『善と悪の経済学』 トーマス・セドラチェク 東洋経済新報社

 チェコの経済学者が書いた、一風変わった経済学の本。2009年にチェコで出版されると同時にベストセラーとなり、欧州をはじめ15か国語に訳されたとのことで、2012年にはドイツで「ベスト経済書賞」も受賞している。本書を開くと、まず目次からして経済学の本と思えない章題がついている。例えば第1章は「ギルガメシュ叙事詩」。次いで「旧約聖書」「古代ギリシャ」「キリスト教」「デカルトと機械論」と続く。アダム・スミスの名がでてくるのはやっと第7章になってからだ。
 本書が書かれた趣旨は現在の主流派経済学への批判にある。著者によれば、経済学とはもともと道徳哲学の一部だったそう。それがいつの間にか実証的な学問であることを目指して自然科学の手法を取り入れた結果、数学的整合性ばかりを追い求めるようになり、本来の目的である「人々の幸福の実現」を忘れてしまっているとのこと。
たとえば現在主流となっている経済学(アメリカ式の古典派経済学のことか?)では、経済活動を行う人間のモデルとして「所与の予算制約の中で自己の効用の最大化を目指す合理的主体」という、現実とはかけ離れたものが用いられている。確かに物理学を始めとする自然科学の学問領域においては、「摩擦の無い世界」といった“理想空間”を設定して考察することで、大きな発展をとげることが出来た。しかし社会科学である経済学の場合、現実に反映できない恣意的なモデルを用いてシミュレーションをいくら行ったとしても、実験による検証とモデルの見直しが出来ないため現実との乖離が縮まることはない。口悪く言えば「机上の空論」でしかない。(*)
 
  *…このあたりは佐和隆光著『経済学とは何だろうか』(岩波新書)の意見に近いと思う。

 著者は問う。
 「善悪の経済学は存在するか。善は報われるのか、それとも経済計算の外に存在するのか。利己心は人間に生来備わったものか。公益に資するなら利己心を正当化できるか。」
 そしてそのために著者は、過去の宗教や哲学の中に“幸福を求める手段”としての経済学の萌芽を探す。そしてアダム・スミスやバーナード・マンデヴィルといった初期の経済学者の思想のなかに、社会幸福を求める哲学としての経済学を見出そうとする。
ひとつ例を示そう。第2章「旧約聖書」や第3章「ギリシャ哲学」には次のようなことが書いてある。
 ユダヤの教えでは労働は否定すべきものではない。肉体労働を奴隷のすべきものとし生きるための必要悪としたのは古代ギリシャの人々であり、プラトンやアリストテレスらは純粋に知的な活動に専念する事こそが理想であるとした。しかしユダヤ教において労働とは喜びである。安息日とは本来、6日間働いた疲れを癒すためにあるのではなく、労働の達成を喜びその成果を愉しむためにあるのだという。同様に経済活動も本来であれば(現在の経済学の考えのように)際限なく成長し続けるのではなく、達成してひと休みし、生活の満足を味わうというものであるべきなのだ。
 また、著者によればアダム・スミスも「市場の見えざる手」という言葉に象徴されるような利己主義的経済学を確立した人物ではなく、『国富論』に先立つ『道徳感情論』では彼の経済学の基礎となる倫理が展開されているとのこと。しかもスミス自身は『国富論』より『道徳感情論』の方が優れた著作であると考えていたらしい。このように本書において著者は、現在の主流となっているアメリカ式の経済学に欠けているもの ――すなわち経済学の倫理を指し示そうとしているのだ。成長経済が国際的な危機に瀕している現在、この視点はもしかしたらとても大事なものなのかも。
 ふと思ったのだが、人を幸福にするのが“善き経済学”なのだとすれば、人により幸福のモノサシが異なるという点が課題となるだろう。物質的な満足だけでは幸福にはなれないが、精神的な満足に至るにはある程度の経済的な自由も不可欠。ただし人は豊かになってもそこで満足はせず、むしろ豊かになればなるほど更に多くの物を望む。絶対的な満足というものは無く、かといって常に成長し続けることも難しいし、過去の生活水準に戻すために禁欲することも不可能。それではすべての人の幸福を求めるにはどのようにすれば良いか。本書の中にその明確な答えがあるわけでは無いが、「安息日」を作り達成の成果を味わうという本書の提案も一つの方法ではあるだろう。
 以上、著者の全ての主張に首肯できるかは別としても、とても刺激的で面白い本だった。はたして「善き経済学」の実現は可能なのか? もしかしたら、それを見つけるのは我々ひとりひとりの仕事なのかも知れない。
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『明日のプランニング』 佐藤尚之 講談社現代新書

