2018年3月の読了本

3月は2月に続いて目標の10冊に達しなかった。新しい職場に移るための引き継ぎや子供の就職など環境変化も色々あったが、本があれば乗り切れるのである。っこれからも本をたくさん読んでいきたい。

『日々の暮し方』別役実 白水uブックス
氏の本はどれも大好きなのだが、本書も相変わらず切れ味抜群だった。ところで本書は「エッセイの小径」の一冊になっているのだが、日常生活にまつわる様々な出来事に対して「正しい◯◯の仕方」と称して屁理屈を捏ねあげるこの本は、はたしてエッセイと呼んで良いものなのだろうか。(こういう書き方をするところが、すでに文章に影響を受けている。/笑)
全45篇に亘る「正しい◯◯の仕方」の中から特に気に入ったものを列記すると、「退屈」「煙草の吸い方」「風邪のひき方」「待ちあわせ」「お別れ」「ものの捨て方」「禿げ方」「日記の書き方」「ジャンプ」、そして「正しい『あとがき』の書き方」といったところ。続けて読んでいると頭が軽くトリップしそうになるが、こればかりは読んでみないと判らない。少し具体例を挙げてみよう。たとえば「正しい待ちあわせの仕方」においては、「待つ」という行為は一生懸命すればするほど「意図の余りの積極性」と「行為の余りの消極性」のバランスが悪いのだと主張する。従って待つ場合は「ほとんど待たない」か「待ってないふりをする」のが正しいやり方なのだそうだ。そして最後に示されるのは秘伝「ゴドー待ち」。(=ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』ですね。)いやほんと面白い。他にも「つまり『白髪』というのは、『禿』へのためらいから生じた、一種の妥協案にほかならない。それならいっそのこと、『禿』の方が潔いということになるではないか」だとか、論理のアクロバットというか論理のサーカスというか、こういった流れが別役エッセイの真骨頂といえる。中毒性が強いので読むときはちょっとご注意を。

『銘度利加』十田撓子 思潮社
第68回H氏賞を受賞した著者の第一詩集。明晰だがシュールな情景が考え抜かれた言葉によって表現される。SF好きで山野浩一やラングドン・ジョーンズの小説に親しんだ人であれば懐かしいと思うかもしれない。あるいは文字で表されたマグリットのようにも。読んでいてとても気持ちが良かった。
以下、「パニヒダ」の中から少し抜粋する。

天体から音が聞こえてくる

水が星座を読むように
胸の奥からふつふつと湧き出てくる
それは音のかたちを持っていた

その音を説明するために
しかし私は
言葉を使わなくてはならない

あるいは頭に浮かんだ音や時間を、言葉でそのままの姿に切り取ったものではないかとも思う。
ツイッターでは「やばい」という感想が流れてきたのだが、読んでみてその意味がよくわかった。まさしくこれは妄想である。しかも密度が濃くて非常に強固な妄想。こんな文章を、黒塗りの柩の中に閉じ込めたような装丁で目の前に差し出されたら確かに「やばい」。

『百年泥』石井遊佳 新潮社
第158回芥川賞受賞作。インドのIT企業で社員向け日本語教室の講師をする女性。百年に一度の大洪水で打ち上げられた泥の中から、彼女の前に様々な過去の残滓が出現する。魔術的な街チェンナイにおいては、自身の幻想的な過去もまた現実に溶けるのだ。
芥川賞という冠が仮に無かったとしても、普通の幻想文学として読んでも充分に面白い。川上弘美氏の作品が好きな人なら、きっと口に合うような気がする。インドの人々の描写にはかなりのリアリティを感じたが、そこから地続きでいつの間にかあり得ない光景が出現するのは何とも不思議。南米文学の魔術的リアリズムにも通じる香気がある。

『夢のウラド』F・マクラウド/W・シャープ 国書刊行会
著者はスコットランド生まれの男性評伝作家で、19世紀に女性名でケルト色の濃い幻想小説を発表した人物。本書は二つの名前で発表された短篇小説を精選して全部で20篇収録しており、両者の異なる作風が一冊で楽しめるお得感がある。マクラウドのパートはケルト神話とキリスト信仰がベースの幻想小説がメインで、シャープの方は美しい風景とえげつない人間関係が同時に描かれ独特の味がある。どちらにも好きな作品は多く迷うところだが、前者では表題作と「島々の聖ブリージ」「最後の晩餐」、後者では「ジプシーのキリスト」「フレーケン・ベルグリオット」あたりが好みだろうか。どちらかといえばマクラウドの方が自分の趣味には合う感じがする。
夢の紡ぎ手マクラウドにより奏でられる旋律は、時には月光が照らす谷に静かに流れる哀しき調べであり、そしてまた時には、碧い海の飛沫の中に浮かぶ安らぎの歌でもある。ページをめくるたび、今はもう失われてしまった世界、二度とたどり着けない世界への扉が開かれてゆく感じがとても好い。ただ、「聖なる冒険」と「風と沈黙と愛」は物語というより著者の神秘思想の直接的な発露のようにも思える。
読み進めるほどにウイリアム・シャープとフィオナ・マクラウド名義の作品との違いが際立ってくるのは、訳者・中野善夫氏の編集が上手いのだろう。ダンセイニなら『ペガーナの神々』と『ウイスキー&ジョーキンズ』くらい違うのではないか。いや『二壜の調味料』のほうがいいかも知れない、などと考えるのもまた一興である。

『ドラコニアの夢』澁澤龍彦 角川文庫
アンソロジスト東雅夫氏が膨大な澁澤龍彦の文章な中から選んだ「澁澤入門編」とでも言うべきセレクション。貫くテーマは「澁澤×文豪」。創作から評論、エッセイに対談まで、文豪ストレイドッグスに因んだ視点で澁澤ワールドを一望できる好著である。解説で明かされている編集の意図も面白い。
『高丘親王航海記』から選ばれた幻想的な小編も好いが、例えば「卵から林檎まで」は「初めから終わりまで」の意味で使われていたとかいった、澁澤らしいペダンティックが出てくるとやはり嬉しくなる。(前菜には卵、デザートには林檎が欠くべからざるものだったからだそうだ。)そして澁澤が一等好きな鏡花作品は「草迷宮」だと知り、「ほほー」などと意味のない感心をするのも愉しい。三島由紀夫との対談も収録されていたり、全体的に良いセレクションだった。

『蕃東国年代記』西崎憲 創元推理文庫
幻想の彼方の国、蕃東国を舞台にした、とろりとした東洋幻想譚。時代も主人公も異なる五つの物語が展開するが、その間に挟まる幻想の地誌や民俗学的考察がさらに味わいを深くしている。物語の方も、よくあるような現実世界をちょっと捻って幻想味をつけたものではなく、古今東西の神話や説話のモチーフを細かく裁断して混ぜ合わせたとても贅沢なつくりであると思う。読むほどに心地よく酔いしれる、幸福な読書時間である。
作品の中で一番読み応えのあるのはやはり最後の「気獣と宝玉」だろう。「竹取物語」を彷彿とさせる求婚難題譚であり、今後へと続く余韻を残す見事な中篇となっている。元々西崎氏の作品は大好きで本書の作品もすべて好きなのだが、あえて気に入ったのを選ぶとすればこの「気獣と宝玉」のほか「海林にて」と「有明中将」あたりだろうか。

『島とクジラと女をめぐる断片』アントニオ・タブッキ 河出文庫
太平洋中央部に位置するポルトガル領・アソーレス諸島を旅した著者が、その島の捕鯨と難破と人々の記憶で作り上げる緩やかな集積。薄ぼんやりしつつピリッとした何ものかに惹かれる。ラストの「ピム港の女」が見事だ。作風は違えども、全体の印象は開高健に似ているものを感じた。たとえば寂寥感であるとか虚無感であるとか。島の人々が崇める神々についてのエピソードが面白かった。たとえば後悔と郷愁の神は老人の顔をした子供で、憎悪の神は痩せさらばえた小さな黄色い犬なのだそうだ。(C・プリーストの『夢幻諸島から』を思い出した。)
アソーレス諸島に伝わる伝統的な捕鯨に同行した際の回想では、捕鯨手たちの見事な技と鯨の断末魔の叫びを目の当たりにして、「まもなく消えてしまう種族」が同族を獲る姿が淡々と描写される。須賀敦子氏による訳も見事で、自分も含めてある種の人は思いきり嵌るタイプの作品だと思う。

