竹田青嗣_My favorite 9

<マイベスト>
★『現象学入門』NHKブックス
   *フッサール現象学の入門書。
★『ニーチェ入門』ちくま新書
   *ニーチェ哲学の入門解説書。視点の問題や、「超人思想」「永劫回帰」など
    ニーチェのキーワードを分かりやすく紹介。
★『プラトン入門』ちくま新書
   *取り上げられる際にはなにかと批判の対象になりがちなプラトンについて
    再評価を行った本。誤解されがちなイデア論など彼の思想について、
    原典にあたり本来の意味をひとつづつ解き明かしていく。
★『完全読解 ヘーゲル「精神現象学」』講談社選書メチエ(西研との共著)
   *「再評価シリーズ」(と自分で勝手に読んでいる本)の一冊。解りにくくて有名な
     ヘーゲルの文章を、色々な喩えを使ったりして平易に説明していく。
★『人間の未来 ― ヘーゲル哲学と現在資本主義』ちくま新書
   *現代国際社会が抱える問題点とその解決方法について、ホッブスやヘーゲルらの
    思想をひも解きながら提案する。竹田青嗣の著作は読むとなんだか将来に希望を
    持てる気がする。
★『人間的自由の条件』講談社学術文庫
   *『人間の未来』と同様に、現代社会が抱える問題についての著者なりの回答を示す。
    柄谷行人著『トランスクリティーク』に対する建設的批評から始まるが、
    射程は遥か先まで。
次点)
『現代思想の冒険』ちくま学芸文庫
『現代批評の遠近法』講談社学術文庫

 初めて読んだのは確か『現象学入門』だったが、あまりの分かりやすさに、それ以来すっかり竹田青嗣に嵌まってしまった。『ニーチェ…』『プラトン…』に『ハイデガー入門』を加えた3大入門書は、従来の解釈に囚われない独自の切り口がとても新鮮でむさぼるように読んだ。著作を読み進むうち、哲学に対する彼の“基本姿勢”が徐々に分かってくるに連れて、益々お気に入りになっていった。哲学を単なる頭の体操ではなく、「矛盾や問題点を解決するための有効な武器」として使い、積極的に現代社会に取り組もうとするその姿勢は、『人間の未来』でも見事に示されている。

【人と作品】
 哲学者、文芸評論家。著作は大きく分けて3つの種類に分かれる。1つ目は在日韓国人である自身のアイデンティティ探求で得た哲学的な成果(『<在日>という根拠』など)、2つ目は現象学など独学で学んだ先人の思想を、一般人向けに解説した入門書(『はじめての現象学』『ニーチェ入門』など)、そして3つ目は自分自身の哲学的思索(『人間の未来』など)。元々が哲学科の専攻ではなく独学で勉強してきただけあって、入門・解説書の類は非常に分かりやすい。
 本人はフッサール現象学やニーチェの思想を好むが、プラトンを始めとしてヘーゲルやカントなど従来は“乗り越えられるべき思想”とされてきた思想家達を、原典に立ち返って読み解いて再評価するような著作も多い。
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2010年3月の読了本

『つまみぐい文学食堂』 柴田元幸 角川文庫
  *英米文学の研究者による軽妙なエッセイ。金原端人(『翻訳家じゃなくてカレー屋に
   なるはずだった』など)、岸本佐知子(『ねにもつタイプ』『気になる部分』など)と
   同様、なんで翻訳家のエッセイってこんなに面白いんだろう。
『極限の科学』 伊達宗行 講談社ブルーバックス
  *科学読み物としてほぼ理想的な面白さ。超低温、超高圧、強磁場という3つの極限
   状態における物性を紹介。
『妖怪談義』 柳田國男 講談社学術文庫
  *ご存じ民俗学の創始者による晩年の作。著者の妖怪やお化けに関する文章を集めた本。
『蔵書まるごと消失事件』 イアン・サンソム 創元推理文庫
  *図書館司書が主人公のコージーミステリ。残念ながらキャラ造形が趣味に合わない。
『生半可な學者』 柴田元幸 白水Uブックス
  *何度も繰り返すが、なんで翻訳家のエッセイってこんなに面白いんだろう。
   英語でいちばん長い地名の話は傑作だった。英国ウェールズ地方にある、
   Llanfairpwllgwyngyllgogerychwyrndrobwllllantysiliogogogpchという村だそう。
『ほらふき男爵の冒険』 ビュルガー 岩波文庫
  *ラブレーの『カルガンチュア』や『パンタグリュエル』、もしくはアメリカ合衆国の
   『ポール・バニヤン』などに代表されるような、民話・説話の系譜につらなる
   ドイツの有名な説話/ミュンヒハウゼン男爵の物語。テリー・ギリアム監督映画の
   『バロン』はこの話の後日譚という設定。星新一にも『ほら男爵 現代の冒険』あり。
『悪魔のいる文学史』 澁澤龍彦 中公文庫
  *著者には珍しいごく真っ当な文学史。ただし書名が示すように、取り上げられている
   作家は一癖も二癖もあるメンツばかり。
『銀の匙』 中勘助 岩波文庫
  *著者の子供のころの思い出を描いた自伝的小説。背筋がすらっと伸びた品格溢れる
   文体で、夏目漱石にも絶賛された。
『空の思想史』 立川武蔵 講談社学術文庫
  *仏教独特な思想である「空(くう)」について、インド/チベット/中国/日本に
   おける変遷をまとめた骨太な研究書。
『作家の値段』 出久根達郎 講談社文庫
  *古本屋でもある著者が、日本文学のビッグネーム達を俎上にあげて、彼らの著書の
   エピソードや市場価格について蘊蓄を傾けた本。
『心理療法入門』 河合隼雄 岩波現代文庫
  *心理療法コレクションの第6巻(最終巻)。
『杉浦康平のデザイン』 臼田捷治 平凡社新書
  *日本を代表するグラフィックデザイナーの評伝。前からブックデザインに興味があり
   本人のデザイン哲学や仕事内容など面白く読んだ。ただし新書なので画像が殆ど
   載っておらず、予想通り欲求不満になった。
『バイオフィリア』E.O.ウィルソン ちくま学芸文庫
  *生物学者である著者がエッセイの形で発表した、人間と自然に関する新しい概念の
   解説書。とても読みやすい。

『空の思想史 ― 原始仏教から日本近代へ』 立川武蔵 講談社学術文庫

 仏教思想の中核であり日本思想の根幹でもある「空(くう)」の思想についての概要をまとめた研究書。楽に読み進められる訳ではないが、多くの示唆に富んだ本である。この手の本は批評的にあたるのではなく、そのまま素直に読んでいくのが一番いい読み方だと思う。
 「○○史」の愉しみ方は2つあって、まず一つ目は時代や地域により「○○」の内容と変遷がどのようだったかを知ること。(今回の例でいえば、古代インドで生まれた「空の思想」が、中国やチベット、そして日本に伝えられる過程でどのように変わっていったか?ということ。)次に二つ目は今の視点でそれを評価した場合にはどうかを考えること。(つまり現代社会や自分の生き方について考える上で、「空の思想」が思考の道具としてどの程度有効か?ということ。)
良くある「○○史」では、前者がただ羅列してあるケースが多いが、この本では最終章で著者のスタンスが(簡単にではあるが)触れられているので、単なる知識の開陳に終わらずより満足できた。
 
 この後、本題である「空の思想」の話題にいく前に、違う点でも色々と参考になるところが多かったので、まずはそちらを先に書いておきたい。

 最初の話題。「仏教は宗教ではなく哲学である」という言葉を以前どこかで読んだか聞いたことがあったが、そう言われる理由がやっと理解できたということ。
 インドにおいては、仏教成立以前の時代から伝統的に「世界の認識のあり方」が宗教的な話題にされていたらしい。インドの古代宗教において特徴的だったのは、「基体」といういわば“モノそのもの”があり、そこに「属性」が加わって世界の現実が成り立っていると考えたこと。このためその後のインド仏教において龍樹(ナーガールジュナ)が「空(くう)」という概念を提唱してから後も、「基体」は存在するか?「属性」は存在するか?といった議論へとつながっていった。(これ以降の時代においては、まるでプラトンのイデア論やカントのような『認識論』が展開されていくことになる。)
 ただ先に結論をいうと、仏教はやはり「宗教(もしくは信仰)」あって一般的な意味での「哲学」ではないと思う。(もしくは東洋においては哲学と宗教の境が西洋ほど厳密でなく混然としているというべきか?)
 竹田青嗣が言うように、哲学というのは本来「正しいか/正しくないか?」という証明をするものではなく、「皆が同じ条件(テーブル)で聞いたときに納得できるか/できないか?」というものだと思う。誰もが納得できる主張であればスタンダードな思想として広まっていくし、納得できなければそこまでである。翻って仏教の「空の思想」では、ある人は“自性”というものが存在するという前提で論理を組み立て、別のある人は”自性”は無いという前提で以下の議論を繰り広げている。”自性”というもの自体があるかないか?という点には誰も踏み込んでいかない。いや正確に言うと”自性”の「在る/無い」についてそれぞれ何らかの論理で証明しようとはしているのだが、論理に無理があって納得が出来ない。そこを信じるところからその後の議論が進められるので、根本にあるのは「教えを信じること=宗教」ということになる。
 もっとも、根本の部分さえ受け入れてしまえば、その後の論理の進め方は筋が通っているのだけれど。(その点では、「ピンの先で何人の天使が踊れるか?」などという中世のキリスト教における議論よりはよほど有意義だし、信仰の対象が”神”ではなく”モノの本質”というところが「哲学」といえる。)

 次の話題。龍樹が「空の思想」を初めて記した書である『中観』は内容がとても難しいという話を聞いたが、その理由が何となく想像ついたということ。
 言うまでもないことだが、誰でも考え事をするときには何かの言語を使って考えている。つまり思考は話者の使役する言語によって規定されている。言い換えれば英語は英語に、日本語には日本語に独特の思考があって、両者はそもそも思考の種類が違うものだということ。抽象的な思考を行う場合はなおさらであり、所属言語に特有の影響や制約をより強く受けるだろう。つまりは話者が言語を使役するのでなく、逆に言語によって話者(の思考)が使役されているとも言える。
 仏教成立の時代、インドではサンスクリット語が話されていたため、先に挙げたような『認識論』を巡る極めて抽象的な議論も、当然サンスクリット語でなされている。その結果、「名詞の前に否定詞を付けることで、肯定文を全否定の文に変えてしまう」とか「西洋の三段論法とは違う古代インド独特の論法」とか、日本人にはなじみが薄いレトリック(修辞法)が駆使されることになる。というよりも、それらのレトリックと切り離しては成り立たない思考であるとさえいえるかも知れない。
 『中観』の原本を読んだわけではなく、あくまでもこの「空の思想史」に述べられている内容を読む限りではあるが、デリダとかドゥルーズのポストモダン思想が難しいのとある意味では同じなのかな?という気がする。

 本題前の最後の話題。世界宗教における基本スタンスの根本的な違いについてさらっと書いてあったが、今まで思いもしなかった事なので驚いたということ。
 仏教は「生」「老」「病」「死」という4つの苦しみから個人の精神的な救済を行うことを、その最重要課題としている。この“個人の救済”こそが全ての宗教に共通する目的なのだと当たり前のように思っていたが、実はイスラム教はそうではないのだという。“社会の律法を順守すること”こそが最重要視されているらしい。これはユダヤ教も同様で、社会を守ることで結果的に個人の心が平安になるべきということ。砂漠/荒地のように、個人が勝手なことをしていては部族全体が死に絶えるほど厳しい自然環境に生まれた宗教と、温かくて恵まれた(少なくとも食べるには困らない)自然環境に生まれた宗教では、自ずと基本スタンスが違ってくるのは言われてみれば当然。まるで梅棹忠夫の『文明の生態史観』(中公文庫)を読んだ時と同じように、著者の主張が抵抗なくストンと腑に落ちた。ちなみにキリスト教はどうかといえば、社会の律法を意識しながらも個人の救済を重要視した点で、当時のユダヤ教の中にあって画期的かつ脅威となった様子である。

 さて次はいよいよ本題の「空の思想」について。
 「空」とは何か?を一言でいってしまえば、「否定」ということになる。この世のモノがまとっている“属性”を否定して、次に“モノの存在そのもの”を否定して、最後にはそれらを想う“認識”まで否定して、ありとあらゆるもの全てが「仮」としてしまう。良い例になるかは分からないが、水を入れたビンに喩えて言えば、まず中身の水なんてものは無いと考え、それどころか外側のビン自体も実は仮に見えているだけと考える。そういった思考の操作が「空っぽ=空(くう)」ということ。龍樹が『中観』で初めて示したのは、言ってしまえばこのような思考実験としての「空」であったと思う。そして「空」と「仮」の調和を目指す処にこそ心の平安(=悟り)があるとして、それを「中道」と呼んだ。
 しかしその後の時代や地域による変遷を経て、「空の思想」は徐々に次のように変わっていく。すなわち「悟りの境地に至ってもそれは一瞬のこと。眼を開ければそこには厳然として現世が広がっている。それならば思考操作により全てを消し去るだけでは不十分で、その後に再び現世に戻った時にどう生きるかが大切ではないのか?」(ちなみに龍樹は全否定することで次のステップが開けるとだけ述べるにとどまり、その先を具体的にどうすべきかには触れていない。)
 この問いに対する答えを探して、後年多くの僧侶たちがインドの経典に直接あたって釈迦の教えをひも解くのであるが、サンスクリット語から中国語に翻訳する際に文意の捉え方によって様々な解釈が生まれた。そこから生まれたのが華厳や真言といった宗派の違いであったというくだりには納得。例として般若心経の解釈が載っているが、たしかに宗派によって解釈の仕方が全く違っている。それはどれを主語として捉えるか?という文法上の違いであり、結果として文意が全く変わるという面白いものであった。

 いままで読んだ本では、仏教理論の最終形態が真言密教であるという意見が多かったが、この著者も同じ見解のようである。(ちなみに南方熊楠も同意見。)それが何故なのか、この本を読んだことで何となく理解できるようになったと思う。
 「空」に至り全てを否定する思考の瞬間(=悟り)を目指すが、それはあくまでも一瞬。その後は再び森羅万象が立ち返り、現世に戻る過程が待っている。しかし一度「空」を経たことで、この世界は今までとは違う聖性を帯びる。それを独自の方法で表現したのが密教で最重要視される『曼荼羅(マンダラ)』である。
 この世の生けとし生けるもの全てが聖性を帯びる。ここに至って仏教はついに、神を必要としないで現世を肯定する思想へと変貌を遂げる。ありとあらゆるものへの感謝の気持ちであったり、道端にあるお地蔵さんに自然に手を合わせるような気持ちとでもいえば良いか。なぜ人を殺すことがいけないか?という倫理上の難問も、自然を大切にするというエコロジーの思想も全て、“神”という存在に依らずして全てここから始めることが可能になる。― いやむしろ、次のようなことか。
 キリスト教における神は「言葉(ロゴス)」である。言葉とその対象(実在物)は正確に呼応するが、「空の思想」においては言葉(属性)と対象物(基体)は呼応しないし、さらには実在そのものが存在しないとされる。これにより神は積極的に否定され、なお且つこの世の全てが肯定される。
 ・・・もしかすると、これはとんでもなく画期的なことではないのだろうか。

 キリスト教を礎にして西洋文明は現在の隆盛を得たが、同時に世界各地でおこる紛争など限界も露呈することとなった。対抗思想としてイスラム教との確執が最近とみに注目されているがどちらも所詮は同じ「経典の民」のひとつ、一神教という点では思想の根っこは同じだろうと思われる。様々な難問を抱えているこれからの21世紀、もしも世界を救える思想があるとすれば、それは仏教から生まれてくるものなのかもしれない。中沢新一ではないけれども、真剣にそんなことも考えてしまった。

山口昌男_My favorite 8

<マイベスト>
★『道化の民俗学』ちくま学芸文庫
  *“山口道化学”の記念碑的な著作。中世劇や世界各地の神話における道化/トリックスター
   を語る。
★『道化的世界』ちくま文庫
  *道化を“秩序を壊すいたずら者のモデル”として捉え、社会や文化の様々な点に知的探求を
   仕掛ける。
★『知の祝祭』河出文庫
  *著者の重要な思索である「中心/周縁」「記号論」「トリックスター」など、
   文化を「反文化」との弁証法的に捉える見方を指し示す本。
★『文化と両義性』岩波現代文庫
  *『知の祝祭』で示された、文化を両義的に捉える著者の文化論の集大成。
★『学問の春』
  *札幌大学の講義録を基にしたもの。ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』を読み解くという
   スタイルで、往年の山口昌男の研究テーマが縦横無尽に語りつくされる。
   知の楽しさを改めて伝えてくれる名著!
次点)
『アフリカの神話的世界』中公新書
『敗者の精神史』岩波現代文庫(2分冊)

 とにかく著作が多くて、読んでも読んでもその全体像が見えてこない。まさに「知の巨人」と呼ぶに相応しい人だと思う。著者が興味を持つ対象や知識の量も半端じゃなくて、学生時代に読んだ『道化的世界』などは、取り上げられている話題の半分以上が分からないほどだった。「道化」「トリックスター」「中心と周縁」「記号論」「神話」など、山口昌男によって初めて教えられ、その後の読書の方向性を決めることになったキーワードも数多い。(思い返せばレヴィ=ストロースも、山口昌男がきっかけで読み始めたんだよなア。)
 知らないうちに出版されて既に絶版になっている本も数多く、手に入れるのも一苦労。

【人と作品】
 70年代から構造主義や記号論など最新の理論を日本に紹介・駆使して、従来の硬直した学問に揺さぶりをかけた。興味の対象は限りなく広く、膨大な著作や論文が発表されている。「トリックスター」や「中心と周縁」など著者が広め、定着した概念も数多い。

『極限の科学』 伊達宗行 講談社ブルーバックス

 ときどき無性に自然科学系の本を読みたくなるが、読み物として面白いものにはなかなか当たらない。専門的な話じゃないと面白くないし、かといって専門家は文章が下手で読みにくいし。その点、(表紙裏の著者紹介にも書いてあるように、)この人の文章はとても読み易くて科学系の読み物としてはほぼ理想的なレベルにある。

 ところで、この本でいう“極限”とは、さまざまな物理量において限界に近い領域の値のこと。序説にも書いてあるが、「認識量」と「到達量」という二つのレベルで捉えると分かりやすい。「認識量」とは制御はできないが観察や観測が可能な値(例えば百数十億光年先の深宇宙)。それに対して「到達量」とは人類が実際に実験室などで実現・制御ができた数値(超低温など)。種類としては温度/圧力/距離・サイズ/電磁力/重力など様々なものがあるが、ここで最新の成果として取り上げているのはそのうち①温度(低温)、②圧力(高圧)、③磁力(強磁場)の3つ。ちなみに「高温」はプラズマ化などおおよそ物性の変化が分かっていて、だいぶ前から「認識」の限界に達しており、面白みがない。巨視サイズでは天文学によりビッグバン以降数億年のレベルまで遠く(古く)まで「認識量」が拡大しており、微視サイズでは「認識」「到達」ともにほぼ限界レベルにちかく、個々の原子を直接観察したり並べ直して字を書けるレベルにまで達している。その点、先に挙げた3つの物理量は人工的に作り出せる数値がまだ伸びている分野であり、それに応じて「認識量(=物性の新しい知識)」も増え続けている最前線なのでとても面白い。
 3つの極限の中では、特に「超低温」が良かった。すでに絶対温度で数十ナノKが実現できているというのも知らなかったが、その結果、原子気体のボーア凝縮が観測されたというくだりは感動ものだった(関係者は2001年のノーベル賞を受賞)。これはつまり、低温の分野においては「認識量」もほぼ最終段階まで来ているということを意味する。
 それに対して超高圧と強磁場については、けた外れに大きい値が白色矮星や中性子星という形ですでに存在しており、そこに向かって人工的にどこまで「到達量」を高めることができるか?が主題になる。結果、記述も技術論だったり実験室で得られた物性の細かな特徴であったりで、どうしても「認識量」に比べると話のスケールが小さくなりがち。もっとも、それで得られた知見を実際の中性子星でおこっている(であろう)現象について、物性的な観点で論じているのは初めて読む内容でとても面白かった。中性子星では中性子の超流体や陽子・電子の液体が混然と溶け合って超流動状態になっているという記述を読むと、とてもわくわくしてくる。
 池谷裕二の『進化しすぎた脳』と同じように、棚に残しておいてときどき読み返したい本なのだが、残念なことに科学解説書の旬は常に出版された直後であって、文学などと違って時間がたつとどんどん情報の鮮度が落ちて陳腐化していくのが辛い。この本の鮮度はどこまで持つかなあ?
<追記>
 圧力の章に、大学の研究室でさんざん使った「ダイヤモンドアンビルセル」という装置が紹介されていたので、とても懐かしかった。(ブリリアンカットを施した宝飾用の高価なダイヤモンドを使って高圧力を出す装置だけど、ガスケットの水平を出すのが難しくて、傾いたまま圧力を上げるとダイヤが割れてしまう。操作の練習のために水に高圧力をかけて常温の氷を作ったり、結構面白かった。)

