FC2ブログ

2019年1月の読了本

『ねこたま』北野勇作 惑星と口笛ブックス
〈北野勇作2本立て〉シリーズの第二弾で、「タマモン」と「船と猫と宿と星」の二つの作品を収録したもの。前者は藤子・F・不二雄の作品にありそうで、それでいてぜんぜん違うような話。背中にファスナーがあったら開けたくなるが、ファスナーがある事に気がついてはいけない、そんな話だ。(他の北野作品と同じように、例によって要約は出来そうにない。) 後者は「傾斜」「秘密」「迷子」「辻褄」「屋上」「星座」「湯気」という微妙に題材が絡みつつ独立しているような奇妙な話が7つまとめられている。全体的にSFっぽさが強い感じはあるが、いつもの北野ワールドでもある。この〈2本立て〉というのは、いいシリーズだな。ふと思ったのだけど、北野勇作作品の雰囲気って笑いのセンスとかが、うすた京介の漫画に似ているかも知れない。

『語りかける身体』西村ユミ 講談社学術文庫
著者は現在は看護学科の教授をされている方で、本書は「介護ケアの現象学」という副題が示すように、氏がかつて博士課程のときに行った研究をもとに、「遷延性植物状態」にある患者と看護師の間のコミュニケーションを通じて、患者の「意識」について現象学的な考察を行った本だ。著者自らが植物状態患者の専門施設で実際に看護に携わったのち、施設で三人の患者を受け持った看護師Aさんへインタビューを行い、さらにその内容を詳細に考察するという構成になっている。最後の章はこのような研究スタイルをとったこと自体の振り返りと、先行する現象学的看護研究の分析(および不徹底さに対する批判)にあてられており、看護現場へのメルロ=ポンティの現象学の見事な実践であるとともに、現象学了解への優れたサブテキストにもなっている。自分としてはまず看護研究において、患者の病いの体験を了解したり看護実践に中にある「知」や「技能」を探究する方法として、現象学が過去から注目されてきたことを知らなかったので驚いた。
「外的刺激に対する反応が見られず、周囲の環境や他者と相互作用することができない」とされてきた植物状態患者が、実際には看護師との間で前意識的な「原初的地層」での未分化な知覚(=共感覚)を通じて感覚を交差させているという(看護師の)実感があるということ。そしてこれを「視線がピッと絡む」とか「手の感触」といった表現でインタビューの言葉の中から掬い出すことができたのは、著者が自らも現場に入り込み、かつ現象学の本質を充分に理解していたからに他ならない。理論と臨床の幸福な出会いを示すものだろう。良い本を読むことができた。
実は自分の父親は「進行性核状性麻痺」という病気で、今も徐々に身体機能が衰えつつある。歩行も困難になり寝ている時間が増え、呼びかけても反応がとても遅い。半年ほど前からは言葉も殆ど発しなくなった。しかし過去からを知る自分にとっては、微妙な顔の表情や仕草で父親が何を欲してどんな気持ちでいるのかが手に取るように「わかる」のである。また、母親も認知症が進み記憶の殆どは溶けていってしまったが、しかし一緒に食事をしながら会話をする瞬間にみせる感情や言葉のやりとりは、間違いなく母親そのもの。そう考えると「植物状態」とされる人たちを「意識障害」と単純に判断して良いものかという疑問はたしかに浮かぶ。現に本書によれば、意識レベルの評価スケールによる点数の結果と、実際にケアを実践している看護師の感覚は大きな食い違いを示しているようだ。どこまでを意識と呼べるのかや、あるいはどこまでも看護する側の判断でしかないという課題はあれども、たしかにその瞬間は目の前の人は「生きている」のである。自分の父親や母親と同じように。

『紫の雲』M・P・シール アトリエサード
これまで名前ばかりが有名だった幻の幻想小説がやっと読めた。300ページを超える本文のうち幻想味の強い極地冒険パートは僅か5分の1ほどで、北極から帰った男の目の前に広がるのは紫の死の雲によって全人類が死滅した世界。死屍累々とはこのことか。男は生存者を探して死の街をひたすら行く。死者たちは防腐作用のある雲により、死後数ヶ月たっても突如訪れたその瞬間の姿のまま保たれている。老いも若きも、富めるものも貧しきものも、人種や性別も全て関係なく死はすべての者に平等に襲いかかり、その様子は「死の舞踏(ダンス・マカブル)」を見せられているようだ。(これに良く似た話を昔どこかで読んだと思って考えたら『火の鳥 未来編』だった。それにしても誰にも咎められることなく何でも好きなことをできるのは、幼児的な万能感に満ちた楽しさではあるものの、絶望感とか身体の不調とか無いものだろうか。また陸上の全動物が死に絶えて文明も滅んでいるのにかかわらず、何年も経ってから肉や菓子や珈琲が手に入るというのはちょっと変な感じがしないでもない。)死と荒廃の描写はその後も延々と続いてゆくが、3分の2を超えたところで物語は大きな変化を遂げ、やっと本書のテーマが見えてくる。もっとも読み返してみると、「白いやつ」と「黒いやつ」の二つの声、語り手の名前がアダムであること、堕落と悪徳の人々などなど、最初から手がかりが書かれており、それにこちらが気づかなかっただけなのだが。
物語としては非常にバランスが悪いと思いながら読んでいたのだが、解説を読んだら当初は三部作として構想されていたとあり納得がいった。途中、ミルトンの本がやっと出てきて気がついたわけだが、本書は名づけるなら「得楽園」か、あるいは「逆ヨブ記」といった感じかもしれない。読み終わってみればキリスト教的な神秘思想のど真ん中に位置付けられるような小説だったといえるだろう。主人公の無駄な熱量といい執拗なまでの破滅の描写といい、まさに力作であり怪作であるとおもう。読めて良かった。

『不気味な物語』グラビンスキ 国書刊行会
『不気味な物語』『情熱』という著者の二つの短篇集から既訳のものを除いて収録したもの。これでほぼ全ての代表作が訳されたとのことだが、とてもバラエティにとんでいて、こんな人がまだ隠れていたのかと驚かされた。
前半の〈不気味な物語〉のパートに収録された6つの短篇の中で特に好みなのは「シャモタ氏の恋人」「サラの家で」「視線」あたりか。凡そ結末の想像がつく作品もあるが、途中の盛り上げと最後の〆がいかにも上手い。後半の〈情熱〉のパートでは本書のなかで一番長い中篇「情熱」と「悪夢」「投影」が好かった。特に「情熱」は美しく活気に満ちたヴェネツィアの描写が素晴らしい。美と醜、崇高と卑近とが同居するヴェネツィアの街を舞台に、まるで演劇を観ているような愛と死と幻想の物語が繰り広げられる。こんな話を読むとグラビンスキの懐の深さが実感できる。ある種の吸血鬼物としても読める「サラの家で」や、まさか続き物とは思わなかった「偶然」と「和解」、オブライエン「失われた部屋」やプリースト『伝授者』、ポー「陥穽と振り子」などにも通じる不条理で不気味な部屋の光景が出てくる「悪夢」から非常にショッキングなラストの「屋根裏」まで、バラエティに富んでいて読者を飽きさせない。まさに愛蔵版ともいえそうな凝った装幀もすばらしく、これまでの『動きの悪魔』『狂気の巡礼』『火の書』と合わせてこの著者の作品は怪奇幻想ファンなら必携であろう。

『芥川龍之介選 英米怪異・幻想譚』 岩波書店
芥川が旧制高校の副読本として編纂したアンソロジーから精選した幽霊譚20編に、芥川自身が訳したイェーツ「春の心臓」とルイス・キャロル「アリス物語(抄)」、それに彼の異色作「馬の脚」を収録した短篇集。外れがひとつもない驚異的な本で、隅から隅までたっぷりと楽しむことができた。編者の一人である芥川研究家の澤西祐典氏による解題と巻末の解説も大変に参考になる。(それにしてもボルヘスと芥川龍之介の趣味がここまで似通っていたとは知らなかった。本書は『芥川版 バベルの図書館』と呼んでも差し支えないかも知れない。また芥川がウェルズを嫌いだったとは知らなかった)しかも全ての作品がいずれも当代随一の訳者による新訳で、且つ、うち11篇が本邦初訳という贅沢さだ。
かなり怖い正統派の怪談だとかユーモアに満ちた法螺話タイプの幽霊話、幻想味と気味の悪さと可笑しさとが入り混じる(奇妙な味〉に近いものなど、様々なタイプの小説が集められているので一概に比較はできないしどれも面白いのだが、その中でも特に好かったものを挙げるとすれば、レディ・グレゴリー「ショーニーン」、M・R・ジェイムズ「秦皮(とねりこ)の木」、アーノルド・ベネット「不老不死の霊薬」、フランシス・ギルクリスト・ウッド「白大隊」E・M・グッドマン「残り一周」あたりだろうか。もともとウェイクフィールド の「赤い館」や「ゴースト・ハント」、エーヴェルスの「蜘蛛」のように、正体がよくわからない怪異で読者を本気で怖がらせにきてる話が好きなんだが、M・P・ジェイムズの「秦皮(とねりこ)の木」もそんな話であり、訳者が西崎憲氏というのも個人的なツボなのだ。こういう怪談がもっと読みたい。本書に登場するには他にもオスカー・ワイルド、ダンセイニ卿、ポー、スティーヴンソン、ビアス、ウェルズ、ブラックウッドなどなど、とんでもないオールスターキャストである。こんな本が出たこと自体が、ある種の「事件」といっても良いかも知れない。

