2010年7月の読了本

『死にとうない 仙和尚伝』 堀和久 新人物文庫
  *禅僧・仙を題材にした時代小説。破天荒な人物像がうまく描かれている。
『クラッシュ』 J・G・バラード 創元SF文庫
  *バラードの最高傑作との声もある問題作。クローネンバーグによって映画化された。
『松岡正剛の書棚 松丸本舗の挑戦』 中公公論新社
  *東京駅の丸善の中にある丸善と松岡正剛のコラボ企画、「松丸本舗」の書影が
   ふんだんに掲載されたブックガイド。これを見たら読みたい本がまた増えてしまった。
『他界をワープする』 小松和彦/立松和平 朝日出版社
  *各分野の専門家から門外漢へのレクチャーという形式をとった対談シリーズの一冊で、
   本書のテーマは「民俗社会」。とても面白い!
『言語・思考・現実』 B・L・ウォーフ 講談社学術文庫
  *「言語が思考を規定する」という刺激的な考えを初めて提唱した言語学者による、
   論文やエッセイを集めた本。海外で編纂されたものから抜粋してある。
『春宵十話』 岡潔 光文社文庫
  *数学者である著者によって60年代に書かれた、教育論を中心とするエッセイ。
   「情緒教育」を主眼に置いた主張でありPHP研究所あたりがすごく好きそうな内容。
   沢山の本の中には一つくらいこういう本があってもいいし、松岡正剛が高く評価した
   理由も何となく理解できる。ただ(新渡戸稲造の『武士道』と同様に)、この手の本が
   ベストセラーになるという今の風潮はどんなものだろうか。
『一休・正三・白隠』 水上勉 ちくま文庫
  *異端の禅僧である一休宗純、鈴木正三(しょうさん)、白隠掛錫の3人について、
   文学者にして仏教者である著者が書いた評伝。やっぱり一休はいいなあ。それに比べて
   白隠は生真面目過ぎて小さくまとまり過ぎた感がある。一休や仙を「大悟」とすれば
   白隠は「小悟」のイメージがあってどうしても負ける。(正三は言わずもがな。)
『うなぎの丸かじり』 東海林さだお 文春文庫
  *食べ物をテーマにして東海林さだおの長寿エッセイ。同じテーマでよくもまあこれだけ
   長いこと続けられるなあ、と言いつつどうしてもやめられない。(笑)
『知覚の呪縛』 渡辺哲夫 ちくま学芸文庫
  *精神分裂症(統合失調症)の患者との対峙を通じた、精神科医の思索の記録。
『悪魔祓い』 ル・クレジオ 岩波文庫
  *フランスのノーベル賞文学者による、若かりし頃に書かれた文明批評の書。
『NOVA2』 大森望 編 河出文庫
  *文庫オリジナルのアンソロジー第2弾。『クォンタム・ファミリーズ』で三島由紀夫賞を
   受賞した東浩紀が同シリーズの作品を寄稿するなど、執筆陣が結構充実している。
『編集者の仕事』 柴田光滋 新潮新書
  *新潮社に長年勤めて書籍の編集に携わった著者が、書籍の編集者が担当する仕事のうちで
   主に「本づくり」という“ハード面”についてまとめた本。筑摩書房の名物編集者である
   松田哲夫が「本の企画から原稿の取得」にまつわる体験を書いた『編集狂時代』
   (新潮文庫)とあわせて読めば、編集者の仕事を理解するのに完璧。
『火星年代記[新版]』 レイ・ブラッドベリ ハヤカワ文庫
  *言わずと知れたオムニバス長篇の「名作」。“新版”が出たと聞いて数十年ぶりに読み
   返した。実は中学の頃はそれほど感心しなかったのだが、改めて読み返したら割と
   面白かった。(但し好い話ほど無理に火星を舞台にする必要はないところが辛い/笑)
   気に入ったのは「荒野」「第二のアッシャー邸」「長の年月」、他に良くできていると
   思うのは「霧の夜」「優しく雨ぞ降りしきる」「百万年ピクニック」あたりか。
『アフォーダンス入門』 佐々木正人 講談社学術文庫
  *“新しい世界の見方”を提供する概念「アフォーダンス」についての解説書。
   「アフォーダンス」はとても重要な概念だと思う。
『素人庖丁記』 嵐山光三郎 講談社文庫
  *嵐山の“食”に関するエッセイシリーズの記念すべき1作目。講談社エッセイ賞を受賞
   した傑作。嵐山の本は結構クセがあり好き嫌いが分かれるかも知れないが、この
   シリーズはそのクセもとてもいい風味になっていて大ファンである。
   小ナスを盆栽にして、木に実ったままヌカ漬けにしたり、カツオ節を水でもどして
   刺身にしたりと、著者の飽くなき好奇心は留まるところを知らない。
『「名づけ」の精神史』 市村弘正 平凡社ライブラリー
  *社会の様々な病巣に著者ならではの焦点をあてる評論集。
   『知覚の呪縛』に関する一文も掲載されている。
『砂漠の修道院』 山形孝夫 平凡社ライブラリー
  *宗教学の研究者によるコプト教(エジプトのキリスト教)の修道院における
   フィールドノート。
『素人庖丁記4 ごはんの力』 嵐山光三郎 ランダムハウス講談社文庫
  *傑作エッセイシリーズの完結編。
『統合失調症あるいは精神分裂病』 計見一雄 講談社選書メチエ
  *臨床精神科医による、精神医学関係者への全9回に亘る講義録。べらんめい調で
   ズケズケとしたもの言いが心地いい。こんな感じの人、好いなあ。
『量子回廊』 大森望/日下三蔵 編 創元SF文庫
  *<年間日本SF傑作選>の第3冊目で、2009年に出版された短篇を対象にした
   文庫オリジナル。どの作品もそれなりに面白く読めたが、自分が特に気に入ったのは
   以下の3つの作品。
   皆川博子「夕陽が沈む」、八木ナガハル「無限登山」、新城カズマ「雨ふりマージ」
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『悪魔祓い』 ル・クレジオ 岩波文庫

 著者ル・クレジオは2008年にノーベル文学賞を受賞したフランスの文学者。本書は著者が1967年に中米のインディオ/エンペラ族・ワウナナ族の集落に滞在した経験から、得られた知見によって書いた散文型の文学作品。もともとは美術叢書の一冊として、原始美術について述べるように依頼されたもののようだ。そのためか、(一応は)美術的な題材を扱ってはいる。ただし実際には美術とは殆ど無関係で、中身はほぼ全編が西洋文明批判に終始している。
 原著の出版は1971年とのことなので、時代背景としてはベトナム戦争や公害によって従来の西洋文明の限界が叫ばれ始めていた頃。その反動としてフラワームーブメント(ヒッピー文化)が盛んになっていた時期にも重なっている。1920年に出版された『パパラギ(*)』が、ヨーロッパで再評価されたのもちょうど同時期なので、著者の狙いもほぼ同じと考えていいだろう。

   *…サモアの酋長ツイアビが西洋文明に触れて、文明に毒されていない目でその
     いびつさを指摘するというスタイルをとった本。「パパラギ」とはサモア語で
     「白い人」という意味。実話だとばかり思っていたが、どうやらドイツ人の
     エーリッヒ・シュールマンという人が書いたフィクションだったらしい。

 先程、『パパラギ』も本書『悪魔祓い』も狙いはほぼ同じと言ったが、アプローチの仕方についても両者は良く似ていて、第三世界の文化が西洋文明へのカウンターカルチャーとして利用されている点で共通している。『パパラギ』では焦点を当てる対象が南太平洋のサモアだったのに対して、本書では中南米のジャングルに住むインディオ部族を取り上げているが、いずれもたまたま著者が数年間滞在して衝撃を受けた場所ということらしい。
 視点ははっきりしている。「物質的には恵まれていても心が貧しい現代社会」vs「無垢で素晴らしい原始社会」という見方が貫かれており、『パパラギ』が第三世界の視点で西洋文明を見るのに対して、『悪魔祓い』では西洋の視点で第三世界を見ているところが違っているくらい。

