『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』フィリップ・K・ディック ハヤカワ文庫

言うまでもなくディックの代表作のひとつで、一度聞いたら忘れない印象的な題名もさることながら、『ブレードランナー』としてハリソン・フォード主演で1982年に映画化もされている有名作。逃亡アンドロイドを始末する"賞金稼ぎ"リック・デッカードと、模造動物店につとめる"ピンボケ"のイジドアという二人の人物を軸に、知性と人間性、信仰と共感といった著者の文学を構成する要素が惜しげもなく放り込まれる。憂鬱な日常と人類の黄昏を描いたディック特有のカリカチュアだ。
自分が本書のことを初めて知ったのは、子供のころに読んだSF小説のガイドブック『SF教室』(筒井康隆著)でのこと。たしか「ニューウェーブSF」の仲間として紹介されていたこともあって、始めから思弁的な部分に着目して読んだような記憶がある。だから『ブレードランナー』で暗く格好良いアクション映画になったのを観たときは、なんだか違う作品のような感じがした。(もちろん自走歩道やチューブ式列車といったピカピカの未来都市ではなく、雨が降り薄汚れた人々が暮らす未来都市という生まれて初めてみる光景に一発でノックアウトされてしまい、映画は映画として大のお気に入りなのではあるが。)
実は本書を再読したのは数十年ぶりになる。近々ある読書会のために読み返したのだが、うすぼんやりとした全体の印象はともかくとして、細部はすっかり忘れてしまっており、今回あらためて新鮮な眼で読むことができた。この記事も読書会に備えて一種の備忘録として書いているので、多少とっちらかった文章になるかも知れないが、ご容赦頂きたい。

さてそれでは、映画版ではなく小説版の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』について。舞台は最終戦争の放射能に覆われ塵と静寂に暮れゆく地球。惑星移住の夢も絶たれあとに残された人々は、新興宗教である「マーサー教」を信じ、「共感(エンパシー)ボックス」を通じてマーサーおよび他の人々との「真の融合」を求めようとする……。まずこの設定を読んで驚いた。ポストホロコースト物だというのをすっかり忘れてしまっていたのだ。
そして次に驚いたのはデッカードよりもむしろイジドアが真の主人公ではないかとすら思えたこと。ストーリーとしては、逃亡アンドロイドを追うデッカードが悩みながら任務を果たすまでを描いたものであって、イジドアはそこに少し絡む脇役のような扱いでしかない。しかし今回読んだ感じではアンドロイド狩りの部分よりもむしろマーサー教の方が印象深く、そしてイジドアはその点からするとデッカードより重要な役回りをしているようにも見えたのだ。しかし最後まで読むと、この両者がいて初めてテーマ的にも本書が成り立つのが納得できたのではあるが。
このマーサー教という代物が非常に胡散臭くて、また面白い。『死の迷宮』や『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』、あるいは『高い城の男』などに共通するような著者独特の神学、もしくは『ヴァリス』などにも共通する異様で哀しい救済に連なる思想として。なるほど大学生の時に読んでいまひとつ乗り切れなかったわけが判った。当時はデッカードのみの視点で読んでいたのだろう。
なお本書でイジドアやデッカードが口走る「キップル」という概念の正体がいまひとつ分からない。本書では勝手に増殖する「役に立たないもの」のことだとされているが、要はエントロピーみたいなものではないかとも思われる。なにしろ『火星のタイムスリップ』の「ガブル」「ガビッシュ」、あるいは『ユービック』にも共通する不気味さがあって、山を登りつづけるマーサーの姿とともに本書の大きな魅力になっている。(根拠はないがディックはきっとエントロピーというものが嫌いだったのではないだろうか。)
またマーサー教がニセモノの宗教であることが暴露されているが、それがこの当時のディックの心の健全さを示しているようでちょっと悲しい。そして本書においては人間にとってかけがえのないものである感情さえも、「情調(ムード)オルガン」という機械を使うことでいくらでも人工的に調整が可能だというのが、シニカルなディックの健全さを示しているようでまた皮肉だ。本書の中でもっとも大切とされる人間の価値が感情移入(共感)であることが、やがてディックがヴァリスを生み出さなければならなかったのに繋がっているのではないのだろうか。あともうひとつ本書で異様に感じたところは、アンドロイドが容赦なく排除の対象となっていところ。人間と同等もしくは人間より優れた存在(シミュラクラ、ニセモノ)が排除の対象になる描写は著者の他の作品にもよく出てくるが、これってもしかしたら作者の不安の現れなのではないかと思う。

