2010年6月の読了本

『翻訳家の仕事』 岩波書店編集部編 岩波新書
  *第一線で活躍する翻訳家37人が好きなテーマで書いたエッセイ集。
『フロイト思想を読む』 竹田青嗣/山竹伸二 NHKブックス
  *過去のものとして退けられがちなフロイト理論について、その最善部分を新たな思想と
   して蘇らせようとする良質な研究書。
『ん -日本語最後の謎に挑む-』 山口謡司 新潮新書
  *日本語の「ん」が成立した歴史について、過去からの文献を調査/検証した本、面白い。
『脳はなにかと言い訳する』 池谷裕二 新潮文庫
  *気鋭の脳科学者が書いたエッセイ集。最新の研究成果をお手軽に紹介(茂木健一郎よりも
   よほど好い)。
『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』 フィリップ・K・ディック ハヤカワ文庫
  *ディックの代表作のひとつ。久々に読みかえしたところ、意外とストレートでわかり
   易かったので驚き。記憶ではもっと混乱したストーリーだと思っていた。
『南方熊楠 地球志向の比較学』 鶴見和子 講談社学術文庫
  *南方熊楠の業績や人生について広く過不足なくまとめた評伝で、おそらく熊楠への入門
   には最適な本。ただしきれいにまとまっている分、ある程度すでに知っている人には
   ちょっと食い足りないかも。
『知恵の樹』  H・マトゥラーナ/F・バレーラ ちくま学芸文庫
  *「オートポイエーシス理論」(すぐに間違えそうになるが「アポトーシス」じゃない)
   について書かれた入門書にして、新たな生命哲学の誕生を高らかに歌い上げる
   マニフェスト。
『ぼくらが夢見た未来都市』 五十嵐太郎/磯達雄 PHP新書
  *フィクションとノンフィクションにおける様々な「未来都市」について紹介した本。
『死者の書・口ぶえ』 折口信夫 岩波文庫
  *民俗学者(&国文学者・詩人・歌人)の折口の、文学者としての代表作。
『脳と日本人』 松岡正剛/茂木健一郎 文春文庫
  *本書は松岡正剛との対談集だが、いつ何を読んでも茂木健一郎というオトコはどうも
   怪しい。前に中沢新一と爆笑問題・太田光が対談した時の太田ぐらい胡散臭く見える。
   (笑)
『海のビー玉』 長新太 平凡社ライブラリー
  *イラストレーターにして絵本作家であるナンセンス作家・長新太のエッセイ集。
   こういう感じ、好きだなあ。彼のイラストと同じで何とも説明しようがないけど好い
   雰囲気。長新太という名前は知らなくても、きっと彼の絵はだれもが見たことがあると
   思う。(沢野ひとしや古川タクみたいなフリーハンドを得意とする画風。)
『疫病と世界史(上・下)』 W・H・マクニール 中公文庫
  *「世界でもっとも尊敬される歴史家」が、人類史に疫病が与えた影響について論じた
   名著。
『アラビアン・ナイトの世界』 前嶋信次 平凡社ライブラリー
  *世に名高い『アラビアン・ナイト(千夜一夜)』の成立や背景について、東洋文庫収録の
   原典訳を行った著者が長年の研究成果を一般読者向けに分かり易く紹介。
『宇宙飛行士 オモン・ラー』 ヴィクトル・ペレーヴィン 群像社ライブラリー
  *50~60年代のソ連を舞台にした、宇宙飛行士を目指すひとりの少年が主人公の物語。
   ヴォネガットを思わせるようなアイロニー(皮肉)やアレゴリー(寓意)に溢れた傑作
   中篇である。(ただしユーモアは無いが。)表紙が宇宙服とエジプトのラー神の頭部を
   組み合わせたデザインでとても格好いい。
『河童駒引考』 石田英一郎 岩波文庫
  *柳田國男の論考「河童駒引」に触発されて、規模を日本のみならず世界にまで広げて
   検証した論文。
『インドで考えたこと』 堀田義衛 岩波新書
  *文学者・評論家である著者が、アジア作家会議の書記局員としてインドで過ごした
   2ヶ月間に感じたり考えたことを書いたエッセイ。「世界の中のアジア」と「アジアの
   中の日本」について想いを馳せた本としては、かなり早い時期にあたる。卓抜な
   文明批評になっており、誰に薦めても恥ずかしくない一冊。
   ちなみに椎名誠がこれに触発されて『インドでわしも考えた』(集英社文庫)を書いた
   が、中身は全然違う。(笑)
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『知恵の樹』 H.マトゥラーナ/F.バレーラ ちくま学芸文庫

 自然科学の分野で有名な「オートポイエーシス(自己創出)理論」が初めて披露された本。
 こう書くと小難しいことが書いてあるように思えるかもしれないが、実際には和訳の文体もとっつき易くて決して難しいものではない。(ただし原文の意味を移しかえることは出来ても、日本語の文としてどうかと言われれば、答えを躊躇せざるを得ないのが辛いところではある。/笑) 文体や内容も含めて、良い意味でも悪い意味でもかなり刺激的で面白い本だった。
 一般の学術書とあまりに雰囲気が違うので訳者あとがきを読んだところ、元は“ネオアカデミズム”がブーム全盛だった80~90年代にかけて一世を風靡した朝日出版社から出ていた本だということが判明した。道理でいかにも朝日出版社らしい軽さと難しさが混在している。言われてみれば妙に軽い訳文の文体も、当時流行った「スキゾ」「越境」「逃走」といった言葉をいかにも彷彿とさせるもので納得。好きだなあ、こういうの。(笑)

 話を戻そう。自然科学、とりわけ生命に関する分野では、ドーキンスで有名になった「利己的遺伝子理論」やラブロックによる「ガイア理論」などのように、証明は出来ないけれど世界を理解する上で重要な考え方というのが幾つか存在する。本書でマラトゥーナとバレーラにより初めて提唱された「オートポイエーシス(自己創出)理論」もそのひとつである。(これらは自然科学のルールに則って実験で検証できるものではない。したがって「仮説」と呼ばれることもあるが、検証は永久に不可能なので、むしろ「科学哲学」と言うべきなのかも。)

 それでは「オートポイエーシス(自己創出)」とは何だろうか? それを説明するには、彼らが何のためにこの理論を考えたのか?から始めるのが早い。すなわち『オートポイエーシスは何をするために考え出された概念か?』ということ。
 ひとことで言ってしまえば、それは『生物と無生物の違いを特徴づけるものは何か?』である。だからこそ前に福岡伸二の『生物と無生物のあいだ』という本が話題になった時に、「オートポイエーシス理論の単なる焼き直しじゃないか」という批判があったのだと思う。(でもそんなことを言っているヒマがあったら、本書と『生物と無生物…』を読み比べて、両者の違いを沢山見つける方がよほど建設的で面白いと思うのだけどなあ。) 
 ―と言いながら当の本を探してみると、とっくに売り払ってしまっていた。(笑) でもそれならそれで仕方ない、なんせ“お気らく読書”なんだから。また読みたくなったら古本屋で買ってくるだけのことだし。
 というわけで、うろ覚えなのでちょっと自信はないが、確か福岡は“動的平衡”というキーワードを使って、生命システムが自律的に自己保持する様子を説明していたように思う。さっきのような文句を言っている人は、その動的平衡と自律性(オートポイエーシスを構成する一部のアイデア)が同じ概念だと言いたいのだと思うが、本書で最初に著者らがはっきりと述べているように自律性自体は生物に限った話ではない。また動的平衡の話題はあくまで『生物と無生物…』の一部に過ぎないのであって、福岡が言わんとする趣旨は本書の目的とは違っている気がする。

