『アレント入門』中山元 ちくま新書

このところ国内外ともにキナ臭い状況が続いている。以前から「暴力」の意味について興味があったのだが、ハンナ・アレントにはまさに『暴力について』という著作があり、いちど読んでみようかと迷っていた。しかしアレントは全くの不案内。そのような著作を初めて手に取ろうとする場合、いきなり高いハードカバーでは外れた時のダメージが大きいので(笑)、まず概要をざっくり頭に入れることにした。ほんとうはこういった解説書ではなく本人の著作を直接読むのが一番なのはわかっているのだが、どこから手を付けて良いかすら判らない時はまず視座を頭に入れておきたいのだ。
前置きが長くなってしまったが、そんなわけで本書について。本書はハンナ・アレントの思想を著作の時系列、すなわち『全体主義の起源』『人間の条件』『イェルサレムのアイヒマン』、そして連続講義「道徳哲学のいくつかの問題」に沿って俯瞰していくものだ。ハイデガーとの関係やユダヤという彼女の出自から出発し、やがて到達し得た独自の道徳哲学を解説する。(本書を読んでみて、『暴力について』それより『人間の条件』や『責任と判断』といった辺りの著作を先に読んだ方がいい気がしてきた。)
中身についても軽くふれておこう。端的にいえばアレントは「なぜナチスに代表される全体主義が発生し」、そして「それを食い止めるには何をすれば良いのか」を考察した人といえる。そして彼女は人々が社会的に「孤立」の状態に置かれていることこそが全体主義の温床となると指摘し、対抗するには「公的な領域」を作り出す事と、その中で人々のまなざしの下に行動することが重要であると説いた。それが示されているのが冒頭に挙げた『全体主義の起源』および『人間の条件』というわけだ。
本書によれば、アレントは人間の行為を「労働」「仕事」「活動」の三つに分けて定義し直しているそうだ。最初の「労働(labor)」とは個人の生命維持に必要な行為であり、次の「仕事(work)」は世界に何らかの"作品"を残し人々の間に"世界"を構築する行為。そして最後の「活動(action)」は、人と人との間に交流を生み出す行為であるとのこと。全体主義に深く関わりがあるのは、これらの行為のうち最後の「活動」であり、具体的な事例としては古代ギリシアのポリスにおける「民会」が引き合いに出されている。
古代ギリシアにおいて民会すなわち「公の場」で発言するのは、自由な市民として他の市民を説得しようという意思の表れ。発言する者はその行為によって、自らがどんな存在なのか周囲に暴露する危険を引き受ける覚悟を持つ。また他者に意志を示すということは、すなわち他者から反論される危険性を引き受けることでもある。(インターネットのブログやSNSをみていると、現在は自分の主張はしても前述のような「危険」を引き受けようとはしない人もけっこう多い気がする。SNSはまるで私的空間のような親密さで見ず知らずの人とも気軽にコミュニケーションを取れるのは良いのだがまた一方で暴走の危険も孕む。自分の世界を大事にするのであれば、あえて他者の視線をもっと意識するべきなのかもしれない。)

閑話休題。しかしアレントによれば、そのようにして危険を冒しながらも公の場で発言することが、すなわち他者と異なるその人自身の「他者との差異性」を明らかにする方法に他ならない。そして先に述べたように、「公的な領域」を通じて人同士が交流することこそが、全体主義に絡め取られないために必要な行為なのだ。(*)

   *…ただ、アレントが「公的な領域」と「私的な領域」の区別を強調しすぎているような
      ところが、若干気にはなった。カレントが私的領域と呼ぶ家庭といえども、家族と
      いう自分以外の人間との関係性が生じるなら権力は発生するわけで、ある種の
      「公的空間」と呼んでも差し支えないのではなかろうか。そのうち積まれたままに
      なっている『人間の条件』を直接読んで確認してみたい。

次はアイヒマン裁判の傍聴記である『イェルサレムのアイヒマン』。この本で彼女はナチスの「良き歯車」であろうとしたアイヒマンの裁判を傍聴してレポートにしたためる。彼女はアイヒマンの「恐ろしいほどにノーマル」な印象が与える「悪の凡庸さ」に衝撃を受け、そして深い思索の末にアイヒマンに彼女なりの「死刑判決」を下すのだそうだ。
それは単にアイヒマンが非人道的な行為に加担したからでも、犠牲者があまりに多いからでもない。彼女が「死刑判決」を下したのは、彼が「この地球に誰が住み誰が住んではならないかを決定する権利を持つかのように」振る舞い、その行為を実行したからなのだという。そのような人物だからこそ、地球上で誰からも「ともに天を戴く」ことを望まれないであろう――ということこそがその理由なのだ。(このあたりのアレントの批判は問題の核心を突いている感じがする。)
自分が思うに、これは他国の人々や透析患者へ暴言を吐く人たちにも通じる批判であるまいか。そしてアレントが生涯を通して追究した「思考する力は人が悪を為すことを防ぐことができるのか、という問いは現代に生きる我々にこそ問われなければならないものではないかという気がする。ふうむ、重たいテーマだ。