マーサー教という偽物の宗教と電気動物という偽物の命とアンドロイド。そしてその中で見える生の意味。絶望の末に妻イーランとの明日を見い出すデッカードの姿は、彼の処女作である文学作品『市(まち)に虎声あらん』で描かれハドリーの姿と重なって見える。実存的な悩みを抱え、意味もなく自暴自棄な行動に出る両者の姿といい、取り返しのつかないダメージを受けてもまた明日はやってくるという、明るいのか暗いのか判らない(笑)終わり方といい、かなりの部分で本書は『市に虎声あらん』に共通しているのではないか、というのが今回再読しての印象だった。SFとして収まりの悪い部分も含めていかにもディックらしい作品といえるだろう。
他の方ははたしてどのように本書を読まれたのだろうか。
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『死の鳥』ハーラン・エリスン ハヤカワ文庫

※『死の鳥』収録作品の内容に触れていますので、未読の方はご注意ください。

 伝説的な作家ハーラン・エリスンによる、長年待ちに待った新しい短篇集だ。学生時代に『世界の中心で愛を叫んだけもの』(1973年にハヤカワSFシリーズから刊行、79年に文庫化)を読んで以来、各種アンソロジーや傑作選でときおり目にすることはあっても、このようにまとまった形で読むのは本当に久しぶり。しかも全篇が本邦へのエリスン紹介の第一人者である伊藤典夫氏訳による日本オリジナル編集とあって、まるでハーラン・エリスン傑作集の趣きさえある。収録された10の短篇はどれも粒よりのものばかりだ。
 彼の作風を評して「ウルトラヴァイオレンス」という形容があるが、たしかに彼の作品には凄惨な暴力シーンが多く、その手の描写が苦手な人にはちときついかもしれない。しかし虐げられし者たちからの視点による物語はどれも一読の価値があるといえるだろう。彼の作品の多くは「クライム・ノベル」あるいは「ピカレスク・ロマン」の範疇に入るものが多い。そしてそこで描かれる暴力とは、この世界で疎外され虐げられている者たちが感じる「痛み」に他ならないとも思える。

 話は変わるが、エリスンと同様に読むのがつらい作品を書く作家としては、アンナ・カヴァンやジェイムズ・ティプトリィJrなどが挙げられると思う。ただし彼らの暴力性の発露はエリスンも含めそれぞれ違う形を示している気がする。しごく乱暴な言い方をすれば、例えばカヴァンの場合は痛みが語り手自身へと向かい自傷の形を示すのに対して、ティプトリィの場合は語り手が冷徹な記録係に徹することで一切の感情を殺しているようにも見える。ここではあまり深入りすることはしないが、個人的には作者の作家としての根源的な部分に関わるものではないかと思っている。一方でエリスンの場合、語り手が感じる痛みは裏返しとなってそのまま外の世界へとはね返される。ある意味彼の描く暴力は世界に対する異議申し立てであり、その点では極めて政治的な側面を持つともいえるだろう。

 以上、ごちゃごちゃと書いたが、エリスンの小説は物語としてももちろん面白い。アクションはたっぷり、スリラーや謎解きの要素もたっぷりで、流れるような文体と鮮烈なビジュアルイメージは脳裏に強烈な印象を残す。なお凝った文体や作品の複雑な構成、それにアンソロジー『危険なビジョン』の編集といった活動内容からしてエリスンは「ニューウェーブSF作家」の印象が強かったが、今回あらためて題材を見てみると意外とオーソドックスなものが多いので驚いた。本書でも「バットマン」に出てくる悪役ジョーカーのような怪人や切り裂きジャック、クトゥルフを思わせるような邪神にフランケンシュタイン、それに狼男とパルプ小説やホラー映画でおなじみのキャラクターが多く登場する。「ジェフティは五つ」ほどあからさまな作品でなくても、懐古的な視点でみることが可能だろう。このあたりはゼラズニイとも似た部分があるかも知れない。
 作中で主人公たちは自らのアイデンティティをかけて世界への異議申し立て(であるところの暴力)と、救済を求める心の叫びを上げる。しかし彼らの願いが必ずしも叶えられるわけではなく、また彼らもそれを期待しているわけでもない。エリスン作品はそんなところがたまらなく格好いい。そしてだからこそ余計に、作中で示される思いがけぬ「救済」が読むものの心を打つのだ。

 ちなみに本書の中から個人的にベストを選ぶとするなら、「死の鳥」と「北緯38度54分、西経77度0分13秒 ランゲルハンス島沖を漂流中」の二作になるだろうか。とてもどちらか一方に決めることはできそうにない。ざっとお気に入りの作品を挙げていくだけでも半分以上の名前が挙がるわけだし。解説で高橋良平氏が書かれているように、まだまだ訳されていないエリスンの作品は多いので、ぜひ本書をきっかけにして再評価が進み、日本でもさらに多くの作品集が刊行されて欲しいと切に願う。
これからエリスンを読める人は幸いである。