『涙香迷宮』竹本健治 講談社文庫
明治時代のジャーナリスト/小説家/翻訳家である黒岩涙香が作ったとされる“いろは歌”に隠された暗号と、「連珠」(五目並べから発展した囲碁のバリエーション)をめぐる殺人事件が見事に融合した超絶技巧のミステリ。黒岩涙香やいろは歌に関する蘊蓄が延々と披露されていくのがとても好い。蘊蓄ミステリ大好きなのだ。こういう本を読むと、とてもしあわせな気持ちになれる。いや本当に素晴らしい。全く予備知識無しで読み始めたのだが、『囲碁殺人事件』『将棋殺人事件』『トランプ殺人事件』に続く天才棋士・牧場智久のシリーズだったのにも驚いた。懐かしい。読んでいるうちに、天才を描くのは天才にしか出来ないという言葉とともにトーマス・M・ディッシュの『キャンプ・コンセントレーション』が思い出されてきた。黒岩涙香が残した隠れ家に飾られていた四十八のいろは歌がとにかくすごくて、これだけでも本書を読む価値がある。本当によくこんなの考えついたものだと思う。殊能将之『黒い仏』をちょっと連想したりもした。
スポンサーサイト

2018年2月の読了本

『幻想秘湯巡り』南條竹則 惑星と口笛ブックス
作家であり翻訳家でもある著者が全国の鄙びた温泉を巡って旅の思い出をつづる。毎回その地に因んだ本が取り上げられ、時には幻想的なエピソードも挿入されたりと、一風変わった温泉ルポとなっている。飄々とした語り口がいかにも著者らしくて好ましい。取り上げられる作家・著述家は、幸田露伴に宮沢賢治、岡本綺堂に柳田國男、泉鏡花に鈴木大拙など。いずれも自分好みのいいチョイスだ。例えば岡本綺堂の『修禅寺物語』に因んで修禅寺温泉に行くとか、泉鏡花の「眉かくしの霊」や『山海評判記』に因んで山中温泉や和倉温泉の旅館に泊まったりする。ファンからしたら堪らない。

『その犬の歩むところ』ボストン・テラン 文春文庫
ギヴと名付けられた一匹の犬がいた。イラク戦争から心に傷を負って帰還した元海兵隊員ディーンはギヴと出逢い、彼の生涯を、その愛情と恐怖と誇りの物語を知ることになる。語り手の主人公が神の視点で語るところについては、まるで「見てきたような」過去の出来事の描写も含めて、若干の違和感を感じた。このあたりについては意見が分かれるかもしれない。しかし基本的には読んで気持ちのいい物語だ。ギヴが示す友愛と連帯、帰属と誇りの描写はきっと犬好きにはこたえられないだろう。これこそがアメリカの「善き部分」といっても良いのかも知れない。脳内BGMはRCサクセションの『山のふもとで犬と暮らしてる』だった。

『筒井康隆入門』佐々木敦 星海社新書
日本SF界の大御所・筒井康隆のデビュー作から最新作までの活動を「SF」「黒い笑い」「超虚構」「炎上」「GOD」の五つの時代に分けて俯瞰した作品ガイド。ガイドであると同時に「作家・筒井康隆論」にもなっていて、最終章では著者が提唱する新しい概念「パラフィクション」と筒井作品が見事にシンクロしてゆく。自分としては『脱走と追跡のサンバ』に始まり『虚人たち』以降へと続くメタフィクション系の作品群と、「家」や「遠い座敷」「ヨッパ谷への降下」などの幻想作品が好きで、なかでも『驚愕の曠野』を氏の最高傑作と思っていて、断筆から復活した後の筒井作品についてはさほど良い読者ではないのだが、本書を読んでいると他の作品も読み返したくなった。『ダンシング・ヴァニティ』とアラン・ロブ=グリエの『迷路のなかで』の方法論の比較など読んでみたい気がする。

『半分世界』石川宗生 東京創元社
創元SF短編賞を受賞した「吉田同名」の他、表題作を含む全4作を収録した中短編集。まさに「奇想」と呼ぶに相応しい作品ばかりで、しかもそのいずれもが楽々と世界文学のレベルに達している。「吉田同名」と「半分世界」は、まるでミルハウザーやブッツァーティを読んでいるような不思議な感覚が横溢しているし、「白黒ダービー小史」では架空のボールゲーム「白黒ダービー」を使って哲学や科学やスポーツのパロディ、そしてロミオとジュリエットばりのロマンスが語られ笑いが止まらない。円城塔にも通じるものがあるかも。いや楽しい。
しかし何と言っても圧巻はラストの中篇「バス停夜想曲、あるいはロッタリー999」だった。荒野の真ん中にあるなんの目印もない十字路、そこは999のバス路線が交差する停留所となっている。人々はそこでいつ来るとも知れぬ乗り継ぎバスを待ち続ける......。一つの地点を固定してそこを通り過ぎてゆく人々を描くのは、まるで逆パターンのチャトウィン『パタゴニア』のようだし、話が進むにつれ『百年の孤独』や『族長の秋』を思わせるような展開になってゆく。解説にもあるが、まさに南米文学の幻想性に通じるものがある。いやこれはすごいものを読んだ。

『ブッシュ・オブ・ゴースツ』エイモス・チュツオーラ ちくま文庫
アフリカの民話に着想を得て書かれた奇想天外な物語。「まだ善悪をわきまえないほど幼い」がゆえ、間違って幽鬼(ゴースツ)たちの棲むブッシュに入り込んでしまった子供が、様々な幽鬼に翻弄されつつ異世界を彷徨する。「悪臭幽鬼」や「強盗幽鬼」、「河幽鬼」に「こびと幽鬼」、「稲光を放つ眼の母親」など、次々登場する化け物たちはどれも魅力的。(なおここに出てくる色々な幽鬼はそのまま「部族」と考えていいようだ。)永遠に年をとらぬ彼ら幽鬼たちの棲むこの世界には、驚くことに死者が住まう町もあったりする。ブッシュとはすなわち黄泉比良坂でもあるのだ。
次々と出てくる幽鬼たちは、なんだか『猿飛佐助』とか『少年児雷也』といった杉浦茂の漫画を見ているようで、細かなエピソードの積み重ねも結構マンガチック。主人公の少年に知恵や徳など人に秀でたものがなく、淡々と流されてゆくのも面白いし、他の昔ばなしの仕掛けを裏側から種明かしされているような不思議な構成も含め、他では読んだことがないような不思議な読後感を得られる。この違和感は作者に特有のものなのだろうか、それともアフリカ民話に共通する特徴なのだろうか。

『なぜ世界は存在しないのか』マルクス・ガブリエル 講談社選書メチエ
従来の形而上学と構築主義を共に批判しつつ、無限に多様な「意味の場」の重なりとして存在を規定する「新しい実在論」を提言する。訳文もこなれていて口語調で非常に読みやすいし、なんだかよくできた青春小説を読み終えたような満足感がある。ベストセラーになったのも頷けるたいへん楽しい哲学書だった。ポストモダン思想以来のニヒリズムを克服する手段として、こういうやり方もあるのだと、ちょっと感心した。
本書の内容をとても乱暴に要約してしまうと、「全ての物の総体たる『世界』は存在しない、というテーゼを、唯物論や「構築主義」(一種の解釈主義)などの矛盾を指摘することで立証」しようとするものだ。では「世界」が存在しないとすれば何が存在するのか?著者は様々な事実と物による「対象領域」こそが「存在」するのだと主張する。おとぎ話の中の事物も宇宙に浮かぶ惑星も、市役所の事務仕事も全て「対象領域」として同一レベルで「存在」する。つまり基本単位はハイデガーを思わせるような「意味の場」なのだ。最初は少し頭を捻らなきゃいけないけど面白い。なお、本書は第4章が「自然科学の世界像」、第5章が「宗教の意味」、そして第6章が「芸術の意味」となっているのだが、これはきっとプラトンやカントの「真善美」に倣っているのだろう。先ほどのハイデガーといい、生物的な認知の違いによる「対象領域」の違いについてはユクスキュル「環世界」を持ち出したているところといい、色んな先達のいいところを集めている印象がある。ちなみに「世界」を否定した本書の最終結論はルイ・アームストロングの「What a Wonderful World」ではないかという気がする。