<追記>
キリスト教徒やユダヤ教徒、そしてイスラム教徒といったいわゆる“啓典の民”にとっては、神の定めた戒めを破ることがすなわち罪になるのだろうと思う。いっぽうで自分も含め宗教に対して不信心な一般的日本人にとってはそうではない。我々にとって神の戒めの代わりになる価値観は、昔は「世間体」というものだったと思われる。しかし地域のコミュニティや大家族制が崩壊した今となっては、「世間体」なるものはほぼ死語に等しくなってしまった。そしてSNSでは代用となる価値観を提供するにはあまりに狭くまた弱い。結果、よく「ぶれる」のだ。
かつて「神が死んだ」時代に、それに代わるものを哲学で打ち立てようとしたのがニーチェだったと思うのだけれど、ポピュリズムと同様、全体主義の道具としていいように使われてしまった。哲学は困難な時代に人々の救済にとって強力な武器になると思うのだけど、色々な理由でそれが受け入れられない人はいる。遥かな昔それを支えていたのが信仰だったのだろう。だからこそ鎌倉の戦乱の世に、悟りを開くための修行をする力も時間もない衆生のため、法然や親鸞らが南無阿弥陀仏を唱えたのだ。
しかし信仰すら確固たるものを与えられない時代においては、カルト化もせず普遍的な救済を与えるのは大変な困難を伴う。してみると未来の哲学や社会学や政治学の使命は、信仰に代わるものを生み出すことなのかもしれない。そしてそうでなければ、本来の目的を果たすことが出来ないのではあるまいか―― とまあ、そんなことを考えてみたりもするのだ。
読まなきゃね、アレント。
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『哲学は資本主義を変えられるか』竹田青嗣 角川ソフィア文庫

 ※今回はちょっと固めですがご容赦ください。

 前にも書いたことがあると思うけど、自分が日本の思想家の中で一番おもしろいと思うのが竹田青嗣氏なのだ。『現象学入門』(NHKブックス)を読んでその面白さに驚き、氏の著作を遡って読んだ後は、新たに思想入門書がでるたびに片っ端から買って読んだ。
 最初の頃の哲学者としての氏の活動は、「エロス」(注:エッチな言葉ではなく“生の躍動”といった本来の意味なのでお間違えなきよう。/笑)をキーワードにした、「生きる」ことへの思索が中心だった。しかしその後は、西研氏らと共に立ち上げた研究会でヘーゲルやカントの著書を原書で徹底して読み込むことで、新たな段階に進んでいる。(とかエラそうに書いているけど、実際には著書を読んで「ほえー」と感心しているばかりなのだ。/苦笑)
 今の氏の活動がどんな状況であるかを自分のつたない理解で要約してみると、「現象学や実存哲学をベースにしつつ、ヘーゲルが『精神現象学』で提唱した「自由の相互承認」という概念に基づいて、現実社会で誰もが幸福に暮らせるための哲学的な原理を構築する」といったところだろうか。
 「哲学なんて実際の生活に何も役に立たない」という意見は良く聞かれるものであるが、自分は(竹田青嗣氏と同様に)そうは思わない。哲学は原理的で根源的であるがゆえに却って、あらゆる社会生活の局面で考え方の基盤になりうるものだと思っている。ちなみに哲学が社会と関わり合うときの基本的なモデルは「公共のテーブル」というだと竹田氏は述べているが、これは当初ハンナ・アーレントにより提唱されたものだそうだ。たとえば科学が「唯一の真理」を追究するものだとすれば(*)、哲学はひとつのテーブルで議論しあい「真理」では無く「お互いの合意」を目指すもの。同じテーブルについた人々の間で、いかに納得のうえで合意を取り付けることが出来るかが大事であり、その材料を提供するのが哲学の社会との関わり方なのだ。なお、このあたりの思索については、柄谷行人氏の著作である『トランスクリティーク』(岩波現代文庫)を批判的に考察しつつ、建設的な提案を行った『人間的自由の条件』(講談社学術文庫)に詳しい。ご興味がある方はどうぞ。

   *…科学哲学におけるクーンのパラダイム論を引き合いにだすまでもなく、
     科学で扱われるのが「唯一の真理」ではないことは承知しているが、
     ここではあくまでも便宜的にそう書かせてもらった。なので深くは突っ込
     まないで頂きたい。(笑)

 前置きが長くなった。本書『哲学は資本主義を変えられるか』は当初『人間の未来』という題名でちくま新書から出た本を改題したもので、ヘーゲル哲学を再考した前著『人間的自由の条件』への批判に応えるため議論をさらに深掘りし、前著のラストで簡単に示された展望をさらに追究したものとなっている。例によって自分の備忘録も兼ねて、内容について以下にざっと紹介してみよう。