 閑話休題。(なんだか今回はいつもに増して脱線が多い気がする。)
 オートポイエーシスは生物と無生物の間の線引きをするために考え出された概念であって、
その特徴をすごく乱暴にまとめるとつぎのようになる。
  a)自分と同じ組織を自分自身で作り出し続けることができる
  b)自分の周りの環境との相互作用を通じて、自分自身と環境を変化させることで
    最適化を行う
 少し分かりにくいので補足すると、a)は生物が“工場の工業製品”だとすれば“工作機械”にあたるものは存在せず、製品自身が他の製品をつくるということ。b)は環境が変われば死なないように工夫をするし、逆に自分にとって都合のいいように環境にも働きかけをするということ。「アフォーダンス」にもちょっと似ているが、「環境が生物に対して与える」ばかりの関係でなく、相互というところがミソ。
これら2つの特徴をもつ有機的な組織体こそがすなわち生物である、というのが「オートポイエーシス理論」の骨子になっている。
 もっともここまで端的に言い切ってしまうと、知能研究における「チューリングテスト(*)」のようになってしまうなあ。他にも(以前ニュースにもなったように、)部品を組み立てて自分の複製を作るロボットならどうか?とか、レムの『砂漠の惑星』にでてきた小片の集合体による“機械生命”はどうか?とか、この定義を掻い潜ろうとする質問が新たに出てきそうだけど、話が発散しすぎるので今回は取り敢えず触れずにおく。

    *…アラン・チューリングによって提唱された検証法。対象物が単なる「オートマトン
      (自動人形)」なのか、それとも真に「知性」を持っているのか(=思考している
      のかどうか)を客観的に判定するためのテスト方式。

 本書の前半までは生物学に関してごく当たり前のことが書いてあって、それを上記のa)b)の定義で読み替えていく作業が延々つづく。具体的には次のような流れである。
  ・第2章:単細胞の生命維持
  ・第3章:細胞の増殖(単細胞生物であれば“生殖”)
  ・第4章:多細胞生物の生命維持(単細胞の相互作用)
       /複数の生物同士のやりとり(メタ細胞体の相互作用)
  ・第5章:“種”の成立
 先述のa)b)2つの定義がミクロ(=細胞レベル)な生命維持に対して成り立つのは充分理解できるとして、著者らのアイデアの凄いところはそれをもっと高次な段階まで適用したこと。上記の流れを見れば、章を追うごとに徐々にこのルールが適用される規模が大きくなっているのが分かると思う。
 定義の適用範囲を“種”のレベルまでもっていくのも大した力技だと思うが、実は本書の凄さは第6章から始まる後半部分にある。著者らはこの概念の適用範囲をさらに高次のレベルまで拡大していくのだ。そしてこの考えひとつで「生物の社会行動」から「精神活動(言語)」の発生まで全て説明しようという壮大なチャレンジを行っていく。新たな章の冒頭では「いくらなんでもそれは無茶だろう!」というテーマが出るが、最後には彼らの理屈に何となく納得してその章を読み終える。次の章に進むと更にステージが上がった難問へのチャレンジが待っているという段取りである。
 そしてラストの第10章に至り、ついに「倫理観の発生」を説明するところまで達してしまう。
「細胞はなぜ生きているのか」から「なぜ人を殺してはいけないか?」まで論理的に証明できる「オートポイエーシス理論」まさに恐るべし。(笑)
 音楽に喩えるならば、同じ旋律が繰り返されるたびに徐々に盛り上がっていくその様子は、まるでラベルのボレロを聴いているよう。

 ところで表題の「知恵の樹」とは、旧約聖書でアダムとイブが楽園から追放される原因となった樹のこと。一口食べれば知恵が身に付き、もう二度と元の幸福な状態には戻れないという意味で、著者らが本書の内容ををなぞらえて付けた名前である。本書で述べられていることは確かに凄いとは思うが、でもそんなに大袈裟にいう程のもんじゃないと思う。(笑)
 我々の思想に影響を与えるほどのパラダイム転換が発生する場合、通常は「世界が現在成り立っている仕組み(=How)」に関するものが多い。だからこそ世界の仕組みがひっくり返るほどの衝撃を受けるのだ。しかし本書でマトゥラーナたちが述べているのは、「世界の仕組みが過去になぜどうやって出来上がってきたか(=Why)」である。それがわかったとしても結局のところ(第10章の倫理以外は)現実の生活の在り方に直接影響するものではないと思う。そして倫理についてはわざわざオートポイエーシス理論に頼らなくても、星の数ほどの哲学思想が過去から思索を繰り広げているというわけだ。
 大言壮語ぎみなところはちょっと『ドン・キホーテ』を連想してしまうところもあるが、本書の主張自体はとても大事なことだと思う。著者たちがもつ型破りなスタイルと愛すべきキャラは、もしかしたらチリ出身ということでラテン気質にも関係があるのかも知れない?

<追記>
 オートポイエーシス理論の中には「相互作用」という考え方がある。ここからは「情報」の概念について次のような重要な考えが導き出されるが、本書の目的ではないので軽く触れられているだけ。もったいないのでメモしておく。
  ・コミュニケーションによって受け渡しされる「情報」という客観的な存在はない。
  ・2つのカップリング(≒生物)間において、互いの構造(自己組織)を相互作用によって
   最適化しているだけ。
  ・相互作用は原理上どうしても撹乱を伴うので、コミュニケーションには常に曖昧さが
   付きまとう。
  ・テキスト(コミュニケーションの相手や世界)を「誤読」する可能性も発生する。

 ―このあたりの論理の運び方はまるで現象学の本を読んでいるかのようだった。

その他の作家・作品(海外②)_My favorite 17

 個別に取り上げなかった作家や作品を、まとめて挙げる2回目。前回に引き続き海外の
作家・作品について。
 なお前回書き忘れたが、ここに挙げる作品の基準は概ね「何回も読み返したいと思うか?」
ということ。

