『ちょっとピンぼけ』 ロバート・キャパ 文春文庫

 世界的な報道写真家であるキャパが、1942年から45年の欧州大戦に従軍した際の記録。戦争の実態が、軍人とはまた違った視点で語られている。ノルマンディ上陸作戦やパリ解放といった歴史的エピソードが、淡々としたさりげない口調で語られていく。彼と親交のあったスタインベックやヘミングウェイといった人たちが、おまけのように元気な姿をみせるのが嬉しい。
 中身はといえば、ひたすら待ち、移動してまた待つ、そしてときおりの戦闘と、それらの繰り返し。情報の制限と欠如による、憶測と錯綜の中、明日をも知れない暮しを続ける兵士と従軍記者たちは、戦闘の合間には酒とギャンブルに浸る……。卑近な喩えで恐縮だが、テスト前になるとつい漫画やテレビを見るのに似た状態の極端なのが、ずっと続いている感じだろうか。一種の躁状態でもある。
 本書においてキャパの飄々とした文章は、救いのない状況を描きつつもユーモアさえ感じさせるが、それが却って逆説的に戦争の本質を浮かび上がらせているようだ。例えば当事者しか体験し得ない、戦闘における兵士たちの恐怖と高揚感、あるいは生き残った人間の罪悪感などが抑えた筆致で効果的に描かれる。(*)

   *…戦時の心理については過去から多くの作家が取り上げているが、なかにはそこ
      から離れられなくなる人もいるようだ。開高健が『戦場の博物誌』あるいは
      『歩く影たち』といった作品で描き、自らが取り込まれるのを恐れたのもその
      心理状態であるに違いない。本書を読むとそのあたりが何となく理解できる
      気がする。

 ジョン・スタインベックによる序文も良い。とりわけシリアの件ということではないが、この時節柄、戦場にジャーナリストが赴くことの意味についても色々と考えさせられた。“果てしない激情の広がり”である戦争そのものを映像に写すことは不可能だが、その外にある被写体を撮ることによって、それを伝えようとすること―― これは(戦争に限らず)様々なテーマで文学が実現しようとしていることなのではないだろうか。
 明示することの出来ないものを行間に表現する。言葉に出来ないものを、あえて示さないことによって暗示させる。写真については全くの素人なのだが、こうしてみると優れた写真とは優れた文学に等しいのかもしれないね。
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『近代化と世間』 阿部謹也 朝日文庫

 副題は「私が見たヨーロッパと日本」。地味な書名だが(失礼!)中身はすこぶる面白い。著者は中世ドイツの文化や賤民意識を通じて西洋社会の成り立ちを研究した人で、『ハーメルンの笛吹き男』や『刑吏の社会史』などの著作はとても好きだ。晩年は興味の対象を日本の歴史意識まで広げて(というか立ち返り?)、「世間」という言葉をカギにして日本社会に関する様々な文章を著した。本書はその集大成とでもいうべきエッセイで、2006年に刊行され最後の著作となった 元々は朝日新書で出ていたのだが、今回の文庫化により多くの人が手に入れやすくなったのは良い事だと思う。
 全体は3つの章に分かれていて、第1章一は西洋の中世社会おいて共同体のもつ意味と賤民意識の誕生、もしくは共同体からの追放といった、著者がこれまで研究してきたテーマの大まかなおさらいになっている。次いで第2章では舞台を日本に移し、明治以降の日本社会が拠りどころとしてきた「世間」という概念と、そこで重要視される「贈与・互酬」という価値観について考察する。最後の第3章は少し毛色が変わり、日本哲学学会での講演を文章に起こしたもの。西洋と日本の歴史に対する意識の違いについて、(第1章・第2章と若干重複する部分はありながらも)その概要について簡潔にまとめられている。
 では第1章から順に印象に残ったところを紹介していこう。

 ヨーロッパにおいて共同体を一歩出ると、その先に広がっている“森”は「生者の領域」である村落と異なり、狼や死者が跋扈する「存在の夜の領域」であったそうだ。(日本の場合は、小松和彦氏による“異界”という表現がぴったりくるだろうか。西洋とは違って必ずしも人間社会に敵対するものではないと思う。)
 9世紀頃のゲルマン共同体では、許されざる罪を犯した者は「平和喪失者」を宣告され、オオカミの皮を着せられ或いは頭から被せられ「wargus/人狼」として森へと追放される。人間と動物もしくは生者と死者の境界が無い社会において追放された者は生きながら死者と見做され、その時から妻は寡婦、子供は孤児とされる。共同体からの追放とは当人を生者の領域から「夜(死者や魔)の領域」へと排除する行為を意味し、そのシンボルこそが森であったのだという。
 しかし追放された者が必ずしも全て死に至ったわけでもないようだ。「人外」とされた彼らは時に徒党を組んで人間社会に敵対し、森から生者の村に介入して復讐を為したとある。もしかして村人によって“平和喪失宣言”を宣告され追放された者は、人外になると同時に意識まで変容してしまったのかもしれない。そして彼らが訪れる四旬節や十二夜(=“狼の時”)は、百鬼夜行のように死者の軍勢が通り過ぎるとされる時とされるようになった。(その様子は村人たちにとって、まるでトールキン『指輪物語』や映画「ロード・オブ・ザ・リング」に出てくる冥王サウロンの軍勢のようなものだったかも知れない。/笑)

 以上、森は中世西洋の人々にとって恐ろしい世界であったわけだが、人間に制御しきれないものが実はもうひとつあった。それは火や水といった「自然」に属するもの。(森もある意味ではそうかも知れない。)
 炎は竃(かまど)などの特殊な手順を踏んで後にやっと使いこなせるものであり、取り扱いには細心の注意を要する。少しでも使い方を誤ると家屋や村落を丸ごと破壊してしまう可能性すらある、恐れる(畏れる)べきもの。従って当初中世ヨーロッパでは、死者/火/水といった人間には御しきれないものを扱うスキルを持つ者たち、すなわち煙突掃除夫/水車挽き/刑吏/埋葬人といった人々は、聖なる存在として扱われていたのだそうだ。(*)

   *…本書では詳しく書かれていないが、「宇宙につながるもの」としては他にも“性”
      が制御されるべきものとされたらしい。

 しかしこれらの伝統的な価値観はおよそ12世紀になって大きく変貌を遂げた。それはキリスト教により罪の告解が行われるようになり、「個人」という概念が生まれたためだ。キリスト教は聖なるものへの憧憬や、神と個人が直接対峙することによって、自己意識というものの純化を推し進めた。その結果、それまでの「他者との絆によって自己の存在を確認する社会」や、自然と村落(=人間)という二つの宇宙に基づいて生活してきた人々の価値観は大きく動揺した。そして心情的に二律背反する感覚のなか、聖なる職業とされてきた煙突掃除夫ら「宇宙と関わる人々」が賤視されようになっていったのだそうだ。
 とまあ以上が第1章の大雑把な内容。これまで色々な本で考察してきたテーマがコンパクトにまとめられている印象だ。(ちなみに中世の人々の伝統的な価値観を脅かすものは他にもあって、本書では王や教皇といった世俗もしくは宗教上の権力の存在、もしくは貨幣経済と共同体の関係などについても軽く触れられている。詳しく知りたければ他の著作を読むことをお薦めしたい。)
 
