『ロマネ・コンティ・一九三五年』 開高健 文春文庫

 先日、『オーパ!』のカメラマン高橋昇氏による『旅人 開高健』という本を読んだら、久しぶりに開高健の本が読みたくなり、大好きな短篇集『ロマネ・コンティ・一九三五年』を引っ張り出してきた。開高健は好きでおそらく文庫で出たものは殆ど持っていると思うが、とりわけ好きで何度も読み返しているのは『オーパ!』や『珠玉』に『風に訊け』に本書といったところ。これらの作品は軽く読めるところが好い。(『輝ける闇』『夏の闇』『花終わる闇』(未完)の“闇”三部作や『耳の物語』も好きなのだが、こちらは内容が重たいのでさほど読み返してはいないのだ。)
 本書の作品は「玉、砕ける」「飽満の種子」「貝塚をつくる」「黄昏の力」「渚にて」「ロマネ・コンティ一九三五年」の全6篇。著者の著作によく登場するテーマであるベトナム戦争やその後の戦争ルポルタージュ取材、そして釣り紀行で知り合った人々の記憶の他、自身が寿屋(現サントリー)の広報にいた時の思い出など、私小説ともエッセイともとれる作品がバラエティ豊かに収録されている。この中で特に気に入っているのを挙げるとすれば川端賞を受賞した「玉、砕ける」だが、他の作品もいずれ劣らぬ名作だと思う。一篇ずつ噛みしめるように読むのが合っているかも知れない。
 例えば「飽満の種子」はベトナム戦争の時に著者が経験した阿片体験がテーマなのだが、阿片による無化を表現するくだりはいくど読んでも圧巻。つくづく開高健という人は「言葉にできないものを言葉で表現すること」にひたすら心を砕いた人なのだろうと感じる。自分が実体の無い何かを示したい時、「のようなもの」を列挙することで暗示させるのは、実をいうとこの人のやり方を真似たものだ。
 また「貝塚をつくる」では、ヴェトナム沖で繰り広げられる始原の海での夜釣りのシーンがあまりにも美しい。今でこそ釣りに行くことは無いが、子供の頃には良く親に連れて行ってもらった。そのせいもあって“安楽椅子釣り師(笑)”なので、釣りの話は好きなのだ。喫水が浅い小舟に乗って富豪との釣り合戦。舟底には市場で買い込んできたドリアンがいくつも転がしてある。劫初から変わらぬ豊穣の海の傍らに漂うのは、芳烈で爽涼なドリアンの香り。翌朝になり前夜の記憶を振り返えってみると、官能はひとつの厳しい知性に他ならないのだと悟らされる……うーん、かっこいい。こういう文章が書けたらいいよなあ。
 本書を読み返して改めて感じたのは、開高健は目の作家だということ。エピソードの当事者である場合もあれば傍観者のこともあるが、いずれも共通するのは「みる(見る/観る/視る)」という行為だ。そこには自らが置かれた状況と、その中でもがく自分自身を離れたところから冷静に見つめる観察者の視点があるように思える。あれだけの博識と経験を持ち、その気になればいくらでも饒舌になれる氏のような人物が、言葉を呻吟することで極限まで削って作り上げた文章表現は、そのことごとくが心に突き刺さってくる。
そしてまた、そんな“目の作家”である彼が書いたのが、幼い頃からこれまで頭に残る音の記憶を綴った『耳の物語』(*)であるというのが大変に面白い。しかもそこでは「主語を書かない」という試みまでなされていて徹底している。もしかしたら傍観者であることをやめようとした物語なのだろうか。(そしてまた常に視点にこだわってしまう自分もまた、開高氏と同様に傍観者なのかも知れない。)