 著者の肩書きは「コミュニケーション・ディレクター」。今ひとつどんな職業かイメージが湧かなかったが、著者略歴をみて合点がいった。もともとは電通でCMプランナーなどを手掛けていたとのことで、要は広告やマーケティング関係の仕事というわけだ。本書もどちらかというと一般読者というよりは、広告プランナーやマーケッターを想定して書かれているような雰囲気がある。(ちなみに副題は“伝わらない時代の「伝わる」方法”。)
 ところで自分は“佐藤尚之”氏の本を読むのは初めてなのだが、実は氏の著作は以前から好きで読んでいた。但し“さとなお”というペンネームで書いていた食べ物エッセイの著者としてだ。氏は早い時期から自身のブログを立ち上げ公開するなど、ネットへの造詣が深い。そのブログでアップしていた記事が『うまひゃひゃさぬきうどん』や『沖縄やぎ地獄』など、いくつか書籍化されていたというわけ。

 ではさっそく本書の中身について紹介しよう。
 広告業界ではここ数年、広告を作っても消費者に伝わっているという手応えや実感がないと云われているらしい。著者はそれは半分だけ正しいと云う。著者は次のような仮説を述べる。

■2005年ごろから始まったインターネットの爆発的な普及により、生活者は情報への接し方によって「ネットを日常的に利用していない人」と「ネットを日常的に利用している人」の2種類にわかれてしまっている。
■「ネットを日常的に利用していない人」は今でも昔と変わらずマスメディアからの情報のい頼っており、従来のマーケティング手法がまだまだ通用する。
■しかし「ネットを日常的に利用している人」は日常的に大量の情報にさらされているため、これまでのように広告を出したとしても埋没してしまい、目に留まるチャンスはほとんどないといって良い。(またバナーを工夫して目立つようにしても、煩わしく思われて悪印象をもたれるので逆効果。)

 上記の三つめの内容が、広告業界で現在ささやかれている話の大元ということだろう。ただしこれらは仮説といっても、何の根拠も無い思いつきというわけではなく、著者は電子情報通信学会誌や雑誌WIREDの記事からデータを引用して説明している。それによると2005年ごろから始まった”情報洪水”は年を追うごとに激しさを増し、ついに2010年には世界中の情報量の合計が「ゼタバイト」のレベルに達したらしい。「ゼタ」がどういう数字かというと、「世界中の砂浜にある砂の数と同じ」とのこと。つまり1年間で世界中を駆け巡った情報の量は砂浜の砂の数ほどに増えているのだ。そんな世界ではいくら広告を流そうが、砂浜の砂一粒ていどにしか効果が期待できない。
 さらに言えば、日頃からネットを日常的に利用している人たちには、テレビCMも大した意味をなさない。番組はハードディスクに保存して興味のあるものしか観ないし、新聞を取らずニュースはネットで済ませる場合も多い。かと言ってPCのポータルサイトに広告を出してもスルーされてしまう。さらには話題になった人や出来事も、あっというまに過去のこととなり忘れ去られていく......。マーケティングに携わる人たちにとっては、とんでもなくやりにくい世の中になったものだ。(著者はこのように常日頃から大量の情報に接している人たちを称して、“砂一粒の人”と呼ぶ。)
 ただここで注意しなければいけないのは、ネットを日常的に利用していない人もまだまだいるという点。著者がざっくり計算したところでは、「ネットを毎日は利用していない人≒5670万人」「検索を日常的に利用していない人≒6000万人~7000万人」「ソーシャルメディア(SNS)を利用していない人≒7000万人」ぐらいはいるらしい。これらの人々はたとえば新聞を主な情報源とする高齢者であったり、あるいは新聞も読まずテレビや口コミから情報を得るマイルドヤンキーなどいくつかのタイプに分かれるが、いずれにせよ従来と同じ方法でアプローチすれば良い人々ということになる。
 すなわち「ネットを日常的に利用していない人」と「ネットを日常的に利用している人」というふたつのグループの人々に対しては、それぞれ全く違うマーケティング方法を取らなければいけないというわけだ。では“砂一粒の人”に対してはどのようなアプローチをすればよいのだろうか。結論から言うと、これまでの標準的な広告手法である「アテンション(注意喚起)とインパクト(強烈な印象)」を目指るのでなく、「インタレスト(興味をもたせる)とシンパシー(共感を呼ぶ)」を目指した手法をとるべきと云うのが著者の意見。
 そしてそのために一番有効なチャネルは何かというと、これまた意外なことに「友人知人のネットワーク」なのだそうだ。なぜそのような事になるかというと、膨大な量の情報を検索して必要な情報を得るよりも、自分の好みを理解したうえで情報提供をしてくれるのが友人知人だから。彼らのフィルターを通すことで、膨大な情報の海の中から無駄なく合理的に、自分に必要な情報だけを得ることが出来るのだ。これは言われてみれば自分にも思い当たる節がある。ツイッターで流れてきた情報を“お気に入り”に入れておいて、あとから買う時に参考にする。あるいは自分の知りたい情報を流して、親切なフォロワーさんからの返信を待つ。こういった事をうまく活用すれば、“砂一粒の人”に対してもまだ広告は有効な手段となり得るのだと著者はいう。いやむしろ、この方法以外に有効な手段は無いのだと。
 うーん。ネットを利用していない人々に流す広告よりもはるかに手間がかかり非効率ではあるが、致し方ないのだろうか。それにしても高度IT化社会で最良の広告媒体が「友人知人のツテ」というのは、なんだか逆説的で面白い。
 新しい商品やサービス、コンテンツが出たら、まずは「(その分野に)興味や関心があるファン」に伝え、彼らから友人知人に広げてもらう。ただしそれはお仕着せの宣伝を“転送”(ツイッターの場合ならリツイート)してもらうのでなく、彼らに心からの興味関心をもってもらえるものであること。そして素直な言葉で友人に推薦してもらえる(=つまり知り合いに言いふらしたくなる)ような環境を整えることこそが、今後ますます発達する情報化社会において唯一通用する「明日のプランニング」であるというのが、本書における著者の結論なのだ。うん、なるほど。マスメディアの衰退著しい昨今、物量作戦ではなくゲリラ戦を仕掛けることこそが大事という趣旨はよく理解できる。そして趣味嗜好の強い商品ほど有効であるような気もする。最初は軽い気持ちで手に取ったのだが、意外と読みごたえがあるいい本だった。

<追記>
 補足として、自分の趣味の世界で本書の主張によく似た事案が二つほどあったので、併せてご紹介しておこう。まずは『教皇ヒュアキントス』という短篇集についてのエピソードから。一説によると、日本においては(自ら情報収集に努めてコンスタントにハードカバーの本を買うような)幻想文学ファンは、全国でわずか2000~3000人ほどしかいないと言われている。そんな中、これまで日本では殆ど知られてこなかったがとても素晴らしい作品を書いた、19世紀ヨーロッパの幻想小説家ヴァーノン・リーの作品集が、翻訳家の中野善夫氏の手によって訳されたと思って頂きたい。
 氏はこの素晴らしい作家を出来るだけ多くの人に知ってもらいたいと考え、中身にふさわしい美しい装丁が施されたハードカバーの本であるにも関わらず、版元と交渉して破格の値段(といっても5000円弱するが)で世に出した。しかしこのままでは全国に散らばっているコアな幻想文学ファンの耳には届かない。耳に届かなければ当然買ってはもらえない。ではどうしたら多くの人にこの本のことを知ってもらい、手に取ってもらえるのだろうか ――といった経緯で、この本の出版に関わった多くの人の協力により、ツイッター上で様々なイベントが繰り広げられることになった。
 まずは装画と同じ美しい版画の図柄を使った特製しおりを、PCまたはコンビニでプリントアウトできるサービスを行った。ついで幻想系の書籍に強い“古書ドリス”という古書店の協力を得て、装画を担当した版画作家の林由紀子氏の作品展と連動したサイン本の販売を実施。さらには訳者・中野氏の手作り(!)による豆本プレゼントキャンペーンが行われ、ツイッター上でお気に入りの作品を3作つぶやいた人のなかから抽選で豆本が贈られた。(先ほどの古書ドリスでは大手新刊書店よりはるかに多い、なんと100冊以上の『教皇ヒュアキントス』を販売。中野氏からお礼として世界に一冊しかない特製の“饅頭ヒュアキントス”と名付けられた豆本が贈呈された。)
 豆本が当たった読者はそれを部屋に飾って写真を撮りツイッターにアップしたり、あるいは「ヒュアキントスのある風景」と称してファンが自主的に、自分の買った本を本棚に美しく並べた写真を撮るなど、これまでに無かった多層的な“遊び”が繰り広げられた。
そしてこの様子がネットで話題となり、それをきっかけとして『教皇ヒュアキントス』を購入したという声もちらほら聞こえるなど、自然発生的に販促が行われることになった。本当ならば『教皇ヒュアキントス』は本の性質上もっと少ない部数で一部の愛好家だけが買うことになっても不思議では無かったと思うので、この事例などはまさに本書『明日のプランニング』の実践といえるのではないだろうか。ファンを中心にした販促で、しかも心からの推薦があってこそ、これほどまでに売れたと思うのだ。
 次にもうひとつの事例。こちらは中国系アメリカ作家ケン・リュウのSF短篇集『紙の動物園』だ。こちらも『教皇ヒュアキントス』と同様、訳者の古沢嘉通氏のご厚意により表題作(=折り紙で作った動物が登場する)に因んだ「作者と訳者のサイン入り折り紙」という、ファンにはとても嬉しいプレゼントが準備された。応募要領も同じくツイッター上でお気に入りの3作品を挙げるというもので、熱く語るファンの様子をみることで、2000円という比較的高価な本であるにも関わらず、読みたくなって買ってきたという声もツイッター上でちらほら見受けられた。
 (幻想文学ファンほどではないにせよ)少数派である海外SF小説の購入層に対しては、こういったコアなファンを通じた販促がやはり有効なのかもしれない。ファンは面白い作品であれば全身全霊を込めてプッシュするし、かつての角川書店のように広告宣伝費の大量投入によって数十万部のベストセラーを生み出すことがほぼ不可能な今日、ファン発信型のプロモーションすなわち巨大な器を狙うのでなく小さなパイをコツコツと積み上げていくことこそが重要なのかもしれないと思った。一部の愛好家やファンに向けて情報発信することで、そこでの盛り上がりがトレンドワードになり、さらにそれがきっかけで新聞の日曜日の読書欄やテレビで取り上げてもらい、結果的にネットを使わない層にも伝わっていく。そんなことを考えたとき、メーカーにとっては厳しい時代かもしれないが、一個人としてはますます面白い時代になっていくような気もしている。

『21世紀の資本』 トマ・ピケティ みすず書房

 たまにはベストセラーだって読むのである。1月には『その女アレックス』だって読んだし。(←既に4か月前であるが。/苦笑)ピケティなる人の高い本が経済学の専門書として異例の売れ行きを示している―― そんな話を小耳に挟んで、中身を調べてみたら結構面白そう。しかも版元はよくあるダイヤモンド社や日本経済新聞社ではなくて“みすず書房”。哲学書や歴史書など人文系の手堅い本を出している中堅どころであり、ちゃんとした学術書として期待できるかも知れない。自分が読みたくなるような経済学系の本には、残念ながら日頃あまり出会えないので、これも機会と買ってみた。
 
 で、さっそく中身であるが、ハードカバーの本文だけで600ページを超える大著であるにも関わらず、実をいうと内容はいたってシンプル。著者の主張は「はじめに」の部分かもしくは本文ラスト8ページあたりを読めば凡そ理解できる。ではなぜこれほど分厚いのかというと、それは著者の主張の根拠となるところを、詳しいデータとともに懇切丁寧に列記しているためだ。現在入手可能でかつ信頼できるデータの収集と徹底した分析により、経済政策と資本との関係を解説する労作といえる。「ごく単純な結論と精緻な分析」というスタイルが何かを連想させると思ったら、網野善彦氏の歴史学の著書に似ているのであった。
 ではどんな内容なのか、ざっくりとまとめてみよう。概ね次のような感じになると思う。

1)人が暮らしていくには「資本(あるいは富、財産)」から収益をあげる方法と「労働」から収益(所得)をあげる方法がある。(注:前者は不動産の賃貸収益や株の配当など、実際に体を動かさなくても利益があがるもので、後者は会社や工場などで実際に働いて得る給料や賞与をイメージすると解りやすい。)

2)資本収益率(資本の運用で利益をあげる率)が労働収益より高いまま放置しておくと、やがて資本の集中と蓄積が更に進み19世紀並みの格差社会になってしまうリスクがある。

3)それを食い止める方法は幾つか考えられる。例えば所得が上がるほど課税額も増える累進課税というものがあるが、これを高所得だけでなく高資本の持ち主に対しても公明正大な仕組により適用するというもの。(ただし実現するには色々な課題がある。)

 まあ、云われてみればごもっともな話で、現状認識も提言も含めて極めてオーソドックス且つ簡単なものだ。それでも書店のビジネス書の棚を見れば、やたら本書の解説本が目立つのは、手っ取り早く結論だけを手に入れたいからだろう。(著者が苦労した調査および分析の部分は全て省略して......。)
 でも本好きの立場から言わせてもらえば、この種の本を読む愉しさは細部を味わうことにこそあるのであって、ちまちました考察を味わうこと無しに一足飛びに結論だけを頭に入れても全く意味がないと思う。(まさに「神は細部にやどる」というわけだ。/笑)テスト前に参考書を読んでいるわけではないのだから、書店にあふれる解説本を有り難がって買うのはどんなものだろうかと思ってしまう。まあ、あくまで個人の感想ではあるが。

 せっかくなので、もう少し中身について触れてみよう。本書は経済学のジャンルで云えばマクロ経済について書かれたもので、全体は4部(16章)に分かれている。順に説明すると、まず第Ⅰ部(第1~2章)「所得と資本」は所得と資本に関する用語の定義と考察のための基本的な考え方について。第Ⅱ部(第3~6章)「資本/所得比率の動学」では資本による収益と労働所得がこれまでどのような関係にあったかを示し、続く第Ⅲ部(第7~12章)「格差の構造」では資本収益率が何らかの理由で高くなると、徐々に資本がそちらに集まって“持つ者”と“持たざる者”の格差がどんどん開いていったり、あるいは同じ労働収入の中でも高所得者と低所得者の格差がどのように変化していくかについてのメカニズムを説く。最後の第Ⅳ部(第13~16章)「21世紀の資本規制」では、これら社会的・経済的な格差を食い止めるための処方箋について幾つかの案と課題を提示する。いずれの章でもデータには18世紀から21世紀にかけてヨーロッパやアメリカ、日本などの富裕国で蓄積された、比較的信頼できる統計データのみを使用し、デヴィッド・リカードなど過去の研究者による実績を踏まえた上で彼らの不充分な点などを補完・訂正することでより精度の高い分析を施している。(このあたりの話は「はじめに」で詳しく触れられている。)資本収益率やインフレ率などの諸条件による違いの考察も抜かりはなく、全体を通じてねちっこいほどの(笑)分析が行われているといえるだろう。

 それではここからは、読書好きな人間としてどのように本書を愉しんだかポイントをいくつかご紹介してみよう。例えば「資本主義の法則」というのが出てくる。第一法則は資本と所得の関係を示す単なる定義で「α=r/β」というもの。数式で書かれるとアレルギーを示す人がいるかも知れないが、要は「資本運用で上がる収益の統計的な値(=r)に、資本と所得(労働対価)の比率(=β)をかけたものが、国民の全所得における資本のシェア(=α)になる」というだけのことだ。
続く第二法則は貯蓄率や経済成長率によって資本がどれだけ蓄えられるかの年率を示すもの。式で表すと「β=s/g」となるが、これは「国民の貯蓄率(=s)を国民所得の成長率(=g)で割ったものが、資本と所得の比率(=β)になる」という意味で、つまりは貯蓄をして低成長の国は長期的にみると莫大な資本ストックを蓄積するということになる。これらは過去の経済統計データを分析して導き出したもので、いわば著者がみつけだした資本主義経済に共通する特徴というわけだ。(もちろん長期的にみればその方向に向かうというだけであって、数式通りに実現するというわけではない。)他にはアメリカの奴隷制度を資本として計算した場合の数値だとか、1970年以降に世界各地で行われた国有財産の民営化による資本への影響分析なども面白かった。
 おもえば本書のユニークな点は、これまでの研究者のように「資本と労働の分配」を対象に分析するのでなく、「資本/所得比率」の変遷に着目したところかもしれない。そこからは「経済の低成長や人口減少が続くと資本ストックが増加していく」だとか、あるいは「技術変化による労働効率のアップは資本収益率(=r)や資本シェア(=α)の低下に一定の効果があるが充分なものではない」といった分析結果が導き出される。放っておくと資本は勝手に膨れ上がっていき格差が広がっていくというわけだ。

 アメリカ経済に対しても様々な分析を加えている。本書によればアメリカでは労働所得のトップ10%(いわゆるスーパー経営者)が国民所得のなんと35%を受け取っていて、最下層50%の人々はわずか25%にあたる労働所得の分配にしか預かっていない。世界的にみるとヨーロッパ諸国でトップ10%の人々が25~30%、最下層50%が35%ほどをうけとっていて、それに比べても突出している。「アメリカンドリーム」という言葉はよく聞くが、実際にはアメリカンドリームが可能だった時代は20世紀初頭までで終わっており、今では資本や所得の固定が進んで世界で最も不平等な国のひとつになっているという指摘はかなり面白い(ただし賃金の絶対値や生活水準は単純に比較できないのでまた別の話)。比率だけで云えば、アメリカは貧富の差が激しい発展途上国となんら変わりはないらしいのだ。なおアメリカの名立たる大企業はある時期から軒並み経営者の報酬を極端に引き上げたが、業績の向上はスーパー経営者の手腕ではなく単にツキであったように思われるという分析結果は傑作だった。1929年の大恐慌や2007年の大暴落の原因が、実質購買力が低下した中下層の所得世帯に対して、銀行が(規制緩和で融資条件が緩やかになったおかげで)営業を活発化して多額の借金をさせたことで、経済が破綻してしまったためだという仮説も面白かった。
 ここで本書の説明のときに必ず取り上げられる有名な関係式「r>g」が出てくる。資本収益率(=r)は通常4~5%あって、先進国においては通常は1%程度しかない経済成長率(g)を上回ると、資本は集中する方向へと向かい、その結果、富の集中による不平等が拡大するというものだ。集まった資本は世襲されていき、所得格差が固定されていくことになる。日本でも最近よく聞かれるようになった所得格差による負のスパイラルだ。

 最後の第Ⅳ部で示されるのは、これら資本主義社会が持つ問題点に対する著者からの提言となる。この部分におけるスタンスもいたって穏当なものだ。いわく、極端な社会格差をなくして最低限の人間らしい生活が送れること、また所得による社会的な地位が将来に亘って固定されないこと―― とまあ、概ねこんなところ。そして最初にも述べたように、著者が提案する社会システムは所得や相続や法人に対する累進課税を政府が行い、そうして得た資金を教育や福祉に投入すべきという、極めてオーソドックスな結論となっている。(ただし現在の税制は世界大戦後の経済復興にために慌てて導入されたため様々な問題を抱えているそうで、たとえば資産所得の比率が大きい超高所得層に対する課税の仕方は見直しが必要とのこと。)
 ざっくり言うと、労働所得はある程度まで容認するが、不労所得(=資本の相続やそれらの運用による所得)に対しては社会還元を進めるべきという見解だ。自分も“持たざる者”なのでこの意見には賛成である。(笑)
 最終的には一国ではなく世界的な規模での(資本に対する)累進課税を行う必要があるとも述べられており、たしかにグローバル社会を迎えた現代においては、世界的な資本集中が可能な国際金融を前提とした新システムができたらすばらしいと思う。ここで著者が考えているのは、課税システムを単に国の税収を増やすための手段ではなく、「経済活動に対する法的枠組みを課す手段」として活用すべきということ。こういった富裕税とでもいうものが「グローバル化した世襲資本主義」に対する処方箋となる。これも至極真っ当な意見だと思う。ひとつの国の利益だけを考えた資本統制や保護主義あるいは移民という政策は、所詮は不完全な手段でしかないわけだから。

 以上、非常に大雑把ではあるが本書で印象に残ったところについて簡単に紹介してみた。何度もいうように、本書のような学術書は細部を愉しまなければ読書の意味がない。〇〇経済新聞社などから出ている高価な解説本をわざわざ買うくらいなら、店頭で「はじめに」や末尾を立ち読みするくらいで充分だと思うし、本当に愉しみたいと思うなら、ぼちぼちと並び始めているらしい安い古本を買うというのはどうだろう。それとも、その手の解説本に「マンガで読むドストエフスキー」みたいな胡散臭さを感じてしまうのは、自分が活字中毒であるが故の偏った見方なのだろうかねえ。(苦笑)

『ルワンダ中央銀行総裁日記』 服部正也 中公新書

 著者は、国際通貨基金の要請に応じて1965年から71年までの6年間に亘り、アフリカの小国ルワンダで中央銀行の総裁を務めた人物。破綻寸前だった国の経済の立て直しと、その後の発展の道筋となる構造改革に取り組んだ。
 本書はその当時の事を綴った回想記であるが、予備知識もなく徒手空拳で現地に乗り込み、何もないところからひとつひとつ仕組みを作り上げていく過程がとても面白く、経済ノンフィクションでありながらも『ロビンソンン・クルーソー』のような冒険小説の匂いすら漂う。また、著者が赴任していた60年代といえば日本も高度経済成長期で勢いがあり、一方ではまだまだバンカラな気風も残っていた時代。自らの保身しか考えない現地の高官や欧米の経済人たちに業を煮やし、ルワンダ国民のために一肌脱ごうと啖呵を切る著者の心意気は、ちょっと『坊ちゃん』も連想した。(あくまで金融行政のインサイダーによる視点なので、SF好きな人には眉村卓氏の『司政官シリーズ』といえばピンとくるかもしれないね。)
 本編はまるで良く出来た爽快な小説を読むよう。最後まで気分よく読むことが出来た。こんな日本人がいたんだねえ。

 なおルワンダは著者が帰国した後も順調な経済発展をつづけたのだが、残念なことに90年ごろからフツ族中心の政府軍とツチ族によるルワンダ愛国戦線の間で内戦が勃発。94年には「フツ族によるツチ族の大虐殺」が発生し、今ではそちらの方が有名になってしまった。
 著者は赴任を終えて帰国した後も、各地の途上国に関わる仕事を続けていたため、その後のルワンダ情勢にも詳しかったようだ。本書には増補版として著者による1994年の論考「ルワンダ動乱は正しく伝えられているか」が付されている。さらには大西義久氏による1970年~2009年までの経済状況をまとめた小論も加えられていて、今でも使える資料的な価値も充分。
 ただ自分のような一般読者にとってはそれよりも、今後のルワンダが再び安心して住める国になるかどうかの方に関心があるなあ。いや住みよい国に戻れることを祈るよ、ほんと。

『松丸本舗主義』 松岡正剛α 青幻社

 2012年9月30日をもって東京駅・丸の内にあった本屋「松丸本舗」は3年間のその活動の幕を閉じた。始まりがあれば必ず終わりが付きものとはいえ、それにしても早すぎる。そしてあまりにも唐突だった。
出張の帰りに丸の内の商業施設OAZO(オアゾ)内にある丸善へと向かい、店内を素通りしてそのままエスカレーターで4階奥の松丸本舗で新幹線チケットの予約時刻までを過ごす―というのが今までのパターン。それが出来なくなったので、仕事帰りがずいぶん淋しくなってしまった。

 本書は松丸本舗の閉店が7月16日に松岡氏によって公表されてから発売になった、3年間の活動の記録だ。(実際には1年ほどまえから本書の企画が出ていたようだが、もたもたしているうちに時間が過ぎて閉店が決定し、急ピッチで製作して9月30日の松丸本舗での販売開始にぎりぎり間に合った、といういわくつきの本。)
 中身は松岡氏が松丸本舗誕生までの内幕を語る文章を始め、店舗作りと品揃えの“編集”の秘密。それに「本の福袋」などこれまで行ってきた全イベントの記録や、果ては松丸ゆかりの人々(総勢43人!)による寄せ書きの文章などがびっしり。棚の写真も含め500ページを超える分厚い書影の中には、文字通り松丸本舗の「すべて」が詰まっているといっていい。(*)

   *…あとがきで松岡氏自身が書いているところによれば、著者名についている「α」
     には、松丸本舗のスタッフやメッセージを寄せてくれた人たちとの共同作業による
     本なのだという、著者の思いが込められているそう。言われてみればたしかに著者
     名の横には「α」の文字が。そして「+minna(みんな)」とルビが振ってある。

 自分にとって本書を読むのは、これまでの松丸本舗の思い出を追体験するようなもの。「ああ、そうだった。」「へえっ、あれってそんな意味が…。」というつぶやきとともに読み進む。まるで誰かの家を訪問して本棚を拝見しているような感覚や、本同士が互いを呼び合うような棚つくりといった、松丸独特の店内の様子が鮮やかに甦ってくる。
 この松丸本舗の3年間の活動は、画期的な取り組みとしてきっと「伝説」になっていくに違いない。かつて池袋リブロにあった今泉棚は残念ながら実見できなかったけれど、松丸での濃密な時間は誰にも自慢できる良い思い出となった。これからもしっかりと心に留めておきたいと思う。(万が一記憶が薄れてきても大丈夫。本書があるから。/笑)

 以上、今回は本の感想というよりも、松丸本舗の思い出話に終始してしまった。ちょっと感傷的になってしまったね。セイゴオ氏の言葉をいくつかお借りして、一言だけつけ加えて終わりとしたい。

 「さらば松丸本舗。そしていつの日か見事に捲土重来を期さんことを!」
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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