 本書で中心となっているのは、だいたいヘーゲルおよびマルクス思想の哲学的な原理解釈。資本主義を歴史上初めて出現した「持続的な拡大再生産を可能にする経済システム」と定義して、それは「普遍交換」(≒大量輸送による商業)に「普遍分業」(≒商業により促された分業制による拡大生産)、そして「普遍消費」(≒何らかのかたちでの大量消費)という三つの原理によって支えられていると説く。(もちろんバタイユの“過剰なエネルギーの供給とその蕩尽”についても言及があったりして、消費社会という化け物のようなシステムを分析するために、色々な思想が総動員されている感がある。)
 さて、これらの原理に基づいて経済システムが動いていくわけだが、そのままでは経済格差や社会的な不平等が発生してしまう。個人の想いが違うことで強制や抑圧が起こり、国と国が互いに覇権を争うことになる。まさにホッブスが「普遍闘争状態」と呼んだ状態である。ではこの状態を解消するにはいったいどうすればよいのだろうか。本書によればその鍵となるのが、冒頭でもふれたようにヘーゲルの「自由の相互承認」であるのだという。(ちなみに竹田氏によれば『精神現象学』をはじめとするヘーゲルの思想は現在かなり誤解されているそうで、当時の社会情勢からくる問題もたしかにあるけれども、その思想の根本は今でも通用する普遍的な価値を持っているそうだ。)以下、もう少し詳しくふれてみる。
 「自由の相互承認」の元になっているのは「法(recht/レヒト)」と呼ばれている概念である。ヘーゲル独特の用法なので一般的な解釈とは違い、これは「法」と「権利」と「正義」という三つの意味を含むものなのだそう。「法(recht)」の行使は何かを「禁止」することを基本とするが、それは権威を持つ者の命令なのではなく、ただ単に「他人の自由(人格)を侵害するな」という意味らしい。(これって仏教が言うところの「自分がされて厭やことを他人にするな」という考え方に近いのではないかな。)
 放っておけば資本主義社会では個人の欲望のせめぎあいが始まり、その結果、強者による弱者からの搾取につながる。だからこそ社会をそのままの姿で放置するのではなく、「人倫(社会的な倫理)」によって制限を加えるべきだというのがヘーゲルの主張。そしてそれは「法(recht)」に基づいたものでなければいけないというのだ。(ちょっと話がややこしいがここは重要。)
 竹田氏は次にヘーゲルの主張を引き継ぐ形で、市民社会たる近代社会が構想されるにあたって一番重要だったのは「完全ルールゲーム」の理念であったと定義し、市民社会こそがそれまでの封建社会から普遍闘争状態の原因になる「暴力原理」を完全に排除して、これを純粋なルールゲームに変えるための試みであったのだと述べる。それは「ほんとう」についての秩序が存在するであろうという信憑を、人々の間につねに育て上げることなのだ。
 こうして市民社会が確立したことによって初めて、平和的議論の土台となる「公共のテーブル」が準備されたことになる。(ちなみに本書ではホッブス/ルソー/ヘーゲルという偉大な思想家3名によって示された近代国家理念の本質的概念のことを、「普遍ルール社会」と呼んでいる。)
 さてとりあえず議論の土台が出来たところで、次に行うのは人々の幸福とは何か?社会は何を目標に構築されるべきか?という考察である。たとえば目標とする理念をひとことで「最大多数の最大幸福」と呼んだところで、「一般福祉」つまり幸福の実現はどのような理念に基づいて追究されるべきかが明確でないと、アーシュラ・K・ル=グインにより短篇「オメラスから歩み去る人々」で示された問題に答えることは出来ない。本書ではそれにどのように応えたか。本書で示された意見を要約すると、おおよそ次のようになるだろう。

 ■人間の生にとって何が「善」で何が「幸福」かは本質的に多様性を持っていて
  一律には決められない。しかし各人がそれぞれの「幸福」を追求する可能性は
  確保されるべきであり、よって社会的な「善」とは、社会の人々が「自らの実存
  の独自な存在可能性」を追求しうる条件が常に確保され、また改善され続けて
  いくこと以外には内実を定位することは出来ない。(**)

 これこそが近代国家の公準(存在理由)の原理として「一般福祉」を置くことができる理由となるのだそうだ。ふむふむ。また本書ではこれ以外にも、「普遍資産」の完全に平等な配分は不可能であることと、大切なのは配分の偏りが各自の仕事の成果に応じていることが、一般福祉の成立条件として示されている。そして役割の分化は各人の資質に合わせた自由な「意志」の決定の結果として現れ、決して権威や権力によって決められたり社会的に固定されるものではないと説く。これはもしかしたら「オメラスから歩み去る人々」で示された問題のひとつの回答にもなり得るのではないだろうか。(あくまでも哲学的原理としてではあるが。)

  **…参考までにヘーゲルの言葉が本書に引用されているので抜き出しておこう。
     「おのれを善と主張する悪(が存在する)」「行為を......自分自身にとって善であ
     ると主張することができる。......そのような行為を他の人たちにとって善であると
     主張するのはいつわりないし偽善(である)」 
     ううーん、やっぱりヘーゲルすごいわ。

 さて駆け足ではあるが本書の議論の内容を見てきた。一般福祉のもととなる「事(こと)そのもの」(byヘーゲル)あるいは「公共のテーブル」(byハンナ・アーレント)という概念こそが、「自由の相互承認」の前提になる相互理解のベースであり、また唯一の方法であるという示唆が示されたことは、確かにあるひとつの社会の中では有効だろうしかし実はまだもうひとつ大きな課題が残っている。竹田氏も述べているように、近代国家同士が「普遍的闘争状態」を克服できていないことこそが問題なのだ。
 そこで終章では、新たに見田宗介氏の「限界問題」という概念を用いて、資本主義における様々な限界問題(例えば地球温暖化に代表される環境問題など)に対処する目的で、国家同士が大きな一般福祉の下に協調しあう仕組みを指し示して終わる。最後の展望がすこしあっさりしすぎて物足りないところではあるが、哲学的原理と社会における実践をつなぐものとして本書はじゅうぶん読み応えのあるものであったと思う。
 そういえば現象学の創始者であるフッサールも『イデーン』などの主著で現象学の哲学的な原理を構築したのち、晩年には『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』で実社会への展望を示したのでなかっただろうか。本書も同様に「哲学は役に立たない」という主張に対するひとつの反証であるといえるかもしれない。

<追記>
 昔から「暴力」の本質とは何かについてずっと考えてきたが、なかなか自分のなかで答えは見つかっていなかった。それが本書を読んでいるうちにふと思いついたので、忘れないように追記しておきたい。
 主観としての立場からいうならば、「暴力」というのは「外部から一方的に与えられ、自らの意にそぐわぬ行いを強制する力」のことではないだろうか。圧倒し侵犯する力。そしてついでに言うなら、「信仰」とは「外部からくる暴力的な力を受容し自らのものとすること」ではないのだろうか。原始ユダヤ教などをみると、そんな気がする。

『プラグマティズム入門』伊藤邦武 ちくま新書

 「プラグマティズム」については高校の倫理社会の授業で習った程度で、“アメリカを代表する哲学であり実践を重視する”というぐらいの知識しかなかった。いきなり難しい専門書を読むのは嫌なので、まずは全体像が俯瞰できる入門的な本が読みたい―― そう思っていたところ、今回ちょうど手ごろな新刊本を見つけた。ちくま新書は昔から色々な哲学入門シリーズを出しているのだが、今回はいよいよアメリカを代表する実践哲学プラグマティズムだ。本書では150年に亘るプラグマティズムの歴史と変遷を三つの時代に分け、パースから現代まで13人におよぶ人々の思想を紹介している。(*)

   *…プラグマティズムは19世紀にパースによって創始され、ジェイムズやデューイ
      らによってその骨格が固まった。その後いったん下火になったものの、70~80
      年代にはクワインやローティーらによって新たに「ネオ・プラグマティズム」と
      呼ばれる運動がおこり、そして90年以降の広がりを経て現在のプラグマティズ
      ムに至るのだそうだ。

 結構、各々の思想の中身に踏み込んで解説しているので、聴きなれない単語や知らない人物も多く出てきて少し苦労するがその分読み応えがある。プラグマティズムは「実用主義」とも訳され、アメリカの基礎になる思想であるとも言われる。しかしその後、社会運動やビジネスにまで展開されることで焦点がぼやけ、部外者にはとっつきにくい概念になってしまったのではないだろうか。(少なくとも自分がそうだった。)本書ではふらふらと掴み所が無いこの思想について、本来の形である哲学からのアプローチで説明してくれるので視点がぶれない。本書を読んで意味がやっと解ったような気がしている。(あくまで気のせいかもしれないが。/笑)
 しかしさすがに多くの人が絡んでいるだけあって、知れば知るほど源流から現代まで紆余曲折している。同じプラグマティズムで括られる思想でありながら、個々はほとんど別物といっても良いほどだ。とても全部はまとめきれないが、まあ印象に残ったところだけでもあげていこう。

 冒頭にも書いたようにプラグマティズムはチャールズ・サンダース・パースによって、ケンブリッジ大の学生たちによる「形而上クラブ」という集まりの中で産声をあげた。(パースは哲学だけでなく論理学・数学・科学など多くの分野でも優れた業績をあげた、文字通りの天才だったらしい。)名前はギリシア語で行為や活動、実践などを意味する「プラグマ」という言葉からとられたもののようだ。。
 この考え方はもともと、デカルトやカントといった観念論にみられるような、この世の現実とかけ離れた「真理」を規定することへの疑義から始まったもののよう。とても乱暴な言い方をすれば、形而上学的な「真理」などというものは無く、我々が生きるこの世界にとっての意味しかないという考えかたになるだろうか。
 パースは真理の探究方法としてデカルト的な方法的懐疑を不完全なものとして退け、代わりに最も優れている方法として「科学的探究」をおいた。これは「帰納的推論」と「仮説形成的推論(アブダクション)」、それに「演繹的推論」という3つの推論パターンをより合わせたものだそうだ。そして本当の「真理」とは哲学者という個人(=ひとつの理性)による探究によって得られるものではなく、複数の人間による“理想の共同体”による探究の果てに収束する最終的な信念であるとした。ふむふむ、まさに“実用主義”だ。なお、この「唯名(≒真理)論vs実在論」という図式は、(その後バリエーションが増えたにせよ)いまだにプラグマティズム全体に共通する特徴になあっているらしい。
 この新たな思想はその後、パースの盟友であったウィリアム・ジェイムズによって世に広く知らしめられることになった。しかしこの時点で既にジェイムズの考え方はパースとは違うものになっていたよう。彼にとって「真理」とは概念の定義ですらなく、あくまで実際に生きる行動を起こすうえで有用な「道具」でしかない。パースよりも更に極端な彼の思想からは、反デカルト主義という伝統の他にもうひとつ、「多元主義(=人の数だけ心理がある)」という重要な特徴が導き出されることになる。

