『物欲なき世界』菅付雅信 平凡社

 ジャンルとしてはマーケティングに分類される本だが、前半と後半では随分と印象が違う。ざっくりと云えば、まず前半は最近の若者に見られる傾向の分析から、従来型の高度経済成長を前提とした資本主義社会の終焉を示唆。そして後半は「幸福」の実現に向けた様々な思想家による提言を紹介しつつ、やがて来るべき「物欲なき世界」を示唆する。最初はよくある感じの本かと思っていたが、後半にはどんどん話のスケールが大きくなっていくのでびっくりした。
 本書で挙げられている「最近の若者にみられる傾向」とは具体的にはどんなものかというと、まずひとつはアメリカのポートランドなどから顕著になってきた「低消費型」のライフスタイルのこと。シンプルで自然な暮らしを求める人たちだそうだ。そのスタイルは「ダウンシフト」もしくは「スペンドシフト」と呼ばれていて、“モノ”ではなく“意味”を求める生活様式なのだそう。日本であれば「LOHAS/ロハス」や「スローライフ」という言葉の方がしっくりくるかもしれない。雑誌では『ソトコト』あるいは『キンフォーク日本語版』といった雑誌が提唱する価値観で、無印良品なんかも同じカテゴリーに入るらしい。こういったライフスタイルの人が増えてくると、これまでのようなマーケティングが通用しなくなってくるのだそうだ。(たとえば金融業界のマネートレードに代表されるような業界に身を置いているうち、資本主義の仕組みに疲れてしまった人たちが起業してオーガニック食品の店を始めた事例なんかも紹介されている。)
 そして傾向のふたつめは、eコマースやデジタル工作機械を利用したカスタムメイド化。まあたしかにITの影響は大きいだろうね。過去、インターネットが無かった時代には、書物にしろ現物にしろ、なんらかの“モノ”を持つことでしか情報を得ることが出来なかった訳だけれど、今はモノではなくコンテンツが重視される。また最近では、なんでも個人持ちするのでなく共有する「シェアリング・エコノミー(共有経済)」の動きもあるということだ。(*)色んな形で従来の資本主義的価値観から脱しようとする若い人たちを紹介する。ただ最後のシェアリングについては、価値観の違う他の人々との共存を受け入れる度量と社会的な認知が前提になるような気もして、もしそうなら今のように社会的弱者を排斥する傾向が強い社会では、なかなか受け入れがたい仕組みかもしれない。

   *…なお本書ではヤフーオークションやイーベイといった、中古品のユーザー同士
      での直接取引もシェアリングの一種にあたるとしている。子育ての手伝いを
      同年代のコミュニティでシェアリングする仕組みも紹介されていたが、これは
      なかなか面白い取り組みだと思う。

 冒頭でも書いたように、後半は色んな思想家の著作を引用しつつ、社会的な「幸福」の実現について考察する。若者文化や個人のライフスタイルというミクロな話題から、世界経済の未来というマクロな話題へと論調を変えた第5章からは、哲学・思想の話が好きな自分にとっては滅法面白かった。
 たとえば「お金はものではなく“信用システム”である」と説くフェリックス・マーティン著『21世紀の貨幣論』。氏によれば、お金と云うのは「①信用/②価値単位の提供/③譲渡性」という、三つの基本要素でできた“社会技術”なのだそう。貨幣論といえばマルクスあたりの知識で止まっている自分としては驚きの連続。他にもジュリエット・B・ショア著『プレニテュード 新しい<豊かさ>の経済学』などを紹介しつつ、幸せというものに対する考え方が変化していると指摘したり、第6章ではピケティ著『21世紀の資本』を引き合いにして、高度経済成長を実現する資本主義社会が長く続くことは無いと説く。「昔の夢をもう一度」みたいな風に考えている年寄りには面白くない話だろうが、でもそんな社会であってもそれなりの幸福は実現できるのだという提案は、自分のような小市民としては元気づけられる(?)ものではあるだろう。
 欲を言えば著者自身によるオリジナルの意見が無いのが残念ではあるが、それでも引用されている本を眺めているだけで充分に面白かった。社会学とマーケティングの両方に興味がある人にはお薦めの本だと思う。バリー・マクガイアや忌野清志郎による名曲「明日なき世界」を連想させる題名だけれど、決して絶望に満ちた内容ではないよ。(笑)
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『人形の文化史』 香川檀/編 水声社