『お化けの愛し方』荒俣宏 ポプラ新書
幻想・怪奇小説に関する膨大な知識を駆使して、中国の志怪小説を振り出しに日本やアジアなど世界各地の怪談を考察し、生者と死者の彼岸を超えた恋愛のあり方について探る。まず中国からは『今古奇観』『三言』『情史類略』『剪灯新話』に『聊斎志異』。日本は『女人愛執恠異録』や『雨月物語』『牡丹灯籠』など。さらにはタイの『メー・ナーク』からドイツの『レノーレ』まで古今東西さまざまで取り上げられる作品は幅広く、最後にはスウェーデルボルグや平田篤胤まで登場するのには驚いた。中国の志怪小説や伝奇小説は挫折したエリートたちが社会制度に対してもった反骨精神から生まれたという話は面白い。
本書では考察対象を「恋愛怪談」にしぼっているので、『雨月物語』からは「浅茅が宿」のみしか言及されないなど作品に偏りはある。しかしそれ故に一貫性があってぐいぐい読ませる。特に『剪燈新話』の「牡丹燈記」から日本の『伽婢子』の『牡丹燈籠」や『雨月物語』の「浅茅が宿」、そしてタイの『プラカノーンのメー・ナーク』および映画『ナンナーク』と『愛しのゴースト』、そして三遊亭圓朝による『怪談牡丹燈籠』までの系譜を一気にたどる後半部は圧巻だった。(それにしても「恋愛怪談」の転機が怨霊とならぬ「怖くない怪談」の発明にあるというのは卓見だと思う。)
はたして生と死を超えた愛は叶うのだろうか?それは本書を読んで確かめていただきたい。

『猫は宇宙で丸くなる』シオドア・スタージョン、フリッツ・ライバー他 竹書房文庫
翻訳家/アンソロジストの中村融氏が編纂したネコSFアンソロジーで、珍しい作品や初訳の作品ばかりを十篇収録しているのが如何にも中村氏らしくて好ましい。特に好かったのはジェフリー・D・コイストラ「パフ」、デニウ・ダンヴァーズ「ベンジャミンの治癒」、ナンシー・スプリンガー「化身」、ジェイムズ・ホワイト「共謀者たち」あたりか。そしてなによりフリッツ・ライバーによる幻の名作「影の船」がいい。
猫はたとえ脇役であっても主役を食ってしまうほどの印象を残すので、「猫SF」とくれば物語の中心には必ず猫が居座ってしまい、最終的に「猫賛歌」みたいになってしまうのが魅力でもあり残念なところでもある。(喋らせると特にいい。)本書所載作では先述のベンジャミンやシュミッツ「チックタックとわたし」に出てくるチックタック、それにライバーの「影の船」のキムあたりがそうだし、同じくライバーでは「跳躍者の時空」のガミッチもかなりいい。いやあ愉しいアンソロジーだった。

『絶景本棚』本の雑誌編集部編 本の雑誌社
様々なジャンルの読書家の皆さん34名により作り上げられた本棚写真の饗宴。ただ本が並んでいるだけの写真なのに、いくら見てもなぜか見飽きない。持っている本に知らない本、欲しい本に要らない本。色んな本があるがどれも美しい。自分の家の「絶景」はどの辺りになるのか、本書を眺めては考えていた。

2018年1月の読了本

2018年初めての月は11冊だった。これを多いとみるか少ないとみるかは、これから読める量によって決まる。まあ何はともあれ今年も充実した「お気らく読書ライフ」を送りたいものであるね。

『美術愛好家の陳列室』ジョルジュ・ペレック 水声社
素封家のドイツ系アメリカ人にして美術蒐集家であったヘルマン・ラフケのコレクションの中から、『美術愛好家の陳列室』と名付けられた絵画を中心に様々な絵画について、その内容をただひたすら語り尽くす。絵の来歴などやたら細かいのだが、有名な画家や作品の間に全くの架空の画家が紛れ込んでいて、入れ子になった虚構が迷路のようだ。以前読んだミハル・アイヴァスの『黄金時代』に出てきた、註釈に註釈が付いて個々に掘り下げられた細部が突然結びついたりする不思議な本を思い出した。絵画を題材にして書かれたレムの『虚数』といってもいいか。
ラストで明かされる「真実」は物語としてはきわめて親切なのだが、それがこの本の読者にとって本当に「親切」なのか、それとも却って「不親切」なのかはわからない。いずれにせよこの本の作者が信頼できない語り手/騙り手であることは間違いないのだから。

『わたしの物語』セサル・アイラ 松籟社
セサル自身を語り手とする「自伝的」小説。歪んだ鏡に映った中勘助『銀の匙』とでも言うべきか、あるいは一人称による今村夏子『こちらあみ子』とでも言うべきか。不協和音と不穏が流れ続ける物語は衝撃的なラストへと帰着する。世の中にはこんな話もあるのかと驚いた。

『猪・鹿・狸』早川孝太郎 角川ソフィア文庫
著者は柳田國男や折口信夫らとの知遇もあった人物。寡聞にして知らなかったのだが、民俗学の古典的著作だそうだ。内容は愛知県は奥三河地方の山里で人々に聞いた動物との関わりをまとめたもの。原著は大正15年刊だが、もうすでにその頃には失われつつあった貴重な伝承が収録されていて読む者を飽きさせない。猪・鹿・狸はいずれも狩猟の対象であるため、どうしても狩りの話が多めだが、あちこちに話が脱線するので結果的に当時の風俗全般の貴重な記録になっている。中でも狸は人を化かすだけあって摩訶不思議な話が多くて楽しめた。さらに巻末には附録として「鳥の話」も収録されていて、なおのことお買い得感がある。(「鳥の話」は本編とは違い、著者が子どもの頃に出会った数々の鳥についての思い出話。憧憬は常に哀しみとともにあるが、それは失われてしまったものに対する想いだからなのだろうか。記憶のヴェールに包まれてこそ思い出は儚くも輝くのだ。)

『ホロホロチョウのよる』ミロコマチコ 四月と十月文庫
画家で絵本作家でもある著者が初めて書いたエッセイ集。子ども時代の思い出や今に至る活動の記録、折々の気持ちなどが綴られている。自由奔放な作風そのままの素直な文章を読んでいると、まるで心が晴れ渡ってくるようで気持ちがいい。こういう本との出会いは「ネットでぽちり」ではなく実際に本を眺めながら歩くことでしか得られないものではないか。読めてよかった。世界がまたひとつ広がった。

『屍人荘の殺人』今村昌弘 東京創元社
驚くような設定でクローズドサークルを構築した本格ミステリ。設定自体は評価(好み)が分かれるかもしれないが、ミステリとしてはいたってフェアなつくりをしており、突拍子もない設定を上手く使っていて好感が持てる。(『卍の殺人』や『ハサミ男』など良くできた作品を読んだ時と同じ感触を得た。)題名からしてもっと仰々しい感じかと思っていたのだが、出だしは《猫丸先輩シリーズ》みたいに軽くて読みやすい。このように良い味での「軽さ」がこの人の持ち味なのだとすれば、へんに読者受けを狙わず好きに書いてもらいたい気がする。きっと本書のように面白くなるはず。

『謎』パスカル・キニャール 水声社
キニャール・コレクションの一冊。その起源を民話や伝承まで遡る「物語(コント)」をモチーフに著書が綴った6つの作品集。冒頭の「失われた声」から、表現することの意味について自らの考えを述べたエッセイを付す「謎」まで、圧倒されて言葉がない。
特定の作り手がいない「物語(コント)」では語ることが即ち意味をなす。伝統的な意匠で語られる話を読み進むうち、物語ることそのものへと思いは広がってゆく。重層的で豊潤な読書体験はこの著者ならではの稀有なものだ。巻末の解説と訳者あとがきも、作品の文学的背景を解いてくれて有難い。特に気に入ったのは「失われた声」「舌の先まで出かかった名前」「死色の顔をした子ども」といったところだが、表題作の「謎」も悪くない。フィクションとエッセイの境が無くいきなり著者本人が顔を出すのは、幸田露伴の「幻談」のようでもある。
ちなみにキニャールは自分の頭の中でヴァーノン・リーやイサク・ディネーセン、石川淳やレオ・ペルッツなどと凡そ同じひきだしにしまわれている感じがする。自分でもどういうくくりなのかよく分からないが。