 以上で本書についてはほぼ言い尽くした感があるのだが、内容についても一応軽く触れておこう。
 構成は全部で3つの章に分かれている。ただし著者の執筆目的は学術報告ではないので、あくまで大まかな括りとして考えるべきだろう。それぞれの章の中身を大雑把にまとめてみると、それぞれ「①見る/話すという行為」、「②歌う/話す/演奏するという行為」、「③絵や彫刻などの美術」などについて書かれている。学術的に正確な「客観的事実」の記述ではなく、ル・クレジオ本人がそれらに対して感じた主観的な印象が中心で、書き方はとても「文学的」。(文学者なんだから当り前か/笑。)
 それではル・クレジオはインディオの社会に具体的には何を見たのだろうか? それを一言でまとめてみると、「原始社会においては抽象思考には一切興味がなく、あるのは現実のみ」という事になる。「ロゴス」とか「ドクサ」とか、あれこれと抽象的なものに振り回されて不幸になるくらいなら、彼らの純真無垢な生活を見習いなさいヨと言っている訳。
 例えば西洋とインディオの文化が本書でそれぞれどのように対比されているかを並べてみると次のようになる。
    <西洋>         <インディオ>
      言語    ⇔    沈黙
    音楽・歌    ⇔    自然の音の模倣・呪文
   絵画・美術    ⇔    呪術・道具

 うーん、言わんとすることも良く分かるし、スタンス自体は決して悪くは無いと思うのだが、少し違う感じがするなあ。世界はそんなに単純にスパッと切れるものではないのに、問題を少し単純化し過ぎているのではないか?
 著者はインディオ達の思考深くに踏み込もうとはせず、あくまでもそれが自分に与える印象の記述に終始している。もとより厳密な事実描写を望むわけでもないし、文学者の仕事としては充分に「あり」だと思う。ただ、一番不満に思うのは、本書の中に当のインディオ達は不在だということ。著者が「先述の比較のように感じた」のは間違いないにしても、インディオ達は本当にその通りに考えていたのだろうか? 勝手に賛美をするのは良いけれど、それは誤解に基づいたものだったということは無いのだろうか?(喩えるなら、日本人が欧米人から「ZEN(禅)」という言葉を聞いた時に感じるのと同じ、何とも言えない座りの悪さとでも言えばよいかも知れない。)

 『パパラギ』を読んだ時にも少し感じたことだが、自分の「西洋人」という立場は変えないままに、単に自分の観点から西洋文明を相対化するための手段としてだけ、これらの異文化を解釈しているような気も...。もしそうだとしたら、それって少し西洋文化特有の傲慢さが出てやしないだろうか?
 口の悪い良い方をさせてもらえば、今福龍太の『クレオール主義』に出てきた、ニューギニアの原住民集落を回るパックツアーと何が違うのかという感じすらしてしまう。自分の世界観や価値観を壊すほどの衝撃を受けたのであれば、是非とも頑張ってその体験を共有できるように表現してもらいたいし、それが出来るのが文学者としての資質ではないだろうか。
 本書とレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を、細かい点に立ち入って比較しても、かなり面白そうなものが出来そうだが面倒なので(笑)やめておこう。でも「文化人類学者みたいな文学者」と「文学的な文化人類学者」の対決って、想像するとちょっとワクワクするなあ。
 『悲しき…』を読んだのはかなり昔のことなので、おぼろげな記憶を辿ってみると、両者の違いは記述の正確さ以外にも色々とあった気がする。それは文学者と文化人類学者という両者の立場の違いだけでなく、何かもっと根源的なところで...。(『悲しき熱帯』という題名には、西洋文明との接触によって失われていくものへの「レクイエム(鎮魂歌)」という意味合いもあったと思うんだけど、記憶があまり定かではない。)

『知覚の呪縛』 渡辺哲夫 ちくま学芸文庫

 何気なく読み始めたが、とんでもない「猛毒」を持った本だった。「猛毒」という表現がきつ過ぎるというなら「劇薬」でも良いが、どっちにしても脆弱な自己意識では一撃のもとに粉砕されそう。内省してしっかりと自分の基盤をもたない人が生半可な気持ちで臨むと「自分」を足元から掬われる、そんな感じ。精神病に関する本を読んだ時はいつも似たようが感触はあるものだが、今回はとくにそれが強く、盤石だと思っていた自分のすぐ足元の土台がこれほど脆弱なものだったのだということを、いやと言う程に思い知らされた。(読んだ者を精神的に不安定にさせるほど強烈な「毒」を持つ本は、もしかすると岸田秀の『ものぐさ精神分析』(中公文庫)以来かもしれない。ただしこちらの方が毒性ははるかに強い。)
 かつて「精神分裂病」と呼ばれていた病がある。(今では「統合失調症」と名を変えているが、呼び方を変えることにどれほどの意味があるかは不勉強なので分からない。)本書は10年間の長きに亘って、ある重篤患者の治療に向き合ってきた医師が書いた思索の記録である。患者本人の外面的な様子だけでなく、本人の内面的な苦しみにまで大きく踏み込んだ本書の内容は、当事者もしくは関係者の人にとって、とても“お気らく”などと言えるようなものでないことは充分に承知している。このような本を“面白い”といっては不謹慎とのそしりを受けそうだが、好奇心の赴くままに手に取った読書の記録と思ってご容赦頂きたい。むしろ深刻な問題であればこそ、一歩引いたところから見つめ直すという意味で、敢えて「気楽に」構える効用もあるのかも知れない、とでも思って頂ければ幸甚である。

 「生きている実感」がない。“生きがい”とかそんな高尚なものではなく、ただ普通に息をしたり歩いたり話したり、今この場に自分が居るというただそれだけの実感すらない。不幸にもそんな状態に陥ってしまった人が世の中には存在する。傍から見ていると支離滅裂な言動ばかりが目についてしまい、過去には動物並みの扱いしか受けられなかった人すらいた。著者は精神科の臨床医師として、長年このような病をもった人に接してきた人物である。その経験の中でもかなり重症なひとりの患者に対して真摯に向き合った結果、その人の奇矯な行動は決して本人の心が「壊れたり」、「分裂してしまった」わけではなく、本人なりのある「論理」に従ったものであることに気付いたという。
 治療法を探るためにその「論理」を追求する過程において、果たして普通の人が感じている“生”の実感とはいったい何なのか?という哲学的な問いにも、逃げることなく真正面から向き合うことになっていく。ここに吐露されているのはひとりの医師としての、「患者への誠実さ」に対する告白と言っても良い。
 自分は精神医学について詳しい知識を持っている訳でもないし、克明かつ圧倒的なリアリティをもって描写される本書に対しては、生半可な論評は差し控えるべきだろう。ここからは本書の内容を極力書いてある通りに(且つなるべく平易に)まとめられるよう努めたい。

