『死者の花嫁』 佐藤弘夫 幻戯書房

 夏の納涼シーズンはとうに過ぎてしまったが、たまには趣向を変えてちょっと変わったものを取り上げてみたい。おどろおどろしい題名だが、内容はいたって真面目。古代から中世を経て近世へと至る日本人の死生観を探った民俗学についての本だ。副題は「葬送と追想の列島史」という。
 まず紹介されるのは、山形市がある村上盆地に伝わるという「ムサカリ絵馬」や、青森県津軽地方の「花嫁人形」といった風習。これらは若くして亡くなった人々を供養するため、家族がその人の婚礼の様子を模した絵馬や人形を祀るものだそう。中国の「冥婚」にも似た死霊婚の一種といえるだろう。他にも下北半島は恐山で毎年夏に開かれる大祭や、山形県の三森山で行われる「モリ供養」、伊勢の金剛證寺にある「卒塔婆の供養林」など、日本各地で今も行われている様々な死者の供養について述べられる。
 これらに共通しているのは概ね、「この世に残された者たちが死者を想い、毎年決まった時期になると墓に帰ってくる彼らとの再会を喜ぶ」といった風習、あるいは「死者は正しく祀られ供養されると“ご先祖さま”となって末永く子孫を守ってくれる」が、いっぽうで「この世に未練を残したり供養されないまま放置された死者は祟る」といった死生観ではないだろうか。そしてこれらは全て、日本民俗学の祖である柳田國男によって明らかにされたように、過去から綿々と引き継がれた日本人の死生観を色濃く残したもの……と、思っていたのだが、実は全く違っていた。
 まさに本書のねらいは、そういったステレオタイプな死生観をひっくり返すところにあるのだ。ページをめくるたびに驚かされ、これまで自分が習ってきた“常識”がことごとく覆されていくのは一種の快感でもある。
 そのため著者は、各地の古代遺跡を発掘することで見えてきた葬送儀礼を分析したり、あるいは「諸国百物語」「宿直草(とのいぐさ)」「曽呂利物語」といった近世の文芸作品と、それらが成立する前提となる社会意識を丹念に読み解いていく。そうして「ご先祖様」や「墓参り」といった風習が、わずか数百年の浅い歴史しか持ってはいないことを、明らかにしていくのだ。(まるで民俗学探偵のようだね。/笑)
 本書を読んでまず驚いたのは、中世では土葬の風習は一般的なものではなく、(野ざらしにする風葬でなければ)むしろ火葬が当たり前だったということだ。さらに中世の墓には、どれほど大きな墓であっても個人を特定する目印が無かったというのにも驚いた。(それどころか火葬にした骨を五輪塔という納骨容器に入れて、本堂にまとめて収めてしまう風習もあったらしい。)つまりもともと日本には個人を特定できる墓は存在せず、すなわち墓参りという風習も無かったのだ。
 それは何故か?本書によれば昔の日本人にとって死とは“この世”を去って“あの世(=彼岸)”へと生まれ変わることであったのだそうだ。そのような社会で生者が行うべきは、いつまでも個人を偲んで“この世”に留まらせることではなく、死者の遺骨を特定の霊場へ納め、阿弥陀如来の力を借りて西方浄土/理想世界へと生まれ変わらせることに他ならない。
 このように浄土信仰が盛んだった中世においては、日本各地にある霊場へと足を運ぶことで死後の浄土往生が約束され、死者もまた遺骨を霊場に納めることで西方浄土へと旅立っていけるという死生観が共有されていた。
そのような社会では死者は霊場の敷地に葬りさえすれば魂がこの世に残ることは無く、そうなれば死者の居ない墓にお参りする必要など無かったというわけだ。ふむ、とても面白い。

 ではいつ頃から墓には戒名が書かれ、彼岸に家族による供養が行われるようになったのだろうか。著者によればそれは十四世紀、中世後期と呼ばれる時代に起こり始めた死生観の変化に起因するらしい。簡単に言えば来世での救済よりも、現世での幸福や生活の充実を重んじるように社会意識が変化したからなのだそう。約束の地としての彼岸世界の観念が色あせてしまうと、死者が行くべき場所はこの世と隔絶した遠い浄土ではなく、死してなおこの世に留まりつづけることになったのだ。(*)かくして死者は子孫が折々に訪ねてくれるのを心待ちにしながら墓地で眠るというイメージが社会に定着していったということらしい。

