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2019年11月の読了本

今月は読書の秋&芸術の秋に相応しく色々と楽しい経験ができた。京都府福知山市にある古書と喫茶の店MOZICA(モジカ)を初めて訪れることが出来たし、糸あやつり人形版の『高丘親王航海記』を観てきたりと充実の月だった。年末進行で忙しくなるが、心には余裕をもって暮らしていきたいものである。

『昏き目の暗殺者(下)』マーガレット・アトウッド ハヤカワepi文庫
先月は上巻だけだったので全体を通した感想は今月書くことにする。
年老いた女性が語る、百年余りに亘る一族の歴史を軸に、彼女の過去と現在、彼女の夭折した妹が遺した『昏き目の暗殺者』という一冊の本、そして当時の新聞や雑誌の記事によって、複層的に奏でられる物語。「昏き目(盲目)の暗殺者」とは何を意味するのか読みながらずっと考えていたのだが、訳者あとがきを読んで納得。触れるものすべての命を見境なく奪ってゆく暴力装置として、ある種の社会階級や価値観や世相をみた時、この長い長い年月は、万華鏡のようにいくつもの様相を見せつつ一人の女性による贖罪と救済の物語として幕を閉じる。(そしてまた朧げながら新たな希望も示しつつ。)
「妹のローラはなぜ死んだのか?」あるいは「なぜ夫のリチャードまで相次いで?」といった、いわゆるミステリとしての"謎"や、作中作である「昏き目の暗殺者」の中に出てくる作中作(つまり作中作中作)のパルプSFも魅力に満ちていて、一冊で幾通りも愉しめる作品だった。決して読みやすいわけではないが、下巻の途中あたりからページをめくる手が止まらなくなる。(面倒なことに「つらい」と「面白い」は両立するのだ。)そして上巻の冒頭にある家系図に示された謎を長い手記とともに追体験していき、言葉が人を殺すこともあれば人を救うこともあるという余韻に浸りつつ本を閉じる。読書の愉しみに溢れた好い物語だった。

『怪獣生物学入門』倉谷滋 インターナショナル新書
理化学研に勤める現役の形態進化生物学者である著者が、様々な怪獣に対する生物学的な考察とともに、彼等への愛を熱く語った本。生物学的な内容はたしかに「入門」かも知れないが、選ばれた題材は中級、説明なく振られるネタに関しては特撮・怪獣として上級のレベルだと思う。そのため観ていない映画の怪獣については、ちょっとついていけない感も無きにしもあらず(笑)。しかしその熱い語り口は特撮ファンなら一読の価値はあるのではないだろうか。とんでもなくマイナーなネタが殆ど説明無しに挿入されるのが熱い。そのパワーには、『究極超人あ〜る』のR・田中一郎の生みの親である成原博士を連想してしまった。(とまあ、こんな感じでネタがどんどん投入される。たとえば説明なしに突然、諸星大二郎の漫画<栞と紙魚子>シリーズにでてくる「段先生の奥さん」などと書かれても、解らない人が多いのではなかろうか。)
取り上げられる怪獣は、ゴジラやキングギドラと言った王道から『ゴジラvsビオランテ』のビオランテ、平成版ガメラ、マタンゴにドゴラ、エリマキ怪獣ジラースに漫画版『寄生獣』などなど多種多様。そして最後は『ウルトラQ』の「1/8計画」でしめるというマニアぶりである。はじめの辺りではまだ科学的考察が4割ぐらいをしめているが、最後になると単に特撮エッセイと化しているのもなんだか可笑しい。ここまでくるといっそ爽快である。読む人を選ぶかも知れないが、この手の話が好きな人にはぜひお薦めしたい。

『特別ではない一日』 柏書房
小説・翻訳・音楽・編集・短歌など多彩な分野で活躍する西崎憲氏のプロデュースによる短文集〈kaze no tanbun〉シリーズの第一弾。17人の文章家による「特別ではない一日」をテーマにした短文が、カッコいい装丁の中に詰まっている。創作なのかエッセイなのかはたまた詩なのか判然としない作品が多いが、それらが合わさって不思議な「風」を吹かせているようだ。西崎氏はいつも見たことのない、それでいて気持ちのいい光景を見せてくれるが、今回もまた良きものであった。敢えて特に気に入ったものをあげるとすれば、岸本佐知子「年金生活」、勝山海百合「リモナイア」、皆川博子「昨日の肉は今日の豆」、上田岳弘「修羅と」、西崎憲「オリアリー夫人」あたりが、山尾悠子「短文性について Ⅰ/Ⅱ」も柴崎友香「日壇公園」も日和聡子「お迎え」も、あるいは谷崎由衣「北京の夏の離宮の春」も水原涼「Yさんのこと」この本には欠かせないものだし、円城塔「for Smullyan」「店開き」や小山田浩子「カメ」、滝口悠生「半ドンでパン」、高山羽根子「日々と旅」、岡屋出海「午前中の鯱」の不思議なムードも藤野可織「誕生」のただならぬ空気も捨てがたい。要するにどれもがこの作品集の中で独自の価値を主張しているのだ。とてもユニークで満足のいく読後感を味わうことができる本だった。こういう本がたくさん出てくれると、これからの読書生活がとても豊かなものになるに違いない。楽しみなシリーズがまた増えた。

『書き換えられた聖書』バート・D・アーマン ちくま学芸文庫
様々な観点から新約聖書の膨大な写本の相違点と特徴を比較分析し、それらが複製される過程でなされた改竄内容とそのオリジナルの文章を明らかにする学問「本文批評」。本書はその研究者が一般読者向けに書き下ろした解説書で、まるで推理小説を読むような面白さに満ちている。「改竄」は決して悪意に基づくものではなく、写本を行った者たちがついミスをしたり、あるいは善意で文意を分かりやすくする為に行ったものだったりする。初期キリスト教において異なる教義が自らの正統性を主張しあった時代に、聖書の解釈が相手に都合よく読まれることを防ぐため、一部の言葉を省略したり、あるいは言葉を補ったりということもある。(このあたりの「正統」と「異端」の攻防は、小田内隆『異端者たちの中世ヨーロッパ』を思い出した。)
本書の白眉は第4章「改竄を見抜くーその方法と発見」および第5章「覆される解釈」であり、そこに示された三百年にも亘る「本文批評」の研究者たちの努力と英知には脱帽するばかりである。例えば古代ギリシア語で書かれた聖書のテキストは、句読点も大文字と小文字の区別も単語と単語の間のスペースも存在しない「連続書法」で書かれているとのこと。仮に"godisnowhere"という句がある場合には、"God is now here"にも"God is nowhere"にも読めてしまうわけだ。そこで様々な写本のなかから異なる言葉を抜き出し、テキストの依拠した過去の写本の素性や単語の頻出度合い、他の部位で著者が用いる単語の意味合いなどを総合的に判断して、どれが最もオリジナル(もしくは最も古い写本)に近いものかを同定していくのだが、それにかかる手間と知識は大変なものであることが容易に想像できる。
解説の筒井賢治氏からは内容に対していくつか厳しい指摘もされてはいるが、「聖書」という西洋文化の根幹に対してさえ懐疑の目を向けるその姿勢と、そしてその過程で見えてくる新たな世界の面白さや研究のわくわくを伝えてくれるという点で、大変に優れた本と言えるだろう。読み応えのある人文系の本を探している人にはぜひおすすめしたいと思う。本書を読んで、新約聖書を読み返したくなってしまった。(今度は訳にも注意しながら。)

『掃除婦のための手引き書』ルシア・ベルリン 講談社
不世出の作家による24の掌編を収録した作品集。ちょっと早いが今年のベスト級が出たかなという感じ。キレッキレの文章にほれぼれしながら読んでいくうち、説明なく共通の人物が登場する事に気付いて訳者あとがきに目を通した。すると作品は作者の実体験に基づくとあってびっくり。実体験だと物語の価値がさらに高まるというものではないが、本書の場合は意味が少し違ってくると思う。これほど小説のように激しい人生を送った人がいたというのにも驚いたが、それがこのように研ぎ澄まされた文章になったというのにも驚く。人生のある一瞬をこんな風に切り取って言葉に出来るものなのかとも思った。
生きていく間につらいことは様々あれど、それに傷つく人もいれば立ち向かう人もいる。そして忘れ去る人もいれば素晴らしい文章に織り上げる人もいる。そこに描かれるのは家族であり友人であり恋人であり子どもたちである。生であり死であり怒りであり静謐である。特に後半、「苦しみの殿堂」から「ソー・ロング」「ママ」「沈黙」「あとちょっとだけ」と続くあたりは圧巻。「さあ土曜日だ」だけは唯一の創作らしい創作といえるものだが、それも含めて最後の「巣に帰る」まで通して読むと、まるでひとつの人生の始まりから終焉まで立ち会ったかのような、僅か十数ページとは思えないほどの充足感と余韻に浸ることができた。
なお、悲惨な内容の物語が多いのではあるが、なぜかブレイディみかこ氏の本のような明るい読後感を持てるのがおもしろい。これはアンナ・カヴァンやジェイムズ・ティプトリーjrとは違うところだ。むしろ驚きという点ではセサル・アイラ『わたしの物語』を、そして辛辣のなかのユーモアという点では今村夏子の『こちらあみ子』や『星の子』に近い感触を持った。いずれ唯一無二系の作品に違いない。そしてつらい時こそユーモアは大事である。

『ヒューマニズム考』渡辺一夫 講談社文芸文庫
フランス・ルネサンス文学の泰斗により1964年に書かれたヒューマニズム(人文主義)についてのエッセイ。「ヒューマニズム」あるいは「ユマニスム(仏語)」が持つ意味と、現代でも生き続けるその意義を、フランス文学関係の人物や作品に拠って考察する。「ヒューマニズム(ユマニスム)」という言葉はルネサンス期に見られた一つの顕著な傾向・思潮に後世の史学者が名付けたものなのだそうで、「もっと人間らしい学芸」が求められる際に対比されたのは神学であった。それは議論のための議論になってしまったキリスト教哲学への批判から起こったものなのだ。本書で取り上げられるのは、宗教改革の嵐吹き荒れる15〜16世紀ヨーロッパのエラスムスとルター、ラブレーとカルヴァン、そしてモンテーニュら。そもそもきっかけは権力抗争や教義の解釈に明けくれる当時のカトリック教会に対して「それはキリスト(=信仰)となんの関係があるのか」という問いを突きつけたプロテスタントだったが、その後、狂気に満ちた粛清や血で血を洗う抗争の中、自分達もまた「それは人間であることとなんの関係があるのか」という問いを突きつけられる。狂気と無知と痴愚によってそのような行為を繰り返す社会に対して、小さな声ではあるが絶対主義の愚かしさについての疑問を表明し続けたのがエラスムスでありラブレーだったのだと著者はいう。そして新大陸発見に際して、ヨーロッパ絶対主義・キリスト教絶対主義を土着民に押し付けようとする者たちに疑問を投げかけたのはモンテーニュであったのだと。
これらヒューマニズム(ユマニスム)の系譜は仰々しい思想体系といったものではなく、あくまでも「ごく平凡な人間らしい心がまえ」であるという本書の結論は、最後まで読んできた者にはしごく納得できる結論といえるのではないだろうか。自分自身の信念や望みに対して常に「警戒」を怠らず、懐疑の念をもって接することは、ポピュリズムの嵐が吹き荒れる今こそ、改めて振り返るべき意見であるに違いない。性別や国籍、社会的地位や年収、主義主張に政治的スタンス、趣味・性向などありとあらゆる「違い」についても、まず「それは人間であることとなんの関係があるのか」と問われるべきなのだ。良き本であった。やはり渡辺一夫氏はすばらしい。

『文庫本は何冊積んだら倒れるか』堀井憲一郎 本の雑誌社
本の雑誌に連載された〈ホリイのゆるーく調査〉を書籍化したもの。ゆるいのは調査対象についてなのかと思ったら、調査方法も報告の仕方も極めてゆるいものであった。各社の文庫本をそれぞれ何冊積んだら倒れるか?とか『坊ちゃん』の文庫本の栞は何ページに挟んであるかとか、正直どうでもいいようなこと(失礼)が50も詰まっていて、お得なんだか時間がもったいないんだかよく分からない(笑)。でも15年の間に新潮文庫から落とされた作家の調査や、筒井康隆の文庫の古書価、岩波文庫[緑]の欠番の作家は誰か?なんてのは、結構楽しく読んでしまって、それがまたちょっと悔しかったりもする。
こういう脱力系の本は例えば横田順彌のハチャハチャSF〈荒熊雪之丞シリーズ〉みたいなもので、何年かして無性に読み返したくなったり、そしてまたその時には手に入らなかったりするので要注意なのだ。本書は最近読んだ中でも最右翼の脱力本であった。