   *…『破れた繭』『夜と陽炎』の二部からなる自伝的長篇。自らの生涯を
      ≪音の記憶≫によって再現しようとする。日本文学大賞受賞作。

 ところで『輝ける闇』や『ベトナム戦記』に書かれているように、氏は記者の立場でベトナム戦争に従軍した。それらの作品では徹底して傍観者である事の無力さとともに、コインの裏表の関係にある気楽さも感じていたはずの著者が、いつの間にか戦闘の渦中で生と死の当事者となる様子が赤裸々に描かれる。その瞬間、傍観者の視線はどこにも無い。(尤も作品として見た場合は、それを冷徹な作家の視点で書くという二重構造にはなっているわけだが。)これらのことを重ね合わせてみると、もしかしたら氏は傍観者であることを止めたがっていたのではないかと思えてくる。「玉、砕ける」の冒頭に書かれた「消えられなかったのばかりにはじきかえされる」という言葉は、氏の偽らざる気持ちなのかも知れない。また『オーパ!』や『フィッシュ・オン』といった釣り紀行で全ての「円環が閉じる」のは、対峙し続けた魚をついに釣りあげた瞬間であるというのも、何となく解るような気がする。
 そしてラストは「ロマネ・コンティ・一九三五年」。作品集の掉尾を飾るこの短篇では、一本のワインにより『夏の闇』の一挿話がフラッシュバックのように甦る瞬間が活写される。ワインの描写を読むだけでもこれを読む価値はあると思う。収録された六つの短篇が万華鏡のように様々に色を変える。見事としか言いようがない。他の人にとってどうであるかは知らないが、この作品集は少なくとも自分にとって今後も折に触れ読み返す一冊であることに間違いない。
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『乳しぼり娘とゴミの丘のおとぎ噺』ラティフェ・テキン 河出書房新社

 「魔術的リアリズム」や「マジックリアリズム」と形容される類いの小説が好きだ。もともとはガルシア=マルケスやカルペンティエールといった南米の作家たちに共通する特徴を述べた言葉だが、現実世界がいつの間にか地続きで幻想世界に入り込むような怪しい魅力がある。
 本書の存在はネットの情報で初めて知ったのだが、帯に書かれた「トルコ発マジックリアリズムの最高傑作」という惹句に魅かれた。解説によれば、トルコ国内ではノーベル文学賞を受賞したオルハン・パムクとならぶ国民的な作家らしい。ときどきこのように飛び込みで読んでみる本があり、それが当たりだととても嬉しくなる。
 本書の内容をひとことで言うと、農村から都会への人口流入とそれにともなう貧困という、トルコ近代化を象徴する問題を取り上げた社会派小説(?)なわけだが、それを描くにあたって著者(*)が幼い頃から親しんだおとぎ話のような、虚と実/奇想と現実とが入り混じった文章を駆使している。まさに好みのタイプだ。(笑)

   *…ちなみにいっておくと、著者ラティフェ・テキンは女性。

 物語の舞台となるのは〈花の丘〉と呼ばれる小高いゴミの山。都会のゴミが捨てられるゴミ捨て場だ。急激な都市化により大量のゴミが生まれると、処理に困って昔の東京の「夢の島」やフィリピンの「スモーキー・マウンテン」のようにゴミの集積場が作られる。「スモーキー・マウンテン」では貧困層の子供たちがゴミの中をあさる映像がニュース等で有名になったが、トルコでもそこは同じらしい。ゴミ捨て場には「一夜建て」と呼ばれるバラックを建てて人々が住みつき、当局によって何度追い払われても舞い戻ってしたたかに生きている。(というより、農村を捨てて街に出てきた彼らにはゴミ捨て場より他に住むところが無いのだ。)本書はそんな人々の姿を描き、〈花の丘〉の変遷をたどっていく。
 でてくるキャラも個性的なメンツばかりだ。たとえば“盲目のギュルリュ爺さん”や“憑き物つきの女の子スルマ”、キブリィェ母さんに“黒髪”ハサン、“床上手”フィダンなど。名前を聞いただけでもいわくありげな人々が、入れ替わり立ち代わり次々に登場する。特定の主人公というのはいなくて、ゴミの丘に住む人々の群像劇のような感じになっている。もしくは〈ゴミ通り〉に伝わる慣習の起源を説明する神話とでもいうべきだろうか。

 彼らを次々に襲うのは、謎の奇病や住まいを吹き飛ばすほどの強風、そして近くの工場から降ってくる毒の“白い雪”といった様々な災厄。しかし住民たちはその都度声を張り上げて“はやり歌”を歌いへこたれない。徐々に町は発展し、町会議員となったクルド人ジェマルや資本家イザクといった人物を輩出。イザクが経営する冷蔵庫工場ではギュルベイ親方を中心とした組合運動が湧き起こり、やがて〈花の丘工場街〉へと変貌を遂げていく。
 人々がそれまで共に暮らしてきたゴミとの決別を決心し、工場の従業員とその家族という選択を行ったのと時を同じくして、町にはチンゲネ(ロマ族)がやってきて新たな住民として住みつくように…。どうだろうか。ざっと流れを紹介してみたが、少しでも本書の魅力は伝わっただろうか。時代による町の変遷とともに新たに生まれる〈ゴミ通り〉〈下着通り〉〈ミニバス通り〉〈銀行大通り〉といった名前も魅力的だ。

 そうこうするうち、いつの間にやら“神話の世界”は、トルコ共和国の歴史を踏まえたリアルな世界へと変わっていく。「ゴミの大火」のエピソードではチンゲネの長“兵隊”マフムトや、一夜建ての住民“憤怒”ドゥルスンなどが登場。「“博打うち”ラドと珈琲店の時代」の後には無政府主義者が出現し、不安定な当時の世相を反映するかのように体制もくるくると変わっていく。
「“物狂い”の娼婦ギョニュルと映画館」の後は、「花の丘サッカークラブとクラブ監督の“恥知らず”エロル」が登場するが、ここまでくるとかなり現代に近い。とある財団によって〈花の丘〉を追い出されそうになった住民たちは、別の山を不法占拠して〈団結ヶ丘〉と呼ばれる新たなコロニーをつくり、元の場所は〈財団ヶ丘の花の丘〉と呼ばれるように……。

 『百年の孤独』ではジャングルの中に生まれた村・マコンドはやがて土に還る運命であったが、〈花の丘〉の人々はもっとしたたかだ。本書は今に続くトルコの近代化の歴史を、花の丘の住民たちが語り継いできたおとぎ噺というわけなのだろう。ちなみに原題は「乳しぼり娘クリスティン、ゴミのおとぎ噺」というそうで、農村で乳搾りをしていた娘が街にでて、クリスティンという源氏名をもつ娼婦に身を落とした状態を示唆しているそうだ。(外国人の源氏名を付けた女性は娼婦を意味するらしい。)
 農村から都市へ移住した者たちの困窮と苦悩、そして自然発生的に出来上がったゴミの街の盛衰を描く叙事詩とでもいうべき感じで、魔術的リアリズムが引き起こす眩暈を期待して読んだところなかなかに読み応えのある作品だった。思い切って買った本が面白いと気分いいね。

『ヘンリー・ライクロフトの私記』 ギッシング 光文社古典新訳文庫

 前から岩波文庫で『ヘンリ・ライクロフトの私記』という題名で出ているのは知っていて、ずっと読みたいと思っていた。きっかけが無くてなかなか手が出なかったのだが、ふとしたことで古典新訳文庫から出ているのを知り、思い切って買ってみた。(どうせ読むなら新しい訳の方が好いものね。)
 有名な作品なのでご存じの方も多いと思う。イギリスの田舎に隠遁して一人暮らしをする年配の独身男性による私記 ―― の体裁をとった、著者ギッシングの自伝的要素もある小説だ。私記の書き手であるライクロフトは現在56歳。若いころはロンドンで文筆業を生業とし、日々の食事にも事欠くギリギリの暮しをしていた。しかし僥倖にも数年前にまとまった遺産が入ったので今はあくせく働く必要はない。家事や食事の支度は近所の人に来てもらい、自分は日がな一日好きな本を読んだり家の周囲を散策したりして過ごす。人との面倒な付き合いは極力しない。こんな悠々自適な生活の様子と頭に浮かんだ事柄を思うままに書き綴った文章を、四季の移ろいに合わせてまとめたのがこの本というわけだ。変化の無い生活に退屈してしまう人もいるだろうが、自分にとってはまさに理想の生活に近い。一度でいいからしてみたいものだ。「独身男性の一人暮らし」といっても『方丈記』ほどに虚無的ではなく、どちらかというと『徒然草』みたいな印象。
 まずは無類の本好きという設定が好いね。貧乏だった若い頃に、食費を削って購入した数々の本についての思い出がふんだんに出てくる。ときおり出てくる「体の栄養よりも大事だと思う本はある」とか、「これからもなお倦(う)まず弛(たゆ)まず、喜びをもって読み続けると思う。(中略)忘れることを気に病むにはおよばない。読めば束の間の快楽に恵まれる。死ぬる定めの人間として、この上、何を求めることがあろう」などといった言葉には思わず頷いてしまう。「ふと思い出した本がどこかへ紛れこんで見つけるのが一苦労だったり、(中略)そんなこんなで二度と読まない本が増えた」というくだりには思わず苦笑してしまうし、「そうだ。死ぬ前にもう一度『ドン・キホーテ』を読もう」なんて文章を目にすると、同じ本好きとしてはもう堪らない。(笑)
 もちろん内容はそればかりではない。話題はイギリス南部の田舎の自然や、のんびりと過ごす日々の様子が多いが、他には若い頃を過ごしたロンドンのほろ苦くも懐かしい思い出や、当時のイギリス社会に対する痛烈な批評なども。それらが四季折々の描写に混じって好い味を出している。(ちなみにこの部分がギッシング本人の主張なのか、それともライクロフトの思う事なのかは微妙なところだ。原著の刊行は1903年。世界では帝国主義が覇権を競い、あと10年もしたら欧州大戦に突入しようという時代にあたる。しかしそんな頃の意見であるにも関わらず、まるで今の日本に対して言われているようで心が痛むのは何ともはや。)
 でもまあ、本書を読む醍醐味は社会批判の部分よりは、やはり気持ちのいい自然描写や心象風景にこそあるわけで、全体はそんなトーンで統一されている。特に印象にのこった部分を以下に簡単にまとめてみよう。

 春は山査子(サンザシ)や桜草(プリムローズ)に立金花(マーシュマリゴールド)といった草花が咲き乱れる牧場や森の散策。
 夏は薔薇と蜂の羽音。月明かりの下で読む本の愉しさと子供時代の思い出、そして信仰がもたらす心の静穏について。クセノフォン『アナバシス』やシェイクスピア『テンペスト』など、好きな本への賛辞も彩りを添える。
 秋は哲人皇帝アウレリウスをはじめとした哲学と内省の季節。暮れゆく空と自らの人生の先に思いを馳せて、楡(ニレ)や山毛欅(ブナ)の落葉について記す。(ちなみに本書で有名な「このところ、柳蒲公英(ヤナギタンポポ)で忙しい」というくだりは、この秋の章の冒頭にあった。)
 冬は悪天候を避け、温かく居心地のいい室内で暖炉に石炭をくべる。面白かったのはイギリス料理に関する意見。彼の肉料理に対する偏愛や、それとは対照的に野菜料理について辛辣な言葉を吐く様子には笑った。

 あとで解説を読んで驚いたのが、本書を書いたときのギッシングはわずか42歳だったということだ。「56歳で隠遁生活を送る人物」というのはあくまでも小説の設定上の話であり、著者ギッシング本人の執筆時の状況とは異なる。たとえライクロフトが作者のある面を表しているとしてもだ。むしろ自分がこうありたいという理想を書いたからこそ、万人に受け入れられる作品になったのかもしれない。
 なおギッシングの作家としての本領は本書のような作品ではなく、当時のイギリスで資本主義や階級制度によって生まれた数々の社会問題を告発する小説にあったらしい。本書の中で時折混じるライクロフトの独白もそのようにして読めば、裏に色々な意味が込められていそうな気がしてくるね。
 本書に対する印象は最終的には、小林多喜二が書いた『仰臥漫録』(正岡子規)や『墨東奇譚』(永井荷風)といったところに落ち着いた。(ちょっと違うかな?まあいいや。/笑)
 いやあ、それにしても今回は気持ちのいい読書だったなー。

『批評理論入門』 廣野由美子 中公新書

 本書の副題は“『フランケンシュタイン』解剖講義”。フランケンシュタインを題材にして、様々な批評理論の具体的な事例を示した本。第1部は「小説技法篇」と称して、ストーリー(エピソードを時系列で並べたもの)とプロット(実際の語り方)の違いや、物語の語り手および焦点化(視点)、エピソードの提示ないし叙述の方法、小説を作る上で欠かせない修辞や象徴といった技法について解説する。これらを説明するのに必ずしも『フランケンシュタイン』である必要はないのだが、逆に言えば『フランケンシュタイン』がそれだけ多くの技法を活用している証拠とも言える。
 第2部はいよいよ本書の本題である「批評理論篇」。これまで世に出てきた主要な批評理論を順に紹介し、さらにそれらの理論を実際に用いて『フランケンシュタイン』という作品がどのように解釈され得るのかについて語っている。(*)

   *…本書を読んで自分の本の愉しみ方が、「脱構築批評」の影響を受けつつも、作品に
     応じてその都度様々な批評理論の観点を利用したものであることがよく分かった。

 本書に出てくる批評理論について少しご紹介しよう。まず基本は、作品を「道徳」すなわち“社会通念を伝える道具”として読んだり、「伝記」つまり“作者の人生を反映したもの”として読む、いわゆる「伝統的批評」と呼ばれるもの。次は作品を詩・劇・小説もしくはナンセンス文学やロマン主義・ゴシック小説といった、形式上のカテゴリーで分類する「ジャンル批評」。これはニュー・クリティシズムと呼ばれる批評理論を始めとして、作品を(前述の伝統的批評と違い)作者や社会背景から独立した存在として批評するものだそう。ただしこれはテクストが何を内包して何を伝えようとしているか?に囚われている点で、結局は古いタイプの教科書的な批評のような気がする。
 ついで紹介されるのが「読者反応批評」。これは「テクストが本来意味する(と思われる)もの」ではなく、読者がどう読んだかを問題としている。ただしこれもあらゆる読み方を是としているわけではなく、「ある水準に達した資質の持ち主」が読者として想定されているそう。まだまだ読者の数だけ解釈があるという考えではないらしい。次の「脱構築批評」に至って、やっと自分にも馴染みの批評がでてくる。これはJ・デリダにより提唱されたもので、「矛盾する複数の解釈」をテキストが両立して内在させていることを明らかにしようというものだ。それにより『フランケンシュタイン』においては、生と死/美と醜/光と闇/善と悪といった、二項対立的な概念の境界がいかに曖昧なものであるか、いかに両義的に描かれているかが示される。なお当然のことながら、この批評には決まったひとつの解釈というものは存在しない。(**)

  **…自分にとっては、これが読者により様々な「読み(作品解釈)」があることを保障
     してくれるベースになっている。多くの人が自らの「読み」を互いに紹介しあい、
     「こんな解釈もあるのか!」という驚きや楽しさがあるのが一番の理想なのだ。
     (よって本書で紹介される数多くの批評理論も、どれが優れているということでは
     なく、いずれもひとつの“正しい解釈”と言えるかも知れない。)

 先に進もう。次に紹介されるのは「精神分析批評」と呼ばれるもの。フロイトやユング、ラカンらの精神分析理論を援用し、作者の創作姿勢や登場人物の心の動きを解釈するタイプの批評だそうだ。また「フェミニズム批評」というのもある。これは様々な小説作品の背景に、社会的に抑圧された女性の立場を読み取ろうというもの。伝統的に文学は男性中心に形成されてきたため、その中で無視されてきた女性作家の作品を発掘・再評価しようというのが狙い。
 この「フェミニズム批評」をさらに大きく発展させたのが「ジェンダー批評」であり、ここでは性別による役割り分担を自然のものではなく「社会や文化によって形作られた差異」であるとみることで、女性の問題ばかりでなく男性や同性愛者、性同一障害者なども射程にいれて論じられる。これによれば『フランケンシュタイン』では主人公ヴィクター・フランケンシュタインと親友のヘンリー・クラヴァルや、ヴィクターの許嫁エリザベスと召使いジャスティーヌの間に、同性愛的な関係を見ることができるそうだ。うーん、面白い。
 「マルクス主義批評」というのもある。これは作品が生まれてくるのに不可欠であった政治的・社会的・経済的条件を探究して、それらとの関係性で作品の意味を読み解こうとするスタイルの批評だそうだ。
 個人的に本書の批評のなかで一番面白かったのは「文化批評」というやつかな。文化人類学や社会学で使われる「カルチュラル・スタディーズ(文化研究)」と呼ばれる方法の成果を用いて、作品の生まれた社会そのものを読み解いていこうというもので、自分がこれまで学生時代から慣れ親しんできた文芸批評の類は、割とこれに近いものが多い気がする。(荒俣宏氏の本なんかはほとんどがこれかもしれない。)
 作品の生まれた歴史に着目するという点では、「ポストコロニアル批評」(=帝国主義と植民地という観点で読む手法)や「新歴史主義」(=フーコーの「知の考古学」のように、文学テクストと他の領域のテクストを全て同列で論じる手法)といったものも「文化批評」の仲間と言えるかも知れない。
 他に変わったところでは「文体論的批評」というのもある。これはテクストのなかの言語学的な要素に着目して、文体や語法を科学的に分析しようというもの。文節ごとの単語の数を比較したり、使われている品詞の種類を調べることで、作者がどのような効果を上げようとしているかを考察する。(ここまで来るともはや文芸批評ではないね。/笑)
 以上、ずらずらと列記してきたが次でいよいよ最後。それは「透明な批評」というものだそうだ。読者が作品世界に深く入り込んで、作中で直接言及されてはいない設定や結末まで自由に解釈してしまおうという批評(?)なのだそう。たとえば「マクベス夫人には何人の子供がいたか?」などの問題設定がなされるらしい。日本でいうと、2012年に高野史緒氏によって書かれた『カラマーゾフの妹』(***)という小説のスタンスが近いのかな?

 ***…未完となったドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を高野流に解釈して、「父殺
     し」の真犯人を描いたミステリ。

 ふう。本書で紹介された色々な批評について軽く触れていくつもりが、思ったより長くなってしまい申し訳ない。本書は『批評理論入門』という名の通り、あくまでもフランケンシュタインをネタに批評理論について語るのが眼目であって、本書の中で『フランケンシュタイン』について個々の批評理論をつかった深い読解がなされているわけでは無い。その意味では(怪奇小説ファンとして)少し物足りなさはあるが、批評理論をざっと一望することが出来る上、その材料が自分の好きなジャンルの小説というのは決して悪くない感じ。
 最後になるが一言だけ。先ほども少し書いたように批評理論はあくまでも、ひとつの作品を重層的に愉しむための“道具”にしか過ぎない。従って本書で紹介された多くの理論はどれも等しく価値を持つものであって、「果たしてどれが正解か?」などというものではないと思う。リンゴは皮を包丁で剥こうがピーラーで剥こうが、もしくは丸かじりしようが美味しいのだ。それが良いものであればね。(笑)

『文学のレッスン』 丸谷才一/湯川豊 新潮文庫

 丸谷才一氏といえば、小説・文学評論・エッセイ・翻訳と多彩な分野でマルチな活躍ぶりを示した方。惜しくも2012年に亡くなられたが、本書はそんな氏が小説や伝記、詩や戯曲といった、様々な“文学”のジャンル別に縦横無尽に語った「丸谷版・文学講義」。語り起こしなので文章もやわらかく読みやすい。聞き手は「文學界」編集者などを経て現在は大学教授も務める評論家の湯川豊氏。うまいリードで丸谷氏の膨大な知識を引き出している。

 以下、面白かったものをいくつか紹介したい。たとえば「伝記」について述べるこんな話。―― 近代イギリス社会で特に敬されたのは、社交的であって且つ奇人と呼ばれるような人物。それを描くことが、同様に社会における人間を描くのが主眼の「長篇小説」と並んで、「伝記」がイギリスで尊重された所以であるとのこと。
 「歴史」については、「歴史を物語のひとつとして愉しむ」という視点も示唆にとんでいて面白い。氏によれば歴史書には、特定個人(すなわち物語でいうところの語り手や主人公)といった視点は無い。その極端な例が歴史年表とのこと。しかしそれが「物語」になれば特定の視点で語られるため、感情移入もできるし記述も起伏に富んだものになる。視点を定めてしまうと史実の見方に偏りが出るという弊害もあるが、物語として愉しむだけなら何ら問題は無い。そもそも史実といっても、所詮は歴史書を編纂した人物や集団の視点によるものでしかない。過去の「史実」を今の目で振り返ったり、国という立場を入れ替えて眺めてみると、「特定個人の歴史認識」であることが露わになることもよくあるわけで...。うーん、結構奥が深い。
 また別の話。「戯曲」という形式は、他のジャンルに比べると文学としては立場が若干弱いようだ。なぜなら「役者(配役)」「劇場(建物と観客)」「物語(台本)」の3つで出来上がる“演劇”という芸術表現の、ひとつの要素(しかも順位は三番目)に過ぎないから。ちなみに本書で丸谷氏自身は述べていないが、この三つは「長篇小説」の章で語られる「作中人物」「文章」「筋(ストーリー)」の要素に、それぞれ対応するものかもしれない。
 次は「詩」について。海外では今でも「詩」という文学形式がとても重要な位置を占めているが、日本では殆ど壊滅状態に等しい。書店に並ぶ文学は散文形式のものばかりとなっている。ではなぜ近代以降の日本で「詩」が消えてしまったのだろうか。本書によると、それは西洋文学の洗礼を受けた明治期の人々が、西洋哲学や近代的自我に代表される「観念」の追求へと走り、もうひとつの伝統的な要素である「韻」の重要性を見失ってしまった為であるとか。
 日本にも独自の表現形式である俳句や短歌の伝統は残ってはいる。しかしそれらは如何せん文字数が限られていて、単独では多くの意味を十全に盛り込むことが出来ない。実はそのために過去あったのが、歌枕など複数の作品を重層的に結び付け味わう仕組み。ひとつのフレーズが過去の作品と呼応しあって別の含みを持つことで、三十一文字を遥かに超えた味わいを出していたというわけ。しかし社会変化で過去の蓄積が失われるとともに前提となる共通認識も消滅し、それらも意味をなさないものになってしまった。このようにして日本では「詩」を愉しむ人が日本からいなくなった...というのが大まかな説だ。

 以上、軽くさわりを紹介したが、本書にはまだまだ多くの文学ジャンルが取り上げられている。たとえば「エッセイ」は定義づけ不可能であり幾ら定義を重ねても必ず抜け落ちるものがあるとか、「批評」は学問とエッセイの重なったところに生まれるとか、興味深い薀蓄が次から次へと語られて飽きることが無い。(良く考えてみると本書自体が文学に関するエッセイみたいなものでもあるわけだな。/笑)
 著者の本はエッセイが好きなので比較的よく読むのだが、小説や訳書はこれまで殆ど読んだことが無かった。そのうち読んでみてもいいかもなあ。『女ざかり』とか評判いいようだし。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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