『虚ろなる十月の夜に』ロジャー・ゼラズニイ 竹書房文庫
ゼラズニイが怪奇小説や映画に出てくる怪物たちを題材にして書き上げた最後の単独長篇作。物語が進むにつれて徐々に明らかになってゆく設定、洒落た会話、そしてあっけなく終わるラストなど、どこをとってもまごう事なきゼラズニイ作品だった。
語り手は「ジャック」の相棒となるスナッフという名の犬。10月最後の日に行われる、ある「儀式」へ参加する者を助ける使い魔だ。他にも猫やフクロウ、蛇など色々な動物達が、儀式への参加者のパートナーとして互いに牽制したり協力したりを繰り返す。本書は同じ作者の《真世界シリーズ》やムアコックの《永遠のチャンピオンシリーズ》がSFであるのと同じレベルでSFといえる。(解りにくい喩えだがご勘弁/笑) まあファンタジーと言おうが怪奇小説と言おうが、面白ければどんなレッテルを貼ろうが別に構わないのだけれど。
本書を読んでつくづく思ったのだが、ゼラズニイはスタイルの人だ。何を書くか、ではなくてどう書くか。漫画家なら石ノ森章太郎みたいな感じだと思う。(思えば石ノ森氏のコマ割りは天才的であった。)この本に出てくる「使い魔」はどれも魅力的なのだが、二匹の使い魔が水晶の宮殿を訪れる場面がとても好かった。ゼラズニイの本では、こういった物語の本筋には直接関係のない細部が好きだったりする。

『悠々として急げ』開高健 角川文庫
強がりで孤独な文学者が学者や企業家など11名のユニークな面々と繰り広げる放談集。残念だったのは自分が知っているのがグラフィックデザイナー福田繁雄氏だけだったということ。他の人もきっと当時は有名だったのだろう。言葉の端々に1977年という時代を感じた。
少し中身に触れると、例えば「人を食った人たち」という対談では、中国を中心に「人を喰った」エピソードが次から次へと紹介される。開高健は艶談とかスカトロとかこういう話になると生き生きして大変面白い。食人の理由は、飢餓もしくは相手への憎しみ、あるいは呪術的な意味で相手の力を自らに取り込みたいからが殆どだが、中国では楽しみのために食人をしたと歴史書に書いてあるとのこと。(でもまあヨーロッパでもジル・ド・レやエリザベート・バートリなどがいるから残酷さではさほど変わるものではない。)
この人は対談集が多い印象があるが、対談のイメージが強い作家・文化人では、そのあとは立花隆、今は佐藤優あたりが思い浮かぶ。本書を今読むと、言葉の端々に「男女」の性や役割に囚われすぎる発言があるのだが、おそらくこれは時代背景だけではないだろう。今この本を読んで感じるのは、氏がいかにステロタイプな性的役割や価値観に囚われていたかということ。感性豊かな人だけに、無意識にせよ随分と生きにくかったのではないかと思う。(『輝ける闇』や『夏の間』にもそれが見え隠れする。)男とはどう生きるべきか、女はどうあるべきか。強固にも見えるそういった社会的規範もまた時代とともに変化していくものなのだ。開高健が開高健である所以である。(同様に立花は「知」、佐藤は「倫理」への拘りがみえると思う。)おもえばその昔は、文化人が「時の人」と対談を行う様子が中間小説誌や大衆誌などによく掲載されていたような気がする。ちょうど今ぐらいの時季だと「新春対談」とか銘打ったりして。そんな古い対談をこうして今読んでみると、人権意識の欠如やパワハラ、セクハラ的な発言が目につくことがままある。文学的には価値が低そうな、いわゆる埋め草的な対談を集めた古い対談集を読んでいると、おそらく今後も文庫や電子書籍で復刊される可能性は少ないのではないかと思える。逆に言えば、資料的な価値を見出せる人、あるいはその時代の空気を読むことに愉しみを感じる人は、昔の対談集を見つけたら買っておいて損はないのかも知れない。昔は「文化人」と呼ばれる人さえ、平気でこんな発言をしていたのかと、驚けることうけあいだ。対談は小説以上に時事的な意味合いが強いものなのだ。

『魔法にかかった男』ディーノ・ブッッァーティ 東宣出版
独特の魅力を持つ作家の二十の作品を集めたオリジナル集。信仰と罪、死と悲しみ、幻想と恐怖が入り交じる。表題作の他には「チェーヴェレ」「リゴレット」「エレブス自動車整備工場」「勝利」などが特に気に入った。素晴らしい。畳み掛けるような不条理が好い。同じ著者の『神を見た犬』を思い出す。ラストの作品を除いて殆どが短篇というよりショートショートに近い長さだが、ことごとく切れ味が鋭い。不安というより不気味、幻想的でありながら茫洋ではなくリアル。そしてその上で繰り広げられる「恐れ」が面白い。

『悪について』エーリッヒ・フロム ちくま学芸文庫
新フロイト派の流れをくむ思想家により、ナチスに代表される「悪」がいかにして人の心の中に生まれるかが考察される。人はいかにして、生きることの喜びを否定し自己撞着と退行に陥ることから「自由」になれるのか。誠実な答がある。今の日本に蔓延する病は無知とルサンチマンではないかという気がする。今読めて良かったと心から思う。

『四角い卵』サキ 白水uブックス
『クローヴィス物語』『けだものと超けだもの』『平和の玩具』と続いた、この叢書におけるサキの作品集の最後となる一冊。初期作品を含む落ち穂拾い的な面もあって、「クローヴィスもの」など定番のユニーク小説ばかりでなく政治風刺など珍しいものまで収録され、バラエティにとんだ作品集になっている。全体の雰囲気としては諧謔や滑稽というよりは皮肉と風刺で、スパイスが結構効いている。巻末のJ.W.ランバートによる評伝が素晴らしい。サキを「はぐれヴィクトリア時代人」と称して、人となりをT.E.ロレンスに比しているところなど、なんかもう、すごく分かる気がする。特に気に入った話を選ぶとするなら寓話である「聖者と小鬼」「エデンの園」あたりだろうか。
ちなみに「毒作家」といえばサキの他にはビアス、筒井康隆、ゴーリーなどが頭に浮かぶ。ストレスが溜まってるとこういった作家の「毒」がよく効くのだが「毒をもって毒を制す」という感じなのだろうか。(なおこの場合の「毒」とは作風に冷笑を含んでいるものを指す。ヴォネガットは毒というよりは「漢方」だし、オーウェルは笑いが無いので外した。スウィフトやバージェスは「毒作家」に入れて良いかも知れない。)

My Choice/2017年印象に残った本

昨年は「2017年こそ落ち着いて好きな本が読める年でありたい」と書いたのだが、結局のところ今年もなんだか慌ただしくばたばたしているうちに一年が終わってしまった気がする。それでも123冊読んだので98冊だった昨年よりはましだが。
では毎年恒例としているように、今年読んだ本の中から「印象に残った本」を挙げてみよう。小説を追いかけるのが精いっぱいで学術系の本が読めていないのがつらい。

<新刊部門> ―今年出版された本―
『増補 モスクが語るイスラム史』羽田正 ちくま学芸文庫
東はイランから西はスペインまでを対象に、7〜18世紀の大モスクの様式を通じてイスラム世界の変遷を紹介した本。イスラムの歴史を建築で繙くのはこれまで知らなかった視点で大変に面白く読めた。新たに追加された補章も大変良い。22年前に中公新書から出て品切れとなったままの本を、こうして復刊してくれるのはとても有難い。(すぐに学芸文庫自体が品切れになってしまうのが難点だが。/笑)著者は本書について「もう古い本なので今更」と言いつつ新たに補章を追加してくれていて、その後出た関連本を紹介してくれているのも好感が持てる。しかしなかなかどうして、補章を除いても今読んで充分に面白い内容だと思う。