澁澤龍彦_My favorite 7

<マイベスト>
★エッセイ・・・どれでもOKだが以下は特に何度も読み返しているもの
  『胡桃の中の世界』『東西不思議物語』『ドラコニア綺譚集』『幻想博物誌』
  『夢の宇宙誌』『私のプリニウス』 以上いずれも河出文庫
  『玩物草紙』 中公文庫
  『都心ノ病院デ幻覚ヲ見タルコト』 学研M文庫
★小説
  『高丘親王航海記』『唐草物語』 以上いずれも河出文庫
  『犬狼都市(キュノポリス)』 福武文庫

 実は翻訳家としての澁澤龍彦に対しては良い読者ではない。(バタイユはともかくとして、サドには特に興味はないので読んでいない。)自分にとって澁澤龍彦はあくまでも最高のエッセイストであり、知らない世界を教えてくれる評論・評伝の著者であり、そして極めて硬質な幻想小説の書き手である。

【人と作品】
 仏文学者/翻訳家/小説家/随筆家など、色々な顔をもつ著述家。一般的にはサド裁判に代表されるようにエロティシズムやオカルティズム系の作家・作品の紹介者として知られている(と思う)。また生前の三島由紀夫とも親交が深かった。日本を題材にした小説にも取り組んだが、『唐草物語』では泉鏡花文学賞、『高丘親王航海記』では読売文学賞を受賞するなど、決して仏文学者の手慰みではなく完成度が高い作品を世に送り出した。1987年に死去。

高い文庫、お値打ちな文庫

 本を購入する時には、どうしても単行本より文庫本が中心となる。文庫の良いところは手軽に持ち歩けることと、本棚に仕舞うとき単行本に比べて場所をとらない事。文庫化されている本なら、(収録内容が減らされてない限り)まず間違いなく文庫の方を選ぶことにしている。
 他によく文庫の特長として言われるのは値段が安いことだが、昨今ではそれほど安くもないのが実情。そこで、新刊文庫の値段について個人的な印象を。

 文庫には大きく分けて「学術系」「文芸系」それに「雑学系」の3つのタイプがある。学術系文庫の代表格は講談社学術文庫やちくま学芸文庫などで、街の大きな本屋にいかないとあまり売ってない。文芸系文庫は普通に良くみる新潮とか角川など。そして雑学系文庫は知的生き方文庫とか王様文庫など。もちろん厳密な分類ではなく、例えば中公文庫では文芸関係が中心だけど学術的なものが混じっていたりもする。あくまで大雑把な括り方。

 総ページ数や出版部数など、個々の本の事情によって価格は当然違ってくるが、それでも新刊情報などで書名や著者を見て買おうと思った時、どの文庫から出るかによって懐具合と相談しながらある程度は“覚悟”ができる。一般的には「雑学系」 < 「文芸系」 < 「学術系」の順で価格が高くなっていき、それぞれ大まかな目安としては「雑学系」は400~600円程度、「文芸系」は国内作家=600~700円/海外作家=700~1,000円程度、「学術系」=900~1,500円程度という感じ。
 以上が概要で、ここからは具体的な文庫を取り上げて特徴などについて順に触れていこう。

 何といっても価格が一番高いと感じるのは講談社文芸文庫。平気で1,500円以上する。昔の文芸作品(今は絶版のもの)を発掘してきたのが中心ラインナップだから仕方ないんだけど、流石によほど自分の趣味にあうものでないと手が出せない。倉橋由美子『スミヤキストQの冒険』や中沢新一『虹の理論』は良い本だけど流石に1600円は出せないよなア・・・。よほど古いかマニアックなものでない限り、古本屋で探すほうが安く済むこともある。
しかし例えば埴谷雄高『死霊(しれい)』はここでしか読めない。本によっては古本屋で単行本を買うよりきれいなものが安く手に入るし、そもそも本自体が見つからないので潔く買うことができるものも多い。
 気をつけなければいけないのは、講談社文芸文庫自体も再版されない事が多くそのまま品切れ→絶版になっているケースが多いこと。(これは学術系の文庫全般に対しても言える。)
 1年くらいしてから捜してももう手に入らないことが多いので、気になったものがあれば買っておく方が無難。

 次に高価格な文庫としては学術系文庫の集団が続く。どの文庫もほぼ似たような価格ではあるが国内の著者のもので比較すると、岩波現代文庫(1,000~1,500円) > ちくま学芸文庫(900~1,400円) > 講談社学術文庫(800~1,200円)という感じだろうか。翻訳モノはさらに値が上がりそれぞれ200~300円高くなる。
 文庫としてはとても高いが、元が学術書なだけに単行本で買うと3~5,000円くらいするので、そう考えればお得感があってつい買ってしまう。読むのに時間がかかるのでそれだけ長時間楽しめる訳だし。

 その次の価格帯には、いわゆる普通の本屋でよく売られているメジャーな文庫が続いている。若干高めなのは中公文庫だが、ここには他社なら学術系の文庫で出てもおかしくないものが一緒にされているので、それほど割高感はない。もっとも、リクエスト復刊されるタイトルについては異常に高くて手が出ないが。
 その他の出版社では小説やエッセイが主体で、新潮/文春/講談社/集英社/集英社/徳間/双葉_等々、どこも似たりよったりで単価を700円位に抑えているので、割と手が出しやすい。もちろん全く興味がない作家のものは安かろうが買わないわけだが。それでも最近では少し長めの小説を上下巻に分けるケースが増え、1冊あたりの値段は低いが結局割高になる事が多くなっている。分厚い本は売れなくなっているのだろうか?(小説自体はスティーブン・キングが登場したあたりから、やたら書き込みが凄くて長いのが増えている気がする。勿論ただダラダラと長いだけの小説は厭なので、あんまり買わない事も多い。)

 そんな中でも少し「お値打ち感」があるのは、角川文庫とポプラ文庫だろうか。
角川はページ数だけで比較すると、「もしも違う出版社の文庫で出たら?」と仮定した値段よりは50円くらい安い気がする。他の文庫で絶版になったタイトルも突然ラインナップに増やしたりするし、わりと注目していい文庫だと思う。ただし売れない本はどんどん切っていくので油断がならず、その意味でも注目していなければいけないが。(笑)
ポプラ文庫については値段も割と安めだし、編集方針も他の文庫に埋没しないように結構工夫してあって好感が持てる。例えば「殿様の日」などの星新一の時代小説はほぼ新潮文庫版で読めてしまうが、それを再編集して松本大洋(*)に挿画を描かせるというセンスが素晴らしい。江戸川乱歩の少年探偵シリーズやルパンシリーズの文庫化なども好いし、編集の工夫でまだまだ魅力は出せるということを証明してくれた。今までこの文庫の編集を褒めた記事を見かけなかったので、敢えて主張しておきたい。― ただし実際に買うのは自分の趣味にあう本だけなのだけれど。(笑)

 *…『鉄コン筋クリート』『ピンポン』で有名。時代劇マンガ『竹光侍』を描いている。

 ちなみに岩波文庫だが、有名な海外作品については、価格は安いが翻訳された時期が古いものが多いので、同じタイトルが光文社古典新訳文庫などから出たらそちらを優先している。このように他の文庫に選択肢がある本は良いが、ほとんどの場合は岩波で読みたくなる本は絶対に他では出ない類のものが多いので、値段をあれこれ言える贅沢は許されていない。(笑)
 再刊されるたびに定価が上がっていくが、買い取り制度のおかげで新刊書店を丹念に探すと前の版が意外とそのまま売れ残っていて、安い値段のまま買えるのは嬉しい限り。でももっと安く買うには古本屋で探すのが一番で、古本でもさほど新刊と状態が違わないのも多いので、その方がむしろ多いかも。

 最後に海外作家の翻訳をウリにしている双璧のハヤカワ文庫と創元文庫について。学術系と国内文芸系の中間くらいの価格が付けられている。最近では1,000円前後が当たり前になっているので、外した時のダメージは大きい。購入につい慎重になってしまい、新しい作家に手を出しづらいのが難点。海外についてはむしろ新潮や角川あたりから単発的にでる、映画タイアップの企画ものなんかに意外な掘り出し物があったりする。値段も国内作家に毛が生えた程度に抑えてあるし。

 というわけで、今までの内容を踏まえて自分なりの印象をざっとまとめると...
1.高いがお値打ち)  ちくま学芸文庫、講談社学術文庫
2.安くてお値打ち)  角川文庫、ポプラ文庫、新潮や角川の海外アンソロジー企画
3.値段度外視)    岩波文庫
といったところだろうか。

 ところで雑学系の文庫について触れなかったが、理由は古本屋の均一台以外では殆ど買わないので正直よく分からないから。(大体、泊まり出張の時のお供に買って、帰ってからブックオフに直行する事が多い。)したがってコメントは無し。

沖縄_My favorite 6

 沖縄に関することは大体なんでも好きで、沖縄を舞台にした小説やエッセイ・旅行記のほか、音楽や琉球文化や食べ物もみんなOK。特にお気に入りのものは以下の通り。
 ★小説
   池上永一 『バガージマヌパナス(わが島のはなし)』文春文庫⇒角川文庫
        『ぼくのキャノン』文春文庫
        『風車祭(カジマヤー)』文春文庫⇒角川文庫(2分冊化)
        『テンペスト1~4』角川文庫
 ★エッセイ
   下川裕治 『沖縄にとろける』双葉文庫
   さとなお 『沖縄やぎ地獄』角川文庫 など
 ★music
   りんけんバンド、BEGIN
 ★食べ物
   ゴーヤチャンプルー、フー(麩)チャンプルー、ナーベランブシー(ヘチマの煮物)等々
   そしてもちろん沖縄そば(薬味のコーレグースをちょっと効かせてピリッとさせて)
   果物では何といってもタンカンが一番

【人と作品】
 池上永一は石垣島出身の作家で、早稲田大学在学中に『バガージマヌパナス』で日本ファンタジーノベル大賞を受賞してデビュー。本作では沖縄の離島を舞台にして主人公が若いユタ/民間の霊媒師(?)になるまでを面白おかしく、且つ感動的に描いている。その後も沖縄を題材にした作品を多く書いているが、最近では近未来の東京を舞台にした『シャングリ・ラ』など舞台を広げている。(個人的には沖縄を舞台にした作品の方が好きかな。)
<追記>
 上記の文を書いてから、琉球王朝最後の時を舞台にひとりの女性の波乱万丈な生涯を描いた『テンペスト』がでた。これは今までの池上作品の良いところだけをすべて集めた集大成であり、下品なところとか冗漫なところとか、小説としての欠点も彼の個性とすれば愛すべきものともいえる。初期の作品にみられた何とも言えないのんびりした空気が、『レキオス』以来ちょっと鳴りをひそめてしまったのは残念だが、そのかわりにこれでもかという程のエピソードを盛り込んで、主人公の孫寧温/真鶴の運命に読者を一喜一憂させる手腕はまさに「ジェットコースターノベル」。もんくなく現時点での彼の最高傑作といえるだろう。