【収録作】
「「悔い改めよ、ハーレクィン!」とチクタクマンはいった」
「竜討つものにまぼろしを」
「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」
「プリティ・マギー・マネー・アイズ」
「世界の縁にたつ都市をさまよう者」
「死の鳥」
「鞭打たれた犬たちのうめき」
「北緯38度54分、西経77度0分13秒 ランゲルハンス島沖を漂流中」
「ジェフティは五つ」
「ソフト・モンキー」

<追記>
 以上が本のレビュー投稿サイト「シミルボン」に投稿した内容である。ひょんなことからシミルボンに投稿することになったので、これからもSF関連の書籍については両方に記事をアップすることになると思う。追記として本書の作品のなかで個人的なベストを選んでみたい。まずは本文中にも書いたように「死の鳥」と「ランゲルハンス島沖を漂流中」が同率首位をキープ。次いで第3位以降は「ソフト・モンキー」「世界の縁にたつ都市をさまよう者」「「悔い改めよ、ハーレクィン!」とチクタクマンはいった」といった順位で続く。(次点は「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」と「鞭打たれた犬たちのうめき」。「鞭打たれた犬...」がファンタジーではなくミステリ系の賞であるエドガー賞を受賞しているのにはちょっと驚いた。ちなみにこの手の話では自分が好きなのは『世界の中心で愛を叫んだけもの』に収録されている「ガラスの小鬼が砕けるように」である。)
 扶桑社版の短篇集『死の鳥』が刊行されなかったのはかえすがえすも残念なことではあるが、もしもその結果として日本オリジナル編集の本書が生まれたと言えるのなら、それはそれで喜ばしいことかもしれない。解説で高橋氏が述べているように、今年は若島正氏の編纂によるエリスンの犯罪小説短篇集が国書刊行会から刊行予定とのこと。まだまだ楽しみは続きそうだ。

『宇宙の戦士〔新訳版〕』ロバート・A・ハインライン ハヤカワ文庫

 矢野徹氏による旧訳版を初めて読んだのは、中学三年生か高校一年生のころだったろうか。本篇に続いて、訳者あとがきやその後の「SFでてくたあ」で繰り広げられたやりとり(石川喬司氏によってまとめられたダイジェスト版)を収録した解説を読み、否応なく「社会正義としての暴力」についての是非を考えさせられた結果として強烈な拒絶反応を起こしたのを思い出した。
 本格的にSFを読み始めたころにはクラーク/アシモフ/ハインラインという所謂“御三家”を全て読んでやろうという野望(笑)に燃えていて、ハインラインも文庫で当時手に入る『人形つかい』や『宇宙の孤児』といった長篇あるいは『月を売った男』のような短篇集を一生懸命追いかけていた。そんな中で出会ったのがこの『宇宙の戦士』だったのだが、正直いってその頃の自分には、この作品が突きつけるものを冷静に受け止め咀嚼するには経験も知識も足りなかったようだ。その後、『悪徳なんかこわくない』や『栄光の道』を読んで小説としての出来にも疑問を感じてからは、『愛に時間を』『獣の数字』といった後期の大作に手を出すことも無くなり、自分にとって“過去のひと”となっていった。
 そんなわけで、なんと今回の内田昌之氏による新訳版で本書を読むのは凡そ45年ぶりになるのではないだろうか。ハインライン自体、たぶん40年以上読んでいないと思う。その途中、テレビアニメのガンダムが本書の「機動歩兵」や「パワードスーツ」に着想を得た「機動戦士」や「モビルスーツ」という言葉を一般に広めたり、SF小説の分野でも「ミリタリーSF」が翻訳されて一定数の読者を開拓したりといったことがあった。なので今回、読書会で課題本に選ばれたのも何かの縁と思って、改めて素直な気持ちで読み返すのも良いかも知れない ―― なんてことを考えながら読んでみた。
 で、結論から先にいうと、作者のあまりにも素朴すぎる倫理観や政治信条が生の形で出ていると思うと、はたしていかがなものかと思うが、小説としては割とよく出来ていて愉しめた。(つまり旧版の訳者あとがきや解説は純粋に作品だけを鑑賞しようと思えば、自分にとっては却って邪魔だということ。)もちろん作中で語られる主人公の考え方や社会背景その他に賛同できるかどうかはまた別の話だが。
 以下、順番に思いつくところを挙げてみよう。
 
 小説としての基本的な構成は同じ著者の『大宇宙の少年』や『宇宙怪獣ラモックス』といったジュブナイルにみられるように、「世間知らずの若者が様々な試練を経て一人前に成長していく」というものだ。物語としてはまさしく王道とも言える作りで、感情移入さえしてしまえば大変に読みやすい。たとえば入隊時には2000人以上いた新兵が過酷な訓練期間を終えるころには180名ほどに減っている。そんな中の“選ばれたひとり”であることの誇り。どんな社会であれその中で一人の成員として認められ、社会的な階層をひとつずつ上っていくというのは気持ちのいいものだ。古くは『のらくろ』的な面白さと云ってもよいし、最近では『島耕作シリーズ』なんていうのもある。異星人とのはらはらする戦闘シーンや仲間たちとのつらい別れといった、波瀾万丈の展開にも事欠かない。そういった点では、その後の冗漫とも言える長篇群に比べて少なくとも小説としての出来は優れているといえるのではないだろうか。
 しかし本書を愉しむ上での問題は別のところにある。思想的な是非はともかくとして、その内容が自分からすると先ほども書いたようにあまりにも素朴すぎて浸れないのだ。小説を構成する部材として考えるのであればそれがどんなに過激なものであっても、(例えば『その女アレックス』や『鉄の夢』のように)愉しむことは出来る。しかし素材を生のままで提供するのであれば、充分に練り込まれたものでなければならないのではないかと自分は考える。
 まず引っかかったのは99ページでズィム軍曹が新兵の質問に答えるシーンの「戦争とは単なる暴力と殺戮ではない。戦争とはある目的を達成するための制御された暴力だ」というもの。これは19世紀にプロイセン王国の軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツが書いた『戦争論』における「戦争とは他の手段をもって継続する政治の延長である」という主張となんら変わるものではない。本書が出版された1959年といえば、第二次世界大戦とナチスドイツによる大量殺戮を経験し、かつジュネーヴ協定経て南ベトナム解放戦線が叫ばれるなどベトナム戦争の泥沼へと突入していこうとしていた時代だ。そんな中でクラウゼヴィッツそのものとも思える思想はあまりに単純すぎやしないだろうか。(それともアメリカ国内で吹き荒れたマッカーシズムを始め、当時のアメリカ国内の考え方としては比較的一般的なものだったのだろうか?)
 140ページで主人公のハイスクール時代の恩師であるデュボア元中佐から手紙にあった「人が耐えることのできるもっとも気高い運命とは、愛する故郷と戦争とのはざまにみずからの身体を投げ出すことだ」といった記述や、あるいは146ページの同じくデュボアについての回想で「この世で最高のものは金を超越している。その対価は苦しみであり汗であり献身だ......そして、この世(ライフ)でなによりも貴重なものを得るために必要な対価とは、命(ライフ)そのもの」といった記述は、生きることの目的が倒錯しているような気もする。
 また、軍隊の厳しい規律から逃げ出した唯一の脱走兵が、街に潜伏して幼女を殺害するというのも随分都合のいいエピソードとなっているように思える。(物語の作り方としては効果的で上手いが。)非行少年が生まれるのは幼いころ体罰により倫理(社会ルール)を学ばなかったのが原因であり、しつけのためには年配者からの痛みを伴う指導が不可欠であるといった主張は、ちょっと噴飯ものではある。さらに183ページ「人間には、いかなるものであれ、生まれつきの権利などない」といった記述に至っては恐ろしささえ感じてしまう。ここには社会により徹底して“教育”される公的秩序からみた倫理観という考え方なのだ。子供のころの自分は本書のこういった部分に嫌悪感を感じたのだろう。そしてこれこそが著者の考えであると訳者あとがきで読んで、ハインラインを拒絶するようになっていったのだ。今にしてやっと判る。個人は集団(連邦国家や人類)のために存在しておりその逆ではないという考え方。これこそ石川喬司氏がファシズム的思想と呼んだものであるのだろう。

 ここで書かれている「軍人統治による社会」とは、よく言えば「ノブレス・オブリージュ」つまり社会的地位(≒権力)に伴い責任を自覚したものだけが世界を統治すべきというもので、もしかしたらニーチェがいうところの「超人」に近いものなのかも。そして「自分達を守るために戦う」ということさえ「是」としてしまえば、ここに描かれる社会制度は確かに理想的なものであるのかも知れないのだ。ただし必ずどこかに仮想敵を設けなければならないのと、軍人は常に同じ価値観を共有でき、一生涯に亘って“腐敗”することはないという前提つきなのだが……。その前提さえ許せば、徴兵制ではなく誰にも強制されぬ自発的な入隊であるという点と訓練で不適合になっても社会的なペナルティは一切ないという点で、退役者でなければ市民権が無いというこの社会の仕組みすら公平性が保たれているように見えてくる。まさしく一種の軍事的ユートピア思想だ。(ただやはり自分からすると、この考え方はあまりにもシンプル過ぎるような気がするのではあるが。)
 小説としてこの本を考えた時に宜しくないと思うのは、なんといっても父親との再会シーン。彼の入隊に反対していた父親が、異星人の攻撃で妻(ジョニーの母)を喪ってからは転向して自ら軍に志願したうえ、やがて再開したジョニーに対して過去の過ちを心から詫びるとともに彼を称賛するところなどは、あまりにもあからさまに思えてしまい、小説としてもいただけない。ちょっと稚拙なのだ。