 なぜだか分からないが昔から人形が怖かった。もしかしたら子供のころに見たテレビ番組か何かがトラウマになっていたのかもしれない。はっきり覚えているのは小学生の時に読んだ楳図かずおの「ねがい」という漫画。主人公の男の子が手作りした「モクメ」という人形が襲ってくるシーンは、夢にでそうなほど怖かった。キャラクターの人形よりも人にそっくりな人形の方が特に苦手で、ひな人形なんかでも夜中に見たらきっと泣き出したんじゃないかと思う。男兄弟だったので家にはひな人形が無かったので良かった。(笑)
 ところがそれが長じてからは、むしろ人形の展示会を好んで観るようになったのだから不思議なものだ。安本亀八の生人形などは鬼気迫る迫力があって、不気味に思うのだけれどなぜかしら目が離せない。「怖いもの見たさ」というのもあると思うが、やはり人形には昔から人を惹きつける“何か”があるのだろう。しかしそれだけ興味がある割に人形の持つ象徴性などの知識を殆ど持っていないのが我ながら情けない。意外と人形の文化的な意味について書かれた本は見つからないのだ。
 そんなわけで本書を店頭で見かけたときには、ちょっと高かったが即買いだった。副題には「ヨーロッパの諸相から」とあるから日本のオシラサマや依代としての人形については書かれていないようだが、いやなに構いやしない。ヨーロッパの幻想小説には人形が数多く登場するので、前から興味があったのだ。
 家に帰ってさっそく読み始めることに。どうやら全体は三部構成になっていて、八名の論客が人形を巡る様々な文化や思想を論じた評論集になっているようだ。
 まず第一部は「<人形幻想>の根源(ルーツ)をさぐる」。西洋世界のヒトガタ(人形)を「神をかたどったもの」として聖性と呪いという観点から論じたり、あるいは民話に出てくる人形の役割や、ヨーロッパにおける自動人形の歴史とそれが日本のからくり人形に与えた影響などが考察されている。つづく第二部は「モダニズム文学にみる人形」と題して、ホフマン『砂男』/リラダン『未来のイヴ』/マイリンク『ゴーレム』という幻想文学を代表する三つの作品のテーマと、各作品に登場する人形がそれぞれ担っている象徴性などを論じている。第三部は「危機の時代の人形愛」。ここでは世紀末から二度の世界大戦を挟む“人が人形にされた時代”に生まれた、ダダイズムによる舞台芸術やプリッツェルおよびベルメールという特異な人形作家たちの作品を紹介している。社会学や文化人類学的なアプローチによって書かれた文章はどれも読み応えがあり、さらには途中に付章としてからくり人形師・半屋春光氏と人形作家・四谷シモン氏へのロング・インタビューも掲載されているなど、ふたを開けてみればかなり“お買い得”だった。以下、順を追ってもう少し詳しくふれていこう。

 例えば第一章「神のかたどり」(踊共二氏)では、西洋における“ヒトガタ”に込められた意味と人形文化の系譜を辿ってゆく。氏によればヨーロッパにおける捉え方として、人形を人より上の存在とみるか下とみるかでまったく正反対の見方が存在するそうだ。神の被造物たる「自然」よりも、人工物たる人形を上と位置付けて偏愛するならば「反自然主義」。そして自然や人が“生”の側にあるのに対し、人形はあくまでも生命を持たぬ“死”の側にあるとするのが「自然/人間至上主義」とのこと。人形はこれら二つの立場を併せ持つ両義的な存在なのだそうだ。また第二章「民間伝承のなかの人形」(嶋内博愛氏)では、ドイツを中心として民間伝承にみられる人形の扱いを分析して、人形が動く場合には製作者などにより生命を吹き込まれて新たな“生き物”として動き出す場合と、単なる呪術の対象として人形そのまま(=非生命)で動く場合があることを明らかにする。本論を読む限りでは、ヨーロッパでは人形に最初から生命が宿っていることはないようだ。(*)うーん、なかなか深い。

   *…「日本の民話であれば、道端で拾った人形が主人公を助けるという話(中略)
      はあるが、作ったものに生命を吹き込むというものはぴんことない。人間の関
      与なしにモノに生命が宿る(ないし宿っている)ことはないのか。つまりそれは
      超自然的力の源をどこにみるかという問いともつながる。」

