少女マンガとSF

 ミステリー読書会の関係で知り合いになった方から、漫画をお借りした。名前は『夢みる惑星』(佐藤史生著/小学館PFビッグコミックス)というもの。長いことお借りしてしまったのだが、先日ようやく読み終えたので、あれこれ感想などを書いてみたい。
 本書はもともとプチフラワーという雑誌に1980年から84年まで連載されていたものだそうで、今回お借りした全4巻のコミックスも、最終巻の奥付をみると1984年の発行となっている。ずいぶんと昔の作品なのだ。
 すっかり忘れていたのだが、思い返せば当時はたしかに少女漫画家の方たちによるSFやファンタジー系の作品が、たくさん発表されていた気がする。たとえば萩尾望都(『ポーの一族』『スターレッド』『銀の三角』など)や竹宮恵子(『地球へ…』)、坂田靖子(『闇夜の本』『星食い』など)といった名前は、雑誌の記事や広告でもよく目にしていた。また、高校や大学の(男の)友人たちも少女漫画にはさほど抵抗が無い世代なので、大島弓子『綿の国星』、猫十字社『小さなお茶会』、萩岩睦美『銀曜日のおとぎばなし』などが話に挙がったこともある。(このあたりの作品は借りて読んだりしたことも......。ただ自分は子供の頃から読む漫画といえば少年漫画一辺倒だったので、少女漫画の繊細な描写と独特のコマ割りは、何となく馴染めなくてあまり読まなかった。)
 そんなわけで、本書の著者である佐藤史生氏の名前も正直知らなかったのだが、読書会の二次会で『金星樹』や『夢みる惑星』という作品名を聞いた時はたしかに憶えがあったので、やはり当時のブームの一翼を担っていた方だったのだろう。(全然詳しくないので的外れなことを書いていたらすいません。/苦笑)

 物語の舞台は人間が恐竜とともに暮らす、どこともいつの時代とも知れない世界。アスラハンのダルシス王の嫡子であるイリスは長じて「谷」の大神官となり、王国を間もなく見舞おうとするカタストロフから人々を救おうとする。そこに亡き王の跡を継いだ異母弟ダジオンとの反目やタジオンの許嫁フェーベのイリスへの恋慕、そして不思議な力を持つ踊り娘シリンやベニ・アスラ一族の若き当主カラといった個性的な登場人物たちの思惑が複雑に絡み、刻一刻と時間は過ぎ去っていく。煮え切らぬ王や貴族たちを前にしてイリスが売った大芝居とはなにか、そして人類の避難は果たして間に合うのか?―― といった感じで、あらすじを書くと壮大なスケールの一大長篇のようになるが、これだけの話が僅か4巻に凝縮されている。最後は多少端折ったような感じが見受けられもするが、よくぞまあこれだけ大きく広げた風呂敷をうまくまとめたものだと感心した。
 何となくの印象ではあるが当時の少女SF漫画というのは、少年SF漫画に比べて(たとえば人類や一族全体の存続にかかわるような)非常に大きくて重たいテーマが多かったような気がする。なぜだろうと考えていてひとつ思い出したのが、アーシュラ・K・ル・グィンの影響というものだ。『闇の左手』や『所有せざる人々』、そして『ゲド戦記』といったSF・ファンタジーで有名なル・グィンは、萩尾望都ら「24年組」の漫画家たちに大きな影響を与えたという話を聞いたような覚えがある。おなじく女性SF作家ではジェイムズ・ティプトリー・jrなどもシリアスで思弁性に富んだ作品を数多く発表していたし、小説よりもさらに「少年向け/少女向け」という枠組みを意識せざるを得ない漫画家にとっては、彼女らの作品が大きな励みになったであろうことは想像に難くない。
 読んでいるうちに連想したことがもう一つあった。それは眉村卓『消滅の光輪』や小松左京『日本沈没』「神への長い道」といったさまざまな日本SF作品の系譜だ。大きな災厄を前にして人々を如何に安全に移住させるか?という課題をインサイダーの視点で語るのは、太平洋戦争を経た第一世代の日本SF作家たちのテーマのひとつであったように思う。一方で漫画の世界に目をやると、やはり手塚治虫の『火の鳥』をはじめとして、石ノ森章太郎『サイボーグ009』、永井豪『デビルマン』といったシリアスなテーマを扱ったSF作品が目白押し。当然ながら佐藤氏たちの頭にも同様の問題意識があったように思うのだがどうだろうか。

 本書で面白いと思ったのは、そういった壮大なスケールの問題意識と並行して、登場人物たちの感情的な機微がこと細かに描かれていた点。こういうのは少女漫画を読み慣れている人はあまり気にしないのかもしれないが、人類の存続と個人的な救済が全く等価である描かれ方は、やはり少女漫画の系譜であるのかなあと興味深かった。
 冒頭でも少しふれたが、漫画にも独特のコードみたいなものがあって、読み慣れないものだとなかなか読み進めなかったりするのだが、自分は少年漫画のコードしか持っていないので、少女漫画や劇画は読むのになかなか時間がかかる。作品の出来不出来ではなく、おそらく子供の頃から読んでいる人は気付かないコードの問題なのだろうと思う。
 それから(ちょっとネタバレになってしまうが、)単なる異世界ファンタジーと思っていたら実は……というのも、往年の名作SFを思い起こさせてくれて好きだった。先行する数多くのSF作品のエッセンスが詰め込まれている力作だが、はたしてプチフラワーという雑誌のカラーには合っていたのだろうか?浮いてはいなかったのだろうか?もしかしたら少年JUMPに『暗黒神話』や『はだしのゲン』が載っていたような感じではなかったのかと、ちょっと心配になったりもした。まあすでに30年以上も前の話だから別に良いんだけどね。(笑)
 雑駁でまとまりのない感想だが、以上が本書を読んで思ったこと。いつか機会があれば、少年漫画のSF作品についても書いてみたいもんだねえ。

 最後になりましたが、Owlさん、面白い作品をお貸しいただきましてありがとうございました。また読書会でお会い致しましょう!
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ますむらひろしと諸星大二郎

 中学・高校のころからずっと大好きな漫画家に、ますむらひろしと諸星大二郎という2人がいる。ますむらひろしは『アタゴオル物語』のシリーズや、映画にもなった『銀河鉄道の夜』など宮沢賢治の一連の童話の漫画化で知られている。一方の諸星大二郎はライフワークとなっている『西遊妖猿伝』の他、実写映画化された『妖怪ハンター』のシリーズなどが有名。どちらも幻想的な作品を多く描いている作家で、昔からSFやファンタジー、幻想文学が好きだった自分には波長がぴったり合った。
 今回はちょっと趣向を変えてこの2人の漫画家について書いてみたい。

 <ますむらひろし>
 先程も書いたようにアタゴオルという名前の森を舞台にしたシリーズを数多く描いている。これは彼のファンならだれもが知っているように、筆者の敬愛する宮沢賢治が自分の故郷をモデルにして作り出した理想郷「イーハトーブ」を真似たものだ。(彼の出身である山形県米沢市に因んで名づけたのが「ヨネザアド大陸」であり、愛宕山に因んだ「アタゴオルの森」というわけ。)
 この『アタゴオル』シリーズは、掲載誌を変えながらずっと書き続けられてきており、彼の作品の中で最も歴史があるシリーズになっている。「ヒデヨシ」「パンツ」「唐揚げ丸」という人をくったような名前を持ち、直立二足歩行をして人語でコミュニケーションをとる猫たちと、「テンプラ」や「タクマ」といった(これも不思議な名前を持つ)人間たちが共存して平和に暮らしている、「力ではたどり着けない世界」を描いたファンタジー作品だ。
ただしこの世界は、始めから今のように平和なところだった訳ではない。デビュー作の「霧にむせぶ夜」(手塚賞準入選)では、自然破壊を繰り返す横暴な人類に対して反旗を翻した猫たちが、人間だけに効くという毒薬「リロコトヒ」(=ひところりの逆さ文字)を使って人類を皆殺しにしようとする。(しかもその「革命」は成功して、人類がほぼ絶滅したのちの世界が「ガロ」に掲載された作品群の舞台になっている。)
 その後の作品においても、帝国軍と革命軍(?)との戦争(『ヨネザアド物語』)や、古代から甦った皇帝と自由を求める人々との戦い(『ジャングル・ブギ』)など、人々から自由を奪い取ろうとする絶対的な悪との戦いをますむらは繰り返し描き続けてきた。ますむらにとって平和とは「与えられるもの」ではなく「勝ちとるもの」であるようだ。ビートルズに心酔する著者のことだから、フラワーチルドレンによる社会革命の記憶が色濃く反映されているのだろうか。
 彼の作品に対して自分が持っている印象は、実は『ゲド戦記』で一躍有名になった作家アーシュラ・K・ル=グィンに対するのと同じといってもいい。それは「社会に対して開かれている」ということ。架空の世界を舞台にした物語(ファンタジー)でありながら、常に現実世界との関係性を意識しているという点で、両者は似ていると思う。
 ますむら作品で繰り返し語られるメッセージは常に一貫している。それは「他者を縛り否定しようとする力」に対して「自由を求めようとする意志」を持ち続けること。お気楽な話が続いたと思ったら、突然シリアスなエピソードが挟み込まれたりして気が抜けない。でもそれがまた好かったりするんだよなあ。(笑)
 アタゴオル以外のますむら作品についても軽く触れておこう。ペンギンを主人公にした『ペンギン草子』にしても、アタゴオルとは別の猫たちを主人公にした『コスモス楽園記』にしても、基本的には彼の作品には「人語を解して二足歩行をする動物と人間の平和な共存世界」というモチーフが多い。永遠の昼下がりのような独特の世界がいつまでも続いていく、そんな雰囲気が漫画家・ますむらひろしの魅力ではないだろうか。

<諸星大二郎>
 ますむらひろしは言ってみれば「ガロ系」の漫画家だが、対する諸星大二郎は「COM系」の作家としてデビューした。(マニアな話題でわからない人には申し訳ない。そんなに大した話じゃないです。/笑)
 諸星作品はどちらかというと幻想が自己完結する傾向が強いように思う。ますむら作品のように実社会との関係性は希薄といえるのではないか。(より「結晶化/純化」が進んでいるといって良いかも知れない。)
 初めて描いた少年向けの短篇漫画「生物都市」が手塚賞に入選して本格的な作家活動に入り、『暗黒神話』『孔子暗黒伝』(*)を始めとする伝奇マンガで独特の境地を確立した。民俗学や文化人類学をモチーフにした作品が多く、代表作である『妖怪ハンター』のシリーズは主人公が異端の民族学者・稗田礼二郎(=古事記の編纂者として伝わる「稗田阿礼(ひえだのあれ)」に因んだ名前)だし、他にもニューギニアの神話的世界を描いた『マッドメン』など。このタイプの作品には傑作も数多い。

   *…これらの作品が週刊少年ジャンプに連載されていたなんて、今からはとても信じら
     れない。しかしそのおかげで自分は中学生の頃にこれらの作品の洗礼を受けて、
     現在に至っている。(笑)

 「ど次元世界物語」など独特の“味”をもったユーモア作品も捨てがたいし、古本屋と新刊書店をそれぞれ実家にもつ二人の女子高生を主人公にした『栞と紙魚子』のシリーズなどは、幻想性とユーモアが絶妙にブレンドされていて傑作。
 以上、自分の好きな2人の漫画家について語ってきた。どちらも大きく括ってしまえば「ファンタジー作品」なわけだが本質的な部分で違っている気がする。(少なくとも自分が2人に感じているものはそれぞれ違う。)
 ますむらひろしのファンタジーの作法とは、極限すれば「メルヘン」なのだと思う。空を飛んだり化石に記憶が残っていたりと、子どもの頃に夢見たような分かりやすいファンタジーがその本質。「メルヘンに社会性が加わったもの」と捉えるのが一番しっくりする気がする。
 それに対して諸星大二郎のファンタジーの作法は、ひとことでいえば「幻想怪奇」。何気ない日常に突然垣間見える異世界を描いて飽きさせない。「文学性をもった幻想怪奇」こそが諸星の真骨頂 ――そんな気がする。
 また、ますむらが繰り返し同じモチーフを用いるのに対して、諸星は作品ごとにがらっと作風を変えた多様な作品を手掛けているといえる。(その割にどれも印象が似てしまうのはひとえに彼の画風によるものなので致し方ない。/笑)

 これからも彼らが作品を発表し続ける限りは、自分が何歳になってもゆるゆると追いかけていくことになるのだろうな、きっと。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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