『奇商クラブ』G・K・チェスタトン 創元推理文庫
「奇妙な商売」にまつわるミステリアスな出来事を、隠遁した元判事バジル・グラントが解き明かしてゆく物語で、本書には南條竹則氏による新訳を六篇収める。いずれも独特の論理による物語が展開されて読者はぐるぐると引き摺り回されるが、馴れるとクセになってくる。出てくる商売はいずれもありそうでなさそうな、ちょっとニヤリとするものばかりだ。(本当に商売として成り立つのかは疑問だが。) 読みどころはこれらの商売のアイデアのほか、それらが引き起こす謎や奇妙な状況、さらにバジルによる謎解きの快感など様々で、それが読者を迷わせる理由にも魅力にもなっていると思う。商売(あるいは商店)に焦点を当てた作品といえば、別役実『当世 商売往来』や藤子不二雄Aによる『ブラック商会変奇郎』などが思い浮かぶが、この小説では商品を扱う物質的な商いではなく「サービス」であるところがチェスタトンらしいとも感じた。こういうのは心を豊かにする読書であるといえるかも。なお本書に収録された作品の中には、まったく別の人物である「ブラウン少佐」が複数でてくるのだが、これには何か意味があるのだろうか。(その後に書かれた神父の名もブラウンだし)

『海と山のピアノ』いしいしんじ 新潮文庫
鎮魂、というより生と死の連環を見送る側から描いたような九つの短篇からなる作品集。文学というよりは正しく「エンタテインメント」であると思う。面白く感動的で考えさせもするが、心が揺さぶられるよりは楽しませることに主眼が置かれた物語。素材は民俗学や文化人類学に親しいものばかりであり、幻想や奇想が現実と交差する魔術的な光景が展開していくのが魅力的。個人的には「秘宝館」と「川の棺」が大変好かったし、「ふるさと」と「浅瀬にて」も悪くなかった。ただ悩ましいかったのは、様々な要素を盛り込みすぎてエンタテインメントにも文学にも振り切れていないと感じられる作品もあったこと。どう言えばいいだろうか、大江健三郎[同時代ゲーム』にも通じるような「やり過ぎちゃった感」とでもいうべきか。その結果、読み進むうちに別の方向へと引っ張られて最終的に宙ぶらりんの状態になったところで物語としての終わりを迎えることになる。思わせぶりが楽しいんだけど、もう一息で届かないもどかしさがある。(どことなくジェフ・ヴァンダミアの〈サザーン・リーチ〉を思い出した。)「あたらしい熊」なども非常に惜しかった。最初はすごく変な話だったのに、いい話になってしまった。読みたかったのはいい話ではなく変な話なのだ。あまりあれこれ盛り込まずに、ひとつのエピソードを掘り下げた作品の方が性に合うようだ。いっそのこと池上永一『バガージマヌパナス』や『風車祭』のようにエンタメに徹する方が、却ってストレートに伝わったのかも知れない。繰り返すが決して悪くはない。非常に好きな素材であり、好きな作風だけに「惜しい」という印象が強かった。でも読んで損をしたという意味ではない。これもまた読書の楽しさであるのだ。

『死者の百科事典』ダニロ・キシュ 創元ライブラリ
『若き日の哀しみ』で有名なユーゴスラビアを代表する作家による「死」をめぐる九つの短篇に、著者自身による解題「ポスト・スクリプトゥム」を付した作品集。文章も内容もとても密度が濃く、どの作品も歯応え抜群。まるで濃厚なチーズを丸かじりしているような満足感がある。どれもすばらしい出来なのだが、あえてその中から特に好きなものを選ぶとすれば、「魔術師シモン」「死者の百科事典」「眠れる者たちの伝説」「王と愚者の書」といったところだろうか。いずれも現実と虚構が境目なく入り混じる、まるで鈍器のような短篇である。容赦なく、思い切りがいいのが好い。
たとえば表題作。解説にもあるように本書の収録作に共通するのは、単語の羅列による描写の頻出なのだが、この作品についてはそれが大きな意味を持って迫ってくる。何処とも知れない図書館には無名の人々の一生を記した事典がひっそりと仕舞われている。そこに書かれているのは、ひとつの命を育み巡らせた事物でありエピソードであり世界である。語りつくせぬそれらの記録を、事典の編者たちが驚異的な筆力で記録してゆく様子がただひたすらに描かれ、読者は読み手とともにひとつの人生を追体験することになる。そのとき読者は言葉の羅列の先に霞んで見えなくなってゆく世界の消失点を幻視することになるのだ。 読んでいる間じゅう上田秋成『春雨物語』を読んだときのような、いわゆる「文学」とは違うルールで書かれたような違和感を感じたが、それこそが「世界を描く」ということなのかも知れない。刺激的な読書体験を味わえる本だった。また「眠れる者たちの伝説」は折口信夫ならぬダニロ・キシュ版の「死者の書」であった。ただしエロスではなくアガペーの。「王と愚者の書」は大変に恐ろしい物語で、過去のある人物が書いた陰謀論の偽書が、人口に膾炙して独裁者の手引きとなっていった様子が年代記の体裁で記される。デマはそれがどんな悪意に満ちたものであっても、打ち消すことがいかに難しいか。これは現在進行形の話だ。

『その正体は何だ? じわじわ気になるほぼ100字の小説』北野勇作 キノブックス
〈じわ100シリーズ〉の二冊目。ツイッターで発表された1400を超える作品の中から130をセレクト。研ぎ澄まされた表現で、少し怖かったり可笑しかったり不思議だったりじわじわくる話がずらりと並ぶ。一気に読んでしまったが、毎日少しずつ愉しむもよし、気に入ったのを何度も読み返すもよし、いつでも気ままにページを開けるのが良い。今回は生き物っぽいものがテーマだが、見慣れた昆虫が顕微鏡で拡大されると見た事のない相貌を示すように、大きく切り取られたエピソードがごろっと転がされているのが愉しい。とても奇妙でとても面白かった。

『言わなければよかったのに日記』深沢七郎 中公文庫
『楢山節考』や『みちのくの人形たち』などの著者による日記風の身辺雑記、子供の頃の思い出、そして「◯◯ポルカ」と自ら名付けた肩がこらない小文を集めたもの。世間の常識を知らない著者が引き起こす、時に可笑しく時に恥ずかしい先輩作家との交流は、勝手に想像していたイメージを粉々に打ち砕いた。あまりの天然ぶりに韜晦しているのかとも思ったが、ところどころ出てくる鋭い心象から察するにやはり天然なのだろうと思う(なんせ桃仙人だし。)可笑しいことは可笑しいのだが、ちょっといたたまれない感じもある。創作とエッセイで文体や作風が違う作家は何人か見てきたがここまで雰囲気が変わる作家は、他には恩田陸や楳図かずおぐらいしか思い浮かばない。いやあ驚いた。解説を尾辻克彦が書いていたので気がついたのだが、この空気感は赤瀬川原平に共通するのだな。ただし赤瀬川氏が意識してそれをやっているのに対し、深沢七郎は完全に自然体だと思う。まさしく天賦の才だ。
スポンサーサイト

My Choice/2018年印象に残った本


2018年はぎりぎり120冊、月平均で10冊となった。(シングルカット版など特殊な形の電子書籍を除く。)目標の100冊はクリアしたが、本を買うペースに読むペースが全然追いついていない。それどころか読みたい本がどんどん増え続けているのはいかがしたものだろうか。
さてそれでは気を取り直して、毎年恒例としているように読んだ本の中から「印象に残った本」を挙げてみたい。(本当は旧年中にアップしたかったのだが間際まで本を読んでいたので遅くなってしまった。)このところ新刊を追いかけるだけで精いっぱいで既刊本(=積読本)を読む時間がないのが残念であるが、しかしそれを補って余りあるほどに収穫が多かった一年でもあった。

<新刊部門> ―今年出版された本―
『虚ろなる十月の夜に』ロジャー・ゼラズニイ 竹書房文庫
ゼラズニイが怪奇小説や映画に出てくる怪物たちを題材にして書き上げた最後の単独長篇作。物語が進むにつれて徐々に明らかになってゆく設定、洒落た会話、そしてあっけなく終わるラストなど、どこをとってもまごう事なきゼラズニイ作品だった。同じ作者の《真世界シリーズ》やムアコックの《永遠のチャンピオンシリーズ》がSFであるのと同じレベルでSFといえるが、そんなレッテルなど関係なくゼラズニイのスタイルが好きな人ならぜひ。

『半分世界』石川宗生 東京創元社
創元SF短編賞を受賞した「吉田同名」の他、表題作を含む全4作を収録した中短編集。まさに「奇想」と呼ぶに相応しい作品ばかりで、しかもそのいずれもが楽々と世界文学のレベルに達している。「吉田同名」と「半分世界」は、まるでミルハウザーやブッツァーティを読んでいるような不思議な感覚が横溢しているし、「白黒ダービー小史」では架空のボールゲーム「白黒ダービー」を使って哲学や科学やスポーツのパロディ、そしてロミオとジュリエットばりのロマンスが語られ笑いが止まらない。圧巻はラストの中篇「バス停夜想曲、あるいはロッタリー999」だった。一つの地点を固定してそこを通り過ぎてゆく人々を描くのは、まるで逆パターンのチャトウィン『パタゴニア』のようだし、話が進むにつれ『百年の孤独』や『族長の秋』を思わせるような展開になってゆく。解説にもあるが、まさに南米文学の幻想性に通じるものがある。