『ジャーゲン』ジェイムズ・ブランチ・キャベル 国書刊行会
元詩人、今はしがない質屋の親父であるジャーゲンがひょんなことで悪魔を庇い、お礼に口うるさい妻リーサを消されてしまう。ジャーゲンは周囲の説得により嫌々ながら冒険の旅に出て、妻を返してもらうために創造主コシチェイを探して神々の住まう世界を遍歴し、行く先々で夢のような逢瀬を繰り広げる……。とまあ、概要を話そうとすればこんな感じになってしまうのだが、こんな内容紹介では著者に失礼であろう。その魅力を1/10も紹介できていないと思う。本書は読みこむほどに味が出る、それほどの傑作だった。
確かに半ば過ぎ迄はそのような流れで話が進む。しかしそれは『ドン・キホーテ』を単に「騎士道物語にかぶれた男が従者とともに繰り広げる珍道中」とでも紹介するようなもので、『ドン・キホーテ〈後篇〉』のメタフィクション的展開やラストの悲しさと奥深さを全て無視するようなものであると思う。
まさに本書の第29章「ホルヴェンディルのナンセンスについて」以降の展開は、単なる恋の鞘当てや中年男の夢のような恋の遍歴から遥か彼方へと読者を連れ去っていく。ラストの見事なまでの「美しさ」も含め、まさしく副題の「正義の喜劇」と呼ぶに相応しい作品だった。ツイッターで本書をムアコックの〈エルリック・サーガ〉にたとえた人もいたようだが、その例に習えばジャーゲンとは数多の世界に転生して戦い続ける「永遠のチャンピオン」であり、彼が追い求める理想の女性とは永遠の安らぎの都タネローンなのかも知れない。
古今東西の神話や〈マニュエル伝〉の無数のエピソードが説明なく散りばめられ、訳註と見比べながら読み進めるもよし、全編を貫くユーモアにニヤリとしながらファンタジーのパロディとして読むのもよし、重層的な愉しみかたが出来る作品だと思う。訳者の中野善夫氏には「よくぞ訳してくれました」とお礼を申し上げたい。
そしてこの後に刊行が予定されている<マニュエル伝>シリーズの『イヴのことを少し』と『土の人形(ひとがた)』の2冊を読むのが大変楽しみになった。

『里山奇談 あわいの歳時記』coco/日高トモキチ/玉川数 角川書店
人と自然が付かず離れずほどよい距離で暮らす里山。山歩きを趣味とする著者らが、あちこちで耳にした奇しい話や不思議な記憶を書きとめたシリーズの第3弾。妙に気を衒わず淡々と語られるエピソードは、時に怖く、時にしんみりとさせ、そして時に懐かしい。いつの間にか失われてしまった畏怖の心がこの中には息づいているが、それは子供の頃の記憶だったり、あるいは山の中で素の自然と向き合っているうちに培われたものであるのかも知れない。自然と向き合う暮らしをしていると、一生のうちに一つや二つは不思議な体験をするものなのだ。このシリーズはこれまで出た三冊とも読んだことになるが、これからも続いて欲しいと思う。なんともいえない恐ろしさを感じるものとしては「速くて黒い影」や「ランドセル」「群れ」あたりが、そして独特の不思議な交流が心に残るものとしては「ヤマンボウサマ」「おしらさま」「故郷の夜」「おいぬ好かれ」「玉かんざし」などが好かった。

『沙漠の伏魔殿』大阪圭吉 盛林堂ミステリアス文庫
惜しくも大平洋戦争で散った推理作家の、単行本未収録作品を発掘・収録するシリーズの第3巻。今回もミステリーっぽいものから軽めのコント、秘境冒険物に時代小説までバラエティに富んでいる。時局を反映して軍事小説の色が濃いものが多いが、それもまた味わい深い。なかでは表題作と「人外神秘境」が読み応えがあった。無事に戦地から帰ってきて戦後も小説を書き続けていたら、はたしてどんな作品を残してくれたのだろうか。
作家紹介や作品解題、発行者による「あとがきにかえて」など資料的価値も高く、よいシリーズである。(それにしても著者の出身が愛知県は新城市だったとは知らなかった。)
あ、そうそう。このシリーズはYOUCHANさんの装丁がとてもすてきで気に入っているのだが、本書の表紙イラストにある三人の「支那服」を着た娘さんが格好良くて、本編も同じように大活躍するのだろうと思ったら全然違っていた。その点だけちょっと残念である(笑)。

『スキュデリー嬢』ホフマン 岩波文庫
ルイ十四世の治世のパリを舞台に、市民を震撼させた強盗殺人事件の真相と、それにまつわる異常心理、芸術と頽廃、愛情と憎しみの相反などを描いた中篇小説。以前、光文社古典新訳文庫の『黄金の壺/マドモワゼル・ド・スキュデリ』で読んでいたのをすっかり忘れていて、途中から憶えのある展開になって気がついた。骨子はサスペンスというか探偵小説といっても良く、ホフマンに対して持っていたイメージとはだいぶ違うものである。たとえばレ・ファニュの『吸血鬼カーミラ』しか読んだことが無い人が、いきなり『ドラゴン・ヴォランの部屋』を読んだみたいな感じ。(我ながら分かりにくい喩えであるね。)
いかにもホフマンらしい偏執的な人物は宝石職人のカルディラックぐらいで、その他の登場人物すべてフランス人であることもあってか、からりとした明朗な人物ばかりだったのもおもしろい。週末の夜を締めくくるものとして、いい感じの一冊だった。



糸あやつり人形芝居『高丘親王航海記』
今月は特別編として、11月3日に愛知県芸術劇場・小ホールで観てきたITOプロジェクトによるについても感想をあげておこう。これは澁澤龍彦が晩年に書いた幻想小説の傑作を糸あやつりで演じようというとんでもない企画。澁澤のファンとしては見逃せない反面、人形ではどうしても人による演技に比べて粗雑になる部分があったりして、原作が持つ繊細な幻想味が、限られた空間でどれだけ表現出来るのだろうかと不安もあった。しかし杞憂だった。まずざっくりした感想を述べると、人形でしか表現出来ないものが加わって面白いぐあいに変容していて良かった。とても丁寧に作り込まれており、ときどき操演が手間取ってしまうところも含めて、ライブ感覚で楽しむことができた。
実をいうと、子供向けのものを除いては所謂人形劇を観たのは初めてだったのだが、人形を使うことでしか表現し得ないものがあるのだと感じた。あくまで個人的な意見だが、この物語を人形で演じることのメリットは二つあると思われた。ひとつめは原作のあちこちに見え隠れする、そこはかとないユーモアというか稚気のようなものを、人形の誇張されたユーモラスな造型やぎこちない動きが、上手く(というか寧ろ逆に、だからこそ)直感的に表現できる点。二つめは人形のもつ無機質で不気味な空気感や、省略され抽象化された形状が、原作の幻想的な味わいを観る側が(勝手に)想像できる余地を生み出す点。文字情報だけに頼るしかない小説と違って、人形劇の舞台は音楽や台詞回し、光や音の演出など選択肢の幅がそれこそ無限にあるわげで、そういった意味でも小説と映画の関係に近いのかも知れない。
人形の造形は自分なりの乏しいイメージでたとえるなら、『プリンプリン物語』の雰囲気に近いかも。リアルというより、ちょっとユーモラスでちょっと不気味。とくに驃国で出会った犬頭人や蜜人はとてもシュールで、人形ならではのものだったと思う。ラストに出てくる虎の人形もそうで、まるでタイガー立石の漫画のような奇妙な姿はたいへん気に入った。
家に帰ってから原作を引っ張り出して見比べていたのだが、省略されていた話は「蘭房」の章ぐらいであり、あとは多少の差はあってもひと通り物語の中に組み込んであったようだ。ところどころ順番を替えたり象徴化したりといった力技はあるにせよ、わずか2時間の中に放り込むのは並大抵の技量ではない。受けた印象は原作とはまったく違ったのだが、これはこれで好かった。まあ澁澤龍彦の『高丘親王航海記』という小説を用いた別物として愉しむのが一番いいのだろう。「みーこ(皇子/御子)、みーこ、みーこ」と鳴きながら飛翔する迦陵頻伽のエピソードまでお見事であり、素直に感心してしまった。
ひとつ付け加えるなら、澁澤龍彦の『高丘親王航海記』で絶対に映像や舞台では真似できないものがある。それはところどころに顔を出す作者の衒学趣味的ともいえる解説。幸田露伴の「幻談」におけるケイズ(黒鯛の異名)や継竿に関する随筆とも解説とも云えぬ文章にも似ている。
本作の脚本・演出を手がけた天野天街氏のプロフィールや、氏が主宰されている名古屋の演劇集団「少年王者館」についてネットの記事を読んでみると、ITOプロジェクト版『高丘親王航海記』で使われた演出手法、たとえば複数の台詞を重ねて多層的な意味を持たせて場を転換したり、役者のいる舞台に絵や文字の映像を投射するやり方は、「少年王者館」の舞台ではお馴染みの演出だったようだ。コラージュを駆使したポスターのテイストも全く同じで、もともと少年王者館が好きな人は、その延長上で楽しんだのかも知れない。インタビューによれば氏は稲垣足穂の作品が持つセピア色の「宇宙的郷愁」や鈴木翁二などかつてのガロの漫画が好きとのこと。そこからあっけらかんとした澁澤龍彦の小説世界へと向かい、以前天野氏が手がけた野外劇版や今回の人形劇につながっていくのだなあと納得した。天野氏のアイデアをもとに人形を実際に作ったのは、今回の公演を実施するにあたって天野氏に演出を依頼したITOプロジェクトの山田俊彦氏。今回の前に組んでやった『平太郎化物日記』(原作は『稲生物怪録』)の映像も見たが、いずれも糸あやつりの限界に挑戦するような動きで、この人形というジャンルもなかなか奥深い世界が広がっているようだ。
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2019年10月の読了本

今月は読書の秋だというのにあまり読めなかった。次月はどうだろうか。

『夢見る人の物語』ロード・ダンセイニ 河出文庫
「ウェレランの剣」「夢見る人の物語」という二つの短篇集を合わせたもの。著者の「夢の国」を題材としたものを中心に、前者は十二、後者は十六の都合二十八篇の掌編を収録している。四人の訳者を代表して中野善夫氏の書いたあとがきにもあるように、沙漠の中に輝く麗しの都メムリナや時の中に滅びし驚異の都バブルクンド、ベスムーラといった魅惑的な夢の都市が数多く登場しては、今や訪れること叶わぬ郷愁と忘却の彼方に消え去る。妖精が舞い魔法使いが微睡み、次々と幻想が生まれては消えてゆく。時代がかった表現の仰々しさも、いかにもこの著者らしくてむしろ好ましく、現実に疲れた時に何度も立ち返りたくなる世界である。見たことがない世界なのに心惹かれるのは、大人になって失ってしまったものを思い出させるからであるか。年取ってから読んだ方が沁みるかも知れない。
ところでダンセイニの作品には架空の都市がよく出てくる。きっと架空の都市を描くのが好きなのだろうと思う。そもそも幻視小説には架空の都市(都、街)が出てくるものが多い気がする。『マルコポーロの見えない都市』や『方形の円』など。幻想小説における架空の都市とは、ちょうどいい大きさと強度をもった異世界なのかも知れない。屋敷程度の大きさでは小さ過ぎるし、かといって世界まるごと幻視するのは重たい。ムアコック『メルニボネの皇子』では滅びゆく王国が、ミハル・アイヴァス『もうひとつの街』では現実世界と違うもうひとつのプラハが描かれ、同じく『黄金時代』では島国がまるごと創造された。(国ではなく島であればルイス『ドーン・トレッダー号の航海』をはじめ ファンタジーには山ほど出てくる。)館から街ぐらいのサイズ感だと幻想よりむしろ怪奇小説の舞台として扱いやすいかも知れない。例えばブラックウッド「古い魔術」やラブクラフト「インスマウスの影」みたいに。
閑話休題。本書の収録作はどれも好いのだが、とりわけ好みを挙げるとすれば「ウェレランの剣」「妖精族のむすめ」「サクノスを除いては破るあたわざる堅砦」「潮が満ちては引く場所で」「乞食の一団」、そして「カルカソンヌ」あたりだろうか。(選びきれなくて結構たくさんあげてしまった。)稲垣足穂と同じで、偏愛されるタイプであり、批評よりは好悪で語られる作家ではなかろうか。
「人は七十余年を時と戦わねばならぬが、時は最初の三十年ほどは弱く与しやすい相手にすぎぬ」(ダンセイニ「カルカソンヌ」より)
時に想いを馳せつつひとまずは本を閉じよう。