 この手の話に目の無い自分としては第一部もかなり面白かったのだが、やはり本書で一番愉しみにしていたのは第二部の『砂男』『未来のイヴ』『ゴーレム』の論考だった。(そして期待は裏切られず、かなりの読みでがあった。ただし作品を読んでいないとせっかくの論考が十二分に愉しめないと思うので、是非とも本書を読むときには先に作品に目を通しておいていただく方が良いと思う。)
 「E.T.A.ホフマン『砂男』と自動人形」(光野正幸氏)はホフマンの原作とそれを基にしたバレエやオペラ作品における人形の扱いの違いについて書かれていて、音楽作品には疎いのでとても興味深く読めた。
 リラダン『未来のイヴ』を取り上げた「人造人間の魂」(木元豊氏)では「人造人間に魂はあるのか?」という主題で作品を分析していく。ここで気になったのは、キリスト教における”魂”とはいったい何なのかということ。よく知らないのだが、本考を読む限りではどうやら知性や意思と同じものではないようだ。生命反応の元になる何かということなのだろうか。日本における依代とは神やその他のモノを降ろすための器なのだが、そこでは意思と生命は不可分になっている気がするので、西洋と東洋における”魂”の違いがとても気になった。
 三作品の掉尾を飾る「中欧の〈宿命的な痕跡〉を刻む人形」(桂元嗣氏)という論考は、本書の中でも出色の出来と思われた。ゴーレムを従来の映画のように“不完全な従者”の如きイメージではなく“未分化なもの”としてアフロディーテとの対比まで順に読み解いていく論考は、人形という主題から切り離しても大変に面白い。氏によればゴーレムとは旧約聖書「詩篇」第百三十九章十六節に一度だけ出てくるヘブライ語に由来するとのことで、「まだできあがらないわたしのからだ」の意味なのだとか。「神の息がまだ吹きかけられていないアダム」と位置付ける人もいるらしい。だとすればマイリンクの『ゴーレム』本来の意味に近いということになるだろう。
 第二部の最後におかれた付章②「フランスの黒人人形と植民地主義」ではフランスの万博などで展示された黒人人形の変遷を辿るもの。ヨーロッパ各国がアフリカを奴隷の供給地として位置付けるのでなく、アフリカ大陸そのものを支配する方向へ舵をきり、それが本格化するのは1880年代以降の帝国主義時代とのことで、まさにコンラッド『闇の奥』(1899)の頃というわけだ。黒人人形や日本人形はフランス人の異国への憧憬から生まれたものではないかと思うのだが、もしかしたら『ポールとヴィルジニー』(1787)のようなロマン小説の影響もあるのでは無いかとも思った。(思いつきだけど。)

 第八章は「予兆のなかのベルメール人形」。ベルマー(ベルメール)に至る前の時代に登場した、ロッテ・プリッツェルによる蝋人形の写真が妖しくも美しい。そしてダダや新しい表現主義を経て、グロテスクでエロチックなベルメール人形とシュールレアリズムが結びついてゆく......。澁澤龍彦の愛読者にはお馴染みのベルメールだが、こんな時代背景があるなんて知らなかった。(**)

  **…「人形写真」という芸術ジャンルがあるということも本書を読んで初めて知った。
      写真を撮ることで人形に生命を付与する。あるいは写真になることによって限り
      なく人間に肉薄していく。ベルメールの球体関節人形は実は写真に撮ることで
      作品として完成するものであり、実物をみてもあまり面白くないそうだ。人形の
      壊れた身体を写真で見せることで、背徳的だったり不気味であることが“生”の
      力を人形に吹き込むのだという。これはとてもよく解る気がする。

 なんだかとりとめのない話になってしまったが、人形をめぐる様々なイメージを繙いていく本書は、知的興奮に溢れたとてもよい本だった。それにしてもなぜこんなに人形が気になるのだろう。怖いもの見たさもあるけど、どうしても気になってしまうのだよねえ。もっと人形の出てくる話が読んでみたくなったので、そのうち『ピグマリオン』でも読んでみようかな。

『女の子は本当にピンクが好きなのか』堀越英美 Pヴァイン

 “Think Pink”という言葉をご存じだろうか。自分は全く聞いたことがなかったのだが、なんでも女性向け商品にピンクやパステルカラー、花柄や光り物といったステレオタイプの仕様を用いることのようで、「ピンク発想」という訳語もちゃんとある。ピンクという色は女の子や女性が好む色である一方で、社会における女性の位置づけや性的な役割分担というジェンダー的な問題にも絡むため、どうやら一筋縄ではいかない色らしいのだ。
 本書はそんなピンクについて、アメリカの女子向け玩具の変遷やテレビ番組におけるジェンダーの取り扱い、そして日本で一時期ツイッターを通じて流行った「ダサピンク」やプリキュア等のアニメなど、種々雑多な話題を通じて考え、そして世界と日本における女性の主体的な生き方と社会の関係について想いを馳せようというもの。帯にある「この色(ピンク)と私たち(現代社会)のかくもややこしい関係」という言葉が、内容を端的に説明しているのではないだろうか。
 ただし、けっこう重いテーマではあるのだが書きぶりは決して暗くはないのでご心配なく。女性を象徴する色であり性的役割区分を可視化した「ピンク」という色が意味するものを、自分のような朴念仁のオヤジにも判りやすく解説してくれてとても面白い。本書のようにそれまで知らなかったことを教えてくれる本は大好きだ。

 全体は六章で構成されていて、まず第一章「ピンクと女子の歴史」では服飾史を紹介しつつ、かつては男女の区別なく着られていたピンクがいつ頃から女性専用の色になってしまったかについてひもといていく。結論から言えば、どうやら18世紀にベルサイユ宮殿から始まった「ピンクブーム」がヨーロッパ全土に広まったのが最初。フランス王室のファッションを真似て、女の赤ちゃんにはピンクの産着を着せるという風習が定着していったらしい。そしてそれをさらに後押ししたのが50年代のアメリカ。アイゼンハワー大統領夫人のマミー氏と映画女優のジェーン・マンスフィールドという二人の人物が熱烈なピンク愛好家であり、戦勝ムードに沸くアメリカで二人が身につけたり住宅に取り入れたピンクが、豊かで幸せな女性の象徴として全女性の憧れの色となったのが理由のようだ。
 こうして生まれたときからピンクに包まれて育った女の子は、第二次世界大戦からの帰還兵の就職先を確保するために政府主導で進められた女性の専業主婦化政策と相まって、幼いころからピンクアイテムと一緒に以下のような規範を刷り込まれていくことになった。
 「素敵な女の子はガムをかんではいけません。ズボンもはいてはいけません。常に優しく柔らかに、そして少々おバカに。自分の意見を言い立てることは慎み、しとやかなドレスを着て美しくふるまいましょう。そうすれば素晴らしい(高収入の)男性に愛されて、彼の庇護のもと幸福な暮らしができるでしょう。」
 うーん、まさに1937年公開の映画『白雪姫』の主題歌「いつか王子様が」そのままの世界ではないかねえ。
 もっともその後のアメリカでは、ウーマンリブ華やかりし1970年ごろにピンク色の抑圧に対する女性の不満が爆発して単純な「男の子はブルー、女の子はピンク」という色分けはなくなり服装やおもちゃにも中間色が使われるようになったそうだ。
 その傾向が再び変化し始めたのは1980年代半ばのこと。子供が3歳ぐらいになり性的アイデンティティが芽生えてくると、なぜか三~七歳の女児はピンクに対する執着がとても強くなるらしいのだ。(男女の視覚発達の違いなどそれらしい推測も紹介されてはいるが本当のところは良く分からない。)さらに2000年に発売された〈ディズニー・プリンセス〉ブランドの大成功が、パステルカラーを基調とした〈レゴフレンズ〉シリーズ(2012年発売)やハロー・キティなどと一緒になって「ピンク・グローバリゼーション」を巻き起こしているとのこと。男女平等の価値観の浸透とともに子供の自主性が尊重されるアメリカだからこそ、女子にピンクが蔓延しているというのは面白い。
 冒頭部分の紹介だけでずいぶん長くなってしまった。第一章ではこのあと戦後日本の消費文化におけるピンクの歴史についても詳しく述べているがここでは省略する。ピンク・レディーの登場や歴代の魔女っ子アニメの系譜、ファンシーグッズの事例などが取り上げられているので、興味のある方はぜひ本書を当たって頂きたい。

 さて第二章からは、従来のピンクが象徴していたステレオタイプな女性像のひとつである「科学に弱い」「空間把握能力に劣る」といったイメージを払拭するため、スタンフォード大学の学生デビー・スターリングが考案した女の子向け組立玩具〈ゴールディー・ブロックス〉の成功を始めとして、2013年から全米で巻き起こっている「STEM教育(*)」と呼ばれる理科領域全般の教育推進運動が紹介される。結局のところ「一般的に理科や数学が苦手」という女性の特徴も、子供の頃からの固定観念に基づく教育が原因だったというわけだ。

   *…STEM:Science/Technology/Engineering/Mathematicsの頭文字をとったもの

 〈ゴールディー・ブロックス〉やそれに追従して登場したDIYドールハウスキット〈ルーミネイト〉では、付属の絵のストーリーに従って回転装置やテコの原理を応用した仕掛を動かしたり、ドールハウスに付属されたモーターやライトを配線することで扇風機を回したりエレベーターを動かすといった電子工作が可能になる。色はパステル調で可愛らしいが、「ピンク・プリンセス」への挑戦という意味ではウーマンリブ運動に負けず劣らずの大きな影響を与えるものではないだろうか。またイギリスでもSTEMドール〈ロッティー〉が誕生したり、老舗メーカーも「セクシーすぎない女子アクションフィギュア」の〈IAmElemental〉シリーズや飛行機や観覧車を作れるSTEM玩具〈マイティ・メイカーズ〉を発売したりと、ここ数年で欧米では女子向けのおもちゃが様変わりしているそうだ。昔ながらのお人形の代名詞であるバービーや日本のリカちゃん人形には「算数が苦手」という設定があったらしいが(注:現在では公式プロフィールからは消えている)、そのような部分も今後はどんどん変わっていくのだろうね。

 さて以上のように長年にわたるピンクの呪縛から逃れて新たな動きが出始めた欧米の様子を見たあとは、話題はいよいよ日本におけるピンク問題へと移る。第四章「ピンクカラーの罠」には副題の「日本女性の社会進出が遅れる理由」からもわかるように、社会的に根強い偏見がみられる日本での状況が俯瞰・分析されている。
 いわゆる「女性らしい職業(**)」というものが子供のうちから人形遊びなどで刷り込まれていく様子と、それらの職業が現実的には過酷もしくは低賃金であり、また「男性に嫌われるリスク」を負う覚悟がないとそれ以外の職業に進みにくいという環境が、女性の社会進出を阻んでいる実態が明らかにされる。さらには家事の分業の不平等や出産後の社会復帰を阻む社会風土の存在など、日本においては極めて広範囲にわたる問題をはらんでいると言えるだろう。著者の「たぶん日本におけるピンクとは、欧米におけるピンクよりももっと根が深いのだ」という言葉はおそらく正しい。

  **…花屋、パン屋などの小売店の店員やキャビンアテンダントなどのサービス
      系、看護師や保育士などケアワーク系、美容師やネイリストなど美容系、
      秘書や受付や一般事務などアシスタント系、通訳や英語教師など語学系、
      そして司書や編集者など人文系のおよそ6タイプに分類できるそう。

 日本で社会改善が進まない理由として本書で著者は「大人が問題視しない」ことを挙げている。日本人男性は女性に対して無垢な少女性と無限の愛情を注ぐ母性を求めている――という話をどこかで聞いたことがあるが(気持ち悪い)、結局のところ大人から子供まで男女を問わず社会全体が「ピンクの罠」に囚われて身動き取れなくなっているのではないだろうか。
 主体的な生き方ではなく「モテ、愛される、カワイイ、選ばれる」といった客体としての女性性を演じることでしか認められない日本の女性。よく使われる「女子力」という言葉に対しても著者の「努力を重ねて客体としての女を演じることにより、主体としての「力」を有することを目指す(ある意味では転倒した)現代女性たちのマインドセットを表している」という鋭い分析がなされ、読んでいて心が苦しくなってくる。

 話は佳境に入っていよいよ第五章「イケピンクとダサピンク」では女性のアイデンティティに関する考察へ。そのような状況を踏まえた上で「ダサピンク」という言葉が生まれてきたことを考えるとなかなか趣き深い。これは単にあまり綺麗でないピンク(ダサいピンク)であることが批判されているのではなく、「どうせ女性にはピンクや光り物でも使っておけば良いだろう」という安易な姿勢が批判されているわけだ。そしてこれだけ“難しい色”であるピンクを心から「好き」と言える女性たち、あえて選んで身に着けている女性たちこそは「自分をひきたてる色として、ピンクについて日々考察している一種の美学者」であるのだと著者は言う。(もしもそのとおりなら、そんな女性に対して“雑なピンク”をあてがうのは確かに冒涜に等しいことのような気がする。)
 ではもう一方の「イケピンク」とは何だろうか。それは著者の「客体としての女性性を象徴する無垢なピンクではなく、主体的に選び取られたピンクである。だから、イケピンクは一人ひとり違うのだ」という言葉以外には特に説明は不要だろう。これは匿名性が高く、そのため性別が判り難いツイッターなどのSNSにおける書き込みをみていると非常によく理解できることでもある。「女性」という仮面を外して一人の人間として素に接した場合、ひとりひとりの人物がいかに輝いて生き生きとして見えることか。最近では、秋葉原発の某アイドルユニットが「女の子は可愛くなきゃね 学生時代はおバカでいい」と歌ったことでユニットを主宰する人物が批判を浴びたのも記憶に新しいが、これもツイッターから始まったことでは無かったろうか。
 これからは第六章「ピンク・フォー・ボーイズ」で示される「ピンクが好きな男子」「かわいいものが好きな男性」と同様に、誰もが「自分の好き」を自由に言える社会になっていってもらいたいと思う。そしてそのためにはまず女性が生きやすい社会が実現されるべきなのだ。女性が楽に生きられる社会は男性にとっても生きやすい社会であるに決まっているのだから。

 本書はとっつきやすくて読みやすいけれど決して侮ることなかれ。良書であるよ。

<追記>
 以前読んだ『女の子よ銃をとれ』(雨宮まみ著/平凡社)も、「女の子」という固定概念から解き放つという意味で本書と同じように刺激的で面白い本だったが、本書はふたりの女児の母親という立場がまた違った視点を提供しているように思える。ちょうど今読んでいる『子どもは40000回質問する』(イアン・レズリー/光文社)という本には子供の成長と好奇心に関して書かれていて、まさに本書にも共通するところがあると感じた。誰しも幼いころに持っていた自由な好奇心を、そのままの形で伸ばしてあげられると良いのだがなあと、一人の男児を育てた親として思うところではある。

『愛国と信仰の構造』中島岳志/島薗進 集英社新書

 現代史にも詳しい宗教学者の島薗進氏と宗教に造詣が深い政治学者の中島岳志氏が、日本の政治状況を「国家と宗教」の関わりという観点から分析した対談集。現在の政権が掲げ日本が向かいつつある全体主義的傾向の根源を、明治維新後に当時の政府がとった「神権政治」と「立憲政治」の二重構造に見て取る。政治的および宗教的な価値判断が絡むためすべての意見に首肯できるわけではないが、少なくともその論旨は明晰で説得力と示唆に富んでいると思う。このような観点から日本を語る本はあまり見たことが無かったので、大変に面白かった。以下、元々知っていた話と知らなかった話をとりまぜながら、簡単に本書の内容と論旨を整理してみる。
 まず冒頭の第一章で示されるのが、日本における全体主義を分析するには戦前のファシズム期からではなく、さらに時代を遡って明治政府により為された国家デザインを考えなければいけないという視点だ。昭和になり一気に進んだ全体主義の萌芽が、実は自由民権運動が盛んで開放的だった大正期に秘かに進行していたのだという。
 本書で紹介された社会学者の大澤真幸(おおさわまさち)氏の研究によれば、およそ25年という周期で社会意識が大きく変化しており、明治維新からの75年(①明治維新から日清戦争まで/②日清戦争から第一次世界大戦の大戦景気まで/③戦後恐慌から太平洋戦争勃発まで)と、敗戦からの75年(④敗戦から高度経済成長の始まりまで/⑤大阪万博からバブル景気まで/⑥バブル崩壊から失われた10年を経て現在まで)が非常に似た構図になっているのだという。氏によれば①と④はひたすら“富国強兵”や“戦後復興”へと右肩上がりで上昇していった時代であり、②と④はこの世の栄華を満喫できた時代、そして③と⑥は不景気や社会不安が蔓延している時代として見事に照応しているのだ。ふむふむ、なるほど。
 ではなぜ不景気になり社会不安が広がることで、③の時代に日本は一気に全体主義へと突き進むことになったのか。本書によれば、その直接的な原因は社会との軋轢で「煩悶」をかかえるインテリ青年たちと、先が見えない将来への「不安」を抱える大衆にあったのだという。(現代でいえば過去の家族主義的な価値観にしがみつく政治家や、自国経済の凋落と隣国の繁栄への焦りからくるネトウヨ化した市民にあたるだろうか。)ナイーブな青年たちが抱える煩悶が社会や世界と結びついた時、国家を超えた何かと一体性を求めるような思想となる。このように、自我をめぐる苦悩が極端で危険な観念の土台となる構図は、笠井潔氏による名著『テロルの現象学』で示された赤軍派の若者たちの姿と見事に重なって見えてくる。宗教であれ思想であれ、いずれにせよ「絶対」を求めると碌な結果にならないのは確かであり、美しいとか強いとか恣意的な基準で語られる理想もまた同じことなのだろう。
 しかし青年や大衆の意識が変化した“だけ”で、そんなに簡単に世の中がひっくり返ってしまうものなのだろうか。まして普通選挙の実施により国民主演が徹底されている現代とは違い、“お上”による支配がなされていたはずの明治時代に......。本書を読みながら頭に浮かんだ疑問についても、さらに読み進んでいくとちゃんと説明がなされている。
 維新により幕藩体制から西洋的な近代社会へと大きな改革を成し遂げた当時の明治政府は、欧州の列強により支配されるのを防ぐため急激な富国強兵の道を進んだ。そしてそれをならしめたのは体制の二重構造だったというのだ。まずひとつめは天皇をその中心に据えた「神権政治」であり、そのための具体的な方法こそが、靖国神社を頂点とした国家神道の仕組みの整備と教育勅語による臣民教育の推進とそれによる天皇の神格化だった。(江戸しぐさではないけれど、日本の伝統と呼ばれる文化は意外と歴史が浅かったりするのだ。)
 そしてもう一つの体制は帝国議会や大日本帝国憲法を中心とした「立憲政治」。明治政府は自分たちは実質的には西洋的な国家運営を行う一方で、国民に対しては神権政治を隠れ蓑にした強引な支配を進めようとしていたのだという。しかしその思惑は上手くいかなかった。やがて膨張して大きなうねりとなった神権政治の流れは、政府が制御しきれないほどの勢いとなって5.15事件や2.26事件を引き起こし、太平洋戦争へと暴走していくことになる―― これが本書で示された大まかな全体主義国家への道筋だ。

 現代社会の抱える様々な矛盾や問題の原因が実は明治期まで遡るという考えは自分も以前から持っていたので、本書の主張には概ね納得できた。もともと宗教は国家主義との親和性が高いという話についても、日蓮宗や田中智学の国柱会と宮澤賢治の関係などについては知っていたが、浄土真宗における親鸞の絶対他力と国粋主義の親和性の高さについては知らなかったので新鮮だった。(*)

   *…大雑把にいうと、自らの考えをすてて阿弥陀如来に絶対帰依することを
     幸せとみる思想は、天皇の考えこそが国家安泰と臣民の幸せに合致する
     という形に置き換えられたとき、いともたやすく全体主義に替わるというもの。

 いっぽうで本書における両氏の主張には、首肯しかねる部分も若干見受けられた。一例を挙げると、「人が生きていく上で信仰は無くてはならないものであるため、完全な政教分離の実現は不可能。であれば行き過ぎた世俗主義の弊害を正すため、いっそのこと政治のシステムに有る程度の宗教的基盤を予め組み込んだ方が良い」というものだ。これは自分としては納得できない。今以上に危険な状態へとつながる可能性があるのではないだろうか。うまく言えないけど、中島氏や島薗氏の根底には、人間の営みは「よりよくあらねばならない」という価値判断が含まれているような気がする。人にとって信仰とは何か、社会にとって宗教とは何かについて、もっともっと深く掘り下げないといけないのではないだろうか。
 以上、まあ色々と書いたが、今の社会をみる上で大きなヒントになる本であることは間違いないと思う。少なくとも明治からつづく思想的な地下水脈を見える形にしたことは、評価されてしかるべきではないかと思う。刺激的で大変面白かった。

『トウガラシの世界史』山本紀夫 中公新書

 ちょうど一年ほど前に『チョコレートの世界史』を取り上げた時にも書いたことではあるが、ひとつの食べ物に焦点を当てて歴史を繙いていく本が好きだ。なので本屋で書名に「〇〇の世界史」とか「〇〇の文化史」と付いたものをみかけると、つい手に取ってしまう。そしてまた、その手の本にはどういうわけかこれまでハズレが無いのだ。ざっと書名を挙げてみると、伊藤章治著『ジャガイモの世界史 ―世界を動かした貧者のパン』、角山栄著『茶の世界史 ―緑茶の文化と紅茶の社会』、磯淵猛著『一杯の紅茶の世界史』、臼井隆一郎著『コーヒーが廻り世界史が廻る ―近代市民社会の黒い血液』、武田尚子著『チョコレートの世界史 ―近代ヨーロッパが磨き上げた褐色の宝石』、マーク・カーランスキー著『塩の世界史 ―歴史を動かした小さな粒』、あるいは舟田詠子著『パンの文化史』、石毛直道著『麺の文化史』などなど。(副題が付いている本は、その副題がまた格好いいのだ。)中にはナマコに関する歴史や文化史を徹底的に調べ尽くした鶴見良行著『ナマコの眼』なんて異色作もある。
 特定の物事に焦点を当てて歴史を描くのは割とよくある方法のようで、食べ物に限らなければウイリアム・H・マクニール氏の名著『疫病と世界史』や、先般ベストセラーとなったジャレド・ダイヤモンド著『銃・病原菌・鉄』、船山信次著『毒と薬の世界史』に山田篤美著『真珠の世界史』といったものも。また対象を日本に限定するなら更に多く、桜井英治著『贈与の歴史学』や酒井シズ著『病の日本史』などもある。ただし病気をテーマにしたものは内容が重くなりがちで、続けて読むと次第に落ち込んでいくのが玉に瑕だ。(笑)

 前置きがずいぶん長くなってしまった。今回はそんな“食べ物の世界史”の一冊として『トウガラシの世界史』を取り上げる。南米を原産とするスパイス「アヒー(=トウガラシ)」は、コロンブスによって15世紀に初めてヨーロッパへともたらされ、「ロングペッパー」や「ペペロンチーノ」あるいは「パプリカ」といった名前と共に急速に世界各地の食卓に広がっていった。まさに副題にあるように“辛くて熱い「食卓革命」”を起こした食材なのだ。(ちなみにスワヒリ語ではトウガラシの事を「ピリピリ」というそうだ。これもまた何とぴったりなネーミングだろうか。/笑)
 本書はそんな「世界を虜にした悪魔のスパイス」であるトウガラシについて、その分類や起源から世界各地における受容の状況まで、専門知識が無くとも理解できるように解りやすく俯瞰した本。とりあげる地域は中南米を皮切りに欧州とアフリカを経て東南アジアに南アジアから中国・韓国といった東アジア、そして最後は日本まで、まさしく世界に広がるトウガラシの文化が語られていて面白い。
 なお、この手の食べ物世界史はテーマがジャガイモやチョコレート(カカオ)にコーヒーなど、いずれもヨーロッパ列強の植民地政策と切っても切り離せないものであるため、意外な裏面史を知ることが出来るのも魅力。本書でもアフリカへのトウガラシの移植が奴隷貿易とセットであったことを知って、なかなか複雑な気持ちになった。なお著者は元々農学者であり専攻も歴史学ではなく民族植物学だということで、本書は“世界史”と云いつつトウガラシの植物学的な位置づけや植生についてもかなりのページを割いているのが特徴。自分のような“知りたがり”にとっては却ってありがたかった。
 また、世界各地におけるトウガラシの普及の歴史とともに現在のトウガラシ料理についても紹介してくれていおり、その中でいちばんびっくりしたのはブータン料理だった。「ほとんどありとあらゆるものにトウガラシが用いられ」ていて、「トウガラシなしでは、どのように料理すればよいのかわからない」とまで言われているらしい。他の地域では料理にアクセントをつけるスパイスとして用いられているトウガラシを、ここブータンでは“野菜”の一種としてそのままバリバリと口にしているとのこと(*)。自分は辛い物は決して嫌いな方ではないのだが、さすがにそこまでいくとちょっと......。とてもブータンには住めそうにない。

   *…例えばブータンの国民食とも言われるエマ・ダッツィという料理は、
      トウガラシをチーズとバターとともに煮て塩で味付けしたものなのだそう。

 辛さにはある種の中毒性があるので、辛い物を食べていると更に辛い物を求めるようになる。日本でも例外ではなく、最近は辛い味付けを好む若い人が増えているらしい。この調子ならトウガラシの出番は将来に亘って増える事はあっても減ることはなさそうだ。(本書によれば日本で一番多く生産されている漬物はキムチだそうだ。)
 本書を読んでいて困ったことがひとつある。それは口の中に唾が湧いてきて仕方なかったことだ。でも本書を読んだことで、これから食卓に辛い料理が並んだときは、今までよりさらに料理が愉しめるかもしれない。

<追記>
 最後に恥ずかしい思い出話をひとつしたい。実は小学生の時に、近所の庭に生えていた丸いトウガラシの実が緑や黄色、赤色とあまりに綺麗だったので手で触り、その後何気なく眼を擦ってしまったことがある。当然のことながら目には激痛が走り、幾ら手で擦っても痛みは増すばかり。突発性の目の病気で失明するのではないかという不安と激痛とで気も狂わんばかりだった。(その後、慌てて親に連れて行ってもらった病院で、トウガラシを触った手が原因と分かって大目玉をくらうというオマケまでついた。)そんなわけでトウガラシには個人的に深い思いを持っていたので、本書はとても印象深いものとなった。できれば子供の頃の自分に読ませてやりたいくらいである。もちろんトウガラシを触る前にね。(笑)
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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