『夫のちんぽが入らない』こだま 扶桑社
今話題の本。衝撃的な題名もさることながら、中身もなかなかに重い。複雑な家庭関係に育った一人の女性がやがて小学校の教師となり、心と身体を病んで苦しみつつも夫との「平穏な」生活を掴むまでの壮絶な記で、以前読んだ卯月妙子氏の漫画『人間仮免中』を思い出した。これはすごい。

『黄色い雨』フリオ・リャマサーレス 河出文庫
孤独と老いと哀切、そして崩壊の予兆に満ちた物語。黄色とは腐敗の色。打ち捨てられた村と一人残った老人の記憶を静かに覆い隠してゆく色だ。黄色い雨とは、はらはらと舞い散るポプラの枯葉ではあるのだが、それと同時に苦しみや別離や苦い記憶そのものであったりもするのだろう。優しく雨ぞ降りしきる。全てが忘却の彼方に消え去るまで。滅びゆくことが避けられぬアイニェーリェ村はまるで『百年の孤独』のマコンドのようにも思えたりするのだが、実はマコンドなのは村ではなく語り手である「私」自身。全てが崩れ去り塵と化すことが不可避であるとき、そこに現れるのは息子が家を出るとき死に絶えた自分の心であり、そして出会うのは内宇宙なのだ。全篇を通じて暗く救いのない話なのだが、読んでいると様々なものが頭を駆け巡り飽きさせない。語り手である老人の迷妄が進むにつれて死者たちが甦ってくるあたりは、いわゆる典型的な魔術的リアリズムでもあるのだが、本書では死者をみて普通に怖がっているのがおもしろい。彼と最後まで運命を共にする雌犬も一緒になって怯えているので現実の出来事であるともとれる。(ところでストーリーとは関係ないのだが、老人が飼っている「雌犬」が、名前すら付けてもらえてないのに、性別は明確なのが面白い。スペイン語だからだろうか。)文庫版のボーナストラックとして本編のほかにグラビンスキの『動きの悪魔』を思わせる「遮断機のない踏切」と、「不滅の小説」という二つの掌編も収録されたお得な一冊だった。

『世界のすべての朝は』パスカル・キニャール 伽鹿舎
17世紀フランスに実在した音楽家サント・コロンブの生涯を静かな筆致で描く。彼の二人の娘と弟子マラン・マレ、亡き妻との邂逅を通じて示されるのは、言葉で語りえぬものと高みへと至る想い。(などと言うとそれもまた違うのであるが。)イサク・ディネセン(カレン・ブリクセン)の諸作にも通じる捉えどころのなさと深みがあるが、読んでいる間はただただ心地よい。読んだあと、つい何かを語りたくなってくる作品だが、本作についてはあれこれ言わぬのが良さそうだ。(本書は長らく絶版になっていたのを九州の出版社が新たな装丁で復刊したもの。こういう本が復刊されるのはとてもありがたい。)

『ハイン 地の果ての祭典』アン・チャップマン 新評論
20世紀初頭まで南米パタゴニアに暮した原住民族セルクナム族。彼らが伝えていた男子の成人儀式「ハイン」の様子とその宇宙観について、人類学者でもあった神父グシンデの貴重な写真と記録を基にして著者がまとめた本。
儀式の中心となるのは成人男性が演じる様々な精霊たち。精霊は天を表すものと地から湧き出るものの二種類に分かれており、いずれも赤・白・黒の三色に塗り分けられた身体と奇怪な仮面で表現される。精霊の異様な姿と不思議な儀式の描写に魅了される。白人の入植と麻疹の流行で彼らの社会は今はもう崩壊してしまっており、儀式でもあり演劇でもあったハインの記録をこうして残す事ができたのは良かった。
彼らの社会は極端な男性権力型で、それを正当化するために伝えられていた神話がまたすごい。遥かな昔、彼らの社会は今とは逆で女性シャーマン「月」が支配する極端な母権制であり男たちが革命により勝ち取ったとされる。(まるで映画『猿の惑星』をみているようだ。)男たちの一斉蜂起で女の世界が一夜にして滅び、後に残ったのは秘密結社により受け継がれるミソジニーと男性支配の構図。まあこのような文化が今に受け継がれなくて良かったのかもしれないが、本で読んでいる分には大変に興味深い。異様な精霊たちの姿と相まってまるで物語を読んでいるような感覚に陥いってゆく。いろんな意味ですごい。全編に流れる雰囲気は何となく『悲しき熱帯』を思わせたが、著者がレヴィ=ストロースの薫陶を受けた事とは多分関係ないだろう。文化人類学好きなら絶対愉しめる一冊だ。

『バッタを倒しにアフリカへ』前野ウルド浩太郎 光文社新書
ファーブルに憧れて昆虫の研究者となった著者が単身モーリタニアへと乗り込み、サバクトビバッタの研究に没頭した3年間の思い出を綴った笑いあり涙ありの熱血ノンフィクション。砂漠、異文化、昆虫ときたら面白くないわけがない。フィールドワークの楽しさに満ちた一冊となっている。
また同時に、将来がみえず不安に満ちたポスドクが徒手空拳で異国の地に乗り込み、現地の人々と一緒になって逆境を跳ね返して夢を叶えるという、ある種の“ビルドゥングスロマン”にもなっている。つらい生活を楽しみ、"無収入"になってもその深刻でも明るさを忘れない姿がとても好い。昆虫版の『ルワンダ中央銀行総裁日記』とでも言えば雰囲気が伝わるだろうか。(トーンはもっと能天気だが/笑。なにしろ1ページ目からしてすでに面白い。バッタの研究者なのにバッタアレルギーで、バッタに触られるとじんましんが出るとか。)
専門分野のサバクトビバッタ以外にもゴミムシダマシやマメハンミョウ、毒バッタなど面白い生態の昆虫が出てくるので、虫の写真さえ大丈夫だったらノンフィクション好きの人には超おすすめの一冊だ。

『ヒドゥン・オーサーズ』西崎憲/編 惑星と口笛ブックス
ついにでた電子書籍オリジナルの叢書〈覚醒と口笛ブックス〉の第一弾。同じく西崎氏の編集で書肆侃侃房から出ている文芸誌『たべるのがおそい』と同様に、小説だけでなく詩や短歌などジャンルミックスの作品集となっていのだが、こちらの方がより「尖がって」いるような気がする。たとえば冒頭の作品は、我々の住む世界とは全く繋がりのない(因果律も異なる)世界でまったく異質な人々が紡ぐ物語。もしも我々自身と共通するものがあるとすれば、それは 唯一彼らが感じる情動ぐらいなものなのだ。こんな調子で最初から最後まで、読んだことがないような作品が続く。従来の商業枠には収まりきれない作品を収録したショーケース的作品集といえるだろう。
特に好みだった作品は、大滝瓶太「二十一世紀の作者不明」、斎藤見咲子「マジのきらめき」、大原鮎美「月光庭園」、野村日魚子「夜はともだちビスケット」、ノリ・ケンゾウ「お昼時、睡眠薬」、伴名練「聖戦譜」、岡田幸生「『無伴奏』抄」、深沢レナ「芋虫・病室・空気猿」、深堀骨「人喰い身の上相談」あたりだろうか。

『花の命はノー・フューチャー』ブレイディみかこ ちくま文庫
イギリスの港町ブライトンで労働者階級の連合いと暮らす著者による強くて痛快なエッセイ。氏が語るのは「逆境」が世代を越えて受け継がれるクラスタで暮らすということ。センチメンタルな気持ちなど吹き飛ばして生きる姿はパンク。読んでいて気持ちがいい。
「『そんなに未来に希望が持てないのなら、生きる甲斐がないじゃないか』と言われることがよくある」
「最後には各人が自業自得の十字架にかかって惨死するだけの人生」
「それでも(中略)生きようとするからこそ、人間の生には意味がある。そういう意味だったら、わたしもまだ信じられる気がする」
それにしてもシモーヌ・ド・ボーヴォワールに雨宮まみ、こだまに笙野頼子、そしてチママンダ・ンゴズィ・アディーチェにブレイディみかこと、読むと無性に何かを語りたくなる本の著者がきまって女性というのは、きっと何か意味があるという気がする。

《アイアマンガー三部作》『堆塵館』『穢れの町』『肺都』エドワード・ケアリー 東京創元社
ロンドンの郊外に広がるゴミの山、。そしてその彼方にそびえ建つのはアイアマンガー一族の巨大な屋敷「堆塵館」。あらゆるごみを統べるアイアマンガーの血に秘められた秘密は、赤毛の少女ルーシーが館を訪れた時に大きなうねりとなって動き出す……。久しぶりに「物語」の面白さを堪能できた気がする。登場人物たちがことごとくどこかおかしいところとか、物の声が聞こえる主人公クロッドだとか、なんだかもう堪らない。著者による挿し絵も味があってとても好い。少年向けに書かれた物語らしいが、こういうのを読みたい大人だって多いんじゃないか。というより物語を読むわくわくを忘れた大人にこそ読んでもらいたいと思う。一巻『堆塵館』を読んだところ前評判どおりの大傑作で、「えっ、ここで終わるの?!」というラストも前評判通り(笑)。
二作目の『穢れの町』では舞台が堆塵館から「穢れの町」ことロンドンはフォーリッチンガム区へと移り、クロッドとルーシーの奇想天外な冒険が続いてゆく。そして最終巻『肺都』ではヴィクトリア朝のイギリスを舞台にアイアマンガー一族とロンドンの存亡を賭けた闘いがいよいよ幕を開ける。翻弄されるクロッドとルーシーの二人の運命もさることながら、何処に着地するかまったく予想もつかないジェットコースターノベル《アイアマンガー三部作》の完結編として見事な締め括りだった。
どことなくシェイクスピアの四大悲劇『リア王』『マクベス』『ハムレット』『ロミオとジュリエット』を思わせるようなエッセンスが散りばめられているようにも見える。人を信用しない老いた王の乱心が国を滅ぼすとか、森ならぬ(ゴミの)山が動くとか、あるいは二転三転する運命が翻弄する恋人たちの悲劇だとか、なんとなくモチーフが似ているような気がしてならない。あと、とても上手いと思ったのが人名や地名といった「名前」の言いかえ。最初は単なる言葉遊びぐらいに思ったのだが、LONDONをわざとLUNGDONと読み違えるくだりで連想したのは『稲生物怪録(いのうもののけろく)』のことだった。豪傑・稲生平太郎と妖怪のおよそ1か月におよぶ壮絶な戦いを描いた物語『稲生物怪録』の最後には、とうとう妖怪の親玉である山本五郎左衛門が現れて名乗りを上げるのだが、そのときに「ヤマモト」ではなく「サンモト」と名乗るのだ。わざと音読みにして発音を違うものにしてしまうのは、読み替えることで違う意味を持たせためでありまさしく呪術の一種に他ならない。そう思ったとき、かつてアイアマンガー一族は自分たちの生き残りを賭けてゴミの王となる道を自ら選んだであろうことを確信し、だからこそ不浄やゴミに関して人外の力を持つことが出来たのだろうと納得した。そしてまた、新しい時代の二人の若者がその歴史を変えていくというのが素晴らしい。今年読んだ中でも出色の出来。

『主の変容病院・挑発』スタニスワフ・レム 国書刊行会
ナチス占領時代のポーランドで精神病院に勤務する若い医師を主人公とした初期作品と、架空の書評やエッセイとも一読判別がつかないメタフィクショナルな四篇を収録。哲学・倫理的な重いテーマをめぐる思索として、全てが響きあう。関口時正氏による翻訳は細部にまで配慮が行き届いているし、訳者後記での言葉の解釈に関する逡巡や本国での出版事情もとても面白い。また沼野充義氏による解説「レムは一人でそのすべてである」もレム文学の大まかな俯瞰や最晩年のレムの様子が描写されていて胸熱く大満足の一冊だった。まさにレク・コレクションの最後を飾るにふさわしい作品だったと思う。
後半に収録されたメタフィクション『挑発』は、ナチスによるユダヤ人大虐殺をはじめ歴史上の虐殺を考察した架空の本『ジェノサイド』の書評で幕を開けるのだが、これがとにかくすごい。
「神を殺すことができないドイツ人は、神に《選ばれたる民》を殺してその地位を奪い、血なまぐさいin effigie〔肖像による〕退位の式の後、自らを歴史によって選ばれたる者と宣言しようとしたのだ。」 とか、
あるいは
「殺戮は《反・贖罪》行為であり、それによってドイツ人は《神との契約》から解放されたのだった。しかしその解放は完全なものであるべきで、つまりそれが神の保護下から反対の徴の保護下に移ることと等しくなってはならないのだった。殺戮は悪魔的な悪に捧げる行為となってはならず(後略)」などなど。
やはりレムはすごい……。
続く「『人類の一分間』は地球上の全人類が一分間の間にしていることを統計学的に示した架空の本で、『ジェノサイド』もこちらも、本物を是非読んでみたくなる。出来ることなら第二期レム・コレクションが開始されて、未訳の長篇『地には平和を』や『技術大全』などが訳されると嬉しいのだが。

『火の書』グラビンスキ 国書刊行会
ポーランドで平行進化を遂げた唯一無二の幻想作家による作品集の第3弾。(レムといいグラビンスキといい、ポーランド作家おそるべしである。)『動きの悪魔』では鉄道、『狂気の巡礼』では心理をテーマとした著者が、本作では火に関する幻想と神秘をテーマに物語を綴っている。(さらに自作に関するエッセイとインタビューも収録されていてお買い得。)収録作で特に気に入ったのは「白いメガネザル」「ゲブルたち」「有毒ガス」あたりの作品。冒頭の「赤いマグダ」も切れ味鋭く、珍しく読後感爽やかな「花火師」も愉しい。またエッセイ「私の仕事場から」も『動きの悪魔』の面白さを増してくれる。いつも良いお仕事をしてくださる芝田文乃氏には感謝したい。既刊本の売れ行きが良くて『サラマンドラ』や『バフォメットの影』『チャンダウラ王』といった長篇作品も訳されるといいが。

<既刊部門> ―古本・絶版とりまぜて今年自分が読んだ本―
『分裂病の少女の手記』M・セシュエー みすず書房
複雑な家庭環境に育ち18歳で統合失調症となった女性について克明に記録した本。前半には発症から心理療法による快復までの過程を内面から描写した当人の手記を、そして後半には彼女の主治医であった著者セシュエーによる解釈を収録する。解釈の方は今の目から見るといささか古い感じがしないでもないが、何と言っても手記が圧巻だ。後半のセシュエーによる解釈に「外部の情景と彼女の内的世界との間には限界がなくなっている。自我はもはや独立した主体ではなく、外部の対象にとけ込んでしまっている」とあるが、まさしくこれはJ・G・バラードが描いた内宇宙そのものに違いない。(但しバラードの場合はその状態をある種のユートピアとして描いているわけだが。)また日常生活に突然異様な感覚が侵入してくる恐怖は、実話怪談の精神病理や或いはアンナ・カヴァンの『アサイラム・ピース』や『ジュリアとバスーカ』といった作品にも通じるものがあるだろう。
少女の快復は口の中に一片の林檎を頬張ったときから始まる。それまで彼女にとってなんら意味を成さなかった世界の全てが再び「現実」へと回帰するシーンは読んでいて感動すら覚える。「これこそはそれよ、これこそはそれよ」「これこそはそれ、あの現実よ」というのは、まさしく心からの叫びに違いない。(実際には快復の兆しを見せてからも、守られているという安心感と見捨てられたという絶望感から一進一退を繰り返し、寛解にこぎつけるにはまだ何年もかかるわけだが。)最後になるが、付録にある「ルネの生活歴及び病歴」は短文ながら、少女のこれまで過ごして来た家庭環境が判ってつらい。こういう人は健康になって幸せにならなければいけないと思うよ。いやほんと。

『少年十字軍』マルセル・シュウォッブ 王国社
シュウォッブは一部に熱狂的なファンを持つ作家。本書は彼の『黄金仮面の王』『二重の心』という二つの初期作品から厳選して訳出した短篇集で、ポーやダンセイニ、ヴァーノン・リーなどに共通する幻想と衒学と愉しさに溢れている。本書は家で読んだ際のシチュエーションも良くて、休日にパスタとワインの昼食を摂ったあとに、午後の風に吹かれながらリクライニングチェアで本書を読むのはまさに至福の時間だった。収録作で特に好みだったのは「黄金仮面の王」「大地炎上」「リリス」「少年十字軍」。ちなみに訳者の多田智満子氏はアルトー『ヘリオガバルス』やユルスナール『東方綺譚』など手がけられていて、格調高い訳文も好かった。

『土を喰う日々』水上勉 新潮文庫
京都の禅寺の小僧時代に鍛えた腕をもって軽井沢の地で実践する精進料理の数々。一年に亘り旬を喰らい土を食む日々を綴った名随筆。冬の芋や大根と乾物、春の山菜や筍、初夏の梅に夏の茄子や豆腐、秋の松茸やしめじに果実酒の数々と栗。これぞ喜びである。本書における著者の食に対する思いは、道元が「典座教訓」でのべた次の言葉をもって足りるだろう。
「一本の野菜を手にとりあげて仏とし、丈六尺の仏をまねいて一本の野菜となせ。これが仏の神通力である」(注:意訳)
一粒の米にも感謝の気持ちを忘れぬその姿勢は、まさに禅そのものだ。鈴木大拙の『禅学入門』にもそのまま通じるものがある。こんな面白い本とは知らず、今まで何となく敬遠していてもったいなかった。

2017年12月の読了本

『中国文学の愉しき世界』井波律子 岩波現代文庫
著者は中国文学の研究者で、『論語』や『正史 三国志』、『三国志演義』『水滸伝』などの翻訳でも知られる方。本書は90年代後半からの6年ほどの間に書かれた文章を集めた肩の凝らないエッセイ集だ。中身は四部に分かれてバラエティに富んでいる。第1部は「歴史を彩る奇人・達人」と題して『世説新語(せせつしんご)』を中心に「竹林の七賢人」や「呉中の四才」など激動の時代を生きた文人や奇人達のエピソードを紹介する。第2部の「幻想と夢の物語宇宙」では『唐宋伝奇集』から『山海経』、『列仙伝』『神仙伝』『捜神記』から『聊斎志異』まで、また本邦からは上田秋成『雨月物語』はもちろん泉鏡花「眉かくしの霊」や幸田露伴「観画談」にいたるまで様々な奇書や怪異譚の世界を解説していて、個人的には本書の中で一番好きなパートとなっている。
なお本書によれば、井波氏は妖怪研究で知られる小松和彦氏の同僚で、「怪異・怪談文化の研究」の会にもメンバーとして参加している方とのこと。なるほど、道理で話の好みが一致するわけだ。第3部は「中国文化プロムナード」として様々なテーマの気楽なエッセイを20ほど収録し、最後の第4部「本と人との出会い ―わたしの中国文学遍歴」には子供時代の思い出に始まって、吉川幸次郎氏および桑原武夫氏という両恩師との思い出や、梅原猛氏、高橋和巳氏、鶴見俊輔氏との交流を綴った私的な文章を集めてある。読んでいくうち中国文学の奥深さと面白さが伝わってきて、俄然興味が湧いてきた。

『人魚の石』田辺青蛙 徳間書店
うらぶれた山寺を継ごうと故郷に帰ってきた青年。寺に住みつく人魚と出会った日から、彼の周りには奇妙な事ばかり起こり始める。それは山に伝わる不思議な石を巡る物語の始まりでもあった……。幻想と恐怖に彩られた、他に類を見ないあやかしの連作短編集であった。著者の作品を読んだのは『あめだま』に続いて二作目なのだが、掌編集だった前作とは違い今回は続き物。はたしてどんな感じだろうかと思いながら読んでいったのだが、終わってみればいかにもこの著者らしいものであった。作中で示された謎は明確な形で解決するわけもなく、例えば『ドグラ・マグラ』のような読後感でもって静かに閉じる。この手の本は一度ハマると抜けがたいのだ。

『遊仙窟』張文成 岩波文庫
唐代伝奇小説の一篇。旅の使命を帯びた男が神仙の郷に迷い込み、女仙の歓待を受け一夜の契りを交わして別れる迄を描く。詩の応酬による恋の鞘当てがとても愉しい。詩の内容はたわいもないが、その美しさはまた別。漢詩は対訳付きだがヨーロッパの詩とちがって凡そ意味が解るので、言葉選びの美しさを直接味わうことができる。漢字文化圏に生まれてよかった。

『極楽鳥とカタツムリ』澁澤龍彦 河出文庫
著者が遺した膨大な文章の中から、哺乳類や鳥類、魚類に貝、はては昆虫から紙魚まで、ありとあらゆる種類の生物について書かれたエッセイや創作ばかりを抜き出して編集した、文庫オリジナルの一冊。儒艮(じゅごん)に獏(ばく)、象に犀、ドードーに極楽鳥など次々と出てきて愉しい。文章自体は『高丘親王航海記』『私のプリニウス』や『幻想博物誌』『ドラゴニア綺譚集』など家にある本で読めるものが大半なのだが、これだけ同一テーマが揃うとなかなか壮観である。内容自体はとっつきやすいので、これから澁澤龍彦を読む人にとっては恰好の入門書になるのではなかろうか。本書を読んでいるうち、自分にニセ科学への耐性ができたのは、もしかしたら氏の著作によってプリニウスをはじめとする昔の科学者や博物学者の出鱈目に馴染んできたからではなかろうか、などと考えてみたりした。

『水から水まで』北野勇作(惑星と口笛ブックス)
西崎憲氏が立ち上げた電子書籍のレーベル〈惑星と口笛ブックス〉の一冊。とは言っても普通の長篇や短篇集などではなく、電子書籍のメリットを最大限に活かして、50ページほどの短い作品を〈シングルカット〉と銘打って販売したもの。(もちろん本レーベルのオリジナル。)中には数ページあまりの掌篇が九つ収録されていて、いずれも著者の作品の特徴である死の気配や寂しさと相俟ったユーモアがたまらない。構成は「曲」「穴」「釜」「波」「蛇」「星」「石」という七つのテーマの作品を、冒頭と最後にある「水」という同じ題名の二作品で挟み込むもので、どの作品も極限まで絞り込んだ言葉が純化され結晶のように突き刺さってくる。氏の作品はどこがどういいと具体的に説明しづらいのだが、それがまたいいところでもある。
とりわけ好きなのは「曲」「波」と最後の「水」だがまるで落語のような「蛇」も好かった。夏目漱石の『夢十夜』や内田百閒の『冥土・旅順入城式』、あるいは稲垣足穂の『一千一秒物語』などが好きな人にはきっと合うのではないだろうか。北野氏はどちらかというと長篇より短篇向きの作風なのではないかという気がする。

『ふゆのほん』西崎憲(惑星と口笛ブックス)
「水から水まで」と同じく〈シングルカット〉のシリーズの短篇。最初のうちはどんな話か呑み込むのに時間がかかったが、作中で「参加型読書I」のイベントが始まってからは一気読みしてしまった。(これはもしかして西崎氏が以前「やりたい」と仰っていたイベントではなかろうか。)
うまく表現出来なのだが、たとえば冬の日差しのなかで窓際にみえたチンダル現象だとか、あるいは机の上に薄く積もったほこりが僅かな風で描きだす模様だとか、そんな遠くを見ていては見逃してしまう光景にふと気づいた時の感覚に似ていると思う。氏の著作の中では『飛行士と東京の雨の森』も同じタイプで、ファンタジーや奇妙な話も好きなのだが、こういったタイプのものは心に届いてくるからとりわけ好きだ。気配を愉しむ小説というか、じっと見つめると見えなくなってしまうもの、触ると変わってしまうものについて書かれたような本といっても良いかもしれない。毀れないようにそーっと読む、そんな作品だ。
本作を読んで思ったのだが、「AはBである/BはCである/だからAはCである」 みたいな本ではなくて、 「AはBである/DはEである/FはGである (=実はCについて書かれている)」 みたいな本をもっと読んでみたい。( ウルフ『ピース』やクロウリー『リトル、ビッグ』などはそういう本なのではないかと思っている。ちなみにレムの『天の声』や『ソラリス』も同じ類の本だとは思うのだが、レムの場合、真ん中には「C」は無くて、ただ空洞があるだけのような気がする。もしくは有るか無いかすら判らないか。)