   *…そうなると、この世に未練をのこして死んでいったものたちや、供養されることも
      なく放置されるものたちは、幽霊となって恨みを晴らそうとし始める。これが江戸
      時代の幽霊譚の特徴なのだとのこと。

 死者が彼岸ではなくこの世に残り続けるという観念は、全国各地の山中にあって中世いらい栄えてきた霊場のありかたにも大きな影響を与えた。それまでは彼岸に旅立つための狩りの中継地点に過ぎなかった霊場が、いつまでも死者の留まる特定地域と見做されるようになったのだ。そのため、霊場は死者を放置する場所ではなくなり、特定個人を示す目印をつけた墓を定期的に子孫が訪れる場所へと変貌を遂げた。かくして墓参りという風習が生まれることとなったというわけだ。うーむ、深い。目からウロコがぽろぽろと何枚も落ちる感じだ。常識だと思っていても、意外と知らないことは多いのだなあ。
 なお本書は最終章だけは若干それまでとは趣きが変わり、過去から現代へと話が移る。著者の住む宮城県を始め東北地域を襲った3.11の記憶とともに、伝統的な家制度の崩壊によって現代に現れつつある「自然葬」や「樹木葬」、あるいは遺骨をペンダントにして常に身に着けるといった、新たな死生観の萌芽が示されているのだ。希薄化する現代の「死者」の一方で、震災により否が応でも直面せざるを得なかった「死」というもの。本書が示すように「人は死ぬと墓に入り”ご先祖様”となって彼岸に帰ってくる」というのが、せいぜい江戸時代からの歴史しかない死生観だったとすれば、今後も旧態依然とした“家制度”の崩壊や社会変化に伴い、また新たな死生観が生まれてくるのだろう。しかしいずれにせよそこには、この世を去った人々に対する深い鎮魂の思いが込められているに違いないのだ。
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『黙示録』 岡田温司 岩波新書

 新約聖書を読むと、マタイ/マルコ/ルカ/ヨハネの四つの福音書につづき、使徒の言行録や「○○人への手紙」といった書簡集があり、そして最後に「ヨハネ黙示録」によって締めくくられる構成になっている。中身を読むと微妙な食い違いも含めて重複した内容が多いが、これはイエスが無くなってから数百年に亘って伝えられてきた多くの教えを、後の世になってカトリック教団が再編・認定したからなので致し方なし。ちなみに教団から正典として認められなかった教典類(外典)はやがて歴史から消えて行ったわけだが、思うに正典とそれらの違いは単に当時の教団内部の政治的な力関係の結果でしかない。“異端”を巡る話は、これはこれでとても面白いのだけれど、この話をしだすと長くなるので今回は触れないことにしよう。(笑)
 さて本書は、そういった新約聖書の正典の中でもひときわ異彩を放つ「ヨハネ黙示録」について、その歴史と後世に与えた影響についてまとめたものだ。(*)

   *…「7つの封印」や「赤/白/黒/蒼白の色をした四頭の馬」、「7人の天使が吹き
     鳴らすラッパ」に「カタストロフ」や「巨獣リヴァイアサン」、そして神の使い
     と悪魔の軍勢が戦う「ハルマゲドン」に「最後の審判」といった黙示録が元とな
     る破滅や終末のイメージは、キリスト教徒でなくても必ずどこかで目や耳にして
     いるはず。

 本書によれば、ヨハネの黙示録がもつおどろおどろしいイメージには、やはり元となった多くの先行文献があるらしい。たとえば旧約聖書では「ダニエル書」にみられる“四頭の大きな獣”や同じく「エゼキエル書」にみられる復活思想、そしてそれらのイメージの集大成たる「イザヤ書」などがそう。(まったく読んだことないので全て受け売り。/笑)
 著者はこれら旧約聖書の正典だけではなく、さらに外典である「第四エズラ書」「第一エノク書」「シビュラの託宣」といった古い書物まで遡って内容を比較し、それらがいかに黙示録における終末ビジョンのイメージ形成に大きな影響を与えたかについて探っていく。どうやらこれらのイメージはもともと一部の入信者のみに許された秘密の知であり、それを知ることはある種のイニシエーション的な意味合いを持っていたようだ。
 また黙示録では良く知られているように神/正義による悪の断罪が描かれるわけだが、ここに悪の象徴として出てくる「バビロンの大淫婦」は具体的な人間を示したものではなく、一般には頽廃の象徴たるローマ(帝国)を揶揄したものとされているらしい。しかし著者はここに単なる頽廃と爛熟のイメージではなく、イシュタルやイシス、ディアナといった地母神のイメージを見る。対する神の側には「太陽を身にまとう女」という聖女が出てくるが、こちらもイシスとのつながりが指摘されている。つまりはいずれもグレートマザー(太母)の二面性を付与された存在であって、同じカードの裏表をなしているというわけ。うーん、こういう話は面白い。

 次には黙示録のビジョンが歴史の中で、どのように理解されてきたかについての説明がされる。著者によれば黙示録の読み方は「歴史主義的」(=ユダヤや初期キリスト教徒の迫害に対応させる)、「終末論的」(=黙示録のビジョンをそっくりそのまま現在の状況に照らし合わせる)、「寓意的」(=善悪の戦いなど普遍的テーマに読み替える)の3つに分類できるそうだ。暗示や幻想的なイメージを多用するというもともとのテキストの性質からしても、様々な解釈がされても仕方がないといえる。
 例えばキリスト教にとって審判の日の到来は重大な関心事だったわけだが、それがいつ来るのかは誰にもわからない。しかし黙示録によればその予兆として「アンチキリスト(反キリスト)」なる者が出現するとされている。とすれば、アンチキリストが特定さえできれば、最後の審判が訪れる時もわかるというわけだ。その結果、過去から様々な人物がアンチキリストと見做されてきた。(ヒトラーなどもそのひとりといえるだろう。)
 黙示録の最後で神の栄光とともに現れる「新しいエルサレム」についてもしかり。文字通り“闘って勝ち取る現実の場所”として読む見方もあれば、現実ではなくまったくの“精神的な王国の象徴”として読む見方もある。(ちなみに後者の場合は、教会/カトリック教団は「キリストの王国」を既に体現した存在である――という考えが前提となるらしい。そして彼らは異端や異教から正しいキリスト教信仰を守るために戦うのだ。十字軍の発想はこのあたりから出ているのかね。)
 このように多様な読みが出来るということは、同じ文章が対抗する勢力によって全く正反対に解釈され得るということでもある。たとえば宗教改革の際には、プロテスタントとカトリックは聖母マリア図像のモチーフの中に、それぞれ自分たちに都合のよい黙示録的な解釈を組み込んだ。たとえば「無原罪の御宿り」(マリアがイエスを身ごもった時のエピソードを描いたもの)の図像において、プロテスタントはマリアに踏みつけにされる蛇(竜)をカトリックに喩えており、またカトリックはカトリックで、マリアの横に今にも竜の口に投げ込まれようとする裸の野蛮な男を描き、これをプロテスタントになぞらえることで互いに非難し合ったのだそうだ。今でいうところのプロパガンダやイメージ戦略のようなものといって良いかもしれない。(両者による非難の応酬は、どちらがキリストでありアンチキリストであるかを巡ってますます過熱していった様子で、本書で紹介される図像をみているだけで大変におもしろい。)
 最後の章になると内容ががらりと変わり、現代にも残る黙示録の影響を紹介。様々なハリウッド映画の中に描かれるカタストロフのイメージとして取り出して見せる。例として挙げられる映画は「原子怪獣現わる」「放射能X」「水爆と深海の怪物」などなど。邦題を見ていても分からないが、これらの原題はそれぞれ「二万ファゾムから来た獣」「奴らだ!」「それは海底からやって来た」といい、いずれも欧米人には黙示録を強くイメージさせるものなのだそう。ある宣伝用ポスターに書かれた「本当に起こりうる恐るべき物語!」という惹句も、元は黙示録にある「今後起ころうとしていることを書き留め(た)」という言葉を踏まえたものらしい。
 日本人はあまり意識していないが、ゴジラが海から上がってきて街を焼き尽くすシーンも、黙示録に出てくる巨獣リヴァイアサンを強く意識させるものらしい。ほかにもキューブリック監督の「博士の異常な愛情」やタルコフスキー監督の「サクリファイス」、コッポラ監督の「地獄の黙示録」など数多くの映画が紹介され、芸術や文藝の世界では黙示録的なイメージが今でも色濃く残っていることが示される。

 かくして長年に亘ってキリスト教の歴史とともに、世界中に強い影響力を及ぼしてきたヨハネ黙示録なわけだが、著者も言うように20世紀を迎えて2つの世界大戦とアウシュビッツおよびヒロシマ・ナガサキを経験してしまった我々にとって、「カタストロフとそのあとに訪れる新エルサレムの到来」といういかにも単純なビジョンはもはや信じがたいものとなってしまった。そして21世紀を迎えた今、世界各地で続く民族紛争やテロの不安、ナショナリズムやポピュリズムの台頭と環境問題など数多くの課題が山積している。これからの未来がバラ色と考える人はいないだろうが、かといって問題から目を逸らしているだけでは何の解決にもならない。
 このような時こそ黙示録的なイメージは人々の心にじわじわと侵食していき、知らぬ間に人々の心に不安を煽り立てるからこそ、それを直視してその先を見つめる努力が必要なのだ――そう語る著者の意見には全くの同感。黙示録的イメージは誰もが多少知っているが故に却って詳しく知らなかったりする。こういう基本的な知識は、まずきちんと知ることから始めたいね。

<追記>
 ところで著者の岡田氏は(いくら研究のためとはいえ)SF映画に詳しすぎる。映画を紹介するくだりではそれまでの調子とはうって変わって如何にも愉しそうだった。なんだかんだ言って“この手の映画”が大好きな人なのではないだろうかね。(笑)
 黙示録は怖いけど何だか魅かれてしまう不思議な力を持っている気がする。本書を読んでそれを再認識した次第。

『「伝説」はなぜ生まれたか』 小松和彦 角川学芸出版

 久しぶりに小松和彦氏の新しい著作を読んだ。2008年の『百鬼夜行絵巻の謎』(集英社新書ビジュアル版)以来およそ4年半ぶり。(正確には2011年に『いざなぎ流の研究』というのが本書と同じ版元から出ているが、7000円近くするうえ専門書なので買ってない。)しかし何せ国際日本文化センターの所長をされているお忙しい方。たとえ期間が空いてでも、こうして読めるだけで有り難いと思わなくてはいかんね。
 さて早速だが、本書の構成は序章を入れて全部で6部からなる。序章は“「物語る行為」の宇宙”と題して、神話や伝説がいかに成立し、それが社会においてどのような意味を持つかについてを考察。本書全体をくくる総論となっている。続く第1章から第5章は日本各地の伝説の具体例を挙げ、「異界」「天竺」「龍神」「琵琶の精霊」「天皇(王権)」といったキーワードについて読み解いていく各論の形をとる。(*)

   *…第1章は能登半島に伝わる猿鬼伝説を取り上げる。第2章は天竺に対する日本人の
     典型的イメージを御伽草子に探り、四国に伝わる“いざなぎ流”におけるそれと
     比較。続く第3章では戸隠や箱根に伝わる九頭龍伝説、第4章は説話に出てくる琵琶
     にまつわる伝説を。そして最後の第5章は再び猿鬼伝説に戻って異界と天皇性の
     関係について語る。

 以前にも書いたことがあるが小松和彦氏は生粋の民俗学者ではなくて、もともとはお隣の文化人類学の出身。だからフィールドワークや構造主義といった文化人類学的な手法も熟知していて、それらの知識に基づいて民俗学に取り組んでいる。だからこそ旧来の民俗学の(狭小な)視点にとらわれず、自由闊達な見方でもって妖怪や異界といった日本文化の「闇」に焦点をあてた鋭い分析が出来たのだろう。従来の民俗学に散見される“ちょっと納得いかない結論”の押し付けに対しては、個人的に「?」と思うところも無くはないが、その点、氏の著作はいずれも論理的で納得のいく考察がなされており、気分よく読めるものとなっている。(それにしても小松和彦氏といい歴史学の網野善彦氏や東北学の赤坂憲雄氏といい、自分の好きになる著者がことごとく“異端”の香りのする人だというのは、いったい何故なんだろう。/笑)
 話を戻す。本書でもそんな著者の筆は冴えわたり、猿鬼や九頭龍の伝説についての詳細な分析は、読む者を飽きさせない。なかでも自分にとって最も読みごたえがあったのは、神話や伝説に関して著者一流の考察を施した序章(総論)の部分。以下そのあたりを中心に、簡単な感想と内容をご紹介しよう。

 本書によれば日本における従来の「神話学」というのは、各地に伝わる散文形式の物語群を、便宜的に「神話」「伝説」「昔話(民話)」の3つに分けて考えてきたそうだ。しかしそれは世界的にみると、実はあまり一般的な分け方ではない。日本以外では3つではなく、「神話・伝説」(=社会的には“真実”と受け止められている話)と「民話」(=明らかに“作り話”として了解されている話)の2つに分けられることが多いらしい。(著者が実地調査を行ったミクロネシアの島においても同じ。前者は“ウルフォ”、後者は“フィヨン”という名でやはり2つにわけられていたそうだ。)
 ではこれら「神話・伝説」はどのようにして作られてきたのだろうか。それは「神話・伝説」が「(社会的)真実」を「物語る」というところに秘密がある。例えば哲学者ベンヤミンは「情報」と「物語」の違いを次のように述べているそうだ。

 「情報はそれがまだ新しい瞬間に、その報酬を受けとってしまっている。情報はただこの瞬間にのみ生き、自己を完全にこの瞬間にゆだね、時をおかずに説明されねばならない」
 「物語は消耗しつくされることがない。自己の力を集め蓄えておき、長時間ののちにもまた展開することが可能」

 言い換えれば、情報とは一過性のものであり「真実」としての価値しかもたないのに対し、物語は(その源が真実であるないに関わらず)繰り返し語られることで価値を持つということ。出来事が起きてからかなり後になっても何度も言及されることにこそ、物語が語られる“意味”があるのだ。
 また科学史家の野家啓一氏によれば、「カタル(語る)」という言葉は、語源的にいうと「経験」を「カタドル(象る)」という意味が込められているのだそう。(ちなみにこの場合の「経験」とはベンヤミンがいうところの「情報」ではなく、何度も繰り返し再生されるもののこと。つまり真実に基づくかどうかは別にして、先ほどの「物語」のイメージに近い。)
 たとえば誰かが自分の経験したことを別の人に伝えたとしよう。もしくはどこかで伝え聞いた話を「事実」として語ってもいい。その場合の「こんなことがあった」という言葉は、単独ではあくまでもひとつの「情報」でしかなく、決して「物語」ではない。なぜならそのままでは、他の出来事との“つながり”がないからだ。それが「物語」になるためには、その社会における他の出来事との連鎖(因果)によって、その“ある出来事”の行方や結果が示される事が前提となる。そして単独の「情報」を因果によって「物語」に解釈し直すことが出来る人こそが、すなわち「語り手」と呼ばれる存在になるわけだ。
 更にこれらの「物語」が普遍性を持ち、長きに亘ってある社会に伝承されてきたとき、「物語」は「神話」へと変わる(**)。これが本書における小松流神話解釈の骨子である。いままで色んな神話学を読んできたけど、結構斬新な考え方で面白いと思った。

  **…なお社会における集合的記憶の媒体としては、「神話」の他に「儀礼」というもの
     もあり、互いが補完しあって社会を成り立たせているとのこと。これは文化人類学
     の世界ではお馴染みの考え方だよね。

 著者によれば「(神話あるいは歴史を)物語る行為」とは、「絶えざる過去の出来事の記憶の発掘と現在の状況に照らし合わせてのその再解釈、過去の再構築」であるのだという。つまりは歴史と神話の違いとは、「種類」ではなく「程度」に過ぎないといこと。なんてすごい(笑)。
 残念ながら今ではあまり顧みられることの無い神話研究。けれども実は神話の研究を行うことで、現代社会を論じる上で強力な武器となる「相対的な視点」を身に着けることが出来るのではないか?という指摘も、とても刺激的。猿鬼や天竺、九頭龍といった各論ともども、久々の小松節を堪能できた一冊だった。(^^)

『忘れられた日本人』 宮本常一 岩波文庫

 フィールドワーク型の民俗学における“巨人”の代表作。原著は1960年の刊行。戦中から戦後にかけて日本全国を歩き、土地の古老に聞き取りを行った記録なのだが、これがまた滅法面白い。江戸末期や明治維新のころの庶民の暮らしぶりが、彼らの記憶の中から鮮やかに蘇ってくる。
 村の寄りあいの様子/農民の日々の生活/新しい漁師村の開拓の歴史といった、教科書に出てきそうな話もあれば、「ばくろう(馬喰/博労)」や「世間師」といった、今では消えてしまった人々の思い出、それに頻繁にあった夜這いや子供の養子縁組の話など、まさに当事者でなければ語れない貴重な話題が満載。
 自分はどちらかといえば、閉塞感のある民俗学よりも視野が広い文化人類学の方が好み。でも本書を読むと、ついつい民俗学の“魔力”に魅入られそうになってくる(笑)。「神は細部に宿る」ではないけれど、今を生きる我々からすればまるで異界のごとき“失われてしまった時代”を再現するには、何気ない日々の暮らしを克明に記したこのような記録こそが、最も強力であるとともに且つ唯一の方法ではないかと思える。
 思えば、民俗学の本を読む時の愉しさやワクワク感を生み出すためのポイントは、時間や空間を超えた“ある社会”との遭遇にあるといえる。すなわちその社会のあり様が、まざまざと眼前に立ち現われてくることへの驚きこそが、愉しさやワクワクの正体ではないかと思うのだ。そして今の自分たちが持つ価値観が、実は明治期以降に成立したものであったり、極端な場合は高度成長期になって初めて培われたもの(*)に過ぎないという気付きこそが、民俗学を知ることの醍醐味なのではなかろうか。そんな気がする。

   *…たとえば「専業主婦」などの概念もそう。

 文化人類学との比較でいえば、文化人類学という学問には空間的なアプローチが不可欠であるのに対し、「民俗学」においては、(少なくとも日本においては)ただ時間的なアプローチこそが重要であったといえるかも。そしてそれに異議を申し立てたのが、網野善彦氏(東西文化の比較論)や、赤坂憲雄氏(東北学)であったというのが自分なりの理解の仕方。本書を読んだ印象では、宮本常一という人物は彼ら新しい民俗学への道を拓く礎になった人という感じがするな。他の著作は『塩の道』(講談社学術文庫)くらいしか読んだことないけど、もう少しきちんと付き合ってもいい人かも知れない。
 
<追記>
 このところ忙しくて本を読めなかった反動で、長期の休みになってから集中的に読んだ。その中に民俗学者の宮本登氏の『はじめての民俗学』という本があり、久しぶりに氏の本を読んだら事のほか面白かったので、続けて読んだのが本書というわけ。興が乗ったときにはこうして同じジャンルを大量摂取することもあるが、そんなときには部屋の積読本の山を漁れば、大抵なにか見つけることが出来る。これは喜んでいいのか悲しんでいいのかよくわからないが(笑)、便利ではあるよ。(^^;)

『北越雪譜』 鈴木牧之 岩波文庫

 たまに古典と呼ばれる本を無性に読みたくなる。岩波文庫でいえば背表紙が黄色に色分けされているような本。といっても内容があまりにも高尚で難しいのは読めないので(苦笑)、なるだけ易しいやつがいい。たとえば江戸時代も後期あたりの通俗的なものとか。本書は明治開化の20~30年ほどまえに書かれたものだから、そういう意味では丁度いい頃合い。前に松岡正剛氏の千夜千冊で取り上げられ、いつか読もうと買っておいたうちの1冊で、特に理由はないのだが先日ふと読みたくなり、本棚から引っ張りだしてきた。

 本書は豪雪地帯・越後は魚沼に住む著者が、雪国の自然や暮らしの風物について書いた図譜。初編(巻之上/中/下)と、二編(巻之一/二/三/四)よりなっている。
 東北や北陸に関する本といえば、有名な『奥の細道』をはじめとして数多く存在するが、いずれも他の土地の人が旅して書いたものであり、旅が可能な夏の季節が中心となる。まさに「雪まっさかりのシーズン」の雪国を描いたものは、(本書の著者曰く)実は皆無とのこと。魚沼の名士(豪商)であり、俳諧や絵画も玄人が裸足で逃げ出すほどの腕前だった教養人・鈴木牧之という人はそこが不満。それなら自分で書いてしまおうという事になったようだ。
 雪国の住民が自ら書いただけあって、生活の描写はとても生き生きしていて素晴らしい。実は自分も小学生のころの4年間を新潟で過ごしたことがあって、雪の中の生活がどんなものか凡そ想像がつく。昔を思い出しては内容にいちいち頷き、最後までとても愉しみながら読み終えた。以下、中身の話題について順不同にざっと挙げてみよう。

 ・雪の季節ならではの暮らしの知恵(雪を踏み固めて雪道を作るなど)
 ・雪靴や橇といった雪中歩行の道具について
 ・雪の季節の愉しみや遊び(祭や芝居、年越しや“雪ン堂”(かまくら)など)
 ・猟師による雪山の熊狩り
 ・雪崩と吹雪の実態(雪国のひとが一番恐れるもの)
 ・冬のシーズンの地場産業である縮(ちぢみ)織物について
 ・鮭の遡上に伴う鮭漁と鮭料理(雪が降り出すまでの季節が旬)
 ・気象や自然現象について(ツララや天然ガスによる自然発火「雪中の火」など)
 ・夏まで氷室に残した氷を使ってつくる“削氷”(かき氷)

 なかには奇談・綺譚も載っている。
 ・弘智法印の木乃伊(ミイラ)について
 ・狼に襲われた一家の話や、逆に遭難して熊に助けられた話
 ・白熊(アルピノのツキノワグマ)の話
 ・浮嶋(浮き島)の話
 ・「化石谷」(水につけると石灰成分が付着して石化する場所)について
 ・「土中の船」(土の中から発見された謎の船)について

 ところどころには幽霊や妖怪についての話も載っていて、民俗学的な興味以外に幻想怪奇小説のファンとしても愉しむことができた。(今でもUMAとか宇宙人を信じている人がいるように、当時は幽霊や妖怪について「さもありなん」といった感じで、何となく信じられていたのだろうか?)これについても題名をざっと挙げておこう。
 ・「御機屋(おはたや)の霊威」
 ・「狐火」
 ・「雪中の幽霊」と「関山村の毛塚」(女性の幽霊)
 ・「夜光玉」(夜になると怪しげに光る石)
 ・「無縫塔」(変わった形の石が見つかるとなぜかある寺の住職が死ぬ話)
 ・「北高和尚」(葬儀を襲う大猫の妖怪・火車を追い払った僧)
 ・「異獣」(猿に似た謎の生物)

 不勉強の為これまで全く知らなかったのだが、この本はその筋ではかなり有名な本らしいね。文もこなれていて読みやすく、地味だけど(失礼)とても面白い本だった。今度はどんなものを読もうかな。そのうちまた衝動的に読みたく時がくると思うから、今のうちに「とっておきの一冊」を買っておかなくては。(それでは岩波文庫の『江戸怪談集』の上巻が早くリクエスト重版されることを祈りつつ...。/笑)
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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