 ★クリフォード・D・シマック
  『都市』『小鬼の居留地』『中継ステーション』 以上、ハヤカワ文庫
  『再生の時』 ハヤカワSFシリーズ
    *クラークの次くらいに嵌まった作家。『小鬼の居留地』は新井苑子の挿画が
     とても好きだった。
 ★フランク・ハーバート
  『鞭打たれる星』『ドサディ実験星』 以上、創元推理文庫
    *ハーバートは「デューン」シリーズよりも『鞭打たれる星』にはじまる
     「ジャンプドア」シリーズの用が好いと思う。
 ★アルフレッド・ベスター
  『虎よ、虎よ!』 ハヤカワ文庫
  『ゴーレム100』 国書刊行会
    *『ゴーレム100』は「ゴーレム100乗」というのが正しい読み方。
     コードウエィナー・スミスやハーラン・エリスンと同じで、なぜだか知らないが
     読むと「格好いい」という印象をもつ作家のひとり。文体が他と違うのかな?
 ★マイクル・コニイ
  『冬の子供たち』『ブロントメク!』『ハロー・サマー・グッドバイ』
                            以上、サンリオSF文庫
    *彼については何も言うことは無い。(笑)
     ただひたすら次作が訳されるのを待ち望むのみ。
 ★マイクル・ムアコック
  『紅衣の公子コルムシリーズ』『エルリックシリーズ』 以上、ハヤカワ文庫
    *エルリックにはひとつ条件があって、『ストームブリンガー』までの分が好み。
 ★ボリス・ヴィアン
  『うたかたの日々』『心臓抜き』『北京の秋』『人狼』 以上、早川書房
    *ヴィアンはハードボイルド作品ではなく幻想・不条理系の作品に秀作が多いと思う。
 ★チャールズ・デ・リント
  『リトル・カントリー』『ジャッキー、巨人を退治する!』 以上、創元推理文庫
    *たまに無性に読み返したくなる作家のひとり。
 ★カート・ヴォネガット(ジュニア)
  『タイタンの妖女』『ローズウォーターさん、あなたに神の御恵みを』
  『チャンピオンたちの朝食』 以上、ハヤカワ文庫
    *『タイタンの妖女』は爆笑問題の太田光が絶賛しているが自分も同感。
     Myオールタイムベストに入る作品。
 ★スティーブン・キング
  『呪われた町』 集英社文庫
  『IT』 新潮文庫
    *『IT』以前のキングはどれも好い。長いのでどれかひとつ読み終わると、暫くは
     「腹がいっぱい」になるのが難点。(笑)

※海外③につづく

『フロイト思想を読む』 竹田青嗣/山竹伸二 NHKブックス

 本書は竹田青嗣/山竹伸二のコンビによる、現象学の立場からみたフロイト思想の総決算である。書店で見かけたときには正直いって「いまさらフロイトなんて」という気がしていたのだが、今までも竹田には『プラトン入門』などで良い意味で驚かされたので、ここはひとつ竹田を信じて(笑)素直な気持ちで読んでみた。
 序章で著者自らも書いているように、人間の本質を何でもかんでも「性的欲望」に求める点については、やはり今の目から見るとフロイトは時代遅れの感が否めない。このように彼が主張した理論について、納得できなかったり的外れなところは時代とともに淘汰されていくのもある意味やむを得ないだろう。しかしそのアイデアの中には、エッセンスを一般化/昇華することで、今後も充分に通用する重要な思想と成り得るものが存在するため、それらが時代遅れの部分と一緒になって消えていくのは忍びないという、著者らの主張には素直に賛同することができた。

 考察の大きな流れとしては、フロイトの著作を年代順に眺めて、述べられている思想/仮説を現代の視点で検証する方法が採られている。その結果「古い」とされている部分としては、人間の心的エネルギーの本質を(一部ではなく)全て「性的欲望」に起因するとしてしまう点や、精神病や神経症が発症する原因を幼児期に刷り込まれた「道徳」と「性的欲望」の葛藤(だけ)に求めている点などが挙げられている。またフロイトが『自然科学と同様の手法によって(いつかは)自説の「正しさ」が客観的に検証される』と考えた点については、竹田らは『社会科学や人文科学については、確からしさを客観的に検証するのは原理的に不可能』と結論付けている。

 それでは逆にフロイト思想の「良いところ」とは何か?
 それは著者らによれば、人間の意思決定に作用する「無意識」という概念を初めて提唱した点であるという。そしてそれこそが「認識の限界」という、まさに現代思想にも通じる命題のさきがけとなったのだとも。またフロイトが主張する「道徳」と「性的欲望」の葛藤は少し言い過ぎにしても、心の中で色々な欲求がぶつかりあって葛藤することは誰にでもあり、それが人間の喜びや苦しみの源泉になっているのは間違いではなく、それを初めて指摘したのはフロイトの業績だと述べられている。

 第2章以降では、竹田が現象学的な観点から人間存在について、そして山竹が自我や無意識に関するフロイトの理論の中身を詳しく分析しているが、細かいところは省く。要するに重要なのは、理性や論理な判断を司る「意識」とは別に、快・不快などの感受性(=エロス的/幻想的身体性)が心の本質「無意識(*)」として存在し、それは通常は認識されないまま「意識」に影響を与えているというのをフロイトが初めて指摘したということ。

   *…意識に上らない心の領域のこと。けっして「意識が無い」わけではない。

 現象学分析によれば、人間には「身体的な快」と「(周囲との)関係的な快」を求める欲望に加えて、「自己価値(の承認)」を求める欲望という3つのレベルに分けることが出来る(=マズローの欲求段階説みたいなもの)。身体および関係的な快はフロイト思想においては未分化であり「エス」と呼ばれている。最後の「自己価値」はフロイトにおける「超自我」のことと同義。身体および関係的な快を求める無意識「エス」に対し、道徳的な観点から内的ルール(規範)による牽制を加える無意識である。欲望だけでなく倫理規範(=共同幻想、自己ルール)もまた「無意識」の内にあるというのは、後期フロイトが発見した卓見であった。

 心の成長において「自己価値(超自我)」とは子供の頃の親との関係から与えられるものであり、家庭環境などによってそれが歪んでいると形成される内的なルールも歪んでしまう。やがて成長するにつれて学校など集団生活を通じて社会との関係が出来、「自己価値」は少しずつ補正され良いものへとブラッシュアップされていくが、そこでの軋轢のレベルよっては精神的な負担が大きくなったり、場合によっては神経症の直接原因になったりもする。

 以上がフロイトの思想的な面についての再評価だが、それではフロイト学説は治療理論としてはもはや役に立たないものなのだろうか? 竹田はこれについても最後の第6章で考察を加えて再評価をおこなっているが、フロイトの「汎性欲説」が正しいという意味ではなく、乱暴な言い方をすれば「イワシの頭も信心から」という意味においてである。(笑)ただしそれはフロイトに限らず、ユングやフロムなどの心理療法理論の全体にいえることだと竹田は言う。
 どのような学説であろうが、クライアントがそれを納得して治療を受けることで最終的に「自己了解(納得/腑に落ちること)」に至ることさえ出来れば、たとえフロイトだろうがユングだろうが治るものは治るというのが彼の主張。その根拠として竹田は自らの体験談および、(なんと!)レヴィ=ストロースのシャーマン治療を例に挙げて説明する。心理学などの社会/人文系の学問は自然科学とは違い、正しいか正しくないか(確からしさ)に関して客観的な検証を行うことは原理的に不可能であると先程述べた。したがって心理学において多くの学説の中からどれを優位とするかは、個人の判断に委ねられることになる。とすれば心理治療の効果もまた受ける側の判断で大きく左右されるはずである。ここに至って遂にフロイトやユングが提唱する心理療法は、世界各地の先住民社会においてシャーマンが行ってきた呪術的な医療行為と同列に扱われることになる。

 以上が本書で竹田と山竹がフロイト思想から汲みとってきたエッセンスの概略。ここまでの結論を踏まえて、最後に改めて自分なりに精神分析や心理学について考えてみたことをちょっと付け加えておく。
 客観的な論証は不可能であるが社会の構造を維持するために必要不可欠であり、「野生の思考」によって紡ぎだされて世界各地で伝えられてきたものとして、「神話」がある。人類学でいう“冷たい社会”においては、古来より社会構造の安定と個人の精神的な安定は同じものと位置づけられていた。しかし現代社会のような“熱い社会”においては社会構造と個人の自己実現はイコールではなく、個人は自らの価値を高めるために何らかの精神的な保証を必要とする。そしてその役割を果たしているのが哲学や思想(もしくは宗教)であり、うまくいかない場合のセーフティネットにあたるのが心理療法(そしてその背骨が各種の心理学説)ではないだろうか?
 言うなればフロイトやユングの思想は「現代の神話」なのだといえよう。

『ぼくらが夢見た未来都市』 五十嵐太郎/磯達雄 PHP新書

 「未来都市」と聞いてまず思い浮かぶのは鉄腕アトムのオープニングのようなイメージ。空中に浮かぶハイウェイを、「スターウォーズ」に出てくるようなエアカーが疾走する風景が頭に浮かぶ。
 本書は「ダ・ヴィンチから現在まで、建築家たちやSF作家たちが描いた未来都市像の変遷を辿る。」という惹句にあるように、現実とフィクションの両方にまたがって、過去から夢見られてきた未来都市および未来建築について紹介した本である。但し「明治時代に空想された100年後の日本」というような、よくある“レトロフーチャー”なものばかりが、対象として取り上げられている訳ではない。構成としては奇数章には現実に構想された建築や都市計画が、そして偶数章には小説やマンガ等のフィクションで描かれた未来都市が、サンドイッチのように交互に組み合わさっている。サンドイッチではパンの間に挟み込まれた具材によって「○○サンド」という名前や味が決まるわけだが、本書で他の類書との違いを際立たせているのは、何といっても(本書の為に今回書きおろされた)フィクションにおける未来建築を紹介する偶数章の部分である。50~60年代(黄金時代)のSFが好きな人ならきっと、読んでいて愉しくて堪らないだろう。つまり奇数章がサンドの「食パン」、偶数章がサンドの「具」にあたり、パン同士をくっつける接着剤の役目をしているというわけ。
 残念だったのはせっかくおいしい「具(偶数章)」を作ったのに、それを挟む「パン(奇数章)」が既製品だったこと。色々な雑誌に掲載された文章を集めて、おおよそ共通するテーマで強引に一つの章にまとめているので、全体が散漫な印象になってしまった感は否めない。偶数章が前の奇数章の内容を受けてうまく繋ごうとしているが、「パン」自体がどうしてもパラパラと指の間からこぼれ落ちるので、少し食べにくい。こんなに面白いテーマなのだから、どうせなら奇数章も手を入れて統一感をだしてくれればもっと良かった。

 前置きが長くなってしまったが、ここからは具体的な中身の話に移る。
 「未来都市」という言葉のもとに括られた内容を挙げていくと、おおよそ次のようになる。
  ・「メガストラクチャー(超巨大建築物とでも言えばいいのかな?)」による都市計画
  ・東京の(あるべき姿にむけた)都市計画と、未来都市の象徴としての東京
  ・バラ色の未来へのアンチテーゼとしての「廃墟」のイメージ
  ・「未来都市」のイメージ形成に影響を与えた「ユートピア思想」などの系譜
  ・新しい都市空間への取り組み(近年のアジア地域とバーチャル空間について)
  ・「未来都市」の象徴としての大阪&愛知万博の総括
 先述のように奇数章では現実に提案されてきた都市計画案が紹介される。丹下健三/黒川紀章/磯崎新といった、キラ星のような建築家の名前が次々に出てきてわくわくしてくる。ただし現実の内容であるため取り上げられる年代がある程度限定されるのは致し方なくて、過去は18世紀から未来はせいぜい22世紀初頭まで、中心はやはり20世紀となっている。
 対して偶数章では古今東西のSF小説やマンガを題材にとり、物語で背景となっている都市や環境が紹介されている。すぐに思い浮かぶクラークの『都市と星』、アシモフの『鋼鉄都市』といった有名どころは勿論のこと、シルヴァーバーグの『内側の世界』やプリースト『逆転世界』といったマニアックな作品、はては菊地秀行の『魔界都市<新宿>』やイーガンの『ディアスポラ』まで数多くの作品が取り上げられ、(作品を知っていれば)実に楽しい。

 実はこの本を読み始める前に、ここで取り上げられてない作品を考えてやろうと頭を絞ってみた。結構考えたつもりだったが結局重ならなかったのはスティブルフォードの「タルタロスの世界(3部作)」くらいだった。(この中には地球全体を覆うメガストラクチャーが出てくる。)
 あとは石原藤夫「ハイウェイ惑星」で舞台となる惑星全体を覆うハイウェイや、ブリッシュ『宇宙零年』に出てきた、木星に建築中の巨大な「橋」なんかも思いついたが、地球外なのでちょっとルール違反かな?

 以上、SFに詳しくない人が読んでもなんのことかさっぱりわからない話題が続き大変恐縮だが、あんまり楽しかったのでご勘弁を。(笑)

<追記>
 「未来都市」のイメージ形成について、自分なりに考えていたことを補足しておきたい。
本書でも述べられているように、当代の日本人が「未来都市」に対して抱くイメージに決定的な影響を与えたのが、手塚治虫の『鉄腕アトム』と、(大伴昌司により)少年マガジンに掲載された『図解シリーズ』であるのは間違いない。そして彼らが参考にしたのは、アメイジング・ストーリーズ誌やワンダー・ストーリーズ誌といったアメリカのパルプマガジンの表紙絵だろう。これらを辿っていくと、最終的には「SFの父」ヒューゴ・ガーンズバックが書いた「ラルフ124C41+」に至る。
 問題はガーンズバックが何をヒントにして「ラルフ…」の都市のイメージを考えたか?だが、それは直接的には19世紀中~末にかけて開催されたロンドン万博とパリ万博だったのではないだろうか。当時最新の建築素材であった鉄鋼(鉄骨)や板ガラスをふんだんに使って建てられた、水晶宮(ロンドン万博)やエッフェル塔(パリ万博)といった巨大建築が、(個人的には)後のメガストラクチャー幻視の引き金になったのだと思う。そしてさらに遡ればイタリアのグロッタに代表されるバロック趣味や、ドイツの「ヴンダーカマー(驚異の部屋)」の展示物に見られるような「新奇性」ならぬ「珍奇性」への嗜好が、我々が「未来都市」に感じるワクワク感にもつながっている気がしてならない。(アンチンボルドの絵と万博パビリオンのヘンテコさ加減って、どこか印象が重なるのは自分だけだろうか?)