 さて次の第2章では冒頭にも書いたように、日本について述べられている。著者によれば日本はキリスト教圏とは違って、個人ではなく「世間体」というものが基本となっている世界なのだそうだ。(ドイツをはじめとするヨーロッパ社会に比べ、日本において「個人」が敬意をもって遇されることが少ないのはそのため。)日本は明治維新をきっかけに西洋の技術や習慣を取り入れはしたが、人間関係つまり社会と個人の関係は以前から何ら変わっていない。「個人」に対する意識はあくまで貧弱であり、社会は今でも「世間」を中心に動いている ――とまあ、これが著者の考え。(こうしてみると、西洋的な価値観に立って考えれば、日本はまだまだ成熟していない社会といえるのかも知れないね。)
 ではここでいう「世間」とはいったい何なのか?著者によればそれを読み解くヒントは「贈与・互酬」の関係にあるのだそう。お中元やお歳暮といった贈答において、贈り手は実は相手のことを「ひとりの人格(=個人)」とみてはいない。その人が置かれている「立場」を示す存在として品物を贈っている。日本ではまた「長幼の序」(=年上を敬う教え)というものも根付いているが、これもその人自身ではなく年齢という属性に対する対応でしかない。
 時間に対する意識も西洋とは違っている。「今後ともよろしく」という挨拶は「(同じ世間に住むもの同士なので)あなたとはいつかまた会う機会がある」というのが前提になって初めてなりたつ言葉なのだと著者はいう。「先日はどうも」というのも同様で、視線が過去に向かってはいるが結局は“同じ世間”であることを前提にした言葉。まさに「世間は狭い」のだ。さらに言えば、日本では“公共性”というのも単に「大きな家」という意味合いでしかなく、最終的には家長である天皇に行きついてしまう概念。かように「世間」というものは、生者のみならず死者まで含んだある種の人間集団として捉えられる概念なのだそうだ。うーん、なるほど。言われてみると何となく納得できる気がする。
 著者による日本社会への容赦ない分析はまだ続く。明治期になって初めて伝わった“Society/ソサエティ”という言葉に「社会」という訳語を、そして“Individual/インディヴィジュアル”に「個人」という訳語を当て嵌めるまで、日本にこれらに掃討する概念は無かったとのこと。なんと、わずか150年余り前まで日本には、今でいうところの社会も個人も存在しなかったのだ。(!)
 そのためだろうか。日本において子供は家庭の中では、幾つになっても親から常に半人前としてしか扱われない。(ただしこれには儒教の影響もあるのかも知れない。)社会に出ても同じで、ややもすれば世間が同様に“ひよっこ”として処遇しがち。成人式でも子供のように暴れる連中がいつまでも減っていかない。また家庭が「世間」を温存する牙城となってしまっていて、家事は女性がやるべき仕事と決めつけられている……。きっと社会における女性やマイノリティに対する差別が無くならないのも、これらと同じ理由によるものなのだろう。「女子ども」などという呼び方残っていることが、それを端的に示しているような気がする。
 著者は言う。日本には「個人」がないから人の尊厳や命にも無感覚になるし、政治でも「隷属することに慣れて」しまうと。(ときに「慣れている」が「馴れている」ではないかとさえ思えてくるほどだ。)以上、第2章に書かれていることはどれも重いが主張には極めて同感。第2章は本書の中では一番読み応えのある部分だった。これまで著者の晩年の本(日本を取り上げたもの)は殆ど読んだことが無かったが、これからもう少し読んでみたいと思った。

 さて、最後となる第3章は、日本哲学学会で行われた、西洋と日本の歴史に対する意識の違いについての講演の記録。
 西洋においては専門家らの研究に基づいてつくられた「歴史学」が、やがて(庶民や小説家らの創作である)「歴史的神話」に敗北していくさまが語られ、対する日本では「世間」が「歴史」に与えた影響について、先の章よりさらに噛み砕いた感じで語られている。
 日本では明治に輸入された「西洋的な公的世界」(≒理性、自己のあり方を基本とするもの)と、「伝統的な私的世界」(≒空気を読む、義理と人情を基本とするもの)の二重生活が送られていて、伝統的世界のなかでは文字や言葉は大して重みをもたない。(これは政治家の発言を見ればよく解る気がする。)
 それは何故かというと、世間における真実とは“言葉”ではなく“振る舞い”だからなのだそう。そして社会差別に対する運動は殆どが欧米の言葉や概念の輸入であるため、それに基づいた活動は日本では上滑りしてしまう。世間とは所詮虚しいものであり、その中に浸っている人々は外に目を向けることは無い。未来は自ら切り開いていくものではなく、自然と起こる結果を静かに受け入れるのが美学とされる。常に「今」しかなく、四季が毎年同じように繰り返されるだけの円環構造をなす。その結果、変化や進歩という概念は、世間を基本とする社会には存在しない。そこに住む者たちにとって世間とは外界から自らを守ってくれるゆりかごであり、歴史とは世間の外にあるものでしかないのだ。そこに決して「自分達で作る」という当事者意識はない。(この辺のくだりは、第2章とかぶって非常に耳が痛い内容だった。)
 なぜそのような価値観が生まれたのか?著者はその理由については最後に軽く触れるにとどめているが、それによれば、これらの日本的価値観は本居宣長による「記紀」の解釈に始まるらしい。本書ではさほど詳しく書かれていないのだが、自分は先日読んだばかりのカスーリス著『神道』(ちくま学芸文庫)の内容とうまく結びついて腑に落ちるものがあった。偶然とはいえ、この2冊を続けて読むことが出来て良かったと思う。(**)

