りでは、まだ本人は「素人料理ですから」といって謙遜しているようだが。
 ただ、いくら本人が自分で素人だと思っていても、自宅で振る舞う(=ブログ公開)だけでなく、金をとった(=書籍を出版した)時点で既に「プロ」であるはず。とすれば、そろそろ「プロ」としての腕前を存分に振るった仕事を見せてもらいたい気もする。それともガッツリ系は、もう既にハードカバーとかで出ているのかな?

<その後の追記>
 後日ふと立ち寄った本屋で「タツル・ペーパー」なる小冊子が置いてあるのを見つけた。内田樹の本を出版する担当編集者と書店員が共同で作成した紹介誌だ。さっそくもらってきて著作リストを確認したところ、内田樹の専門がエマニュエル・レヴィナスであることが判明! よりにもよってあんな難しい人を専門にしていたとは。レヴィナスが好きなのであれば、ハイデガーやサルトルあたりはむしろ天敵かもしれない。(笑) 大人になってから本格的に始めた合気道が、武道や身体論に関する著作のもとになっていることなど、「タツル・ペーパー」では他にも色々と疑問が氷解。専門分野も分かったことだし、今後は時間をかけてゆっくりと攻めていこうかな。

『コインロッカー・ベイビーズ(上・下)』 村上龍 講談社文庫

 このところ少し「小説づいて」いる。こういうときは無理に学術書に手を伸ばしたりしない。そのうち飽きてくればまた違う分野のものを読みたくなるから、それまでは流れに任せて好きな物語を片っ端から読んでいくに限る。
 というわけで、村上龍に前から興味はあったのだが何となく手付かずでいたので、今回が丁度いい機会とばかりに初めて読んでみた。最初に読むならコレと決めていたのは本書『コインロッカー・ベイビーズ』。

 読んでみての第一印象は、小説なのに会話が少なくて“地”の文が多いということ。ページ内には余白が少なく、びっしりと埋まっている感じ。最近の小説は会話が多くてページの下に余白が目立つので、こういうのはいい意味で「読みごたえ」がある。ストーリーについては今さらあれこれ書かないが、印象を他の作家・作品で喩えると国内作家なら舞城王太郎(『煙か土か食い物』『暗闇の中で子供』など)や花村萬月(『ゲルマニウムの夜』など)、海外ならハーラン・エリスン(「少年と犬」など)あたりに近いかな? 過剰なまでのバイオレンス描写は、つい先日、映画館の大スクリーンでリバイバル上映を見た『ゴッドファーザー』とか北野タケシの諸作品(みてないけど/笑)にも通じる気も。1980年の出版ということだが、当時リアルタイムで読んでいたら、きっとかなりショックを受けただろうなあ。ある種の“毒”を持った小説に、まだそれほど免疫を持ってなかった頃だから。
 日常生活とは別の“リアルな世界”を垣間見るという点では、いとうせいこうの『ノーライフキング』や高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』『ジョン・レノン対火星人』などの作品にも近い感じもする。(あんまり深くは比較していない直感だけど。)
なにしろ出てくる登場人物がだれひとりまともな精神状態じゃないというのが凄い。 本書を読んでいる間中、筋肉少女帯の大槻ケンジの声で『これでいいのだ』とか『詩人オウムの世界』、『ペテン師、新月の夜に死す!』なんかが頭の中に鳴り響いていたぞ。(笑)

<追記>
 今回は新装版ではなくあえて旧版を探してきて読んだ。理由は表紙に使われている画家・小山佐敏の絵が前から好きだったから。実はこの絵、1979年のシェル美術館賞の展示会で実物を一目見たときから気に入っていたんだよね。そしたら暫くして村上龍の新刊の表紙として本屋に並んだという訳。無数の小さなビル群が大きなキャンパス一杯に描かれるその画風は、本書のイメージにぴったり。何で新装版では替えてしまったんだろう?

『日本の朝ごはん』 向笠千恵子 新潮文庫

 北は北海道・富良野の酪農家の朝食から、南はかの有名な沖縄第1ホテルの朝食まで、様々な日本の朝ごはんの様子を食べ歩いたルポルタージュの本。(狙いは、いわゆる「正しい日本の朝食」をベンチマークするという感じ。)
 著者の肩書をみると「フードコーディネーター、エッセイスト、食文化研究家」となっていて、結構真剣に日本の食文化について考えている人。食に関する著作も数多い。
 おいしそうな朝食の様子と、それを食べる人々の生活を活写してあって内容も面白かったが、もしもそうでなかったとしても、次の一文が読めただけでも結構な収穫だと思う。

 「朝食をたずね歩いた末、都会の朝食充実派はどの人も奥底にアウトドア指向を秘めていることに気付いた。一方、各地の田舎で朝食をたっぷりとっている方々は誰もが自然界と協調した暮らしをしている。(中略)おおざっぱには、朝食への親近度は、自然との距離によるといってよいだろう。」

 もうひとつ、こんなのも。

 「朝ごはん上手の方たちは、すべて前向き指向であった。いい人生を送っているからすばらしい朝食をとれるのか、朝ごはんがいいからうらやましい人生なのか、いまだにわからないけれど、よりよき人生には完璧な朝ごはんが必須である。」

 なんか、仕事にも私生活にも活かせるヒントをもらった気がする。自然が少ない都会に住んでいても、充実した人生を送るために出来ることは何かありそう。

『デカルトの誤り』 アントニオ・R・ダマジオ ちくま学芸文庫

 元は2000年に講談社から『生存する脳』という題名で出版された本。今回、原著どおりの題名になって復刊されたようだが、前よりも今の名前の方が良いと思う。(副題は「情動、理性、人間の脳」という。)中身がどんなものかと言うと、「心と脳」や「心と身体」の関係についての新しい仮説の内容と、その仮説に至るまでの経緯が詳細に述べられている。ちなみにそれらは、事故により脳を損傷した患者の記録を分析することで得られたものである。
 もっとも、先ほど題名を褒めはしたが、最初にこの本のことを知った時は『方法序説』か何かをネタにした哲学・思想系の本だとおもって、正直なところ食指が動かなかった。「いまさらデカルトねえ…」という感じ。でも内容を知って本屋に買いに走る時には逆に「なんてオシャレな題名!」と思ったのだから、なんていい加減な。(笑)
 ところで本書で指摘された「誤り」とは一体何のことか? 本の中では何故かだいぶ後ろの方になってやっと説明されるのだが、もったいぶらずに先に言ってしまおう。それは「心身二元論(*)」のことである。

   *…人間の「自意識」を「肉体」とは別のものと定義づけた考え方。脳というハード
     ウェア上で走る意識というソフトウェアといった概念や、身体をコントーロルする
     中央制御装置として脳を位置づける考え方は、全てこの「心身二元論」の範疇に
     含まれる。

 心と脳は分離していない。脳というハードウェアの上で心というソフトウェアが走っている訳ではない。それどころか心の働きは、身体性と切り離して考えることは出来ないひと続きのものである。 ――デカルト以来西洋で認識論の礎となってきた「心身二元論」、つまり身体と切り離された司令塔である「私」というものが存在するとした前提は、全くの誤りである! という著者ダマシオの強い思いが込められているのが、つまりこの『デカルトの誤り』という題名ということ。

 著者の仮説が生み出されるに至った事故というのは、火薬による爆破作業の失敗によって鉄パイプが左頬から頭頂に向けて突き抜けるという悲惨なものだった。被害者の前頭葉の多くは失われてしまったが、生命維持を司る脳の部位は幸いにも無事だったので、奇跡的に命だけは取り留めることが出来た。しかしキズが治ったあと本人の人格は一変してしまい、まともな社会生活は送れなくなった。この事例を詳細に分析していくことで、著者は新しい知見(「ソマティックマーカー仮説」というもの)に至ることになる。

 事故や腫瘍によって脳の両半球の前頭前野(特に「腹内側部」と呼ばれる右脳と左脳の間の溝の内側)に損傷が加えられると、推論と意思決定のプロセスや情動/感情の関係に障害が起こるらしい。その結果どうなるかというと、感情の起伏が平たんになって計画性が全く失われてしまい、周囲とのコミュニケーションや買い物に行くなどの日常生活にも支障がでてしまう。(この症状は先程の事例だけでなく、その他の事例によっても検証されている事実とのこと。)
 感情面以外の知的な活動、すなわち記憶/言語/運動能力/知力などには全く低下が見られず、医師による様々なテストをしてもいたって正常。しかし周囲の人間に対して思慮を欠いて場所をわきまえない下品な発言を繰り返したり、行き当たりばったりの無計画な行動で何度も同じような失敗を繰り返すため、まともな生活はおくれない。これが前頭前野を失った人間に共通する症状らしい。
 これらの症状について詳しく説明された後は、その原因分析からの推測によって著者らが仮説を生み出した経緯や、それを検証していく過程が細かく示される。ただそのくだりはちょっと冗長なので一気に飛ばして、最終的な結論だけを以下にまとめてみる。著者によれば、外部環境に合わせてその都度、人間(動物)が知的判断を下すのはおおよそ次のような手順によるのだという。

 ステップ1:外からの刺激が体表や目・耳・鼻などの知覚器官からの情報として脳に送ら
       れる。(例=初めての道を歩いていたら大きな犬がいるのが見えた)
       注)身体の感覚器官は結構インテリジェントであって、様々な情報はある
         程度は先に整理/取捨選択された上で脳に送られる。
 ステップ2:脳はそれらの情報に基づいて①感情の想起(例=犬は怖い)、②判断(例=
       犬から離れた方が良い)、③更に高度な判断(例=道の反対側は工事で通れ
       ないので引き返す)などを行う。
 ステップ3:脳による新たな情報が身体にフィードバックされる。(例=怖さを感じて血圧
       が上がり、呼吸が激しくなる) 身体はこの状態を維持することで、脳が外的
       要因(例=あの道には犬がいる)に対してその人の“内的イメージ”を作り
       あげることを促す。それによって、ある特定の外部状況と感情がセットで記憶
       されることになる。これが「ソマティックマーカー」すなわち「身体的なマー
       キング機構」とでもいうべきダマシオの発見である。
 ステップ4:次に同じような環境に出くわした時には(例=同じ道を通る)、脳と身体が
       互いに以前の記憶をフィードバックし合うことで、血圧や呼吸が上がったり、
       ある種の感情(例=あの道は通りたくない)が瞬時に起こって考慮すべき行動
       の選択肢を大幅に減らせ、その結果、絞り込まれた数の問題について合理的な
       判断を脳が下すことが出来る。

 補足:上記の“内的イメージ”が役立っているのは過去の記憶の想起だけではない。
    誰しも未来の活動計画を立てるには頭の中で「ある行動をしている自分の姿を仮想/
    イメージ」しているはずだ。脳の活動においてこれらのイメージ化は、過去の記憶を
    頭の中で反芻している状態と変わりがない。何故ならどちらもリアルタイムで感覚器
    から入力されている信号ではなく、脳が自ら作り出した“内的イメージ”であるから。
    したがって日常生活における行動の計画とは、「未来の記憶」を作ることに他ならない
    のだ。(この指摘にはちょっとびっくりしたが、言われてみれば納得。)
    情動/感情は普通に考えられているように、ヒトが野生動物だったころの原始的な精神
    活動の名残りというわけではない。推論/判断のプロセスを必ずしも疎外するばかりで
    なく、むしろ推論のプロセスを助けている大切な仕組みのひとつだといえる。情動は
    理性のループの中にあるのだ。

 以上がダマシオの提唱した「ソマティックマーカー仮説」の概念。 ――この仮説って正直すごいと思う。
 情動とは脳を陰からそっと支えるコンシェルジュか、またはパソコンでいちいちURLを打ち込まなくても済むショートカットのようなものとでも考えるとしっくりくるかな?
 情動/感情がすごいのはそれだけじゃない。情動が理性と一緒になることで未来のイメージと明るさが重なり、“夢”や“希望”をもって計画的にとりくむことができる。未来の自分の姿をシミュレーションすることで、行動を起こす際に配慮しなければいけないポイントが予測できて高度な予測が出来る。また実際に行動するときも、不快や恐怖などの感情によって、いちいち理性で判断しなくても瞬時に最悪の選択を逃れることができるなど良いことがいっぱい。うーん、たしかに。

 考えてみればわかるが、実生活では推論を行うためのパラメーターが大量&不確定すぎて、理性だけで判断できることなんて殆どない。(極めて抽象的な「世界平和」とか「自分にとって人生とは」なんてことを考える程度ならまだしも。)
 たとえば会社の帰りにケーキを買うとする。その時ショーケースに並ぶ全てのケーキについて、経済学でいうところの「費用便益分析」を行って、支払い金額と購入効果を考える訳ではない。(当然、店に並ぶ全部のケーキの味を知ってるわけじゃないので効果なんか判断できないしね。)
 子供が好きなケーキを買って帰った時に、子供が喜ぶ様子を想像して選ぶだけのこと。これに限らずデカルトやカントが言うところの「純粋な理性」による判断をいちいち仰いでいては、日常生活もままならない。

 以上が「ソマティックマーカー仮説」の概要であるが、著者はさらに本書の最後で、「自己」という認識(=セルフイメージ)が、身体性を基盤にしてどのように生まれてくるかについて、この仮説に基づいて考察を加えている。
 デカルトが生きた16~17世紀ごろは、まだ哲学と自然科学や錬金術が未分化だった時代。当時の哲学は“真理(=世界の本当の姿)”を知るための学問だった。その意味では「我思うゆえに我あり」という心身二元論は正しいか正しくないかといえば確かに「正しく」はないだろう。今の哲学は「正しいかどうか」を決めるのではなくて、「納得できるかどうか」という基準で過去よりも良い生き方を追求するための手段となっている。とすれば心身二元論も数学における虚数のように、「仮定することでうまくいく概念」としてならまだまだ有効だろうと思う。(もっともデカルトのモデルそのままではなくて、そこから発展した現象学や実存主義などの形ではあろうが。)

 自分が考える限りにおいて本書の主張に隙はない。自然科学としての確からしさについては、おそらく間違いないだろう。ただ、この仮説の真価を判断するにはまだ早い気がする。この考えを哲学の領域まで昇華し得たときに、果たしてどんな新しい価値観や世界の展望が描かれるか? 判断はそれからでも遅くはない。たとえば、可愛がっていたペットが死んで悲しんでいる人に、生命活動の仕組みを説いて何になろう。生き物は寿命が来れば死ぬということは言われなくても判っているのだ。同様に、生きることの苦しさから逃れる為に心身二元論を唱えている人に対して、「それは科学的に違っている」と言っても仕方が無い。だからこそ、この新しい仮説を追求することで見えてくる「心」の在り様こそが、心身二元論を超える新しい哲学としての真価になると思うのだ。それが見えてくるその時まで、最終的な判断は保留としておきたい。
 (お気楽読書人の自分にはとてもじゃないがそんな難しいことを考えるだけの頭もないので、誰かが考えてくれるのを待つしかないけど。/笑)

<追記>
 本書の内容はとっても刺激的で愉しかったのだが、唯一の欠点は読みにくいこと。もともとの文章が悪文なのか、それとも翻訳が悪いのか分からないが、文章の意味が読み取りにくいこと甚だしい。(笑)
 もしも山形浩生あたりが訳を手掛けたなら、この回りくどい文章をどう料理しただろう? もっと読みやすくなっていたかなあ?

『街場のメディア論』  内田樹 光文社新書

 とうとう遂に「内田樹デビュー」をしてしまった。大量に出ているので「もしも面白かったらどうしよう、財布がもたないかも(笑)」と手を出さずに居たが、ある人から薦められてとうとう手をつけてしまった。
 その結果 ―やっぱり面白かった。ただ、全部の著作を続けて買い揃えるところまでは行かずに済みそうなので、少しホッとした。(その理由は後ほど。)
 内田樹の面白さがどこからくるのか自分なりにつらつら考えたことを、ちょっと書き留めておきたい。

 誰だったかナ?内田樹を「おじさん的」と評した人がいた。その意味は、極めて真っ当な意見をてらいなく表明できるところで、そんなところが好感をもって受け入れられているのだという。本書を読んでたしかに納得がいった。あたまの中で漠然と感じていたモヤモヤを言葉にしてくれるので、読んでいて「うん、そうそう」という爽快感がある。
 惜しむらくは、(本書に限ってかもしれないが)「えっそうだったのか!」という驚きをそれ程は感じなかった点。理由はおそらくはっきりしていて、本書のもとになったのが大学2年生の「娘っこたち(失礼!)」に向けた講義録だから。彼女らにもよくわかるように噛み砕いて説明しているせいか、分りやすさは抜群で内容が頭の中にスーッと入ってくる。
 でも、個人的にはもっと読みづらくて良いから、この人が「本気」を出した本をじっくり腰を据えて読んでみたい ―なんて、(ちょっと意地悪く)考えたりして。(笑)

 内容にも一応触れておこう。
 本書は前半がテレビや新聞といったマスコミが何故これ程までに凋落してしまったかの考察で、後半が出版不況と言われて久しい出版業界についての考察。いずれも話の切り口が面白い。

 まず前半のマスコミについてだが、語り口調なので言っていることはわかりやすいが、論調は結構辛辣。(マスコミ志望の学生を対象にしたゼミだから、今のうちに甘い考えを捨てさせようというオヤゴコロか?)
 内田は凋落の原因については、一言で言えば「信用してもらえなくなったから」と捉えているようだ。ではなぜマスコミの発言が信用されなくなってしまったかというと、基本的には自業自得。
 報道とは事実をある視点で切り取って周知する行動であるため、(いみじくもフーコーが述べているように、)そこにはある種の「押し付け(=権力)」が発生せざるをえないはず。“偏向報道”という表現もあるが、もとより“報道”とは程度の差はあれ偏向しているものなのだ。したがってマスコミに出来ることは、視点をいかに“中立”に近づけるか、もしくは自分の立ち位置を表明したうえで意見を述べるかのどちらかの選択しかない。(でも、この“中立”というのが曲者で、絶対的な基準など存在しないため極論を言えば多数決や平均値をとるしか方法はない。)報道に携わるものの務めとして、せめてそのことを常に自戒しておくべきだろう。
 しかるに今のマスコミはどうか? 内田の意見は手厳しい。
 マスコミがしていることといえば「世論」や「国民の声」という表現で社会的に強い立場である(と彼らが考えている)ものを一方的に糾弾し、ヒステリックに「王様は裸だ!」と叫び続けるだけ。でもそこに述べられている「国民」という存在の実態は、果たしてどこにあるというのか? 何かというとすぐに錦の御旗のように「国民」という言葉を引っ張り出すが、その実、単に都合のいい隠れ蓑として利用しているに過ぎないのではないか? というのがその主旨。

 この内田の話を読んで頭に浮かんだのは、連合赤軍など昔の過激派の記憶だった。彼らもすぐ「人民の為の革命」とか「ブルジョアに支配された社会を人民の手に」とか言ってたけど、そこで述べられている「人民」とは、彼らの肥大した頭の中にしか存在しない架空の存在、つまり「観念」でしかなかった。(ここいら辺の話は笠井潔の『テロルの現象学』に詳しい。)それが行き着く先は、カンボジアのポル・ポト政権の事例を持ちだすまでもなく(*)、「民主主義」とか「人民共和国」という言葉を名前につけているどこかの国が、自国内で何をしているか見ればすぐわかる。

   *…当時は小学生だったので良く知らなかったが、その後、映画館で
     『キリング・フィールド』という映画を見てびっくり。
     (キリング・フィールド=殺戮地帯という意味ね。)

 話を戻そう。もしも「権力」を行使しようとするなら、その人の立ち位置が明確でなければいけない。自分の考えを他の人に表明して説得したいのなら、せめて本人の立場を明確にすべきだろう。だってその人の意見が「正しい」なんて誰にもわからないのだから。
 正義や倫理というものの扱いが厄介なのは、そもそも人によって基準が違うものだという点。「正しさ」なんて国や文化、時代によっていくらでも変わる相対的なものでしかないんだよね。極端な話、人を殺すのがいけないというのも現代だから言えることであって、古代社会では悪いことではなかった。(だから人を殺しても構わないと言っている訳ではない。/笑)
 だからこそ「国民」とか「世論」なんていう言葉を安易に使って、匿名で自分の「正義」を押し付ける今のマスコミはおかしいと内田は述べている。マスコミが凋落したのは、その論調がおかしいことに皆が少しずつ気付き始めたからなのだ。ネットで色んな意見が飛び交う世の中なのに、他の声には耳も貸さず「これが国民の考えだ!」と声だかに主張しても、実は単なる“おためごかし”に過ぎない。 ――これすなわち「王様は裸だ」と言った自分達こそが裸だったと言うことに他ならない。

 以上が本書前半についての話。小難しくなってしまったが、うってかわって後半は自分の好きな「本」を巡る話にうつる。

 「本が売れなくなった」とか「ベストセラーが出なくなった」とか出版業界の不況が言われて久しいが、(ビジネスとしてはともかく)「本」自体はまだまだ捨てたもんじゃないよ、というのが本書における内田の大まかな意見。前半に書かれたマスコミへの厳しい論調とは違って、行間に何となく優しさみたいなものが感じられるのは、きっと本に対する著者の強い愛着があるからだろう。
 旬の話題である電子書籍についても述べられているが、この件について「本棚論」から切り込んだのは初めてで面白かった。内田によれば、世の中には「今、読みたい本」「当面読まないが、いつか読むべき本」「読んでいると思われたい本」の3種類が存在するのだとか。(もっともこの内田の意見については異論がある。本を勉強の為の手段としか見ていないのは、「全ての読書は愉しみの為」という”活字快楽原理主義者”を標榜している自分としては納得がいかない。)
 また、「積ん読」が目のコヤシだという主張については大いに納得。ただし著者の言うように無言のプレッシャーにはならず、自分にとっては「まだこんなに読むモノがある」という嬉しさだけど。(まあ、こういう人間も世の中には居るんだということ。/笑)

 出版を書き手から読者への「贈与」という切り口で語ったのも面白かった。出版をビジネス(もしくは文化)という”事業”として論じたものはよく見るが、書き手の視点で述べたものを読むのは初めだった。(ちなみに読み手の立場からの意見もあまり見かけたことは無いが、それについては自分なりの意見を、『電子書籍について』という題名で以前ブログ内にまとめてみた。)

 ところで先程「全部の著作を続けて買い揃えるところまでは行かずに済みそう」と書いたが、そろそろその訳を明かそう。実は本書があまりにもサクサク読めてしまった為だ。分かりやすさを身上とする著者なだけに、内田樹には新書や文庫でのベストセラーがとても多い。本書も書いてある内容こそ真面目なテーマであって、著者の考察の基になっている知識も(おそらく)かなりしっかりしたものだと推測されるが、書きっぷりは言いたいことをかなり抑えている感じがして、まるでダイジェスト版という雰囲気さえ感じられる部分もある。念のために別の著作も本屋で何冊か手にとってページ数をみてみたところ、(いつものペースで読んでしまうと)1冊あたり2時間程度で読めてしまう計算になることが分かった。つまり自分にとっては大変にコストパフォーマンスが悪いので、そんなに立て続けには読めないということ。(笑)
 これからはきっと、ボチボチと読んでいくことになるんだと思う。なんにせよ、読みたい人が一人増えたというのはめでたい事だ。

『文豪怪談傑作選・幸田露伴集』 東雅夫/編 ちくま文庫

 文豪・幸田露伴の幻想系のフィクションとエッセイ(だけ!)を一冊にまとめた、自分にとっては理想的な傑作選。「怪談」と書いてあるがこれは本叢書についたシリーズ名であって、本書に限って言えば怪談といえるのはごく僅か。若干の怪異はでるが殆どは幻想譚と言った方が良いくらいのもの。
 でも、前からこういう本がでるのを待っていたんだよね。何で出ないのだろうと思っていたら、解説で編者による理由(言い訳?)が述べられていた。それによれば、露伴があまりにも博識なので注釈をつけないと分からない単語が多くて、今まで手が付けられなかったそうだ。確かに本書をみると、どの作品にも懇切丁寧な注釈がついているのでとても良く理解できる。もっとも全部が理解できなくても、字面だけ追って雰囲気で読んでしまってもそんなに支障はないんだけど。(笑)

 話は少し飛ぶ。本書を読んでいて幸田露伴と泉鏡花の違いについて感じた事を、忘れないうちに書いておこう。
 露伴と鏡花、どっちも好きだけど傾向は少し違っている。それは何かというと、露伴が「理」で鏡花は「情」ということ。怪談は「出るか出ないか」というあたりが一番ドキドキして面白いのだけれど、鏡花の場合には「そういう世界」は実在するのが前提であり、怪異のポイントは「いつ出るか」という点につきる。それに対して露伴の場合は「理性では信じがたいが、実際にはあるかも知れず無いかも知れず…。」という、鏡花の一歩手前の不安な心理状態でふらつかせることで恐怖を煽っている。このような書き方だと実際に怪異が起こってしまえば話はおしまいな訳で、初期の作品「対髑髏」などでは最後がとってつけたような終わり方になっているのも致し方ないといえる。しかし円熟味を増した「幻談」などでは最後まで「出るかも知れず」をうまく引っ張っていて何とも言えない余韻を残す仕上がりになっていて、とても上手い。

 でもいくら上手くても、きっと一部の物好きな好事家が買うくらいで売れないんだろうなあ。(笑) そのあたりは筑摩書房もよく承知していて出版部数が少ないらしく、近くの本屋に配本されてないので買うのもひと苦労だったし。

『ピエール・リヴィエール』 ミシェル・フーコー編著 河出文庫

 一般に良く知られているように、フランスの思想家M・フーコーが生涯をかけて追究したテーマは、「権力」が生まれ、維持・強化されていくそのメカニズムだった。そこにはおそらく、現代社会を分析しても我々の目は憶断で曇らされていて正しい洞察を得ることが不可能、という認識があったにちがいない。(フーコーに限らず、レヴィ=ストロースやバルトなどに代表される「構造主義」自体がもともと、固定化された従来の物の見方を否定するのが目的だったという話もあるけど。)
 現代社会を直接的に分析することが出来ないなら、どうすれば良いのか? そのためにフーコーがとった戦術は、「過去の社会を今の視点で分析する」ということだった。それは、鋭敏な嗅覚をもってあらゆることに疑いの目を向け、当時は当たり前と思われていた事実の中に今の視点から見ていびつな部分、矛盾や軋轢を見出すということ。そしてその結果を現在に敷衍することで(今の我々の目から隠されてしまっている)権力の仕組みを明らかにしようとする試みであり、それがかの有名な「知のアルケオロジー(歴史学)」である。 ― ということで多分良かったと思うけど…。(笑) なんせ今までフーコーについては著作そのものではなく、解説書しか読んでないもんで。

 ところで前述の「権力」という言葉には、すでに色々と余剰なイメージがまとわりついているので、ちょっと補足が必要だろう。フーコーが追い求めていた「権力」は何かというと、要するに「自分の周囲に対して何かを強制できる権利(=強制力)をもつモノ」のこと。「権力」といっても必ずしも国家権力のようなものばかりではなく、学校や病院、職場や家庭の中など、制度や階級・順列が生じる場所にはあらゆるところに「権力」は発生するし、特定個人に起因するだけでなく社会的な制度そのものに「権力」を発生させる要因があるといえる。それを初めて明らかにしたのがフーコーの偉いところだ。

 と、前ふりはこれくらいにして、本題に移ろう。
本書はフーコーの主要な著作としてはおそらく初めて文庫になったと思われる。(大体がフーコーの本って高すぎるんだよねえ。選書や新書で出てる解説書を色々買って読むくらいで、『監獄の誕生』や『狂気の歴史』といった主要著作は(面白そうなんだけど)まだ一冊も買えてない。本書でちょっとだけ溜飲を下げる事が出来てよかった。)
 なお正確にいうと、本書はフーコーが単独で執筆した本ではなく、彼がコレージュ・ド・フランスで10名ほどと開いたゼミナールで実施された、共同研究の報告書である。(参加者が少数精鋭だけに、本書を書いている人は誰も彼もムチャクチャ頭が良い。/笑)

 さて、そんな彼らが着目した案件は何かというと、19世紀のフランス農村部でおこった殺人事件だった。ピエール・リヴィエールという青年が自らの手で、実の母親と妹、それに幼い弟の3人を鉈で惨殺したという痛ましい事件であり、それに関する古い公文書(公判記録)や新聞記事を題材として当時の権力構造を読み解いている。
 とりあえず、事件に関する事実関係について以下に列記していこう。

  ■ある青年が自分の母親と妹、弟を鉈で殺害した。(様子が目撃されているので罪状は
   間違いない。)
  ■本人は殺害後に「父親を救うためだった」と言い残して、悠然と現場を立ち去った。
   (逃げる様子は無かったが、その後行方不明になり、最終的に捕まったのは1カ月以上
   経ってからだった。)
  ■警察の捜査による聞き取りで、青年が子供の頃から起こしていた奇矯な振る舞いが
   分かってきた。近所の人には以前から「白痴」「魯鈍」と思われていたらしい。
   (これによって、精神異常者による突発的な犯行の疑いが強まる。)
  ■やがて犯人が逮捕されるが、その時の様子も「少しおかしい人」のような感じだった。
  ■本人の申し出により「手記」が書かれることに。やがて「手記」は完成したが、それを
   読んだ者はみな驚愕した。そこにはどう見ても正常、いや普通の人よりもよほど聡明な
   人物の心情の吐露が書かれていた。
  ■当時、肉親殺しは王殺しにも匹敵する重罪とされていて、一般的には「死刑」が求刑
   されることになっていた。しかし原因が精神異常の場合は「無罪」になることもある。
   はたしてピエールの精神は正常なのか異常なのか? 関係者の判断は揺れ動く…。

 とまあ、大雑把な流れは以上のような感じ。では何故、ゼミナールでは殺人事件の記録を研究対象としてとりあげたのだろうか? その理由は2つある。ひとつは公式書類が豊富に残っているので分析が行いやすいことで、もうひとつは19世紀フランスの殺人事件(とくに農村部におけるそれ)には、社会制度のひずみが端的に現れやすいことのようだ。
 本書によれば、封建社会(絶対王政社会)において農民から税を徴収する権利(権力)を有していたのは、領主や国王という「実在」だったが、1789年に起こった市民革命により封建制度が壊れた後、その権力は「契約」という目に見えない形に姿を変えて維持されるようになったという。一見、農民は自由を手に入れたように見えるが単なる見せかけに過ぎず、実は権力の担い手が変わったのち(*)、それが巧妙に隠されたに過ぎない。その隠された権力の仕組みに亀裂をいれて明るみに出すのが、ピエール・リヴィエールの事件に代表されるような、当時の農村で頻繁に発生した殺人事件であるというわけ。

  *…「真実」や「公正」の名のもとに権力構造を奪取してのち、今度は自らがその
    立場になって権力を維持しようとする市民革命の担い手たちのこと。

 フランス市民革命がおこる原因となったのは、ルイ16世ら当時の国王たちによる「目に見える横暴・社会矛盾」であり、それに対して民衆は剣を持って立ち上がった。では新たに発生した「契約による搾取」という「目に見えない横暴・社会矛盾」に対してはどうかというと、自らの身を持ってそれを示してくれたのは、ピエールのような犯罪者達だったのだ。(このあたり、まさにフーコーお得意の「知のアルケオロジー(歴史学)」の手法が冴えわたっている。)

 本書には長短とりまぜて数多くの文献が収録されているが、何といっても白眉は(フーコー達も絶賛しているように)ピエール自身によって獄中で書かれた手記だろう。つたない文章ではあるが、真摯に語ろうとする姿勢が素晴らしい。「精神異常」と思われてきた人物の言葉なので、書かれている内容をどこまで信用すべきか?という問題は付いて回るが、(一見した限りでは)肉親を殺害するに至った理由が極めて論理的に述べられていて、最終的に「殺すしかない」と思い詰めた被告の心理にも思わず納得できてしまう程。
 実は殺された母親は、今でいうところの人格障害者であったと思われる。彼女は極度の被害妄想と反社会的な性向をもち、身内の人間を傷つけ困らせることに執念を燃やすタイプだった。そんな母親が「結婚契約書」の名のもとに夫(ピエールの父親)を長年に亘って苦しめ続けたことが事件の背景にある。母親が父親を苦しめるためだけにわざと引き起こすトラブルに毎日気も狂わんばかりの父親の様子をみて、心を痛めたピエールはついに、”悪魔”のような存在である母親、母親そっくりに育った妹、そしてまだ訳も判らず母親を慕う弟の3人をこの世から消してしまおうと決心する。手記には犯行を実行するまでの煩悶と、逮捕されるまでの思いが切々と綴られている。

 白痴、魯鈍と周囲から思われ続けていたピエールが、実はこれほど明晰な頭脳をもつ感受性豊かな人間だったとは…。しかし皮肉なことに、もしもピエールが手記に書かれている通りのまともな人間だとしたら、(同情すべき点は多々あるが)「尊属殺人罪」で極刑は免れないことになる。なぜなら、まだ当時は近代司法制度の黎明期であって、「情状酌量による減刑」という概念がまだ定着していかったのだ。(あるのは国王らによる超法規的な「恩赦」という制度のみ。)
 抜け道がただひとつあるとすれば、当時大きな力を付け始めていた近代医療制度によって広められた「精神異常による行為の場合は、本人に罪を問うのは無理」という考え方のみ。そこで本事件の公判にあたっては、ピエールの精神は正常か否か?という判定と議論が繰り返されることになる。なお念のために司法と医学のスタンスをまとめると以下のとおり。

  <司法の立場>
   生まれながらの残虐な犯罪者として裁かざるを得ない。⇒死刑
  <医学の立場>
   生まれながらの精神異常者として哀れむべき存在。⇒無罪
   ただし野放しは駄目で、病院に収容して治療すべき(=医学的隔離)

 余談だが、「狂気」とは一体何か?という定義付けは、結局のところ現在でも答えに窮する問題だと思われる。したがって上記の医学の立場のように、その判断を周囲から本人に押し付けることは、ひとつの「権力」の形の表れであるといえる。当然ながら司法制度は明らかな権力構造のひとつであるので、ここに「監獄への収監(by司法)」か、「精神病院への収監(by医療)」かという、2つの権力機構のせめぎあいが見て取れることになる。
かように、普段は見えない権力構造が明るみに出るのは、親殺し(=王殺し)や人肉喰らいといった極限犯罪が発生し、それを裁かざるをえなくなった時、その一瞬だけである。その瞬間だけ、新たな権力の担い手である「法」と「医」が、”正義と悪”あるいは”正常と異常”の線引きをするのが垣間見えるのだ。すなわち狂気の線引きは社会的・政治的な判断による恣意的なものにすぎず、社会の意識や時代によっても変わるのだということを、フーコーらは端的に示したことになる。(注:ただし医療対象としての精神病は別物。あくまでも権力構造が明るみに出る時点での線引き基準のことなので誤解しないように。)

 話を戻そう。最終的にはピエールに「狂気」は認められないとして死刑の判決が下った。(現在なら情状酌量で何らかの減刑の後に刑務所への収監がなされるような事件であっても、当時は死刑しか選択肢がなかった。)しかし、いくら社会正義の名の下に死刑を行うにしても、「正しさ」を絶対的な価値基準として確立しないことには倫理的な問題は残る。その重荷は、陪審員にはとうてい精神的に耐えられるものではない気がする(**)。
その為だろうか、本件においては被告に対していったん死刑判決が下されたのち、改めて国王(=復古王政のルイ・フィリップ)による恩赦で、終身刑に減刑されるという経緯を辿った。(もっともピエールは自らの良心の呵責に耐えかねたのか、結局4年後に獄中で自殺してしまうわけだが。)ちなみに同時期にフィリップ王の暗殺を試みた者たちは、逮捕された全員に対して死刑が執行されている。

  **…司法関係者の制服は黒い法衣であって、その理由は「いかなる色にも染まらない
     (=公正の証)」なんだとか。人を裁くというのはかなり精神的にタフでなければ
     やっていけないんだろう、やっぱり。

 話は変わるが、本書には裁判で証拠として提出された資料のほか、当時の「三流新聞(大衆新聞)」によって伝えられる記事も収録されている。事件が発生してから犯人が捕まるまでの様子を煽情的な文章で伝えているが、それを読むと、上からの目線による「紋切り型」な表現で出来事が解釈され固定されていくのが見て取れる。それによってその後の「歴史・物語化」が決定されていくわけだから、これもまたある種の「権力」の現れといえるかもしれない。

 『殺す権利』と『許す権利』、そして『物語る権利』。 ――本書で見えてきたこれらの「権力構造」の一端は、フーコーの主著である『狂気の歴史』にはじまり、『監獄の誕生』や『性の歴史』などへと続く研究で暴かれていくことになるのだろう。(値段が高いのでどれひとつ買ってないし、市立図書館にも無いので読めてもいない ^_^;)

<追記>
 ネットで書評を捜していたら「ピエール・リヴィエール」という名の賃貸マンションがあるのを発見! 場所は東急・田園都市線の桜新町だが、この物件を担当した人、意味を知ってて付けたんだろうか? さしずめ「メゾン宮崎勤」とか「グランパレス宅間守」みたいなもんじゃないのか?? ちょっとマズイよねえ。
 ご丁寧にも物件情報にツイート機能を(本書が発売されるちょっと前に)付けてしまったばっかりに、しっかりこの本のことを書きこまれているし。(笑)

買うのが恥ずかしい本

 本屋で買うのが恥ずかしい本というのがある。大きく分けて2種類のタイプがあって、まずは「題名が恥ずかしい本」。

 世間的にはちょっと誤解を受けそうな名前が付いている本がある。
 デカダンス(頽廃芸術)や、ある種の幻想文学を語る時には“エロティシズム”という概念が付きもので、割と“学術的な香り“がする本だったらそれほど恥ずかしくはないのだが、それでもエロティックな種類によってはどうしても苦手なものがある。例えば直截的にロリコン系を連想させるものがそう。例えば澁澤龍彦の『少女コレクション序説』(中公文庫)しかり、ロリコンという言葉自体のもとになったウラジミール・ナボコフの『ロリータ』(新潮文庫)なども、ホントはそれだけの本じゃないのに買うのに気が引けてしまう。
 『少女コレクション…』なんて本を1冊だけレジにもっていくと、いかにもアルバイト風の若い店員さんに「ああ、そういう人なんですね。」と思われるんじゃないかという気持ちで一杯になり、とっても恥ずかしい。別にエッチなものを買う訳じゃないのだから(いや、エッチはエッチか/笑)、堂々とすればいい訳だが、かといって何冊かの本と一緒に持って行ったとしても、一番上に置かれた“かの本”を店員が持ちあげて、お客のいる前で「カバーをお付けしますか?」なんて訊かれるのが恥ずかしい。じゃあ他の本の下にして持って行けば良いかと言えば、「ホントはこれが買いたいだけで、他はダミーなんでしょう」なんて思われてるんじゃないかと考えると、やっぱり恥ずかしい。(ちなみに『少女コレクション序説』は最終的に年配のおばちゃんがレジをやっている古本屋で買いました。)
 いっそのことバタイユの『眼球譚』や『マダム・エトワルダ』、あるいはマゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』あたりまでいってしまえば、バイトの店員には分からなくて良いのかもしれない。沼正三の『家畜人ヤプー』くらい有名になってしまうとばれちゃうけどね。(*)

   *…少しタイプは違うがこんな話もある。笠井潔の『サマー・アポカリプス』(角川書店)
     というとてもかっこいいミステリがある。新刊で出た当時は貧乏学生だったので
     値段の高い単行本は買えず、文庫落ちするのを待っていた。数年たって念願かない
     文庫になったのは良いけれど、そのとき付いたタイトルが『アポカリプス殺人事件』
     という間の抜けたもの。(笑)
     当時はまだ「青かった」ので、レジにもっていくとき、三毛猫やタロット占い師が
     探偵役のミステリと同じようなものと思われるのが、しゃくに触るのと同時に妙に
     恥ずかしかった憶えがある。(今では創元推理文庫に移って、無事にもとの
     『サマー・アポカリプス』という題名で出されている。)