中沢新一_My favorite 5

<マイベスト>
★“カイエ・ソバージュ(5部作)”講談社選書メチエ
『人類最古の哲学』『熊から王へ』『愛と経済のロゴス』『神の発明』『対称性人類学』
  *現時点での著者の思考の集大成。あくまでも「現代」の問題に取り組もうとする姿勢が
   好ましい。
★『緑の資本論』集英社⇒ちくま学芸文庫
   *後の対称性人類学へとつながるターニングポイントになった著作。
★『森のバロック』せりか書房⇒講談社学術文庫(一部割愛)
   *ひとりの思想家に焦点をあて、様々な切り口で自らの思索を述べる著者お得意の
    パターン。本作では南方熊楠を取り上げているが流石に熊楠、どう料理されても
    堂々としたものである。
★『雪片曲線論』青土社⇒中公文庫
   *初期の著作では出世作の『チベットのモーツァルト』よりも好き。
    当時ゴジラやテレビゲームを現代思想で取り上げられたのは衝撃的だった。
次点)
『悪党的思考』平凡社ライブラリー
『バルセロナ、秘数3』中公文庫
『はじまりのレーニン』同時代ライブラリー⇒岩波現代文庫
『フィロソフィア・ヤポニカ』集英社

 最初のあたりはチベット密教をはじめとする非西洋の思想を武器に、現代社会(=西洋思想)を切るところがとても新鮮に感じられたので読んでいた。その後は徐々に熱も冷めて、長いことつかず離れずの関係だったが、『緑の資本論』以降の著作には目を見張るものがあり、往年の中沢熱が再燃して今に至っている。

【人と作品】
 もとは文化人類学の方面の研究をしていたが、その後 チベットに渡り、チベット密教の修行をしたのち宗教学者として活動。ちょうど同じ時期に浅田彰の『構造と力』が人文系の研究書としては異例の大ベストセラーとなり、中沢が出版した『チベットのモーツァルト』もニュー・アカデミズムのひとつとして注目を浴びた。その後、オウム事件に絡んだバッシングや東大から中央大への移籍など、多くのトラブルにも巻き込まれたが、オリジナリティあるその研究活動は評価を受け、2006年からは多摩美術大学で芸術人類学研究所の所長を務める。

『悪魔のいる文学史』 澁澤龍彦 中公文庫

 バルザック、ユゴー、デュマなど19世紀初頭のフランスで活躍した名だたる文豪たち。その陰に隠れてひっそりと咲いたあだ花とでもいうべき「小ロマン派」と呼ばれる文学者の一群を中心に、サドやマゾッホなど著者が好む作家たちについて書いた評伝集。
 「小ロマン派」は神秘主義的・オカルティックな嗜好や常識を否定するような熱狂的な表現を特徴とする一群で、ボードレールの『悪の華』などにもインスピレーションを与えるなど、当時はそれなりに注目されたようだが、その後は完全に世の中から忘れ去られてしまった。彼らを古本や図書館の棚から発掘して再評価をしたのはシュールリアリズム運動の中心人物であったアンドレ・ブルトンで、かなりお気に入りだったらしい。シュールリアリズム運動にも影響を与えた。(なにしろ全く知らない作家や詩人たちなので、このあたり全部、澁澤の受け売り。)
 その中のひとりにデフォントネー(ドフォントネー)がおり、『カシオペアのΨ(プサイ)』が紹介されていたのはちょっと得した気分。国書刊行会の世界幻想文学大系の中で、デイヴィッド・リンゼイの『アルクトゥールスへの旅』と並んで気になっていた書名だったから。『アルクトゥールス…』はその後、サンリオSF文庫版で楽しんで読んだが、今回『カシオペア…』の粗筋を読む限りでは、それに負けず劣らずの奇書の様子で面白かった。

J・G・バラード_My favorite 4

<マイベスト>
★『結晶世界』創元SF文庫
  *時間が析出して徐々に結晶化していく世界を描き、彼の作品の中でも
   最もイメージが秀逸。
★『夢幻会社』サンリオSF文庫⇒創元SF文庫
  *「密林」「セスナ飛行機」といったバラードお得意のイメージが多く使われ、
   ドライブ感が凄い。
★創元SF文庫の短篇集5冊
 (『時の声』 『時間都市』 『永遠へのパスポート』
    『終着の浜辺(時間の墓標/改題)』 『溺れた巨人』)
  *ヴァーミリオン・サンズに属する作品や初期のアイデアものなど色々混じっている。
   どの本にも愛着があり、どれが一番とか順位は付けられない。
★『コンクリートの島』NW-SF社⇒『コンクリート・アイランド』太田出版
  *事故でハイウェイの狭間に落ち込んだ男の精神がやがて変容をきたしていく、
   まさにニューウェーブ。
次点)
『クラッシュ』ペヨトル工房⇒創元SF文庫
『ヴァーミリオン・サンズ』ハヤカワ文庫
『沈んだ世界』創元SF文庫

 バラードは中期以降作品ももちろん好きだが、初期作品に多くみられるような視覚イメージの奔流が何と言っても好み。その中でも一番きらびやかなのが『結晶世界』で、魔術的リアリズムを思わせる豪華さが『夢幻会社』のウリ。どちらも直球ど真ん中のストライク。また短編も凄くいいが、その中でも創元からでていた5作はやはり別格だと思う。ワンアイデアストーリーも結構入っていたりするけれど、「その志や良し!」と全て許してしまう。(笑)『コンクリートの島』も、まるで安部公房の『砂の女』を思わせるような不条理な雰囲気が好いなあ。
 現在翻訳されている中でいちばん最近に執筆された作品は『スーパーカンヌ』だが、最新作まで一貫して変わらないその姿勢には頭が下がる。「腐ってもバラード」という笑い話には、笑うのではなく心から納得できてしまう。

【人と作品】
 60年代にSF界を席巻したニューウェーブ運動の立役者。初期の『沈んだ世界』『燃える世界』『結晶世界』は世界の終末期における人間の精神を描き“破滅3部作”と称される。70年代には技術と精神をテーマにした“テクノロジー3部作”『クラッシュ』『コンクリートの島』『ハイ・ライズ』を発表し、その後も一貫して世界と精神の交差するところをテーマに取り上げている。自伝的要素が強い『太陽の帝国』はスピルバーグによって映画化された。2009年死去。

『妖怪談義』 柳田國男 講談社学術文庫

 妖怪を古代の信仰対象であった神の零落したものと考えること。そして山姥/山人を、里の人とは違う何らかの実在として考えること。柳田にとって日本中から集められた膨大な民俗学的な資料は、この2点を論証する道具としてのみ意味を持っていたように思える。
 単なる迷信として軽視され急速に失われつつあった各地の伝承や昔話に、学術的な「意義」を見出して民俗学という学問の礎を作り上げたことは、どれだけ評価されてもされ過ぎということはないだろう。しかしまた、その「意義」の射程の限界ゆえに彼が批判されてきたのも事実である。しかし今の視点で柳田の結論の不備を指摘するのはたやすいが、論旨の欠点をいたずらにあげつらうのを取り敢えず保留にしてみよう。零落した神や異人種の存在が事実か事実でなかったかはともかくとして、少なくとも伝承が残されてきたことは確かなのだから。
 今あらためて、柳田民俗学の後の時代に生まれた新しい見方でもって、彼が集めた伝承を素直に見つめ直したら何かが見えてこないか?例えばレヴィ=ストロースのいうように「野生の思考」が駆使された結果としてこれらの伝承を見たらどうだろうか?もしかすると『神話論理』で華麗に展開されたように、日本国中の河童伝承や化け物の呼び名の分布や変遷で、美しいカレイドスコープ模様が見えてくるのではないか。一次資料に直接あたって調べた訳ではないので勝手な想像でしかないが、柳田國男が本書で挙げている文献の列を眺めていると、そんな妄想が浮かんできて楽しくなってくる。「ザシキワラシ」だの「一つ目小僧」だの、「河童(川童)」に「小豆洗い」に「天狗」だの、ここで取り上げられた妖怪の一つだけでもいいから、自分で元の伝承をひも解いて分析してみたらきっと面白いだろうなと思う。でも面倒なのでとてもそこまで手は回らないし、そんな時間があったらその分、もっと本を読みたい(笑)のでダメだが。
<追記>
 世の妖怪好きは誰も同じようなことを考えると見え、京極夏彦が『妖怪の理 妖怪の檻』(角川書店)を出した時には思わず笑ってしまった。あの本、興味のない人にはややこしい小理屈を並べているだけかもしれないが、本人は書いている間中、面白くてしょうがなかったと思うよ。

開高健_My favorite 3

<マイベスト>
★『輝ける闇』新潮文庫
  *ベトナム戦争に従軍記者として赴任した経験から生まれた、著者のターニングポイント。
★『夏の闇』新潮文庫
  *開高のもっとも重要なシリーズである“闇”の2作目にして代表作、読み応え充分。
★『ロマネコンティ・1935年』文春文庫
  *六つの短篇が収録された短篇集だがどれも傑作なのが凄い。何度読み返したことか。
★『珠玉』文春文庫
  *著者が癌の病床で書きあげた、まさに「珠玉の短篇集」。
★『オーパ!』集英社文庫
  *南米釣り紀行にして卓抜な文明批評。帰国前夜のブラジリアのくだりを初めて読んだ時は
   ゾクゾクきた。
★『フィッシュ・オン』新潮文庫
  *釣り紀行の最初の作品。北米を舞台にサーモンを釣る。
★『風に訊け!』集英社文庫
  *週刊プレイボーイに連載された、読者からの投稿に対する「ライフスタイルアドバイ
   ス」。おバカな質問、青臭い意見などに対する開高の回答を読むと、彼の凄さが
   改めて実感できる。
★エッセイや対談集をいくつか
  *1980年くらいから後の刊行ならどれでもOK。初期のものは生真面目すぎて続けて
   読むと疲れてくる程だが、後のものほど肩の力が抜け円熟味が増してきて好い。

 言葉にした瞬間にすりぬけてしまうもの。例えば手中の宝石を見つめ続けることで過去の記憶に対面し、その中に見出しかけながら結局は捕まえそこなうもの。あるいは何日も釣果がなく身も心も疲れ切った時にかかった魚を、数十分の格闘の末に釣り上げて確保した瞬間、円が閉じ杯は一瞬にして満たされること...。かつて語りえぬものは沈黙しなければならないといった人もいたが、それでもきっと語る方法はある。彼が一生をかけて追い求めてきたのはきっとそれなんだろうと思う。
 語らないことで雄弁に語る能の舞台や、描かないことで余白に何者かを語らせる山水画の技法。これら足し算ではなく引き算によって、逆説的に移ろいやすい(=フラジャイルな)ものを捉えるのが日本独自の方法である、と言ったのは松岡正剛であり、それが日本文学が世界に誇る独自性なのだとすれば、開高はおそらくそのひとつの到達点である。
 読む人によっては評価が分かれるようだが、自分は初期の荒削りなものより“ベトナム以後”の自然に向かってからの方が好きだな。とことん練り込まれて密度が濃いその文章からは、極限まで無駄を省いてあるにも関わらずなぜか(開高健が好きなワインに喩えるならば)「馥郁たる香り」が漂ってくる感すらある。

【人と作品】
 夫人である詩人の牧羊子と入れ替わりに洋酒の壽屋(現在のサントリー)に入社して、宣伝部で辣腕をふるい、在職中に『裸の王様』で芥川賞を受賞して本格的な作家活動に入る。その後ベトナム戦争に従軍記者として赴任し、反政府ゲリラの襲撃によって200名あまりいた部隊のうちわずか19名が生き残るという壮絶な体験をして帰国。この体験はその後の開高の作品に深い影響を与えた。後年は釣りを中心としたルポルタージュを多く発表した。1989年死去。

A&Bストルガツキー_My favorite 2

<マイベスト>
★『ストーカー』 ハヤカワ文庫SF
  *謎の存在が地球各地に残していった「ゾーン」と呼ばれる地域に違法に侵入して
   価値ある物体を盗んでくる、「ストーカー(密漁者)」達の苦悩とサスペンスを描く。
★『蟻塚の中のかぶと虫』 ハヤカワ文庫SF
  *「遍歴者」と呼ばれる謎の存在と、レフ・アバルキンという人物をめぐって
    緊迫した物語が展開する。
★『みにくい白鳥』群像社
  *「濡れ男」が出没する街を舞台に、旧世代と子供たちの溝が深まっていき
    やがてカタストロフィが...。
次点)
「リットルマン」群像社 ソビェート文学第45号(1973年)
『波が風を消す』 ハヤカワ文庫SF
『そろそろ登れカタツムリ』群像社
『滅びの都』群像社

 テーマ性といい小説としての完成度といい、まず『ストーカー』『蟻塚の中のかぶと虫』
『みにくい白鳥』の3作品の当選は揺るがないところ。シリーズとしては「リットルマン」『蟻塚…』『波が風を消す』という3作の組み合わせがずば抜けて凄いと思う。
 ちなみに通常はマクシム・カンメラーを主人公にした『収容所惑星』『蟻塚…』『波が…』を3部作としてとらえる向きが多いが、テーマの一貫性からすると『収容所惑星』を外して、「ソヴェート文学45号」に抄訳の形で紹介された「リットルマン」を加えた“遍歴者”3部作としてとらえる方がいい。なぜあんな凄い「リットルマン」という作品を群像社は本にしてくれないんだろう。あれが普通に読めるようになれば、“遍歴者”という謎の存在を狂言回しにした異存在同士の様々なコミュニケーションのあり方という視点から、ストルガツキーについての新しい評価がなされるのではないか?といっても、そんなこと気にするのは日本で数人しかいないかも(笑)。(この話、多分ほとんどの人が何のことか分からないと思うが、好きな作家なので書いているうちに自分で勝手に盛り上がってしまった。)
 コミュニケーションが成り立たない前提で、自分がどのように振る舞うか?もしくは理解すらできない存在を人類はどう捉えるべきか?という大上段で構える視点はレムの真骨頂であるが、あまりに徹底しすぎていて時に取り付くシマもないほど。その点、ストルガツキーは人間的苦悩を主題に置こうとしているだけ、より感情移入もしやすく読みやすい。ただし比較的読みやすいハヤカワ版にくらべ、群像社から出ている作品群は、ディープなストルガツキーが目白押し。ファンにはそれがまた堪らないんだけれど。

【人と作品】
 旧ソ連を代表するSF作家。日本文学研究家である兄のアルカジイと天文学者の弟ボリスの合作。レムがSFの枠を超えた存在だとしたら、ストルガツキー兄弟はあくまでもSFというジャンルにこだわったと言えるかも。しかしながら、深いテーマ性をもった彼らの作品は、ジャンルの枠どころかソ連という体制の枠にさえ収まりきれないスケールを持ち、その結果当局から何度も出版禁止の処遇を受けた。兄アルカジイは1991年に死去。
 ソ連崩壊後は紹介が長らく待たされた作品群が次々と翻訳・紹介され、噂どおりの傑作であることを示した。

スタニスワフ・レム_My favorite 1

★『ソラリス』国書刊行会
  *言わずと知れたレムの代表作。生きている海「ソラリス」を巡って形而上学的な思索と
   謎とスリルとラブストーリーと架空の博物誌が同居してなおかつSFであるという
   奇跡的な作品。
★『砂漠の惑星』ハヤカワ文庫SF
  *ある惑星で謎の失踪をとげた調査隊の救出に向かう宇宙船「無敵号」が遭遇する危機。
   小説のとっつきやすさでは一番かも。ラストに漂う何とも言えない物悲しさが好いなあ。
★『捜査』ハヤカワ文庫SF
  *死体窃盗事件を捜査する警察だが、事態はやがて不可解な様相を見せ混迷を深めていく。
★『天の声』サンリオSF文庫⇒国書刊行会(『天の声/枯草熱』)
  *小熊座の方角から届いたニュートリノによる通信(?)を解読しようとする取り組みと、
   それが挫折するまでを当事者の自伝の形で語る。何もドラマチックなことが起こらない
   のに面白いのは、読んだ時ホントに驚いた。
★『大失敗』国書刊行会
  *一時SFから離れたレムが再び復帰してから書いた最後の長編作品。長らく待った甲斐
   があった。

次点)
『宇宙飛行士ピルクス物語』 ハヤカワ文庫SF
『完全な真空』国書刊行会
『虚数』国書刊行会
『泰平ヨンの未来学会議』集英社
『エデン』ハヤカワ文庫SF

 『ソラリス』はロシア語からの重訳の『ソラリスの陽のもとに』ではなく、絶対にポーランド語版から直接訳した国書刊行会版が好い。これはレム作品の中でも別格として、そのほかでは『砂漠の惑星』『天の声』『捜査』と続き、そして『大失敗』で止めを刺す。これら5作は多分揺るがないとおもうが、後は次点として『ピルクス』『完全な真空』『虚数』『未来学会議』『エデン』あたりが出たり入ったりする感じ。『大失敗』は翻訳自体はあまりうまくないが、それを補って余りあるほどの面白さで一気読みしてしまった。ピルクスが第1部の主人公として出てくるのもファンサービスとしてとても嬉しいところ。まさにレムSFのラストを飾るにふさわしい大傑作だと思う。
 「レム節」とでも呼べばいいのか、欧米作家にはないレム独特のモチーフとして“不可知なものとの出会い”を描いて、「色々とトライする中で何とかなりそうな気配もするが結局なんだか分からない」というのがある。先に挙げた5作は全部そんなタイプの話で、いずれもレムらしさを満喫できるので大のお気に入り。もっとも『泰平ヨン』シリーズに代表される文明批評ものや『虚数』のようなメタフィクションも、たまに無性に読み返したくなるのだけれどね。

【人と作品】
 ポーランドの作家。ジャンル的にはSFの範疇に含まれる作品が多いが、それらが持つ深い思想性が世界中で高く評価されており、本国では国民的作家だった(らしい)。今の日本でいえば村上春樹みたいな感じか?
 住んでいた場所に因んで「クラクフの賢人」とも評された。2006年死去。
 作品は『ソラリス』『砂漠の惑星』『天の声』『大失敗』などの本格SF、『泰平ヨンの航星日誌』にはじまる“泰平ヨン”シリーズや『宇宙創世期ロボットの旅』などの寓話的作品、『捜査』『浴槽で発見された手記』『枯れ草熱』などのメタミステリ、そして『完全な真空』『虚数』といったメタフィクションに大別される。

『お気に入りについて』

 『前口上』にも書いたけれども、自分が好きなのは「自分にとって新しいコト(知識)」、「不思議な話」、「粋(イキ)なヒト/コト」の3つ。逆に苦手なのは①理不尽な筋運びで陰々滅滅とした話、②世間知らずや感情任せで行動する主人公の話など。まだ①でもカフカのレベルまで純化・結晶化が進めば大したものだし、②であっても「ビルディングス・ロマン(教養小説)」や「ピカレスク・ロマン(悪漢小説)」なら後半で救いがあったりいっその事突き抜けてしまったりで却って面白かったりする。一番いけないのは中途半端なもので、手に持てば何だかドロドロした感情の澱みたいなのがぼたぼた滴り落ちるようなのは最悪。
 また話は違うが、闘病記の類を読んで「生きる勇気をもらった」とかいう人もいるが、その手の本もどちらかといえば苦手。前向きに生きている人は別に病気になってなくても、読めばきっと勇気をもらえるような生き方をしていると思うし、どうせ読むなら「元気で前向きな人」の話を読みたい。そうでないと、のめり込んで最後まで読み進んだ挙句、読み終わってからものすごく落ち込むのが自分で想像できるから。
 『お気に入りについて』と言いながら、なんだか苦手なものの話ばかりになってしまった。(笑)
 自己啓発や勉強のために本を読むのは昔から大嫌いで、本はあくまでも楽しみのためにあると信じている「活字娯楽の原理主義者」なので、感情を(悪い意味で)大きく揺さぶられるようなものはご遠慮頂き、これからも“お気らく”に読めるものを読んでいきたいと思う。

<追記>
 今後、My favoriteと題して自分のお気に入り作家やお気に入りジャンルについて、ボチボチと触れていきます。その結果がボルヘスならぬ自己流の「バベルの図書館」になるのか、はたまた「無人島に持っていく○○冊の本」になるのか、さっぱり想像もできませんが。
 取り上げていく作家は、まず自分の中で『殿堂入り』(笑)している人たち。ちなみにこの人達は新刊が出たらほぼ無条件で購入。ついで『一部リーグ入り』の人たち。こちらはヒット率は高いがたまに外す事があるので、一応内容を見て判断。残りはおそらく作家ではなく単独の作品を集めたモノになるかも。ジャンルはフィクションを始め、学術系やノンフィクション、エッセイなどその他いろいろの予定。詳しくは書きながら考えます。
なおあくまでも個人的な思い入れを含んだ評価による選択なので、一般的な評価とは必ずしも一致しない点もあるので悪しからず。

『文学全集を立ち上げる』 丸谷才一/鹿島茂/三浦雅士 文春文庫

 アンソロジーや全集を編むのは、本を読むことが趣味の人間にとって一番に楽しい行為だと思う。ああでもないこうでもないと3人が議論を交わしながら作品を選んでいく過程は最高に面白かった。ただしその結果出来あがったリストには大いに異論があるが。それは「ちくま日本文学」で自分が好きな作家の巻を読んだ時に感じるのと同じ種類のもどかしさ。丸谷才一や三浦雅士とは、根本的に趣味が違うのだろう。(ちなみに鹿島茂とは結構合うところもある。)
 「今よんで面白くないものは大作家の著名作品でも外す」という方針は大変結構。それを突き詰めると不満は作家・作品の選択に対する考え方の違いという点に収束していく。しかし“アンソロジー”ならそれで良いが、“全集”では「そのコンセプトにあった代表作を選ぶ」という、“全集”であるが故の縛りがでてくるため、入れたくないのに選ばなければいけないというジレンマがある。突き詰めると教条主義に陥ることになるので、どこでバランスをとるかが腕の見せ所だろう。
 「サブカルチャーも入れる」という考えも良いとは思うが、所詮中途半端に終わるのであれば、入れない方が良かったのではないか?例えばSFではレム、バラード、ディックを選んでおり、それぞれ『ソラリスの陽のもとに』『結晶世界』『ヴァリス』を選択しているが如何なものか。選択が(間違ってはいないにせよ)表面的過ぎて掘り下げも出来ていないし面白くない。せめてポーランド語の原典から訳した国書刊行会の『ソラリス』を選ぶくらいのこだわりを、他の文学作品と同じレベルで持って欲しかった。(ロシア語版では削除された部分も載っているし。)その知識がないのならサブカルチャー作品を選ぶこと自体を止めておくべきだとおもう。ミステリ系の代表作として選ばれているル・カレの『寒い国から帰ってきたスパイ』についてもしかり。やっぱりサブカルはサブカルで分けて、日下三蔵や新戸雅章らに任せてしまった方がいいんでないの?

『暗黙知の次元』 マイケル・ポランニー ちくま学芸文庫

 全体は3つの章に分かれていて、第1章は個人の認識、第2章は生物全般、そして第3章は社会に関することを主題に述べている。第2章の前半までは非常に素晴らしい内容だったが、そこから突如“トンデモ本”へと変貌を遂げた時にはちょっと唖然としてしまった。続きを読んでいくうちに徐々に分かったが、ポランニーは進化論の自然淘汰説を支持していない。まだ明らかになっていない何らかのルールが存在し、それが最終的には精神や倫理を頂点とする生物進化の階梯を作り上げることを主張している。事の是非はともかくとして、そういう理屈ならこのような話の展開も致し方ないと一応の納得はした。
 まずは、非常に感心して読んだ前半について。ここでは個人の認識における「暗黙知」の存在が明らかにされる。元々が科学者なので論旨は明快でとても分かりやすい。
筆者の定義する「暗黙知」とは、まとめると次のような意味。
●『なぜ?』と言われてもうまく説明は出来ないが、とにかく“分かっちゃっている”こと。
例えば①相手のしぐさや表情から、相手の気持ちが有無を言わせず手に取るように分かってしまうこと。また②ある2人の顔を見て、親子だと一目で気づくことなど。(今までは、このような意味ではなく“不文律”というか、いちいち言葉にされなくても皆が共通してもっている認識のことだと勝手に勘違いしていた。やっぱり原典にあたるのは大事。)
なぜ、言葉で説明されなくても見た瞬間に正しく理解できてしまうのか?(=“不意の確証”の訪れ)その理由は分からない。ただ、顕在化して意識される個々の認識の下には、それを支える潜在的な暗黙知があると仮定しないと説明がつかないのは確か。個々の認識を島に喩えるなら、暗黙知は無意識の海の底に広がる海底のようなものか。その点では、全てを意識による認識からスタートするデカルトやカントに対して、フッサールが現象学で唱えた疑義にも共通するかもしれない。またポランニーは次のような特徴も述べている。
●“分かっちゃっている”ことは、一つの対象に関してひとつではなく複数あり、下位から上位まで階層を作っている。
 例えば①言語には発話⇒単語⇒文法⇒意味というように単純から複雑へという流れがあること。②チェスはコマの進め方⇒試合という階層があること。そして筆者は、顕在化されている下位の階層の概念からは決して上位の階層は導き出せず、何らかの包括的な仕組みを仮定しないと説明がつかないと主張し、それを「創発」と呼ぶ。
 ここまでの論旨はとても納得がいく。包括的な仕組みが何なのかは分からないとも言っているし、認知論としては極めて真っ当だと思う。ただこの“包括的な仕組”を突き詰めていくと、人によっては「神」と呼んでいるものではないのか?という疑問も頭に浮かぶ。そしてこの本における問題点は第2章に入って一気に表面化する。
 筆者が第2章で述べているのは、暗黙知という言葉で定義した“包括的な仕組み”を、個人の認識論から生物界の進化にそのまま適用しようという主張である。これはいくらなんでも無理があるだろう!
 この包括的な仕組みによって、バクテリアから人間へと続く進化の階梯が形作られたと筆者は力説する。自然淘汰などという理屈ではキリンの首がなぜ長いかは説明がつかないというのは感覚的には理解できなくもないし、ラマルクの「用不用説」のような単純な進化論擁護には当時の批判も多かったようだが、だからといって一足飛びに“包括的な仕組み”によって物質から倫理意識への進化の階梯が作られたというのは、いくらなんでも乱暴だろう。
 なお第3章はそれらを踏まえて社会意識に関する章なので、自分にとってはどちらでもよい話題なので感想を割愛。とりあえず、第1章だけでも読む価値あり。
<追記>
 池谷裕二の『進化しすぎた脳』などによれば脳の記憶にはa)知識記憶、b)エピソード記憶、c)手続き記憶の3種類があるのだという。それに倣うと、顕在意識はa)知識記憶として記憶され、暗黙知はb)エピソード記憶として記憶されるものにあたるだろう。

『ホモ・ルーデンス』 ホイジンガ 中公文庫

 ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』の時も感じたが、これら西洋で定義されている所謂“play”と、日本(東洋?)の“遊び”という言葉に含まれる概念とは、にて非なるものだと思う。したがって彼らがいくら精緻に考察を加えようが、いやむしろ分析をすればするほどそこから漏れ出てしまうものに違和感を感じてしまう。ヨーロッパにおいては必要十分かもしれないが...。
たとえば、“play”にあたる言葉で包含される概念は、『遊びと人間』においては次の4要素。
「競争(アゴン)」  …運動競技全般、チェスなど
「偶然(アレア)」  …籤やじゃんけんなど
「模擬(ミミクリ)」  …人形遊び、演劇、物まねなど
「眩暈(イリンクス)」 …メリーゴーランド、ブランコ、スキーなど
 そして『ホモ・ルーデンス』においては、「(実生活の制約やルールから)自由であること]「本物ではないこと」「(行われる時間や空間が)区切られていること」として定義され、それ以降の分析がなされている。ここには日本語の“遊び”からまず真っ先にイメージされる「泥遊び」や「鬼ごっこ」「かくれんぼ」といった一連の子供の遊び、「歌合せ」「句会」といった中世から伝わる文化的遊び、沖縄の「もうあしび(毯遊び)」や合コンなど男女のコミュニケーションに関する遊びは一切考察から抜け落ちている。また、日本語の“遊び”に含まれにくい活動として一連のスポーツが含まれている。ラテン語系の言語における、動詞としての“play”に含まれる「スポーツ競技をする」「楽器を演奏する」「(いわゆる)遊ぶ」という概念と日本語の動詞“遊ぶ”が意味する範疇が違っていることがその原因だろう。
 機械や歯車における“遊び”というように、日本語においてはこの言葉のもつイメージは、日常生活や本来の機能を果たす上で最低限必要な活動・性能に対する“余裕”とか、“ケ(穢、汚)”に対する“ハレ(晴)”とか、プラスアルファや付加価値の意味合いが強い。この部分が抜けてしまうと、読んでいる間中、ちょっと違うな?という感じを持ち続けることになってしまう。
 筆者は第2章において、ヨーロッパ諸言語や中国語、日本語、ネイティブアメリカンまで含んだ各言語における、「遊び」を意味する単語の比較分析をせっかく試みているのに、「遊び(play)」という単語が最も広い意味を持って使われているヨーロッパ諸言語が、世界の言語のなかでも最も進んでいるという結論を下している。
 当時の西洋の”最高知性”においてさえ限界がみえてしまうということの難しさと、その後の人類学の進展の中で獲得された、違う文化圏の考え方や価値観による相対的な物の見方を身につけることがいか重要な成果であったかということが、とてもよくわかる。
しかし、結局“遊び”とは何なんだろうか?
 レヴィ=ストロースなら果たして遊びを何と定義するのだろうか?もっとも、とっくにどこかで書いていて、単に自分が知らないだけか。(笑)
<追記>
 結局のところ、フレイザーの『金枝篇』のように、この当時(20世紀初頭)にはまだ人類学的な思想・研究は未発達で、いわゆる“安楽椅子”的な研究が主流だったということか。それとも進化論を生物学だけでなく社会学にまで応用しようとした当時の風潮の弊害なのか?初めに頭の中に結論があり、それを補強する形で証拠をあげていくというのは、今の知識でみるとどうしても牽強付会の感が否めない。石田英一郎の『桃太郎の母』においてもそんな印象はあるしたわけだし、まあ致し方ないのだろう。

『てりむくり ― 日本建築の曲線』 立岩二郎 中公新書

 松岡正剛の連塾で紹介されていた本。日本固有の建築デザインであり「むくり(=凸)」と「てり(=凹)」の2つの曲線を組み合わせてつくる。銭湯の入り口や神社などの屋根に見られる、アヒルの口のように中央が盛り上がって両側がいったん下がってから端が少し持ち上がる曲線のこと。著者は単に建築手法のことを書きたいのではなく、それを通じて異なる2つの価値を組み合わせるという日本独特の思考方法に想いを馳せる。惜しむらくは、てりむくりに対する強い思い入れによって、強引すぎるアナロジーを駆使するあまりに筆が走り過ぎ、最終章に至ってはついに読者をおいて著者だけがはるかかなたに暴走してしまっている。残された自分は茫然自失(笑)。
 松岡正剛はこの本からもっともおいしいところだけを抜き出して分かりやすく説明しており、正直言って『連塾』や『日本という方法』を読めばこの本自体は読む必要ないかも。もっとも松岡正剛がこれらの本で語っている日本の特長「デュアルスタンダード」や「きそい・あわせ・そろい」などは彼のオリジナルかと思っていたが、この本に(もっとまだるっこしい書き方ではあるが)すでに述べられていたのが意外だった。ただし「パクリ」ということではなく、換骨奪胎してもっと深くした内容をもっと分かりやすく述べられている。様々な素材を縦横無尽に料理する手腕は、まさに編集工学おそるべしといったところか。

『都心ノ病院デ幻覚ヲ見タルコト』 澁澤龍彦 学研M文庫

 澁澤龍彦のエッセイは何度読み返しても面白い。自分の好きな事しか書かないので筆が生き生きしており、読んでいて気分が好い。衒学的なところは好き嫌いが分かれるかもしれないが、少なくとも自分にとっては趣味が似通っていてとても楽しめる。興味が共通するところとしては、①(広義の)幻想文学、②一風変わった人物、③絵画や芸術など3点ほどか。もちろん個別の作家についての趣味嗜好は違うところもあるが。
 それにしても、自分の知らない作家や作品が世の中にはいかに多いことか。まだまだ「修行」が足りない。

『聖書の起源』 山形孝夫 ちくま学芸文庫

 講談社現代新書が絶版になってからの移籍で、新書の時には未読だった。日常生活には全く何の役にも立たないけれど、内容はめっぽう面白いという、まさにこれは「教養のため」の本の一冊。立花隆が薦めるような社会生活を営むのに必要な素養ではなく、純粋な好奇心としての教養であり、読んでいて心地がいい。
 内容は、聖書を信仰の対象としてではなく一つの研究対象として分析し、古代キリスト教の成立過程を探るというもの。まず一つ目の驚きは、どのようにして多神教世界だったシナイ半島で一神教であるユダヤ教が成立したか?という説明。それは都市居住者でもベドウィン(遊牧民)でもない牧畜民のユダヤ12氏族が、わが身を守るために団結するために必要とした象徴だった。そして「汝~するなかれ」で有名な十戒は、当時のユダヤ民族の言語では「~してはいけない(禁止)」と「~するわけはない(意思表明)」が同義だったというくだりはまさに“目からウロコ”。人類にとって一神教の発明は文字の発明に匹敵するほどの影響を与える大発明だったと思うが、今まで疑問だったその成立過程が何ら神秘的な誤魔化しもなく論理的に説明されている。
 2つ目の驚きは歴史上の実在人物であるイエスが、いかにしてキリスト教の信仰対象として祀り上げられていったか?という説明。成立時期が互いに異なっているマタイ、ヨハネなどの各福音書において、それらの中の同じエピソードについて記述の違いを緻密に分析することで、後世どのようにイエスの言動が脚色され、一つのストーリーに沿って編集されていったか、その痕跡が手に取るように見えてくるというくだりは、これまた“目からウロコ”。イエスが行った様々な奇跡が、当時盛んだった治癒神信仰やユダヤ教のラビの伝承との関連で説明できてしまうあたりは、まさに読んでいてゾクゾクしてくる。
 まるで網野善彦の著作を読むかのように、教科書や受験のための知識ではなく本来の“知の道具”としての歴史学は、スリリングで面白いものだということがよくわかる。

『次に来るメディアは何か』 河内孝 ちくま新書

 題名を読んで勘違いしてしまったのが敗因だった。「これから伸びていくであろう新しい情報技術をネタに、将来の生活がどんな風に変わっていくかを敷衍する本」だろうと想像して買ってしまったが、全く違っていた。勝手に意味を読み違えたこちらに非があるんだが、ちょっと題名に偽りがあるんじゃないかと文句をいいたい。この題名でも確かに間違ってはいないが、正しくは「次のメディア」ではなく「日本国内の今のメディア(のビジネスモデル)はこれからどうなるか」だろう。著者履歴をもっとキチンと読めば良かった。前に読んだ『新聞社-破綻したビジネスモデル-(新潮新書)』と同じ、毎日新聞の元常務だった人だ。とすればガチガチに文系なので、技術の話が書かれた本ではないことくらいすぐ分かったろうに。
 でもまあそのつもりで読めば、サクサク読み進めるし要領よくまとめてあるので、さほど貶すほどでもない。可もなく不可もなくというところか。惜しむらくは筆者の興味が新聞/テレビ/インターネットの3つのメディアに限られていること。したがって新聞業界の現状については前に読んだ同著者の『新聞社』と同じだし、テレビについては同じく前に読んだ『電波利権(池田信夫・新潮新書)』の内容に依るところが大きいので、新鮮味がなかった。
要点を簡単にまとめると、”①新聞もテレビもインターネットのせいで売上げが減るので、水ぶくれ体質のせいで淘汰されていく。”、”②生き残るために、様々なメディアを経営統合した「メディア・コングロマリット」が進む。(これは今のアメリカでおこっていること)”ということ。
 今の「メディア・コングロマリット」には弊害もあるので、いいところだけを真似して「メディア・インテグレーター」を目指すべきだというのが筆者のオリジナルの主張のようだが、肝心の「メディア・インテグレーター」が何なのかはっきり書いてないのはダメだろう。それとも著者も明確なイメージを持っていないということだろうか?

『誰も知らない 世界と日本のまちがい』 松岡正剛 春秋社

 「資本主義は理想の社会体制なのか?」「違うとすればどこがまずいのか?」「そしてどこで間違ったのか?」...
 魅力的な疑問を本の頭にもってきて、松岡正剛は例のカッコイイ文体であちこち寄り道をしながらも、その論証を力強く進めていく。しかし、読み進んで最後の一文を読み終えたとき、達成感とともに、何かまだ読み足りないような感じも残っているのに気がつく。正剛の本はいつもそうだ。『山水思想』も『フラジャイル』も、そして『ルナティック』『日本という方法』もすべて。読んでいる途中は抜群に面白く、論旨に引き摺り廻される快感、ジェットコースターのようなわくわく感がある。しかし最後まで読み進んだ時、そこに待っているのはその本のゴールではない。最終的な結論があるような無いような、不思議な読後感にむしろ、「これで終わってしまっていいのか?」とも思える戸惑いが生まれる。この感じを何か別のものに喩えるなら、まるで未完のまま中断してしまった大仏次郎の大河小説『大菩薩峠』や、国枝史郎の伝奇小説『神州纐纈城』に近いのかも知れない。もしくは宮田登の本を読んだ時のように。
 宮田登の著作も、(少なくとも今まで読んだもので判断する限りは、)同様に最終的な着地点がない。彼の場合も、曲がりくねった道をあちこち連れ廻され、その間はとても楽しい思いをするのだが、ページが残り少なくなっていき、最後はどこに行くのかと思ったら突然立ち止まってそのまま。宙ぶらりん。とは言え、今まであげたどの本も途中が抜群に面白いんで、別に不満はないのだけれどね。
 宮田の著作が、本人の意図とは別のところで結果的に着地点がないのに比べ、松岡正剛の場合は、自分でわざと意識して結論出しを避けている節が感じられる。論旨を積み重ねることで主張を形作るという“足し算”ではない。ひとつひとつの論旨は「○○ということがある。」「××ということもある。」といった明確なものではあるが、それらはただ羅列されるだけで、必ずしもつながって意味をなしてはいない。しかしそれらの論旨を補助線として離れた所から眺めると、実は素描のようにある形を作っているということなのかも知れない。(ただ自分には、未だその形がはっきりと見えてはいないのだが...。)これではまるで、著作で述べている「日本という方法」つまり「“主語”ではなく“述語”としての日本」を、著作を記すうえでも自ら実践しているようではないか。これが意識してとっている戦術なのか、それとも無意識のスタイルなのかはこちらの理解力の不足もあって、よく分からないが。
 “引き算”という考え方、結構面白い。ただ、どこまで成功しているかは別。
<追記>
 歴史学の泰斗である、網野善彦の著述スタイルと好対照。網野の場合はまず冒頭で主題および結論(仮説)が提示される。結論はシンプルかつ今までの通説をドラスティックに変えるものであり、とても興味深い。そしてその後は、先述の仮説を論証する作業がこれでもかというくらいに続く。「こんな証拠がある」「こんな証拠もある」「別の角度から見るとこんなものも」と、次々挙げられていく根拠の数は、もしかすると1冊あたり100を超えるのではないか? いい加減いやになることも(笑)。
 一方で松岡の場合、冒頭ではっきり「こんなテーマです」とは言うが、その後は事実の羅列はあっても「こんなことがある」というだけで、「それはこんな証拠です」とは決して言わない。

2010年2月の読了本

『クレオール主義』今福龍太 ちくま学芸文庫
  *人類学者による刺激的な評論
『聖書の起源』山形孝夫 ちくま学芸文庫
  *聖書へのアルケオロジー(考古学)の実践による、キリスト教成立の考察
『ホック氏の異郷の冒険』 加納一朗 角川文庫
  *S・ホームズへのオマージュにして大傑作。ずっと探してたが古本でやっと見つけ、
   すかさず読了。
『武士道』 新渡戸稲造 岩波文庫
  *外国人に向けた日本思想のPR書
『二十世紀の知的冒険』 山口昌男 岩波書店
  *”知の巨人”による様々な分野の論客との対談集
『文学全集を立ち上げる』丸谷才一/鹿島茂/三浦雅士 文春新書
  *架空の文学全集を編纂する過程をそのまま本にした対談集
『暗黙知の次元』マイケル・ポランニー ちくま学芸文庫
  *科学者でもあるポランニー(弟)の思想書
『てりむくり』立岩二郎 中公新書
  *日本独自の建築様式「てりむくり」を通じて日本思想を考察する野心作
『タフの方舟1 禍つ星』ジョージ・R・R・マーティン ハヤカワ文庫
  *技巧派の著者によるオーソドックスなSF連作短篇集(2分冊)の一巻目
『新釈雨月物語 新釈春雨物語』石川淳 ちくま文庫
  *『至福千年』『狂風記』の作者による、怪奇小説の古典的名作のリライト
『明恵 ― 夢を生きる』河合隼雄 講談社+α文庫
  *ユング派の心理学者が、鎌倉時代の名僧の夢日記である「夢記(ゆめのき)」を考察
『跳躍者の時空』フリッツ・ライバー 河出書房新社
  *マニアックで根強い人気を保つF・ライバーの短編集、日本オリジナル編集

2010年1月の読了本

『南方マンダラ』 南方熊楠/中沢新一(編) 河出文庫
  *南方コレクションの1巻目、土宜法龍(僧侶)との往復書簡集
『激動するアジア経営戦略』 安積敏政 日刊工業新聞社
  *仕事の関係で読んだ本、高いから自分では買わない(笑)
『トポロジーの世界』 野口廣 ちくま学芸文庫
  *現代数学の一分野である「トポロジー」の入門解説書
『NOVA1』 大森望(編)
  *日本のSF作家のオリジナルアンソロジー
『老化はなぜ進むのか』 近藤祥司 講談社ブルーバックス
  *老化のメカニズムについて最新の研究成果を紹介
『ああ。二十五年』 開高健 光文社文庫
  *エッセイ選集の一冊、初文庫化
『へリックスの孤児』 ダン・シモンズ ハヤカワ文庫
  *『ハイペリオン』『エンディミオン』シリーズの番外編入り短編集
『次に来るメディアは何か』 河内孝 ちくま新書
  *マスコミ・ジャーナリズム系の解説書
『沖縄通い婚』 下川裕治(編) 徳間文庫
  *沖縄フリーク達のエッセイ集
『猫町』 萩原朔太郎 岩波文庫
  *詩人である著者の散文作品のみ集めた作品集
『活字たんけん隊』 椎名誠 岩波新書
  *岩波新書で出ているシーナの「活字シリーズ」の最終巻
『マーケティングを学ぶ』 石井淳蔵 ちくま新書
  *マーケティング理論の研究者による実践的な入門書
『汚穢と禁忌』 メアリ・ダグラス ちくま学芸文庫
  *人類学の名著、民族社会における”区別(聖別)”の研究
『ユング心理学と仏教』 河合隼雄 岩波現代文庫
  *「心理療法コレクション」の5巻目(このシリーズ、どれもハズレ無し)
『都心ノ病院デ幻覚ヲ見タルコト』 澁澤龍彦 学研M文庫
  *”ディレッタント”の筆が冴えわたるエッセイ集
『夜鳥』 モーリス・ルヴェル 創元推理文庫
  *かつて雑誌「新青年」に掲載された”奇妙な味”の作品集

『ぼくらの頭脳の鍛え方』 立花隆・佐藤優 文春新書

 二人とも文句なく“凄い”人なんだけど、その“凄さ”は少なくとも自分には必要ないものに思えてしまう。たとえば『教養』という言葉の捉え方においても、自分は“人生”(というのが言い過ぎなら”生活“)を楽しみ、より充実して過ごすための手段と考えているが、どうやら彼らにとって『教養』とは、それ自体を取得することが人生の目的であるようだ。二人からは読み方が浅いと言われてしまうのかもしれないが、少なくとも「全人的」なるものを目指すといった発言を読み進んでいくうち、「なんか違う」という違和感が段々と膨らんでいくのは事実である。
 二人の発言に感じるもうひとつの違和感は、彼らが目指す「全人」というのがどこを最終のゴールとしているか?という点。必須の教養として軍事に関する知識や戦前の右翼の思想書を紹介されても困惑してしまうだけである。「○○を理解するには必須の参考書」とか「○○思想の限界を知る上で重要」とか言われても、「そもそも理解する必要はあるのか?」と感じてしまう以上、今後おそらく本屋で見かけたとしても手を伸ばすことはないだろう。複雑化した現代社会を完全に理解するためには、超人的な知識量と理解力が必要になるのは分かるし、自分にはそこまでの素質がない事も充分理解している。でもその上でこれだけは言っておきたい。世界の全てを理解することが目的ではなく、大切なのは「何のためにそれらを理解したのか?」ということではないのか。
 現代社会のあらゆることを完璧に知ることなど不可能な以上、理解することが目的である限り本来のスタート地点に立てないのではないのか。いつまでも自らの特権的な立場を守りつつ、批判や評論を繰り返すことに終始するだけではないのか...。折角の教養もそれでは単なる宝の持ち腐れだろう。なにしろ、文句ばかり言ってるだけじゃ人生つまらない。
 正しい知識をもたず盲滅法に暴走してはダメだが、やはり行うべきは評論ではなく創造ではないのだろうか。そういった意味で、竹田青嗣や柄谷行人は(いろいろと揶揄・批判する人はいるかも知れないが)やはり偉いと思う。べつに立花隆自身が嫌いになった訳ではないけれど、これからはこの人の新作を読まなくなりそうな気がする、そんな予感に満ちた読後感の本だった。

<追記>
 立花隆は『サル学の現在』や『サイエンス・ナウ』『精神と物質』『臨死体験』のような、科学・医学系のノンフィクションが一番好きだな。政治が絡むとどうしても主義主張が出てくるので、納得できないと読むのに結構つらいものがある。

『探求Ⅰ・Ⅱ』 柄谷行人 講談社学術文庫

 柄谷行人の文はとても明解で文意がわかりやすい。哲学・思想書の類はわざと(?)回りくどい表現をしたり、どうみても作文が下手としか思えない文章を垂れ流す輩が多いが、少なくとも柄谷においては文章の意味を測りかねることはない。その上で中身についてだが、これも面白かった。
 従来の多くの議論は、いわゆる「概念的」だとか「共同」という言葉で表現される、いわば“共通のルール”を暗黙の了解にしていた、ということが多くのページを割いて執拗に追及される。そして、問題はそこではなく、まったく共通ルールがない真の意味での「外部」との出会いをどう認識するか?(ここの所、うまく表現できないが...)という点にこそ、昔から数多くの思想家達が追及してきたテーマの隠された主題があり、その点に気づいていたのはデカルト、スピノザ、ニーチェ、そしてマルクスやヴィトゲンシュタイン(=「言語ゲーム」)など一部の思想家にすぎなかったと柄谷は言う。とてもスリリングで説得力のある論考で、ひとつひとつ積み重ねられる論証を読み進めると、非常に納得感がある。
 コミュニケーションに着目したとき、共通の「言語ゲーム」に参加していない対象とのやりとりは、『資本論』でマルクスが論破したようにまさに“命懸けの飛躍”が必要なのだという件は、西洋的な考えが世界中を覆い尽くしている今、そして過去の思想的遺産と断裂してしまっている自分たちを振り返ってみたとき、この閉塞感を打ち破る一つの手段として重要なものかもしれない。松岡正剛を呼んで面白いと思える理由にも実はつながっているのかも。
 共通認識がいかに構築されるかという分析は、『マーケティングの神話』で感じたことともつながっている。(社会文化やその時代時代の常識は、運動会の大玉ころがし競技でつかう大玉のようなもの。皆でささえているため、一人が動かそうとしてもすぐには動かないが、全員が加える力によっていかようにも移動していく。)
 また、SFでいえばおそらくレムかストルガツキー兄弟くらいしか、この点についての認識をもって物語を作っていなかったように思える。もっとも、ストルガツキーは不完全な形でしか掘り下げてはいなかったが。

『新釈雨月物語 新釈春雨物語』 石川淳 ちくま文庫

 この本を読んだ理由は2つ。ひとつは本邦幻想文学の傑作『雨月物語』が、石川淳の手によってどんな風に仕上げられているか?そしてもうひとつは原作が絶版で読めない『春雨物語』はどんな話なのか?このふたつを確かめてみることだった。
 ひとつめの『雨月物語』については、格調高い原文の雰囲気はそのままにサクサク読めて快適だった。どの物語も傑作だがとくに「白峯」「吉備津の釜」「青頭巾」なんかは最高。こうなると昔読んだ時の記憶に頼るばかりでなく、上田秋成による原作にも直接あたって読み比べしてみたくなる。なお後書き代わりに収録された「秋成詩論」の中で石川は、「菊花の約」の原作の冒頭にある一文を、読者に誤解を招く無駄な文句であるとばっさり切り捨てているが、自分の記憶と今回の新釈版では全く印象が変わらなかったので、そこまで言わなくてもという気もする。きっと一文ずつ比較すると細かいところが違っているんだろうとは思うし、それが筆者のこだわりなのだろうと思うが、自分のような鈍感な読者にはあまり意味をなさないかも。結局、原作がもともと良かったから面白かったのかリライトが良かったのか分からなかった(苦笑)。 また「菊花の約」については、そもそもの元ネタである『聊斎志異』も一緒くたにして3つ巴で比べてみたい気もするが、2冊とも本を仕舞ってある段ボールの山から探し出さなければいけないし、“お気らく読書”なのでそんな面倒なことはしない。記憶を反芻して楽しむだけ。
 ふたつめの『春雨物語』については、絶版になっている理由がだいたい分かった。筋運びがあっさりしすぎて、雨月のようなものを期待するとちょっと戸惑いがある。起伏がなく淡々と進む物語は、星新一の時代小説を読んでいる時のような不思議な感じがする。それがぴったり嵌まって傑作に仕上がったのが、石川淳も述べているように「樊噲(はんかい)」である。これなら無理して絶版の原作を探すまでもないかな。

『種の起源(上/下)』 チャールズ・ダーウィン 光文社古典新訳文庫

 読んで良かった。なぜ西洋で博物学(=分類の学)が発展したか分かった。これほどの種が世界にあふれている理由に「創造主の意図」を見ようとするキリスト教的な価値観があるとは...。言われて初めてわかる、まさに目からウロコが落ちたおもい。その一方で、種とは単に似たモノ同士を集める恣意的な判断基準を人間が作っただけに過ぎず、似たモノが発生した理由を考えることに意味はないという主張もあり、両極端な二つの議論がかみ合わないまま存在していたようだ。そんな時代背景だったということに気づいてから改めてこの本の流れに注意してみると、神という特権的な存在を規定しなくても、「変種の発生」と「自然選択(淘汰)」という基本原理だけで全てが説明できるのは我々が現在考える以上に、まさにパラダイムシフトとでも呼ぶべき衝撃的な出来事だったに違いない。しかもダーウィンは自らの理論の弱点(=説得力に欠けそうな部分)を予め全て洗い出して論駁を加えており、まさに隙がない。時に冗長な部分がみられるのも致し方ないと言える。
 なお生物の淘汰は環境ではなく、同一地域の生物同士の競争によるものだと説明されていた事も知らなかった。食うか食われるかではなく、長い年月をかけて徐々に生息数が減っていき、やがて最後の個体が寿命を迎えることで絶滅するのがダーウィンの言う「淘汰」だったとは。やはり原典に直接あたるのは大事なことだ。
<追記>
ちなみに東洋においては中国思想がやはり基本だろう。とすれば自然界を区分する思想の基になっているのは宗教感ではなくもっと自然な、いわゆる“同族は似ている”というところにあるのではないか?(根拠があるわけではなくただの直観)。であれば「羽のある動物一族の頂点は鳳凰」「四足の動物一族の頂点は麒麟」という具合に、神の意志など想定しない感覚的な区分が自然。厳密な分類は必要ではなく、せいぜい『本草綱目』や『山海経』のように効果効能や面白さを基準でカタログ作りをする程度が博物学の在り方だったのも納得できる。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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