電子書籍サービスについて

 i-Padが発売されてからというもの、今まで以上に電子書籍サービスの話題が多くなっているようだ。ハードウェアとしてのi-Padが売れるかどうかは別として、今のコンテンツの供給状況からすると、初期投資に対するバックが少ないので、自分としてはまだ電子書籍を利用する気にはならない。
 主要な出版社でつくる電子書籍の販売サイト「電子文庫パブリ」をざっと覗いてみると、販売されている本(ソフト)は一般の書店でも買えるもの(の一部)しかなく、わざわざ重たい電子ブックで読まなくても手軽な文庫で手に入るものも多い。
 電子書籍の魅力として良く挙げられるのは、まずハードウェア自体がもつ特色による「字の大きさが変えられる」や「読み終わった本が邪魔にならない」など。次に出版社の仕掛け(サービス)による「本が安く買える」とか「早く入手できる」などが代表的なものだろう。しかし今のラインナップ程度であれば本の「ヘビーユーザー」がわざわざ数万円を払い、ハードウェアを購入してまで電子書籍サービスを利用するとは思えない。そんな金があれば、その分を本の購入費に廻すはずだ(笑)。 またサービス利用者をi-Padユーザーにもとめたとしても、そのほとんどは(Webについてはヘビーユーザーでも)本については「ライトユーザー」であり、やはり期待はできそうにない。
 まったく新規の商品を企画する場合は、「イノベーター(革新者)」や「アーリーアダプター(初期採用者)」をいかに攻略して市場を構築するかが重要。そしてある程度市場が構築されたのち、「マジョリティ(追従者)」の購入が始まってから投資の「回収」に移るというのがセオリーである。だとすれば、電子書籍サービスにおいても、どのようにして「ヘビーユーザー」を攻略するかがカギとなるだろう。そこで次のような提案はどうだろうか?

 残念ながら媒体としての機動性や扱いやすさでは「紙」に勝てるものはまだない。したがって大学などの研究機関の場合は、いくらたくさんの書籍を購入している「ヘビーユーザー」であったとしても、電子書籍の普及にはまだ時間がかかるだろう。電子書籍を電子データとして利用できるリファレンスソフトなど、研究資料として活用できる環境が整えばまた別だが、もうすこし時間がかかるのではないだろうか。
 とすると、電子書籍のヘビーユーザー候補は、自分達のような一般の読者にもとめるしかない。毎月それなりの量の本を買っている「活字中毒者(笑)」がとりあえずのターゲットになるだろう。ヘビーユーザーは大きく分けて次の3つに分類できるとおもう。
  1) 物体としての本を愛するタイプ、いわゆる「愛書狂」
  2) 主に新刊書店(ネット通販含む)で最新刊を購入するタイプ
  3) 場合によっては古本屋も活用して自分の趣味を追求するタイプ
 最初の1)は本の中身には興味が無いので電子書籍のユーザー候補としては論外。可能性があるのは2)と3)のタイプである。
 次の2)は例えばミステリやSFなどのサブカルチャー系などに多いタイプで、この人達は「読み終わった本が邪魔にならない」には心惹かれるかもしれないが、最近では読み終わるとすぐブックオフに持っていくことも多い。したがって基本的には「安く買える」が電子ブック利用のポイントになるだろう。仮に平均1500円するハードカバーの新刊が900円で買えたとして、差額は1冊600円となる。これで初期投資の5万円分を回収するには約80冊かかる。ひと月4冊買うとして、およそ1年と3カ月ほどになる計算になる。実際にはブックオフに売って回収できる金額を考慮しなければいけないので、1年半ぐらいかかるかも知れない。この人達は旧刊には用が無くて勝負は常に最新刊のみ。ロングセラーは期待できないので、大手の出版社以外は対応しにくいかも知れない。
 最後の3)は社会科学や人文科学系の本を趣味で読むような人間。市井の民俗学者や歴史マニアなども含まれるかもしれない。多分電子書籍のユーザーとしてはこちらのタイプの方が有望だと思う。
 社会系や人文系の学術書は、「名著」と呼ばれる本であってもたくさん売れるわけではないので、刊行されてから一度も重版がかからずそのまま絶版になっている場合もかなりある。これらの本は古書でなかなか出回らない上、出ても高値が付くケースが多い。一例を挙げればオクタヴィオ・パスの『弓と竪琴』(ちくま学芸文庫)は、古本屋で4500円、山口昌男の『仕掛けとしての文化』(講談社学術文庫)は3500円もする。文庫でもこの値段であり、ましてや単行本はまず見かけたことが無いし、たまに出ても美本は殆どないうえ価格も高い。
 またこれらのジャンルでは現在刊行中の本であっても、発行部数が少ないために定価がべらぼうに高くて、なかなか手がだせない。これも例をあげれば、レヴィ=ストロースの『神話論理Ⅰ/生のものと火を通したもの』(みすず書房)は定価8400円(!)もする。
 これらの本を電子書籍にしてくれれば、2000円くらいしても結構買う人が居るんじゃないかと思う。もともとの単価が高いので差額も大きくなり、仮に平均2500円の差額が期待できるとすれば20冊余りで元が取れる計算になる。さらには定番商品としてロングセラーも期待できるので、中小の出版社でも(電子データ化するための初期投資さえ何とかすれば)充分に対応が可能と思う。

 だれか実現してくれないだろうか?

<追記>
 『復刊ドットコム』のリクエストでもいいしオンデマンドの本でもいいから、本を出版する代わりに電子書籍で出してくれれば、文芸関係でも充分に学術書と同じようにいけるんじゃないかな? 結局のところ本好きに対して魅力を出そうとすれば、ポイントは「読みたい本が読めること」に尽きるわけだから。
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『呪殺・魔境論』 鎌田東二 集英社

 「政治的テロ」に関する考察は笠井潔が『テロルの現象学』(ちくま学芸文庫)においてほぼやり尽くしていると思う。犯人がテロの実行に至るまでの心境はこの本により大体理解したつもりだった。しかし1995年にオウム真理教によって起こされた「宗教的テロ」に直面したときには、何故おこったのかが全く理解することが出来なかった。つまり物証や犯行におよんだ経緯など外部的な検証は幾らでも理解が深められるのだが、犯行に至った心情が全く想像できなかったということ。
 いや正確にいえば、マインドコントロールによる信者達の心については理解できていると思う。オウム教団内におけるグルと信者の間の絶対的な関係や、立てこもり犯と人質の間に発生するとされる「ストックホルム症候群」など、心理的な点からも納得できる。さっぱり解らないのは麻原彰晃の心理、彼が陥った“心の闇”である。「犯人の心の中の闇は本人にしか分かりません」とはニュースキャスターの常套文句だが、そんな逃げ口上ではなく誰かがきちんと説明をしてくれないものかと常々考えていた。

 本書はおどろおどろしいタイトルだが内容はいたって真面目。気鋭の宗教学者・鎌田東二がオウム真理教と酒鬼薔薇聖斗の事件の衝撃を正面から真摯に受け止め、それらが引き起こされるに至った原因を彼らの心の内側(信仰)に踏み込んで考察しようと試みた本であり、本屋で見かけた時はまさに「こういうのを待っていた」という感じですかさず購入した。しかしよりによって鎌田東二がこんな本を書いていたとは知らなかった。著述家としては充分に自分の守備範囲であり、まさかこんな身近に該当者がいたとは自分の目はなんという節穴だろう。
 鎌田東二は「魔術的文体をもつ」と評された3人のうちの1人であり(あとの2人は中沢新一と松岡正剛)、いわゆる宗教学の「最終兵器(笑)」のような人物。(この表現は“凄い”という意味もあるが言動が“危険”という意味も半分くらいある。)著作を読むと「鬼は実在する」とか「心に思ったことは物理的な影響を周囲に与える」とか、かなり“ぶっ飛んだ”文章が真剣に書いてあるので初めて読むと面喰うが、これはまあ岡本太郎や梅原猛の場合と同様に、彼一流のレトリックとして好意的に見ておくべきだろう。その部分さえ目をつぶればあとは結構良いことが書いてあるわけだから。

 本書によれば、宗教テロを理解する上でのキーワードは「呪い」である。他者を呪うということは最終的に死に至らしめること、すなわち「呪殺」であり、その心の有り様(心境)が「魔境」なのだとか。
 著者は35歳のときに深刻な精神的危機を経験~克服したとのことで、その心身状態は確かに「魔境」としか言いようのないものであったらしい。それを長期間の不眠による幻覚症状であるとか統合失調だとか、一般的に知られている言葉で置き換えて理解した気になることは幾らでも可能だろう。しかしどんな名前を付けられようとも本人にとっては、それらが外部から圧倒的な力で自分の中に侵入してくる悪魔のようなモノであることには変わりがない。
 その時鎌田は、すがりつくような気持ちで参加した富士登山で、日の出を迎えた時に感じた神秘体験によって辛うじて助かったとのこと。そして麻原彰晃も酒鬼薔薇聖斗も鎌田が経験したのと同じ「魔」に取り込まれ、彼らは遂にそこから出てくることが出来なかったのだと断ずる。すなわち鎌田東二にとっては、オウム事件も酒鬼薔薇事件も乗り越えなくてはならない思想的課題であったのだという。
 それでは「魔/魔境」とは一体何なのか? 著者はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や村上春樹『海辺のカフカ』など古今東西の文学を引き合いに出しつつ、また鈴木大拙や平田篤胤ら先達の思想を(偏向部分については批判しつつも参考にできる部分は)貪欲に取り込むことで、勇躍「魔」に切り込んでいく。

 先に結論を述べてしまおう。「魔」とは宗教を考える上で避けて通れない表裏一体のリスクであるとのこと。死や病苦といった苦しみから逃れ安らかな心境に至ることが、信仰を持つことの理由/目的であるとすれば、“霊的”なステージを高くして「悟り」を得ることは、ある意味で最終的なゴールであるとも言える。ただし(『空の思想史』の感想でも述べたように)「悟り」の状態はあくまでも一瞬であって、大事なのはそこから現実世界に帰還したのちに森羅万象の絶対肯定に向かうことである、というのが仏教の(そしてとりわけ密教の)重要な教えとなっている。それを勘違いして「悟り」に至る階梯に絶対的な価値を見てしまう時、生まれてくる心の状態こそが「魔」なのであろう。一度「魔」に巣食われてしまった心は、もはやいくら信仰を深めようが決して平安を得ることは出来ない。また「魔」を否定しようとして行を積めば積むほど逆に増長や慢心を呼び込む隙を生み、いつの間にか心の中に「魔性」が巣食ってしまうという恐ろしいこの矛盾。(ちなみにこの状態を妖怪として表したのがすなわち「天狗」なのだとか。)
 いったん「魔」に取り込まれてしまった人間は、自分の中の「魔」に決して気付きはしない。そして常に自分以外の人間が「魔」を持っているがごとく錯覚する。特に師匠と弟子の関係がきわめて重要視されるような宗教において、師匠が『自分はついに解脱(悟りを得る)に至った』と述べた場合、弟子は師匠が「魔」に魅入られてしまったのか、それとも本当に解脱できたのか果たして正しく見極めることが出来るのであろうか?
 著者曰く、神道には昔から神の言うことが正しいか正しくないかを人間が見極めるために「審神(さにわ)」という方法が存在するのだとか。しかしそれでも見極めは非常に難しいだろう。それではどうすればよいのか?
 鎌田によれば、大切なのは「修行」によって達成した体験や境地といったものの「価値」を、自ら二重否定し続けていくことであり、それがいわゆる「菩薩道」なのだという。ちなみに菩薩とは『自ら菩提を求めつつ衆生済度に挺身する“利他行”の実践者』のこと。他者への愛(=慈悲)の実践をおこなう、つまり痛みや苦しみを共にしてあるがままに受け止め「智慧」によって浄化する者、それが菩薩。この菩薩の「慈悲」と「智慧」こそが「魔」に魅入られない重要なキーワードなのだと著者は言う。

 ひるがえって麻原彰晃の場合はどうであったか。
 著者は麻原彰晃の初期の著作である『超能力「秘密」の開発法』という本を執拗に分析する。そして麻原の著作は(彼が以前入信していた阿含宗の教祖・桐山靖雄にも共通することであるが)、記述が極めて即物的且つ具体的なレベルに終始していることに気付く。『超能力「秘密」の…』に書かれているのは、空中浮遊や幽体離脱といった超能力を得るための修行方法(=手段)だけであり、その力がそもそも何のために必要なことなのか(=目的)は全く説明がされていないのだ。「空中に浮かぶ」といった具体的な成果を期待する修行であれば、到達の度合いに応じて絶対的な評価を期待されるであろうし、そこからは「魔」の境地に陥るまであと僅かだろう。
 麻原彰晃が初公判(1996.4)の意見陳述で述べたところによれば、オウム真理教においてはさらに“聖無頓着”と呼ばれる境地を求める修行が推奨されていたのだという。それは「想像力」をゼロにする修行だそうで、麻原にとっては尊師への無条件の服従をしやすくさせるという意味でしごく便利なものだったろう。けれども想像力を欠くことに依る狭量さ/他者への非寛容さは破滅へと直結している。他者の苦しみや悩みに共感できず、自分勝手な思い込みや解釈により実行される行動は、連合赤軍による浅間山荘事件を例にとるまでもなく「地獄」を招き寄せるだけである。それを強要されるということは「スピリチュアル・アビューズ/精神的・霊的虐待」(by藤田庄市)に他ならない。

 古来、様々な宗教においては、修行する者が目指すべき理想を明確にするため、神の形を具象化(観想)するという方法を開発してきた。そして理想の象徴としての「神」を希求しつつ、同時にあくまでも自分とは別のものとして意識することで、自分を客観視して“負のフィードバック”をかけ、それにより精神の安定を保ち続けるという安全弁が準備されていた。しかし麻原彰晃や酒鬼薔薇においては各々「シヴァ神(ヒンズー教の神)」もしくは「モバイドオキ神(独自で考え出した神)」という神を、自らと一体のものとして認識してしまっていた。こうなると“正のフィードバック”により認識のズレが増幅されるばかりであり、もはや歯止めが効かなくなる。後は精神的に崩壊して自滅するか、もしくは治療を受けて“リセット”するしか方法はない。(ちなみに前者が麻原彰晃におこったことであり、後者が酒鬼薔薇聖斗に施されたことであろう。)
 「魔」に魅入られたものは他者との間に正常な関係を保つことは出来ない、自らが恣意的に想定した理想(神)を絶対視してしまっているのだから。矛盾が生じた場合には、それを解消するには他者の抹殺しか方法はない、すなわち「呪殺」である。他者の排除を目的として行われるそれが不特定多数に対して行使された時、テロが発生する...。これが宗教によるテロのメカニズムである。

 そもそも宗教とは生きることでの“苦しみ”を和らげるために用いられるもの。明らかな病気であれば精神科や心理療法にかかることも一つの手だが、例えば虚弱体質の人はトレーニングジムに通ったり漢方薬を飲んで体質改善する方が良い場合もあるだろう。しかし仮に正しい薬であっても、専門家の助言によらず生半可な知識でデタラメに服用すると(効き目がなくてお金を損する程度ならまだマシで、)ヘタをすれば体を壊したり生命にもかかわることがある。ましてや興味本位で通信販売の粗悪品に手を出したりすれば唯では済まないのは、薬に限らず宗教でも同じということだろう。

<追記>
 自分は思想としての宗教には興味があるが、宗教の実践には全く興味が無い。個人的な信仰の価値は認めるが、それが集団化してドグマ(教義)と化した段階で、大事なものが抜け落ちてしまう気がして許せなかった。しかし信仰を深めること自体にこれだけの高いリスクがあるとするなら、それを回避する仕組みを伝承するシステムとして、宗教にもそれなりの価値があるのかも知れない。
 まあいずれにしても自分には興味がなく、死ぬ間際にでもならなければ信心などという殊勝な心掛けは生まれそうにないけど。それに死にかけであれば、万が一「魔」に魅入られたとしても誰にも迷惑をかける恐れはないだろうし。(笑)

色々なペンネームの由来

 江戸川乱歩(本名:平井太郎)という名前が、エドガー・ア・ランポーからとられたというのは誰でも知っているが、他にもペンネームの由来は面白いものが多い。有名なのも含め、知っているものを思いつくままに挙げてみる。

<人物からとったもの>
 ■浅倉久志(あさくらひさし)/翻訳家
   *多すぎてとても紹介し切れない程、数多くの作品を訳したエンタテイメント系の
    翻訳家。
    ⇒名前を音読みすると「アーサー・クラー・ク・シー」。
     『2001年宇宙の旅』『幼年期の終わり』などを代表作にもつSF作家、
     アーサー・C・クラークから。
 ■団精二(だんせいじ)/翻訳家
   *荒俣宏の翻訳家としてのペンネーム。『異次元を覗く家』などを翻訳。
    ⇒『ペガーナの神々』『魔法使いの弟子』などの作品で有名な作家・詩人の、
     ロード・ダンセイニから。
 ■丸木砂土(まるきさど)/翻訳家・随筆家
   *『西部戦線異状なし』『ファウスト』などの翻訳で有名。
    ⇒言わずと知れたサド侯爵(マルキ・ド・サド)から。
 ■半村良(はんむらりょう)/作家
   *『石の血脈』『産霊山秘録』『闇の中の系図』『雨やどり』など。
    ⇒名前の音/訓を読み替えると「ハンソン・イイ」。
     タレントのイイデス・ハンソンから。
 ■法月綸太郎(のりづきりんたろう)/作家・評論家
   *推理小説『密閉教室』『一の悲劇』『生首に聞いてみろ』など。
    ⇒戦前の探偵小説『黒死舘殺人事件』などに登場する、
     小栗虫太郎が創作した探偵/法水麟太郎から。
 ■朝松健(あさまつけん)/作家
   *怪奇小説を得意とする。ソノラマ系の小説も多い。
    ⇒『怪奇クラブ』などで知られるイギリスの作家アーサー・マッケンから。
 ■水鏡子(すいきょうし)/評論家
   *著書は『乱れ殺法SF控』(青心社)。
   ⇒『黙示録3174年』を書いたウォーター・M・ミラー・ジュニアの直訳。
 ■鳥居定夫(とりいさだお)/評論家
   *実は水鏡子と同一人物。SFマガジン等で書評を担当していた。
    ⇒名前を音読みしてひっくり返すと「テイプ・トリイ」。
     『愛はさだめ、さだめは死』などのジェイムズ・ティプトリィ・ジュニアから。
<その他にちなんだもの>
■小隅黎(こずみれい)/作家
   *SF研究家として知られる柴野拓美の、小説家としてのペンネーム。
    ⇒「コズミックレイ(宇宙線)」から。
 ■殊能将之(しゅのうまさゆき)/作家
   *メフィスト賞受賞作の異色推理小説『ハサミ男』でデビュー。
    他に『美濃牛』『鏡の中は日曜日』など。
    ⇒中国の古典『楚辞』の代表的な詩人である屈原の詩の一節「殊能将レ之」から。
     意味は「特殊な才能でもってこれ(軍勢)を率いる」ということだそう。

 ブログの最初に「前口上」でも書いたが、自分の“舞狂小鬼”も『ハロー・サマー・グッドバイ』や『ブロントメク!』で(一部に)有名な作家であるマイクル・コニイからとったもの。
 当時は他にも“舞狂僧正”(マイクル・ビショップ)とか“加藤骨”(ホネ・カトウ⇒ヴォネガット)とか、ヘンテコなペンネームを考えては一人悦に入っていた。どうにも困ったもんだ(笑)

『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」精読』 鎌田東二 岩波現代文庫

 宗教学者である著者が、長年の愛読書である宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読み解いた本。『銀河鉄道の夜』は何度も書き直しされており、初稿から第4次稿まで4つの原稿が見つかっている。(一応は第4次稿が「最終稿」とされていて、現在普通に手に入る『銀河鉄道…』もこの第4稿のこと。)しかしこれも実は「完成形」ではなく、賢治が生きていればその後も書きなおした可能性があったかも?という話もある。本作には鎌田が書いた作品論の他に、賢治の『銀河鉄道…』自体も初稿から最終稿まで全てのバージョンが収められており、大変にお買い得(笑)な1冊。
 論考は前述の4つのバージョンを自在に比較して進められ、充分に納得が出来る内容である。ただし微に入り細に入り文字通り「精読」しているので、実際に読んでみないと細かい点まで含めて全て説明するのは難しい。全体の雰囲気が分かる程度にざっくりと要約をしてみる。

 『銀河鉄道の夜』の物語の流れを冒頭から順に挙げるとすれば、大きくわけて次の4つに分けられる。
  1:ジョバンニの境遇とクラスメートからのいじめ
  2:「幻想第4次の銀河鉄道」への乗車 注)…「プリオシン海岸」と「鳥を捕る人」まで
  3:新しく乗車してきたキリスト教徒の3人連れ(青年と幼い姉弟)との出会いと別れ
                     注)…「蠍の火」伝説を含む
  4:現実世界への帰還と、カンパネルラの死への直面
 この中で初読の時に印象に残るのは、一般的には「3」と「4」の2つのエピソードではないかと思う。タイタニック号の沈没で亡くなったとおぼしい3人連れが登場する「3」は『銀河鉄道…』の中で最も長く感動的なエピソードである。3人がサウザンクロス駅で下車して、讃美歌とともに光に包まれていくシーンの印象があまりに強く、その前後で「みんなのほんたう(本当)のさいはひ(幸い)をさがしに行く」という会話も交わされる。そしてその余韻も醒めないうちに次の「4」のエピソードで、親友のカンパネルラがクラスメートを助けるために行った自己犠牲が描かれる。これでは『銀河鉄道…』を読んだ多くの人が、この作品テーマをキリスト教的な価値観に基づくものだと思い込んでも仕方がないのではないか。(自分の経験からするとそうなのだが、他の人は違うかな?) ただ「本当にキリスト教的か?」というとちょっと自信がない程度には違和感もあって、きっとそれが『銀河鉄道…』を掴みどころがなく理解が難しい作品と思わせる理由なのだと思う。
 しかしそれは勘違いであり、別の角度から読み解くことでとても明解なメッセージが見えてくるというのが鎌田東二の主張である。浄土宗を信仰する素封家に生まれ、長ずると日蓮宗系の極右派である国柱会に入信するほど法華経を深く信仰した賢治が、何度も書き直しをするほど思い入れが強い童話に込めたメッセージが、キリスト教に依るものであったとは考えられない。これはもっと普遍的な「ほんたうのさいはひ」についての物語であり、その大元にあるのはやはり仏教(法華経)の思想である。ここは難しいところなので順を追って説明する。キーワードは「蠍の火」と「神学論争」である。
 まず「蠍の火」とは、タイタニック号の姉弟によって語られた、死んで天に昇って星になったサソリに関する物語であり、話はだいたい次のような感じである。(本当のサソリ座の話とは違う賢治のオリジナル)

 ある日サソリがイタチに食べられそうになって逃げるうち井戸に落ちて死ぬことになった。その時サソリは心から後悔した。「なぜ自分はこんな空しい命の使い方をしたのか。今まで多くの命を奪ってきた自分はなぜ黙ってイタチに自分の体をくれてやらなかったのか。そうすればイタチは一日生き伸びることが出来たろうに。」
 そして神様に「こんど生まれ変わったらみんなのまことの幸せのためにこの体を使ってください。」と祈ったところ、知らぬ間にサソリの体は真っ赤な炎になって夜の闇を照らしていた…。

 まさに「雨ニモマケズ」でお馴染みの「自己犠牲」の精神そのものである。しかしこの考えは他の作品にも共通して出てくるので『銀河鉄道…』作中の効果だけを狙った訳ではなく、賢治自身の思想の核心であるはず。とすればこの思想の元はキリスト教だけではなく、仏教の中にも見つけることが出来なければならない。
 「自己犠牲」の精神は、贖罪のために磔になったキリストを象徴することが多いが、実は仏教においても同様の有名なエピソードが存在するのである。(恥ずかしながら、知っていたのに本書を読むまですっかり忘れていた。)それは釈迦の前世の姿である薩埵王子が、飢えた虎を救うために自らの命を差し出したという「捨身飼虎(しゃしんしこ)」のエピソード、すなわち「菩薩道」の実践であった。(*)

  *…澁澤龍彦の遺作にして名作の『高丘親王航海記』(文春文庫)でも物語のカギになる
    重要なエピソードでもある。

 そのつもりで姉妹とジョバンニの間に交わされた「ほんたうの神様」についての良い争い(ある意味での神学論争)を読んでみると、確かに姉妹および2人の付き添いの青年が信じている神はキリスト教の神だが、ジョバンニが求める神とは違っている。そして3人がサウザンクロス駅(=キリストを信じるもの達にとっての天上)に下車するまで、ジョバンニと彼らの間の主張は平行線のままで終わるのである。今まで自分は何を読んでいたんだろう、全く気付かなかった。
 ただ、気が付かなくても仕方なかったかも?と思える理由もある。『銀河鉄道…』の第3次稿までは、第4次稿で最終的には削られてしまうブルカニロ博士という人物が登場して、カンパネルラが消えてひとり残されたジョバンニに色々とアドバイスをする構成になっている。また第3次稿だけには、素生が分からない謎の人物も登場して(**)、次のような重要なセリフをジョバンニに対して告げるのだ。
 「みんながめいめい自分の神さまがほんたうの神さまだというだらう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。そして勝負がつかないだらう。」
 ここに至ればジョバンニ(すなわち宮沢賢治)が信じる神は明らかにキリスト教の神とは違っていることは分かる。しかし最終稿ではラストにそれまでと全く違う構成が採られて場面が全て差し替えられたので、この作者からのメッセージは、姉妹とジョバンニの間に交わされた数行の会話から推し量るしか方法が無くなったというわけ。

  **…ブルカニロ博士と同一人物だという説が従来は有力だが、鎌田は発言内容を吟味した
     うえで異議を唱えている。

 それではジョバンニ自身が信じるべき神/求めるべき本当の幸いとは何なのだろうか?
第2次稿まではジョバンニが「本当の幸福を見つけるためにがんばるぞー」という能天気な(?)決意表明をするだけで、その件については全く触れられていない。そして第3次稿では「謎の人物」が先程のセリフに引き続いて、「本当の幸いを求める方法を自分も捜しているのだ」ということを、はっきり告白している。(これは羅須地人協会を設立して皆のために献身的な活動をした賢治にして、偽らざる本当の気持ちでもあるだろう。)
 なお賢治が迷い続けたのは「本当の幸いというのは個人個人によって違うものだ」という認識をしていたからではないか?と思える節もある。第3次稿以降のバージョンで、石炭袋を過ぎたところに見える野原がカンパネルラには本当の天上に見え、ジョバンニにはただぼんやりと白く煙っているだけに見えるという不思議なシーンがある。何の説明もなく唐突に書かれているので戸惑ってしまうが、求める神が互いに違うという先程のやりとりを前提に考えた場合に納得できる描写ではある。
 尤も賢治自身は、宗教間の絶対的な優劣もいつか科学的に証明されると期待していた感もあるが…。
 石炭袋のエピソードを最後に、カンパネルラはジョバンニの前から突然に姿を消してしまう。ひとり残されて泣き叫ぶ彼の前にはもはや導いてくれるブルカニロ博士も現れず、幻想4次元の列車から現実世界へと帰還したジョバンニの前には、カンパネルラが川に落ちた級友ザネリを救いに飛び込み、代わりに自分が行方不明になるという衝撃的な事実が付きつけられる。賢治が度重なる推敲の後に最終的に残した物語は、とてもつらい現実を前にしてそれでも自分自身で決断して前に進んで行こうとするジョバンニの姿であった。

 以上、要約と言った割には少し長くなりすぎた。(笑)
 鎌田東二は残された4つの稿を縦横無尽に駆け巡り、賢治の思考の痕跡を捜しだそうとする。他にも作中に何度も出てくる「鳥」や、ブルカニロ博士の「セロのような声」などのキーワードをもとにして様々な推理を重ね、そして『銀河鉄道の夜』の隠された全体像を徐々にあぶり出していくのだが、これ以上は細かな話になっていくので省こう。
 現代文学理論においては、テクストがいったん世に生み出された以上、作者の意図とは無関係に自由に解釈されるべきというのが一般的らしい。その見方からすれば本書は(牽強付会といわれても仕方がないほど)、賢治が作品に込めた思いを汲み取ろうとする姿勢でいっぱいである。しかし敢えて「誤読」を恐れずに読み込んでいこうとするこのような態度もまた、本読みとしてとても正しい読み方であるのだなあという気がする。
 何しろ鎌田の文章のそこかしこには、賢治に対する深い愛情が満ち溢れているのだから。

『書店繁盛記』 田口久美子 ポプラ文庫

 リブロの黄金時代を築いた伝説の書店員が、ジュンク堂に移ってからの日々を書いたエッセイ。(リブロ時代は『書店風雲録』/ちくま文庫に収録)
 棚の構成は担当書店員の“編集センス”そのものの現れなのだ!という事や、それまで売れなかった本が棚の構成次第で息を吹き返す様子だとか、どこの本屋も同じだろうと思っている人にはぜひ一度読んでもらいたい一冊。本が好きな人ほど愉しさが増すのではないかと思う。ある商品(本)に関して、それを必要としている人の眼に如何に的確にふれさせるか?が売り上げに直結する実例など、ビジネス書的な読み方もできる。どこかの会社の手抜き営業マンに一度読ませたいくらい。(笑)
 リアル書店の行く末への不安やクレーマーとの戦いなど、決して良いことばかり書いてあるわけではないが、本を愛する気持ちがひしひしと伝わってきて共感できる。良い本だ。

『歌麿さま参る』 光瀬龍 ハヤカワ文庫

 ふと光瀬龍の作品を読みたくなった。扶桑社文庫から『多聞寺討伐』が出版されて古い作品も入手しやすくなったことだし。(といいつつ数十年前のハヤカワ文庫を読んでいたら世話はないか。/笑)
 一時期、時代小説(司馬遼太郎などの歴史小説ではなく柴田錬三郎とかの方、念のため)に凝ったことがあった。光瀬龍は時代小説に「タイムパトロール」というSF小説のアイデアを組み合わせた作品を数多く書いており、(取ってつけたようなオチのものも多いが、)うまく嵌まればとても面白いものになる。本書でいえば表題作の「歌麿さま参る」や「ペニシリン一六一一大江戸プラス」などが傑作。時代考証は執筆当時の水準としては非常に高く、戦国や江戸の雰囲気がリアルに再現されていて素直に物語に入り込める。そこにSFとしての完成度が加わると「多聞寺討伐」のような大傑作になる。たまに古い作品を無性に読み返したくなるので、多分そのうち他の光瀬作品も読み返すことになると思う。次には『寛永無明剣』(ハルキ文庫)でも読んでみようかな?うろ覚えだけど、『夕ばえ作戦』『暁はただ銀色』と並ぶジュブナイル(懐かしい言葉!)の名作だったはず。

<追記>
 その後、『寛永無明剣』を見つけて読んだところ、ジュブナイルでは全然なかったことが判明。やはりうろ覚えはコワイ(^_^;) 江戸時代を舞台にしてタイムパトロールが活躍する素敵な伝奇小説だった。ラストは少しとっ散らかるが、なかなかどうして、ジュブナイルどころか大人向けの立派なエンタメ小説だった。

『量子力学の解釈問題』 コリン・ブルース 講談社ブルーバックス

 量子力学においては「粒子」と「波」という異なる状態の重ね合わせが前提とされており、どのようにして「波束の収束(*)」や「エンタングルメント(**)」という現象がおこるのか?について、過去から現在まで様々な解釈がなされてきた。1930年ごろに出された「コペンハーゲン解釈」というものが最も多くの研究者による合意を得ているとされてきたが、その後の研究を踏まえて現在もっとも“ホット”な話題である「多世界解釈」まで、オックスフォード大に籍を置く現役の研究者が書いた解説書である。
 「コペンハーゲン解釈」や「多世界解釈」などの用語が何の意味かが分かるくらいには、量子力学についてある程度の知識を持っている読者が前提であり、おそらく日本とイギリスでは常識の範囲が異なるのだろう、やたら初歩的なこととやたら不親切なところが混在していたが、これは翻訳ものの科学書ではある程度は致し方ないとおもう。
 具体的な解釈案の内容については専門的過ぎるので省略するが、どれも現時点では実験で確かめられない仮説に過ぎないため、極論すれば「信じる/信じない」の世界なのだということが本書を読んで良くわかった。まさに量子力学はクーンの『パラダイム転換』が現在進行形で進んでいる研究分野と言える。(もしかするとあと20年もしたら、全く新しい世界観が常識になっているのかも?) 今のところ、もっとも優勢なのは「多世界解釈」だが、その理由が、支持する研究者の数がもっとも多いからというのが笑える。ちなみに本書の著者も「多世界解釈」の積極的な支持者のひとりなので、そのつもりで読んだ方が内容を理解しやすい。

  *・・・このままではあまりに不親切なのですごく簡単に説明すると次のようなこと。
      光や電子のようにとても小さなモノは普段「波」のように振る舞っているが、
      人間が細かく観測しようとすると「粒子」のように振る舞うという現象。
      (まるで「観測されていること」を光や電子が知っているかのよう。)
      「素粒子は波と粒の両方の状態(性質)を持つ」と仮定して理論を構築したのが
      有名なハイゼンベルクの不確定性原理だが、おかげで「両方の性質をもつのは
      何故なのか?」という難問が残ってしまったというわけ。

 **・・・関係をつけた2つの素粒子は、どれだけ引き離しても片方の状態が確定した
      瞬間にもう片方の状態も確定するという現象。まるで光より早いスピードで
      情報の受け渡しが行われているかのよう。ふたつの素粒子の関係がもつれて
      しまっているので「量子もつれ」ともいう。

<追記>
 グレッグ・イーガンの『宇宙消失』(創元推理文庫)は、まさにこの「多世界解釈」をそのまんま使ったものだという事が今にして良く分かった。原著は1992年というかなり前の出版だから、これだけ正しく理解して物語に落し込んでいるというのは大したものだ。

『箱男』 安部公房 新潮社

 1メートル四方くらいの大きな段ボール箱に覗き穴をあけ、それを頭からかぶって路上で生活するという「箱男」。このアイデアを考え付いた段階で、この本はもう成功したようなものだったろう。安部公房の作品には魅力的なガジェットが数多く登場するが、この「箱」はその中でも一二を争う出来だと思う。
 「箱」には、見るものと見られるものの関係(視線の問題)や、街頭の景観と路上生活者の関係(存在感の問題)など、掘り下げが可能な様々なテーマが隠れていると思うが、なぜか物語は作者と作中人物というメタフィクショナルな展開へと進んでいく。メタフィクションというテーマ自体とても面白いものではあるが、何もこんなに良い材料があるのに「この本」でわざわざやらなくても...という気がしないでもない。(笑) 何だかもったいない気もするのだが、この掴みどころの無さがまた安部公房の魅力でもあるので致し方ない。
 カフカにも形容される不条理感が彼の作風の特徴だが、カフカの場合は不条理の対象があくまでも作中の世界感や人物に限定されたものであるのに対し、安部公房の場合は不条理の追求が作品構造そのものにまで及んでいるのが、もっとも大きな違いと言えるのではないだろうか。

<追記>
 今回は前に古本で買っておいた箱入りハードカバー(『純文学書き下ろし特別作品』)で読んだのだが、このシリーズは造本が凝っているので結構気に入っている。

松岡正剛_My favorite 15

<マイベスト>
★『山水思想』 ちくま学芸文庫
  *山水画の成立過程をひも解いて、日本独特の「引き算の思想」を明らかにする。
★『遊学(I・Ⅱ)』 中公文庫
  *古今東西の142人をとりあげ、思うままに書き綴った本。
   人物版の千夜千冊というか、千夜千冊のスタイルの原型というか。
★『日本という方法』 NHKブックス
  *『山水思想』でとりあげた「引き算の思想」をはじめ、「デュアルスタンダード」や
   「てりむくり」など様々な日本思想をわかりやすく紹介。
★『ルナティックス ― 月を遊学する』 中公文庫
  *月にまつわる諸々を紹介。「弱さ」を題材にした『フラジャイル』や、
   人物をとりあげた『遊学』と同様、著者お得意のワンテーマ本。
次点)
 『日本数寄』 ちくま学芸文庫
 『白川静 ― 漢字の世界観』 平凡社新書
 『誰も知らない世界と日本の間違い』 春秋社
 『フラジャイル』 ちくま学芸文庫

 『空海の夢』の感想でも書いたが、若いころの松岡正剛の著作は正直言って読みにくい。2000年刊行の『日本数寄』以降あたりからは一般的な読者にも解りやすい文章になってきたが、それ以前の著作は話が飛び過ぎ&専門的過ぎで、ついていくのが結構やっとだったりする。(千夜千冊を始めたのもちょうど2000年だから、何か思うところがあって読み易さにも気を配るようになったか?)そんな初期の著作群の中では、『ルナティックス』や『遊学』が自分の好みと一致していて好かった。
 一方で松岡には日本文化に関する著作も多いが、それらはテーマが絞られている分あまりブレることが無く、どれも比較的読みやすい。中では『山水思想』や『日本という方法』が秀逸だった。

<追記>
 彼を料理人に喩えるとすれば、日本料理の板前だろうと思う。但しその理由は、彼が好んで取り上げるテーマに「花鳥風月」や「山水画」など日本のものが多いから、という訳ではない。博覧強記のその知識を自分の理論を説明する材料に使うのでなく、まるで板前が市場で仕入れた活きの良い素材を目の前でお造りに料理してくれるように、古今東西の著作から「こんなのもある」といって良い素材を惜しげもなく並べて見せる執筆スタイルだから。(ただし供される「刺身の盛り合わせ」たるや、半端な量ではないが。)
 最初の頃はまだ戸惑いもあったようだが、『千夜千冊』に至ってついに「素材をただ面白がってしまう」という著述スタイルを確立することに成功した。“色んな事を面白がるスキル”で松岡正剛に匹敵するのは、自分が知る中ではたぶん山口昌男くらいしかいないかも?

【人と作品】
 大学の専攻は仏文科(中退)だが、文系や理系といった枠を軽々と越えて古今東西の様々な著作・思想・文芸に精通する「遊学」の提唱者。70~80年代に雑誌『遊』の発行で一躍有名になり、その後は「編集」や「日本」というキーワードで代表される思索・表現活動を続けている。2000年からインターネットのサイトで連載を始めた『千夜千冊』が各界で大反響となり、今の出版界で一番注目を浴びている著述家のひとりである。

『江戸の想像力』 田中優子 ちくま学芸文庫

 平賀源内と上田秋成という2人の人物をキーワードにして、18世紀の江戸/日本文化について語った本。1986年度の芸術選奨文部大臣新人賞を受賞している。昔からサントリー学芸賞と講談社エッセイスト賞をとった作品はハズレが無いので信用してよく読んでいるが、今度からそこに芸術選奨もリストに加えることになるかも。(笑)
 
 さっそく中身についてだが、なぜ平賀源内と上田秋成なのか?というと、この2人をきっかけにして様々な世界へのチャンネルを開いていくことが出来るから。例えば源内の場合だが、まず最初の話題は彼が金儲けのために手掛けた「金唐革(きんからかわ/今でいうオシャレ小物)」について。源内が作った「金唐革」は安く売るため紙製であり、革製の本ものに近い質感を出そうと苦心した模造品であった。それではこの「金唐革」は元を辿ればどこからもたらされたのか? 田中は多くの文献を駆使して追求していき、ついにはルネッサンス期のイタリア・フィレンチェにまで行き着いてしまう。(しかもそこに出てくる名前は何とボッティチェルリ。)
 同じく平賀源内では、彼が書いた有名な滑稽小説『風流志道軒伝』についても追及がされていく。『風流…』のネタ本としてよく取り上げられるのは『和漢三才図会』だが、田中の考察は『和漢…』の元になった中国の『三才図会』『山海経』はおろか更にその先にまで伸びていき、キリスト教の宣教師が書いた『マテオ・リッチ地図(坤輿万国地図)』に辿りつく。

 『雨月物語』を書いた上田秋成の場合も同様である。中国白話小説(=口語で書かれた俗文学)が日本に紹介され、やがて近世の日本文学が誕生するまでに焦点をあて、それが口語の文章を「誤読(!)」したことによる結果であったことを看破する。
 具体的には中国白話小説『白娘子永鎮雷峰塔』の物語が、『雨月物語』の「蛇性の婬」に翻訳される過程が例として取り上げられている。口語体の気楽な読み物がいかにして格調高い文章に変化したか、そして西湖のほとりの物語がいかにして古代日本の世界へと切り替わっていったかが良く分かる。また源氏物語に始まる「無常観」、つまり滅びの美学とでもいうべき日本独特の価値観が、中国の小説世界に溢れる生々しい生命の感触に触れて変容し、曽我蕭白の「群仙図屏風」となど従来では考えられない画風が登場した経緯についても語られる。(ここまでくれば辻惟雄『奇想の系譜』の世界まであと少し。)
 平賀源内と上田秋成の事例から見えてくるのは、鎖国時代の江戸/日本文化は閉鎖的だったどころか、世界との交流を抜きにしては語れないということ。そして大航海時代を経てつながったヨーロッパと東アジアのネットワークにおける日本の位置づけはどうであったかということ。もはや著者の“想像力”は江戸を超えてはるか世界へとのびていき、とどまるところを知らない。

 他にもある。
 平賀源内は博物学(当時の名は本草学)の学者としての顔を持っていて、大規模な本草学の博覧会を開催したこともある。その準備にあたって源内が多くの出品物を全国各地から集めるために行った方法は、「連」と呼ばれるものであった。「連」という仕組みは江戸文化に独特のものであり、もとは俳諧を商業的に運営していくために作られた、同好者グループであった。(*)源内はそれと同じ仕組みを博覧会にも展開したのである。「連」はやがて落語(咄/噺)の誕生のきっかけにもなったし、新井白石らが作った“蘭学社中”という「連」においては『解体新書』の出版という成果まで生まれた。
 さらに「連」とならんで江戸文化に特徴的なのは、「列挙」の手法であると田中は言う。最終章において彼女は上田秋成の『春雨物語』を俎上に挙げ分析を試みるが、その中で出てくるのが、前後のつながりなくエピソードを淡々とならべていく「列挙」という手法である。これにより著者が江戸文化の大きな特徴と考えている(あらゆる価値観の)「相対化/無効化」が明らかにされていく。

   *…その様子は嵐山光三郎『悪党芭蕉』(新潮文庫)で活き活きと描かれている。

 山口昌男ほどでは無いにしても、田中優子の脱線ぶりもなかなかのものである。あちらこちらと連れ廻されるうち、やがて見えてくるのが江戸文化の既成概念を覆す「グローバル化」と「相対化/無効化」という“発見”であり、とても愉しい読書だった。

『憲法九条を世界遺産に』 太田光・中沢新一 光文社新書

 中沢新一はサービス精神が旺盛なので、対談の相手によって話しぶりが全く変わってしまう。リップサービスのあまりつい口が滑って、後で問題になる発言をしてしまうこともあるので、この対談集は爆笑問題の太田が相手と知って正直なところ心配もあった。テーマが憲法九条だし。
 でもまあ、さらりと読める軽い話で、さほど心配するようなこともなかった。1時間半もあれば読めてしまうのに660円もするのでコストパフォーマンスは極めて悪いけど。(笑)
 
 ただし中でも第1章の宮沢賢治のくだりはとても重要。
 戦前の日蓮宗系の右派であった国柱会と宮沢賢治の関係を通じて、国粋主義から戦後平和憲法へのつながりを示した指摘は斬新だった。国柱会の創始者、田中智学の思想との関係を外しては、宮沢賢治のホントは理解できない。「八紘一宇」とかのキナ臭いキーワードと「雨ニモマケズ」の自己犠牲が全くの同次元で両立しているのが宮沢賢治であり、単なる童話作家として見ているとラジカルな闇の部分は見えてこない。

 ここからは憲法九条ではなくて宮沢賢治の話をする事にする。そっちのほうが面白い。(笑)
宮沢賢治は出来ればいきなり長篇からではなく、まずは彼の思想がストレートに表れている短篇をある程度読みこむ方が、何故宮沢賢治がこれほど評価されるのかが分かりやすいのではないかと思う。昔、「『銀河鉄道の夜』を読んでみたけれど、何を言いたいのかどうもよく分からない」と言った人が会社にいたが、この作品はは作風が(一見)キリスト教の装いをしているなど色々な要素が入り混じっていて、特に“難しい”作品なので、つかみどころが無くても仕方が無い。
 自分の思うところでは、宮沢賢治の童話はおおよそ3つの系統に分けられる。まず1つめは「注文の多い料理店」「どんぐりと山猫」「雪渡り」「風の又三郎」など一般的な物語で、純粋に子供を楽しませるのを目的に書かれたもの(だと思う)。これを仮にグループ①としておく。残りは賢治の思想が良く表現された作品群で、「グスコーブドリの伝記」「よだかの星」「猫の事務所」などのグループ②と、「オッベルと象」「氷河鼠の毛皮」「セロひきのゴーシュ」などのグループ③に分かれる。
 グループ②は花巻農学校の教師を経て羅須地人協会の設立へと至る賢治自身の実体験とも重なっていて、法華経の教えに基づく献身や自己犠牲が童話へと昇華されたとおぼしい。グループ③は「自然との共生」に関するもので、マルセル・モースが『贈与論』で、そして中沢新一が『<カイエ・ソバージュⅡ>熊から王へ』で展開して見せた内容に(ほぼ)等しい。
 グループ②③とも、根っこの部分は「法華経(日蓮宗)の教えに基づいた生命賛歌」と「裕福な家に生れついた事への贖罪感」につながっているとみた。そこに『春と修羅』に代表される詩人の感性と情熱、そしてオノマトペを駆使する独特の言語感覚を加えると、宮沢賢治の全体像が見えてくると思う。

イギリス_My favorite 14

 もしも「フランスとドイツのどっちが好きか?」と訊かれたら、きっと凄く迷うと思う。そしてすごく迷ったあげく、多分「ドイツ」と答えるんじゃないかと思うな。でも、もしも「アメリカとイギリスのどっちが好きか?」と訊かれたら、迷わずイギリスと答えるだろう。それくらいイギリスは好き。(では「イギリスとドイツではどちら?」と訊かれたら...? まあどうでもいいか。)
 といっても別にイギリスの料理が好きなわけではない。ちゃんとしたイギリス料理を食べたことすらない。ビクトリア王朝だとか古典文学にそれほど興味がある訳でもない。あ、国民性はちょっと好きかな。
 イギリスで大好きなのは実はサブカルチャー。エンタテイメント系の文学やロックなんかが何ともいえず良い雰囲気で好みである。以下に好きなものを思いつくまま順不同で列記する。

 ●作家)H・G・ウェルズ、J・R・R・トールキン、ディクスン・カー、
     コリン・デクスター、J・G・バラード、バリントン・J・ベイリー、
     トーマス・M・ディッシュ、マーヴィン・ピークなど
      *SFやファンタジー、ミステリ系が中心。
 ●音楽)XTC、キング・クリムゾン、イエス、レッド・ツェッペリン、
     ロキシー・ミュージックなど
      *プログレッシブロック系が割と好きだが他にも色々で節操はない。(笑)
 ●映像)ジェリー・アンダーソン、テリー・ギリアムなど
      *ん?テリー・ギリアムってモンティ・パイソン唯一の
       アメリカ人だったっけ?(笑)
 ●番組)『モンティ・パイソン』、『プリズナーNo.6』など
  
 一説によれば、「アメリカは“馬鹿”でイギリスは“キチガイ”」というそうだ。たしかに両者の個性を極端にするとそうなっていく感じがしてきて、妙に納得してしまう。イギリス人のセンスに見え隠れする、一筋縄ではいかない捩じれ具合が、好きな人には堪らないんだけれど嫌いな人にはきっととんでもなく厭なんだろうな。

2010年4月の読了本

『艸木虫魚』 薄田泣菫 岩波文庫
  *明治~大正期にかかれた随筆集。
『空海の夢』 松岡正剛 春秋社
  *空海の出自や著作を巡ってあちらこちらと考察を繰り広げる。
『澁澤龍彦 ドラコニア・ワールド』 集英社新書
  *澁澤龍彦が残した様々なオブジェの写真とともに、それにまつわるエッセイを抜粋
   して集めた本。読んだことがある文章が殆どだが、実物の写真と一緒に読むとまた
   格別。 ところで開高健といい澁澤龍彦といい、死後20年以上を経て今なお「新刊」が
   出るとは相変わらず根強い人気だ。
『タフの方舟2 天の果実』 ジョージ・R・R・マーティン ハヤカワ文庫
  *生物工学を駆使して惑星改造を行う環境エンジニアが主人公の物語。
   最後の話は結構苦い結末で、1よりも更に面白かった。
『場所の現象学』 エドワード・レルフ ちくま学芸文庫
  *「場所」に関して、現象学という哲学の手法を用いて分析を行った本。
『ジャッキー、巨人を退治する!』 チャールズ・デ・リント 創元推理文庫
  *現代の都会を舞台にしたファンタジー。ポジティブ思考な主人公のおかげで、
   読んでて元気が出る。
『連環記・他一篇』 幸田露伴 岩波文庫
  *露伴晩年の作。寂心や寂照など実在した高僧の生涯に題材をとった、随筆とも
   創作とも言い難い不思議な作品。70歳を過ぎてから書かれたとは信じがたい。
『パラダイムとは何か』 野家啓一 講談社学術文庫
  *パラダイムという概念について、クーンが提唱した本来の意味に立ち返って解説。
『憲法九条を世界遺産に』 太田光・中沢新一 光文社新書
  *爆笑問題の太田が思想家の中沢新一と「憲法九条」について語った対談集。
『風姿花伝・三道』 世阿弥 角川文庫ソフィア
  *能の大成者である世阿弥が後継者に対して書いた、演技の作法一座の棟梁としての
   心得をまとめた書。「奥義」と「花修」の章が教育書としても秀逸。
   「秘伝が存在することを周りに秘密にすること」も秘伝であるというくだりは、
   目からウロコが落ちた。
『江戸の想像力』 田中優子 ちくま学芸文庫
  *平賀源内と上田秋成の二人を軸に、18世紀江戸文化の秘密を探る。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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