 本書で取り上げられている患者は、イニシャルをとって仮に「Sさん」と呼ばれている女性である。正確には精神分裂病(統合失調症)の場合は自我が壊れてしまっているので、普通の意味で「Sさん」と呼べるような人格は存在しないというヘビーな話題がいきなり冒頭で語られるともに、「実存」に関する考察がしばらく続くが、今回の趣旨とは外れるのでここでは省くことにする。
 Sさんは一日じゅう同じ場所で円弧を描いてぐるぐる回りながら、ぶつぶつと呪文らしきことをつぶやいている。普通なら「精神病なのだから行動にちゃんとした意味はない」と考えて外面からの理解に留めることが、(自らの精神衛生上からも)妥当な判断だろう。しかし著者は敢えて患者の内面に踏み込むことで、患者と同じ位置に立って世界を理解しようとする。その結果見えてきたのは、患者の中に構築されている、「論理的な整合性がとれつつも平衡を逸している」精神世界だった。
 Sさんにとって、この世界は「現実」ではない。全てが偽物の「ワラ地球」であるという。「本当の世界(理想の世界)」から落っこちて「偽物の世界(今いる世界)」に閉じ込められてしまったSさんは、全てが偽物の「ワラ地球」で周りを「ワラ人間たち」に取り囲まれながら暮らしている(と感じている)。そして何とかして本当の世界である「オトチ(お土地?)」に“帰りたい”ともがき苦しんでいる。彼女が一日じゅうやっていた謎の行為は、実は自分の行動で「ワラ地球」を「オトチ」に変え、少しでも「オトチ」を増やそうとする彼女なりの(はかない)試みだったのだ。
 彼女の行動を観察したり本人との会話を通じて、デタラメどころか極めて整合性が取れた「論理」の存在に著者は気が付く。そして「ワラ地球」から脱出しようともがく彼女の行動は、さらに自分自身を追いこんでしまう「デッドエンド」に至ることに…。以下、(詳細は省くが)これらの考察が数章に亘って繰り広げられるさまは、まるでミステリを読んでいるような感さえあって知的興奮をさそうものであった。
 このまま放置しても病状が自然に改善していくことはあり得ない。そこで著者は治療の可能性を探るため、症状の原因となっている要素に深く分け入っていく。その結果行き着いたのは『①自我が肉体と同一化してしまう“肉体自我”とよばれる現象』と、『②自我の確立に必要不可欠な“他人”が存在していない荒廃した精神世界』の2つであった。
 ここは分かりにくいところなので言葉を少し補足する。
 普通の人は、思春期ごろに精神的な統合体である「自我」が確立する。それによって「自分」という存在や、自分の「肉体」を客観的に見つめることが可能になり、第2次性徴による劇的な変化を乗り切ることもできる訳だ。ところが(なぜだか原因は分からないが)ごく稀に「自我」が希薄になって力が弱まり、「肉体」と一体化してしまうことが起こる(らしい)。そうなると自我は外界にむき出しとなって自分を守ることができず、やがてバラバラに分裂して消滅していく。たぶんその間、本人にとっては生きながら体を引き裂かれるような苦しみが続くのだろう。
 本来なら「肉体」と独立した統合的な存在となるはずの「自我」。それは結局のところ周囲の人や環境との関係で培われるもので、いわゆる「他人」の存在を鏡(土台)として初めて確立されるものである。「自我」の力が弱まり「肉体」に癒着していくということは、すなわち「自我」の確立に不可欠な「他人」の認識に不都合が生じていると考えられる。自力で何の助けもなく「自我」に成るのは人間には不可能なことであり、それが出来るのは「神」に他ならない。(*)

   *…もしくは他人が存在しないままに自我を作り上げたのは「狂った神」なのだろうか?
     (神学的な話題になると収拾がつかなくなるのでこれくらいで止めておこう。)

 著者はこれらの考察に基づいて、Sさんの治療のために、全てが偽物の「ワラ地球」において唯一の、確固たる「他人」になろうと決意する。その結果、彼女の治療が成功したかどうかは、何をもって「治癒(寛解?)」と見なすかにも依るので何とも言えないが、少なくとも生きていく上でのいわれなき苦しみは和らいだようではある。

 「実存」でも「現象学」でも「力への意思」でもどんな呼び方でも良いが、結局のところは冒頭にも書いたように「生の実感」こそが一番重要ということ。哲学・思想も精神医学・心理学も、全てはそのための手段であればこそ重要なのだと思う。そしてその先に現れてくるのは、「倫理」という言葉で表されるものであるような気がしてならない。(話が抽象的で分かりにくいものになってしまった。)

<追記>
 根拠があるわけではなく単なる直観ではあるが「環境」とか「福祉」、そして「ユニバーサルデザイン」とかいうものを突き詰めた先にあるのも、同じく「倫理」の世界ではないだろうか。
 もしそれが正しいとすれば、そこで必要になるのは絶対的/数値的な基準なんていうものではなくて、きっと我々ひとりひとりの個人的な内省であるはず。表面だけを軽く触る程度ならともかく、中途半端な覚悟で深く入り込むときっと大火傷することになるだろう。しかし行政やメーカーという大きな組織の歯車である自分は、はたして納得できるような成果を出すことが出来るのだろうか? そして自分たちはどこまで意識を高く持てるのだろうか? ―まあ頑張るしかないんだけど。

『言語・思考・現実』 B・L・ウォーフ 講談社学術文庫

 おそらく言語学の分野において最も早い時期に、『言語は単に思考を伝えるための道具ではなく、言語こそが思考を形作る器である』ということを示した言語学者による、7つの文章を集めた本。
 例えば「エスキモーには雪の種類を説明するための単語が何十個も存在する」という話を聞いたことがあるかもしれない。それだけの単語があるということは、彼らがそれだけの雪の状態を判別できるということでもある。訳者の説明によれば、このことに初めて言及したのがウォーフの論文ということらしい。本書には研究論文の他、専門誌の為に書いたエッセイなどの文章が収録されている。更に原著(注:この本はウォーフ全集の抜粋)の編者による(非常に長い)評伝/解説も収録されていて、彼の業績に初めて触れる人間にとっては大変ありがたい一冊になっている。
 で、さっそく中身についてだが、実を言えば本書の面白さは個々の論文で述べられる実例の細部にこそあるため、要約するのはとても難しい。それでも無理を承知で、興味深かったものについて何とかまとめてみよう。

 ネイティブ・アメリカンにはホーピ族という種族がいる。彼らの言語にはなんと「時制」を表現する品詞が存在しないらしい。それではどうやって過去や未来のことを話題にするのだろうと思ったら・・・何とホーピ族には「過去」や「未来」という概念そのものが存在しない(!)というのだ。(しかもそれでいて論理的な整合性は成り立っているとのこと。)
 それでは代わりにあるのは何か?というと、それは「顕現されつつある」という尺度なのだという。なんだか良く分からないが、要するに話者自身が実際に体験したか体験していないか?という「体験の強度」のようなものらしい。『顕現度が強い』すなわち実体験(≒主観)に近いほど我々の「現在」という概念に近く、『顕現度が弱い』すなわち伝聞(≒客観)の要素が強くなるほど、我々で言う「過去」の概念に近くなる。したがって彼らにとっては、遠い街でおこった出来事は自分との関わりが薄いという点で、過去の出来事と同じ扱いになるのだ。
 また“朝~夜”や“春夏秋冬”という「ある期間のひと区切り」についても感覚が違う。ひとつのサイクル(一日、一年など)が終わり新しいサイクルの始まりに際して、彼らは我々のように「次の“新しい時間“が始まる」とは考えない。ひとつの全く同じ「時(一日、一年など)」が、繰り返して何度も訪れるというイメージであるらしい。(それでは彼らの思考からは「進化」という概念は生まれようがないということか??)
 以上、やはり完璧に要約するのは到底無理だが、雰囲気くらいは伝えることが出来ただろうか?

 本書を読んでいて、ひとつだけ残念だったことがある。ウォーフは現地語(ホーピ語、ヌートカ語など)から多くの実例を取り上げ、動詞や名詞といった品詞のレベルで現地語と英語を比較検証している。その論旨は非常に明快で説得力があるのだが、如何せん自分にとっては取り上げられたどの言語も、母国語(日本語)ではないのでいまいちピンとこないのだ。自分にとっては馴染みが薄い英語と、馴染みが“薄い”どころか今まで全く聞いたことすらないホーピ語やヌートカ語を比較されても、分かりづらいこと甚だしい。(笑)
 単語の持つ細かなニュアンスの違いが直観的に理解できないため、本文のロジックを追うのが精いっぱいで、「そうか!」と膝を打つような感じにはなれないのが本書を読んでいてじれったい部分。(その意味では決して読みやすい本ではない。)

 余談になるが、本書を読んでいるうちに中学時代のことを想い出した。ある日、英語の授業で未来形(Will be…)を習ったときのこと、日本語で未来を指し示すときは純粋に「現在から先の時間に」という意味合いが強いが、英語の“Will”には、「○○する(つもり)」という話し手の「意思」が含まれるという説明を聞いた。その時、英語の「未来」という概念に少し違和感を覚えたのだが、それがヨーロッパ社会において“人の自由意思”による未来の選択とか、彼らの歴史感には“過去からの進歩”を意識する傾向があるという事実とつながったのは、だいぶ大人になってからのことである。

 話を戻そう。繰り返しになるが「言葉(=単語、構文、文法etc.)」がないということは、すなわちその概念自体が思考として存在しないということである。違う言語を使う者の間では、そもそも思考形態、つまり世界の捉え方自体が異なっていることになる。例えば西洋哲学で「実体」の有無が問題になるのは、たまたま印欧語において文中のある位置を満たすために「実詞」が必要だったからだけなのかもしれない。また物理学で「力」があるとされているのは、印欧語では文中のある場所を満たすのに単に「動詞」が必要だった為なのかもしれない。(以上の例は本書からの引用。)
 この考え方は、世界を理解する知の枠組みがひとつではない可能性を示していると言える。
 もしもその仮定が正しいとすれば、文章に必ずしも主語を必要としない日本語と、文を成り立たせるために主語が必須の印欧語の間においても、ホーピ族と英語の関係と同じことが言えるだろう。日本語の「主語と文の主体は別物」という特徴が、独特な日本文化を形成する礎になっていて、やはり日本語でないと日本的な思考は無理ということなのだろうか? もしかしたら“無常”や“うつろい”といった世界観は、印欧語との言語的な相違によって生み出されたものなのかもしれない…などと考えるとちょっと面白い。(もちろん中国語や韓国語でも同じことが言える。)
 日本語は母音の数が少なく、しかも子音が単独では存在しないなど、世界的にみても音韻数が少ない言語であり、同音異義語が多くなる。そのため漢字を併用して視覚的に区別しないと単語の正確な意味がイメージできない、つまり世界でも珍しい「視覚優先」の言語であるという話を聞いたことがある。もしもそれが本当ならば、国語審議会などが述べる「読めるけど書けない漢字は意味がないので、当用漢字から無くして漢字の数を減らせ」だの、「パソコン時代に漢字などという時代遅れのものを使うのは止めて、全てひらがなにせよ」といった意見は、おそらく日本人の拠りどころを根柢から崩していく暴挙ということになりはしないだろうか。

 本居宣長は『古事記伝』(読んでない^_^;)において、日本古来の良き価値観である「やまとごころ」を取り戻すためには、漢字など「からごころ(漢意)」に毒された言葉を使っていては駄目だと主張した。その実践として『古事記伝』自体もすべて古くから伝わる「やまとことば」のみを使って記述したという。彼の主張が正しいかどうかはさておいて、言語が思考を規定するという考えに立てば、(本居の立場からすれば)極めて正しい対処の仕方だったといえる。比較言語学による知識もない時代に、直観でそれを見抜いたとすれば本居宣長まさにおそるべし。
 また更に時代を遡ると、仏教界のスーパースター空海も本居宣長と同様に、言葉の中にあるパワー/「言霊(ことだま)」に気付いていた。「マントラ(真言)」を日本密教の教えの根本におき、言語論である『吽字義(うんじぎ)』(これも読んでない^_^;;)などを記したのは周知の通り。
 日本は明治になって西洋から様々な技術/制度と同時に、様々な新しい言葉も導入してきた。それまで日本語に無かった概念を表現するために、従来の言葉を違う意味に転用したり、もしくは(やむなく)新しい単語を造りだすことも多かった。しかしそれによって明治以降の日本人の思考は、もはや近代以前に遡れないほど決定的な影響を受けたのだろう。今では、わずか150年ばかり前の江戸時代のことすら、外面的な知識はともかく人々の心について想像すら出来なくなってしまっている。
 話はとぶが、萌黄(もえぎ)色や浅葱(あさぎ)色など日本の「伝統色」と言われる色の種類は、なんと450色を軽く超えてしまうらしい。エスキモーと雪の喩えではないが、過去の日本人はこれだけの微妙な色の違いを見分けていたということだろう。過去の日本人が今の我々とは全く違う目で世界を見ていたのかとおもうと、不思議な気分になってくる。

 「人間の思考の形態というのは本人の意識していない絶対的なパターンの法則により支配されている」―これは本書の中に書いてあった文章の一部抜粋だが、普段何気なく使っている言語の裏側にも、気付かれないままに存在している複雑な体系があるというのを知ったのは、本書を読むことで得られた収穫だった。

<追記> 注)以下、一部の小説のネタバレがあります。
 アメリカ人作家のサミュエル・R・ディレーニイが1966年に発表した『バベル-17』という小説がある。
 題名になっている「バベル-17」とはその中に出てくる人工の言語の名前。その言語を使って思考すると、通常とは比べ物にならない程の高速思考ができる代わり、習得した者の精神に異常をきたしてしまうという「言語兵器」という設定である。
 また川又千秋の小説『幻詩狩り』には「時の黄金」という詩が出てくる。これは読んだ者を「異界」へと誘い失踪させてしまう禁断の詩篇である。物語中の描写は言葉による現実の変容を描いて秀逸。
 BBCの伝説的なバラエティ番組『モンティパイソン』の中にも、「必殺ギャグ」という(一部で?)有名なネタがある。売れないコント作家が偶然に作り出してしまったギャグで、それを読んだ者はあまりの面白さに悶絶してそのまま死んでしまうという恐ろしい(笑)もの。このギャグはやがて第2次大戦で連合軍によって兵器に転用され、ばらまかれた紙きれに書かれているギャグを目にしたものは…というものである。
 これら3つの話で共通するのは、いずれも「言語は思考を伝えるための単なる道具ではなく、言語こそが思考を形作る器である」というアイデアが根底にあって初めて成り立つ話という点だろう。以上、どうでもいい話ではあるが、面白いモノの見方のヒントをもらった気がして、本書の読了後も暫くの間、とめどなく妄想は広がり続けた。(笑)

『他界をワープする』 小松和彦/立松和平 朝日出版社

 文化人類学・民俗学の分野で活躍していて妖怪文化研究の第一人者である小松和彦と、作家の立松和平が1993年に出した対談集。もとは心理学や哲学、分子生物学など様々な分野の専門家が(その道の素人である)作家らに対してレクチャーするシリーズの一冊として上梓された本だが、どうやら好評だったらしく、2004年には『他界への冒険』と改題されて光文社文庫から出されている。
 対談のテーマが自分好みだということを差し引いたとしても、本書は対談集としてほぼ理想的な仕上がりではないかと思う。民俗学については”初心者”である立松和平が出した、「他界」にまつわる疑問に対して、講師役の小松和彦が答えるという体裁をとっているが、立松の疑問も小松のコメントも、どちらもなかなかに鋭い。

 印象に残った話を幾つか挙げてみる。例えばはこんなやりとりがある。
 立松が「(“神”でも“霊界”でも何と呼んでも良いが、)人智を超えたものは果たして本当に存在するのだろうか?」という思い切り”直球”の質問を投げると、小松和彦は話題をはぐらかしも誤魔化しもせずに次のようなコメントで打ち返す。「あるかどうかはわからない。しかし“ある”と考えた方が、社会が上手く回るのではないか。」
 ― この感覚、すごく理解できる。これは前に中沢新一が“愛”についても同様の回答をしているのを読んだことがある。「”愛”は数学における“虚数”と同じ、あると想定すると上手くいく」これ、ニュアンスがまるで同じではなかろうか。もしくは京極夏彦が『狂骨の夢』で書いていた「あの世はある、ただし死んだ人にではなくこの世に残された人の心に」というセリフとも通じる。(*)
無理やりシロかクロかを決めるよりもよほど大切で役に立つことが、世の中には沢山あるんだよなあ。

   *…うろ覚えなのでこの通りの言い回しではなかったと思う。
      調べるのも面倒なので悪しからず。

 こんなのもある。立松が自分の祖父から直接聞いた話で、祖父が山で迷ってしまった時の体験談とのこと。
 祖父が迷っている間に「切り立ったものすごい崖」や「岩をかむばかりの谷川」を超えて、最終的には救出され九死に一生を得たという話だった。しかし立松が後日、祖父の話に出てきたとおぼしい崖や谷川へ行ってみると、それほどすごいところではなかったという。そのとき立松が感じたのは、祖父の精神が異常な状態になっていた為に、感覚が通常と異なって認識されたのではないか?ということ。
 ― ちなみに昔から伝わる他界の描写(イメージ)は、もしかするとこのような体験から生み出されたのかも。民俗社会では古来「神がかった」とか「憑き物がついた」と言われる現象が多くみられた。前述のような異常な精神状態(いわゆる「トランス状態」)に、自分の意思で自由に出入り出来る能力を持った人が、「シャーマン」と呼ばれる人々だったとのこと。(もっとも今ではすっかり神秘性も薄れてしまい「ハイパーモード」とか、もしくは『ドラゴンボール』にでてくる「スーパーサイヤ人」みたいなイメージしかないが/笑)

 興味の赴くままに話はあちこちに飛び、「桃太郎」や「ものぐさ太郎」などの説話の構造について分析した内容もある。初心者(立松和平)にも良く分かるように、かみ砕いて説明してくれているので、われわれ一般読者が読んでも分かりやすく面白い。中でも特によかったのは、「ものぐさ太郎」の構造分析のくだり。
 普通の昔話はたいてい農村を舞台にしていて、正直者が得をするとか他界(=村の外の世界)から富がもたらされるとか、物語を動かす論理も農村(=冷たい社会)に即した論理で語られているケースが多い。もしくは稀に「一寸法師」のように中世の都市(=熱い社会)を舞台にしている物語では、話術やトリックによる「カタリ(語り/騙り)」が中心の「街の論理」で話が進むかのどちらか。小松によると、そもそも農村と都市では社会を動かす論理の基盤が異なっているそうだ。物語は普通どちらかの立場(論理基盤)からしか描かれずに、もう片側は他界として茫洋とした書き方になってしまうらしい。その理由は、物語の作者自身も必ずどちらかの社会に属しているため、もう片方の社会には詳しくないから。
 ところが「ものぐさ太郎」は違う。前半は農村が、そして後半は街が舞台になるが、どちらの社会の論理も正しく語られている。具体的には、農村では働きもせず寝てばかりいる太郎が排斥される描写で、そして町ではトリックスターの太郎が口先一つで世の中を亘っていく一種の“ピカレスクロマン”として。
 これはおそらく両方の社会に通じている人が作ったからに違いないと小松は推測している。そういった意味で、「ものぐさ太郎」はとてもユニークな昔話なのだそうだ。

 対談者の片方が発した言葉が相手の思いがけない反応を引き出し、お互いの相乗効果で対話がはるか高みへと導かれていくこと、これこそが対談集を読む醍醐味だろう。立松の後書きによれば、2人の会話はノリにのって10時間以上も続いたとのことだが、その熱い雰囲気は行間からも充分に伝わってくる。
 まさに至福の読書体験とはこういうことを指すのだろうか、稀有な体験だった。

『死にとうない 仙和尚伝』 堀和久 新人物文庫

 唐突な話題で恐縮だが、もしも「好きな歴史上の人物を3人挙げよ」と言われたら誰を挙げるだろうか? きっとかなり迷うに違いない。しかし範囲を「好きな歴史上の宗教家」まで絞ればどうだろうか、2~3人くらい挙げることは割と簡単に出来ると思う。まず筆頭にくるのは(スーパースターの)空海だが、流石にこれは別格として、他にすぐ思い浮かぶのはアッシジの聖フランチェスコ、そして本書の主人公である仙義梵(せんがい・ぎぼん)といったところだろうか。
 本書には日本の臨済宗(禅宗)の高僧である仙和尚の生涯が描かれている。新潮文庫版がかなり前に絶版になっていて、2年ほど前からずっと捜していたのだが、ありがたいことに古本屋で見つけるよりも先に、新人物往来社が復刊してくれた。
 ただ、さっそく買って読んでみたところ少し予想と違っている。副題に「仙和尚伝」とあるので評伝だとばかり思い込んでいたのだが、実際には司馬遼太郎の作品のような歴史(時代)小説だった。この種の本はどこまでが史実でどこからが著者の創作なのか境目が分からない。好きな人はそれで良いかもしれないが、自分の場合は却ってフラストレーションが溜まるので、普段はなるべく手を出さないようにしている種類の本である。しかし今回は好きな人物なので仕方がない。既に買ってしまったんだし。(笑)
 で、読んだ感想を率直に言うと、とりあえずは満足。小説としての出来不出来は置いておくとして(*)仙という人が今まで以上に好きになった。

   *・・・とは言え、決してこの小説の出来が悪いわけではない。

 例えば出光美術館が所蔵している『○△□』や『指月布袋画賛』といった軽妙洒脱な墨絵をみるたび、このような絵を描ける仙という人は、一体どんな人物だったのだろうと思っていたので、本書によってまずはその生涯を知ることが出来ただけでも好奇心は満足できた。文庫で出版してくれたおかげで手ごろな価格で読めたわけだし、とりあえずは良しとすべしだろう。機会があれば、次にはきちんとした評伝を捜して読んでみたい。

<追記>
 仏教思想として一番すぐれている宗派は密教(真言宗)だと思うが、魅力的な人物を数多く輩出しているのは禅宗ではないだろうか。そして禅宗の中でも特に面白いのは座禅で有名な曹洞宗ではなく看話禅(かんなぜん)の臨済宗の方だと思う。風狂禅で有名な一休禅師しかり、そして仙しかり。いずれも臨済宗が生んだ名僧である。
 だいたい禅宗が掲げている「頓悟(とんご)」という発想からして凄いと思う。南方熊楠は思い切り罵倒していたが(笑)、何しろ難しい理論や修行によってではなく「公案(≒相矛盾するような無理難題を吹っ掛けること)」によって一瞬のうちに悟りを得ようというのだから。京極夏彦の『鉄鼠の檻』(講談社文庫)ではそのあたりが上手くかけていて面白かった。

『河童駒引考』 石田英一郎 岩波文庫

 柳田の『山島民譚集』に収録された論文「河童駒引(かっぱ・こまびき)」を補足する形で、世界中から同類の神話や説話をあつめて論じている。元になった柳田の論文を読んでいないので偉そうなことは言えないのだが、「河童駒引」では河童が駒(馬)の手綱を引いている伝承が生まれた根拠を考察しているらしい。そして本書では更に踏み込んで、河童が馬や人を水中に引きずりこもうとする習性に注目し、それらの伝承がどのような背景で生まれたのか?について、膨大な資料に基づいて考察を行っている。
 先に結論を言ってしまうと、石田によれば河童は水神の一変形であり、河童が馬を引くという伝承は、過去の民族社会において馬を水の神に供えた儀式の名残ということらしい。このあたりは、「妖怪=零落した神」という一般にも良く知られた柳田の意見を踏襲している。(もちろん研究が進んだ今の目から見ると、例えば木偶から河原者に至る考察が抜けているなど、不充分な点はあるのだが、当時の水準からすれば立派なもの。)
 中身は大きく3部に分かれており、“水怪”を馬/牛/猿という3種類の動物に関する神話・説話から論じている。

 それぞれについて順番に概要を説明する。
 まず「馬」について。馬は神話においては霊界とのつながりが深い動物であり、竜と同一視される傾向もあるとのこと。水辺に出現する怪異の担い手として、不注意な乗り手を水の中に引きずりこむ話が世界各地に伝えられている。シンボルとして関係が強いのは遊牧文化/男性原理(父系的)/天の信仰(太陽)など。
 次に「牛」について。牛は馬よりも先から家畜化された動物であり、シンボルとしては農耕文化/女性原理(母系的)/月の信仰などと関係が深い。“豊饒の角(コルヌコピア)”のように大地や農業とのつながりがあることから「雨」そして「水」という流れができあがり、やがて新しく家畜に加わった馬と水辺のイメージを橋渡しする元となった。
 最後に「猿」について。猿は河童と同一視される場合も多く、(亀と同じく)河童の正体のひとつと考えられている。また厩舎を病害から守る“保護者”としても用いられており、牛や馬とのつながりもある。
 そしてこれら様々な伝承が総合された結果、水神の零落した姿である河童によって、同じく水辺に関係の深い「馬」という動物が、水に引きずり込まれるという伝承が生まれたのだと結論付けている。

 少し牽強付会のところもあるにはあるが、視野が日本国内だけでなく世界に向けられているので、聞いたことのない伝承を知るだけでもなかなか愉しかった。

その他の作家・作品(海外③)_My favorite 18

 個別に取り上げなかった作家や作品を、まとめて挙げる3回目。前回に引き続き海外の作家・作品について。

 ★ダン・シモンズ
  「ハイペリオン2部作」「エンディミオン2部作」 以上、ハヤカワ文庫
    *ダン・シモンズはこの2つの2部作だけで、後世に残る価値が充分にあると思う。
 ★マーヴィン・ピーク
  『タイタス・グローン』『ゴーメンガースト』『タイタス・アローン』
                  (ゴーメンガースト3部作) 以上、創元推理文庫
    *何も言うことは無い。こんな作品が生まれてくるのだからイギリスは凄い国だ。

 ★他/以下はコメント無しで作者と書名を列挙。
  キース・ロバーツ『パヴァーヌ』 サンリオSF文庫→扶桑社
  クリストファー・プリースト『逆転世界』 サンリオSF文庫→創元推理文庫
  クリス・ボイス『キャッチワールド』 ハヤカワ文庫
  ピエール・プロ『この狂乱するサーカス』サンリオSF文庫
  ジョン・クロウリー『リトル・ビッグ』 国書刊行会
  チャールズ・L・ハーネス『ウルフヘッド』 サンリオSF文庫
  ミッシェル・ジュリ『熱い太陽、熱帯魚』『不安定な時間』 サンリオSF文庫
  リチャード・バック『かもめのジョナサン』 新潮文庫
  ハーラン・エリスン『世界の中心で愛をさけんだけもの』 ハヤカワ文庫
  ロバート・ストールマン『孤児』『虜囚』『野獣』(野獣の書3部作) ハヤカワ文庫
  G・ガルシア=マルケス『百年の孤独』 集英社
  ラブレー『ガルガンチュア』『パンタグリュエル』 岩波文庫/ちくま文庫
  蒲松齢『聊斎志異(りょうさいしい)』 岩波文庫/平凡社ライブラリー
  紀(きいん)『閲微草堂筆記(えつびそうどうひっき)』 平凡社ライブラリー
  作者不詳 『捜神記』『神仙伝・列仙伝』 以上、平凡社ライブラリー

※以上で海外は終了。次回は国内篇(にするつもり)。

『クラッシュ』 J・G・バラード 創元SF文庫

 最初に断わっておくが、今回のテーマは『バラード作品を“景観”というキーワードで切る』である。したがってバラードを読んでいるのが前提で書かれているところもあるため、読んでいない人には分かりにくい点があると思う。予めご承知置き頂きたい。
(と威勢よく啖呵を切ってはみたものの、果たしてうまく切れてくれるかどうか?)

 オギュスタン・ベルクのひそみに倣って「空間」が内包する概念を整理すると、次の3つに分類できる。
  1)精神的な領域(心理・言語など)
  2)社会的な領域(社会的な活動や組織など)
  3)物質的な領域(光景・景観など)
 またエドワード・レルフに倣えば次の3つの要素として捉えることもできる。
  a)物質的要素(自然や都市の景観)
  b)そこで行われる人間の活動(外面的な行動など)
  c)ある人にとって上記の2つの要素が持つ意味/象徴(内面的なもの)
 いずれにしても「空間」ないし「景観」という概念を、物理的側面と個人の精神的側面、そして集団による社会的側面という3つの観点から捉えることができそうである。今回バラードの諸作品を「切る」にあたっては、このあたりを手掛かりにして考えてみたい。

 作者のバラードは『クラッシュ』の序文において、「テクノロジカル・ランドスケープ」という言葉を用いて、本作品における新しい文学的な取り組みについて説明している。(最近では「テクノスケープ(産業景観・人工景観)」という言葉も広まっているようだが。)
 「テクノロジカル…」と「テクノ…」のどちらの言葉を用いるにせよ、それが意味するのは、「自然には存在せず人間の技術によって初めて生み出された景観」ということだろう。バラードは1962年に発表したエッセイ「内宇宙への道はどれか?」において、SFという小説ジャンルが今後探求すべきは「外宇宙(アウタースペース)」ではなくて「内宇宙(インナースペース)」だと主張し、ニューウェーブ運動の開始を高らかに宣言した。そして「内宇宙」とは「“外的世界(=現実)”と“内的世界(=人間精神)”が出会い融合する場」であると定義した。これはすなわちベルクやエルフにおける「空間」ないし「景観」とほぼ同義であるといえるだろう。
 人間の技術によって、地球上で未だかつて誰も経験したことのない人工の景観が出現したとき、人間の精神はそれをどのように受容し、どのような変貌を遂げるのか? これが当初からバラードが一貫して追求したテーマではなかったろうか。

 彼のデビュー作である短篇「プリマ・ベラドンナ」は、砂漠にある架空のリゾート地“ヴァーミリオン・サンズ”を舞台にしており、やがてその他の作品とともに作品集『ヴァーミリオン・サンズ』(ハヤカワ文庫)としてまとめられた。(*) その収録作である2つの短篇「スクリーンゲーム」と「ステラヴィスタの千の夢」において、早くも「景観と精神の関係」が取り上げられており、後の彼の作品で花開くテーマの萌芽がみられる。

   *…『ヴァーミリオン・サンズ』収録作:
     「コーラルDの雲の彫刻師」「プリマ・ベラドンナ」「スクリーンゲーム」
     「歌う彫刻」「希望の海、復讐の帆」「ヴィーナスはほほえむ」
     「風にさよならをいおう」「スターズのスタジオ5号」「ステラヴィスタの千の夢」

 やがてバラードの人気は“破滅3部作”(『沈んだ世界』『燃える世界』『結晶世界』)において一気に爆発する。これらは破滅的な自然環境が訪れた未来の地球を舞台に、極限状況における人間心理を描いた作品ではあるが、「景観と精神の関係」の考察については若干後退しているようだ。主人公たちの「アイデンティティ(=自我)」が外的世界(環境)とどのような関係を持つか?というより、それらの境界が徐々に溶けて曖昧になっており、先述の「“外的世界”と“内的世界”が出会い融合する」という点を忠実に描こうとしているように思える。

 しかし続いて発表された“テクノロジー3部作”(『クラッシュ』『コンクリートの島』『ハイ・ライズ』)では、自然環境から人工的な景観に対する関心が一気に花開く。前の“破滅3部作”と最も違っているのは、前3作がいずれも人間による制御が効かない自然環境だったのに対して、本3作の舞台は人間が自らの力で周囲に働きかけて作り上げる人工的な「空間」であるということ。
 先述したようにベルクやレルフらの知見によれば、「空間」とは物理的なもの以外に精神的空間、社会的空間という3つの意味が重ねあって構成される。人の心と環境が出会う場こそが「空間」であり、そこでの相互作用を通じて、人は自らが好む景観を作り上げると同時にそこに住まうことで、集団に独自の精神文化が作られていく。そして当時新しく出現したハイウェイや超高層ビルという物理的空間の存在が、精神的空間にどのような影響を与えることになるか?について、思索を繰り広げる。
 再度くりかえすが、バラードがマニフェスト「内宇宙への道はどれか?」で提唱した「内宇宙」とは、すなわちここで言う「空間」に他ならない。とすればバラードを読み解くカギは、まさしく彼が62年に掲げた初期エッセイにおいて、すでに示されていたのだ。

 『クラッシュ』の詳しい話に移る前に、もう少し“テクノロジー3部作”の他の作品について触れておこう。
 3部作の1冊目『クラッシュ』が発表されたのは1973年。そして翌年に発表されたのが『コンクリートの島(コンクリート・アイランド)』(NW-SF社⇒太田出版)である。本作では新たな人工景観として、高速道路の高架が作り出すエアポケットのような空間が示される。主人公は事故によりその奇妙な空間に落ち込んでしまい、ケガで脱出できずにいるうちに精神の変容を遂げていく。まるで安部公房の『砂の女』を連想させるようなシチュエーションである。本作では『クラッシュ』よりも物理的な景観に焦点が当てられているが、この新しい景観が何を意味するのか登場人物にも(そして読者にも)充分に認識されているとは言い難い。いわば新しい空間が持つ新しい価値の「予感」に満ちたものといえよう。
 次いで1975年に発表されたのが、3部作の最後を飾る『ハイ・ライズ』(ハヤカワ文庫)である。ここに登場する景観は「超高層のアパート群」である。“超高層”という空間は住民たちの深層心理を徐々にむき出しにして、やがてアパートの中に神話的な世界が出現していく。この『ハイ・ライズ』において人工景観の影響は個人意識のレベルから集団意識へと、つまり人類に共通する普遍的モデルへと拡張され、「景観と精神の関係」を巡る考察はひとまず完了する。
 ちなみにその後の作品においてバラードの関心は「精神的空間」から「社会的空間」に移っていったようである。『殺す』『コカインナイト』『スーパー・カンヌ』などといった後期の長篇群は、その文脈で捉えると分かりやすいと思う。

 それではいよいよ『クラッシュ』における人工景観について詳しく述べる。
本書はテクノロジー3部作の1作目でもあり、他のバラード作品に比べて「景観と精神の関係」を示すモチーフが、一番はっきりした形で提示されている。(この後の作品においてはモチーフが様々に姿を変えて再演されることになる。)
 作者による序文によれば、本書は自動車事故をテーマに書かれた“ポルノグラフィ”であるという。たしかに書いてある内容を見れば、自動車事故に憑かれたヴォーンという男と、それに翻弄されつつも惹かれる主人公(これも男)たちによるセックス描写のオンパレードである。これを今までの流れで捉えるとすれば、以下のようになるだろう。
  a)物質的要素=高速道路(ハイウェィ)、空港
  b)社会的要素=自動車による高速移動と事故による一瞬の破滅、飛行機による飛行体験
  c)精神的要素=肉体と機械の暴力的な結合と性的な象徴
 すなわち高速道路や空港と言った巨大な人工物が作る景観だけでなく、ヴォーンが幻視する様々な交通事故死のバリエーションもまた、人工の景観を構成する要素なのである。基本のモチーフは高速道路と自動車(高速移動)であるが、他にも空港や飛行機(飛行)といった、後のバラード作品で繰り返されるシンボルも本作において(一部ではあるが)既に登場している。ヴォーンはバイク事故をおこしたことで“新しい景観”による洗礼を受け、もう2度と日常的な世界に戻れなくなってしまった者である。最終的には自動車事故による破滅/昇天を迎えることでしか、彼には救いの道は無い。(**)
 ラストでは道路から空中へと自動車ごとダイブすることで、「高速移動」と「飛行」という2つの体験(シンボル)が融合されるとともに、ヴォーンの個人的体験が見事に昇華され精神(内宇宙)と現実(外宇宙)の合一が達成されることになる。事故を追い求めるその姿は崇高にも見え、自動車事故がまるで「ヌミノーゼ体験」であるかのような錯覚さえ覚える。ここに至ってついに、新しい景観における啓示は宗教体験と等しくなっている。

  **…バラードの作品においては、これらの新しい景観により出現した「精神的な価値」
     に囚われてしまった者たちが、トリックスターのように入れ替わり立ち替わり
     主人公の前に現れて、“地獄めぐり”の案内役を務めるのが典型的なパターンに
     なっている。

 最後に少し補足を。
 テクノロジー(技術)とは、今までなかった人工物を作り出す手段であり、その結果が新しい景観の出現であることは繰り返し述べた。本作ではその象徴として高速道路や自動車事故が用いられている訳だが、作中では他にもレザージャケットやビニールシートなど当時の新素材が「人工」を象徴するものとして、補完的に使われ効果を挙げている。また、ダッシュボード/ラジエータ・グリル/ギア/ハンドル/計器パネルなどの自動車パーツも同様である。これらの「人工物」によって事故の際に被害者の胸や足などに刻印された痕に関する描写が執拗に繰り返されるが、これらは新たな時代の到来をしめすスティグマ(聖痕)として扱われているようである。

 以上、『バラード作品を“景観”というキーワードで切る』という試みにトライしてみたが、果たして上手く切れただろうか? 本当はバラードをきちんと読み解くためには、諸作品に通底するもう一つの重要なキーワード「パラノイア」についても考えないといけないのだが、これはまたいつか別の機会に。

<追記>
 先述のように『クラッシュ』の発表は1973年であるが、その元になった短篇「衝突!」(工作舎刊『残虐行為展覧会』に収録)は更に早くて1968年に発表されている。イーフー・トゥアンやエドワード・レルフ、オギュスタン・ベルクらによって地理学に「空間」「場所」といった新しい風が吹いたのは70年代半ばから後半である。(たとえば『トポフィリア』の刊行は1974年、『場所の現象学』は1977年。)
 そうであれば、これらの概念が同時発生的に起こったのでない限り、バラードは「景観」から「精神」へと至るアプローチを彼らに先駆けて独自に考え出したことになる。それが本当ならまさに「予言者」バラードの面目躍如といったところだろう。

『疫病と世界史(上・下)』 W・H・マクニール 中公文庫

 本書は著名な歴史家である著者が、人類史において疫病が如何に多くの影響を及ぼしてきたかについて分析した本。今では割と常識になっていることも書かれているが、それはこの本で紹介された内容がその後、いかに人口に膾炙したかを示すものであり、1975年の刊行当時にはおそらくエポックメイキングであったろうと思われる。
 取り上げられている疫病は数多いが、影響の大きさから天然痘・ペスト・コレラなどに多くのページが割かれている。期間としては歴史として残っていない人類の黎明期から20世紀までと幅広い。また検討対象とする地域はヨーロッパ、中東、インド、そして中国をはじめとする東アジアから南北アメリカまで多岐にわたっており、まさに全地球規模での人類の歴史を総ざらいしている。ただし残された記録の量や本人がカナダ出身ということもあって、言語の都合もありどうしても西洋中心の分析になるのはやむを得ない。中国など他の地域については後進の活躍を望むという記述もあって好感がもてる。記録が無いところは状況証拠などを用いて一部推測も交えて述べているが、論旨は明快で強引なところもなく概ね納得できる。しごく「真っ当」な学術書である。

 バクテリアや細菌による疾病は、それらに遭遇したことがなく体内に免疫を持っていない社会に侵入したとき、主に成人に対して破滅的なダメージをあたえると著者はいう。(まるで先般の新型インフルエンザのよう。)そしておよそ50万人の規模を超える集団が罹患した場合、宿主から宿主へと継続して伝染することが可能となって被害が極めて甚大になるとのことである。これが歴史を変えるほどに影響を与えた例としては、ピサロたちスペイン人による南米のインカ・アステカ文明の侵略と滅亡が極めてわかりやすい。わずか数百人のスペイン人によって数百万人の帝国が征服されてしまった陰には、彼らが持ち込んだ天然痘により成人の半数以上が死亡するという異常事態が隠されていたということを、著者は丹念に説明していく。他にもキリスト教がローマ帝国で隆盛を得た理由であるとか、世界史の影で影響を与え続けた疫病について、上下巻に亘って詳しく述べられている。

 少し余談になるが、梅棹忠夫はその著書『文明の生態史観』(中公文庫)において次のような主旨のことを述べている。「古代文明が発達した地域は肥沃であるがゆえに周囲から侵略の標的にされやすく、結果として継続的な発展が妨げられ、近代へとつながる文明が築けなかった。古代文明から少し外れた地域である西ヨーロッパや極東の日本などは、古代文明が発達するほどにはよい気候に恵まれなかったために、却って独自の発達を継続して遂げられ、高度な文明を築くことが出来たのでは?」これを読んだ時はなるほどと思ったが、本書を読んだ今では、「もしかすると周期的に襲ってくる疫病のため古代文明の中心地は何度も人口が激減して、文化の継承や継続的な発展が出来なかったのではないか?」という気がしてくる。

 話を戻そう。本書で特に感心したのは次の内容だった。
 なぜこれほど(見る目さえあれば)明白な事実を従来の歴史家は見逃してきたか?あるいは軽視してきたか? それは歴史家という人々の基本的な価値観にかかわることなのだと著者は言う。すなわち歴史家が歴史にもとめるのは、人類が苦労しながら少しずつより良い世界の実現に向かって努力する姿なのだと。単なる偶然に翻弄される人類の姿ではなく、(どんなに愚かな結果になろうとも)人の意思決定によって前に進む歴史というものを見ていたい。「たまたま」ではなく「然るべく」であってほしい。その様な気持から、疫病の影響を故意にか無意識にかは分からないが軽視してきたのだそうだ。歴史家自身が内省して述べたことだけに何だか重みがある話だと思う。
 たしかに中国で元が滅んだのも、キリスト教が世界宗教になれたのも、はたまた南米が植民地になり南北問題の遠因になったのも、全部が偶然の所産だとしたら、(歴史にIFは禁物ということだが)つい「もしも...」と考えたくなってしまうなあ。

 表紙も「メメント・モリ」を思わせて渋いデザインだし、厚さの割に値段がべらぼうに高いのを除けばとても良い本だった。

<追記>
 本当は明日アップするつもりだったが、亡くなった梅棹忠夫について触れている個所もあるので、追悼の意味も込めて(?)一日繰り上げることにした。しかし、レヴィ=ストロースといい河合隼雄といい梅棹忠夫といい、大事な人がどんどん亡くなっていくなぁ。

本を読むわけ

 前にも書いたが、自分が好物としている本のジャンルには3種類あって、そのひとつは「自分にとって新しいコト(知識)」。(ちなみに他の2つは「不思議な話」と「粋なヒト/モノ」)
なぜ新しいコトがそんなに好いのか?と聞かれてもそんなにはっきりした理由があるわけでなし、答えに窮するのだが、それでも自分なりにそれなりの(屁)理屈を考えてみた。

 コンサルティングや自己啓発などでよく使われる喩え話に「ピラミッドの石を運んでいる人」というのがある。(正式な名前は知らない。)会社勤めをしていれば知っている人も多いと思うが、それはこんな話。

 ○ある旅人がピラミッドの近くで大きな石を運んでいる人に聞きました
  「あなたは何をしているのですか?」
  するとその人はこう答えました。「私はピラミッドを作る石を運んでいるんです。」
  旅人は暫くして違う人に同じ質問をしてみました。
  「あなたは何をしているのですか?」
  すると2番目の人はこう答えました。「私は王様のお墓を作っているんです。」
  旅人は暫くしてまた違う人に同じ質問をしてみました。
  「あなたは何をしているのですか?」
  すると3番目の人はこうこたえました。「私は後世に歴史を残す仕事をしているんです。」

 ・・・うーん、臭い!(笑) いかにもコンサルティングで話されそうなネタで正直あまり好きではないのだが、それはさておき、この話の作者が言いたかったのはきっと「同じ仕事をしていても心の持ちようで達成度は違うんだよ、だから(3番目の人のように)志を高く持とう」ということだろう。
 でも自分はそうは捉えてなくて、「世の中には色んな人がいて、同じことでも人によって捉え方が全く違う」ということの喩えだと思っている。そして上に立つ人は「歴史を残す」なんてことばかり考えるのでなく、「石を運んでいる」とか「お墓をつくっている」とか考える人もいる、つまり「色んな物の見方がある」ということを理解して、時と状況に応じて様々な視点で見ることができる柔軟な思考が必要なのだと思う。つまり目指すべきは「3番目の人」ではなく、「1、2、3番目のどれにでもなれる人」なのだ。

 とすれば、そのためにはまず「こういう考え方もある」という“知識(の見本)”を知っていなければ話にならない。色々な物の見方を知れば知るほど世界の捉え方が変わり、ひとつの生活が沢山の人生に変わる可能性もある。今まで知らなかった新しいコト(知識)を知った時にとても愉しいと感じるのは、きっとそんな気持ちが心の奥に半分くらいはあるからかも知れない。誰が言った言葉か記憶にないが、まさに「世界は読み解かれることを待っている」のだ!
 まあ、残りの半分は単に活字を読むのが愉しいだけなのかも知れないけれど。(笑)

『死者の書・口ぶえ』 折口信夫 岩波文庫

 柳田國男とならび称される代表的な民俗学者であり、国文学者・詩人でもあった折口信夫の文学作品集。収録作は代表作の「死者の書」と、同題の未発表草稿「死者の書・続篇」、そして“BL”(!)の世界を真正面から描いた自伝的作品「口ぶえ」の3作。
 しかしこの人の文章はすさまじいね、どうにも。まるで肌を撫でまわされるような、耳元に息遣いが聞こえてきそうな艶めかしさ。もしも文学に“湿った文学”と“乾いた文学”というものがあるとしたら(*)、“湿った”方の代表格には谷崎潤一郎や笙野頼子にならんで真っ先に折口信夫が挙がるのではないだろうか。ちなみに後者の代表格としては中島敦や梶井基次郎などが思い浮かぶ。(幻想文学の“乾いた派”では澁澤龍彦、稲垣足穂、倉橋由美子なども。)

  *・・・前者を「情念先行型」後者を「理念先行型」と言い換えてもよいかもしれない。

 この執拗なまでの皮膚感覚は、「死者の書」のような幻想的な小説の表現には実に合う。岩を水の雫が伝うときの、有名な「した した」という表現など、使われている言葉の選び方が半端じゃなく、随所でぞわぞわするような何とも言えない効果を生んでいる。
 内容はエジプト神話のイシスとオシリスの逸話から着想して、死者の蘇りと昇天を、当麻寺に伝わる曼荼羅の縁起に託して描いたもの。「続篇」の方は弘法大師・空海がテーマになっており、どうやら折口の構想は、色々なパターンで死者と生者の交感を描くことであったか。続篇が中断しているのが惜しい、この調子で最後まで読んでみたかった。(この2つはもろに好み!)
 ところがその勢いで3つめの「口ぶえ」になだれ込んだところ、「どっひゃぁー」とひっくり返りそうになった。この文体で思春期の同性愛が心の襞の細かいところまで描写されているので、その手の趣味が無い人間にとってはまるで拷問である。頑張って最後まで読み切ったが、体中に鳥肌が立つほどの感触であった。(でも作品としては幻想味もあり傑作だとおもう。)

<追記>
 この文のカテゴリはあえて「文学・文学史」ではなく「幻想・SF・ミステリ」の方にした。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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