『古本で見る昭和の生活』岡崎武志 ちくま文庫
明治から昭和、そして一部平成までのいわゆる「雑本」を俎上に載せて、50~60歳あたりの人々の琴線にふれる話題を提供する本。大阪万博やジャズ喫茶の話は当然として、戦前・戦中の知らない作家について書かれた文章も意外と新鮮で面白い。例えば昔は職場の飲み会に付きものだった「宴会芸」について書かれたノウハウ本『宴会・招接待のすべて』や、東京随筆で知られた木村壮八による珍しい文庫版の『南縁随筆』、当時の人気子役 松島トモ子のラジオドラマを本にした『アパートちゃん』など、昭和の香りがぷんぷんしてくる。昔は大宮が東京から半日の小旅行の地だったとか、松島トモ子の本名「奉子(ともこ)」は彼女が産まれた満州・奉天にちなんでつけられただとか、いわゆる「ムダな蘊蓄」を知ることができるのが、この手の本を読む愉しさでもある。肯定も否定もせず、ただ淡々とその時代を映す鏡としての古本。自分では絶対に買わない類の本なのでこうした紹介はありがたい。元になった文章は2005年頃の連載、単行本が2012年ということなので、話の冒頭に書かれている話題は今読むととても古く感じてしまうが、しかしそれも含めて味わうのがこの本の楽しみ方のような気がする。解説は古本屋にして直木賞作家の出久根達郎氏が書いているのだが、それもまた「いかにも」な感じがして好い。

『淑やかな悪夢』シンシア・アスキス他 東京創元社
倉阪鬼一郎・南條竹則・西崎憲という三名の訳者によって編まれた英米女流作家の怪談アンソロジー。自分が知らない作家も多いのだが、各作品の最初には著者紹介が載っていてとても親切。収録作で一番怖かった(=面白かった)のは全編が狂気に彩られた「黄色い壁紙」なのだが、他にも「空地」「冷たい抱擁」「荒地道の事件」などが気に入った。自分はかねがね不条理なことや無意味なことほど恐ろしいと思っているのだが、冒頭のシンシア・アスキス「追われる女」や次のメアリ・E・ウィルキンズ-フリーマン「空地」などを読んでいると、二作ともまさにぴったりの作品という気がする。小泉八雲の『怪談』に通じるテイストがある。
また、怖さというのは笑いと紙一重だったりするわけだが、これは「人形は人間から微妙にずれたぐらいの方が極端にかけ離れているより怖さを感じる」という「不気味の谷」と言われる現象と、ある意味共通するところがあるかも知れない。読者を心底怖がらせるのは結構難しいのだ。しかし怖さばかりが怪談の魅力でもないわけで、そういった見方をした時、本書の中では「名誉の幽霊」や「証拠の性質」「故障」などもとても魅力的な作品だったと言い添えておきたい。巻末の訳者鼎談も楽しかった。

『書店不屈宣言』田口久美子 ちくま文庫
著者が長年働いてきたジュンク堂の社員へのインタビューを中心にして、日本の出版業界の置かれた厳しい現状について考えた本。徹底して「売り物としての本気」と「売り手である書店」の視点ではあるが、今の出版産業および(結果的に)出版文化を守っていくための考察が簡潔に述べられている。著者の本は『書店風雲録』『書店繁盛記』に続いて3冊目なのだが、本書がこれまでの中で最もトーンが暗くて厳しい内容だった。それはきっとこの20年の間に出版業界が辿ってきた道なのだろうと思う。しかし本書の副題が「わたしたちはへこたれない」となっているように、閉塞感を感じつつも出版文化を懸命に守ろうとする著者の気概が伝わってきてアツい。この本に「不屈宣言」とつけた意味はおそらくとても重い。
自分が思うに、背景にはまず日本の社会自体が大きな曲がり角に来ていることがあり、そこにアマゾンなど従来の商慣習をぶち壊す新興勢力が加わって今の状態があるわけで、著者の言うように旧態依然とした業界の体質を変えてそれに立ち向かうのは決して容易ではない。しかしやらなければ出版文化そのものが危ういという著者たちの危機感はおそらく間違っていないと思う。ラストのエピソードが象徴するような「本を作り/本を売り/そして本を買って読む」という一連の行為には、単なる売買とは違う意味があるのだろうという気がするのである。だからこそ著者の「宣言」にはとても共感できるのだ。消費者としての立場からではなかなか見えてこないが、どんな世界にもそれを作り支えている人々がいるのだ。
本書で述べられている問題を自分なりに層別すると、「①人口減少や高齢化、低所得化といった社会変化に伴う出版点数の減少」「②電子書籍など出版形態の変化による紙の本の減少」「③アマゾンなど通販の振興による商流の変化」といったところにまとめられるのではないかと思う。これらかいずれも書店レベルの努力でどうにか出来るようなものではないので、ある程度は書店の再編や淘汰はやむを得ないのかもしれない。個人的にはいわゆる「リアル書店」にはこれからもぜひずっと残っていってもらいたいのだが、そのためには当然ながら売上げの確保が必要で、そのためには「書籍以外の物販を増す」「書店で本を買う必然性を増す」ぐらいしか思いつかない。前者は文具など既に行われているし、後者はサイン会などのイベントやサイン本がそうなのかも知れない。
自分がリアル書店に求めるのは、本好き仲間で話題になった本や読みたい本がいつでも手に入る(つまり新刊入荷の種類とスピード)だったり、あるいは昔の本を探しに行くと棚差しになっていたり(つまりジュンク堂方式)ということ。でも書店の売り上げを伸ばすには一部の「ヘビーユーザー(本好き)」を相手にするばかりでなく、同時にあまり本を読まない人達への仕掛けも必要なのだろうと思う。
自分は古本屋めぐりも好きなのだが、最近は古書市場にも以前ほど本が出回らなくなり入手に苦労しているという話を聞いた事がある。新築の家が減ると10年後の住宅設備の買替え需要が減ってしまうのと同じで、新刊が出なければ古本だってそのうち減ってしまうのだ。何にせよつらい時代である。

『肺都』エドワード・ケアリー 東京創元社
ヴィクトリア朝のイギリスを舞台に、アイアマンガー一族とロンドンの存亡を賭けた闘いが幕を開ける。翻弄されるクロッドとルーシーの二人の運命や如何に……。 いやあ、これは傑作。《アイアマンガー三部作》の完結編として見事な締め括りだった。読んだばかりで頭の整理が出来てないが、とりあえず気がついたことを書き留めておきたい。
読んでいる間、どことなく覚えがある感じがしたのだが、ふと思いついたのがシェイクスピアの四大悲劇のこと。あちこちに『リア王』『マクベス』『ハムレット』『ロミオとジュリエット』といった作品のエッセンスが微妙に見え隠れするように思えるのは考え過ぎだろうか。人を信用しない老いた王の乱心が国を滅ぼすとか、森ならぬ(ゴミの)山が動くとか、あるいは二転三転する運命が翻弄する恋人たちの悲劇だとか、なんとなくモチーフが似ているような気がしてならない。
あと、とても上手いと思ったのが人名や地名といった「名前」の言いかえ。最初は単なる言葉遊びぐらいに思ったのだが、LONDONをわざとLUNGDONと読み違えるくだりで連想したのは『稲生物怪録(いのうもののけろく)』のことだった。豪傑・稲生平太郎と妖怪のおよそ1か月におよぶ壮絶な戦いを描いた物語『稲生物怪録』の最後には、とうとう妖怪の親玉である山本五郎左衛門が現れて名乗りを上げるのだが、そのときに「ヤマモト」ではなく「サンモト」と名乗るのだ。わざと音読みにして発音を違うものにしてしまうのは、読み替えることで違う意味を持たせためでありまさしく呪術の一種に他ならない。そう思ったとき、かつてアイアマンガー一族は自分たちの生き残りを賭けてゴミの王となる道を選んだのだと確信した。だからこそ不浄やゴミに関して人外の力を持つことが出来たのだと納得した。そしてまた、新しい時代の二人の若者がその歴史を変えていくというのが素晴らしい。いい話だった。
最新記事
カテゴリ
プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

最新トラックバック
FC2カウンター
最新コメント
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR