『その数学が戦略を決める』 イアン・エアーズ 文春文庫

 訳語では「絶対計算」といういかめしい名前が付けられているが、要するにデータマイニングによる統計処理を用いた様々な戦略決定の事例紹介。紹介されている分野はマーケティングや政策決定など多岐に亘っている。様々な企業で商品企画やプロモ戦略の立案のために実施している、アンケート調査はまさにこれに当たる。
 なんでこんな本をよんだのかというと、先日『ビジョナリーカンパニー2』を読み終えた余勢をかって ― という訳では全然なくて、単に訳者が山形浩生だったから。彼が翻訳する経済学系の本はハズレが無くてどれも面白いんだけど、残念ながら専門書が多くて値段が高いのであまり読めないのだ。今回は珍しく文庫におちたのを本屋で見かけたので、買ってさっそく読んでみた。

 後半は少しだれる所もあるが、前半は自分が普段やっている仕事にドンピシャということもあり、内容が頭にサクサク入ってきてゴキゲンに読めた。回帰分析やタグチメソッドにより最適値を求めるくだりなどは、(ある程度は)統計手法や品質管理手法を知っている方がより楽しめると思う。まあ別に知らなくても、何となく雰囲気だけ味わえばそれで構わないんだけどね。どんなことが書いてあるか、参考までに前半の3章分を以下に要約すると…
 第1章:社会的問題への統計手法(回帰分析など)の適用による解決、意思決定
 第2章:タグチメソッドと無作為抽出による各種戦略の効果の数値的(客観的)判断方法。
 第3章:回帰分析によるユーザーのプロファイリングによって、対象者を絞り込む方法。
     ⇒言ってみれば「コンセプト商品のペルソナ(≒顧客イメージ)の作成」

 統計分析による商品企画で大事なのは、(著者が述べているのと同じく、)まさに「予断」を持たないことであって、なお且つ比較用に幾つかの案を考えるには、ある程度の「センス」が必要となる。そのためには仮説出しやアイデア出しの質がとても重要なカギ。つまり商品企画の担当者に求められるスキルは「数字の分析力」だけでは不足であって、仮説と検証を繰り返すためにはそれを仕掛けるための創造的な力が必要ということ。当然ながらそこいらが“知恵の出しどころ”だし、“普段からどれだけアンテナを高くはれるか?”と言う心構えの話になる。

 本書には「絶対計算」にまつわる様々なエピソード以外に、初心者の疑問や不安を解消するための説明にも多くのページが割かれている。前から疑問に思っていた事を2点ばかりピックアップしてみよう。

<心配ごと・その1>
 Q.専門家より正確に判断できるようになるので、人間は失業しちゃうのでは?
 A.失業を心配しなくても、人間が必要な作業はまだまだある。仮説やアイデア出し、
   質問の文章を考えるなど、人間が必要とされる創造的な作業に終わりはない。むしろ、
   機械でも出来るような簡単な仕事しかしてなかった人は自分を見つめ直すいいチャンス?

<心配ごと・その2>
 Q.商品特性を絶対計算することで得られる商品企画では、どうしようもない均質性が実現
   してしまうのでは?(=多数決で仕様を決めることになる?)
 A.確かにその懸念を完全になくすことは出来ない。データ分析の結果を悪く利用すれば
   つまらないものばかりが市場に出回ることになる恐れはある。しかし今の企業にとって
   最大の問題は「データ分析結果の利用による均質性」よりも、一部の人間(*)の憶測や
   思い込みによる判断の横行と口出しによって、データ分析の利用なんか比べ物にならない
   くらいヒドイ商品が世に出されていることの方では? むしろデータ分析はそれらの不当
   な介入を少しでも減らすための材料として使える。また、データを見てどのように意思を
   決定するかは担当者の判断なので、必ずしも全て同じ答えに至るわけではない。
    ―例えば3割の人がある機能を欲しいと言ったとしても、「3割しか」とみるか
     「3割も」と見るかで判定は180度変わる。

   *…大抵は企業の経営陣の場合が多いので余計にタチが悪い。(笑)

 よって本日の結論(笑)としては、「商品企画/マーケティング関係者はよく心して読むべし。」ということ。少なくとも前半部分については必読書といえるだろう。
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『ビジョナリーカンパニー2』 ジェームズ・C・コリンズ 日経BP社

 直訳すると「ビジョンを持った会社」「先見性のある会社」ということだけど、正直なところいくら読んでも著者のいう「ビジョナリー」の定義がピンとこない。軽く「すごい会社」とでも言う感じなのかな? 要は明確な経営理念を持ち、独自の企業文化が社員の世代を超えて継承されていく会社のこと。本書はその「ビジョナリーカンパニー」についての研究書で、経営指南書としてアメリカでベストセラーになったシリーズ(の第2弾)。1作目はだいぶ前に読んでおり、仕事関係の人から2作目を借りる機会があったのでさっそく目を通して見たというわけ。

 以下、本書の内容について触れる前にまず断わっておきたい事がある。以前どこかで読んで感心した言葉について、ちょっと流用させてもらうが、それは「ビジネス書はすべからくファンタジー」だということ。
 どういう意味かというと、「読むとモチベーションは上がるが実業務で役立つ情報はないので、基本的にビジネスの役には立たない。あくまでも楽しみのひとつとして読むべし」ということ。
 いわゆる「ビジネス書」と呼ばれる本はそれほど多く読んでいる訳ではないのだが、言われてみると確かに「こうすれば成功するよ」とか「こんな風に考えよう」とかいう類の本がやたら多い気がする。別に科学的な根拠があるわけでもなし、心構え次第で道は開けるみたいなのを読むと、“ホントかいな?”と云いたくなってしまう。幾ら実用的であっても耳障りなことばかり書いてある本を読んでも楽しくないので、ファンタジーであるビジネス書ではあまり取り上げられないということか。
 そう考えると、ビジネス書を読んでいるうち頭の中にハテナ?マークが沢山浮かんできたり、ご都合主義的な作者の主張に辟易することが多いのも頷ける。仕事の役に立てようと思って読むからいけないんであって、最初から娯楽のつもりで臨めばそれなりに面白く読めるということだろう。

 本書についても、(前作と同様に)調査のサンプルとして選んだ企業の選定基準がかなり恣意的であるとか、著者の言う「偉大な会社」とはただ単に「株式の運用実績が良い」という事なの?とか、基本スタンス自体に色々と疑問はあるのだけれど、元々がアメリカ国内向けに書かれた経営学の本なんだし、ファンタジーとして割り切って考えるのであれば、不備をあれこれあげつらってみても仕方ない。そう割り切ってしまえば、そこそこ楽しむことは出来る。ただし本書の最後で著者がちょっと欲を出してしまい、「これを実践すればみんな成功できるよ」と書いていたのが少し気になったが。
 ファンタジーとしてではなく実用書として売り込もうとしているのなら、内容に問題があるのはやはり困る。そこで本書で不備と思われる点については以下に触れておきたい。その上で「自分の立場ならこの中から何ができるか」という風に考えるなら構わないが、鵜呑みにするともしかすると失敗するかも??