 次は2番目のタイプ「表紙が恥ずかしい本」について。

 本屋でライトノベルの売り場を通りかかると、個別の本の書影を見なくても場の雰囲気が変わるのですぐ分かる。マンガチックでハデハデな表紙が平積みになっているコーナーに特に用事は無いので、そんな時はそそくさと通り過ぎることにしている。ところが最近なぜだか、この手のイラストを表紙に採用した本が普通の文庫にも増えつつある。電撃文庫とかスニーカー文庫なんてのはハナから読む気は無いので、幾らでも描いてもらって構わないのだが、講談社文庫なんかに使われるとちょっと困ってしまう。ひとつ例を挙げると、さっきも触れた笠井潔という作家の『ヴァンパイアー戦争』(講談社文庫)。最初に出たときには、わざわざ高いノベルズで買う程じゃないと思って文庫になるのを待っていたのに、いざ文庫落ちしたらラノベ風のイラストがついた本になってしまった。これじゃ40をはるかに過ぎたオヤジが買うにはちょっとばかり“こっぱずかしい”なあ。(おかげで未だに読んでない。)
 もっとひどいのは徳間書店。ハヤカワ文庫版が絶版になっていた川又千秋の傑作SF『反存士の指環』を出してくれたのは良いけれど、よりにもよって徳間デュアル文庫とは。雑誌掲載時の深井国によるスタイリッシュなイラストが印象に残っているだけに、(コヤマシゲトというイラストレーターには悪いが、)今までのイメージとの落差が…(泣)。
 文庫の初収録作もあったので仕方なく買ったけど、恥ずかしかったなあ。(**) 多分どこかの会社の部長さんなんかも、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッガーの「マネジメント」を読んだら』(ダイヤモンド社)を買おうとするとき、同じような思いをしてるんだろうね。

  **…困った挙句、「子供に頼まれて」という顔をして買ったつもりだけど、でも絶対に
     ばれちゃってるだろうなあ。まあいいけど。(笑)

『首無の如き祟るもの』 三津田信三 講談社文庫

 大正から昭和初期までの「ちょっと前の時代」を舞台にしたミステリは、金田一耕助シリーズ(横溝正史)、京極堂シリーズ(京極夏彦)、朱雀十五シリーズ(藤木稟)など、数えてみると案外と多い。本書もそのひとつで、刀城言耶(とうじょうげんや)という名前の探偵が登場する、ホラータッチのミステリのシリーズの1冊。シリーズといっても自分が読んだのはレビューで評判が高かった本作が初めてであり、他の作品がどんな風だか良く知らない。でもこれに限って言えば自分好みの話で面白かった。
 ざっくりと中身を紹介すると、首無しの怨霊にまつわる言い伝えの残る山村で、戦中・戦後の2回に渡り奇怪な連続殺人事件が起こるという話。死体は何故かどれも首を切断されていて、怨霊の言い伝えとの関連も暗示されるが、結局は迷宮入りとなってしまう。そして数十年の時を経て関係者も離散してしまった頃、ふとしたことから記憶の封印を解かれて…。
 「ホラー」と銘打っているだけあり、最後まで合理的な説明がなされないままとなる怪異も少しは登場するが、あくまでも作品の雰囲気作りのための小道具的な扱いで、全体のトーンはあくまでもミステリーが主体。雰囲気は「ホラー」というよりは「テラー」もしくは「サスペンス」に近いかも。
 最後はリドルストーリー(*)になっているので、「なるほど、そういうことだったのか」というカタルシスはそれほどない。余韻を残して終わる結末なので、モヤモヤした感じが好きかどうかという、読み手の好みによって評価が分かれるかも知れない。(ミステリ本篇の謎ときは決してアンフェアではないし、自分としては悪くないと思う。)

   *…話の中で示された謎にわざと結末をつけず、答えが無いままで終わる物語のこと。
     本書では殺人事件そのものには決着が付くが、さらに新しい謎を読者に示して
     物語が終わる。

 話題を少し変える。都筑道夫がエッセイの中で「なめくじ長屋(名探偵“砂絵の先生”が登場する本格推理の短篇シリーズ)」について、本格モノの舞台に江戸時代を選んだ理由を述べていた(**)。それによると「現代を舞台にすると、指紋照合など科学的な捜査を考慮しなければいけなくなる。不思議な事件の理由として神隠しなどが素直に信じられた時代を舞台にした方が、純粋にミステリの面白さだけを追求できる。」ということのようだ。一方で現在活躍中の作家に目を向けると、“嵐の山荘(お約束!)”に閉じ込められた状況でおこる殺人事件だとか、日常生活で起こるちょっと不思議な出来事の推理(=“日常の謎”という専門用語まである)だとか、設定に工夫を凝らして警察が介入しない(又は出来ない)舞台を何とかして拵えている。

  **…きちんと原文に当たるのが面倒で、うろ覚えで書いたから不正確。こんな感じの
     話だったなアという程度なので悪しからず。

 冒頭で述べたような作品群が大正から昭和初期に舞台をとってあるのも、最初は同じような理由なのかと思っていた。しかし読んでみるとどうやら違うようだ。朱雀シリーズは日本が右傾化を進めていくキナ臭い時代なのでちょっと毛色が違うかもしれないが、残りの金田一と京極堂、そして本書を含む刀城言耶シリーズはいずれも時代背景として戦後の混乱期を選んでいる。それらを読んでとりあえず思いついた理由は次の2つ。
  (1)世の中が落ち着く前で社会も混乱していて、突拍子もない事件が起きやすい。
  (2)多くの人が亡くなった激動の時代なので、事件の遠因になる出来事が発生しやすい。
 でも自分で書きながら「それだけじゃないな」という気もしている。「あの時代」を選んだことで、何とも言えない“味”が作品に生まれているのも事実だ。山田風太郎の『幻燈辻馬車』を始めとする「明治モノ」が傑作なのと同じで、維新や敗戦など国がひっくり返るほどの激動の時代なればこそ、物語の舞台としてある種の「魅力」を備えていると考えた方が良いのかも知れない。

 話が発散してしまった、本書に話題を戻そう。横溝作品との相違点について比較をしてみる。
日本ミステリ史上に燦然と輝く傑作『獄門島』とはじめとして、横溝正史の原作小説は岡山など古くからの因習が残る地域の風土をうまく作品に取り込みながらも、その中身は思いのほか現代の推理小説の骨格をしっかりと維持している。それに対して映画/テレビで「金田一もの」と称される一連の映像作品は、小説以上に土俗的且つおどろおどろしい雰囲気を前面に打ち出していて、(それはそれで評価はできるのだが、)原作とかなり違う物になってしまっている。本書はホラーミステリと銘打たれているように、探偵役がやたら民俗学に詳しいところなど(京極堂などと一部かぶりながらも)独自の世界を作り出していて、設定や舞台は横溝に近いものを使いながらも、作品全体の雰囲気は前述の「映像版の金田一もの」から受ける印象により近いといえるだろう。
 具体的にいえば、横溝の『獄門島』『悪魔の手毬唄』などの作品においては、地方の因習や言い伝えを使った見立て殺人が行われるが、登場人物は全員がその犯罪が「見立て」であることを自覚している。いわば近代的意識の持ち主が登場人物像であって、それを背景としてフェアな推理合戦が行われる。それに対して本作では、“因習そのもの”が陰惨な犯罪の発生原因と不可分であり、前近代的な意識が根強く残った世界といえる。
 
 金田一モノで原作(小説)と映像版のどちらが好きか?によって多少は好みが割れるかも知れないが、映像版が嫌いでない人なら読んでもおそらく損は無い作品だと思う。

2010年8月の読了本

『質量はどのように生まれるのか』 橋本省二 ブルーバックス
  *素粒子物理学の最新研究を踏まえて書かれた、「質量が発生するメカニズム」についての
   解説書。
『ビジョナリーカンパニー2』 ジェームズ・C・コリンズ 日経BP社
  *著者が「ビジョナリーカンパニー」と名付けた、いわゆる成功した企業の研究成果を
   まとめたビジネス書。
『オーケンの のほほんと熱い国にいく』 大槻ケンジ 新潮文庫
  *筋肉少女帯のボーカル大槻ケンジによる(「ゆるい」ではなく)「ぬるい」エッセイ。
   オーケンに匹敵するのは、みうらじゅんか、もしくは「怪しい探検隊シリーズ」の椎名誠
   くらいしか思い当たらない。落語家でいえば先代の林家木久蔵(今の木久扇のことね)
   あたりにイメージがかぶる。ボケもここまでくればある種の名人芸といえる。(笑)
『その数学が戦略を決める』 イアン・エアーズ 文春文庫
  *統計分析(データ・マイニング)による様々な分野での戦略決定について述べた経済学系
   の本。山形浩生訳。
『首無の如き祟るもの』 三津田信三 講談社文庫
  *ちょっと怪奇な味付けをした本格ミステリ。横溝正史や京極夏彦っぽい感じ。
『ピエール・リヴィエール』 M・フーコー編著 河出文庫
  *19世紀のフランスでおこった殺人事件の広範な記録の中に、「知のアルケオロジー
   (考古学)」で有名なフーコーらが権力構造を読み解いていく学術書。面白い。
『犬 他一篇』 中勘助 岩波文庫
  *自らの子供時代を描いた傑作『銀の匙』の作者による小説と随筆のカップリング。
   表題作は、古代バラモン僧の情欲と狂乱を通じて人間の醜さを描いた問題作。
『空飛ぶ円盤』 C・G・ユング ちくま学芸文庫
  *心理学の泰斗ユングが最晩年に書いた著作のひとつで、UFO目撃体験に関して心理学的
   な観点から考察を加えたもの。光る球体や円盤は古来「全なるもの」を示す元型として、
   多くは宗教体験の中で報告されてきた。また円は女性的なもの、円柱は男性的なものの
   象徴でもある事などから、様々な形のバリエーションも含めて殆どのUFO目撃体験が
   心理学的な立場から説明できるとしている。読む上で少し問題があるとすれば、最晩年の
   作だけに「錬金術の寓意」だとか「シンクロシニティ(共時性)」だとか、物議を醸した
   ユング後期の思想が無頓着に言及されている点。注意を要するだけにまだ手を出しかねて
   いた著作の概念を説明なく使われているので、きちんと理解できているのかちょっと
   不安になる。
『漂流巌流島』 高井忍 創元推理文庫
  *鯨統一郎の『邪馬台国はどこですか?』やジョセフィン・ティの『時の娘』みたいな歴史
   ミステリ。通説になっている歴史上の有名な出来事について、全く違う結論を導くという
   パターンで、取り上げられているのは巌流島の決闘や新撰組の池田屋事件など4つの
   エピソード。
『パーソナリティ障害』 岡田尊司 PHP新書
  *現代の深刻な問題になっているパーソナリティ障害について解説した本。読んでいると
   頭の中に何人かの人物の顔がすぐに浮かんでくる。もしかして職場のトラブルの何割か
   は、これかアスペルガー症候群に対する無知/無理解が原因なんじゃないだろうか? 
   企業の人事関係者は必読かも。
『モザイク』 田口ランディ 新潮文庫
  *ちょっと説明が難しいタイプの小説。同じような作品としては『ノーライフキング』
   (byいとうせいこう)や『鉄コン筋クリート』(by松本大洋)などがあるといえば、何と
   なく雰囲気は分かってもらえるだろうか? 前半の“壊れた”感じが良かっただけに
   後半がとっ散らかってしまったのが惜しまれる。”あっち系”の世界については扱いが
   難しい。「あるかも知れず無いかもしれず、でもその人にとっては実在する」という
   くらい微妙な感じで書いてくれないと、少し興ざめしてしまう。(ネタバレしないように
   書いているけど、これでは何のことか判らんですね。/笑)
『デカルトの誤り』 アントニオ・R・ダマシオ ちくま学芸文庫
  *脳研究によってみえてきた、人の精神活動(心)と身体感覚の関係、そして理性と感情
   (情動)の関係についてまとめた本。
『反在士の鏡』 川又千秋 ハヤカワ文庫
  *ルイス・キャロルの「○○の国のアリス」2部作をアイデアの下敷きにしたSF小説。
   古い本なので現在は絶版だが、代わりに徳間デュエル文庫で完全版が手に入る。
『街場のメディア論』 内田樹 光文社新書
  *書店で大人気の内田樹による、マスコミと出版業界をテーマにした一冊。
『文豪怪談傑作選・幸田露伴集』 ちくま文庫
  *露伴の幻想系の小説と随筆をコンパクトにまとめた一冊。こーゆー本を長いこと待って
   ました。
『塩の道』 宮沢常一 講談社学術文庫
  *民俗学者・宮沢常一による晩年の著作。塩作りと運搬を通じて古来の日本の交通を考察
   した表題作ほか、全部で3編を収録。
『配達あかずきん』 大崎梢 創元推理文庫
  *作者が実際の新刊書店員であった経験を生かして書かれた“日常の謎”タイプのミステリ。
   同じ「書店」を題材にしても、古本屋を舞台にした紀田順一郎の『魔術的な急斜面』や
   『鹿の幻影』といったミステリだと、出てくる登場人物も愛書狂のジーサンとかばかりで
   辛気臭いけど(笑)、駅ビルの新刊書店が舞台だと華やかな感じで好いね。
   (注:もちろん上記の古本ミステリも大好きなので誤解無いように。/笑)
『肩甲骨は翼のなごり』 ディビッド・アーモンド 創元推理文庫
  *ちょっと暗めのファンタジーだが読後感は決して悪くない。裏庭で不思議な”存在”
   を見つけてしまった少年と友人の少女の、心の成長を描いた物語。
『千利休 無言の前衛』 赤瀬川源平 岩波新書
  *芸術家・赤瀬川がひょんなことから映画『利休』の脚本を書くことになって知った、
   茶の湯と千利休にまつわる様々な思いをつづったエッセイ(というか評論?)。
   茶室や茶器の世界がトマソンや路上観察学会ともつながってしまうのが著者らしくて
   好い感じ。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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