『火の起源の神話』 J・G・フレーザー 角川文庫

 『金枝篇』で有名なアームチェアー派の文化人類学者であるフレーザー(フレイザー)が、その碩学を余すところなく披露して、世界中の神話における「火の起源」を比較・分析した書。角川文庫版が絶版になってからしばらく入手できない時期があったが、最近ちくま学芸文庫に収録されたので入手しやすくなった。今回は前の角川版が安く入手できたのでそちらで読了。色々な世界中の地域の言い伝えを愉しむことが出来た。
 惜しむらくは、豊饒なイメージに溢れる神話の中身を「火の起源」という一面的な切り口に絞ることで、最初から自分がもっているひとつの結論(*)を導くための「手段」にしてしまっている点。(一例を挙げれば、火を人類にもたらしたとされるウサギやワタリガラスについて、その行動をトリックスターとして分析することもできる。)読んでいるうちに、せっかくの素材が何だかもったいない気がして少し残念だった。
 やはり構造人類学の洗礼を受けてしまったあとでは、ちょっと古いこの手の本は厳しいのかも? ちょっと寂しいね。(しかしあるとつい手を出してしまうんだよなあ。)

  *…「自然科学が未発達な原始社会においては、科学的な原理を説明するために物語の形式
    をとる」といった、進化論の考えを社会科学や人文科学の分野にそのまま適用しようと
    する考え。

その他の作家・作品(海外①)_My favorite 16

 これからの『My favorites』では、今まで個別に取り上げなかった作家や作品について、
まとめて挙げていくことにする。理由は色々あるが大体次の3つのどれか。
  ・作品数は多いけどあまり読んでない作家の作品(これから好きになる可能性あり)
  ・作品数は多いけど当たり外れが大きい作家のうち、当たりの作品(昔好きだったけど
   飽きちゃったもの含む)
  ・個別に紹介するには作品数が少ない作家の作品(今では忘れられてしまった作家もある)
 ごちゃまぜで順に挙げていくが、どの作家がどれにあたるかは敢えて言わない。(笑)
また順番も適当に思いつくままで、まずは海外の作家・作品から。

 ★フレドリック・ブラウン
  『発狂した宇宙』 ハヤカワ文庫
  『スポンサーから一言』『天使と宇宙船』『宇宙をぼくの手の上に』 以上、創元推理文庫
    *中学生の頃に最初に嵌まった作家。なかでも『発狂した宇宙』はSFに開眼する
     きっかけになった本。
 ★アーサー・C・クラーク
  『地球幼年期の終わり』 創元推理文庫版の方
  『宇宙のランデブー』 ハヤカワ文庫
    *ブラウンの次に好きになった作家。『都市と星』よりも『幼年期…』派だった。
 ★コードウェイナー・スミス
  『ノーストリリア』『竜と鼠のゲーム』『シェイヨルという星』 以上、ハヤカワ文庫
    *他の作家と違う独特の世界観で、読めば読むほど中毒になった。
 ★イアン・ワトスン
  『スローバード』 ハヤカワ文庫
  『マーシャン・インカ』 サンリオSF文庫
    *一般的には『ヨナ・キット』や「黒き流れ3部作」あたりが代表作になると思うが、
     個人的な事情で『マーシャン・インカ』には思い入れが強い。
 ★ロジャー・ゼラズニイ
  『光の王』「真世界シリーズ」 以上、ハヤカワ文庫
    真世界シリーズ:『アンバーの九王子』『アヴァロンの銃』『ユニコーンの徴』
            『オベロンの手』『混沌の宮廷』の5冊
  『ロードマークス』『影のジャック』 以上、サンリオSF文庫
    *ゼラズニイといえばすぐに『伝道の書に捧げる薔薇』と言われるが、中学の時に
     読んで「なんてキザな作家だ。」と思い(笑)、正直いって好きではなかった。
     大好きになったのはサンリオ作品を読んで、アメコミのような軽さとカッコつけを
     ”意識して”やっているんだと気付いたころから。
 ★シオドア・スタージョン
  『人間以上』ハヤカワ文庫
  『不思議なひと触れ』 河出文庫
    *スタージョンはどれも好きなんだけど、あまりにメジャーになりすぎて、今では
     却って素直に「好き」というのが憚られる気恥ずかしさがある。
 ★レイ・ブラッドベリ
  『刺青の男』 ハヤカワ文庫
  『何かが道をやってくる』 創元推理文庫
    *『刺青の男』は収録作の全てが傑作というおそるべき短篇集。収録作の「壁」は
     「壁の中のアフリカ」という題名のジュブナイルで小学生のころに読んで以来、
     トラウマになった。

※海外②につづく

『空間の日本文化』 オギュスタン・ベルク ちくま学芸文庫

 本書はパリ大学で地理学を学んだ後に東京日仏会館の学長なども務めた著者が、(「日本文化における空間を論じた」のではなく、)「空間を切り口にして日本文化について論じた」本である。なお、たしかに“空間”というキーワード/概念を用いて日本文化を分析したものではあるが、“空間”という言葉に惑わされないようにちょっと注意が必要。ベルクは普通に使っているような物理的な意味としてだけではなく、色々な概念に対してこの“空間”という言葉を使っており、それに気が付くまでは、いつまで序章が続くのだろうかと思っていた。(笑)
 (建築家の隅研吾が巻末で良い解説を書いてくれているので、先にそちらを読んでおいた方が良かったかも知れない。)
 隅の解説に拠ってベルクが「空間」という言葉を用いている対象概念を整理すると、
  1.精神的な領域(心理学や言語学の研究領域)
  2.社会的な領域(社会学や文化人類学など)
  3.物質的な領域(建築学、都市工学など)
の3つになる。物質的な領域を除く2つに対しては普通“空間”という言葉はあまり使われないが、本書ではこれらの諸領域でバラバラに論じられてきた事象を、「空間性」という概念で統合しようと著者は試みているのだ。この本が発表された当時のことはよく分からないが、このあたりはイーフー・トゥアンの『空間の経験』だとかエドワード・レルフ『場所の現象学』に見られるような、当時の地理学の趨勢なのかも知れない。

 第1部ではまず日本語と日本人の意識について考察がなされている。
 ざっとその特徴を挙げてみると、
  ・オノマトペ(擬態語/擬声語)を多用すること
  ・「主語」と「文章の主体」が一致しなくても文が成り立つこと
  ・「間」に対する意識があること(「間」は西洋文化における「休符」とは違う)
  ・物事を論じる際に、「理屈」ではなく「象徴」や「喩え」をそのまま提示するだけで
   良しとすること(西洋の目から見るとそれでは「結論」にはならない)
  ・実態でなく表面的な型や形式を尊重すること(北海道で酪農を学ぶ際、技術や知識
   だけでなくデンマーク人の容姿まで丸ごと真似たことなど)
などがある。これらは日本語の言語構造からくる日本人の意識、つまり「主体を絶対化せず周囲環境との一体によって自分が表される」という特徴からくるものとしている。

 次の第2部では日本の「食」と「住」を取り巻く、いわゆる物理的な「空間」について考察が行われる。
 日本に特徴的な物理的空間の特徴としては、
  ・「線(町をつなぐ街道)」中心ではなく、「点(町・地域などの固定点)」を中心にした
   街づくり(ヨーロッパに代表的な都市とは逆の都市計画。道は単にポイントをつなぐもの
   でしかない。)
  ・道が直線ではなくわざと曲げてある事や、庭などの空間デザインにおいて幾何学的均衡
   (特にシンメトリー)を極端に嫌うこと
  ・形質(物事の表面)を出発点として「外」へではなく「奥/内」へと限りなく延ばされる
   指向性(回り道や折りたたみ、襖や屏風により敢えて細かく区切られた部屋)
などが挙げられている。つまり位相空間の設計原理としては、遠くまで開けて見通せるのでなく先が見えない事を良しとすることや、そして先が見通せない事によって各所の地理的な絶対位置は問題とされなくなり、代わりに行程の途中に小さな区切りを設けることで眺望が見えないことを補完することが優先されているのだ。予めきめられたゴールを目指して空間設計が行われるのではないため、空間全体を統括するのはある場所から別の場所への動きを規定するルールだけ。答えはデータの集合としてでなく、運動の方程式(プログラム)として与えられているに過ぎない。

 最後の第3部においては、今まで進めてきた精神的および物理的意味における「空間性」を踏まえ、いよいよ社会的な考察が論じられる。町内会や田舎といった日本固有の組織形態や、「日本人」という意識、公私のケジメがなく曖昧な点など、様々な現象や仕組みについて検討が行われるが、ここまでの話が理解出来ていれば充分に納得できる内容となっている。

 解説で隅研吾が述べているように、本書は従来の「空間論」の枠組みと「記号論」の枠組みを飛び越えて行き来しながら考察が進む。そのため最初はとっつきにくいかもしれないが、構成を理解した上で読んで行けば決して難しいことを述べている訳ではない。そもそも記号論的アプローチとは、地理学において空間論的なアプローチによる限界が見えてきた時、そのアンチテーゼとして生まれたものであったとのこと。しかしその結果新たな知見が得られはしたが、地理学は空間論派と記号論派という2つの相容れない枠組みによって分断されてしまった。ベルクは本書において、日本文化の分析をケーススタディとしながら、実は記号論的地理学の限界をさらに空間論的なそれと「統合」することで、乗り越えようという試みを行っているのだという。うーん深い。
 日本人はやたらと日本人論とか日本文化論が好き。たくさんの類書が巷に溢れ、自分も幾つか手にとって来たが、本書はその中でも結構良いものだと思う。フランス人と思って最初は舐めてかかっていたが、なかなかどうして結構侮りがたい、参りました。(笑)

<追記>
 刺激にみちた本書によって、
 ①「外」ではなく「内」に向かうという嗜好こそ、いわゆる「縮み志向の日本人」(by李御寧)
  を生み出した直接原因なのか?
 ②小さく区切られた街区の中でチマチマと蟻のように人々が動き回る様子を想像すると、
  まるでマーヴィン・ピークによるダークファンタジー『ゴーメンガースト』を彷彿とさせる
  ようではないか!
 ③韓国語の「ウリ(われわれ)」という概念は日本語の「内(うち)/外(そと)」の内と
  同じ語源か?
などなど、頭の中には様々な妄想が駆け巡ったのだった。

『経済学とは何だろうか』 佐和隆光 岩波新書

 とても良い本だ。巷には数多くの「経済学」の本が溢れていて、ニュース・新聞では様々な経済政策が日々取り上げられ議論されている。しかし「経済の専門家」といわれる人々の間において、何故これほどまでにお互いの意見が食い違うのか、かねがね不思議に思っていた。「小さな政府」と「大きな政府」のどちらが良いのか?郵政は民営化すべきか否か? 市場は原則自由化すべきなのか?等々、それぞれの論者が依って立つスタンスを理解しようにも、何を読めば良いか判らずに手を付けかねていたのだが、自分のような経済の初心者が概略を理解するのにちょうど良いころ合いの本を見つけることが出来た。
 この本の趣旨は、①ヨーロッパで誕生した「経済学」という社会科学の一分野がその後、“経済学の特異点”とでもいうべき②アメリカ合衆国において変貌・発展を遂げ、最終的に③日本でどのように受容されたかまで、枝葉末節にはこだわらず大掴みで描きだそうというものである。(そしてその試みはほぼ達成できているといえる。)
 著者の考えの背景にあるのは、科学史の研究者であるクーンが考えた「パラダイム」という概念。「科学史」とは自然科学において発見された出来事や、その時代ごとで優位とされていた考え方・理論について客観的に記述しようとする学問。この手法を経済学にも適用し、(個々の経済理論の中身ではなく)時代や地域の移り変わりによってどのような考えの枠組み(=パラダイム)が優勢になっているか? について、一歩引いたところから眺めてみようというのが本書である。著者が特にこだわっているのは『その時代時代で支配的な考え方は、研究者の合意により決まる』という事と、『研究者同士による合意は検証結果に対する納得感、つまりあくまでも主観で決まる』という事。また社会科学の場合は実験による検証が不可能だというのはほぼ通説であり、したがって社会科学においては様々なパラダイムが並立して一つに収束することはなく、「正しい理論」というものも原理的に存在し得ないという考えで一貫している。

 以下、本書の記述に沿って先述した3つのステップを大まかにまとめてみる。
 まず最初のステップはヨーロッパにおける「古典派経済学」について。(学校の世界史で習ったアダム・スミスとかのアレ。) ヨーロッパでは19世紀に自然科学が、元来単数形で表現されていた“science”から複数形の“sciences”へと変化し、「世界を解き明かす<知>の体系」から「専門化した個別諸科学」へと変わった。その結果、産業革命を経て「有用科学」として大成功を収めることになった。それとほぼ時を同じくして哲学/思想の世界においても、個人と社会の関係が未分化だった状態からやがて、市場経済を“要素還元的”に把握して力学的な機構を理論的に解き明かす思考方法が考案され、今でいうところの「経済学」が確立した。具体例を挙げれば、市場価格は需要と供給の関係で決まることや、社会の富は労働者の労働によって生み出されることなどがあり、その後の経済学の基礎になる概念はすでにこの「古典派」でほぼ出揃っている。しかしまだそれらは“素朴”といっても良いくらいのものであり、「(神の)見えざる手」に任せておけば自然に理想的な形で調整がなされて公共の福祉が最大化するという、“自由主義の信奉”がこの「古典派経済学」の基本的な考え方であった。

 次いで2番目のステップで舞台はアメリカ合衆国に移る。ヨーロッパで誕生した「古典派経済学」の理論は、アメリカに伝えられたのち経済政策の思想的バックボーンとなった。しかし折しも発生した世界恐慌を前にして、「市場の動きに自由に任せる」という性善説的な対処しかしない古典派経済学は全くの無力であり、アメリカ経済は急激な悪化の一途を辿る。国家存亡の危機に際して新大統領に就任したルーズベルトは、当時まだ懐疑的な目で見られていたケインズの経済学理論を経済政策に採用し、それに基づく社会民主主義的な『ニューディール政策』を実行にうつした。『ニューディール政策』は国家が市場に対してある範囲で介入するという、世界で初めての試みだった。(ここらへん、世界史の教科書みたいな記述が続くがご勘弁/笑)
 それが直接の効果を上げたかどうかは不明だが(Wikiによると専門家の間でも意見が分かれているとある)、取り敢えずは第2次世界大戦の勃発によって国内需要が増大したこともあり、アメリカは経済危機から脱することができた。
繰り返すが、一般的に社会科学は自然科学と違って「実験による検証」は不可能。その理由は繰り返し同じ条件で実験ができないこともあるが、社会実験を行った場合に実経済に与える影響/リスクが大きすぎるため。しかしアメリカ合衆国は、元々が人為的に作られた世界でも稀有な法規国家であり、リスクの大きい社会実験が政府によって本当に実行されることになり、しかもそれが運よく(?)大成功を収めてしまった。この「成功体験」は、その後のアメリカ経済学を極めて特殊な形態へと発展させていくことになる。
 もっとも、その後「ケインズ経済学」はアメリカにおいて「古典派経済学」と合体(吸収され)、「新古典派理論」が生まれた。市場の暴走を最小限の政府介入によって抑えるという、ケインズの基本的な考えは継承されたが、経済政策に組み込まれることで極端な社会民主主義的な傾向は弱まり、「自由主義(=小さな政府、個人主義)」の傾向が再び強まっていくことになる。
 しかし「成功体験」の影響は、そのような「社会民主主義的な色合いの強弱」よりも、『経済学は現実に役立つ学問だ』という認識がアメリカ社会に定着し、その結果「経済学」が産業化していったことだろう。かくして今日では毎年数千人の職業人としての経済学者(「エコノミスト」)が専門養成機関から社会に巣立っていくという、世界でも他に類を見ない不思議な社会制度が出来あがった。ところが養成機関による育成を成り立たせるには、経済学理論の全てが数式で処理されて教科書で学べるものになっている必要がある。そのためアメリカの経済学からは、よりよい社会を実現しようという「社会思想としての経済学」のカラーが消え、代わりにまるで自然科学のように扱われることが可能なツールとなった。これが現在でも続いているアメリカ経済学の特殊事情である。

 最後に日本における経済学にうつる。日本で経済学といえば、社会研究の一環として学者たちにより行われる思想研究の色合いが強かった。戦前にはそれでも細々とではあるが、ヨーロッパ古典派およびそこから派生したマルクス経済学の咀嚼がなされつつあり、本来ならアメリカ式の数式を用いたツールとしてよりも、社会思想としての経済学に対して親和性が強かった。しかし敗戦後の日本に対して戦勝国アメリカは、「新古典派経済学」を自然科学の装いをもつ唯一の社会科学として紹介した。(*)アメリカの経済発展と専門養成機関による「役に立つ学問(実学)」の繁栄を目の当たりにしたとき、そこに経済学の将来を感じた人々は積極的にアメリカ方式の吸収を図っていった。(**)

   *…そもそも日本では伝統的に「有用科学」「自然科学」への信頼が高かった。なぜなら
      明治維新で自然科学をヨーロッパから導入する際、新たに誕生したばかりの
      “sciences”つまり「専門化した個別諸科学」を、自然科学の本来の姿であると
      勘違いして導入し、富国強兵に邁進した経緯があるから。

  **…ただし社会構造や国民意識が異なる国に適用する過程でかなり中身が変質し、
      日本の社会システムにあった形へと作りかえられた。「新古典派経済学」が
      元に近い形で導入されたのは、小泉政権の時の竹中平蔵による経済政策だと思う。

 以上、大掴みで流れを追ってきたが、アメリカ式の「新古典派経済学」(およびそれに基づく経済政策)を日本に盲目的に導入することについては、素人的にみても2点ほど問題があると思う。
 ひとつ目は社会科学では自然科学と違ってどれも他の理論を論駁することは不可能であり、どの理論も横一列であくまでも憶測・仮説の域を超えないということ。さらにアメリカ人は何事も極端に走る国民性があるので、アメリカでいくら支持されている理論といっても、それを実際に日本で履行するのはリスクが高すぎる。小さな政府や自由化の行き着く先がエンロンの破綻やサブプライムローンによるバブル崩壊だとすれば、極端な自由主義は様々な弊害を生むおそれが高いとも言える。
 ふたつ目は、数式での処理を可能にするために、モデルを極端に簡素化・理想化している点。古典力学では物体が等速直線運動をするなど、理想的な仮想空間モデルによる現実空間の簡素化/理想化がなされるが、それは色々な因子の影響を排除して理論化しやすくするためである。ところが社会科学は現実の社会を研究する学問であり、簡素化すればするほど現実世界との乖離(=誤差)が大きくなってしまう。例えば市場経済で取引する人間が、リスクや価値を見極めたうえ、その都度もっとも正しい判断を行うと仮定してモデル化するのはどう考えてもおかしい。ゲーム理論のモデルでもそうだが、どうもアメリカで発展した社会科学は目的と手段がひっくり返って本末転倒になっている気がしてならない。

 ケインズだのフリードマンだの、はたまたミクロだのマクロだのと経済学については色々な学説や理論があるが、その優劣を判断出来るほど経済学に通じている訳ではない。ただ直観的には、(物理法則などを対象にする自然科学と違って)人為的な社会ルールを対象にしている社会科学の場合、文化や習慣が異なる社会では適用されるルールも異なるので、普遍的に通用する経済理論は無くて当然という気がする。そんな事の探求に力を注ぐよりも、むしろ各種の経済理論が成立する条件を研究する、いわゆる「メタ経済学」のようなものを考えた方が有意義なのかもしれない。

 …というように、経済学がさっぱり分からない素人が偉そうに書いてきた訳だが、少なくとも本書については経済学の素人が一読するだけで、この程度のことを考える程度にまではなれるという意味で、(冒頭でも言ったように)とても良い本だということだけは間違いないと思う。(笑)
 まあ、これから経済学の本を読むときに何を書いてあるか分かる程度には、頭の中に補助線が引けたんじゃないかナ。

『御手洗潔対シャーロック・ホームズ』 柄刀一 創元推理文庫

 世に「名探偵」と呼ばれるキャラは数多い。明智小五郎(by江戸川乱歩)、金田一耕助(by横溝正史)、キッドピストルズ(by山口雅也)、火村英生(by有栖川有栖)、円紫師匠(by北村薫)、モース警部(byデクスター)などなど、数え上げれば切りが無いほど。(と言いつつ、ここに挙げたのを見ればだいたい趣味が分かってしまうが…/笑)その中でも『占星術殺人事件』で鮮烈なデビューを飾った御手洗潔(みたらいきよし/by島田荘司)は、新本格ミステリにおける探偵キャラの代表格だろう。S・ホームズ(byドイル)は言わずもがな。

 本書は『3000年の密室』で本格推理小説の世界に登場した作家・柄刀一が、御手洗潔とホームズをネタにして書いた短篇集である。収録作は最初から順に「青の広間の御手洗」「シリウスの雫」「緋色の紛糾」「ボヘミアンの秋分」「巨人幻想」の5作。「青の広間…」と「シリウス…」は御手洗潔が主人公のパスティーシュ(文体模写)だが、これが上手い。島田荘司の作品に対する柄刀の敬愛の情が溢れていて、島田が書いたシリーズの正統な続編かと見まがうほど。トリビュートと言った方が正確かもしれない。
 続く「緋色の紛糾」「ボヘミアンの秋分」は雰囲気がうって変わって、ホームズファンなら爆笑もののパロディ作品。題名もホームズ第1作の「緋色の研究」と名作「ボヘミアの醜聞」のもじりになっている。最後の「巨人幻想」は、作中の時間でも100年のずれがある2人の名探偵がコラボレーションするという離れ業をおこなっていて、パロディでもなくパスティーシュでもなく何というか...、いわゆるミステリファンの「夢」とでも言えばいいのかな? そんな作品。
 元々、御手洗シリーズの設定自体がホームズシリーズから拝借した、エキセントリックな探偵と愚直な語り手のコンビが活躍するというスタイルなので、2人のキャラを共演させても非常に相性が良い。単なるキャラクター遊びではなくトリックもそれにふさわしい大胆かつ納得のいくもので、久々に大満足の1冊だった。

2010年5月の読了本

『量子力学の解釈問題』 コリン・ブルース 講談社ブルーバックス
  *量子力学にまつわる根源的な問題について、これまでの様々な学説を解説。
   (まだ決着はついていない)
『箱男』 安部公房 新潮社
  *段ボールに身を包んで街を行く「箱男」。彼らの一人が書いた手記の体裁をとって、
   不条理な世界が展開する。
『歌麿さま参る』 光瀬龍 ハヤカワ文庫
  *作者お得意の時代SF短篇集。ちなみに題名は「うたさま・まいる」と読む。
『書店繁盛記』 田口久美子 ポプラ文庫
  *ジュンク堂に勤める書店員の日々をつづったエッセイ。
『魔性の子』 ロジャー・ゼラズニイ 創元推理文庫
  *『魔性の子』といえば今では小野不由美の十二国記シリーズ(の番外編)の方が
   有名だが、こちらの方が出版は早い。原題の“Changeling”とはヨーロッパに伝わる
   妖精民話にでてくる「取り替え子」のこと。
『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』 鎌田東二 岩波現代文庫
  *宮沢賢治の代表作を骨の髄までしゃぶり尽くした解説書。
『呪殺・魔境論』 鎌田東二 集英社
  *異端の宗教学者による、オウム&酒鬼薔薇事件についての考察。
『山形道場』 山形浩生 イースト・プレス
  *大手シンクタンクで勤務する傍ら、文学/経済/コンピューターなど多岐に亘る
   分野において翻訳をおこなっている著者の「雑文集」。河出文庫で出ている
   『要するに』のもとになった本。キレイごとやお世辞は言わずズバリ本質に
   切り込んでくるので、好き嫌いは結構分かれると思うが、言っていることは至極
   まっとうで傾聴に値する。
『江戸百夢』 田中優子 ちくま文庫
  *『江戸の想像力』と同じ著者による、江戸時代の日本文化を取り巻く図像を集めて
   解説を施した本。芸術選奨文部科学大臣賞とサントリー学術賞の2冠を達成。
   世界地図から手ぬぐいの柄まで色々と載っていて愉しい。(ちなみにこのブログの
   図柄も、江戸の手ぬぐい柄の一種。知っている人も多いとは思うが、「鎌」+「輪」
   +「ぬ」で「かまわぬ(構わぬ)」の洒落。)
『日本幻想文学史』 須永朝彦  平凡社ライブラリー
  *古事記から昭和の時代に至る日本幻想文学の通史。洒脱で“いきおい”の山東京伝が
   黄表紙で成功をおさめ、頑固で“理屈”の滝沢馬琴が読本で成功を収めた様子を紹介
   するくだりは、幸田露伴の江戸文学に対するエッセイを読む際の参考になり、より
   愉しむことができた。
『御手洗潔対シャーロック・ホームズ』 柄刀一 創元推理文庫
  *東西を代表する名探偵に因んだパスティーシュ集。
『経済学とは何だろうか』 佐和隆光 岩波新書
  *「経済学」という学問分野が、時代と国によってどのように変遷したかについて、
   「パラダイム」の概念をもとにして考察した本。
『未来医師』 フィリップ・K・ディック 創元推理文庫
  *約17年ぶりとなる、ディックの本邦初訳作品。
『空間の日本文化』 オギュスタン・ベルク ちくま学芸文庫
  *「空間」をキーワードにしてフランス人が分析した日本に対する秀逸な文化論。
『雲の影、貧乏の説』 幸田露伴 講談社文芸文庫
  *明治の文豪、露伴の随筆集。文化論から作家論や追悼文まで幅広く収録し、当時の
   雰囲気が良く伝わってくる。
『火の起源の神話』 J・G・フレーザー 角川文庫
  *文化人類学の古典的著作である『金枝篇』の著者が、世界各地の「火の起源」に
   まつわる神話を紹介する。
『若冲』 狩野博幸 角川文庫
  *細密画を得意とし、江戸時代を代表する画家のひとりにして奇想の系譜にも連なる
   「若冲(じゃくちゅう)」。通説をことごとく覆す最新研究の成果とともに彼の作品を
   分かり易く紹介する。『Kadokawa Art Selection』シリーズの一冊。

『未来医師』 フィリップ・K・ディック 創元SF文庫

 やった、久しぶりのディックの初訳作品! 確かにしばらく新作を読んでいないとは思ったが、本邦初訳は何と約17年半ぶりなんだとか。なお内容については特にコメントしないことにする。(笑) なんせ目ぼしい長篇は既に殆ど紹介されつくしているうえ、日本版オリジナルの短篇集まで数多く編まれているほどの人気作家、ここまで来て未だ訳されずに残っているものの中身に元々など期待はしていない。ストーリーが飛躍しすぎるとか主人公の行動が変だとか、あるいはディックお得意の現実崩壊感や不安感が全く感じられないだとか、25年前ならきっと言ったであろう生意気な感想は一切なし。
 そう、自分にとってこれはもはやイベントなのだ。「いかにも」な筋運びも含めて、久しぶりのディックをすっかり堪能させてもらった。もっとも、決して万人にお薦めできる作品ではないが。
 ディックをこれから読みたい人には定石どおり『パーマー・エルドリッチの3つの聖痕』や『ユービック』、『火星のタイムスリップ』あたりを読んでもらうとして、自分のようなすれっからしの読者向けとして(解説で牧真司氏も書いているように、)創元に頑張ってもらって残りの未訳作品3冊もこのまま出してもらいたいものだ。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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