『なぜ世界は存在しないのか』マルクス・ガブリエル 講談社選書メチエ
従来の形而上学と構築主義を共に批判しつつ、無限に多様な「意味の場」の重なりとして存在を規定する「新しい実在論」を提言する。訳文もこなれていて口語調で非常に読みやすいし、なんだかよくできた青春小説を読み終えたような満足感がある。内容をとても乱暴に要約してしまうと、「全ての物の総体たる『世界』は存在しない、というテーゼを、唯物論や「構築主義」(一種の解釈主義)などの矛盾を指摘することで立証」しようとするものなのだが、ベストセラーになったのも頷けるたいへん楽しい哲学書だった。ポストモダン思想以来のニヒリズムを克服する手段として、こういうやり方もあるのだと、ちょっと感心した。色んな先達のいいところを集めている印象があるが、ちなみに「世界」を否定した本書の最終結論はルイ・アームストロングの「What a Wonderful World」ではないかという気がする。

『絶景本棚』本の雑誌編集部編 本の雑誌社
様々なジャンルの読書家の皆さん34名により作り上げられた本棚写真の饗宴。ただ本が並んでいるだけの写真なのに、いくら見てもなぜか見飽きない。持っている本に知らない本、欲しい本に要らない本。色んな本があるがどれも美しい。自分の家の「絶景」はどの辺りになるのか、本書を眺めては考えていた。

『銘度利加』十田撓子 思潮社
第68回H氏賞を受賞した著者の第一詩集。明晰だがシュールな情景が考え抜かれた言葉によって表現される。SF好きで山野浩一やラングドン・ジョーンズの小説に親しんだ人であれば懐かしいと思うかもしれない。あるいは文字で表されたマグリットのようにも。読んでいてとても気持ちが良かった。
以下、「パニヒダ」の中から少し抜粋する。

天体から音が聞こえてくる

水が星座を読むように
胸の奥からふつふつと湧き出てくる
それは音のかたちを持っていた

その音を説明するために
しかし私は
言葉を使わなくてはならない

あるいは頭に浮かんだ音や時間を、言葉でそのままの姿に切り取ったものではないかとも思う。まさしくこれは妄想である。しかも密度が濃くて非常に強固な妄想。こんな文章を、黒塗りの柩の中に閉じ込めたような装丁で目の前に差し出されたら「やばい」。

『マニエリスム談義』高山宏×巽孝之 彩流社
「学魔」高山宏氏とアメリカ文学史の碩学である巽孝之氏による対談集。グスタフ・ルネ・ホッケが広げたマニエリスムの視点から、アメリカン・マニエリスムと呼ばれる文学作品の流れについて、ポーやメルヴィル、ピンチョンまでをいわゆる「英米文学論」の枠を遥かに超えて楽しく語り尽くす。キーワードは「見方の快楽主義」。そう、マニエリスムとは見方をずらすことで得られる快楽であり、それによってレトリックやピクチャレスクといった幅広い概念が統一されてゆく。軽い読み口だが結構深い。巻末には本編とは別に、ユリイカの2015年3月臨時増刊号『150年目の「不思議の国のアリス」』に掲載された両氏による対談「『不思議の国のアリス』と/のアメリカニズム」が特別収録されているのも良い。

『海うそ』梨木香歩 岩波現代文庫
昭和のはじめに南九州の孤島「遅島」を民俗学のフィールドワークで訪れた「わたし」。そこでの人々との交流と神秘的体験は心に傷を持つ「私わたしに長く忘れ得ぬ記憶を残し、そして50年後の再訪による喪失と流転の合一は救済と得心へと結実する。美しい物語だ。
ウネさんによる、雨が降ると海から雨坊主がやってきて縁先にずらりと並んでおんおん泣くという話、あるいは小舟に乗るときは船霊(ふなだま)さんに手を合わせて無事をお願いするのだという話など、島に伝わる民俗学的な風習を読むのが愉しい。序盤からぼんやりと感じられた不穏な空気は、中盤にさしかかって平和な島に隠された廃仏毀釈の過酷な歴史が見え隠れし始めたところで腑に落ちる。中世哲学研究家の山内志朗氏による解説も、通時的な軸と共時的な軸をもとにして本書における神秘体験の本質を読み解いており、たいへんに面白い。

『飛ぶ孔雀』山尾悠子 文藝春秋
待ちに待った山尾作品。『歪み真珠』以来8年ぶりの新刊だが、連作長篇としては2003年の『ラピスラズリ』以来だから15年ぶりとなるのか。相変わらず一筋縄ではいかないが、そこが好い。相関図や作中の出来事を整理して何度も読み返す。しかし結局は藪の中となり、それが余韻となってまた再びページをめくりたくなってしまう。こうなると中毒みたいなものである。
「火を熾し難くなった世界」を舞台にした二つの中篇「飛ぶ孔雀」「不燃性について」は、カードの裏表の様に時に錯綜し時に重なり合って読者を迷わせる。不思議な街に蠢くおかしな人々や様々なメタファーも心地いい。

『竜のグリオールに絵を描いた男』ルーシャス・シェパード 竹書房文庫
ひとつの谷を覆いつくし何千年ものあいだ命を永らえてきた巨大な竜。その竜による暗く密かなる支配の波動は善悪や意志、そして現実と夢の境界を越え、そこに住む者たちに生きる意味を突きつける。年間ベストに入る傑作短篇集だった。表題作のほか「鱗狩人の美しき娘」「始祖の石」「嘘つきの館」の4つの中短篇が収録されているのだが、どれも違う味わいでなおかつ読み応え充分なものばかり。どれもが独創的かつ深い思弁性をもち甲乙つけ難く、そしてなぜか殊能将之を思い出した。

『漂流怪人・きだみのる』嵐山光三郎 小学館文庫
「きだみのる」とはどういう人物なのか。翻訳家にして詩人にして民俗学の実践者。パリ大学でモースに社会学と民族学を学び、モロッコを放浪したのち帰国して本名・山田吉彦名義でファーブル『昆虫記』を翻訳し、その後はフランス通信記者となって、戦後に映画化もされたベストセラー『気違い部落周游紀行』を書いた。アナキスト辻潤や宮嶋資夫らと親交があり、かつ満州の新京ホテルでアナキスト大杉栄を殺害した甘粕正彦からじきじきに情報部員になるよう依頼を受けたとうそぶく。全国各地に熱狂的な信奉者をもち、そしてあまりの自堕落さに疎まれる。抑圧と定住を嫌い自由と放浪を愛した。いや、愛したというより、それなくしては生きられなかった。ゴミと悪臭にまみれた部屋で知性あふれる文章を書きつづけ、行く先々でフリーラブを実践し、そして前歯が二本しかない。こんな人物ほかに見たことがない。そんな破天荒な人物の醜悪さと魅力を、若いころに担当編集者となった嵐山光三郎が思い出を中心にあますところなく描き出した一冊。

『異類婚姻譚』本谷有希子 講談社文庫
芥川賞を受賞した表題作のほか「トモ子のバウムクーヘン」「〈犬たち〉」「藁の夫」の全部で四つの短篇を収録。どれも現実と深淵のあわいを描いて幻想的かつスリリングだ。読後感の悪さも含め、海外小説好きにはお薦めの一冊だと思う。

『台湾生まれ 日本語育ち』温又柔 白水uブックス
台湾出身の両親のもとに生まれ、台湾人としての国籍を持ち3歳の時から日本で暮らしてきた著者が綴る、日本語と中国語と台湾語の間の半生。日本語を「国語」として育った著者の様々な思い。日本語と中国語と台湾語、あるいは外国人登録証明書とパスポートと台湾総統選挙通知表。ひとりの人にとって「国」とは何か。そして「外国人」とは。読み進むうち、大きなものは「国」の違いではなく、文化であり言葉の違いなのだと知る。好奇心の豊かさがこの本の面白さの源泉であり、著者の品のよさが最大の魅力である。この著者には侵略や迫害からくる萎縮の心は無いが、しかし思わぬところから突きつけられる「境界」による葛藤がある。突き詰めればそれは境界に住む全ての人にとっての、「自分」の物語となろう。

『三つの物語』フローベール 光文社古典新訳文庫
フローベールの最高作ともされ、舞台も時代とタッチも全く違う三つの物語が微妙に呼応し合う作品集。最初の「素朴なひと」で描かれる一人の女性の抑制が効いた物語も、最後の「ヘロディアス」で描かれる絢爛かつ腐敗に満ちた物語もそれなりに良かったが、なんといってもふたつめの作品である「聖ジュリアン伝」の純粋なまでの残酷さと救済の美しさに心奪われた。50ページ近くに亘る詳細な解説も読み応えがあって、フローベール初心者には良い一冊となった。


<既刊部門> ―古本・絶版とりまぜて今年自分が読んだ本―
『夢みる人びと』イサク・ディネセン 白水uブックス
《七つのゴシック物語》の第2巻で、表題作の他「エルシノーアの一夜」と「詩人」の計三作を収録。どれも読み応えのある物語ばかりで、一度もみたことのない名作映画を名画座で立て続けに観ているような贅沢感に浸りながら、隅から隅までじっくりと堪能した。ディネセンの作品がすごいのは、物語に登場していない時間も含めて世界が動いている感じかするところだと思う。だから主人公は思わぬ運命で翻弄されもするし、描かれている部分以上に物語に厚みがある。時間がかかるけど満足度は高い。いちどに沢山は読めないけれど、読めば必ず満腹になれる。

2018年12月の読了本

『温泉と城壁』北野勇作 惑星と口笛ブックス
〈北野勇作2本立て〉の第一弾。「路面電車で行く王宮と温泉の旅一泊二日」と「壁の中の街」の二つの短篇を収録。いずれの作品も、どことも知れぬ街の風物を描いた紀行文(のようなもの)だ。「◯◯ではない」という否定の積み重ねでしか表せない定義不能な物語なのだが、自分の感覚ではまさしくこれが「幻想小説」のど真ん中とも言える。筒井康隆「エロチック街道」からエロティックな部分を抜いたり、あるいは南條竹則『幻想秘湯巡り』の紀行と幻想の比率を逆転にするとこんな感じになるのかも。内田百間が好きな人にもおすすめだと思う。

『古本的思考』山口昌男 晶文社
後期山口の歴史人類学と古本に関する講演録とインタビューの記録、そしてあちこちに書いた小文をまとめたもの。全部で三部からなりいずれも「古本を通じて人脈を全部取り戻す、そういう過程を通じて枠組み(パラダイム)を作りながらまた古本を探し、探した古本のなかからまた新しい枠組みが出てくる、そういう関係」を追求している。
著者の後期を代表する著作である『「挫折」の昭和史』『「敗者」の精神史』『内田魯庵山脈』の歴史人類学三部作は、薩長支配から逃れて下野した旧幕の「敗者」たちが福島や静岡などで築いた独自の「知のネットワーク」を古本研究から解き明かしたもの。晩年になり再び古本熱が復活した著者により、こういった埋もれた記録を掘り起してゆく研究の面白さや、その過程で出会った古本の持つ魅力が熱く語られて読む者を飽きさせない。細かすぎてどうでも良いと思えるほどの詳細な知識や、まるで聞いたことのない人物のエピソードなど、知の迷宮の如き氏の活動の記録が甦ってくる。思わぬ名前がポンと飛び出して繋がったり、歴史の表舞台からは決して知ることの出来ない人脈が見えてくる過程はとてもスリリングだ。(たとえば尾形光琳の作風が漆芸をはじめとする京都、能登、富山などの工芸家を経て、アール・デコに至った可能性など考えたこともなかった。)
山名文夫、山中共古、石井研堂、田中智学、山中共古、林若樹、清水晴風、川喜田半泥子、勝野金政などなど、聞いたことがあるのも無いのも全部引っくるめて、個性的な面々の消息を読んでいるうち、「敗者」の自由と著者の喜びがひしひしと伝わってくる。「読む」というのはまさにはこういうことをいうのだろう。

『トリフィド時代』ウインダム 創元SF文庫
世界中の人々が緑の流星雨を眺めた後に突如訪れたカタストロフ。運良く難を逃れた主人公は、盲目となった人々が溢れ疫病が蔓延し、そしてトリフィドが跋扈する世界で生き残りをかけた戦いを始める……。
数十年前に旧版を読んだきりだったのだが、新訳版が出たのを機に読んでみたところ記憶にあった以上に良質な物語だった。『草の死』や『氷』や『エンジン・サマー』がそうであるように文学的であり、『宇宙戦争』や『日本アパッチ族』や『天体による永遠』がそうであるようにSF的である。極めて深い思弁性と物語としての面白さを兼ね備えた傑作であると断言したい。地味だとか古いとか思っていて申し訳なかった。
前半は『ロビンソン・クルーソー』のようなサバイバルもしくは「コージー・カタストロフ」物として読めるが、高い倫理観を持つが故に苦悩する人物を語り手とした内省物であり、語り口はロマンではなくあくまでもリアリズム。さらに『ヘンリー・ライクラフトの手記』のような格調性と文学性を獲得している。なお著者はたまたま高い倫理観を持つ人物を選んだわけではなく、「盲人の国では片目のものが王となる」という言葉からもわかるように、必然的に語り手を倫理観の高い人物に設定しなければならなかったのだろうと思う。とても英国的である。なお「生きのびるための暴力は是が非か」という問題関して『トリフィド時代』や『さなぎ』で答えたウインダムに対し、後の世代となるアメリカ人作家ハーラン・エリスンは全く違うアプローチの仕方をした。それをイギリスとアメリカの違いといってしまうとステレオタイプな考え方になってしまうかも知れないが、面白いことではある。
さらに後半になると、子供たちや人類の未来、文明の行く末という、まさに「SF文学しか気にしない」問題を取り上げることで、ウェルズの後継とでも呼べる作品に仕上がっている。トリフィドが被災者たちに対しては、長い苦しみから解放する「慈悲の鞭」であるとともに、人類にとっては復活への足枷であるという、絶妙な位置付けである事が徐々に明らかになるのには舌を巻いた。トリフィドが植物でありながら昆虫的「知性」をもっている(らしい)のも興味深い。また緑の流星雨と疫病が部分が都合良すぎると初読のときから思っていたのだが、まさかあんな意味だったとは。(すっかり忘れていた。)隅々まで隙のない物語である。
なお、その後行われた本書の読書会では、「トリフィドをいかにして食べるか」という話題で盛り上がった。作中に「食べられるが不味い」「家畜の餌」という記述があったが、きっとイギリス人は何でも煮てしまうからであって、食べようによってはきっとおいしいのではないかという意見が出た。トリフィド料理、魅力的である。刺身にして山葵醬油で食べたり、塩をまぶして水抜きすれば青臭さが抜けるのではないか?とか、ロシアで油を取るために品種改良された可能性もあるので、日本か中国ならきっと食用トリフィドを新しい品種で作るのではないかと。日本人は「木の根」でも食べるからトリフィドぐらいへっちゃらなのである。また中国人も四つ足はテーブル以外、二本足は両親以外は食べてしまうと言われているので同様にへっちゃらなのである。トリフィドは胡麻油でニンニクや唐辛子と一緒に炒めてもきっと美味しいに違いない。

『本・子ども・絵本』中川李枝子 文春文庫
『いやいやえん』や『ぐりとぐら』で有名な絵本作家による自伝エッセイ。自らの生い立ちから保育園の保育士としての17年間、そしてそのあいだ子どもたちと共に読んだ絵本についての記憶が綴られる。初版は1982年と古く、中で語られる教育理論は極めて伝統的なものなのでジェンダー論を知ったうえで読むと若干「?」と思う点が無くもないが、本の思い出や子どもたちとの触れ合いについて書かれた文章は文句なく面白い。なかでも「岩波少年文庫と私」と「子どもの世界」は非常に好かった。(また「私と本との出会い」の章にあった「戦争前の子どもの本は私が買ってもらった『野口雨情少年詩集』とはくらべものにならないほど紙も印刷も上等、表紙もぜいたくで、さし絵がふんだんに入っていました」という文章には心を打たれた。戦争が人を幸せにすることは絶対にない。)
読んでいて思ったことだが、題名にある「本」とは親や兄妹と一緒に夢中になった本のことを、「子ども」とは自分が勤めていたみどり保育園で出会った子供達と彼らの成長を見守る大人たちのあるべき姿を、そして「絵本」とは園児たちと一緒に楽しみ、やがて自分でも創り出すことになった「読書の入り口」であり「人生の入り口」でもある物語のことを意味するのだろう。なにしろ紹介される本がどれも魅力的で、『ちいさなねこ』や『いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう』、『三びきのやぎのがらがらどん』といった本を改めて読みたくなってきた。

『血みどろ臓物ハイスクール』キャシー・アッカー 河出文庫
これは何というか、内容を説明するのは無理だ。例えばデュシャンの「大ガラス」やエルンスト『百頭女』のように、あるものをそのまま感じ取るしかない。言葉で表現されているのに感じ取るしか無いというのは初めての経験でとても興味深い。ストーリーはあって無いようなものだが、「父親とどろどろの関係を結んでいる十歳の娘がアメリカのハイスクールで倫理的な問題を起こした挙句に海外へと連れ去られ、ありとあらゆる責め苦を味わったのち生死を超越した神話的世界へと消えてゆく(ような)話……」と書いているそばから違う気がしてくるが、ともかくそんな話だ。とことん下品で直裁的な表現を用いつつ、象徴的で本質的なものを読者に体験させようとしているように見える。著者はこの世のあらゆる罪を背負わされた「女」という存在から、本来不可分であるべき女性性をすべて剥ぎ取って、負であることのみをジェイニーという少女に全て飲み込ませてしまう。(ただしジェイニーはそんなことでへこたれるようなタマではないのだが。) デビューしたてのころの高橋源一郎が『さようなら、ギャングたち』や『ジョン・レノンvs火星人』でみせた悪趣味と真摯さを100倍もエスカレートさせて、そこに考え得る限りの下品さをぶち込んだ、そんな作品と言える。舞城王太郎をさらにえげつなくした感じといってもいいかもしれない。カーター大統領やジャン・ジュネがそのままの役回りで出てきたりするのも実験的であり、思えばそれが前述の高橋源一郎作品を連想させる理由のひとつなのかも知れない。 これまでに経験したことのない稀有な読書体験だった。参りました。なお、挿絵がかなりアレなので、電車の中で読むときには注意した方がいいと思う。

『トランクの中に行った双子』ショーニン・マグワイア 元推理文庫
『不思議の国の少女たち』のシリーズの2作目で、前作の前日譚にあたる。双子の姉妹ジャクリーン(ジャック)とジリアン(ジル)がいかにあちらの世界へと赴きこの世へ帰ってきたかを描くが、前作同様に甘くはない。個人的には前作よりこちらの方が面白かった。「扉」が象徴する世界の秩序が仄めかされていて、素材はファンタジーだがつくりはゼラズニイ『虚ろなる十月の夜に』がSFであるのと同じ意味でSFといっても良いだろう。次はまた一作目と同じ舞台に戻るようだが、本作の直接の続きをさらに読んでみたい気もする。

『どこに転がっていくの、林檎ちゃん』レオ・ペルッツ ちくま文庫
第一次世界大戦時にロシアの捕虜収容所で受けた理不尽な行為に対し、解放後にロシアへと舞い戻って収容所の責任者セリュコフに復讐しようと企てる男。当時の流行歌のようにどこに転がっていくか予想もつかない二年間の旅は、思いがけない運命を彼に招き寄せる……。
ペルッツを日本人作家にたとえるなら、自分の場合は山田風太郎にイメージがだぶるのだが、本書には幻想味が殆どなくイメージがかなり違っていた。(いや『おれは不知火』や『明治波濤歌』あたりならそうでもないか。)ドン・キホーテばりに偏執的な主人公と、停滞していると思うと突然動き出す緩急激しい展開はとても面白く、発表当時ベストセラーになったというのもなるほど頷ける。ただし自分にとってのベストはあくまでも『夜毎に石の橋の下で』や『スウェーデンの騎士』であることに変わりはない。ペルッツに魔術的なものを求めてしまうのはぜいたくなのだろうか。