  **…ただし「欧米の自然諸科学の現状を仏教の視点から見直すこと」こそが著者に
       とって重要だというくだりについては、正直よく解らなかった。もっと勉強
       しなくては。(笑)

 他にも著者が一橋大学学長や数多くの大学で教鞭をとった経験を基に、大学教育の崩壊について語った文章などもあって盛りだくさん。厚さはさほどないけれど、中身がぎっしり詰まった濃い本だった。満足、満足。

『女の子よ銃を取れ』 雨宮まみ 平凡社

 相変わらず雑食性の読書で、気になったものを手当たり次第に読んでいる。(苦笑)今回は平凡社のWEB連載で話題になっていたエッセイが一冊にまとまったので、さっそく探して買ってきた。(ネットで話題にしておいてから本にするという、出版社の思惑にすっかり乗せられている気もするがまあいいや。/笑)
 内容はというと、ファッションやメイクなど「外面を装うこと」を題材に、女性を巡る社会的な観念や人間関係といった“生きにくさ”を打破することについて語ったエッセイ。雨宮氏は紹介文によれば、女性であることに正直に向き合えなかった自身の半生を書いた『女子をこじらせて』の著者で、「こじらせ女子」という言葉は2013年流行語大賞にもノミネートされたとのこと。
 “生きにくさ”というのは例えば、社会からみて「女性はこうあるべき」といった押しつけや同性による同調圧力であったり、あるいは自分自身の中にある「こういうものは似合わない」といった思い込みであったりする。「こうあるべき」という意見が、異性からみたステレオタイプな女性観の押し付けであればジェンダー論にもつながる話となるし、思い込みの打破ということを普遍化して考えるならば、性別や年齢に関係なく「よりよく生きる」ことについての本とも読める。
 全体のトーンは「エールを送る」というよりも強い感じで、むしろアジテーションに近い。著者が本書を通じて訴えたいことは、“銃を取れ”という題名にもあるように「(外観による評価を通じて)女の欲望を急き立て、制限する壁のようななにかを、マシンガンで」ぶっ壊すことなのだ。でも帯には「美の圧力から逃れたい 生きづらい女子の心を撃ち抜く」ともあるから、撃たれるのはどっちか良くわからないが。(笑)まあそのあたりは何となく雰囲気で、ということなのだろう。
 文章中に出てくるファッション用語は正直いって半分も分からなかったのだが、色々な読み方が可能な本なので男(オヤジ)の自分が読んでもかなり面白かった。おそらく女性が読むとまったく違った印象を持つのだろう。中高生の年代の女の子がこれを読んだら、かなり人生観が変わるんじゃないかという気がする。それとも「何言ってんだか!」と反発するのだろうか。当事者ではないので良くわからないが、いずれにしても他の人の感想をぜひ聞いてみたい本ではある。

 ではさっそく中身について。
 まず冒頭からしていい感じだ。昔テレビでやっていた『ビューティー・コロシアム』という、メイクや整形やコーディネートを通じて“さえない女性”を変身させる番組を取り上げているのだが、口調はなかなか挑戦的。この番組が発信していた「美しくなって人生を変える」というコンセプトは、裏返せば「美しくない女は、苦労する」ということでもあり、さらに「ただの虚栄心で『綺麗になりたい』と思うのは感心できない」「心が素直じゃないと美しくなる資格はない」というダブルバインドを強く演出しているのだとか。
 人により受け取り方は色々なのだろうが、そのように感じる女性にとってはたしかに「綺麗になる」ということは一種の“呪い”にもなるだろうし、それがモノサシである社会で生きることはまさに「生きづらい」ものであるだろう。そんな気が強くする。
 著者は自らも含めたそんな「主役になれない女の子たち」に対して、知らず知らずのうちに周りを取り囲んでいる3つの壁(*)について気付かせ、心の澱をじょじょに解きほぐしていく。自らの失敗談を正直に披露したり、安易な解決策を提示しない点(著者自身が今でも答えを出せていないことを正直に吐露したり)など、以前ベストセラーになった勝間某の自己啓発本などとは違い、読者に寄り添う姿勢がまるでマッサージを受けている感じだ。

   *…ひとつ目はセルフイメージの思い込みによる「自分自身の壁」。ふたつ目は
      “かわいい”が基準となったり、ファッションがその人の価値観や社会的イ
      メージを規定する日本社会の「他人の視線の壁」。三つ目は具体的に服装や
      メイクが似合う/似合わないについて思い悩む「失敗や不安の壁」。
      いずれも外から押しつけられたり自ら規定してしまっている壁であり、今の
      自分に一番合ったものを自分で選ぶことが今の“生きづらさ”から逃れて
      “自由に生きること”へとつながるのだとか。