【疑問1:“後出しジャンケン”で評価を下してないか?】
 著者は企業が成功するための条件として、自らが「3つの円(*)」と名づけた3条件を挙げている。これを全て満たしたうえで、且つ出来る限り単純な経営戦略が作れた時、企業は大きな飛躍を始めるのだそうだ。(これはサンプル企業11社の調査により分かった“事実”だと説明されている。)
 しかしこの経営戦略が良かったかどうかの判断は、本書によれば企業の実績(=株価)によるものである。 飛躍できなかった企業も同じような経営戦略を立てているが、そちらは間違っていてビジョナリーカンパニーが正しいと言うのは、いわば“後出しジャンケン”による裁定ではなかろうか?という気がしないでもない。(笑)

   *…「3つの円」の3条件
     ①自社が世界一になれる部分。(これは必ずしも現時点での「コアコンピタンス
      /自社の強み」である必要はない。何年間も真剣に検討していれば自然に正しい
      判断が訪れるそうだ。)
     ②経済的な原動力になるもの。(キャッシュフローと利益のこと。)
     ③情熱をもって取り組めるもの。(経営者の思い込みでも構わないが世代を超えて
      経営陣に共有化できる価値観であること。)

 ちなみに①を決めるカギになるのが「針鼠の論理」と呼ばれる概念。深い理解に裏打ちされ、且つ明解な単純さをもっている経営者の「思いこみ」による戦略のこと。これを決めるのには調査したビジョナリーカンパニーでも平均4年かかったそうで、それでやっと(虚勢ではなく冷静な理解によって)「自分の会社は世界一になれる」と言う洞察に至るらしい。そしてその情熱を持ち続けた…(って、結果的に成功したから言えることであって、駄目なら単なる虚勢だったというレッテルをはられるのでは? そこらへんどうなんだろう。)

【疑問2:挙げた条件は本当に必要かつ十分なのか?】
 成功した会社から抽出した共通条件については、まあ間違いではないとしよう。同業者の中から比較企業を選んで、ビジョナリーカンパニーにあって同業者に足りない条件を見つけたのもまあ良しとする。問題は、成功した会社と同じことをしたのに失敗した事例が無いかについて未確認と思われること。もしそんな企業があれば、本書で挙げられた「成功への道筋」は単なる「必要条件」に過ぎないということになるかも知れない。
 またそれとは逆に、「3つの円」の条件を全く満足していないのに「ビジョナリーカンパニー」と同様の伸びを示した企業が存在していないかを調べるのも重要だろう。
 理想の調査は「必要十分条件」を捜す、つまり成功するために“やらなきゃいけない事”と、“やっていけない事”をそれぞれ明確にすること。もしもそれが無理であれば、せめて(無駄なことはしているかもしれないがとりあえず)“やらなきゃいけない事”くらいは明確にしておかないと、「実用書」としては怖くて使えないだろう。 この2つの検証結果がないと科学的アプローチであるとは言えず、「これら繁栄している企業の良いところはこんな点です」という紹介だけに終わってしまうと思う。それならまるで自己啓発の本みたいなもんで、「信じるか信じないかはあなた次第」、「自分に活かせそうな点があれば見習ってみたら?」という程度に終わる恐れも充分に考えられる。
 ― 何度も言うが、最初からそういった読み物(=ファンタジー)として読むなら本書は充分に面白い。

 「実用書」として利用する際の注意(と言うか問題)をさらにもう一点。もしも本書の「良いところ」だけを見習おうと思ったとして、それでも実行には様々な困難が伴うと予想される。今のところ考えついたのは以下の3つ。

 1.経営者が本書で言う「第5水準(=いわゆるビジョナリーカンパニーを作る原動力と
   なる、市場でも最高レベルの経営者)」なのか、それとも謙虚さのかけらもなく、
   自分が辣腕をふるっている間だけ企業が繁栄すれば、引退した後は知ったことじゃない
   というタイプなのか、一般株主など企業の外部からは、決して内部を伺い知ることは
   出来ない。
 2.社員なら訓示や社内会議における言動を通じて、経営者の資質を知ることが出来るかも
   知れないが、逆に社員には経営者を選ぶ権利は無い。(あるとすれば自分が勤める企業
   を選ぶか、ネットで愚痴る権利ぐらいか。)
 3.次期経営トップの候補者がどんな人物であるか、現在の経営層は予め知るすべはない。
   (もしかすると実際にトップに立つまで本人さえ自覚していない可能性もある。)

 ということで、ビジョナリーカンパニーとして飛躍する為に企業がすべき行動については、全ての判断が「事後」となるしかない。敢えて悪い表現をするなら、「キリンでもヒトでも、哺乳類の首の骨は全て7つ」とかいうトリビアと同じで、面白いけど役には立たない雑学知識に過ぎないのかもしれない。(もっとも社会科学は自然科学と違って、繰り返し試験/再現試験ができないので致し方ないところではあるが。)
いずれにせよ大事なのは、社会科学の限界を知った上で参考にするという姿勢だろう。

<追記>
 アメリカ人はサクセスストーリーが大好き。映画『ロッキー』のようなアメリカンドリームにいつも憧れている。だからたとえ主人公が本当の人間ではなく「法人」であっても、ある程度の感情移入さえできれば、逆境をバネにして成功していく様子を見て、胸のすく思いがするのかも。でもその陰には「あなたはこの会社には合わないから速やかに別の人生を見つけるべき」と言われている人がいる。その様子は本書の中で企業が生き残る上での「美談」として(企業側の視点から)説明されている。でもそれって本当に良い事なんだろうか? “企業の成功”って一体なんなのだろう、株式運用の利率が良いことなのかなあ?

『統合失調症あるいは精神分裂病』 計見一雄 講談社選書メチエ

 ふーむ、世の中にはいい本がまだまだあるもんだねえ。またひとり素晴らしい書き手を見つけてしまったようだ。(自分が知らなかっただけで、「その筋」ではもともと有名な人なんだろうけど。)
 著者は『アフォーダンス入門』(講談社学術文庫)に解説を書いている人で、名前は「けんみ・かずお」と読む。長年にわたり精神科の急性期治療(“救急医療”!)に携わる臨床精神科医であって、本書は(医師や看護師など)精神医学に携わる関係者を対象にして行われた、全9回に亘る講義をまとめたもの。著者が現在の日本の精神医学に対してすごい危機感をもっていることが、行間からひしひしと伝わってくる。講義そのものは専門家を対象にしたものではあるけれど、口調もべらんめぇ調なので親しみが持てるし、話の内容も自分のような一般人が読んでも充分に理解出来るくらい分かりやすい。(でなければ一般向け書籍として販売されなかったはずだからあたりまえか。/笑)

 で、著者が感じている不満を一言で言えば、「一番苦しくて困っているのは患者なのに、今の精神医学界は患者の身になった最大限の努力をしていない。色んなことに対する説明責任をきちんと果たしていない。」ということ。患者に対する社会的な偏見や誤解による差別がいつまでも無くならないのは、それも大きな理由であると計見は考えている。
 説明不足な点を具体的にひとつ挙げてみると、例えば「精神が“異常”とはどういう状態を指すのか?」という定義がきちんとなされていないという事。まさかそんなことすら医学的な共通認識が出来ていないとは知らなかったので、正直言って驚いた。詳しい事情も判らぬ部外者があれこれ言う権利は無いが、確かに著者による説明を読む限りでは、(筆者が批判しているように、)現在の精神医学会における定義はちょっとおかしな感じがする。
それがどんなことかというと、(難しい専門用語を取っ払って簡潔に言ってしまえば、)『“正常”とは“異常”ではないこと』という事になってしまうらしい。 ― この定義って、『“平和”とは“戦争状態”じゃないこと』と言ってるのとまったく同じで、単なるトートロジー/同語反復にすぎないんじゃなかろうか。

 ちなみにずっと前から「精神分裂病」から「統合失調症」へ呼び名が変更された理由が知りたくて気になっていたのだが、本書中にズバリ説明してあったのでスッキリすることができた。要するに、精神疾患は過去から大変な社会的差別の対象になっていて、「精神分裂病」という言葉には「ある種のイメージ」が分かちがたく結びついてしまっているので、いっそのこと名前を変えてしまおうということだったらしい。(*)

   *…ハンセン病と同じでここらへんの話はとても難しい。差別を糾弾するために声を
     挙げれば上げるほど、その言葉が持つ特別な意味が強調されることになってしまう
     から。橋本忍による名作映画『砂の器』(注:松本清張の原作より出来が良い)を
     中井正広の主演でリメイクした時、犯人が罪を犯す動機になった(そして社会に
     対する痛烈なメッセージとして見る人の心を打つ)“ある出来事”に対しては、その
     扱いにかなり苦慮したようだし。
     スーザン・ソンタグの『隠喩としての病』(みすず書房)では癌、結核など特定の
     疾病に取りついた社会的イメージ(隠喩)が論じられていたが、実は「精神分裂病」
     という表現にはとんでもない「穢れ」のイメージを植え付けられていたということ
     だろう。知らなかった自分の不勉強を恥じるばかりだ。

 著者はこの「統合失調症」への名称変更に関しても、(取りついた悪いイメージを払拭する意味でも変更したこと自体は評価するが)その先の対応が昔と変わっていないので、早晩おなじことの繰り返しになると警鐘を鳴らしている。
 過去から「精神分裂病」という呼称に対しても、『果たして“精神が分裂する”とはいったいどういうことなのか?』という疑問に、精神医学界は充分答えてこなかったと計見はいう。そして「統合失調症」に変わった今も『何が“統合”されなくなるのか?』といった疑問に対して、相変わらず説明責任を果たしていないと憤っている。このまま放置すれば、折角の新しい呼び名である「統合失調症」にも、以前と同じアカがまとわりついてしまいかねないと。
 それでは「統合された状態」とは果たして何なのだろうか? そもそも「正常/異常」は何が違うというのだろうか? 実は本書の大きな目的はそれを明らかにすることであり、全9回の講義を通じてその疑問に著者なりの答えを出している。

 一般的な解釈によれば、ひとりの人格としての“私”は「思考/感情/意思」、または「知/情/意」と呼ばれる3つの高度な精神活動がうまく統合されることで、そこに初めて誕生する主体とされているらしい。(ここらへん、理論に詳しくないので本書からの受け売り。ちなみにそれが上手くいかなくなった時にどんな事が起こるかは、『知覚の呪縛』(ちくま学芸文庫)などに厭というほど書かれている。)
 ところが著者は、その理解は全く間違っていると主張する。そのように考えてしまうと、「知/情/意」の3つの精神活動の統合の「程度(レベル)」を想定することになる。すると「理想的な統合状態」という絶対的な基準が生まれ、そこから外れている精神疾患を「劣った状態」と位置づけてしまうのだと。
 それでは「統合」とはいったい何なのだろうか?
 著者は「統合」の持つ意味について順にひも解いて行くわけだが、親切にも本書の最終章にはそれまでの講義によって得られた結論を、まとめて書いてくれている。自分のように飲み込みが悪い読者には大変に便利。(笑)
詳しい説明に興味がある人は中身を直接読んでもらえば良いが、要旨はだいたい以下のとおり。アフォーダンス理論で提唱された見方が基本スタンスになっている。

 アフォーダンス理論によれば、あらゆる生物は(コンピューターのように)事前にインプットされた情報を分析して最適(best)な解を出しているわけではない。予め適切(better)な行動が出来るように準備しつつも、実際にはある行為によって引き起こされた事態に臨機応変に対応しながら次のbetterを準備する。 ― その様な形で現実に対処していくと考えられている。
 ヒトの行動もその他の生物と同様である。刻々と変化する事態に対してその都度、臨機応変にbetterな行動を選択していく。

 ヒトにとって「現実」とは、運動行為を脳内で準備するときに発生する世界の「絵(リプリゼンテーション/具象表現)」である。ヒトは誰しも自分の意志に即したある行動を行う際には、その行為に至る外界の反応を予測して、それに対応する計画的な絵図面を作る。そのためには大脳皮質の一部(前頭前野の四六野)を中心に脳内の関連部位が強力に統制され、「世界の意味付け」や「今からの行動がもつ意味」などの情報を脳内メモリから引き出す必要がある。その情報に基づいて絵図面を作成する機能がいわゆる「統合機能」と呼ばれるもの。
 必要な情報の引き出し~絵図面作成までの一連の作業が可能になるには、前述のように脳の各部が同期をとって統制のとれた動きをする必要がある。もしも何らかの原因で統制が取れなくなる(=脳の各部の統合が失調する)と、合理的な行動が一切取れなくなってしまう。その状態が「統合失調症」なのだそうだ。

 こういう本を読み終えると、なんだか自分が少しレベルアップ出来たみたいで嬉しいね。実生活ではたぶん一生使うことのない知識のような気がするけど。(笑) でもまあ、愉しみとして読んでいる訳だから別に無理して使うこともないし。(笑)

<追記>
 計見一雄の著作は専門書以外のものがまだ2冊あるので、しばらくは愉しめそう。

『パピヨン』 1973年 アメリカ映画

 TOHOシネマズ系の映画館で「午前十時の映画祭」という催しが行われている。往年の名画をニュープリントして週替わりで50本上映するというもので、しかもたったの1,000円。今ではテレビのロードショー番組でも全く放映されなくなってしまった作品たちを、映画館の大スクリーンで再び見られるというのは、かつての映画ファンにとっては垂涎・感涙モノの企画。ラインナップに興味のある方は是非ネットで調べてもらいたいが、参考に自分が見たいと思っている作品の名前を挙げておくので(*)、それを見ればどんなラインナップなのか雰囲気は分かってもらえると思う。DVDを借りてきて家で見るのもいいけど、広い椅子でポップコーンでも食べながら大スクリーン&大音量で見るのもまた格別。

   *…『大脱走』『ゴッドファーザー』『ベン・ハー』『アラビアのロレンス』など

 前置きが長くなってしまったが、今回見てきたのは『パピヨン』。スティーブ・マックィーン主演で共演のダスティン・ホフマンが良い味を出している。古い映画なので、知らない人の為に念のためにストーリーを紹介しておこう。マックィーンが扮するのは、殺人という無実の罪で投獄されたパピヨンという男。胸に蝶(=フランス語で“パピヨン”)の刺青をしているのでそう呼ばれている。身に覚えのない汚名を着せられたパピヨンは、生きて帰るものが殆ど居ないという仏領ギアナにある刑務所からの脱獄に執念を燃やす。独房へ収監されたり何度も生死の境目をさまよう体験をしたのち、遂に数十年後、「悪魔の島」とよばれた最後の流刑地からの脱獄を果たすという話。驚くべきは実話をもとにした映画だということ。仏領ギアナは南米大陸の北東部に位置しており、20世紀半ばまで政治犯を中心とした囚人が数多く送られたらしい。(このあたりはWikiからの受け売り/笑)

 昔はこういう映画をテレビの「○○ロードショー」や「□□洋画劇場」で毎週のようにやっていたのだから、考えてみるとすごい事だ。今は夏休みになると『となりのトトロ』が毎年放映されてるけど、それと同じようにして小学生が『パピヨン』なんぞを見ていた訳だから、ませたガキ(いや、恵まれた子供時代)だったんだなあ。(笑) 
 今回は改めて大人の目で見直した訳だが、記憶違いではなくてやっぱり面白かった。マックィーン主演だからもちろんアクションやハラハラするシーンもあるが、基本的にはカタルシスが得られる映画じゃない。(昔はたしか「不当な抑圧からの自由」とか「生きることへの執念」とか、体制批判の文脈で語られていたような気がする。)また、物語と関係なく突然にシュールな夢のシーンが挿入される演出は、今見るとさすがに時代を感じさせるが、懐かしい感じがかえって新鮮に映る。
 ちょっと得した気分になれたのは、子供の時には意味が分からなかったシーンが理解できたこと。例えばパピヨンが助けられたインディオの村がある日、彼ひとり残して突然無人になってしまうシーンがあるが、おそらく集落を定期的に移動させているからだろう。他にも修道院のシスターがパピヨンを当局に密告するシーンだとか、当時は分からなかった「大人の事情」が分かって納得。

 ひとつだけちょっと嫌だったのは、一緒にスクリーンを見ていたのが、いかにも映画好きの中年オジサン/オバサンばかりだったこと。(笑) 人数は30~40人くらい居たけど、きっと自分もあの人達に馴染んで見えたんだろうなあ。(笑)

『砂漠の修道院』 山形孝夫 平凡社ライブラリー

 著者は宗教人類学を専攻する研究者であって、文献に基づいた研究調査の傍らで原始キリスト教の姿を今に伝えるコプト教(=エジプトに伝わるキリスト教)の修道院を定期的に訪れてもいる。本書は、その10年間あまりにもなる体験をもとにつづったエッセイ(というより、もろにフィールドノート)。先日読んだ『聖書の起源』(ちくま学芸文庫)がめっぽう面白かったので、同じ著者の作品ということで読んでみた。全体は2部構成になっていて、前半が修道僧たちとの交流の記録、後半の方は少し論文調で学問的な色合いが濃く、「修道院」が生まれるに至った歴史的な背景などが書かれている。
 あまり日本人には馴染みがない「修道院」というものにちょっと興味があったし、宗教施設のもつ一種独特な(禁欲的?)雰囲気もさほど嫌いではないので(*)、本書も面白く読み終えることが出来た。

   *…もちろん狂信的なのは遠慮したいが。(笑)

 以前、山口昌男だか誰かの本で、「文明の“中心”から“周縁”に行けばいくほど、過去の文化や風習が純粋な形で残りやすい」という話を読んだことがある。それと同じ理屈でいえば、原始キリスト教の雰囲気はローマカトリックやプロテスタントなど西ヨーロッパの信仰からは既に失われてしまって久しいが、エジプトや東ヨーロッパには色濃く残っていると言えるかもしれない。確かに本書を読む限りでは、コプト教には古の修道院の様子や純粋なキリスト信仰の在りようが、今でもしっかりと残されている感じがする。
 それではキリスト教における「純粋な信仰の在りよう」とは何か? 他の宗教ではどうだか知らないが、少なくともキリスト教において「純粋な信仰」とは、どうやら俗世間(日常生活)からの“逸脱”ということらしい。日常生活とは切り離されて特権的に聖化された存在(=神)に少しでも近づくことが、ユダヤ教からキリスト教、そしてイスラム教へとつづく一神教の流れ(=「経典の民」たち)における信仰の中核をなしているようだ。本書を読んでいくと、そこいらへんの理屈が何となくわかってくる気がする。

 本書によれば、イエスの時代からもともとキリスト教の原義には社会を逸脱する傾向が強かったとのこと。砂漠地帯の部族による地方宗教に過ぎなかった頃はもちろんのこと、ローマ帝国の国教になってヨーロッパ全土に広がってからも、そののち教義の解釈を巡って様々な宗派が生まれたのちもその傾向は変わっていない。決められた社会的な枠(ルール)や個人的なしがらみを捨て去って漂泊し、教義の探求を極めることへの憧れは、キリスト教の信者達(とくに信仰心が強い修道士たち)の間に後年まで強く残っていた。かれらは家族を捨てて信仰の道へと入っただけでは飽き足らず、さらに信仰の場としての「教会」すら捨てて、ひとりで荒地を彷徨い歩いていたらしい。アイルランドにおいては修道士の脱落があまりに増え、ついに教会組織の存続すら危ぶまれる状況になった。その結果、彼らの脱落/漂泊を規制するための手段として荒地の真ん中に修行の場としての「修道院」が生まれることになった。(つまり修道院は、教会と修道士のいわば妥協の産物として生まれたということ。) 余談だが、前記のような背景もあって、教会自体を地上の世界から神の秩序の世界への漂泊の手段とみなす「旅する教会(エクレシア・ペレグリウス)」や、「巡礼者である教会(エレクシア・ヴィアトルム)」という表現が今でも残されているそうだ。(**)

  **…仏教でもなんだか似たような考え方はあって、一休や仙らがその生涯の在る時期
     に寺を出て漂泊したのにも似ている。どんな宗教でも信仰を突き詰めていくと、
     最終的にはそういうところに至るということなんだろうか?

 世の中、現世に疲れた時には永遠の価値、フヘン(不変/普遍)の価値を持ったものを求めたくなるもので、それが故に宗教の世界に足を踏み入れていく人は後を絶たない。本書の前半部には、修道士への道を選んだ人々との交流を通じて、もともと敬虔な信仰をもった人々が行き詰まりを感じた時にはどうするのか?について記されている。そしてそれらの人々がさらに純粋な信仰への道(=修道士への道)を歩もうと決意したとき、修道院さえ捨て去り(神のための)離脱者/逃亡者への道を選んでいく姿も。(最終的に彼らの将来に待っているのは、多くの場合は体が衰弱することによる死なのだという。これってまるで仏教でいう即身成仏や補陀落渡海のよう。)
…これだけストイックな姿を見せつけられると、宗教の本質って何なのだろうと考えてしまう。そこまで苦しみ抜くだけの価値が宗教にはあるのだろうか?

 話が重たくなってしまったので、少し話題を変えよう。
 コプト教にまつわる話として、古代のキリスト教から今のローマカトリックが成立していく過程に関して、面白い話題がのべられていた。山形によれば、当時のキリスト教における最大の対立要因は、『はたしてイエスは生まれた時から神であったか否か?』ということであったとのこと。
 十字架に架けられた後のイエスが神として復活したのは疑い得ないとして、問題は「イエスはマリアから生まれたときから神だったのか?」それとも「最初は人間として生まれ、のちに神となったのか?」これが当時の教会にとっては非常に重要な問題だったらしい。
 罰あたりと言われてしまうかもしれないが、異教徒である自分からすると「そんなことどっちでもいいじゃん」と言いたくなってしまうが(笑)、当事者にしてみれば大変な違いなのだろう。その昔に隆盛を誇ったネストリウス派などは前者の「キリストはもとから神と同一(=キリスト単一説)」という立場をとり、ローマカトリックは後者の「キリストは人間に生まれて神となった(=三位一体説)」を唱えた。やがてネストリウス派は「異端」の烙印を押されて衰退していくことになったが、その立場を今でも色濃く残しているのがコプト教なのだと山形は言う。したがって宗教人類学を専攻する立場としてコプト教を研究したいという気持ちは、とてもよく理解できる。
ロシア正教などの東方教会でもイコン(聖像)が大切な崇敬対象になっているなど、ローマカトリックとどことなく違う感じがしていたが、あれは「もうひとつのキリスト教」の姿を残したものだった訳だ。

 これに絡んで、今ふと思いついたことがある。
 ラテン系の国ではなぜか聖母マリアに対する信仰が非常に盛んだが、これはもしかして先程のキリスト単一説と三位一体説の対立に起因しているのではないだろうか。もしもキリストが最初から神であったとすれば マリアは「神の母」ということになる。とすればイエスと同じくマリア自身が特別な崇拝の対象になっても不思議ではない。一方、もしも三位一体の立場をとるならマリアは単なる「人間イエスの母」でしかない。それなら唯の人なので、敬愛はされても崇拝の対象にはなりにくいだろう。マリア信仰が過去から何度もバチカンによって抑圧されたという話をどこかで読んだ気もするが、それもキリスト単一説を異端とした経緯からすれば当然のことになる。(特に詳しく調べた訳じゃなく、単なる直感による推測にすぎないけれど。)
 ふーむ、これはそのうち同じ著者による『聖母マリア崇拝の謎』(河出ブックス)も読まざるを得まい。推測は当たっているだろうか? あたってたら嬉しいなあ。

本を食べる

 物心がついてからこのかた、楽しい時も辛い時も自分の傍らにはいつも本があった。
 (物理的にはともかくとして、)感覚的には自分の体の7割くらいは「本で出来ている」という感じがする。まさに「本を食べて育ってきた」という感じ。
 話は変わるが「運命の出会い」という言葉がある。実生活ではあまり経験がないが(笑)、本に関してなら今までに(その時は気付かなくても後から振り返ると)まさに「運命の出会い」とでもいうべき瞬間が確かにあった。幾つかのそんな「運命の出会い」を軸にして、今の自分がどのように出来上がってきたのか、今回はちょっと昔の記憶を辿ってみたい。

 生まれて初めて、自分ひとりで本を読めるようになったのは多分4、5歳のころ。親の転勤で新潟に住んでいたとき、家の近所の“坂井輪児童館”というところで、『ぐりとぐら』(なかがわりえこ・作、やまわきゆりこ・絵)という一冊の絵本と出会ったのがきっかけだった。
 この本は当時の自分にとって一番のお気に入りで、何度も読み聞かせしてもらったので物語を全て丸暗記してしまっていた。それならわざわざ読んでもらう必要はない訳だが、『本は自分で読むものではなく読んでもらうもの』と思い込んでいたので、性懲りもなく何度も読んでもらっていた。(さぞかし迷惑な子供だったろう。/笑) そんなある日、先生が忙しくて構ってもらえず退屈していた時、仕方ないので自分で絵を見ながら、暗記した文章を詠唱して「読んでいるふり」をしていると、頭の中にピーンと閃くものがあった。
 「もしかして、ページの上に絵と並んでのたくっている変な図形は、自分の出す音と一字ずつ対応しているのでは?」
念のために最初のページに戻って、順番に声を出しながら指で文字を辿っていくと、たしかに同じ発音の時には同じ形が使われている。