『現代の地獄への旅』ディーノ・ブッツァーティ 東宣出版
中後期の作品を中心に切れ味がいい十四のショートショートと、八つの章からなる中篇を収録した日本オリジナル作品集の二冊目。変幻自在の語り口で幻想的かつ残酷で憂愁に満ちた物語が語られ、冒頭から最後の作品までしっかりと愉しめた。百鬼園先生のように、作者自身が主人公となっている作品が表題作の中篇をはじめ幾つか収録されているが、その中でも白眉は「庭の瘤」ではないかと思う。特に好みだったのは「卵」「自然の魔力」「庭の瘤」だが、「十八番ホール」「キルケー」や表題作の中の「加速」や「片付けの日」や「庭」も強烈だった。もしかして「甘美な夜」や「目には目を」に見られるような底意地の悪さが著者の真骨頂ではないかという気もする。思えば『タタール人の砂漠』も『七人の使者』も底意地の悪さではかなりなものだった。次回の第三集も楽しみである。

『怖い短歌』倉阪鬼一郎 幻冬社新書
古今東西の歌人の作品から「暗黒短歌」ばかりを集め、テーマ別に紹介・解説したアンソロジー。非常に労作である。短歌に歌われている内容を鑑賞するとともに、その短歌を選んだ選者のセンスを確かめ味うことができ、一冊で何度も楽しめる本だ。たとえば「吸血鬼よる年波の悲哀からあつらえたごく特殊な自殺機」(高柳蕗子)という歌に著者は「おのれの心臓に杭を打ちこむ特殊な自殺機械」を想像しているが、これはきっとヴィアンの夢想した「心臓抜き」に違いないと思う。いや自分的にはぜひそうであってほしい。とまあ、こんな風に読んでいくとやたら時間がかかるのが特徴でもある。(笑)
一応章立てになってはいるが、個々の章では「代表作」を詠んだ歌人の作品を、他のテーマに属する歌も含めて一度に紹介しているのでどこから読んでも支障はないと思う。(ただ同じ作者の歌は傾向が似ているので、通して読むとやはりテーマ別の感じはしてくる。) 個人的に好きな章は第3章「向こうから来るもの」や第8章「奇想の恐怖」あたりだったのがいかにも自分らしい。新しく知った歌人では林和清(かずきよ)、伊舎堂仁(いしゃどうひとし)、前川佐美雄(さみお)、中城ふみ子、杉原一司(かずし)、高柳蕗子、笹公人(ささきみひと)といった人の歌が大変面白くて収穫だった。怪奇幻想を好む読者にはおすすめの一冊だと思う。 大晦日に読むのによい本だった。

2018年11月の読了本

『零號琴』飛浩隆 早川書房
宇宙に謎の痕跡を残して立ち去った存在、世界開闢の「假面劇」を演じる星の住民たち、そして500年ぶりに復活されんとする伝説の巨大楽器・零號琴……。魅力的なガジェットと漫画やアニメのパロディをふんだんに散りばめ、わくわくする物語に仕上げたエンタメ小説。これは面白い。一部に重たい設定や残酷シーンもあるにはあるが、基本的には明るくごきげんな正統派SFだった。全体は『天空の城ラピュタ』に代表される宮崎アニメのトーンに近いと思う。これは主役のキャラによるところも大きいにではないだろうか。内容的にはディレイニーみたいなところもあるしヴァーリィかと思ったらヴァンスみたいでもあるし、いろんなSFのいいところばかり集めた雰囲気。オールドファンは、さま座な先行作品へのオマージュである《ハイペリオンシリーズ》みたいに楽しんで読めると思う。最初の方ではジャック・ヴァンスの中篇「月の蛾」を思わせる「假面劇」のシーンがとても面白い。ゼラズニイ 「フロストとベータ」、ヴァーリィ《八世界シリーズ》、ディレイニー『エンパイア・スター』《人類補完機構シリーズ》あたりかな。
またSF以外に漫画やアニメのパロディも多かった。『仙女旋隊あしたもフリギア!』がテレビアニメの《プリキュア》なのは明らかだけど、他には「牛頭」と五柱の神が『六神合体 ゴッドマーズ』だったり「五聯社(ゴレンジャ)」(=秘密戦隊ゴレンジャ―)というのも出てくる。「鐡靭(てつじん)」は名前から『鉄人28号』なのかと思ったが、あとの展開をみるとどうやら『風の谷のナウシカ』の巨神兵のようだ。『フリギア!』の最終回エピソードはまるで『魔法少女まどか・マギカ』だし、『新世紀エヴァンゲリオン』もあちこちに見え隠れする。
それから意外と手塚治虫のパロディがあったようにも感じた。たとえば「峨鵬丸」は『火の鳥 鳳凰編』の「我王」だし「梦卑」は『火の鳥 未来編』に出てきたムーピー。「亞童」が合体するシーンは『鉄腕アトム』のガデムみたいだし、トロムボノクは『どろろ』の百鬼丸だったりする。シェリュバンの変身シーンは『バンパイヤ』かも知れない。(読んでいない人には何のことかさっぱりわからないですね、失礼しました。)
以上、パロディやオマージュを思いつくままあげてみたが、あくまでもそれらは読者を愉しませるためのテイストであって、小説の骨組みはたいへんしっかりしたものである。ひとつの民族の発生と凋落を描いて壮大なスケールのSFとなっていて、仮にパロディパートが無かったとしても、迫力のある本格SFになっただろう。奇作にして怪作、そしてまた力作であり傑作であるという稀有な小説だった。

『三つの物語』フローベール 光文社古典新訳文庫
フローベールの最高作ともされ、舞台も時代とタッチも全く違う三つの物語が微妙に呼応し合う作品集。最初の「素朴なひと」では無学で朴訥、そして純真なひとりの召使い女性の一生を、飾り気なく素直に語る。自分としてはこの「素朴な人」で描かれる一人の女性の抑制が効いた物語も、最後の「ヘロディアス」で描かれた、ヘロデ王とサロメと「ヨカナーンの首」の緊迫に満ちたエピソードへと至る絢爛かつ腐敗に満ちた物語もそれなりに良かったが、なんといってもふたつめの作品である「聖ジュリアン伝」の純粋なまでの残酷さと救済の美しさに心奪われた。話はまったく違うのだが、前半の雰囲気などはちょっと坂口安吾「夜長姫と耳男」や石川淳「紫苑物語」を連想させる。50ページ近くに亘る詳細な解説も読み応えがあって、フローベール初心者には良い一冊となった。

『永遠のファシズム』ウンベルト・エーコ 岩波現代文庫
知の巨人エーコが「モラル」をテーマに書いた五つの小文を収めた評論集。表題の文章だけでなく湾岸戦争のさなかに発表された冒頭の「戦争を考える」や巻末の「移住、寛容そして堪えがたいもの」をセットで読み、さらにマルティーニ大司教との往復書簡への返答である「他人が登場するとき」、イタリアメディアを巡る「新聞について」を補助線として全体を俯瞰すると、「自由と解放」「知識」「不寛容と排斥」といった著者の深い思索が心に沁みてくる。ぜひともレムの『主の変容病院・挑発』と併せて読んでいただきたい。
「戦争を考える」で言及されるように、自分に賛同するものを味方とし(異なる考えを持つものをひとかたまりにして)自分に賛同しないものを敵とみなすことの恐ろしさは、いつの時代にもどこの世界でも通用することだろう。また「戦争はもはや、多国籍資本主義の本質そのものによって、正面衝突にはなりえない」「権力はもはや一枚岩でも「単一細胞」でもない(中略)権力は拡散し細胞化することで、絶えず無秩序な離合集散を繰り返す無数の合意によって成り立っている」 といった言葉を目にすると、自らの政権と一族郎党の利権の維持に腐心し、そのために仮想敵国と同盟国という単純な国家意識に固まった某国の政権は一体全体なんであろうかという疑問もわいてくる。「鏡ではなく窓をみよ」は心に刻んでおきたい主張である。

『所長』スワヴォーミル・ムロージェク 未知谷
ポーランドで小説や戯曲、漫画なと幅広い創作活動をこなす作家の作品集。無性に変な話が読みたくなったので読んだのだが、期待に違わずとても変だったので満足した。どことも知れぬ国の事務所を舞台にしたマンガチックでナンセンスで辛辣な掌編と、二つの短篇集から選んだ不条理とブラックユーモアに満ちた短篇の数々で構成される。つらい社会ほどユーモアが冴えるというのは世のならいだが、共産主義体制下のポーランドを風刺する筆者の筆はやはり冴え渡っている。植田まさしのサラリーマン4コマ漫画、あるいは落語の「ぜんざい公社」を連想させるような、杓子定規で非効率な社会制度のくだらなさに哄笑をあびせるドタバタ喜劇を笑いながら読んでいるうち、松尾芭蕉の「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな」を思い出した。この続きにはカフカ『審判』や残雪『黄泥街』があるような気もする。底知れぬグロテスクもかすかに。ラストの「乗客」がかなり好きだ。

『不思議の国の少女たち』ショーニン・マグワイア 創元推理文庫
様々な物語に出てくる異世界へ行って戻ってきた子ども達。この世界にとけ込めない彼等を引き受け、折り合いをつけるすべを学ばせる為の寄宿舎があった……。可愛らしい表紙とは違うビターな雰囲気にあれあれと思いつつ読み進むうち、事態はまるで『クリムゾン・リバー』のような展開へと至る。ヒューゴ、ネビュラ、ローカスの三賞を受賞しているが、「SF文庫」でなく「推理文庫」のレーベルで出たのはファンタジーという括りで扱うということなのだろう。しかし内容的にはゼラズニイ『虚ろなる十月の夜に』を思わせる薫りもあり、ジャンルミックスと言えるかも。(ゼラズニイ の『虚ろなる十月の夜に』や『影のジャック』、あるいは《真世界シリーズ》のようにSFかファンタジーが判然としないものや、キム・ニューマン《ドラキュラ紀元シリーズ》のように、ジャンルの先行作品をうまく借景したような作品はどれも面白い。要は面白ければ良いのだ。)

『天体による永遠』オーギュスト・ブランキ 岩波文庫
19世紀の革命家ブランキが、長い幽閉生活のなかでも特に過酷だったトーロー要塞の土牢で書いた晩年の著作。久しぶりの再読だが非常に面白かった。ラプラスの宇宙生成論を端緒に宇宙の無限の広さと時間に想いを馳せ、綿密な分析の果てに驚くべき光景を幻視する。神秘主義を排した徹底的な科学的思考の行き着く先が、ニーチェの永遠回帰や量子力学にもつながる多元宇宙論であるというのが大変に面白い。これを解説のようにペシミズムととるか、もしくは積極的な生の肯定ととるかは読む人の自由であろうと思う。ちなみに19世紀の著作だけあって天文学に関する科学的な記述や知見に関しては今の時代から見て明らかな間違いが山ほどある。しかしそれはあれこれ言っても仕方のないことであり、むしろその奇想をこそ愉しむべきかと、幻想小説ファンとしてはそう思う。

『怪獣』岡本綺堂 中公文庫
《岡本綺堂読物集》の最終巻となる第7巻。怪談や探偵小説がまだはっきりとは分かれていなかった時代だけに、完全なる犯罪小説から摩訶不思議な奇談までバラエティに富んでいる。個人的にはちょっと不思議でちょっと怖い因縁話の表題作や「恨の蠑螺(うらみのさざえ)」の他、「海亀」「経帷子の秘密」「夢のお七」あたりが好物であった。
少し本書の話からはそれるが、自分は「怪談」とは単なる「こわい話」ではなく不可思議なことがつきものであると思っているので、「怪談」は幻想小説のひとつのサブジャンルであると考えている。したがって異常人格者によるサイコホラーなどサスペンスを主体として「こわい話」は別のカテゴリーであって(注:そちら系の話があまり得意ではないこともある)、怪談とは怖さの中にある割り切れなさを愉しむ娯楽であると考える。ちなみに「幻想小説」の場合は、怖さの代わりに懐かしさが混じってくる感じかも知れない。自分にとって良い怪談と幻想小説とはそんな風なものだ。(もしかしたら怪談は「怪しい話」であっても恐怖小説ではないのだから、別に怖くなくても良いのではないか?という気もしている。「おそれ」という言葉に「恐れ」と同時に「畏れ」という漢字が当てられているように、結果的に底知れぬ不気味さを感じることはあっても。)
また日本の「怪談」とともに西洋の「怪奇小説」も自分は好むものであるが、両者に共通することとして不可思議なものに対する畏れであったり理解できぬことからくる不気味さであったりが見受けられると思う。少し違うところがあるとすれば、対象が水平方向の異界である日本に対し、西洋は上下方向の超自然であることだろうか。ブラックウッド『ウェンディゴ』や『人間和声』などは良い例かも知れない。そして「怖さ」ということで近いのは、例えばエイクマン『奥の部屋』やウエイクフィールド『赤い館』など。いずれも泉鏡花や岡本綺堂、小泉八雲などの作品に共通する「理解し難さ」を持っている気がする。どれも好みである。

『グルブ消息不明』エドゥアルド・メンドサ 東宣出版
オリンピック前のバルセロナを舞台に、決まった肉体を持たずどんな姿にもなれる異星調査員が引き起こす16日間のドタバタを描く。行方不明になった相棒を探す主人公の独白が、ピント外れで時にシュールで妙におかしな光景を映し出すのだが、おそらく書かれているとおりに受け取ってはいけないのだろう。(これも一種の「信頼できない語り手」なのだろう。)本書が収録されている叢書の名前のように《はじめて出逢う世界のおはなし》としてはちょっとハードルが高いかも知れないが、それもまたいい。『パパラギ』のような文明批評として読むのも、筒井康隆のようなギャグとしても読むのもまた自由だ。

「還ってきた老人から始まる仄暗い百の断片」倉阪鬼一郎 惑星と口笛ブックス
シングルカットシリーズの一作。無窮の天蓋の下に広がるは海であり砂でありどことも知れぬ半島の過去の記憶。夜は終わりの始まりでありまた始まりの終わりでもある。こういう感覚は幻想の読書の悦びである。

『19本の薔薇』ミルチャ・エリアーデ 作品社
世界的宗教学者が残した最後の長篇幻想小説。チャウシェスク政権下のルーマニアで老文豪が演劇的なスペクタクル(≒イニシエーション)を通じて自らの記憶回復を図り、《絶対的自由》へと至るまでを緊迫した筆致で描く。エリアーデの幻想は朦朧としたものではなく明晰な論理に基づくものであり、喩えていえばエッシャーの絵のようなものだ。ひとつひとつの要素が意図するところは明解だが、それを丹念に辿ってゆくといつのまにか捻れた世界へと誘われ、ラストに見えてくる全体像は現実世界にはない思考実験となっている。帯に「これほど巧妙にカムフラージュされたメッセージが解読されるかどうかは疑わしい」という著者の言葉があるが、はたして自分はきちんと読み解くことが出来たのだろうか。

『夢みる人びと』イサク・ディネセン 白水uブックス
《七つのゴシック物語》の第2巻で、表題作の他「エルシノーアの一夜」と「詩人」の計三作を収録。どれも読み応えのある物語ばかりだ。一度もみたことのない名作映画を名画座で立て続けに観ているような贅沢感に浸りながら、隅から隅までじっくりと堪能した。先の読めない展開と、あっと驚くような仕掛けが、この《七つのゴシック物語》に収められた作品のいずれにも共通する魅力だ。
たとえばひとつめの「エルシノーアの一夜」は本の密度というか、1ページあたりの文章のみっちりした重さがすごい。内容の濃さはもちろんそうだが、改行がなく地の文と一緒に並んでいる会話文も、そしてどこに連れて行かれるか判らない展開も「そうか、こうくるのか」という感じ。とても好い。つぎの「夢みる人びと」は夜の海をゆくアラビア帆船の上で「夢」について語る詩人と放浪のイギリス人の情景から始まる。「エルシノーアの一夜」とはうってかわって殆ど会話もしくは独白で話が進んでいき、はじめは『千夜一夜物語』かと思ったが実はメリメ『カルメン』でありリンゼイ『憑かれた女』であった。ファム・ファタールに翻弄される男たちの物語を中心に、話中話が複雑に入り乱れてややこしいが面白い。そして最後の「詩人」。これにはびっくりさせられ、思わずぽかんと口を開けてしまった。本書と対になる第1巻『ピサへの道』所載の短篇「猿」ぐらいびっくりした。とんでもない話だ。以上3作の中で一番好きだったのは「夢みる人びと」だが、出来としてはいずれも甲乙つけがたい。(ちなみに『ピサへの道』では「ノルデルナイの大洪水」と「猿」が好きだった。)
ディネセンの作品がすごいのは、物語に登場していない時間も含めて世界が動いている感じかするところだと思う。だから主人公は思わぬ運命で翻弄されもするし、描かれている部分以上に物語に厚みがある。観客に見えない所でも舞台が続いている演劇のようだ。読んだときの感触としてはレオ・ペルッツに近い。(ペルッツの方が外連味が強いが。)食べ物で言えば赤身のブロック肉をかたまりのまま焼いたステーキのような感じ。みっしりと詰まった文章に歯を立てて滋養にみちた塊を食いちぎる。咀嚼するほどに旨味がましてくる。飲み込むのに時間がかかるけど、食べ終わったあとの満足度は高い。いちどに沢山は読めないけれど、読めば必ず満腹になれる。

『裏世界ピクニック3』宮澤伊織 ハヤカワ文庫
実話怪談系のネットロアを題材にした異世界探検物の第3弾。実話怪談をネタにした冒険物というのがとても新鮮で、かつてテレビ放映されたアメリカのドラマ『事件記者コルチャック』が大好きだったので毎回楽しく読んでいる。本書を怪事件解決物として読むとするなら、空魚の右目と鳥子の左手が変異して怪異に対抗する力を持っているという設定が秀逸だと思う。ラブクラフトの《クトゥルフ神話》では宇宙的恐怖の存在からひたすら逃げるしかないが、その後同じ設定を借りたブライアン・ラムレイの〈タイタス・クロウ・サーガ〉に至っては、その恐怖と対峙(退治?)出来るようになった。本書も「ひたすら避けるしかない恐怖」を語った実話怪談のネタを対処できる脅威にアレンジし直したことが、娯楽小説としての間口を広げたと思う。 あと寺沢武一の『コブラ』や『ゴクウ』のように必殺の手や目を持っているというのは、いかにもマンガチックでとっつきやすいと思う。(ちなみに一部で話題になっているように、本書には「百合SF」という側面もあるようだが、そちら方面について自分はまったくの門外漢なので省略する。)

『トランスヒューマンガンマ線バースト童話集』三方行成 早川書房
第六回ハヤカワSFコンテスト優秀賞受賞作に加筆修正した連作集。SFであり童話であるというよくわからない物語が全部で6篇収録されている。こういったジャンル越境型の物語は大好きなので書店で見かけてさっそく読んでみたところ、中身は昔話をモチーフとしつつも結構真っ当なSFだった。軽快かつ痛快。読みやすくて非常に洒落ている。(もうちょっと訳がわからないぐらいでも良かったかも知れない。)ベースは情報技術や物理学をネタにしたハードSFだが味付けは作品によって違う。ジョン・ヴァーリィのようなものからルディ・ラッカーぽいもの、あるいは飛浩隆やコードウェイナー・スミス、はてはゼラズニイ的なものまで様々。個人的には「スノーホワイト/ホワイトアウト」と「アリとキリギリス」あたりが好みだった。(しかし「ちゃんとSFしてたからちょっと残念」というのは我ながら変な読後感だ(笑)。奇妙な味や幻想小説のような得体の知れない話に慣れすぎたのかも知れない。ポップな装丁は中身に合っていてよかったと思う。

『吉田知子選集Ⅲ そら』 景文館書店
幻想的な短篇を全部で9つ収録。どれも秀作揃いだが表題作「そら」と「ユエビ川」にはとりわけ鬼気迫るものを感じた。初っ端の「泥眼」と「静かな夏」からどろんどろんのぐちゃぐちゃだが、あとの方の作品になるほどねちっこさが増していく。つづく「箱の夫」はこれまたすごい。意味がさっぱりわからない。徹頭徹尾、鉤括弧つきの「変」で溢れている。怖くなくて可笑しくもなくて、ただ「変」であるというのはとても難しいことだ。面白いし、なにしろ大したものだと思う。「艮」は大変分かりやすい円環の地獄であり、再読だがやはり好かった。「穴」は名状しがたいものになんらかの名前を付け、ついでに折り合いも付けて生きてゆくタイプの話。「犬と楽しく暮らそう」もそうだ。著者おとくいのもやもや感がよく出ていて、いずれも満足度は高い。また「幸福な犬」ではあからさまにある対象を暗示もしくは揶揄しているのだが、それに目を向けることが恐ろしい。また「ユエビ川」には山野浩一や『スミヤキストQの冒険』の倉橋由美子に通じるものがあると思う。そしてラストの「そら」。ここに至ってとうとう何処かへ連れ去られてしまった感がある。個人的には今村夏子『こちらあみ子』にも通じるものがあると思うが、上田秋成『春雨物語』の印象も持った。以上9作品を通して読んでみて、久しぶりに幻想のもつ恐ろしさを味わった気がする。著者の本は本書以外には講談社文芸文庫『お供え』しか読んだことが無かったのだが、どうやら病みつきになりそうである。氏の作品の特徴としては、節の区切りがなく、長い作品でも最初から最後までひとかたまりで続いていくというのがある気がする。起伏がない何とも形容しがたい話がぬめぬめと続いていくのは、気持ち悪さを感じるとともに快感でもある。

『花嫁と仮髪(かつら)』大阪圭吉 書肆盛林堂
古書店の盛林堂が精力的に発行している《盛林堂ミステリアス文庫》の最新刊。「大阪圭吉 単行本未収録作品集1」とあるが、解説に寄れば2巻以降の刊行は未発見の掲載誌がもしも見つかったらということなので、当面はこの一冊のみということになる。表題作は披露宴会場から新婦のカツラが盗まれるという事件を描いた明朗ミステリで、颯爽と現れて事件を解決する「お嬢さん探偵小島アザミさん」がなんだかカッコいい。他にもほっこりする話や時勢を反映した勇ましい話、エッセイなどバラエティ豊かな作品を全部で8編収録しており、作品の質は高い。手のかかる仕事を丁寧にこなして刊行にこぎ着けた関係者の方の努力に頭が下がる。イラストレーターYOUCHAN氏によるレトロな雰囲気の装丁がとても美しく似合っていてご機嫌な一冊だった。

『別役実Ⅱ』 ハヤカワ演劇文庫
〈芸術選奨文部大臣賞〉と〈読売文学賞〉を受賞した著者の代表作である「ジョバンニの父への旅」と「諸国を遍歴する二人の騎士の物語」を収録した戯曲集。前者は『銀河鉄道の夜』、後者は『ドン・キホーテ』をモチーフにした不条理劇。著者はもともと『虫づくし』『鳥づくし』といったエッセイが好きなのだが、本業(?)である演劇関係の著作は読んだことがなかった。今回初めて読んでみて頗る面白かった。

2018年10月の読了本

今月も目標の10冊には届かず。土曜日出勤が多かったのがひびいた。祝日で「読書の日」とかあると良いのだが。

『漂流怪人・きだみのる』嵐山光三郎 小学館文庫
評伝のたぐいが好きだ。と言ってもいわゆる偉人伝だとかタイコ持ちのような文章ではなく、なるべく破天荒な人物伝が好い。例を挙げれば、赤瀬川原平が明治時代のジャーナリスト宮武外骨について書いた『外骨という人がいた!』みたいなもの。だと嬉しい。
というわけで「きだみのる」という人のことは、名前に聞き覚えがあるぐらいでほとんど知らなかったのだが、書店でみかけてつい手に取ってしまった。まず題名がいい。ふつう評伝に「怪人」なんてつけないだろう。著者をみると案の定、嵐山光三郎である。これが面白くないわけがない。さっそく購入したところ、やはり大当たりだった。(ちなみに本書を読んで、「きだみのる」という名前にどこかで聞いた覚えがあったのは、開高健の対談集『人とこの世界』に出てきたからだと判明した。開高健がこの人のことを好きだったのは、ある種、彼の理想の暮らしぶりを体現していた人だったからだということも。)
さて「きだみのる」とはそもそもどういう人物なのか。彼は翻訳家にして詩人にして民俗学の実践者。パリ大学でモースに社会学と民族学を学び、モロッコを放浪したのち帰国して本名・山田吉彦名義でファーブル『昆虫記』を翻訳し、その後はフランス通信記者となって、戦後に映画化もされたベストセラー『気違い部落周游紀行』を書いた。アナキスト辻潤や宮嶋資夫らと親交があり、かつ満州の新京ホテルでアナキスト大杉栄を殺害した甘粕正彦からじきじきに情報部員になるよう依頼を受けたとうそぶく。全国各地に熱狂的な信奉者をもち、そしてあまりの自堕落さに疎まれる。抑圧と定住を嫌い自由と放浪を愛した。いや、愛したというより、それなくしては生きられなかった。ゴミと悪臭にまみれた部屋で知性あふれる文章を書きつづけ、行く先々でフリーラブを実践し、そして前歯が二本しかない。こんな人物ほかに見たことがない。読めば読むほど、きだみのるのあまりに破天荒な生き方にびっくりしてしまう。嵐山光三郎は傍観者に徹したときに本領を発揮する気がする。まとわりつくような粘り気をもつ文章は、例えば『桃仙人』や本書のように実体験に基づいたものを書くとき、さらに毒気と破壊力を増す気がする。対象の醜悪さも魅力もありのままに描写して、本質を見抜く力がすごい。
嵐山光三郎は若い頃にきだの担当編集者だったそうで、本書はその思い出を中心につづられている。彼は1年以上に亘って昼夜きだにつきそい、敬愛しつつも疎んじた。(その気持ちは「厄介」という言葉で表現されている。)
嵐山の筆は、自由を追い求めた男に忍び寄る老いと衰弱と焦りとを、愛情と非情がないまぜになった冷徹さで描き出す。生と性への執着の果てに見えてくるのは、崩れ落ちつつある伽藍の悲哀もしくは大いなる虚ろに他ならない。ページの向こうに、走り続けたまま朽ちていった男の壮絶をみた。
第9章には、きだみのると彼の娘ミミをモデルにした三好京三『子育てごっこ』の直木賞受賞の顛末と、三好の養女となったミミのその後が書かれている。
「いつもいらだっている。(中略)徒党を組まずに漂流する意思と、土俗に執着して村の先生になりたいという願望がある。ミミくんを小学校に入学させたい気持と、いつまでも自分の手もとで育てたいという執着がある。矛盾をかかえて生きている。」
たしかにきだみのるは「厄介」ではあったが、それは人間的な魅力の裏返しでもあった。そんなアンビバレントな思いを丸ごと飲み込むことが出来た嵐山光三郎だからこそ醜悪に揶揄された『子育てごっこ』のミミときだ、そして売名の意図すら透けて見える三好の姿勢に対して、素直にNOといえたのだろう。善かれ悪しかれ、きだと過ごした年月を通じて、著者の人生もまた大きく変わったのだ。そして今や漂流老人・嵐山光三郎である。凡ゆる意味で破天荒だった男の晩年と、彼の業を引き継いだ幼い実子のその後を活写して、文庫だけれどかなり読み応えがあった。

『筒井康隆、自作を語る』 早川書房
作品の解説というだけでなく当時の出版事情の説明や交友録でもあり、そして世相の紹介でもある。デビュー作「お助け」から2017年の『モナドの領域』まで、長短篇の数々を発表当時のエピソードを交えて語り尽くした感がある。 聞き手の日下三蔵氏の事前調査がまずもって超人的で、そこに筒井康隆氏の驚異的な記憶力が相まっての面白さといえるだろう。自選短篇集の解説や全著作リストも入ってファン必携の一冊。いやあ面白かった。

『目まいのする散歩』武田泰淳 中公文庫
死後に野間文芸賞を受賞した著者の最晩年のエッセイ。人生のさまざまな場面、現在に至る記憶の中を歩く。読んでいるうち、「散歩」という言葉が行為から乖離して、著者の生そのものへとなっていくように感じる。自覚しようがしまいが、日々のあらゆることは生きることに繋がっているのだ。そして著者にとって「散歩」とは、移りゆく月日を過ごし生を続けてゆくことだったのだろう。自らの命を一歩ずつ確かめるような歩みが、読むほどにじわじわと効いてくる。エッセイというよりは内省録と呼びたい。以下、思いつくままに感想を。
「笑い男の散歩」に出てくる笑い男とは著者のことである。病気のために、常に薄ら笑いを浮かべたような顔つきになった著者が、靖国から千鳥ヶ淵、そして代々木公園を散歩する。歩くことは生きることである。「あぶない散歩」に子どもの頃に見た花電車の思い出が書かれている。(そういえば自分も子どもの頃に「花バス」なるものを見に行った。いつのまにか無くなってしまったが。 路上で長く待たされて、貧弱なデコレーションに包まれたバスがあっという間に通過していくのを眺めていた覚えがある。あれが貧弱に見えたのが、「昔」と「今」との分かれ目だったのかも知れない。バブルの狂騒の遥か以前の話。)
「いりみだれた散歩」の中にはこんな一文がでてくる。
「新聞もとっていなかったので、あたりの風景は、(中略)妙にはっきりと迫ってきた。世の中は、新聞なしでも、われわれの周辺に実在していた。国内の大事件とは離れていて、事件と事件はつながらずに、ただ風に吹かれて、ひろがっていた」
スマホやパソコンの画面を通じてあらゆる情報が手に入るが、虚実もはっきりとしないまま、うすぼんやりと自らが心地の良いと感じる観念をもてあそぶ。 そう考えだすと、ただ立ち尽くして観察することしか出来なくなるわけではあるが。本を読み内容を理解する行為は手間がかかるものだけれども、その分、内省の時間を得ることになるのかも知れない。
「鬼姫の散歩」には氏が"鬼姫"と称する彼の妻(作家の武田百合子氏)とのなれそめと、二人の間に産まれた娘がまだ幼かった頃の思い出とが書かれている。周囲の様々な死に彩られた思い出話はひりひりと痛い。脳血栓で倒れた著者の記憶の散歩である。最後の「船の散歩」と「安全な散歩?」は昭和四十四年に夫婦でソ連旅行をした時の記録になっている。粛清の時代を過ぎた社会主義の街並みを、糖尿病のため朦朧とした状態で旅してゆく。突然、旧日本陸軍二等兵の記憶が交叉して、今と過去とが入り混じる。奔放な妻がとてもいい。その時の様子を妻の視点で書いた武田百合子『犬が星みた』も読んでみたくなり買ってきた。。

『魔法の庭・空を見上げる部族』カルヴィーノ 岩波文庫
既刊の晶文社/ちくま文庫版にさらに五篇を追加した、ほぼ決定版に近い短篇集。第二次大戦やその後のイタリアを舞台にスケッチのような「素直」な物語が展開する。カルヴィーノは初期のリアリズムと後の放埓な空想がどう繋がっていくのか以前から疑問だったのだが、訳者・和田忠彦氏による解説で納得できた。ただ巻末に収録された三作「アンティル諸島の大凪」「空を見上げる部族」「ある夜のスコットランド貴族の独白」はそれまでのリアルな他作品に比べて格段に妄想度が高くて、この路線の延長を少し行ったあたりにレオ・ペルッツなんかがいそうな気がする。(カルヴィーノは同じ虚構でもそこから少しずれた方向に進んでいったわけだが。)

『異類婚姻譚』本谷有希子 講談社文庫
芥川賞を受賞した表題作のほか「トモ子のバウムクーヘン」「〈犬たち〉」「藁の夫」の全部で四つの短篇を収録。どれも現実と深淵のあわいを描いて幻想的かつスリリング。「異類婚姻譚」では、家で何もしない怠惰な生活を送る旦那は、緩み続けてやがて人の姿すら留めなくなる。徐々に「私」は蝕まれていき、やがて二匹の蛇がお互いの尾を飲み込むように二人の姿は瓜二つになってゆく。そして不気味さと恐怖が最高潮に達した時、一夜の夢のような幻想が花開く。こういったリアルな気味悪さも好いのだが、「トモ子のバウムクーヘン」の怖さはラブクラフトの諸作品やホジスン『異次元を覗く家』などコズミックホラーに通じるものがあるし、シュールな「藁の夫」やだんだんと恐ろしさが増してくる「〈犬たち〉」など、まるで「奇妙な味」の作品集を読んでいるよう。読後感の悪さも含め、海外小説好きにはお薦めの一冊だと思う。

『黄泥街』残雪 白水uブックス
凄まじい本を読んだ。汚穢と邪推と虚言、空疎な会話の繰り返し。まるで等活地獄の屎泥処をみているかような悪夢のような描写がひたすら続く。読みやすくはあるが読むのにかなり力がいった。全く予想だにしなかった世界を見せられた。中国文学の力は恐ろしいとおもう。これは開高健が短篇「玉、砕ける」で書いた難問へのひとつの答えなのかも知れない。開高健の書いた難問とは「白か黒か。右か左か。有か無か。あれかこれか。どちらか一つを選べ。選ばなければ殺す。しかも沈黙していることはならぬといわれて、どちらも選びたくなかった場合、どういって切りぬけたらよいか」というもの。
「二つの椅子があってどちらかにすわるがいい。どちらにすわってもいいが、二つの椅子のあいだにたつことはならぬというわけである。しかも相手は二つの椅子があるとほのめかしてはいるけれど、はじめから一つの椅子にすわることしか期待していない気配であって、もう一つの椅子を選んだらとたんに『シャアパ{殺せ}!』、『ターパ{打て}!』、『タータオ{打倒}!』と叫びだすとわかっている。こんな場合にどちらの椅子にもすわらずに、しかも少くともその場だけは相手を満足させる返答をしてまぬがれるとしたら、どんな返答をしたらいいのだろうか。」
開高は作中である答えを示唆しているが、本書もまた剣ヶ峰を辿る別の解なのだという気がする。

『台湾生まれ 日本語育ち』温又柔 白水uブックス
台湾出身の両親のもとに生まれ、台湾人としての国籍を持ち3歳の時から日本で暮らしてきた著者が綴る、日本語と中国語と台湾語の間の半生。日本語を「国語」として育った著者の様々な思い。日本語と中国語と台湾語、あるいは外国人登録証明書とパスポートと台湾総統選挙通知表。ひとりの人にとって「国」とは何か。そして「外国人」とは。読み進むうち、大きなものは「国」の違いではなく、文化であり言葉の違いなのだと知る。好奇心の豊かさがこの本の面白さの源泉であり、品のよさが魅力である。台湾語と中国語と日本語の入り交じる森を軽やかに闊歩する著者は、自分にとって「母国語」とは、それらの言葉が入り交じる母親の「ママ語」であると誇らしげに語り、「母国」も「国語」も揺らぎの中に溶けてゆく。しみじみと面白い。哀しいわけではないが読んでいると切なくなる。沖縄の本を読んでいる感じに近いかも知れない。「マイノリティ」もしくは「帰属」の物語と言って良いかも。この著者には侵略や迫害からくる萎縮の心は無い。しかし思わぬところから突きつけられる「境界」による葛藤があり、突き詰めればそれは境界に住む全ての人にとっての、「自分」の物語となる。第64回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。

『旅人 開高健』高橋曻 つり人社
1977年から1988年まで、都合20回ほどの釣り旅行に同行して寝食を共にし、開高健を撮り続けたカメラマンが語る、記憶の中の釣り師・開高の姿。エピソード自体は『オーパ!』などの著作で憶えがあるが、異なる視点で語られるのが懐かしくもありまた面白い。写真の数々が懐かしいものから初めてみるものまでどれもきれいで、開高健のポートフォリ集としても好い。『オーパ、オーパ!!』については、開高本人によるもののほかに既に調理人・谷口博之による『開高健先生と、オーパ!旅の特別料理』があるが、本書を加えることでさらに三通りの視点から楽しめる。
強さを心にまとうのも女性への想いも食べることへの拘りも全部ひっくるめて、開高文学の基本は「ダンディズムと渇望」と思っているのだが、本書を読みながらその根っこはやはり子どもの頃の戦争体験なんだろうかなどと考えていた。そうしてみると、開高健が釣りにのめり込んだ理由もなんとなくわかる気がする。表現を替えながらも、釣り上げた瞬間に何者かを手にすることが出来るのだと何度も繰り返し書いていたから。「円環が閉じた」と。

岡本綺堂『修禅寺物語』 旺文社文庫
著者の戯曲の代表作である「修禅寺物語」の他、「佐々木高綱」「小栗栖(おぐるす)の長兵衛」「俳諧師」「新宿夜話」の計五つの作品を収める。いずれも新歌舞伎用に書き下ろされたものだ。綺堂作品では怪奇物が好きなのだが、話が巧いのでこういった人情話の類もなかなかどうして悪くない。文庫ではあるが戸板康二による解説や作品説明、坂東三津五郎による映画版の撮影秘話、円地文子による思い出の他、代表作の解題や年譜まで40ページ近くにのぼるおまけが付いたお得な一冊だった。収録作の中ではもちろん表題作はいいのだが、他にも意外と地味な感じの「俳諧師」が好きだったりする。また「新宿夜話」の第三場が、とてもいい映画のラストシーンみたいですごく好かった。岡本綺堂のリーダビリティは相変わらず大したものである。こういうのを読むと泉鏡花の戯曲なんかを読み返したくなってしまう。神無月がいい本で締めくくれてよかった。
最新記事
カテゴリ
プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

最新トラックバック
FC2カウンター
最新コメント
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR