2017年8月の読了本

『月山・鳥海山』森敦 文春文庫
生と死を象徴する月山と鳥海山。出羽の二つの山をめぐる様々なエピソードを重ねることで、生と死、此岸と彼岸の境が「もどき、だまし」の繰り返しの中、みちのくの空気の中におぼろとなって消えてゆく。以前、硬質な文体(例えば開高健)と軟質な文体(例えば森茉莉)について考えたことがあったが、本書を読んで、また別に「柔らかいが粘る文章」というのもあるような気がしてきた。まさに緩やかと見せかけてねろねろと纏わりつく粘度の高い作品集といえる。
表題作は此の世と思えないような集落の寺に寄宿したひと冬のおぼろげな記憶の物語。出羽三山はこんなところなのだろうかと思いながら、ここを物語の舞台に選んだというだけですでに半分がた出来上がったようなものではないのかとも思え、「なんだかずるい」ような気もした(笑)。しかし同じ地に立っていても人により見えているものは違う。月山の光景をあんな風に切り取れたのは著者の業(わざ)なのだろう。みちのくは人を捉えて離さない魔力の様なものがある。『東北学』をまた読みたくなってきた。
なお、巻末の短篇「天上の眺め」だけは北国ではなく紀州の山奥が舞台となっている。そこから子ども時代に京城でみた「朝鮮凧」の思い出へと続く。夢のような掌編が食後のデザートのような余韻を残す。なかなか。

『モーパッサン怪奇傑作集』 福武文庫
43歳で夭折した世紀末のフランス自然主義文学を代表する作家モーパッサン。彼が遺した怪奇幻想小説の中から、十一篇を精選した短篇集。
「われわれが各自の思考の中に、各自の器官の中に、それぞれの現実を持っている以上、現実を信ずるとは、なんという子どもらしいことであろう! われわれのそれぞれ異なった視覚、聴覚、嗅覚、味覚は、地球上の人間の数だけの真実をつくりだしている。」
これはモーパッサン自身による言葉だ。これだけ読んでいると、自然主義どころかまるで幻想作家に思えてくる。そして実際のところ、本書に収録されている作品を読んでみると、谷崎潤一郎を思わせる狂気から超自然的なものまで作品はバラエティにとんでいてかなり本格的。とても楽しい。特に気に入ったのは「手」「水の上」「オルラ」「髪の毛」あたりだろうか。
なおこの本は古本屋で買ったのだが、家に帰ってよく見てみると、買うときには気がつかなかった書きこみがしてあった。いわゆる「痕跡本」というやつだ。各収録作品の最後のページに鉛筆で薄く感想が書いてある。買う前に気がついていればきっと買わなかったと思うのだが、こうして読んでみると前の持ち主と会話をしているようで結構楽しい。例えば冒頭の作品「手」ではこんな感じ。
「干からびた手は、それだけで怪奇小説の題材なり得る。本作は怪奇小説風だが、それなりに合理的な説明をくわえている。ために余韻を残すことになる点が、並みの怪奇ものとひと味ちがったものとなっている。」
鉛筆なので消そうと思えば消せるのだが、考えた末そのまま残すことにした。

『エドワルトの夢』ウィルヘルム・ブッシュ 妖精文庫
19世紀ドイツで活躍した風刺画家による作品集。代表作「マクスとモリツ」をはじめとする絵物語5篇と、散文作品である表題作「エドワルトの夢」を収録する。作風はコミカルだがナンセンスでシュールな面もあり、ルイス・キャロルやスウィフトの香りもしてくる。表題作は夢の中で自意識を極限まで小さくした主人公が様々な世界を旅するというもの。ときおり脈絡も無く妻による「エドワルト、そんなにいびきをかかないでってば!」という台詞が挿入されて笑える。

『俳句の海に潜る』中沢新一・小澤實 角川書店
文化人類学者と俳人による対談集。俳句を人間的・文化的な短歌に対置する非人間的・自然的なものと定義し、またアニミズムの視点から東北の地を旅した芭蕉や山梨に深く根を下ろした飯田蛇笏を評価する。冒頭から中沢氏によるいきなりの大風呂敷が面白い。俳句の面白さは、あえて型に嵌める「定型性」と、海に浮かぶ島のように「個々が独立していること」にあるのだそう。それらの「島」の間には固定された橋を渡すのではなく、舟で行き来するのだと。そして氏によれば「定型」こそがその舟なのだ。舟(定型)は、死や海や"自由"という異質で危険な世界に踏み込んでいくための「儀礼/フォルム」に他ならないのだという。いわゆる俳句の「アースダイバー」なのだが、これはこれでなかなか変わった見方で興味深かった。

『文豪妖怪名作選』東雅夫/編 創元推理文庫
創元推理文庫では珍しい、どちらかといえばちくま文庫で出るようなタイプのアンソロジー。中には尾崎紅葉から寺田寅彦まで総勢十九名の文豪による小説から随筆まで妖怪にまつわる作品が勢ぞろいしている。「怪談」ではなく「妖怪」なのがミソで、怖いばかりでなく滑稽だったり悲しかったりとバラエティに富む。たいへん楽しかった。ところでアンソロジーの場合は作品の面白さ以外にもうひとつ愉しみがある。それはどのような意図で収録作品を決め、どのような意図でこの並びにしたのかを勝手に推測しながら読むというもの。(中にはあまり意図が無さそうなのもあるけど。)簡単にいえば音楽のアルバム収録曲の順番みたいなものだ。本書ではそのあたりの意図が結構判りやすい気がして、とても面白かった。
まず冒頭に尾崎紅葉「鬼桃太郎」を配し、次が泉鏡花「天守物語」という師弟の並びがシブい。泉鏡花はともかく尾崎紅葉がこんな話を書いていたとは知らなかった。「天守物語」はいつ読んでも綺麗で豪奢。秋草釣りのシーンなど堪らない。「天守物語」には重要な役どころとして獅子頭が出てくるので、その次が柳田國男「獅子舞考」になっているところなど狙っているとしか思えない。ところで本考では獅子舞の由来をとくのが趣旨なのに、まず唐獅子の身体が三つに裂けたのを分け取りしたという話から、龍が三つに切れて空から落ちた話、ついで将門や鎌足の首塚や胴塚まで延々と5ページ。で、これが本筋には全く関係ないんである。論旨が分からなくなるほど捩じくれるのは、いつもの國男節であるね。
と、ここまでは何となく推測がついたのだが、次の宮澤賢治「ざしき童のはなし」との繋がりが判らなかった。「ざしき童のはなし」からその次、小泉八雲「ムジナ」については、「見えているのに正体が判らないモノ」の流れなのかも知れない。この次は簡単だ。小泉八雲「ムジナ」⇒芥川龍之介「貉(むじな)」⇒瀧井孝作「狢」と明らかに名前つながり。瀧井作品を三作品のさいごに持ってきたのがミソで、瀧井の「狢」とは狸のことと作中にあるので、そのあとの檀一雄「最後の狐狸」につながっていく。次の日影丈吉「山姫」へは「狐狸」の狐から山犬や狼への流れだろう。
次がまた難しい。日影丈吉「山姫」から徳田秋聲「屋上の怪音 赤い木の実を頬張って」への流れは、子供が消えることだろうか。そして徳田秋聲から次の室生犀星「天狗」へは、天狗の神隠しとともに泉鏡花と同郷の文豪というつながりもある。さらに「天狗」から椋鳩十「一反木綿」の共通点は鎌鼬や辻斬りだろうか。
と、ここまでは順調だったのだが、「一反木綿」の後の内田百閒「件」への流れはよく分からない。もしかしたら次の織田仁二郎「からかさ神」まで併せて、「人に化けるもの」ということだろうか。(一反木綿と傘化けだけなら器物妖怪という括り方もできるのだが。)次の火野葦平「邪恋」については明らかに器物の妖怪化であり、後の佐藤春夫「山妖海異」とは河童つながりになっている。「山妖海異」は河童を始め幽霊船や舟幽霊など様々な怪異譚を集めたものだが、続く稲垣足穂「荒譚」も同様、稲生物怪録や足穂が子供の頃に聞いたお化け話などの集成になっている。色んな化物が出てくるのは次の獅子文六「兵六夢物語」も同じだ。そして最後は寺田寅彦の随筆「化物の進化」でシメとなる。稲垣足穂や獅子文六の作品の冒頭には作者本人による語りがあるので、この辺りが寺田随筆との共通点になるのだろうか。「化物の進化」は井上円了ではないが古の怪異を科学の目で解き明かしつつ、神秘への畏怖と興味を説くもの。これで全てが終わり円環は閉じる。

『リア王』シェイクスピア 新潮文庫
言わずと知れた四大悲劇の掉尾を飾る最高作。実は今回初めて読んだ。シェイクスピアは以前から福田恆存訳のものを読むようにしているのだが、本書は訳もとりわけいい感じがする。四大悲劇の中では『マクベス』と同じぐらい楽しめた。特に道化が好い。正直いうと前半は悲劇というより「パワハラ親父が定年を迎え、肩書きがとれたら部下にしっぺ返しをくらう話」に見えてしまったのだが(笑)、後半からどんでん返しに次ぐどんでん返しで面白くなった。安易な救いが無いのもいい。作品としては「夏の夜の夢」や「あらし」の方が好きなのだが、四大悲劇のなかではこれが一番という気がする。

『主の変容病院・挑発』スタニスワフ・レム 国書刊行会
ナチス占領時代のポーランドで精神病院に勤務する若い医師を主人公とした初期作品と、架空の書評やエッセイとも一読判別がつかないメタフィクショナルな四篇を収録。哲学・倫理的な重いテーマをめぐる思索として、全てが響きあう。関口時正氏による翻訳は細部にまで配慮が行き届いているし、訳者後記での言葉の解釈に関する逡巡や本国での出版事情もとても面白い。また沼野充義氏による解説「レムは一人でそのすべてである」もレム文学の大まかな俯瞰や最晩年のレムの様子が描写されていて胸熱。大満足の一冊だった。まさにレク・コレクションの最後を飾るにふさわしい作品だったと思う。
『挑発』ついて少しだけふれておきたい。後半のメタフィクション『挑発』は、ナチスによるユダヤ人大虐殺をはじめ歴史上の虐殺を考察した架空の本『ジェノサイド』の書評で幕を開けるのだが、これがとにかくすごい。
「神を殺すことができないドイツ人は、神に《選ばれたる民》を殺してその地位を奪い、血なまぐさいin effigie〔肖像による〕退位の式の後、自らを歴史によって選ばれたる者と宣言しようとしたのだ。」
あるいは
「殺戮は《反・贖罪》行為であり、それによってドイツ人は《神との契約》から解放されたのだった。しかしその解放は完全なものであるべきで、つまりそれが神の保護下から反対の徴の保護下に移ることと等しくなってはならないのだった。殺戮は悪魔的な悪に捧げる行為となってはならず(後略)」
などなど。やはりレムはすごいなあ……。
続く「『人類の一分間』は地球上の全人類が一分間の間にしていることを統計学的に示した架空の本で、『ジェノサイド』もこちらも、本物を是非読んでみたくなる。出来ることなら第二期レム・コレクションが開始されて、未訳の長篇『地には平和を』や『技術大全』などが訳されると嬉しいのだが。

『古代西洋万華鏡』沓掛良彦 法政大学出版局
『ギリシア詞華集』全十六巻の全訳を果たした著者が、詩群を通じて古代ギリシアの人々の暮らしぶりや価値観を紹介した快作。内容は事物描写を目的とする作品や、障碍者及び女性蔑視と稚児愛を基とする風刺や性愛、碑銘詩など多岐にわたる。今はもちろんのこと、中世キリスト教の道徳観とも異なる価値観によって営まれていた古代ギリシアの社会の諸相が、素朴な詩の数々を通じて身近なものとして目の前に浮かんでくる。紹介されているのは四千五百に及ぶその膨大な詩篇のごく一部に過ぎないが、それでも極めて興味深い。
なお「詩としては九割がた屑(大意)と言い切ってしまっているのが楽しくて、そして例として挙げられているのを見てみると確かにひどい(笑)。
「当銀行は、市民の方々にも、異国の方々にも等しくご利用いただけます。 預けたお金は規定どおりに払い戻しいたします。 口実を設けて支払を渋る者もいましょうが、カイコスは他人様のお金は、 ご要望かあれば夜中でも御払いいたします。」 (『ギリシア詞華集』第九巻第四三五番)
これも「詩」なのだろうか?

『澁澤龍彦玉手匣(エクラン)』東雅夫/編 河出書房新社
さきほど取り上げた『文豪妖怪名作選』と同じ東雅夫氏の編集による、澁澤龍彦のきらめくような文章の集大成。稀代の怪談文芸編集者による、澁澤龍彦入門とでもいうべき本に仕上がっている。(それにしても東氏、八面六臂の大活躍であるね。)
膨大な彼の著作の中からドラコニアと呼ぶに相応しい文章を、まるで寄せ木細工の木片のようにモザイク状に緻密に組合せて美しい一冊に仕上げてあり、そこに現出しているのはまさに「澁澤」。ひとつの玉手匣に仕上げる腕前はまるで箱根細工を見ているようでもある。複雑な手順で開けてみると、中に入っているのは、なにかしら綺麗なオブジェのような気がしてならない。装丁も含めてとても素敵な本だ。

『人形作家』四谷シモン 中公文庫
人形作家・四谷シモンによる自伝。嵐山光三郎による聞き書きを元に書かれた2002年出版のものに、その後の出来事を書下ろしで加えてある。子供時代の思い出から澁澤龍彦や唐十郎らとの出会い、そして状況劇場での役者時代を経て人形作家となるまでの半生にくわえ、その当時の人形作品を写真で紹介するという至れり尽くせりな構成。(それにしても壮絶な子供時代の思い出には声も出ない。大泉滉とその父親の大泉黒石、あるいは岡本太郎とその両親の岡本一平・かの子を連想した。)
本書を読み終えて思ったことだが、この四谷シモン氏、まずもって人としての熱量が違う。そしてそういう人々の熱がぐるぐると渦巻いていた当時の新宿の様子がその場にいるような臨場感でもって描かれている。氏の作品に対する思いも示されていて、掲載された写真を鑑賞する上でとても参考になった。人形好きにもサブカル好きにもお薦めの一冊と言えるだろう。

『天王船』宇月原晴明 中公文庫
松永久秀、織田信長、羽柴秀吉、そしてマルコポーロにフビライ・ハーンと、歴史上の人物を語り手にした四つの物語からなる短篇集。広く知られている歴史上の事実と矛盾しないようにしながら、荒唐無稽で蠱惑的なエピソードを紡ぐ腕前はたいしたもの。歴史の薄皮を一枚めくるとそこには、暗殺教団の技を密かに本邦に伝える集団、球体関節により自在に身体を疾らせながら殺戮機械と化す少女の人形、あるいは秀吉の「中国大返し」を成功に導いた二つの神器など、怪しげなものたちが跋扈する世界が広がる。読んでいて山田風太郎の諸作品を連想した。忍法帖の香りのする明治物のようだ。なお、どうやら本書は外伝らしいので、先日から本篇の『黎明に叛くもの』を探してるのだがまだ入手できていない。ぜひとも読んでみたい。
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2017年7月の読了本

『堆塵館』エドワード・ケアリー 東京創元社
ロンドンの郊外に広がるゴミの山、。そしてその彼方にそびえ建つのはアイアマンガー一族の巨大な屋敷「堆塵館」。あらゆるごみを統べるアイアマンガーの血に秘められた秘密は、赤毛の少女ルーシーが館を訪れた時に大きなうねりとなって動き出す……。久しぶりに「物語」の面白さを堪能できた気がする。登場人物たちがことごとくどこかおかしいところとか、物の声が聞こえる主人公クロッドだとか、なんだかもう堪らない。著者による挿し絵も味があって良い。少年向けに書かれた物語らしいが、こういうのを読みたい大人だって多いんじゃないか。というより物語を読むわくわくを忘れた大人にこそ読んでもらいたいと思う。ツイッターで先に読み終わった人たち感想を見ていると、皆さん口々に「えっ、ここで終わるの?!」とつぶやいていたのだが、その理由が自分にもやっと解った。映画館で『スターウォーズエピソードⅤ 帝国の逆襲』を初めて見たときを思い出してしまった(笑)。これはもう三部作をぜひとも全部出してもらって、最後を見届けないことには落ち着かない。途中でストップすることがないように是非皆さんも買っていただきたい。後悔はきっとしないから。

『穢れの町』エドワード・ケアリー 東京創元社
アイアマンガーの二作目。本作では舞台が堆塵館から「穢れの町」ことロンドンはフォーリッチンガム区へと移り、クロッドとルーシーの冒険は続く。アイアマンガー一族と町の人々に運命の時は迫る。クロッドよ急げ!続きはまだかあ!(帯によると12月には出るらしいので、どうやら物語の結着を見届けることはできるらしい。まずはひと安心だ。)

『龍宮』川上弘美 文春文庫
様々な人“あらざるもの達”との交流を描いた八つの幻想譚。ある時は彼ら自身により、またあるときは同じ屋根の下に住む者たちによって、茫洋とした日常の中に密かに息づく胡乱(うろん)なものたちの姿が語られていく。ひとつ付け加えるならば、たしかに幻想譚ではあるのだけれど、主眼はどちらかというとシチュエーションの不思議さではなく、奇妙な人物たちとのコミュニケーションにある感じだ。(漱石の『夢十夜』でいえば第四夜、おかしな爺さんが「蛇になる、きっとなる」という話に近いかもしれない。)ちょっと背徳的で、官能的な雰囲気もして面白い。イメージが美しい「轟(とどろ)」と「島崎」が特に気に入った。

『引き裂かれた自己』R.D.レイン ちくま学芸文庫
偽の自己を肉化して世界と対峙することで「真の自己」を護る“超越的な戦略”をとる統合失調気質の人々。彼らの特質を現象学的に分析し、その帰結としての統合失調症の理解へとつなげようとする試みの書。もちろん本書の分析は全ての症例に当てはまる訳ではなく、著者によれば破瓜型、緊張型の慢性統合失調症に当てはまるものであっても、妄想型をはじめとする他の慢性精神病を包括するものではないとのことだが、それでも内容については納得できる。今読んでも充分に面白く、本書が書かれた1960年にはきっと画期的な研究だったのではないかという気がする。現象学の精神分析の分野における実践としても、あるいは精神病治療への(当時の)新しい取り組みとしても、どちらの見方をしても興味深く読めた。
もしも本書にあるように自己同一の感覚を持つには他者による認識や世界との関わりが必須なのだとしたら、本当に人間らしいAIがもしも作られたとしたら、外部との充分な関わりを持てず統合失調症的になってしまうということはないのだろうか。

『鏡の前のチェス盤』ボンテンペッリ 光文社古典新訳文庫
1922年に出版されたイタリア発の幻想物語。鏡の中に入り込んだ少年が体験する奇妙な世界は確かにキャロルの〈アリス〉を連想させるが、自分としてはむしろアボットの『二次元の世界』をイメージさせられた。トーファノによる挿絵も愉しい。本篇は120ページほどしかないが、その後に訳者の橋本勝雄による著者ボンテンペッリと挿絵画家トーファノ、そして登場する様々なモチーフについての詳細な解説が付くのはありがたい。ちなみに馴染みのないボンテンペッリなる著者、他の作品としては『怪奇文学大山脈Ⅱ』に収録されているものがあるとのこと。昔読んだのにすっかり忘れていた。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』フィリップ・K・ディック ハヤカワ文庫
逃亡アンドロイドを始末する"賞金稼ぎ"デッカードと"ピンボケ"のイジドアという二人の人物を軸に、ディック世界の要素を惜しげもなく放り込んだ代表作のひとつ。ストーリー的には逃亡アンドロイドを追うデッカードがいかに任務を果たすかが中心となるが、テーマとしてはイジドアの方もかなり重要。そしてマーサー教という新興宗教と電気動物という偽物の命、アンドロイドと人間たちの中で生の意味を問いかけてくる本作は、彼の処女作である非SF作品『市に虎声あらん』にも重なって見えてくる。読書会のために久しぶりに読み返したのだが、思いのほか面白かった。

『中世の窓から』阿部謹也 ちくま学芸文庫
ニュルンベルクに住む人々の暮らしをのぞき窓のようにして、中世キリスト教社会を活写するエッセイ。そこから見えてくるのは様々な庶民の生活や生業であり、貨幣経済の勃興と贈与の世界観のせめぎ合いからユダヤ人排斥や異端思想の歴史まで幅広い。激動の中世に興奮する。
まず冒頭のニュルンベルクとハンブルグの二都の対比が面白い。神聖ローマ帝国の帝都であり富める商人の街と、裸足の聖者・聖ゼバルドゥスの清貧というふたつの側面を持つニュルンベルク。対するはエルベ河畔に建ちハンザ同盟に所属した自由都市。氏の筆により中世ヨーロッパがいきいきと躍動する。ちょっと京の都(あるいは大坂)と堺を連想したりもした。また中世ヨーロッパで市(いち)がアジールだった理由として、当時の遍歴商人たちが森や街道では盗賊に早変わりしていたからではないかという指摘にはびっくり。なるほど、そういう考えもあるわけだな。
キリスト教は、それまでの欧州の習慣であった「物理的な対象物を介在させた贈与」では返済不可能な、「死後の救済」という贈与を与えることで絶対的な優位に立ったという指摘も面白い。そしてやがて貨幣経済の成立によって富を蓄積させた当時の教会に対し、それまでと異なる「貨幣を媒介とする人間関係」に戸惑い悩む人々が霊的な思いを純化させ、ヴァルド、カタリ派などの異端派が生まれたという推察もなかなか。
あと個人的には、オイレンシュピーゲルのいたずらがもつ社会的背景の数々が興味深かった。なぜあのいたずらが当時の人たちにとって痛快だったのか。(それは例えば親方に対するやっかみだとか、特権に対する恨みつらみだとか。)単なるいたずらではなかったわけだ。まあ、汚らしいことに違いはないが(笑)いやあ楽しい一冊だった。

『四角形の歴史』赤瀬川原平 毎日新聞社
〈こどもの哲学 大人の絵本シリーズ〉の一冊。「犬に風景は見えているのか?」という疑問に始まり、風景画の歴史から絵の誕生、そして自然界における直線や四角形の発見まで、著者が自らのユニークな哲学を開陳する。赤瀬川氏の本はいつも読み手を煙に巻くような曖昧さが好い。中国拳法に喩えるなら八卦掌みたいなものか。摺り足で泥の中を進むような技にいつの間にか転ばされている。

『路上探検隊 讃岐路をゆく』路上観察学会/編 宝島社
赤瀬川原平・藤森照信ら路上観察学会のメンバー(赤瀬川原平/藤森照信/南伸坊/林丈二/杉浦日向子/松田哲夫/井上迅の全7名)がはるばる香川へと赴き路上観察を行った記録。トマソン的な"変なもの"を収集する赤瀬川氏に対して建築史的な視点で面白物件を探し出す藤森氏など、見るポイントはそれぞれ違えど、共通するのは「面白がり」の視点だ。読んでいるうちにこちらも粋な遊びにいつのまにか首までつかっている。自分の写真趣味の原点は路上観察学会やトマソンにあるのが再確認できた。

『メッカ』野町和嘉 岩波新書カラー版
ラマダン期間中のメッカおよびメディナの様子をカメラに収めた写真集『メッカ巡礼』の撮影裏話とともに、ムスリムになった著者の信仰告白や、イスラム過激派など現代アラブ社会が持つ問題まで幅広く語る。異教徒立入禁止の場所の写真はなにしろすごい。まさかメッカやメディナの様子が見られるとは思わなかった。以前、『増補 モスクが語るイスラム史』(羽田正/ちくま文庫)を読んでいたので、本書で語られているモスクの内部構造が判ってよかった。

2017年6月の読了本

『死せる神々 ロシア幻想短編集III』A.アンフィテアトロフ他 アルトアーツ
20世紀初頭のロシアに花開いた幻想文学の系譜を紹介するアンソロジーの第3弾。バラエティにとんだ6つの短編を収録する。一般書店で売っているものではないので通販を利用したのだが、一昔前なら絶対に入手できなかったような作品が読めるのはネット時代のいいところだと思う。収録作品の中ではケン・リュウの中国ファンタジーを思わせる「オパール」や、ただひたすら圧倒される「沈黙」が好かった。

『里山奇談』coco/日高トモキチ/玉川数 角川書店
いわゆる「異界」である山や川辺を訪れた人々が体験した奇しい話の聞き語り集。ページをめくると目の前に不思議な世界が広がってゆく。柳田國男や柴田宵曲、根岸鎮衛『耳嚢』などが好きな人はかなり気にいるのではないか。たんに怖いというより「畏れ多い」と言った方がしっくりくる。実話系遠野物語とでも呼べば良いだろうか。マタギの人たちに山奥での体験を聞いた『山怪』も面白かったけど、こちらは舞台が里なのでよけい身近に感じる。いたずらに怖がらせようとするのは興ざめだけど、こういうのは好きだ。

『奇妙で美しい石の世界』山田英春 ちくま新書
本業の装丁家としてだけでなく瑪瑙コレクターとしても広く知られている著者が、「模様の美しい石」の数々に関する様々なエピソードをカラー写真とともに紹介した本。風景画のように見える「風景石」や樹木のように見える石など、収録された写真はどれもたいへんにとても美しい。それにしても瑪瑙がこんなにきれいな石だとは知らなかった。語られている薀蓄も愉しい。たとえば「中国で、美しい石「玉(ぎょく)」といえば翡翠だが、日本で「玉」といえば、まず瑪瑙やジャスパーなのだ。「玉川」と名がつく川は上流から瑪瑙などの美石が流れてくる川であることも多い。」世界を広げてくれる本は読んでいて愉しい。

『ブローティガン 東京日記』R.ブローティガン 平凡社ライブラリー
『アメリカの鱒釣り』や『西瓜糖の日々』といった作品で有名な作家・詩人の著者が、1976年5月から6月30日までの東京訪問時に書き留めた詩をまとめたもの。全く馴染みのない文化、言葉すら通じない異国でひとり過ごす寂しさと見知らぬものへの興味を独特のリズムで描きだす。布団の中でぱらぱらとページをめくっていると、ついうとうとしてしまう。ブローティガンは読んでいて気持ちいいのだ。
「ねむりのないねむりのあとに ふたたびねむる ねむること なく」(「ぼくのベッドを見る/午前三時」)

『星の子』今村夏子 朝日新聞出版
わが子の病気をきっかけにして「あやしい宗教」にのめりこんだ両親。娘の目を通して彼らの日々の生活が淡々と語られる……。いつも氏の作品ではいびつな人間関係を通してぞわぞわと心を逆なでにされる。無事に毎日を送りたければ気づいてはならないことがある。気付けば耐えられなくなるから。描かれぬものこそが雄弁に語りかけてくて止められない。
描かれているのはひと言で言えば「しあわせ」と呼ばれるものなのかもしれないが、それはよくあるように健やかな状態が失われて感じられるといった安直な描き方ではない。どこまで歪めてもそれを「しあわせ」と呼ぶことができるのか、ぎりぎりの判断を強制する。そして極限まで歪んだ「しあわせ」は、そのまま「不気味の谷」と化して読者にせまってくる。このあたりは同じく「痛み」をテーマとするアンナ・カヴァンの作風とも違っている。なぜならカヴァン作品の語り手は自らの不幸を直視しているから。そう考えると今村作品はカヴァンよりもある意味さらに残酷な物語と言えるかもしれない。

『夜の夢見の川』T・スタージョン、G・K・チェスタトン他 創元推理文庫
翻訳家・アンソロジストの中村融氏による〈奇妙な味〉の作品を集めたアンソロジーの第2弾。恐怖あり不思議あり余韻ありの好作品集で、前作『街角の書店』よりさらに薄暮から暗闇にかけての気配が強まった気がする。(なにしろ冒頭の「麻酔」には度肝を抜かれた。)
「麻酔」「バラと手袋」「お待ち」の後味の悪さに「終わりの始まり」「ハイウェイ漂泊」「銀の猟犬」や「心臓」「怒りの歩道」の不安な気持ち、「アケロンの大騒動」と「イズリントンの犬」のユーモアに「剣」と表題作の底知れぬ怖さ。何れ劣らぬ十二の秀作揃いで“ほの昏い”読書が堪能できた。

『少年十字軍』マルセル・シュウォッブ 王国社
シュウォッブは一部に熱狂的なファンを持つ作家。本書は彼の『黄金仮面の王』『二重の心』という二つの初期作品から厳選して訳出した短篇集で、ポーやダンセイニ、ヴァーノン・リーなどに共通する幻想と衒学と愉しさに溢れている。休日にパスタとワインの昼食を摂って、午後の風に吹かれながらリクライニングチェアで本書を読んだらまさに至福の時間だった。特に好みだったのは「黄金仮面の王」「大地炎上」「リリス」「少年十字軍」。ちなみに訳者の多田智満子氏はアルトー『ヘリオガバルス』やユルスナール『東方綺譚』など手がけられていて、格調高い訳文も好かった。

『花の命はノー・フューチャー』ブレイディみかこ ちくま文庫
イギリスの港町ブライトンで労働者階級の連合いと暮らす著者による強くて痛快なエッセイ。氏が語るのは「逆境」が世代を越えて受け継がれるクラスタで暮らすということ。センチメンタルな気持ちなど吹き飛ばして生きる姿はパンク。読んでいて気持ちがいい。
「『そんなに未来に希望が持てないのなら、生きる甲斐がないじゃないか』と言われることがよくある」
「最後には各人が自業自得の十字架にかかって惨死するだけの人生」
「それでも(中略)生きようとするからこそ、人間の生には意味がある。そういう意味だったら、わたしもまだ信じられる気がする」
それにしてもシモーヌ・ド・ボーヴォワールに雨宮まみ、こだまに笙野頼子、そしてチママンダ・ンゴズィ・アディーチェにブレイディみかこと、読むと無性に何かを語りたくなる本の著者がきまって女性というのは、きっと何か意味があるという気がする。

『東方綺譚』マグリット・ユルスナール 白水uブックス
東方の地を舞台に著者が自在に想像を膨らませて描いた九つの物語。多田智満子氏の美しい訳文が幻想的な雰囲気を一層かきたてて素晴らしい。冒頭の「老絵師の行方」と掉尾を飾る「コルネリウス・ベルクの悲しみ」がとても気に入った。

『本棚探偵 最後の挨拶』喜国雅彦 双葉文庫
ハードカバーでも読んだのだが、文庫になったのを見かけたらつい買ってしまった。人気ギャグ漫画家による古本とミステリをテーマにしたエッセイの第四弾。著者は本書で日本推理作家協会賞を受賞した。この巻で一旦打止めとのことでちょっぴり寂しい気持ちがするが、でも読み返したらやっぱり面白かった。「文庫本のためのあとがき」も新たに書き下ろされているのでお買い得。

『むずかしい愛』カルヴィーノ 岩波文庫
境遇も性別も様々な人々による「冒険」を通して、人との触れ合いの不在と、そしてそんな世界で生きていくということの一瞬を照射する。カルヴィーノの作品ではときどきハッとするような文章にぶつかる。といっても大上段に構えた警句とかではなく、わけのわからなさにどきっとするのだ。たとえば「幸福とはウズネッリにとって、宙ぶらりんの状態、息を殺して生きるようなものだ」とか、あるいは「彼は藤の花をながめていた。いかにも藤の花のながめ方を心得ているといった様子で、かれは藤の花をながめていた。」といった文章。やはりどう考えても変だ。カルヴィーノの魅力はもしかしたらこういった「わけのわからなさ」にあるのかも知れない。最初はすこし戸惑ったが、後半の「ある読者の冒険」からツボに入った。「ある夫婦の冒険」「ある詩人の冒険」「あるスキーヤーの冒険」の流れはちょっと奇跡っぽいとさえ思う。
(SFファンのための追記:ふと思ったのだけれど、本書のテーマである「愛(=コミュニケーション)」の不在や不可能性は、スタニスワフ・レムの『エデン』や『ソラリス』といった作品と共通するところがあるかもしれない。)

『ヒドゥン・オーサーズ』西崎憲/編 惑星と口笛ブックス
ついにでた電子書籍オリジナルの叢書〈覚醒と口笛ブックス〉の第一弾。(大前粟生氏の短篇集『のけものどもの』と同時発売。)同じく西崎氏の編集で書肆侃侃房から出ている文芸誌『たべるのがおそい』と同様に、小説だけでなく詩や短歌などジャンルミックスの作品集となっているが、こちらの方がより「尖がって」いるような気がする。たとえば冒頭の作品は、我々の住む世界とは全く繋がりのない(因果律も異なる)世界で、異質な人々が紡ぐ物語。もしも我々自身と共通するものがあるとすれば、それは 唯一彼らが感じる情動ぐらいなものなのだ。こんな調子で最初から最後まで、読んだことがないような作品が続く。従来の商業枠には収まりきれない作品を収録したショーケース的作品集といえるだろう。
特に好みだった作品は、大滝瓶太「二十一世紀の作者不明」、斎藤見咲子「マジのきらめき」、大原鮎美「月光庭園」、野村日魚子「夜はともだちビスケット」、ノリ・ケンゾウ「お昼時、睡眠薬」、伴名練「聖戦譜」、岡田幸生「『無伴奏』抄」、深沢レナ「芋虫・病室・空気猿」、深堀骨「人喰い身の上相談」あたりだろうか。

2017年5月の読了本

出張に行く機会が増えたことも大きいが、だんだんと読書ペースが戻ってきて嬉しい。好きな本を好きなタイミングで読めるしあわせを噛みしめている今日この頃であるね。

『ハイン 地の果ての祭典』アン・チャップマン 新評論
20世紀初頭まで南米パタゴニアに暮した原住民族セルクナム族。彼らが伝えていた男子の成人儀式「ハイン」の様子とその宇宙観について、人類学者でもあった神父グシンデの貴重な写真と記録を基にして著者がまとめた本。
儀式の中心となるのは成人男性が演じる様々な精霊たち。精霊は天を表すものと地から湧き出るものの二種類に分かれており、いずれも赤・白・黒の三色に塗り分けられた身体と奇怪な仮面で表現される。精霊の異様な姿と不思議な儀式の描写に魅了される。白人の入植と麻疹の流行で彼らの社会は今はもう崩壊してしまっており、儀式でもあり演劇でもあったハインの記録をこうして残す事ができたのは良かった。
彼らの社会は極端な男性権力型で、それを正当化するために伝えられていた神話がまたすごい。遥かな昔、彼らの社会は今とは逆で女性シャーマン「月」が支配する極端な母権制であり男たちが革命により勝ち取ったとされる。(まるで映画『猿の惑星』をみているようだ。)男たちの一斉蜂起で女の世界が一夜にして滅び、後に残ったのは秘密結社により受け継がれるミソジニーと男性支配の構図。まあこのような文化が今に受け継がれなくて良かったのかもしれないが、本で読んでいる分には大変に興味深い。異様な精霊たちの姿と相まってまるで物語を読んでいるような感覚に陥いってゆく。いろんな意味ですごい。
最後まで読んだら地元の話題がでてきて驚いた。この貴重な記録や写真を残したマルティン・グシンデ神父は、その後1959年に南山大学に教授として赴任して人類学研究所の設立に関わったとのことだ。なお全編に流れる雰囲気は何となく『悲しき熱帯』を思わせたが、著者がレヴィ=ストロースの薫陶を受けた事とは多分関係ないだろう。文化人類学好きなら絶対愉しめる。

『うろんな客』/『不幸な子供』/『敬虔な幼子』エドワード・ゴーリー 河出書房新社
四日市市立博物館で開催していた「エドワード・ゴーリーの優雅な秘密」展を見に行って、あまりに面白かったのでミュージアム・ショップで衝動買いしてしまった3冊。なんとも人を喰った展開とブラックな味わいが堪らなく好い。『うろんな客』にでてくる“うろん”のピンバッジまで買ってしまった。

『母の記憶に』ケン・リュウ 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
大評判となった『紙の動物園』に続く日本オリジナル短篇集の第二弾。ショートショートから中篇まで、訳者の古沢嘉通氏が厳選したバラエティあふれる十六篇が収められてあるが、今回もいずれ劣らぬ傑作揃いでハズレが無い。冒頭の「烏蘇里羆(ウスリーひぐま)」「草を結びて環(たま)を銜(くわ)えん」からいきなり物語世界に引きずりこまれる。色んなタイプの物語が入っているので、前作と同様、読む人によって好きな作品が分かれるのではないだろうか。
ケン・リュウ作品が後を引くのは登場人物の関係がとてもウエットだからかもしれない。つねづねSFの魅力は展開のドライさにあると思っているのだが、この人の作品ほどウエットで且つ面白いSFというのはこれまで経験したことがない。ウエットなのはジェンダーや家族関係に踏み込むからだろうか。そしてドライではない代わりにとてもビター。たとえば「レギュラー」ではサイコパスのよる連続殺人とそれを捜査する私立探偵の物語を軸に、未来のテクノロジーが生み出すアジア社会の描写と探偵を苦しめる過去の呪縛が良い具合に合わさってサスペンスを盛り上げる。抒情的なのだけれど甘くはないところが持ち味だ。
あえて気に入った作品を三つ選ぶとすれば、「草を結びて環を銜えん」「レギュラー」「上級読者のための比較認知科学絵本」だろうか。「カサンドラ」「訴訟師と猿の王」や「万味調和」もかなり気に入った。

『ペルーの異端審問』フェルナンド・イワサキ 新評論
あちこちの古文書館に保管された異端審問史料を丹念にひもといて、「異端の罪」に問われた被告たちの罪状と、彼らがいかに裁かれたかを紹介した本。むかし平凡社ライブラリーで読んだヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』を裏返したみたいな印象だが、人々がどのような信仰をおくっていたかの貴重な記録でもある。罪の動機も現代とそう変わらない。訴えさえあれば審問会が開かれるので、聖女と称して様々な奇跡を起こした人々が悪魔の所業として逆に異端に問われることだってある。結果、自分から見たら『黄金伝説』に列挙される聖人たちと区別のつかない者たちが裁かれることにもなるのだ。
ただし実際には「異端審問=即極刑」というわけではないようだ。被告は裁判で悪魔信仰を放棄(否定)して審問官に「単なる肉欲を抑えられぬ一罪人」と見なされれば、追放などの軽い処置で済む。また正真の「愚者」と見なされれば、やはり死刑ではなく病院送致となる。罪状や審問のやりとりはえげつないものも多いが、歴史学的な見方をすればかなり面白い。また当時の彼らの感覚はそのまま読めば幻想文学としても楽しめる。バルガス・リョサが序文を書いて筒井康隆か帯の推薦文を書いているのはダテではないのだ。

『水蜘蛛』マルセル・ベアリュ 白水uブックス
幻想的な中短篇を十二篇収録した作品集。〈小説のシュルレアリスム〉叢書の一冊だが中身は正統派の幻想小説だった。18~19世紀ごろの別の誰かの作品といっても通用しそうな気もする。「球と教授たち」「向いの家」「宝の島」「百合と血」などはとても好み。詩人だけあってイメージが詩的でとても綺麗だ。表題作のエーベルス「蜘蛛」にも通じる不安感や「球と教授たち」のタルホ的な味わいも面白かった。

『食通知つたかぶり』丸谷才一 中公文庫
神戸を皮切りに伊賀や高松に酒井など日本全国を食べ歩く。ひたすら食い、呑み、味わうことに徹しているのが気持ちいい。作者自身が執筆の動機を「言葉によってどれだけものの味を追へるか」と述べているだけあって食べ物の形容がとにかく見事。ねっとりとして舌にまとわりつくような味わいがある。旧仮名遣いの文章も好い。書名の「知つたかぶり」みたいに小さい「っ」を使わないってのはなんか良いなあ。
食べ歩きエッセイの愉しさは、いかに言葉をつくすかにあると思っているのだが本書はその点では申し分なく、これでもかと言わんばかりに書き込まれた言葉がそのまま舌に旨い。「豪奢」に「嬌柔」に「流麗」とか、あるいは「瀟洒」に「柔媚」など。また「清楚淡白」に「香美脆味」、「優雅端正」に「清凛豊饒」、「甘美肥甜」なんてのもでてくる。(もっとも岡山の魚正とか名古屋の鳥孝など店を検索してみるととんでもなく高級な店なので旨いのは当たり前かも。)
あるレストランでは「牛の髄の焼いたの(ベイクト・ボウン・マロウ)」を食べていていかにも美味しそうなのだが、こんなの今では絶対食べられないだろう。古い本なので他にも鯨料理など今ではおいそれとは食べられないものも出てきて、図らずもある時代の日本を切り取ったポートフォリオのようになっているのが興味深い。ひとつ驚いたは、店の名前をそのままに、感心しない料理はそのまま「いただけない」とか書かれているのもあったこと。自由すぎる表現は丸谷氏ご本人の性格によるものか、あるいはこれもその時代では普通だったのか。はたして店の人は怒らなかったのだろうか?

『巨神計画(上・下)』シルヴァン・ヌーヴェル 創元SF文庫
世界各地の古代地層から見つかったのは超文明による巨大ロボットの部品だった。その秘密を解き明かすべく集められた個性的なメンバーは、否応なく世界レベルの陰謀に巻き込まれてゆく……。軽く読めるエンタメ三部作の第一作で、小説としての重厚感や“らしさ”よりもハラハラドキドキとスピード感に力点が置かれている。アニメや映画になれば気分よく楽しめる良作になるのではなかろうか。エピソードは荒唐無稽な感じが強いが、ロボット物が好きな人には堪らないだろう。

『まっぷたつの子爵』カルヴィーノ 岩波文庫
〈我らの祖先三部作〉の一作目。砲撃で真二つとなり「悪半」と「善半」の半身ずつに別れた領主メダルド子爵により奇想天外で示唆に満ちた物語が展開する。三部作の好きな順番は『不在の騎士』、『木のぼり男爵』、『まっぷたつ』だったのだが、今回読み返してみて以前読んだ時になぜ本書が苦手だったのかを思い出した。「悪半」の残酷さが辛かったのだ。圧倒的な悪者感に、そうだった、そうだったと頷きながらページをめくっていた。でも傑作。他の二冊も読み返してみたくなった。

『死都ブリュージュ』ローデンバック 岩波文庫
喪われし想い出を求めて廃市に隠遁し、亡き人の面影を追う独りの男が出逢ったのは、放埓な一人の踊り子。憂愁と沈黙の街を舞台に、信仰と愛、情熱と誘惑、そして苦悩と破滅への道を歩む男の姿を描く。現実ではない幻想のブリュージュがここにある。個人的にはもう少し踊り子ジャーヌが悪魔的である方が良かったが、それはないものねだりというものだろう。黄昏のロマンに満ちた作品。

『バッタを倒しにアフリカへ』前野ウルド浩太郎 光文社新書
ファーブルに憧れて昆虫の研究者となった著者が単身モーリタニアへと乗り込み、サバクトビバッタの研究に没頭した3年間の思い出を綴った笑いあり涙ありの熱血ノンフィクション。砂漠、異文化、昆虫ときたら面白くないわけがない。フィールドワークの楽しさに満ちた一冊となっている。
また同時に、将来がみえず不安に満ちたポスドクが徒手空拳で異国の地に乗り込み、現地の人々と一緒になって逆境を跳ね返して夢を叶えるという、ある種の“ビルドゥングスロマン”にもなっている。つらい生活を楽しみ、"無収入"になってもその深刻でも明るさを忘れない姿がとても好い。昆虫版の『ルワンダ中央銀行総裁日記』とでも言えば雰囲気が伝わるだろうか。(トーンはもっと能天気だが/笑。なにしろ1ページ目からしてすでに面白い。バッタの研究者なのにバッタアレルギーで、バッタに触られるとじんましんが出るとか。)
専門分野のサバクトビバッタ以外にもゴミムシダマシやマメハンミョウ、毒バッタなど面白い生態の昆虫が出てくるので、虫の写真さえ大丈夫だったらノンフィクション好きの人には超おすすめの一冊だ。

『ランボー詩集』堀口大學訳 白凰社
ランボーの詩作を初期と後期に分けてまとめなおし巻末に解説を附す。個人的には後期詩篇の方が好きなものが多かった。(初期詩篇は今読むとけっこう“厨二”的なものも多い。)たとえば「鴉たち」の「暮れの鐘、余韻をあとに消ゆる頃 九天の高きより吹きおろせ」「君ら、義務の宣布者たれ、おお、黒きわが凶つ鳥!」といったくだりはかなり好き。 昏い作品の方が切れ味が良い気がするのは単に自分の趣味のせいか。幻想的な詩篇も多く、訳者の言葉の選び方も冴えている。装幀も味があって好い。中には肖像や巴里にランボーを呼び寄せたヴェルネールによる彼のデッサンなどもあり、結構愉しめた。とくに気に入ったのは「酔いどれ船」「鴉たち」「渇きの喜劇」と『地獄の一季』あたりか。
なお、「ジャンヌ・マリーの手」の中に「京のまた大阪の?」という文章があったのだが、巻末の訳者自身による鑑賞ノートには原文は"Des Khenghavars ou des Sions?"とある。それぞれペルシャの古都とエルサレムのことなのだが、翻訳のあまりの自由さに笑ってしまった。

『世界のすべての朝は』パスカル・キニャール 伽鹿舎
17世紀フランスに実在した音楽家サント・コロンブの生涯を静かな筆致で描く。彼の二人の娘と弟子マラン・マレ、亡き妻との邂逅を通じて示されるのは、言葉で語りえぬものと高みへと至る想い。(などと言うとそれもまた違うのであるが。)イサク・ディネセン(カレン・ブリクセン)の諸作にも通じる捉えどころのなさと深みがあるが、読んでいる間はただただ心地よい。読んだあと、つい何かを語りたくなってくる作品だが、本作についてはあれこれ言わぬのが良さそうだ。

2017年4月の読了本

『怠惰への讃歌』バートランド・ラッセル 平凡社ライブラリー
昔から論文とエッセイの中間みたいなかためのエッセイが割と好きだったりする。たとえば山形孝夫『砂漠の修道院』とか網野善彦『古文書返却の旅』とか。本書はそんな自分の好みにあった、分析哲学の大家が記したエッセイだ。テーマは時事や社会問題に関するもので書かれたのは1930年ごろ。第一次大戦の後、束の間の平和のときだ。全体主義の足音が聞こえはじめ大きく変化する国際社会への危機感が、辛辣で鋭い提言の中に見え隠れする。たとえばこんな感じ。
「政治的に未熟な国民は、将来の政治についての最上の案内者ではない」
「即ちファシズムの哲学はなく、これについては精神分析ができるだけだ」
(いずれも「前門の虎、後門の狼」の章より)
ラッセルが批判しているのはファシズムばかりではなく、それを許してしまう人々のこころだったりもする。彼によれば二十世紀前半の西洋の青年は、せっかくの高い知識を持っているのに、日々の糧を得るため冷笑とともに自らの良心を麻痺させることでそれを愚かな富豪のために用いたという。(しかし科学者は社会の全幅の賛意のもと自分達の最善の精神力をふるうことが出来たので、冷笑的にならずにすんだ稀に見る幸福者だとも。うーん、これはどうだろうか。)
また冒頭にある同題のエッセイでは、1日あたりの勤労時間を四時間に制限して、残りの時間で人生を豊かにする社会を作れと提言する。安吾の『堕落論』みたいに、刺激的なタイトルだが内容はしごく真っ当な社会論なのだ。これを「怠惰」と呼ぶのであれば怠惰大賛成である。
ほかにも教養と教育(「無用」の知識/青年の冷笑/克己心と健全な精神)、女性問題(建築と社会問題)、経済(現代版マイダス王/社会主義の問題)、全体主義や帝国主義(ファシズム由来)など、とりあげられるテーマは幅広い。(注:カッコ内にあるのは章の名前)
似たような感じのものでは『春宵十話』など岡潔氏の随筆もあるが、あちらはすこし説教くささが強くて自分には合わなかった。本書の方が視野が広く押し付けがましくなくて好きだ。ただ残念なのは訳が古くて文章自体も硬いこと。新訳したらもっと読みやすくなる気がする。

『僕僕先生 仙丹の契り』仁木英之 新潮文庫
こんどは吐蕃(チベット)の王位継承の騒動に巻き込まれる僕僕先生一行。相変わらず愉しいシリーズだ。このシリーズは呪術(仙術)による闘いや敵役が権謀術数の限りを尽くすところなんか酒見賢一氏の『陋巷に在り』にも似てるのだけれど、主人公に王弁をすえたのが大きく違うところ。彼のおかげで僕僕先生の仙人チートによって話が単調になるのを逃れている。また敵の姑息な策略が、王弁の正面突破で粉砕されるのがいつも気持ちいい。
あとがきによれば、どうやら仙人と弟子と仲間たちの長かった旅もいよいよ佳境。「終わりの始まり」に差し掛かったようだ。頼りなかった王弁がどんどん役に立つようになるのが寂しくもある(笑)。しかし単行本は既に二冊ほど出ているようなので、まだしばらくは愉しめるだろう。

『黄色い雨』フリオ・リャマサーレス 河出文庫
孤独と老いと哀切、そして崩壊の予兆に満ちた物語。黄色とは腐敗の色。打ち捨てられた村と一人残った老人の記憶を静かに覆い隠してゆく色だ。黄色い雨とは、はらはらと舞い散るポプラの枯葉であはるのだが、それと同時に苦しみや別離や苦い記憶そのものであったりもするのだろう。優しく雨ぞ降りしきる。全てが忘却の彼方に消え去るまで。滅びゆくことが避けられぬアイニェーリェ村はまるで『百年の孤独』のマコンドのようにも思えたりするのだが、実はマコンドなのは村ではなく語り手である「私」自身。全てが崩れ去り塵と化すことが不可避であるとき、そこに現れるのは息子が家を出るとき死に絶えた自分の心であり、そして出会うのは内宇宙なのだ。全篇を通じて暗く救いのない話なのだが、読んでいると様々なものが頭を駆け巡り飽きさせない。語り手である老人の迷妄が進むにつれて死者たちが甦ってくるあたりは、いわゆる典型的な魔術的リアリズムでもあるのだが、本書では死者をみて普通に怖がっているのがおもしろい。彼と最後まで運命を共にする雌犬も一緒になって怯えているので現実の出来事であるともとれる。(ところでストーリーとは関係ないのだが、老人が飼っている「雌犬」が、名前すら付けてもらえてないのに、性別は明確なのが面白い。スペイン語だからだろうか。)文庫版のボーナストラックとして本編のほかにグラビンスキの『動きの悪魔』を思わせる「遮断機のない踏切」と、「不滅の小説」という二つの掌編も収録されたお得な一冊だった。

『ハリー・オーガスト15回目の人生』クレア・ノース 角川文庫
何度死んでも全ての記憶をもって生まれなおす主人公が辿る数奇な人生。運命はやがて彼に不倶戴天の敵を招き寄せる......。『リプレイ』のようなもっと個人的な物語かと思ったら、後半は人類を巻き込んだ壮大な物語になってびっくりした。リプレイものは主人公の全能感と思うようにいかない焦燥感が楽しい。SFとしては設定に若干の難があるように思えるが、エンタメ小説としては充分に面白く好感のもてる作品だった。誰かにミステリとしても読めると聞いていたのだが、見えない敵の探索がそれにあたる部分だったのかな。ミステリというのであれば、自分としてはむしろ主人公の一人語りという形式と、且つそれにも拘らず内面が描かれないところにハードボイルドと同じ空気を感じた。本書はかように物語としては充分面白いのだが、あえて無い物ねだりを言わせてもらえば、主人公が深まっていないところが残念。「永遠に同じ生を繰り返す」という設定は、ニーチェの永遠回帰やブランキ『天体による永遠』などを持ち出すまでもなく倫理問題として極めて魅力的、従って主人公と敵役の思想上の対決をぜひ見てみたかった。(ところで本書は題名をなかなか憶えられなくてこまった。『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』とか『シンドバッド7回目の航海』などとごっちゃになってしまう。読後感がどことなくラノベっぽいと思ったのだが、その一因にこの長い題名もあるのかも知れない。)

『ホフマンと乱歩 人形と光学器械のエロス』平野嘉彦 みすず書房
「砂男」「押絵と旅する男」という二作の幻想小説を、望遠鏡、双眼鏡などの光学器械や人形といった両者に共通する象徴的な小道具を基にして分析する論考。フロイトの「無気味なもの」も援用しつつ、登場人物たちの隠喩的連関に着目して作品を深く味わうための道筋を示す。もちろん作品の解釈は決して絶対的なものではないけれど、豊かな読み方を目にすると刺激を受けるし気持ちがいい。《理想の教室》叢書の一冊。

『ボアズ=ヤキンのライオン』ラッセル・ホーバン ハヤカワ文庫
カルト的な人気を誇る大人向けのファンタジーを数十年ぶりに読み返したが、記憶に違わず面白かった。父と息子、世代も価値観も違う二人の生き方を通じて、この世界に存在するということ、世界と対峙するということについて読者に問いかけてくる秀作。喪われしものを探し求める物語はいつも切実で哀しく、そしてあたたかいのだ。
「父親が死ねるためには、まず生きなければいけない」
「空ろな空間から未来が生まれる。空っぽな空間がなければ、どこから未来を生みだしたらいい?」
本書には様々なエピソードや隠喩が散りばめられているが、それらが語ろうとしているのは「一個の主体として生きる」ということ。「世界の中で生きる」ということについて男性は女性よりも(社会的に恵まれているがゆえに)圧倒的に無自覚だろうと思うのだが、この本はユダヤ/キリスト教的な寓意と詩的なイメージでもって、そのような者たちに対して考えることを強いてくる気がする。私にとってのライオンは何なのか、と。見えているのに見えていないということは往々にしてあるが、それが自らの命に関わることである場合、はたしてそのように他人事のようにしていられるものだろうか。本書におけるライオンとはそういうものである。

『生物はウイルスが進化させた』武村政春 講談社ブルーバックス
電子顕微鏡ではなく光学顕微鏡で見えるほど大きく、ゲノムサイズも一部の微生物より大きいという「巨大ウイルス」によって見えてくる生物進化と生命の起源を紹介し、最後にはとても刺激的な「ヴァイロセル仮説」によって生物の定義そのものにまで揺さぶりをかける本。著者の巨大ウイルスをテーマにした本はこれで3冊目だけど相変わらずとても面白い。現時点ではヴァイロセル仮説はあくまで仮説にすぎず真偽のほどは判らないのだが、ドーキンスの「利己的な遺伝子」と同じようにたいへん面白い思考実験だと思う。少なくともミミウイルスやパンドラウイルス、マルセイユウイルスといった巨大ウイルスの説明は読んでいてわくわくしてくるので、読んで損のない本だと思う。

『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ 河出書房新社
ナイジェリアで生まれ今もアフリカとアメリカを往復しながら活躍する作家によるスピーチの記録。肩ひじ張らず、おもねるでもなく、自然な態度で女も男も「みんな」が良くしていこうと語りかける。読んでいて感銘を受けたが、人として当たり前のことを当たり前に述べているだけなのだから、そのことで感銘を受けるということはおそらく社会の方が歪んでいるのだろう。
『子供たちをそだてるときに、もしもジェンダーよりもその子の「能力や才能」に焦点を合わせたらどうでしょう?ジェンダーよりもその子の「興味や関心」に焦点を合わせたらどうでしょう?』
ね、普通のこと、当たり前のことだ。著者による代表的な小説作品の『アメリカにいる、きみ』や『明日は遠すぎて』を読んでみたくなってきた。

『役に立たない読書』林望 インターナショナル新書
国文学者で作家でもあるリンボウ先生が書いた読書エッセイ。ここでいう「役に立つ」とはいわゆる資格試験や実用の知識を得るための読書のことで、そんなことに拘泥せず古典など自分の好きなものを読めば良いとの主張には素直に頷ける。面白かったのは、氏が“良し”とする本および読書の内容が自分からすると結構偏っていること。(もちろんそれが悪いわけでは無い。)ときに偏屈とも思える至極真っ当な「正論」に苦笑いしつつも、幅広い知識と読書愛あふれる文章をじっくりと愉しめた。
あちらこちらについ引用したくなるような文章があるのがさすがはリンボウ先生である。
「最近は私もアマゾンで本を購入する機会が増えましたが、あのレビューに関して言えばまったく信用するに足りないと考えています」 うん、素晴らしい。
「本の貸し借りはぜひやめたほうがいい、というのが私の持論です。(中略)貸した本は返ってきません。だから読みたい本は自分で買う、これが大原則です。」うんうん。(激しく首肯)
「場合によっては敢えて重複所蔵することも躊躇ってはなりません」うむ、そうなのだ。だから買ったことを忘れていても仕方ないのだ。積んであるうちに文庫化したら文庫も欲しくなるのだ。(いや、本書ではそんなことは言ってない/笑)
いやあ愉しい。

『辺境図書館』皆川博子 講談社
〈唯美〉かつ幻想的な作風で熱心なファンをもつ著者が自らの体験をもとに記した読書ガイド。本書で取り上げられ、氏の読書の記憶とともに紹介される書物の数々はどれももきらきら輝いてみえる。こういう風に本の感想をつぶやけたらいいのだが。
本書で紹介された本のうち読んだことのある本は『アサイラム・ピース』『氷』『黒い時計の旅』『神の聖なる天使たち』などごく僅かだが、それらの文章を読むと氏の紹介が勘どころを押さえた見事な紹介になっているのがよく判る。他の本についても信用できるに違いない。好きなことをうまく説明するのって、実はとても難しいことなのだ。喩え方も素晴らしい。(自分を含めて)幻想界隈の読者にとって、幻想小説とは「心の穴から虚空へと伸びる命綱」のようなものだと思っていたのが、本書でもっと良い喩えを見つけた。それは「救命ブイ」だ。孤独な夜の海に浮かぶ救命ブイ。沈むことなくいつまでも漂い続ける。
そんなに厚い本ではないのだが、メモしながらなので読むのに時間がかかり、そして読んだ後には紹介された本を買いたくなるという困った本といえる。いいぞ、もっとやれ。(笑)

『ヒトラーが描いた薔薇』ハーラン・エリスン ハヤカワ文庫
エリスン3冊目の短篇集。最初はちょと心配したが、尻上がりに好くなった。特に気に入ったのは「死人の眼から消えた銀貨」「バジリスク」「大理石の上に」「睡眠時の夢の効用」の四つ。怒りや哀しみを書かせると、エリスンはやはり巧い。

『ビリー・ザ・キッド全仕事』マイケル・オンダーチェ 白水uブックス
西部劇時代の伝説的な無法者の生涯を、彼や友人たちへのインタビュー、本人が書いた詩、写真や小説といった様々な架空の断片を組み合わせて描きだした本。(ドキュメント風になっているがすべてはフィクション。)歴史上の出来事をコラージュ的なエピソードの積み重ねで再現する手法は、あたかも同時代に自分が生きていたような臨場感を感じさせることに成功し、全方位で表現された死と隣合わせの生は、まるで神話的な様相すら示している。言葉を尽くすことでやっと辿り着ける領域に易々と到達しているように思えるのがとても新鮮だ。仏教における禅のような仕事とでもいうか。全篇を濃厚な死の気配がずっとし続けていて、やがて感覚が麻痺してくる。ここで示される空気感は、ある意味、開高健が『輝ける闇』でベトナム戦争に対して行おうとした事に近いのかも知れない。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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