 「ぼ・く・ら・の・な・ま・え・は・ぐ・り・と・ぐ・ら…」

 こうして『ぐりとぐら』を何度も読み返すことで、自分はひらがなを覚えることが出来たのだった。(*)

   *…まるでシャーロック・ホームズの「踊る人形」みたいで出来過ぎのようだが、
     これはホントの話。特に「ほ」と「ぼ」と「ぽ」の違いが理解できた時は興奮して
     (これもホント)、おもわず「ユリーカ!」と声を挙げた(これはウソ)。

 『ぐりとぐら』に使われているひらがなを全部覚えたあとは、児童館の書棚にあった他の本を片っ端から「解読」していく作業に没頭した。文字の読み方が分からなくなると『ぐりとぐら』に戻り、確認したのち再チャレンジしていく。(つまり『ぐりとぐら』は、自分にとって“ロゼッタ・ストーン”みたいなものだったというわけ。/笑) こうして入学前には、漢字にフリガナが振ってある本なら、大概は自分ひとりで読めるようになっていた。(**)

  **…少し難しい話になるが、『プルーストとイカ』(メアリアン・エルフ/合同出版)
     という本がある。副題は「読書は脳をどのように変えるのか?」といい、要するに
     英語圏における言語習得とリテラシー(読解能力)について、脳研究の最新の成果を
     踏まえて紹介した本。これを読むと、英語のように発話と記述が一致しない言語に
     おいては、リテラシーの習得が脳にとってどれだけ大変なことか良く分かる。
     さっきの話も自分が日本人だったからおそらく出来たことであって、もしも英語圏に
     生まれていたら無理だったかもしれない。

 今ではどうだかしらないが、当時住んでいた新潟の地域には市立図書館というものがなかったので、本を読みたければ親に買ってもらうしか方法が無かった。その代わり(なのかな?)、当時通っていた“新潟市立/新通小学校”には、2年生以上を対象にして図書館の本を貸し出しする仕組みがあり、入学時のオリエンテーションで説明を聞いてから、2年生になるのが待ち遠しかった。
 2年生になってからはその反動もあってか、図書館にほぼ毎日入り浸る生活が始まった。最初のうちは子供向けの科学系の読み物や図鑑類を借りまくっていたのだが、そんな調子なので目ぼしい本はすぐに読みつくしてしまい、新しい分野を発掘すべく図書館じゅうの棚を物色し始めた。そして第2の「運命の出会い」が訪れることになる。
なんとも不可思議な題名にふと目が留まり、何気なく手に取ったのは江戸川乱歩作・ポプラ社版「少年探偵シリーズ(***)」の一冊、『電人M』という本。
 この時の自分がどんな気分でこの本を借りていったのか、今となっては記憶も定かではない。しかしこのあと図書館にあった30数冊の同シリーズを続けざまに全部借りて読むことになるとは、夢にも思わなかったのだけは間違いない。(笑)

 ***…自分は光文社版の第一次ブームが終わった後の世代なので、全く予備知識なく偶然に
     この世界に飛び込んだのだが、世のミステリ好きのエッセイなんかを読むと、多かれ
     少なかれ誰でもこんな「運命の出会い」をしている様子。まあ、いわゆる「お約束」
     というやつです。

 こうしてエンタテイメント系の小説の洗礼を受けた少年は、続けて横の書棚にあったポプラ社版「怪盗ルパンシリーズ(南洋一郎訳!)」を全て読み尽したのち、やがて4年生に上がる年に親の転勤で名古屋へと引っ越して、市立図書館というものがあることを知った。(もちろん学校の図書室の貸出し制度があることも真っ先に確認済み。)こうして4年生になってからというもの、両方の施設から毎週合計で8冊の本を借りる日々が始まり、本格的に活字中毒への道を歩き出すことに。まさに「生き地獄天国(by雨宮処凛)」とはこのこと。(笑)
 
 このような生活の中でポプラ社版「名探偵ホームズシリーズ(山中峯太郎訳!)」や、岩崎書店・あかね書房・偕成社・鶴書房・朝日ソノラマといった出版社から大量に出ていたジュブナイル(子供向け)とも出会ったし、それらを読み漁ったことで、SFやミステリに対する目を養うことが出来た。(それが良かったか悪かったかはここでは敢えて触れないが。/笑)
 それらの素養があってこそ、やがて中学校の図書室で「ポプラ社の本だから面白いかな?」という程度の軽いノリで、筒井康隆編著『SF教室』に手を伸ばし、第3の「運命の出会い」を迎えることになるのだが、話が長くなるのでここから先はまたいつか、気が向いたらと言うことで。

『「名づけ」の精神史』 市村弘正 平凡社ライブラリー

 法政大学教授である著者が、社会の様々な形相における矛盾に対して考察を加えた評論集。思想史や社会哲学を専門とする人だけに、取り上げられたテーマは社会のありとあらゆる分野に及んでいる。初出誌が「ちくま」とか「マリ・クレール」や「日本読書新聞」といえば、雰囲気が何となく分かってもらえるだろうか? これらの種々雑多な文章に共通性を見つけるとすれば「テーマ性」ではなく、それらの文章を貫いている「著者の視点」ではないかと思う。
 市村が注目するのは常に社会の病巣が露呈しているところであり、そのメカニズムを解くのに用いられるのはいわゆる「社会的弱者」と呼ばれる人たち。もしも社会が病んでいるのであれば、その病んでいる社会から「異常」というレッテルを張られたもの達に焦点をあてることで、病巣を逆照射することが出来るというのが(おそらく)著者の基本的な考え方のようである。そして「異常」というレッテルをはられるのはいつも弱者というわけ。
 具体的に言えば第1次大戦後ドイツ・ワイマール体制下における失業者たちの群れであるとか、江戸の周辺に吹き溜まった最下層の人々の「穢れ」であるとか。または『知覚の呪縛』(ちくま学芸文庫)における、精神分裂病(統合失調症)の患者との対峙であるとか。それらを巡る全部で11の文章が本書には収められている。
 内容は非常に真面目かつ難しいもので、ちょっと気を抜くと論旨が分からなくなってしまうという緊張感がある。個別の文章についてあれこれ言う気はないが、全体を通してのトーンはだいたい次のようなものと言って良いと思う。(もしも自分のつたない理解が正しいとすればだが。)

『世の中がこのまま弱者・敗者を「無いモノ」にするのであれば、我々の社会自体もやがては
 崩壊していく。それを防ぐために我々は何をすべきなのか?』

 著者は懸命にその先を模索しているように取れるが、本書を読む限りおそらく著者にも具体的な方策は見つかっていないのだろう。でもそれに向けた努力を続けるのは重要であり、漠然とではあるが「我々がとるべき戦略」が著者には見えてきている、そんな気もする。

 それでは市村が考える「とるべき戦略」とは何だろうか。
 それを簡単にまとめるとすれば、要するに「この世のありとあらゆる出来事やそこで生きる人々の“生の意味”が、まだ生き生きとしていた過去のある時点まで遡って、そこから今の現実を見返す」ということ。両者を比較することで、我々が過去に置いてきてしまった大切なものが見えてくるのではないか? そのあたりの話が、表題作や「逆向きに読まれる時代」などの短文で(ちょっと回りくどく)書かれていることに相違ない。
 以上、『知覚の呪縛』の後書で触れられていたので読んでみたが、予想以上に「地味」な本だったのでびっくり。ブログもまるで新聞に載ってる書評みたいな内容になってしまった。
 でもまあ、たまにはこんなのもいいか。(笑)

『質量はどのように生まれるのか』 橋本省二 ブルーバックス

 素粒子物理学の研究者である著者が、最新の研究を踏まえて書き下ろした「質量が発生するメカニズム」の解説書。パウリの排他律とかフェルミ粒子、ボース粒子とか、高校時代に習った言葉が次々に出てきて懐かしい。一般読者向けに数式を極力使わず説明してくれていて、僅かに出てくる数式も高校卒業レベルの数学知識があれば、何が書いてあるかくらいは充分に理解が可能。(ただし内容はさすがに難しい。クォークが登場したあたりから先、真空中で粒子と反粒子の対消滅が起こるとか量子色力学とかの記述になると、ホントにちゃんと理解できているのか自分でもちょっと自信が無くなってくる。)
 それでもすごく乱暴に結論をまとめてしまえば、だいたい次のような感じ。

 『真空で発生する粒子と反粒子の対称性が自発的に破れることによって、本来は光速であった粒子の速度が光速以下に遅くなり、そのため本来なら質量を持たなかった粒子が質量を獲得した。』

 まあ、やっぱり分かったような分からないような…。(笑)
 これをきちんと理解するには速度と質量の関係だとか(=特殊相対性理論ね)、そもそも真空とは何ぞや?だとか、前提として知っておかなければいけない話が沢山あるので、一言で説明するのは正直言って無理。(笑)
ただ、良くできた科学解説書を読んだ時にいつも思うことだが、多くの研究者たちの努力によってこれらのことが分かってきた経緯を読むと、本当に面白い。
 普通ではまるでありえない不可思議な犯罪(現象)がおこるが、やがて探偵(理論科学者)による天才的な推理と警察(実験科学者)による地道な捜査が真犯人(原因)を追いつめていき、ついには唯一の合理的な答えが白日のもとに晒されて大団円を迎える。 ―まるで良くできたミステリを読んでいる感じがしてこないだろうか。
数式が出てくるのが嫌だとか、そんなことを知って何が面白いのか?だとか、理系の本は好き嫌いがはっきりと分かれがちだが、ミステリ好きな人なら意外と面白がってくれそうな気もする。どうだろう?

 この分野における次のビッグイベントは、ヨーロッパで2009年に稼働を開始した「大型ハドロン衝突型加速器(LHC)」によって、「ヒッグス粒子」および「ヒッグス場」のエネルギー状態が分かること。結果が出るのが何年先になるかは分からないが、それを愉しみに待つことにしよう。

<追記>
 立花隆は10年ほど前に、これから面白くなる研究分野として「脳科学」「再生医療」などとならんで「素粒子物理学」を取り上げていた。当時はそんなものかな?くらいにしか思わなかったが、今にして考えるとその先見性の高さには脱帽。

<追記2>
 この記事を書いてから2年弱ほど後の2012年7月4日。アメリカ合衆国の独立記念日に記念すべきニュースが飛び込んできた。99.9999%の確からしさで、17番目の新たな粒子(つまりヒッグス粒子)が発見されたとのこと!新聞の1面にデカデカと取り上げられるほどのビッグニュースではあったが、解説を読んでも皆いまひとつ理解できなかった様子。職場でもまったく話題にすら上がらなかったのは、返す返すも残念なことだった。
 でもいいのだ。ひとりでこっそり祝杯を上げたから。(^^)

『アフォーダンス入門』 佐々木正人 講談社学術文庫

 知ってそうで詳しく知らないことの再入門シリーズ、今回は「アフォーダンス」について。
 いやあ、なんでも読んでみるものだ、ダーウィンの申し子がこんなところにもいるとは思わなかった。進化論だけでなく「アフォーダンス」という概念までもが、源流を辿るとダーウィンだったとは。
 ただし正確にいうと、ダーウィンが直接にアフォーダンス概念を考え出した訳ではないらしい。彼は進化論を発表後は、田舎にこもって晩年まで植物のツルや根の発達の様子、それにミミズの生態などを研究していた。それらについてダーウィンが考えていたことを敷衍/発展させると「アフォーダンス理論」そのものになるということ。(詳しくはもう一度あとで述べる。)
 「アフォーダンス理論」そのものはアメリカ人のジェームズ・ギブソンという心理学者が初めて提唱した概念で、正確には「生態心理学(エコロジカル・サイコロジー)」という学問分野のキーワードである。さらに言うと、アフォーダンス理論とダーウィンの研究の共通性を指摘したのはギブソン自身ではなく、エドワード・リードという別の人とのこと。これらの経緯は本書の冒頭に詳しく説明されている。

 で、早速だがこの「アフォーダンス」というのがどういう概念かというと、「生物はあらゆる外部環境についての情報を、入力器官で得たのちに脳で分析して最適な行動をはじき出しているのではなく、環境がアフォード(提供)する情報に基づいて自然に最適解が導きだされる仕組みを生まれながらにして持っていると考えるべきでは?」ということ。つまり「生物のあらゆる行為は“生物の自律的な判断”の結果ではなく、“環境と生物との共同作業“で自然に生まれたものだ」と言い換えても良い。― ああ、言い換えてもやっぱり分かりにくい。(笑)
 このように、概念自体を言葉にするだけなら短く済んでしまうのだが、その意味を(特に実感として)正確に理解するには、ちょっとした補足の説明が必要になる。そこで本書では、ダーウィンの研究事例などの色々な具体例を用いて、懇切丁寧に説明してくれている。

 「アフォーダンス」を説明するには、まず「ブルート・ファクツ」という言葉について知っておく必要がある。これはアメリカの生物学者・ギゼリンが『ダーウィンの方法の勝利』(1965)という著作で述べたもので(*)、直訳すると「在るがままの事実(運動)」という意味だが、要するに「動物や植物が生まれながらにして持っている(生得的な)動きが、外部の環境の影響を受けて変化することによって、この世のありとあらゆる行為(の結果)が生じている」ということ。
 生物が活動することで環境から生物に新たな周囲条件が顕在化/提示(=アフォード)され、それに合わせてブルート・ファクツ」が変化・適合を繰り返して最適な行為を見つける、というのが「アフォーダンス理論」の骨子にあたる。このあたり、抽象的な話が続くので理解しにくいと思うが、大事な話なので省略せずに説明する。なるべく分かり易くするために、具体的な例を使っていこう。
 植物の根は、種が発芽しても空中に浮かせた状態で伸ばしてやると、ぐるぐると回旋運動をしながら伸びていくらしい。また、回っている根の先端が僅かでも何かに触れると逆向きに動いて避ける運動をしたのち、再びもとの回旋運動にもどるという。そのため普通の発芽状態では、根は土中で石や堅い地層にぶつかりながら伸びていくため、自然に石の隙間や柔らかい地層をうまく見つけて、結果的にとても複雑な形に成長を遂げることになる。植物が柔らかい地層を見つける為に特殊な感覚器官を発達させているとか、どこに根を伸ばすと良いのか(まるで人間のように)判断しているとかの、小難しい仮説をひねり出す必要は全然なくて、単純な原理であらゆる外部環境の変化に柔軟に対処できるのが生物の凄いところだ。― とまあ、大体こんな考え方の事。
 将来に起こるであろうことを何ら予期している訳ではなく、「周り」と出会って初めて変化が生じ、その結果として生物の行為に驚くほどの多様性が見られるようになる。いわば「多様性のタネ」のようなものだといっても良いかも。これって、なるべく単純な原理で世界の複雑な現象が説明できてしまう点で、進化論の大元にある考え方と良く似ている気がする。
 因みにダーウィンは「エボルーション(進化)」という言葉を使うことにとても慎重だったらしい。その理由はこの言葉の中には「最初から予定されて畳み込まれている」「萌芽的な状態から広がって、成長した状態に至る」といったニュアンスが含まれているから。彼が代わりに好んで用いたのは「変化をともなう由来(descent with modification)」という言葉だったそうだ。

   *…「イントリンジック・ダイナミクス(力学系としての固有性)」という言い方も
     あるらしい。こちらは同じくアメリカのテーレンという心理学者が、赤ん坊の
     動きを観察して発見・提唱し始めた概念だが、意味は「ブルーノ・ファクツ」と
     ほぼ同じとのこと。かようにアフォーダンス理論の発展には多くの人が関係して
     おり、それも話をややこしくする一因になっている。(笑)

 ここから見えてくることは何かと言うと、全てを統合して身体の制御を司る「“司令塔”のような脳」というイメージが間違っているということ。「入力→演算→出力」と考えるのではなく、まわりの環境に合わせて「その都度(自分の目的に合った)最適な行動を選ぶ”システム“としての脳」と考える方が理にかなっている。
 まずは複雑な情報を与える「環境」が先にあり、眼や鼻といった複雑な「感覚器官および知覚」は、その結果でしかない。なにか特別なことをしようとして生物が水晶体や虹彩などを作り上げた訳ではないのだ。(ましてやこの世のあらゆることを創造した絶対者を想定する必要もない。)今ある生物が出来あがってきた仕組みを探るのに、結果からあれこれ類推するのは意味がないし、逆に間違いのリスクを増やすばかり。自然(=生き物の成り立ち)には意図も目的もないのだから、あるがままを素直に見るべきだろう。

 ギブソンって人は、結構すごいことを考えたと思う。マトゥラーナとバレーラの『知恵の樹』(ちくま学芸文庫)の題名の由来ではないけれど、この「アフォーダンス理論」こそ、一度口にしたら二度と元の無垢な世界には戻れなくなる禁断の「知恵の樹の実」なのでは? 生物個体と環境の二元論を否定することで、多分確実に世界の見方は変わるだろう。
 ただしこの手の社会科学や人文・心理的な話は、自然科学におけるパラダイムと違い、事実としての確からしさを仮説同士で競い合うものではないため、納得した人は世界の見方が変わるけれど納得できなかった人はそれっきりとなる。さらに慣れないうちは従来のモノの見方とごっちゃになって結構混乱するので、多少の「訓練(練習)」が必要になりそう。軽く“お試し”してみるという訳にいかないのが辛いところ。「世界をこんな風にみたらどんな可能性が開けてくるのか?」という点がはっきりしないうち、つまり「世界を切り開く思考道具としての可能性」が未知数であるうちは、「伸るか反るか」の判断はまだまだ保留にされているのが今の正直なところではないだろうか。精神病の画期的な治療法への糸口になるとか、何か具体的な成果が出来たりするといいのだろうけど。(それとも、このように学問を功利的な基準で判断してしまうのは邪道で、本来なら新しい世界の見方を考え出したという知的成果だけで満足すべきなんだろうか?)

 最後になるが、精神科医の計見一雄による解説もGoodだった。

<追記>
 海外のニュースで、目が不自由な人に障害物が沢山ある部屋を歩かせる実験というのがあった。本人には障害物があるということを知らせず、ただまっすぐに部屋を歩くように指示をだしたところ、眼が見えていないにもかかわらずうまく障害物を回避して部屋の向こう側まで歩けたというものだった。しかも、本人も自分は真っすぐに歩いたと思っていたらしい。回避行動は無意識だったというのだ。
 このような話があるとすぐに「超能力」のような特別な感覚器官の可能性とか、「自我とエス」といったややこしい話が出てきがちだが、もしかしたら「アフォーダンス」で簡単に説明がつく話なのかも知れない。
 前方に様々な障害物がある環境というのはごく当たり前のことであって、それを事前に感知して回避するために発達したのが眼や耳といった感覚器官だったとすれば、それらの感覚器官以外にも環境因子を取り込む何らかの仕組みがあって不思議ではない。また、「真っ直ぐ歩く(=障害物の向こう側に到達する)」という行為を完結させる為に、必ずしも「“司令塔”のような脳」の判断が絶対必要なわけでもないだろう。
 もしもこのような多くの事例が「アフォーダンス理論」で簡単に解明できるのであれば、もしかしたら定説として広く認知される日も、意外とそんなに遠くないのかも?
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