 本書でもうひとつ引っかかった点は、ジェンダー的な見方をした時のいびつさ。本書でも軍隊を舞台にした映画でよくあるように、人間性を徹底的に否定する訓練を施すことで上官の命令に対する絶対服従の意識と連帯感を醸成し、それをもって「男にする」という表現がある。なぜか機動歩兵は全てが男なのだが、一方で攻撃艇のパイロットは全て女性が占めていて、それは性差による適性の違いという説明が一応はある。しかし人間の力を何十倍にも増幅するパワードスーツであれば機動歩兵を女性が出来ない理由など無いだろうし、出撃の直前、つまりこれで最後となるかも知れない時に聞く声が女性のものだと機動歩兵の士気が高まるという記述を読むと、なんだかなあという感じだ。生物学的に男性であるものは無条件で生物学的女性を好むといった前提もそうだ。
 他にも自然放射線により突然変異と生物の進化が引き起こされるという科学的記述はいかにも古い気がするし、人類と交戦する異星人「バグ」の生態に関する記述も不満が残る。異星人の描写は兵隊バグや労働バグ、あるいは女王といった名前とともにいかにもアリを連想させる。一糸乱れぬ統制のとれた行動や非人間的な動きは共産主義を揶揄するものであるだろうが、スタニスワフ・レムの洗礼をうけた身としては地球上の昆虫をそのまま流用したような異星人では少し物足らない。人間には理解さえ及ばない知性の在り方の方がむしろ自然ではないだろうか、とも考えてしまう。
 しかしまあ、これらはすべて発表年代を考えると仕方のないところではあるのだろう。以上、なんだかんだと難癖をつけたような感じになってしまったが、物語としては結構愉しんだのは間違いない。昔の想いが色々と甦ってきたりして、まるで「センチメンタル・ジャーニー」のような読書を味わうことが出来た。昔の作品を年取ってから読み返すのも、新たな発見があったりしてそんなに悪くないかも知れない。(かといっていまさら『悪徳なんかこわくない』や『栄光の道』まで読み返そうとは思わないけどね。/笑)

『ゲルマニア』 ハラルト・ギルバース 集英社文庫

 著者はこの作品がデビュー作。2014年にドイツで発表され、その年のフリードリヒ・グラウザー賞(ドイツ推理作家協会賞)の新人賞を受賞した話題作 ――と書いてはみたものの、実は本作のことは全く知らなかった。いつものごとく参加した名古屋ミステリー読書会で、次回の課題本として取り上げられたので何も考えず読んでみたところ、これが傑作だったというわけ。ネット書店でなく実際の本屋で本を買うのは、新しい本との思いがけない出会いがあるから......という話を以前書いたことがあるが、自分の得意な分野(例えばSFや幻想文学)ではない集まりに参加するのもまさにそれが理由のひとつ。今回は大当たりだった。
 物語は1944年のベルリンではじまる。敗戦の色濃いナチスドイツ政権下のベルリンで暮らす、元殺人課刑事のユダヤ人男性オッペンハイマー。彼はアーリア人の妻を持つおかげでかろうじて収容所送りを免れてはいるが、街では厳しい人種差別に曝されながら明日をも知れぬ毎日を送っている。そんな彼のもとにある日突然ナチス親衛隊(SS)からの招集があり、戦時下のベルリンで起きた戦慄すべき連続猟奇殺人事件の捜査を命じられる。果たして彼はナチスSSのフォーグラー大尉と協力して犯人を捕らえることが出来るのか? ナチス高官から命じられたタイムリミットは刻一刻と迫る......。
 まさに異色の警察小説といえるだろう。犯人を追いつめるまでのミステリとしての骨格もしっかりしているが、それより感心したのはナチスに生殺与奪の権利を握られたまま捜査を続ける主人公自身を巡る緊迫感だ。人としての尊厳や元刑事としての矜持といったオッペンハイマーの感じる葛藤は、『ナヴァロンの要塞』や『女王陛下のユリシーズ号』といった戦争を舞台にした冒険小説の面白さにも通じるものだろう。(もしも似たような設定をアジアで作るとしたら、ベトナム戦争下のサイゴンや金日成体制下の平壌あたりになるだろうか。)
 さらにフォーグラーとオッペンハイマーという立場の違う者同士の心の触れあいは、どことなくハードボイルドの“格好よさ”にも通じるものであるし、あらゆる差別に異を唱える反ナチスの女医ヒルデとオッペンハイマーのやりとりは、単なる「ナチスという異常集団による人種差別」に終わらせない広がりを感じさせて心強い。重く暗い内容であるにも関わらず、本書が読みやすくて読後感もすっきりしているのは、おそらくこのあたりに理由があるのではないだろうか。
 そして大事なのは、それらをしっかりと受け止めて物語のリアリティを支えているのが、「灯火管制下のベルリン」という極限状態を、まるでその場にいるかのように描く歴史小説としての迫力であるという点。全編を覆う重苦しい空気と緊迫感は序盤から紛れもない傑作の予感を感じさせて、ページをめくる手を止めることが出来なかった。ひさびさの一気読みである。そして読み進むうち心の中には、差別主義と偏狭なナショナリズムと、暴力や恐怖で人を思いのままにしようとする思想や体制への嫌悪感が強まってゆく。残念ながら現代史には詳しくないのだが(特に日本以外の国であればなおさら)、それでも綿密な取材に基づく街や人々の暮しの描写は、自分のような読者が読んでも迫真性を感じるに充分なものだった。この時代に詳しい人ならより一層愉しめるのではないだろうか。

 少し話は変わるが、本書の題名である「ゲルマニア」についても少しふれておきたい。自分は寡聞にして知らなかったのだが、この言葉は首都ベルリンがナチスによって新たな世界都市に改造された暁には、誇り高きゲルマン民族を讃える新たな呼称となるはずのものだったらしい。つまり物語の舞台である戦時下のベルリンを示す名前であるとともに、ナチスドイツの思い描いた理想を象徴するものでもあるのだ。そう考えるほどに題名のもつ皮肉な意味がじわじわと効いてくる。このような作品が戦後70年のドイツ本国で出版され、そして高く評価されたことに対して、ヨーロッパの人々がもつ(どこかの国とは違う)歴史認識の重みや文化的な余裕のようなものを感じてしまう。
先日C・プリースト『双生児』の記事でも少しふれたが、第2次世界大戦および「ファシズムとの戦い」について、枢軸国(独)の側から描いた本書『ゲルマニア』と連合国(英)の立場から描いた『双生児』を、“今この時期”に併せて読めたことは大きな意味があったかも知れない。これもまた読書の“マリアージュ”の一種と言えるのではないだろうか。名古屋ミステリー読書会の皆さんにはこのような作品を読む機会を与えて頂いたことに関して深く感謝を申し上げたい。近々ひらかれる予定の読書会が、今からとても愉しみでならない。

<追記>
 日本で本書に匹敵するようなミステリ作品には何かあるだろうかと考えていたら、山田正紀『人喰いの時代』や『ミステリ・オペラ ―宿命城殺人事件』などが頭に浮かんできた。あるいは山田風太郎の『警視庁草子』『明治十手架』といった“明治物”あたりもいい。いずれも史実と虚構をうまく取り混ぜながらミステリとしての仕掛けを施すことに成功している。両立はかなり難しいことと思うが、その分、上手く嵌ったときには大傑作が生まれるということかも知れない。まさに歴史ミステリおそるべしである。(笑)

『双生児(上・下)』 クリストファー・プリースト ハヤカワ文庫

 言葉の錬金術師C・プリーストが2002年に発表した代表作。同年の英国SF協会賞とアーサー・C・クラーク賞を受賞している。『魔法』や『奇術師』『夢幻諸島から』といった一連の作品と同様、どこまでが(小説世界の)現実でどこからが幻想なのか判らなくなってくるとても愉しい作品なのだが、2007年<プラチナ・ファンタジィ>の一冊としてハードカバーで刊行されてからは長らく入手困難になっていた。このたび文庫化されたのは非常に喜ばしいことだと思う。
 物語は1940年から41年にかけて、ドイツによる欧州侵略が激しさを増していた時代を中心に、ベルリンオリンピックで英国代表のボート競技選手だったジャック・L・ソウヤーとジョー・L・ソウヤーという一卵性双生児(いずれも“J・L・ソウヤー”と略される)が辿る数奇な運命を描く。本書の読みどころはこのふたりを巡る幻惑に満ちた展開の他、第2次世界大戦という現代史の中でも極めて重い出来事について、英国空軍爆撃機パイロットと良心的兵役拒否者にして赤十字職員という、二つの視点で描いた点にもある。本書がもしも読みづらいとすれば、日本の読者が欧州の読者ほどには欧州の歴史について明るくないことが理由に挙げられるかもしれない ――といえるほど、丹念に書きこまれた内容になっている。つい先日読み終えたばかりのハラルト・ギルバースの傑作ミステリ『ゲルマニア』(*)といい、戦後70年を経てこういった小説が手に入ることをあらためて素直に喜ぶとともに、エンタテイメントの分野でも負の歴史を真正面から取り上げてこれほどの作品をものにしてしまうところに、ヨーロッパ文化の底力のようなものを感じてしまう。

   *…1944年のナチス政権下におけるベルリンを舞台に、アーリア人の妻を
      持つため収容所送りを危うくまぬがれてひっそりと暮らす元殺人課刑事
      オッペンハイマー。ところがある日突然、彼のもとにナチスSSから猟奇
      連続殺人事件の捜査が命じられるという物語。異色の警察小説という
      側面の他、明日をも知れぬ運命のなか懸命に捜査を続ける主人公の
      警官としての矜持を描く冒険小説としての側面に加え、ナチスドイツの
      恐怖による支配のおぞましさを描いた歴史小説としての側面も持つ。
      これまた胸が熱くなる傑作だった。

 大きくはジャックの視点で描かれたパート(上巻)とジョーの視点で描かれたパート(下巻)の二つに分かれるが、さらにその外側には彼らを題材にしようとする歴史作家スチューワート・グラットンのパートがある。最初のうちは馴染みのない欧州大戦秘話のような展開で戸惑うかもしれないが、注意深く読んでいくとところどころで「ん?」と思う瞬間があり、やがて下巻に至って物語はその全貌を明らかにしていく。(ただしそれで物語の仕掛けのすべてが解るわけではなく、読者はさらに煙に巻かれていくわけだが/笑)
 ジーン・ウルフと並び称されるSF界の技巧派プリーストの技の冴えが堪能できる傑作だった。慣れていない人にはちょっととっつきにくいかも知れないが、もしも一読して解らなければ再読・三読に耐えうる作品なので、メモを取りながら何度もトライしてみるのも良いのではないだろうか。それでもピンとこなければ、巻末には大森望氏による渾身の解説があるわけだし、本書の仕掛けについてはほぼ触れられているので心配は要らないと思う。



 とまあ、ここまでがネタバレ無しの感想。ここからは仕掛けについて自分なりに思うところを書いてみたい。これから読まれる方はご注意ください。


 先ほども書いたように下巻の巻末には大森氏によるとても詳しい解説が載っていて、正直あまり書くことはない。それでもメモを取りながら読んでみたことで気付いた点などを幾つか。
 まず本書は歴史改変SFである。しかしディック『高い城の男』のように「起きてしまった歴史の結果」を描くのではなく、プリースト自身が述べているように「歴史の流れを実際に“分岐”させたかもしれない過程」そのものを描いている。分岐点はいくつかあるが、もっとも大きなものは1940年11月11日と1941年5月11日の2日。それぞれジョーとジャックが命に係わるほどの大怪我をする時だ。(正確には2人の視点によって状況も結果も違っている。本書で描かれるふたりの物語は、実ははなから時間線が違っているのだ。)以下、順をおって整理してみよう。(なおここからは解りやすくするために、大森氏の解説に合わせてジャックの属する時間線を「歴史A」、ジョーの属する世界を「歴史B」として話を進めていくことにする。)

 まず登場するのがスチュワート・グラットンのパート。彼は最後に明かされるようにビルギットを母として1941年5月10日に生まれている。父親はジョーの幻覚が示すように、ジョーなのかジャックなのかは判らない。その後、どのような事情かは分からないが養父ハリー・グラットンに育てられて名前をソウヤーからグラットンに変え、やがて歴史作家となる。なお、この時点で本来なら健常であったジョーがどうなっているのかは判らない。また、もしかしたら父親であるかも知れないジャックがどうなったのかも書かれてはいない。このグラットンのパートは、現在のわれわれがいる世界とは全く違う歴史を持っており、ジョーと同じ「歴史B」に属すると思われる。この世界Bではルドルフ・ヘスによる決死の行動が実を結び、英国とドイツは講和条約を締結している。その結果ナチスドイツは滅びることはなく繁栄を続け、代わりにアメリカが日本および中国共産党に先制攻撃を加えて降伏させ、ソ連を解体させたうえで第3次世界大戦まで起きている。ユダヤ人はマダガスカルに強制移住させられ新たな国を作っているようだ。(イスラエル建国は無いと思われる。)
 ところがその後に始まるジャック(英国空軍パイロット)の回想のパート「歴史A」は、どうやらわれわれの歴史と同じ(もしくは限りなく近い?)と思われる。ジャックのパートではビルギットはジャックとの間に女の子をもうけ、その子アンジェラ・ソウヤーはやがて結婚してアンジェラ・チッパートンという名前となる。ところがここでおかしなことに、物語の冒頭でスチュワートのサイン会をアンジェラが訪れ、「父親であるジャック」の回想記をスチュワートに預けるシーンが描かれるのだ。どうやらこの歴史Aと歴史Bはあちこちで混淆しているらしい。以下にざっくりとまとめてみよう。
 
