『パラダイムとは何か クーンの科学史革命』 野家啓一 講談社学術文庫

 科学史と科学哲学(*)の研究者であるトーマス・クーンがその主著である『科学革命の構造』で初めて提唱した概念「パラダイム」。その概念の成り立ちとその後の推移について、一般読者にも分かりやすく書かれた解説書。元は講談社の叢書『現代思想の冒険者』シリーズの一冊として刊行された。
 普通パラダイムという言葉は「物の見方」とか「知の枠組み」といった意味で用いられているが、正直いうと自分は今まで正確な意味を知らずに雰囲気で使っていたところがあった。なんせ誰が使い始めた概念なのか?ということすら知らなかったのだから。という訳で、『暗黙知の次元』や『種の起源』に続く「知ってそうで知らない事への再入門」(と勝手に呼んでいる取り組み)のひとつとして、パラダイムについて解りやすく説明してくれそうな本を探したところ、本書に辿りついた。読んでみたら予想はズバリ的中で、とても良い本だった。
  *…科学哲学といっても「科学を使った哲学」ではなく「科学に対する哲学」のこと。
    つまり科学という学問体系が依って立つ思考形態について考察する学問。
    科学に対して科学する「メタ科学」といった感じ。

 まず「パラダイム」という言葉の定義から。クーンが当初対象に考えていたのはもっと専門的で限定された領域であり、本書によれば次のように定義されている。

 「一定の期間、研究者の共同体にモデルとなる問題や解法を提供する、一般的に認められた科学的業績」

 厳密に定義しているので難しい表現になっているが、例えばアインシュタインの「相対性理論」のように、それぞれ科学の専門分野において、その時代の研究者の共通認識になっている基本的な知識・前提のようなもの。つまりは対象が自然科学に限定された専門用語だった。
 きっかけはクーンが専門とする「科学史」の研究をするうち、当時の最高知性の持ち主が、現代では考えられないような非科学的な間違いを「ある限定された分野についてだけしている」という不合理に気が付いたことから。細かな説明は繁雑になるので省略するが、(コペルニクスによる天動説から地動説への転換のように)科学者が前提としている基本認識/モデルが“非連続的に変化している”と仮定した。それをクーンは『パラダイム転換』と呼んだ。現在では本来の意味を外れて拡大解釈され、クーン本人も制御が利かなくなる程に広い意味で使われるようになったらしい。
 本書では本来の意味に立ち返り、科学の発展の過程において『パラダイム転換』がいつどのようにして起こったのか?というクーンによる科学史の研究と、『パラダイム転換』という概念の是非を巡って巻き起こった論争の顛末を順に説明している。科学という<知>の体系の秘密のヴェールを一枚ずつ剥がしていく過程はとてもスリリングで、まるで映画を見ているように面白かった。

 本書の著者によれば、本来“science”(サイエンス)という言葉には複数形は無く、漠然とした「知」という意味を指していたのだという。使われ方としてはknowledgeとほぼ同義とのこと。(**)
 すなわち欧米の“science”という言葉の使われ方には、<世界を解き明かす“知”>という意味が色濃く残っている。欧米において、応用科学だけでなく基礎科学の研究が伝統的に盛んなのはこの理由に依る。(アメリカでは基礎科学を選択する研究者の比率は、理系全体のおよそ半数にも上るらしい。)
  **…ちなみに調和のとれた状態の世界(宇宙)を“cosmos”といい、
     それに“logos”(=ロゴス/論理)を意味する接尾語が付くと
     “cosmology”(=コスモロジー/知の体系)になる。
     それに対して秩序の無いただの宇宙は“universe”(ユニバース)という。

 単数形でしか使われなかった“science”に複数形の“sciences”(サイエンシーズ)という言葉ができて一般化したのは、19世紀になってから。これは「自然哲学」という呼び名からも判るように、世界の知の体系たる哲学の一分野であった「科学」が、専門化した個別諸科学へと変化を遂げた時期に一致する。
 日本にはちょうどこの時期に“science”が導入されたため、日本で“science”といえば初めから専門ごとに分かれているという認識であり、そのため“science”という英語が『個別の科に分かれた学問=“科学”』という日本語に翻訳されたとのこと。ときに世は産業革命の真っただ中。既にヨーロッパにおいてテクノロジーと融合し、産業政策に組み込まれた後の「サイエンシーズ」を導入した日本では、殖産興業の機運の高まりとも合致して、科学は最初から“産業化科学”としてスタートを切ったのであった。以上、長々と書いたが全てこの本からの受け売り。(笑)
 ― だから日本では伝統的に応用科学が重視され、基礎科学がおろそかにされる傾向が強いのかと納得した。
 でも、「それが何の役に立つか」だけを基準にして評価されるなんてまっぴらだなあ。本に喩えるなら、新書しか読まない人生みたいなものか? そんな人生は何だか嫌だなあ。
 
 話を戻そう。
 クーンは科学史を研究するうちに「パラダイム」という概念に辿りつき、成り行き上、科学哲学にも手を染めることになった。それでは本来の研究である科学史における業績は何かというと、「科学の進歩は従来信じられていたように”連続的“なものではない」ということだろう。今でも科学は連続的に進化するものだと認識している人は多いと思う。しかしそれは、19世紀に“sciences”へと新たに生まれ変わった科学が、自らのレゾンデートル(存在証明)のためにとった「作戦」から生まれた誤解であるとクーンは言う。(以下、本文から抜粋)
 「科学という<知>が市民革命や産業革命の混乱に乗じて登場した新興成金ではなく、由緒正しい<知>の正嫡であることを示す最も効果的な方法とは、古代に始まり現代に至るその歴史的連続性を明らかにすること」、これが”sciences“がとった戦略であった。
 (もっともこれは当時流行った考え方であり、ダーウィンの進化論により提唱された“進化”という概念を生物だけでなく社会や人間の精神活動にそのまま当て嵌めようとするもので、何の根拠もない思い込みだと思う。)

 科学は「パラダイム転換」を経て、連続的にではなく断続的に変化をしていくというのが、クーンの結論であった。それでは断続的な変化はなぜ起こるのか?
 それは次のような手順を踏んで進捗していく。まずはそれまで長年に亘ってひとつの理論的枠組み(パラダイム)が信じられてきたとする。研究者の数も多くなり研究成果も出そろって、理論としては成熟しつつある段階にある。だが成熟するにつれ、その理論ではどうしても説明が付かない観測結果の蓄積が増えていく。
 研究も成熟しているので、それまでのように「精度が悪い」とか「測定誤差」である可能性は殆どなくなり、それを説明するためには全く別の理論的枠組みを前提にしないと成り立たなくなる。そこで新しいパラダイムが出てくるのだが、従来の理論と新理論のどちらが正しいか(=真)を客観的に証明することは不可能である。そのため研究者は「信じる者」と「信じない者」の二つに分かれてしまい、最終的には「確からしさに基づいて各自が信じるかどうか?」によって、長い期間を経て徐々にパラダイムが変化していくことになる。
 一度獲得された「物の見方」はそう簡単に変化するものではないため、旧理論に取って代わった新しい理論は、その後「成熟」にむけて多くの研究の前提として用いられることになる...。

 クーンは晩年、自然科学だけでなく社会科学にもこのパラダイム理論を適用できるのではないかと研究を進めていたようだが、社会科学の場合は自然科学よりも更に「パラダイム転換」は起こりにくい気がする。自然科学であれば実験によって従来の理論で当て嵌まらないものが示される可能性が常にあるが、人文系の科学のように客観的に検証しようがない学問領域の場合は、新しいパラダイム候補が現れても旧理論を論駁しようがない。
 これがかつて全共闘世代にパラダイム理論が間違った解釈をされ、「あらゆる考えに優劣はなく、新しい考えもまた真である」とか「旧体制とは全面的に意思疎通は不可能」といった主張の、理論的根拠にされた理由でもある。(これはパラダイム理論の誤った解釈であり、その理由は本書の中で説明されているが。)

 全共闘の考えは間違っているが、新旧パラダイム間の「通訳不可能性」についてはクーンが述べていることであり、ある意味正しい。これを卑近な例で喩えると、トンデモ理論がなぜ無くならないのか?ということの説明にも利用できる。(笑) 「アポロは本当は月に行っていない」とか「ユダヤが世界を影で支配している」「アメリカ政府は宇宙人の死体を隠している」とかの陰謀史観はいつの世も出ては消えしているが、これは世界の解釈の仕方であって、事実をどのように解釈しようが(本人にとって)矛盾が生じなければ論駁することは不可能。あとは説得するしかないが、思い込んでいるのだから納得してくれる訳が無く、結果として全く異なるパラダイムが並び成立することになる。これがトンデモ理論の無くならない理由。ちなみに会社で、上司の無理解によって部下の新しい提案が潰されるのも、(多分)同じ理由に依る。

 なおこのように述べると、あたかも旧パラダイムが一律に悪いことのように聞こえるが、必ずしもそうではない。「型/旧パラダイム」がなければ「型破り/新パラダイム」は生まれようがないわけだから。
 よく「年寄りは頭が固い」といわれるがそうではなく、自分が規範にしてきた型・拠り所を捨てる根拠が新しいパラダイムの中に見出せないだけだと思う。どんなことであれ初めて学ぶ分野においては、まず教科書や最初の訓練を通じて誰しもがセオリーを身につけていくが、それがその後の考え方を決める規範となる。(但しこれを極端に突き詰めていくと「旧体制とは互いに理解不可能」という全共闘と同じ結論になってしまうのだけれど。)
 したがって自分が上の世代になったときの心得としては、「自分が納得できないことでも若い世代を信用する」態度なのだと思う。もしもそういう上司に恵まれない場合は、草の根活動で若い世代にシンパを増やしながらひたすら待ち、最終的には世代交代するのを待つしかないのではないかと思う。寂しい結論になるが、急がば回れでそれが結局は一番の近道なのかも。
 クーンに始まって、とんでもない方向に話が行ってしまった。(笑)
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『場所の現象学』 エドワード・レルフ ちくま学芸文庫

 『人間主義地理学』という学問分野に属する研究書だそう。
 といわれても、まず『地理学』というもの自体になじみがないが、大まかに言うと「地表空間」について研究する学問らしい。研究対象は自然環境や地形といった自然科学系と、文化や人間の活動といった人文科学系があり、総称して『地理学』というようだが、本書は『人間主義地理学』という名前にあるように後者の分野に属していて、著者によれば「人間と地表空間の関わりを探求する学問」という定義をされている。まあ、「場所」という漠然としたキーワード(概念)で括ることができる諸々について、あれこれ研究するということか。
 本書はこの「場所」について、現象学の手法を使ったアプローチで分析した研究書である。解説に依ればイーフー・トウァンの『空間の経験』(ちくま学芸文庫)と並び称される代表的な著作とのことだが、『空間の経験』よりもこちらの方が、論旨が明快で解り易かったように思う。
 
 以下、内容に関して述べる。
 「場所」と一口に言っても色々な分け方がある。まず規模で分ける方法がある。その場合は例えばトイレなどの小さな空間から家や町といった身近な地域、そして市や県、はては国家といった広域まで多くの段階がある。また私的・公的という視点で分ける方法もある。例えば自分の部屋/個人空間から自宅/家族空間、そして図書館や学校などのパブリックスペース、さらにはショッピングモールや街道などの屋外空間などなど。
 著者によればある「場所」を他の場所と区別するための要素は、以下の3つがあるとされる。
  1) 景観を構成する物質的要素・見かけの様子
    例:山や丘や大きな木、または建物などランドマークになるもの
  2) そこで行われる/観察できる人間の活動
    例:遊園地(娯楽)、学校(勉強)、駅(移動)、その他待ち合わせや買い物など
  3) 上記の1)2)がその人にとって持つ意味/象徴
    例:その土地に感じる印象や個人的な思い入れなど精神的なもの
 具体的な例として、『異邦人』や『ペスト』などの作品で有名なカミュがアルジェリアのオランという場所を描写した文章を挙げ、その中で1)の物質的要素としては「砂の荒野と砂浜、海水浴場」が、2)の人間活動としては「夏に見られる若い女性の海水浴」が、そして3)の象徴としては「清浄と倦怠」が見られるとしている。
 ひとつの場所にはこれら3つの要素が重なり合って意味をなしており、その時々やそこを訪れる人によって様々な捉え方をされる。
 3)がちょっと解りにくいので少し自分なりの解釈で補足しておこう。
 ある人にとって意味をもつ「場所」とは、“空間的”ないし“時間的”に他の空間と区別できるものである。後者の“時間的”というのは要するに「思い出の場所」ということ。ただしその「場所」に与えられる意味は常に固定されている訳ではなく、例えば通勤と同じ車を休日にドライブに使うとき中の「車内」のように、特定の時間/状況と結びついているケースもある。

 と、これまでが「場所」の分類方法についてで、本書の前半部分にあたる。“現象学”を名乗るだけあってなるほど納得できる筋運びである。後半からはこうした区分を使って、いよいよ現代社会における「景観」の分析を試みているが、レルフはここでも「なるほど」と思わせる特徴を洗い出している。
 従来社会においては交通手段やマスコミが未発達であった為、地域ごとで社会的・文化的に閉鎖的なユニットが形作られていた。つまり「場所」はその地域ごとで独特な意味を持ち、他と区別される唯一無二の価値を持っていた。これを筆者は「場所性(place)」と名付けている。乱暴な言い方をすれば、日本語で「わが家」「わが町」「わが故郷」などの「わが○○」にあたるものといえば良いだろうか。
 一方で現代においては、他所との違いが鮮明でない「場所」も増えてきている。すなわち「没場所性(placelessness)」の出現である。タイプ別に「博物館化(“○○風”な街並み等)」「ディズニー化(庭に置かれた小人の像)」「未来化(大阪万博パビリオン等)」に分けたり、原因として「キッチュ(まがい物/借り物)」や「テクニーク(机上で考えた都市計画)」などが考察されている。要は“ステレオタイプ(典型的)”ということ、つまり地域の歴史を反映せず生活感も伴わない表面的な特徴だけを、他所から借りてきただけの景観。

 著者が本書を書いた目的は「場所」について現象学の見地から分析を施すことなので、自分の価値観を不用意に押し付けないように充分注意している。『これからの世界では益々「没場所性」が多くみられるようになるだろう、なぜなら科学の発展やメディアによる情報の均一化が図られるから。』 ―せいぜい述べられているのは、この程度の意見表明に過ぎない。しかし70年代年に出版された本書はその後、著者の意に反して(?)『現代には「没場所性」という悪が蔓延しつつあるので、良き「場所性」を復活させよう!』という主張の理論的根拠として、利用されているようである。レルフ自身は日本語版によせた文章で、没場所性は一つの価値であり何ら否定されるべきものではないと主張しているのだが...。
 思うに、これは説明に使った言葉が悪かったのだと思う。没場所性の特徴として「キッチュ(まがい物)」「偽物の場所」云々という表現が使われており、「偽物の○○」という言葉自体に既にマイナスイメージがある以上、読んだ人々が先入観を持つのはやむを得ない。そしてそのような人々の反対にも関わらず、(レルフが予測したように)世界中でその後も没場所性が浸透していったのも事実である。
 しかし本当に没場所性は悪いことだろうか?

 レルフも述べているが、『没場所性が一概に悪いわけではない』という考えには自分も基本的に賛成。“没場所性”で示される各種特徴について、実は積極的に「新しい場所性」として認識すべきではないのか?という気さえする。従来「場所の景観」を他と区別するのに使われていたカテゴリーが、現代社会において大きく組み替えられつつあるのではないか。
 例えば新宿副都心や原宿・青山といった没場所性の代表的なエリアを見た場合、確かに個々の建物や街並みはどこかで見たものばかりかも知れない。生活に密着した「本物の建物」は無いかも知れない。しかし「西新宿」「表参道」という場所が喚起するイメージは、どの場所とも違う特有の価値観として今や人々に認識されているのではないか。また高架下の全く特徴が無いコンクリート壁に描かれたスプレーによる落書きを見るといい。カラスやネズミを例に出すまでもなく、コンクリートとまがい物で囲まれた大都会に逞しく順応した人々によって、新しい「場所性」が作られつつあるのではないか?
 もっとも(仮に)「没場所性」が悪いことであったとしても、それほど心配はしていない。おそらくアジア的な乱雑さやスプレー落書きをする若者達の文化こそが特効薬となるだろうという気がするし、どのみち将来人類が宇宙に進出した暁には「新しい場所性」が必要になるわけだから。

 本書を読み終えた後、テクノポップの雄/P-MODELや平沢進のアルバムで『CHEVRON(シェブロン)』『LAB=01』『HOMO GESTALT(ホモ・ゲシュタルト)』『賢者のプロペラ』『世界タービン』といった名曲を繰り返し聴きながら、「本物」と「偽物」あるいは「リアル」と「バーチャル」の境に想いを馳せたひとときというのも、なかなかに好いものだった。

<追記>
 ここからは余談になるが、E・O・ウィルソンの『バイオフィリア』にならって、「場所性」が生まれた理由について生物的なアプローチから考察をしてみたい。
 生物は周囲の景観に「食べ物がとれる場所」や「寝るのに安全な場所」というように、個々の場所に意味を持たせて記憶している。“危険”や“安心”といった情動と場所がセットで記憶されることで“a place”が“the place”に変化し、それによって弱肉強食の世界で生命を維持することが初めて可能になる。
 やがて進化の過程で人間の脳が爆発的な発達を遂げたとき、死者の埋葬や狩りで多くの獲物を得る呪術などを通じて“文化”が生まれた。それとともに、最初は生存の為に必要な情報だけであった「場所性」に文化的な意味が加わり、人間活動や象徴によって判断される現在のような「場所性」が構築された。そう推理したのだけれど、どうだろうか? とすれば、文明の発達とともに景観や生活が変化していけば、むしろそれによって「場所性」も変化していくと考えた方が自然な気がするのだが。

『ジャッキー、巨人を退治する!』 チャールズ・デ・リント 創元推理文庫

 うん、やっぱり面白い。ひさびさに読み返したら元気がでた。 
 デ・リントは『リトル・カントリー(上/下)』も、本書の続編『月の光とジャッキーと』も読んでいるがどの作品も本当に上手い、本当に上手いがどれも絶版。(笑) ― どうでもいい本がベストセラーになって、こういう良質なファンタジーがどれも手に入らないというのはとても悔しい。何とかならないものだろうか? 電子ブックで読めるようにするとか。ただしこの本は丹念に探せばまだ古本屋の均一台で安く手に入るので(それはそれで悔しいけど/笑)、今ならまだ読むことは可能。

 原題は『巨人殺しのジャック』(=「ジャックと豆の木」のこと)であり有名な民話そのままだが、日本語版では(主人公が19歳の女性ということもあって、)日本の読者にも受け入れやすい軽めの題名に変えてある。舞台は現代のオタワ市で、現実世界のビル群と一緒に「もうひとつの世界(=妖精郷)」が二重写しで存在している。そしてそちらの世界では巨人やゴブリン、ハーピーなどの邪悪な生き物たちが勢力を伸ばしつつあった…という設定は良くあるパターンだが、そこからが作者の上手いところ。主人公がたまたま「巨人殺しのジャック」と同じ名前(日本人名なら差し詰め「ヒロシ」の女性版が「ヒロコ」みたいなもの)で、姓もナナカマドの木(=巨人が苦手とするもの)を意味するものであったため、妖精郷を救う冒険に巻き込まれるというストーリーは、実は「構造が同じなら中身が置き換わっても同じ効果を有する」という(レヴィ=ストロースの研究による)神話構造の特徴を下敷きにしていたりする。(余談になるが、中学生のころに夢中だった漫画家の諸星大二郎に『マッドメン』というシリーズがあり、この中にも日本昔話の「三枚のお札」そっくりの状況を主人公が経験するシーンがあって、“呪術的逃走の構造”として説明されていた。)
 「現実とそれ以外の世界」というありがちなシチュエーションも、オカルトという言葉の原義である「隠された(叡智/世界)」という設定にここまで正攻法で取り組んでくれると、それはそれで嬉しくなってしまう。(このテーマは、ジョン・クロウリーがかつて『リトル・ビッグ(Ⅰ/Ⅱ)』という作品で、更に壮大に展開してくれていたものと同じもの。)久しぶりに同じ作者の『リトル・カントリー』も読み返したくなった。

<追記>
 ちなみにクロウリーの『リトル・ビッグ』は、自分が100点満点をつけた小説3冊のうちの1冊。(他の2冊はG・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』とスタニスワフ・レムの『ソラリス(国書刊行会版)』。)これからもっと100点の本が増えてくれるといいなあ。
 (実は0点をつけた本も3冊ある。このブログでは特定の本の悪口を言わないことに決めているので、具体的な書名は言わないけど。(笑))

『空海の夢』 松岡正剛 春秋社

 松岡正剛の古い著作を読むときにはちょっとした覚悟が必要になる。なぜなら若書きの文章がものすごく読みにくいから。本書は初版が1984年なので、彼の著作の中でも結構初期のものとなる。刊行後も2度に亘って新章追加による改訂がなされた新版が出ており、現在のものがどうやら最終版ということらしい。改訂された部分がどこか説明はないが、おそらく序章から「対応と決断」の章までが最初からの部分、その後は新版で増補された章が挟まれたのち、「華厳から密教に出る」以降が再び初期に執筆された文章(と思われる)。― そう判断した理由は、その前後で明らかに文章の読み易さが違っているから。(笑)
 著者の初期における執筆スタイルは、テーマに触発されたことを凄いスピードで書き散らし、ついていけない読者は平気でおいてけぼりにする傾向が強い。正直言って読者にとって親切な書き手ではない。読み手を選ぶというか、読む側にもそれ相応の知識があることを前提に内輪のような話をする、もしくは自分用のメモをそのまま出版してしまう感じとでも言えば良いだろうか。空海をテーマとした本書もスタンスは同じである。「月」にまつわるテーマを題材にした『ルナティックス』(初版1993年)とか、古今東西の人物142人をネタにした『遊学』(初版1986年)などでは、そのスタイルが見事にうまく嵌まっていて実に面白い。しかし、空海を取り上げた本書では少し無理があったかもしれない。

 本書は空海の生涯(=その出自ならびに中国に渡って恵果から密教を伝授されたのち帰国し、当時の日本仏教の最高権威になるまで)を縦軸に、そして古代インドから中国に至る密教の成り立ちを中心にした仏教思想史を横軸として構成が組まれている。ただし縦軸である空海の生涯については、彼の著作である『三教指帰』『即身成仏義』『秘密曼荼羅十住心論』などで記された「哲学思想」の中身が中心であり、教団指導者としての活動には殆ど触れられていない。つまり思想家としての空海のみに焦点をあて、宗教家としての空海は殆どオミットされてしまっている。
 哲学の一種として密教を語るだけならそれでも良いが、「宗教」の領域まで踏み込んで考察するのであれば、思想だけではなく「体験」への考察が不可欠ではないかと思われるがどうだろうか?せっかく“タオイズム”などの新しいキーワードで密教を捉え直そうとするのであれば、神秘体験や悟りの実践に関する考察を避けては通れないのではないかと思う。というよりそこまで踏み込まないと面白みが半減してしまうのではないか。
 その点で、実際にチベット密教に入門して体験をしてきただけ、中沢新一の文章には重みがあると思う。『虹の理論』(新潮文庫→講談社文芸文庫)に収録された「タントリストの手記」や、『野ウサギの走り』(中公文庫)、『森のバロック』(講談社学術文庫)などに挿入された断章を読む限りでは、こと密教の考察に関しては中沢新一の方にどうしても軍配を上げたくなってしまう。
 ただし宗教の実践について突き詰めていくと、少し重苦しい話になっていくので注意が必要。余談ついでにその件についても軽く触れておくことにする。

 竹田青嗣いわく“哲学”の本質は関係者相互の「納得」にある。それが真実かどうかは別として、ともかく当事者同士で「納得」が得られない主張は認められない。(自分一人の思い込みで他人の同意が得られないのであれば、それは“哲学”ではなく単なる“妄想”。)
 そして“哲学”とは別にもうひとつ“信仰”というものがある。“哲学” と“信仰”の違いがどこにあるかといえば、“信仰”の本質を掘り下げていくと最後には「無条件で信じる」ことにぶち当たるということ。理屈も納得も関係なく、とにかくあることを無条件で受け入れた瞬間に“信仰(=宗教)”というものが始まる。それを自分ひとりでこっそり実践している分には世の中も平和なのだが、たいていの場合はお節介にも(笑)自分の考えを皆に伝えたくなる。また殆どの人は自分一人で探求するだけの気力がないので、誰かが作ったお仕着せのシステムに乗っかってお手軽に心の平安を得ようとする。両者の思惑が一致したところに、宗教を実践するための団体“教団”が発生する。
 本書には「山川草木悉皆成仏/さんせんそうもくしっかいじょうぶつ(=この世のあらゆるものは既にして仏である)」という密教の重要な考え方が紹介されている。『空の思想史』の感想でも述べたのだが、この思想は“悟り”を得た後に現世に帰還した時の心境を説明したものである。仏教思想の完成形たる密教にして初めて到達し得た、究極の現世肯定の思想ではないかと思う。神の存在に頼らないで倫理問題を解決できる思想体系であり、確かに素晴らしいものだ。しかし少し不安を感じる点も無いわけではない。
 この世に存在するのが“自分一人だけ”であれば勝手に何を考えようが問題は生じないが、世の中には“常に自分を超えていこうと考える人”と“そうでない人”のどちらもが存在する。“悟り”を自己が目指すべき理想/目標として利用するだけなら良いが、そうして到達した境地を絶対的な価値と考える人が居た場合、実践を始めた瞬間から“そうでない人”に対する「疎外」や「押し付け」が生じるのではないか?ニーチェの「超人思想」がナチスによって悪用されたのと同じように、悪しき選民主義の理論的根拠として利用される恐れは無いのか?

 結社によるテロリズムの原因追究は、笠井潔が『テロルの現象学』(ちくま学芸文庫)で詳細に行っている。実生活とかけ離れた「観念(=思い込み)」が、社会による自分疎外から発生した「ルサンチマン(弱者の嫉妬)」を糧にして、やがて“党派観念”というバケモノへと成長していく様子がリアルに分析されている。ドストエフスキーの『罪と罰』で主人公である元大学生ラスコーリニコフが高利貸しの老婆を殺害する論理がまさにそれ。
 笠井がその本を執筆した際の対象は、連合赤軍に代表されるような共産ゲリラ的なテロが主流であったが、その後に起きたオウム真理教やイスラム原理主義による宗教テロも同じ文脈で充分に説明が可能と思う。(*)

  *…ちなみに新興宗教と伝統宗教の違いを企業に喩えてみると、新興宗教は創業者がまだ
    経営の第一線で辣腕をふるっている企業であり、伝統宗教は創業後に長い時間を経て
    社長も世代交代し、形成がシステマチックに受け継がれていて、且つ企業としても
    成功している、いわゆる“ビジョナリーカンパニー”(笑)という感じがしている。
    ホリエモン率いるところのライブドアに対して世間一般が示した「胡散臭い」という
    反応は、ある意味でオウム真理教などに対するものと根が同じだったのかも。

 また仏教思想の実践に関しては、次のような問題も考えられるだろう。
 例えば自分の家に強盗が押し入ってきたとする。その時、家族を守るために武器を持って相手を殺すことは許されるのか? 他者に対して否定を強制してくる脅威を排除することは、あらゆるものを仏として肯定する立場からすると許されないのではないか? 理念と実践にどう折り合いをつけていくべきなのか?

 もちろんこの件について思考した人間も大勢居る。親鸞の「悪人正機」を挙げるまでもなく大乗仏教の指導者たちは何らかの形でこの問題を考えている。自分の知る限りでは「他者論」のレヴィナスや「雨ニモマケズ」の宮澤賢治などもそう。しかし彼らまで行ってしまうとあまりにラディカルに突き抜け過ぎていて、逆に付いていけないところがあるし...。
 自分としてはこの問題に対して、今のところ良い答えは出せていない。たぶん「投企」(byハイデガー)や「命懸けの飛躍」(byマルクス)による判断を、その瞬間ごとで繰り返していくしかないのだろう。
 ただ、西洋思想よりも東洋思想の方がまだマシな点があるとすれば、キリスト教では「自分がして欲しいことを人にもせよ」という積極性に価値を認めるのに対し、仏教では「人が嫌がることはするな」という消極性にこそ価値を認めている点だろうか。

 『空海の夢』の話に戻ろう。
 先ほど松岡正剛が空海を取り上げたことに対して「少し無理があったかも」と述べた。それは本書が“実践する宗教家としての空海”には触れないという方法をとったからである。「その部分はあえて避けて通る」という趣旨のことを松岡自身が本書のどこかに書いていたと思うが、そのようなスタンスをとる限り、深く考察すればするほど限界が見えてきてしまうというジレンマが生じる。初版で書かれた部分は空海と密教思想の展開を主題にしているだけになおさらその傾向が顕著に表れている。
 それに比べ、後で増補された「カリグラファー空海」「イメージの図像学」などの章は、とても読み易いし面白い。それは思想を直裁に取り上げるのでなく、“書体”だとか“曼荼羅の図像”だとか空海に関係しつつも宗教や思想ではない部分から触発された話題を巡って、いつものセイゴウ節が満喫できるから。テーマを巡ってあちらこちらと彷徨うフラフラ感は、いかにも「松岡正剛の本を読んだ!」という感じがして好い。年取ってギスギスしたところが取れて、少し精神的にも余裕が出てきたのだろうか。

<追記>
 最近になってやっと松岡正剛の本の「一番愉しい読み方」が解ってきた気がする。
 彼の文脈は、「AはBである」という形ではなく、「『AはBである』と言われている/言っている人がいる」という形をとる。自分が賛同する論理を様々な著作から選んできて、パッチワークのように構成し直すという方法で、間接的に自分の主張を表している。ある意味まだるっこしいところもあるが、これが彼お得意の「編集」というヤツ。前にも書いたように、多くの本から選び抜いた断片を補助線として書き連ね、それらを一歩引いたところから眺めた時、ひとつのデッサンが見えてくるというのが正剛流なのだと思う。
 そういった意味では、松岡正剛は普通に言われるような意味での“著者”ではなく、まさに“編集者”と言った方が良いのかも知れない。

<追記2>
 空海という名前を聞くたび、あるイメージが頭の中に浮かんでくる。空の思想によるあらゆる物事の否定が「空(くう)」という言葉に重ねられているとすると、「空っぽの母なる海」という逆説的な名前なわけだが、実は「空っぽの海」という言葉が真空の宇宙のイメージにつながった瞬間に、ディラックが提唱した“電子の海”(エネルギーで充満した真空)という概念が突如浮かび上がってくる。
 何もないどころか、負のエネルギーと正(=生)のエネルギーによって沸騰し、対消滅が繰り返されることで表面上は“何もないかの如くに見えているだけ”というのがディラックのアイデア。このイメージが空海という名前と重なると、『森羅万象は全て仏である ―山川草木悉皆成仏』という密教のキーワードがぴたり一致する気がして、ちょっと出来過ぎのような気がしないでもない。(笑)

バリントン・J・ベイリー_My favorite 13

<マイベスト>
★『カエアンの聖衣』ハヤカワ文庫SF
  *ベイリーの人気を決定付けた代表作。衣服哲学により統治される惑星カエアンや、
   真空空間に適応した「ヤクーサ・ボンズ(やくざ坊主)」などまるで悪夢のような
   アイデアが満載。
★『時間帝国の崩壊』久保書店
  *空間ではなく時間を跨いで君臨する「時間帝国」を舞台に、『カエアン…』以上の
   ハチャメチャなアイデアが炸裂する怪作。
★『シティ5からの脱出』ハヤカワ文庫
  *日本オリジナルの短篇集。表題作のほか、「洞察鏡綺譚」「ドミヌスの惑星」や
   「知識の蜜蜂」など、“悪夢のような”傑作が目白押し。
次点)
 『禅銃(ゼンガン)』ハヤカワ文庫
 『永劫回帰』創元SF文庫
 『スターウィルス』創元SF文庫
 『時間衝突』創元SF文庫

 クリス・ボイスの『キャッチワールド』によって「ワイドスクリーン・バロック」の洗礼を受けてから、“その手”の作品に飢えていた自分にとってベイリーは素晴らしいひとときを提供してくれた。一時期、創元から新作が次々と発行されたが、その後パタッと止まってしまっている。
 P・K・ディックともある意味共通する点として、昔のSF映画に出てくるような安っぽい小道具を多用しつつ、とんでもない物語が展開する作風が挙げられる。“わざとカッコ悪くするのが実はカッコイイ”とでも言えば良いだろうか。まだまだ未訳の作品は多いので、今からでもぜひ残りの作品を出して欲しいなあ。

【人と作品】
 イギリスのSF作家。まさに「奇想」と呼ぶにふさわしい作品を数多く作り出した。複数の時間線が存在する宇宙で二つの時間が衝突する『時間衝突』など、奇想天外なアイデアを大真面目に展開して奇っ怪な物語に仕上げた彼の作品にはマニアックなファンが多く、「マニアのアイドル」の異名をとった。2008年に死去。

長い題名の小説

 世の中にはやたらと長い題名がついた小説が存在する。村上春樹の『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』とか、海外ではトマス・ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』などが有名。SFの分野でも長い題名をつけた作品が結構あって、ぴたっと嵌まると凄くカッコイイ感じが好い。時代で言うと70年代あたりが多いのかな?(ちゃんと数えたわけではなく直観なので違ってるかも知れないが。)

 以下、海外のSF小説の中から「うーん、かっこいいなア」と思ったものをいくつか挙げてみる。ただし題名だけ奇をてらっても仕方ないので、作品としても良いと思ったものだけ。

 *注)『 』は長篇、「 」は短篇で後ろにある書名は収録された作品集*

  1)『流れよわが涙と、警官は言った』
     フィリップ・K・ディック ハヤカワ文庫
  2)『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
     フィリップ・K・ディック ハヤカワ文庫
  3)『パーマー・エルドリッチの3つの聖痕』
     フィリップ・K・ディック ハヤカワ文庫
  4)『去りにし日々、今ひとたびの幻』
     ボブ・ショウ サンリオSF文庫
  5)『鳥の声いまは絶え』
     ケイト・ウィルヘルム サンリオSF文庫
  6)「時は準宝石の螺旋のように」
     サミュエル・R・ディレーニィ サンリオSF文庫/同タイトルの短篇集
  7)「「悔い改めよハーレクイン!」とチクタクマンは言った」
     ハーラン・エリスン 河出文庫/『20世紀SF(3)』
  8)「俺には口がない、それでも俺は叫ぶ」
     ハーラン・エリスン 講談社文庫/『世界SF大賞傑作選2』
  9)「世界の中心で愛を叫んだけもの」
     ハーラン・エリスン ハヤカワ文庫/同タイトルの短篇集
  10)「ガラスの小鬼が砕けるように」
     ハーラン・エリスン ハヤカワ文庫/『世界の中心で愛を…』
  11)「その顔はあまたの扉、その口はあまたの灯」
     ロジャー・ゼラズニイ ハヤカワ文庫『伝道の書に捧げる薔薇』
  12)「青をこころに一、二と数えよ」
     コードウェイナー・スミス ハヤカワ文庫『第81Q戦争』
  13)「ウェーク島へ飛ぶわが夢」
     J・G・バラード NW-SF社『死亡した宇宙飛行士』

 1)、4)、6)、12)あたりの題名は、見た瞬間に「いいなあ」と思った。7)とか8)なんかも、
文はムチャクチャだけど妙に格好良くて好きだなあ。ちなみに9) は言わずと知れた“さるベストセラー小説”で流用されたもので、2)は映画『ブレードランナー』の原作で有名。
 ハーラン・エリスンのように長い題名を付けるのが趣味のような作家も中には居るようだが、傾向としては「文学がかったもの」「宗教がかったもの」「それ以外(語感のカッコよさだけ?)」の3つくらいに分かれると思う。
 昔、テレビの2時間ドラマなどでもやたら長い題名ばかりついていた時期があったけど、こういうのも作家や編集者の流行りがあるのだろうか? 個人的には長い題名は好きだけれど、きっと本屋が問屋に注文を出すときは面倒なんだろうナ。

<おまけ>
 長い題名の中には正直なところ「ちょっと奇をてらい過ぎて恥ずかしいのでは?」とか思うのもある。どういうつもりで付けたのかは知らないけど、そんなものも少し。(話は面白かったから別に好いけど。)

  ・『熱い太陽、深海魚』
     ミッシェル・ジュリ サンリオSF文庫
  ・「そして、ついに、着飾った捕食者たちの時代がやってきた…」
     ピエール・クリスタン サンリオSF文庫/『着飾った捕食家たち』
  ・「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」
     コードウェイナー・スミス ハヤカワ文庫/『竜と鼠のゲーム』 
  ・「黄金の船が―おお!おお!おお!」
     コードウェイナー・スミス ハヤカワ文庫/『竜と鼠のゲーム』

泉鏡花と幸田露伴_My favorite 12

<マイベスト>
★泉鏡花
 「高野聖」「天守物語」「夜叉が池」「草迷宮」「薬草取」「海異記」
 「陽炎座」「眉かくしの霊」「歌行灯」「国貞えがく」など
★幸田露伴
 「幻談」「観画談」「魔法修行者」など

 近世日本の粋な文章が満喫できるので気に入っている二人。文章に品があるというか風格があるというか、かつてはこういう文章を書ける人が居たのだなあ...としみじみ感じる。泉鏡花は幻想短篇に名作が多いが、短篇の人情話にも好いのがある。普通に手に入るのは「高野聖」など特定の作品に偏っていて、ちくま文庫の泉鏡花集成が絶版になったのが辛い。幸田露伴に至っては現在では入手はほぼ壊滅的で、岩波で僅かに残っているだけ。(あ、ちくま日本文学とか講談社文芸文庫が少しあったか。)仕方ないので手に入るものをちびちびと読んでいる。「幻談」は何度読んでも凄い作品だと思う。

【人と作品】
 泉鏡花は尾崎紅葉の門徒で、夏目漱石にも「天才」と言われた程の文才を持つ。作品は幻想小説に属するものと花柳界を題材にしたものに大きく分かれる。幸田露伴は『五重塔』が文学史に出てくるくらいで今では殆ど忘れられているが、江戸の風俗や古典などにも造詣が深く、随筆も多く書いた。

『艸木虫魚』 薄田泣菫 岩波文庫

 「そう・もく・ちゅう・ぎょ」と読む。著者は「すすきだ・きゅうきん」という。いずれにしても聞き慣れない名前である。本屋で何気なく手にとって拾い読みしたら、思いのほか面白かったので買って読んでみた。後で調べてみたら結構有名な人で、単に自分が勉強不足で知らないだけだった。(明治時代の詩人で、大正からは随筆に転向して大阪毎日新聞社に勤め「茶話(ちゃばなし)」というコラムを連載していた。今ならさしずめ『天声人語』といったところか?)なお書名は「山川草木」と「鳥獣虫魚」の後ろ二文字をそれぞれ取って合わせたもので、自然を題材にしたものが比較的多いことからつけたのか、それとも色んな事を“ごった煮”にしたということか?いずれにせよあまり深い意味はなさそう。

 テーマは自然の風物に関するものが半分で、書画骨董や歴史上の人物についての故事・説話が半分。(自然を取り上げた文章の方が総じて出来が良いようだ。) きちんと数えた訳ではないが本書全体では“極上”=2割、“上”=5割、“並”=3割といった感じか。軽めの読み物である『茶話』からも幾つか持ってきてバラエティに富んだ内容にしたのが却って裏目に出ていて、全体がぼやけてしまったのが残念だが、これは著者の責任ではなく当時の編集者の責任だろう。折角なら書名にふさわしいものだけに絞っても良かったかも。
ともあれ決して悪い出来ではなく、「柚子」「柿」「影」「糸瓜」「茶の花」「物の味」「草の実のとりいれ」などの“極上”のものに関して、印象を軽く述べることにする。

 自分の好きなエッセイストのひとりに、漫画家の東海林さだおがいる。本作は彼のエッセイから、よく言えば庶民的/悪く言えば下世話なところを取り去って、代わりに詩情性やペーソス(情緒)を少し付け加えたような感じであり、好奇心に溢れる話題、品のいいユーモア、軽妙洒脱な語り口などが相俟って、極上の文に仕上がっている。(もっとも東海林さだおの場合は、その「下世話」なところも含めて魅力にもなっている訳だが。)
 とても大正時代に書かれたとは思えない、現代にもそのままで充分に通用するような、時代を超えた普遍性をもつ内容で少しも古びていない。一度にたくさん読んでしまうのが惜しくて毎日少しずつ読み進めていきたくなる、良きエッセイの見本のようなものである。関西で「粋(すい)」というのは、こういう物の事を呼ぶのではないだろうか?

<追記>
 ちなみに「粋(すい)」は、関東(江戸)における「粋(いき)」とは違う。
“いき”については哲学者の九鬼周三が『「いき」の構造』(講談社学術文庫、岩波文庫など)で詳細に分析しているが、簡単にいうと「媚び(異性に対する)」と「意気(意気地)」と「諦観(いさぎよさ)」の3つからなる価値観のこと。それに対して“すい”は、例えば大吟醸の酒を造る際に原料のコメを削っていって残った芯のようなものと理解している。「技術の粋を集める」という表現があるように、おそらくは“すい”の方が元々の意味に近いのではないかと思う。
平安貴族の「あはれ(=哀れ、憐れ)」という価値観が、武家社会で換骨奪胎されて「あっぱれ(=天っ晴れ)」に変化したように、関西の「粋(すい)」が江戸に渡って「粋(いき)」という新しい価値観へと変わったのではないか?そう推理しているのだが。

小松和彦_My favorite 11

<マイベスト>
★『憑霊信仰論』講談社学術文庫
  *著者の研究の本格的なスタートを飾った記念碑的な著作。
★『異人論』青土社⇒ちくま学芸文庫
  *昔の村落に伝わる「異人殺し」の伝承を通じて日本文化の「闇」を探った本格研究書。
★『悪霊論』青土社⇒ちくま学芸文庫
  *『異人論』とセットで、「怨霊」「物怪」などを通じて日本の共同体の闇を探る。
★『妖怪学新考 ― 妖怪から見る日本人の心』小学館ライブラリー⇒洋泉社MC新書
  *小松版の新しい「妖怪学」誕生のマニフェスト。
★『百鬼夜行絵巻の謎』集英社新書ビジュアル版
  *新しく発見された百鬼夜行絵巻によって、従来は謎とされてきた絵巻の成立過程が
   解き明かされていく― スリリングな論考。
次点)
『鬼の玉手箱』福武文庫
『妖怪草紙』工作社⇒学研M文庫
『異界を覗く』洋泉社

 昔から『憑霊信仰論』『異人論』などの著作を楽しく読んでいたのだが、何気なく手に取った京極夏彦の『姑獲鳥の夏』を読み始めてびっくり。小松和彦で親しんでいた「いざなぎ流」そっくりの民間信仰が事件の背景として使われていた。一瞬「だれも知らないと思って、パクリか?」と思ったが、最後に参考文献としてちゃんと載っていたのでひと安心するとともに、京極夏彦にのめり込む日々が始まったのはまた別の話。
 1997年からは国際日本文化研究センターの教授になったため仕事が忙しくなったらしく、2000年ごろからは単独の研究成果や著作がめっきり減ってしまったのが残念。『百鬼夜行…』は久々に往年の著作を思わせる密度の濃い成果が堪能で来て良かった。

【人と作品】
 元々は文化人類学の畑出身だったが、フィールドワークの対象に四国の山村に伝わる「いざなぎ流」という民間信仰を選んでから、(当時は文化人類学とは学問同士の仲が悪かった)民俗学の色が濃くなっていった。
 研究の内容は“妖怪”“鬼”などの怪異に対する信仰や伝承を通じて、日本人本来の心象を探ろうとするものであり、「妖怪学」と名付けられることとなった。(井上円了の妖怪学とは内容・目的とも別)その成果はやがて国際日本文化研究センターによる世界初の「怪異・妖怪伝承データベース」に結実している。

『<心理療法コレクション>Ⅰ~Ⅵ』 河合隼雄 岩波現代文庫

 ★『Ⅰ ユング心理学入門』
   *河合隼雄の第一作。ユング心理学の全体像を大変わかりやすく紹介。
 ★『Ⅱ カウンセリングの実際』
   *同じく初期の著作。自分が体験したカウンセリングの事例を用いて、
    心理療法とはどのようなものか具体的に説明。
 ★『Ⅲ 生と死の接点』
   *「老いと死」「思春期」など人生の重要な転機について、
    ユング心理学(元型)は勿論のこと、文化人類学(通過儀礼)や
    宗教学(神話)、昔話など様々な分野からの視点で思索を巡らした本。
 ★『Ⅳ 心理療法序説』
   *京都大学を定年で退官するにあたり、長年に亘る豊富なカウンセリングの
    経験を踏まえて書かれた心理療法の概要をまとめた本。
 ★『Ⅴ ユング心理学と仏教』
   *ユング心理学と仏教における思考方法の違いや共通の課題、関係について
    語ったアメリカにおける講演記録など。
 ★『Ⅵ 心理療法入門』
   *著者が監修した全八巻の『講座 心理療法』の各巻頭に掲載された
    概説を集めたもの。物語/イニシエーション/身体性など、
    様々な視点で捉えた説明がなされる。

 河合隼雄はユング心理学を日本に初めて紹介するとともに、日本におけるユング派の心理療法の第一人者でもあった。肩書は「臨床心理学者」という名前になっている。2007年に他界した彼の追悼の意味も兼ねて、同じく心理学者である息子の河合俊雄が、100冊を超える彼の膨大な著作の中から、彼の活動や考え方の変遷が分かる代表作を選んだコレクションである。さすが選びに選んだセレクションだけあってどれを読んでもハズレが無く、著者の活動と思索の全体像を一望できる素晴らしいシリーズだった。
 
 河合隼雄には3つの顔がある。ひとつはユング心理学を基にして人間の精神や人文科学系の話題について、学術的な考察を加えた“学者”としての顔。そしてもうひとつは自らが心理療法士として多くのカウンセリングを行った経験を次の療法士たちに伝えていこうとする“教育者”としての顔。そして最後が一般向けに書かれた生き方アドバイスなど“療法士”としての顔である。彼の本もそれら3つの目的に合わせて語り口や出版先を変えて出されている。
 本コレクションでいえば奇数巻の『Ⅰ ユング心理学入門』『Ⅲ 生と死の接点』『Ⅴ ユング心理学と仏教』の3冊が学術系に当たり、偶数巻の『Ⅱ カウンセリングの実態』『Ⅳ 心理療法序説』『Ⅵ 心理療法入門』が教育系にあたるだろう。ちなみに新潮文庫や講談社プラスα文庫などに多く収められている一般向けの著作は、今回は対象とされていない。自分の興味はどちらかといえば前者の方が強いが、後者についても今回せっかくなので読んでみたところ思いのほか面白かった。

 河合隼雄の著作は数が多いだけに、自分が好きなジャンルの学術系の著作であっても、中には“いまひとつ”面白みに欠ける(というか、自分が読む目的と本の主題が合っていない)著作があったりする。例を挙げれば、今まで聞いたこともないような外国の物語について心理学的に考察した本があったりするが、あまりにポイントを絞り過ぎて流石に「ホントかいな?」「牽強付会に過ぎるんじゃないの?」と感じたり、「こちらは別に専門家じゃないんだから」と興味が失せてしまうこともある。“生と死”とか“老い”とか、ある程度の普遍性を持ったテーマの方が“お気らく読者”としては興味を持って読むことができる。
 もちろん面白い本も数多く、本コレクション以外では『昔話と日本人の心』(岩波現代文庫)や『影の現象学』(講談社学術文庫)あたりがとても良かった。

 本コレクションに関して言うと、ユング心理学に興味はあってもどこから手をつけて良いかわからなかったので、『Ⅰ ユング心理学入門』はとても有難かった。実をいうと「錬金術」とか「共時性」とかいう言葉だけが漏れ聞こえ、正直いって尻込みしてしまっていた。
 おかげでその後レグルス文庫のユング著作などにも手を出すきっかけができたし、ル=グインの『ゲド戦記・第一巻 影との戦い』がユング心理学をそのまま物語に移し替えたものだということが良くわかった。(『影との戦い』は傑作。)
 『Ⅲ 生と死の接点』は元々が自分の興味ど真ん中の内容だし、『Ⅴ ユング心理学と仏教』も心理学の観点による仏教哲学の分析が新鮮だった。
 教育系の本は専門書が多くて高いので(笑)、今後はそれほど多く読むとは思えないが、少なくともどれも読んで損は無かったし、『Ⅳ 心理療法序説』は心理療法の概要を知る上で最適な本といっても良いだろう。

P・K・ディック_My favorite 10

<マイベスト>
★『ユービック』ハヤカワ文庫
   *『虚空の眼』ともシチュエーションが一部重なるところがあるが、
    現実崩壊の衝撃やスピーディ且つスリリングな展開など、
    どこをとっても一級品。
★『パーマー・エルドリッチの3つの聖痕』ハヤカワ文庫
   *「キャンD」「チューZ」という麻薬により、
    現実と非現実の境が壊れていく悪夢的世界を満喫。
★『暗闇のスキャナー』サンリオSF文庫⇒創元推理文庫
           (『スキャナー・ダークリー』ハヤカワ文庫)
   *半自伝的な作品といわれているが、確かに麻薬によって意識が
    混濁してく様子の迫真性は圧巻。英国SF協会賞受賞。
★『流れよわが涙、と警官は言った』サンリオSF文庫⇒ハヤカワ文庫
   *ある日、目覚めると自分の身分を証明してくれるデータが全て
    消え去っているという不条理。これもある意味での現実崩壊のひとつ。
★『まだ人間じゃない』ハヤカワ文庫
  *短篇集。表題作は凄いの一言につきる。
次点)
『火星のタイム・スリップ』ハヤカワ文庫
『アンドロイドは電気羊の夢をみるか?』ハヤカワ文庫
『死の迷宮』サンリオSF文庫⇒創元SF文庫
『虚空の眼』サンリオSF文庫⇒創元SF文庫

 ディックの作品では『ユービック』が別格で一番のお気に入り。あとは甲乙つけがたく、次点も含めてその時の気分で入れ替わりもあるかな。バラードの場合は登場人物がどんなに悲惨な状態になっても、まるでひとつのタブローを見るようでどこか静謐な雰囲気が漂うが、ディック作品においては真後ろからいつ襲いかかられるか判らない不安感が強い。ドロドロしたものは正直言ってあまり好みではないのだけれど、彼の場合だけは悪夢の度合いが強いものほど読みたくなってくるから不思議。まるで果物のドリアンみたい。

【人と作品】
 今ではすっかり一般にも知られる有名作家だが、本来はもっとマニア受けのマイナーな作家だった。短篇と長篇では作風が大きく異なり、奇抜なアイデアで抜群に面白い短篇に対して、長篇の世界を一言で表現するなら“悪夢”がふさわしい。(短篇と長篇の差が大きい作家としては、R・A・ラファティも有名。)「火星」「アンドロイド」「超能力」といったチープなSFネタを使いながら、現実崩壊の感覚をこれでもかと突きつけてくる落差がファンには堪らない魅力。
 後年は薬物中毒の影響などで神経を病んで神秘主義的な傾向が強まり、『ヴァリス』『聖なる侵入』『ティモシー・アーチャーの転生』の“神学3部作”を発表した。1982年死去。日本では死後に再評価の機運が高まり、『アンドロイドは電気羊…』を原作にした映画『ブレードランナー』の公開以降、一般にも知られるようになった。

『バイオフィリア』 E・O・ウィルソン ちくま学芸文庫

 この聞きなれない題名は、著者によれば「生命および生命に似た過程に対して関心を抱く生得的傾向」と定義されている。ひらたく言えば、生き物がいるとつい目がいってしまうのは何故か?ということ。しかもこの傾向は、小さな子供が生き物に向ける感心の強さなどからすると、どうやら人間に生まれつき備わっているものらしい。それを著者は『バイオ(=生命への)』+『フィリア(=愛着・関心)』と名付けた。現時点では到底証明できるアイデアではないので、(ラブロックのガイア仮説と同様に)「バイオフィリア仮説」と呼んだ方が正確だろう。

 特定の生き物に対して嫌悪感を持ちながらも同時に魅了されてしまう理由として、ウィルソンは次のような推測を挙げて説明している。すなわち自然界では蛇に代表されるような毒を持つ危険生物や、ライオンなどの猛獣から受ける害が最も大きいので、「生物」に対して注意を払った個体が自然淘汰により生き残ったのだと。それとは反対に食料の補給源として、すなわち自分が捕食する立場であってもやはり、小動物や植物などの「生物」に頼る必要があり、それらを見つける能力の高い個体が進化の過程で優勢になっていったのだろうと推測する。
 またサバンナなどに特有の地形、すなわち広々とした草原が広がるとともに近くには水辺もあり、身を隠せる木立もあるような風景に対して、多くの人が「好ましい感情」という感覚をもつのも、先に述べたような理由で説明が付くと述べている。
 これらは今までにない全く新しい概念であって科学的に検証するすべもないので、とりあえずはエッセイの形で発表したのではないかと思われる。しかし却ってこれがうまく嵌まっていて、美しい自然描写や生命賛歌の内容がまるでレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を彷彿とさせる良い効果を図らずも生んでいる。
 話は後半に至って最終的に生命倫理や自然との共生という大きなところまで広がっていくが、残念ながら良い解決案は最終的には著者の頭に浮かばなかったようで、「今の時代に優先される価値観と数百年後の未来に評価される価値観はちがう。両立は難しい。」という結論で終わっている。このあたりの論旨については、「空の思想」を基にして仏教が到達した倫理体系のほうが優れている感じがするが...。

 ちなみにこの『バイオフィリア』というアイデアは、社会学者のイー・フー・トウァンの『トポフィリア』という概念からヒントを得たそうである。(「トポス[場所]」+「フィリア[愛]」、つまり“特定の地形に何故か魅力を感じる”という生得的傾向のこと。)
 この仮説が正しいかどうかはともかくとして、少なくともアイデアとしては卓抜していると思う。少なくとも著者はアイデアの出所を誤魔化して「自分のオリジナルアイデアだ!」と主張はせず、潔く全てを素直にさらけ出しているから偉い。(笑)
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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