 うーむ、ここまで読んで首をかしげる。これには自分としては同意できない。デカルトの方法的懐疑を不徹底であるとしたのは良いとしても、同じくデカルトへの批判から方法的懐疑をさらに徹底することで生まれた“現象学”に大きな影響をうけた身としては、パースやジェイムズの主張には納得できないことだらけだ。(笑)
 どうやって複数の人間の解釈の違いからくる誤謬を防ぎ、どうやって考えを収束させるというのだろう。無理やり収束させたとしても、それは単なる妥協の産物に過ぎずその時々で変わるため、とても「真理」と呼べるものではないのでは?あくまでも行動の効果としてのみ真理を認めるという考え方には、どうもデカルト以上の不徹底さを感じてしまう。あれこれ考えながらさらにページをめくる。
 どうやらジェイムズの場合、真理とは行為に至るための信念や観念すなわち「信じようとする意志」あるいは「信じる権利」の先にあるもののようだ。つまりある行為を為そうとしたとき、道具として有効であったものこそがジェイムズにとっての「真理」という定義なのだ。(著者によればジェイムズにとってこのような批判は既に想定済みの内容なのだそうだが、ただしその反論も根拠を「論理」ではなく「気質」に求めることで相対化するという大技なので、自分にはちょっとついていけない。こんなツッコミだらけの本を最後まで読み通すことができるだろうかと、だんだん不安になってくる。/笑)
 しかしその次に紹介のあったジョン・デューイはなかなか面白かった。彼は哲学がなぜ人間の持つ知識の確実性を探求するのかについてある種のメタ哲学を展開していて、さきほどまでの素朴な議論とは少し異なる感じ。「真理の探究とは有機体が様々な環境のもとで自己の平衡を取り戻すため、降りかかった問題に対処する行為として解釈されなければならない」なんて主張は、まるで“アフォーダンス”みたいな発想ではないかと思う。ここまでくるとプラグマティズムにおける「真理」とは過去の哲学のように絶対的な意味での確証でも客観的なものでもなくなり、あくまでも問題が発生した社会や言語や時代に即して示唆可能な仮説に依存する「限定された意味での保証付き信念」に過ぎないことになる。うん、この話は納得できる。

 気を取り直して第2章へと進む。この章ではプラグマティズムがヨーロッパにおける論理実証主義の勃興とともに下火となったのち、新たな思想家の再評価により復活を遂げ「ネオ・プラグマティズム」と呼ばれるようになった70~80年代が紹介される。ここでまず取り上げられるのは、今でも現代思想の本で名を見かけるクラインという思想家だ。彼によってプラグマティズムの再評価(ただし彼はパースに対しては若干批判的な面も。)が始まり、ついでリチャード・ローティーによる先鋭化とパースの否定、そしてその結果による徹底した相対主義化を経て、最後にはパトナムによるパースへの揺り戻しがなされるというのがネオ・プラグマティズムの大まかな構図。
 ちなみにローティーはクワインよりもさらに過激だそうで、クーンが科学哲学に大きな衝撃を与えた「パラダイム論」(**)に依拠しつつ、プラトンからデカルト、ロック、そしてカントまでの一連の思想をひとからげにして「破綻したもの」であると退けてしまう。そして真理とは「人々がレンチという形で(社会の中で)共有しうる信念」であるとまで言い切って、科学から文学、道徳、そして政治まで含むありとありとあらゆる知的活動はいずれも人が考え出したものに過ぎないため行動理念として優劣は無く、すべてが平等であるとする極端な多元論を展開する。(まるでパースに対するジェイムズのようだ。ローディの主張自体は理解できるものの、考え方そのものに首肯できるわけではない。彼が主張する「自文化中心主義」というのが単なる相対主義と結局のところどう違うのかさっぱり解らなかった。)

  **…たとえば天文学における天動説からコペルニクスの地動説への転換のように、
      科学による“真理”も決して絶対的なものではなく、その時代の科学者たちに
      よって了解が得られた主観の共有(=パラダイム)に過ぎないという考え方。

 次に登場するのはヒラリー・パトナム。名前はヒラリーだが男性だ。彼はクーンのパラダイム論と真っ向から対立する「科学的実在論」から出発した思想家であるにも関わらず、その後まるで正反対ともいえる「内在的実在論」(=カントに似た間接的な認識論)を経由して、最終的にはプラグマティズムと同義である「自然的実在論」というものへと至った“変わり種”だそう。その思想遍歴は目まぐるしく変わったが、最後にはクワインもローティーもどちらも極端な思想であるとして、両者をともに退ける中庸思想へと至ったらしい。ふうむ面白い。パトナムの思想の肝はウィトゲンシュタイン論理哲学の独自解釈であるようなのだが、このあたりまでくるとややこしくて、話についていくのがやっとになってくる。(苦笑)
 またその後も現代のプラグマティズム思想家であるドナルド・ディヴィッドソンやデュエムやセラーズなど、これまで馴染みがなかった哲学者の名前がたくさん出てきて、バラエティ豊かな各々の思想を追うのがちょっと大変になる。また先ほどから挙げているような「アブダクション」や「パラダイム論」といった用語が詳しい説明なく出てくるので、そのあたりにある程度の予備知識を持っていないと読むのがつらいかもしれない。ただし論旨はよく整理されているので、話の内容が判らなくなることはなかった。

 ここで本書のこれまでの内容に沿って、「プラグマティズム」とは何かについてもういちどざっと俯瞰してみよう。プラグマティズムでは真理や客観というものを、主に社会において共有される信念であると捉える。そしてその観点からデカルトに始まる観念論の考え方を批判および相対化し、時と場合と人によって真理の姿は異なるという多元的な見方を主張する。多元的であるがゆえに、同じ「プラグマティズム」というレッテルを使いながらも人によって主義主張がふらふらと揺らぎながら並存することになる。また思想的には「主観とは別に客体(または真理)が存在する」という科学主義と、それとは逆に「あらゆるものは主観に過ぎない」という相対主義(≒パラダイム論)との間を、時代や思想家によってふらふらと往復するものとなる。これまで全体像が見えにくかったのも当たり前だ。また教条主義的な議論よりは、むしろ社会的実践に重きが置かれるという特徴をもっていて、いかにも多民族国家のアメリカで生まれた哲学という気がする。

 以上が本書の大まかな内容と印象。読んでみて「ユリーカ!」と叫ぶようなことにはならなかったが、自分にごそっと抜けていた知識を新しく知ることができたのはとても好かった。とくに科学哲学の背景が判ったのは嬉しい。それではひとつだけおまけの話をしてこの記事を終えることにしたい。
 実はしばらく前から『表現と介入』という科学哲学の本を読みかけのまま放ってあるのだが、その著者イアン・ハッキングがプラグマティズムの思想家だということを本書で初めて知った。たしかに「唯名論vs実在論」をテーマにした本なのだが、その理由がプラグマティズムにあったとは。こんな風に思いがけず繋がるとなんだか愉しいなあ。また続きを読まなくてはね。

『暴力の哲学』酒井隆史 河出文庫

 むかしから「笑い」と「暴力」の哲学的な意味に興味があって、本を見つけると機会があるごとに読んだりしている。自分が知りたいのはそれらの現象学的な“本質”なので、残念ながらこれまでのところはまだ「これだっ」という本には巡り合えていない。ただし、例えばベルクソンの『笑い』やジラールの『暴力と聖なるもの』なども自分が知りたかった事とは違う内容ではあるが、社会学的な考察であったり文化人類学的な考察であったりして、これはこれで面白かったりもする。
 というわけで今回は本屋の店頭でずばり『暴力の哲学』という題名の本を見かけたので、さっそく買って読んでみた。内容をざっくりといえば、国家による民衆への圧倒的な暴力行使のメカニズムを読み解いて、「マジョリティの恐怖」を煽ることで行われる支配を脱するために無抵抗と従順による“擬似的非暴力”ではなく、例えばマハトマ・ガンディーらのような本来の意味での“非暴力/反暴力”の重要性を説く本とでもいえば良いだろうか。本書も「哲学」というよりはむしろ社会学や政治学に近いものではあったが、しかしこれはこれでやはり面白く色々と示唆に富んでいる。笠井潔氏の評論『テロルの現象学』の最後に示された結論の、さらに先に行ったような印象はある。ではざっと中身に触れてみよう。

 本書では暴力をおおきく3つに分けている。まずひとつめは政治的権力と結び付く暴力。ここには軍隊や警察の治安部隊なども含まれるだろう。残りはいずれも政治と無関係な暴力であって、ニつめは宗教や絶対正義に裏打ちされた「政治上位的暴力」というもの。三つめはそれとは逆で、抑圧されたものが至る目的なき暴力ともいうべき「政治下位的暴力」。著者は政治的暴力に対抗できるのは愛や無抵抗ではなく、かといってカウンター的な暴力でもなく、権力から加えられる“正”の力を無化するために被抑圧者たちから生み出される“負”の力こそが重要だという。そしてそれが先ほども書いた「非暴力」というものなのだ。前半ではアメリカの黒人運動で有名なキング牧師やマルコムX、そしてその後のポストコロニアム思想をリードしたフランツ・ファノンといった人物を引き合いに彼らの思想を分析し、その行動から「憎しみ」と「怒り」というふたつの要素を抽出する。そして両者は一見よく似た感情であるが「憎しみ」は決して暴力の解決には結びつかないと主張する。それは「その感情をもたらす原因に遡り、根源的次元から根絶しようというのではなく、」むしろその結果生み出された「特定の人間や集団」を「排撃したり殲滅することでカタルシスをえる」ものであるので、暴力の根源的な根絶には至らない。ジョージ・オーウェル『一九八四年』に出てくる「憎悪の時間」などもそうだが、圧政者は人種や民族や生まれ育ちといった生得的な特徴をことさらに強調・利用することで、社会の底辺に位置する人々に、ある種の人々への憎しみを煽る。(「在日特権」や「生活保護の不正受給」といった話題などもそのひとつだろう。)その結果、本来は力を合わせるべき人々の間に相互不信と劣等と体制への依存が生みだされてしまう。それに対して「怒り」の感情の場合は、対象が身近な者ではなく暴力が生み出される根源的な問題へと向かうため、その解決へと結びつくものなのだそうだ。キング牧師による公民権運動の高まりやガンディーによる「塩の行進」などはまさに怒りの表出に他ならないとのこと。
 また(民衆に対して)強制力を持つという意味では、国家など主権を持つ者が“暴力をふるう権利”を有するとも言えるわけであり、ここからはマルコムXの率いたブラック・パンサー党の活動にあるように、「主権を持つのは誰か?」というまた別の根源的な問題が問われることになる。一方ではハンナ・アーレントのように、権力と暴力は本来別の物であって暴力は権力行使の道具に過ぎないといった議論もあるらしい。もっとも著者はアーレントの理論は暴力論としては致命的な欠点があると言っているが。(ここまで行くと詳しくないので全然わからない。/苦笑)

 そもそも「暴力」とはいったい何なのだろう?本書を読みながら考えてみる。他者に対して相手の意にそぐわない状況を強いるための手段であって、且つ施行する者の精神構造に対しても暴力への依存と過激化という影響を及ぼすものなのだろうか。つまりは道具(あるいは下僕)であるとともに、自らをまた目的(あるいは主人)にしようとするものなのだろうか? 読みながらぐるぐると頭の中が回っている。
 ページが進むと中ほどに出てくる、フーコーとニーチェの話が面白い。ニーチェといえばすぐに出てくるのは“力への意志”。そしてフーコーは“生権力”で有名だが、両者ともに共通するのは「権力は何か?」という問いは発せず、ただ「権力とはどのように作用しているか」を問えるだけであるとした点。すなわち彼らによれば”存在”と”力”は同義であり、権力はAからBに譲り渡せるようなものではないのだ。よって権力の移譲をベースに物事を考えるのは止めるべきだという。(ここで話はいよいよ核心の暴力と権力の違いへと移っていく。)
 暴力は「強制し、屈服させ、拷問にかけ、破壊し、すべての可能性へ通じる扉を閉ざすもの」であり「暴力をこうむる側は、受動的たりうるだけ」である。一方、権力とは「人間の身体そのものではなく、まず行為の可能性の領域に働きかけ」て「人のなしうる可能性から力を引き剥がしてしまう」ものなのだそう。そうすることで、権力は自分達により従順な人々を作り上げるのだ。
 権力の行使の仕組みは、例えばL.A.の黒人暴動(1992)の引き金となった白人警官によるロドニー・キング青年の暴行事件の顛末を見れば明らかになる。被告の警官たちが無罪になった裁判のように、権力は圧倒的強者が弱者に対して感じる根拠のない不安を利用し、その結果は強者による「予防対抗暴力」となって常に現れるのだ。地面に倒れ込んで身動きもできないキング青年を取り囲んだ屈強な警官たちによる「やらなければやられるに違いない」という思い込みによるいきなりの暴力。これなどはブッシュによるイラク侵攻の際の強弁(もしくは日本の現政権の考え方)でお馴染みのものだ。つまり逆説的ではあるが、戦争とは「根本的に反戦的」なものなのだ。なおこれらの強弁に関連しては、性的な要因と暴力の関係についてもふれられている。著者によれば、暴力が発生するときは理念的な「男らしさ」と自らの現実的な「無力(不能)」の間の亀裂を埋めようとする運動があるのだ。うん、これは何となくわかる。身近な例をみても、自信の無い人間ほど自己評価が根拠なく高かったり、そのくせ他人からの評価をやたら気にしたりするから。男らしさも決して「力の解放」などではなく、むしろ人を束縛する力の封鎖と規制の形態であるのだという指摘は鋭い。

 次にはこういった傾向が進んだ状態である、「ウルトラ・ポリテクス(=政治の直接の軍事化)」を介して抗争を極限にまで押し上げることで達成される脱政治化(の暴力)にまで考察が及ぶ。けっこう難しい。ここではクラウゼヴィッツやシュミットら(*)によってなされた思想的な研究、すなわち“ゲリラ・パルチザン闘争”と“総力戦による殲滅”の対比について取り上げ、こういった二者択一的な思想の限界ならびに「民衆的防御」という概念との相違点、さらには「民衆的防御」という概念のもつ可能性について示される。
 ここでいう「民衆的防御」とは何か? それは1871年のパリ・コミューンや上海、ロシアなどにおけるコミューンのように、国家(軍や治安維持の部隊)に組織化されたのでなく、あくまで民衆からの自然発生的な「反暴力」と説明される。(これを思想家でもあり小説家でもある笠井潔氏は統治の理想状態であると定義した。本書ではベンヤミンの「神的暴力」が対置されている。)また現代の例としてはサバティスタ民族解放軍(EZLN)というメキシコのゲリラ軍の考えかたが示されている。
 こういった一連の説明を通して、冒頭にも述べたように「国家による管理と、権力/暴力の行使を前提とする非暴力」は、無気力や支配との共存を前提とする「疑似的非暴力」であるとして著者は非難しているわけだ。それは平和なのではなく、単に波風を立てられないだけであると。最終的に著者は、ホッブスの言う「自然状態」を、“カオスに満ちた恐怖を生み出す状態”として捉えるのでく、個(エキセントリシティ)を互いに認め合う集合として捉えることで、生産的な生活の実験や経験の場として肯定することを提案している。実際に生活の場で実現していくには多くの困難があると思うが、それでも常に湧き出してくる暴力に対抗しようとするならば、それらを無効にする本来の意味での非暴力(=神的暴力)を続ける不断の努力こそが必要なのだということだろう。

   *…カール・フォン・クラウゼヴィッツは近代戦争の理論書である『戦争論』を
      書いた19世紀プロイセン王国の軍人。「戦争とは他の手段をもって継続
      する政治の延長である」という主張で有名。一方のカール・シュミットは
      『政治的なものの概念』や『パルチザンの理論』を書いた20世紀ドイツ
      の政治学者で、戦争を国家や政治と不可分なものとして位置付けた。

 薄い割にとても難しい議論が続いてかなり読み応えのある本だったが、頭の体操として結構面白かった。たまにもこういうのを衝動買いで読むのも刺激になって良いかも。みすず書房や法政大学出版局(ウニベルシタス叢書)なんかと違って文庫だから安いし。(笑)

<追記>
 この本を読んでからフランツ・ファノンが気になってしまい、主著である『地に呪われたる者』を見つけてつい買ってしまった。酒井氏はファノンの主張に対してはやや批判的ではあったが、どんな事を書いているのか実際に読んでみたい。それにしてもどんどん本が溜まってしまうなあ。(苦笑)

『クルアーンを読む』 中田考/橋爪大三郎 太田出版

 日本人でありながら敬虔なムスリムである中田氏と、キリスト教を中心に様々な宗教にも造詣が深い社会学者の橋爪氏による対談集。副題は「カリフとキリスト」という。日本語を母語にする極めて知性的な人物によって語られるイスラーム信仰についての話は強烈だが新鮮でもあり、予想もしなかった方向から頭をぼかぼか叩かれているような刺激がある。そして橋本氏によって時にあけすけに、時にぎりぎりまで踏み込んだ真摯でスリリングな議論は、緊迫の度合いを深めるシリアを中心とした中東情勢を理解するうえで非常に役に立つ。
 中田氏によれば、多数派であるスンナ派(スンニ派)には、神学的にみて「統治権力の正当性」を論証する術が無いとのこと。したがって民衆が圧制に対して起こす反乱蜂起は、実はスンナ派のシステムそのものに内蔵されたものなのだ。反乱はムスリムにとって原理的に正当な権利である。しかしその代わり、反乱を起こす際には宗教的にも正しくなければならず、単に現政府が民衆に対して「不正」であるだけでは駄目なのだという。したがってISはシリアにおいてアサド政権をまず「背教者」であると認定し、そしてその上で反乱を起こしたらしい。そうなると信仰の根元に関わることだけに基本的には殺し合いになるしかない。互いに相手が背教者であると主張しあいながら、どちらかが殲滅するまで戦いが続くことになる。停戦の可能性がないというのは恐るべしである。
 ところでこれまで読んできた中では、イスラーム信仰の内面については本書がいちばん詳しいように感じた。中田氏の見解は単純な受け売りなどではなく、イスラームの教えの根源的なところまで深く考え抜かれた上でのものなので、読んでいても納得が出来る。ちなみにそしてISに対して氏が感じている(と思われる)シンパシーもまた、宗教的にみて理解できるものではある。ただしそれは西洋的な価値観が主流である世界においては、おおきな誤解を招く恐れと表裏一体のリスキーなものではあるのだが……。おそらく中田氏は根本的に原理主義者なんだろうと思う。テロ思想がどうとかおかしな意味ではなく、ムハンマドから始まったイスラームの教えに忠実という意味で。例えばイスラム銀行の理念も否定、西洋的な資本主義も否定、そしてカリフ制に基づく商業文明に戻るべきと主張するなど、ある意味ではISより過激な思想といえるかもしれない。(笑)
 本書を読んでいちばん驚いたのは、キリスト教でいうところの「自然権」がムスリムの世界には存在しないという点だろうか。自然権に代わるものは「シャリーア(=後世の宗教学者によって書かれた言行録)」であるというのは、ムスリムの考え方を理解する上でまさに目から鱗だった。(*)

   *…結局のところ「人は罪を犯すものであり、神の意志は絶対ではあるが、
      預言者(ムハンマド)あるいは正統的な後継者(イマーム)なきあとは、
      世に残された者が恣意的に判断せざるを得ない」と認めたことが、
      イスラームに原理的に内包されたリスクといえるのかもしれない。

 時事的な話題も適度にとりまぜつつ話は進み、最後は“ユニバーサリズムたるイスラーム教”と“ナショナリズムたるキリスト教”(および西洋諸国)の思想的な比較という壮大なテーマにまで及ぶ。なおこの点において橋爪氏の舌鋒はかなり鋭い。極めて素朴な契約形態であるカリフ制の持つ根本的な脆さと、共産主義との共通点を指摘する橋本氏に対し、一方の中田氏は非常にナイーブすぎるようにも見える。氏の理想主義的な面が見え隠れする所以である。
 まああれこれ書いてはみたが、全体を通して「現在の世界を取り巻く情勢の鍵となるイスラーム教をキリスト教との比較で読み解く」という本書のねらいは、かなり成功しているといえるだろう。面白かった。こういう本は好きだ。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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