<歴史A・Bに共通する記述>
 1936年7月 ベルリンオリンピックにジャックとジョーがボート競技で参加して
         ルドルフ・ヘスと会う。
  〃  秋  二人と共に亡命してきたビルギットとジョーが結婚する。
 1938年7月 ジャック大学を卒業して英国空軍へ。1940年までに11回の出撃を果たす。
 1940年5月 不在がちのジョーが怪我をしたのをきっかけにして、ジャックがビルギットの
         家を訪ねて久々の再会を果たす。

<歴史Aに属する記述>
 1940年9月 ジャックとビルギットが情交を交わす。
  〃 11月 ジョーが爆撃によって命を落とす。
 1941年5月 爆撃にドイツ本土を爆撃するために出撃。(10日)
  〃 5月 撃墜されて北海に不時着し、航法士サム・レヴィと2人だけが助かる。(11日)
  ⇒その後、チャーチルの替え玉による慰問に同行したり、監禁されたヘスの偽者(?)
    に会ったりしたのち回復とともに空軍に復帰。
 1942年5月 ケルン爆撃などを経て五十二中隊に移籍し、シュトゥットガルト爆撃の際に
      撃墜、収容所で終戦まで過ごす。
 1946年3月 オーストラリアへの移住を前にして、再婚したビルギットの家をこっ
      そり訪ね、自分にそっくりな娘アンジェラを目撃する。しかし再婚相手の
      「ハリー」に追い返される。
 1982年?月 英国に帰国し、70代になってから(1987年ごろ?)回想記を書き始める。

<歴史Bに属する記述>
 1940年3月 ジョーが地方兵役免除審査局で良心的兵役拒否者として認められ、
          赤十字に勤はじめる。
   〃 5月 暴漢に襲われて負傷。回復して6月から赤十字に復帰するも不在がちと
       なる。この間にジャックがビルギットの元を何度も訪れるが疚しい関係では
       ない(?)
  〃 11月 爆撃に巻き込まれ一時行方不明に。(6日後には無傷で見つかるが、頭を
       打ったためそこから何度も幻覚を見るようになる。)
 1941年?月 英国とナチスドイツの間に講和条約(リスボン協定)を締結させるための
       極秘プロジェクトに従事。
 1941年5月 ジャックがドイツ軍により撃ち落されるも命に別状は無し。(11日)
   〃 5月 英独講和条約批准。(13日)
   〃 5月 スチュワート・ソウヤー生まれる。
            (本来なら5月10日のはずだが時系列がおかしい。)
  ⇒ その後、救急車で瀕死の状態になっているジョーの姿で終わる。

<歴史A・Bが判然としない記述>
 1940年11月 搬送途中の救急車の中でジョーが死亡?(11日)
          ※運転手はケン・ウィルスン
 1941年3月 ジョーが空軍基地のジャックの元を訪ね「リスボン条約/ビルギットと
         の関係」の話をする。
  〃  5月 ドイツを爆撃に向かったジャックが、ルドルフ・ヘスの乗ったメッサー
         シュミットMe-110が4機のMe-109によって「撃ち落される/無事に
         逃げ切る」様子を目撃する。(10日)
 1941年5月 スチュワート・グラットン生まれる。(10日)
   〃 5月 ジャックがドイツ軍に撃ち落され、北海に消える。(11日)
          ※生き残ったのはサム・レヴィのみ
 
 うーむ。書きだしてみたが、やはり辻褄の合わないところがあちこちにある。まあ無理に辻褄を合わせる必要はないのだが。歴史Aではジョーが死んでいることになっているのに対し、歴史Bではジャックは死んでいない。しかしサムの手記(上巻の終わりなので歴史Aに属するようにも見える)ではジャックは死んだことになっている。冒頭ではアンジェラがジャックのことを自分の父親だと言っているにも関わらず、歴史Aではアンジェラは実の父親である(かもしれない)ジャックとはまったく面識がない。(成人してから会ったとも思い難いが。)
 もやもやとしているので思いついたのが、実は隠されたもう一つの「歴史A´(ダッシュ)」と「歴史B´(ダッシュ)」があるのではないかという説だ。歴史A´ではジャックがビルギットと結婚してアンジェラをもうけ、ジョーは爆撃により死亡している。歴史B´ではジャックは北海で死亡しており、ジョーもその後亡くなってスチュワートはグラットンの養子となる。――とまあ、大森氏による解説だけでは説明がつかない点が多いので、たとえばこんな風に考えても面白いのではないだろうかと思った次第。もちろん答えなんてないのだけれど。
 もっとも、訳者の古沢嘉通氏なら「プリーストは細かいところまで考えて書いてなどいないので、あちこち綻びはあるよ(笑)」とかおっしゃるのかもしれないけどね。おそらく答えはどれかひとつではなく、あらゆる解釈が量子力学のように重ねあわされた状態で存在しているのだろう。そんなふうにも思えてくる。そういったところも全部ひっくるめて、とても愉しめた一冊だった。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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