 ファッション系の話題ばかりなので、「憧れの誰かみたい」な服ではなく「自分にこそ似合う服」を探す(P144)といったアドバイスや、「化粧品のカウンターで嫌な思いをしたこと」をテーマに作文を募集したら面白い話がたくさん寄せられるだろう(P159)といったくすぐりは、正直良く解らない部分ではある。
 でも、「持って生まれた容姿がどのようなものであろうと、センスが良くなくても、お金がなくて服が買えなくても、誰になにを言われても、私は私の生を主観の美しさに従って生きたい。」(P171)という言葉は素直に心を打つし、「どのようなことを楽しむ自分でありたいか、そのことが自分のあり方を決めます。(中略)その意志こそが、まぎれもないその人自身の、もっとも美しい部分なのではないかと考えます。」(P210)という主張は、ファッションの域を超えて普遍性をもつと思う。多様な生き方を肯定することが、世の中をもっと面白く豊かなものにしていくのだろうし、よりよく生きることにつながるのだろうねえ。そう思うな。

 たまに「本が呼ぶ」ということがあるが、本書もそんな風にして買った本。そして今回も勘は外れなかった。とてもいい一冊。本屋のレジにもっていくのは少し勇気が要ったけどね。(笑)

<追記>
 本書で著者が生き方に憧れる人物として挙げているのは、たとえば次のような人たちだ。
  マドンナ/レディ・ガガ/ディタ・フォン・ティース/ケイト・モス/ナオミ・キャンベル etc.
 それぞれ音楽やモデルの世界で確固たる地位を築いているひとだが、彼女らが素晴らしいのは成功したかどうかではなく自分の価値観に従って生きているところなのだとか。なんとなくわかる気がする。日本で言えばアスリートの上野由岐子(ソフトボール)や澤穂希(サッカー)などがそうかも知れない。

『味覚の探究』 森枝卓士 中公文庫

 森枝卓士氏による食のエッセイ。ウィキペディアによると森枝氏は写真家・ジャーナリストとのことだが、自分にとってはあくまでも“食のエッセイスト”という位置づけ(笑)。本書は他の著作のように「カレー」とか「お菓子」といった個別テーマではなく、「食を追究するとはどういうことか?」をテーマに書かれている。
 氏のエッセイは例えば玉村豊男氏と同じくスタンスが一貫しているのが特徴で、その内容にも納得できるものが多い。たとえば第四章(「美味しい」を伝える)では、テレビや安手の雑誌にあるようないい加減な表現でお茶を濁すのでなく、本当に美味しい味をきちんと伝えるにはどうあるべきかについて真剣に悩む様子が書かれていたり。(個人的にはこの章が本書の白眉かな。)
 また「 『料理は愛情』といったレトリックは、『戦争に負けたのは、根性がなかったから』みたいなものだと思う」という文章にはすごく納得した。手作り料理の礼讃によって「家庭的で料理の上手い女性は魅力的」なんて発言も嫌だし、かといって愛情を免罪符にして調理技術の向上が無いのも面白くない。(もちろん誰かに喜んでもらおうと一生懸命料理の腕を磨くことの価値は否定しないけどね。)
 けっして愛情が無いから料理が下手なわけではないし、逆にマスターの性格が悪いのに料理は抜群に美味い店というのも残念ながらあるんだよねえ。前々から愛情と料理の腕前といった、尺度の違うものを合わせて論じようという姿勢に対してモヤモヤしたものを感じていたので、これだけはっきり言ってもらえるとむしろ気持ちが良い。
 「舌が肥える」ということについての話も興味深い。氏によれば、どんなものが「旨い(美味い)もの」かを説明する事はできないが、美味いものを食べ続けていれば不味いものに出会ったときすぐに分かるのだという。しかし逆に不味いものばかり食べていても、美味い物はわからないのだとも。また普通に食べ歩きをしているだけでは感じられないが、集中して同じもの(たとえばラーメン)を食べ歩くことで、味の微妙な違いが見えてくるらしい。
 違いが分かる事がすなわち幸せなこととは限らないとも書かれていて、さもありなんという気もする。これまで美味しく食べていたB級グルメが不味く感じられてしまったら、人生の楽しみがひとつ減ってしまうわけだものなあ。しかし一方では、あるレベルに達しないと愉しめない美味しさもあるとのこと。要するにどちらが上ということではなく、美味しさの質がそもそも違うのだとも。うーん、奥が深いね。

   *…もしかしたら本や映画や音楽といった創作物、いやあらゆる仕事の成果でもこれと
     同じことが言えるのではないだろうか。

 仕事の関係もあって食に関する本を見かけると手に取るようにしているのだが、中でも「食べる」ということ自体について書かれた本は読みごたえがあって好きだ。辺見庸氏の『もの食う人々』とか松本仁一氏の『アフリカを食べる』などと同じく、本書もちょっと真剣に「食べること」について考えることができて好かった。
(単に食い意地が張っているだけともいうが。/笑)

『あわいの力』 安田登 ミシマ社

 能楽師であり古代漢字の研究者でもある著者が、「身体感覚」を通じて心にまつわる諸々について綴ったエッセイ(というかなんというか、分類不能な一冊)。この著者は以前『身体感覚で「論語」を読み直す』(春秋社)という本を読んでべらぼうに面白かった。白川静氏にも共通する漢字への豊富な知識や、「能を舞う」という特別な体験を基にした知見は、他の著者では得られない一種独特の視点を与えてくれる。
 本書の題名にある「あわい」とは、媒介という意味をあらわす古語だそうで「あわい・あわひ(間)」と書く。ここでは“こちら”と“あちら”をつなぐキーワードとして使っていて、たとえば夢幻能でいえば著者がつとめるワキこそが(多くは亡霊や精霊である)シテと現実の世界をつなぐあわい/かけはしとなる役割を果たすという。
 先の『身体感覚…』にもでてきた著者の仮説(本人は“妄想”とも言っている/笑)があって、それは人間に「心(≒自己意識)」が生まれたのは僅か3000年ほど前ではないかというもの。殷の時代の中国で文字(甲骨文字)が発明されてからだというのだ。
 文字により記録が出来るようになると、まず過去や未来という時間の観念が生まれた。そして過去の記憶による“後悔”や未来に対する“不安”が生まれるとともに、それを感じる「自分」というものができたのではないかという。人類は二足歩行を覚えることによって繁栄することができたが、それと同時に直立姿勢からくる新たな病気も抱えることになった。「心」もそれと同じで、自意識をもつことで得られた利点も勿論あるが、一方でそれまで経験した事のない悩みや苦しみが生まれたのだという。そして500年ほどして釈迦や孔子が、1000年ほどしてイエスが登場し、心から生まれるそれらの様々な苦しみに対する処方箋を考え出した。しかし現在ではその効能も薄れ、また限界に達してしまっている…というのが大まかな流れ。
 著者自身も言っているように、これがどこまで正しいかは分からないが、古代ギリシア語やヘブライ語などにおいて「心」にあたる単語を探ってみたりと、少なくとも思考実験としては大変に面白い。(第八章「無限と有限をつなぐ『あわい』」などは、三木成夫氏の『胎児の世界』にも匹敵する想像力だが、一線を越えてしまうギリギリのところで踏みとどまっている感じがする。/笑)
 安田氏の姿勢の根本にあるのは、きっと未知の世界の持つ面白さやすごさを愉しもうという気持ちなのだと思う。だから押しつけがましい部分がなく、けっこう「えー、本当かな?」という内容を読んでいてもさほど抵抗が無いのだろう。(信じるかどうかはまた別の話だが。)色んな意味で刺激になるので、松岡正剛氏や中沢新一氏の著作と同じような読み方をするといいのではないだろうか。
 全体を通しての主張をひとことでまとめると、「自分の心に“異界”を呼び込むための“空白”の空間と時間をつくりたまえ」ということになるだろうか。そのためには実用の学ばかり覚えるのではなく、いわゆる「役にたたない」知識に触れる機会と、それを身に着ける心の持ちようが有効であると、まあそんな感じ。それこそが題名にもなっている「あわいの力」なのだという。
 著者いわく、読んだ人が少しの間でも自分を縛る「心」から自由になれるように―― という気持ちで書いたというだけあってかなり自由奔放な書きぶりなので、思惑どおりちょっと不思議な気分に浸ることが出来た。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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