『事物のしるし』ジョルジョ・アガンベン ちくま学芸文庫
ミシェル・フーコーの「パラダイム」「しるし」「哲学的考古学」という三つのキーワードに依拠しつつ、自らの探究の方法について語った本。なかでも圧巻は第二章「しるしの理論」。パラケルススからヤーコプ・ベーメ、秘跡の霊印の神学的教義やカバラー、はてはエミール・バンヴェニスト「言語の記号学」やフロイトまで援用しながら、自在に「しるし」なる重要な概念に接近してゆく。
少し中身にふれていこう。たとえば第一章「パラダイムとはなにか」では、フーコーとクーンの「パラダイム」という言葉に対する態度の違いから、はるかアリストテレスやプラトンまで遡って考察している。最後にはアガンベン自身の著作における「パラダイム」の意味・特徴を示しており、それは帰納的(個別から普遍)でも演繹的(普遍から個別)でもなく、アナロジー的な認識のかたち。個別の範例から個別の範例へと直接進み、両極的なアナロジーで一般と個別の二元論的な論理を置き換えるものなのだそう。理解は出来るが、実践はなかなか難しいかもしれない。看話禅みたいなものかも知れない。
続く第二章「しるしの理論」では、存在の本質を啓示によって明らかにする「しるし」の意味を考察する。コゴメグサの葉にある眼状の斑点は「眼」を喚起させる記号であるとともに、この植物が眼病の特効薬としてはたらくことを示す「しるし」でもある。あるいはカトリックの秘跡も単に聖なる記号ではなくそのまま「効力」でもある。十七世紀イギリスの哲学者ハーバートは、「超越的」ということ、つまり「存在する」という事実それ自体によってあらゆる存在者に関係づけられる〈事物〉〈真〉〈善〉〈一〉といった言葉(述語)を、「しるし」として読み取った。即ち「しるし」はただそれが与えられてあるという純粋な事実により言語に結び付けられることとなる。アガンベンのいう「しるし」というのは、本邦でいうところの「言霊」に近いのかもしれない。それも今風のスピリチュアルな意味ではなく、「神の発した言葉は自ずから実現する力を持つ」といった本来の使われ方での「言霊」という言葉に。そして本章に見られるのは、存在論、そして言葉と「しるし」について考察するとき、神学を避けては通れないということなのかも知れないとも思う。
第三章「哲学的考古学」では、これまでの議論を下敷きにして文献等で遡れる「歴史」とそれ以前の「先史」の違い(歴史的分裂)、そして先史を考える際に遵守すべきことについて考察してゆく。例えば法と宗教が分かれる前の「原初的な渾然」。その時あったであろう「先法」は単純に最古の法ではなく、宗教より前にあったものが単純にプリミティブな宗教ではないということ。「宗教」や「法」といった用語そのものを避け、「x(エックス)なるもの」を想定する試み。これらはまさしくフーコーが『知の考古学』で述べたエピステーメーを詳らかにしてゆく取り組みである。
割と薄い本だが、『知の考古学』や『ピエール・リヴィエール』といった著作で馴染んだ方法論を通じて、人文学全般へと広げていく手際が広々として見晴らしがよく、読んでいてとても気持ちがよかった。

『ひみつのしつもん』岸本佐知子 筑摩書房
妄想だったり他の人と違う見方だったり、はたまた自己嫌悪だったり爆笑だったり。まさに「奇妙な味」のエッセイ集。この人のエッセイを初めて読んだのは白水uブックスの『気になる部分』だったが、それ以来大ファンになってしまった。これからまた折にふれて何度も読み返すのだろう。しかしどうしたらこんな発想が出てくるのだろうか? 著者が翻訳する作品の選書と同じで、自分とは目の付け所が全然違う感じがする。

『トルネイド・アレイ』ウイリアム・S・バロウズ 思潮社
バロウズの1989年の作品集を作家の清水アリカ氏が訳し、現代美術家の大竹伸朗氏による装画を施したもの。さらに美術評論家の椹木野衣(さわらぎ のい)氏による上記3名に関する評論を付する。掌編というか物語の1シーンを切り取ったバラエティに富み読みながらひりひりするほどの暴力性と批評性を持った七つの創作が並ぶ。文学というより「文字で書かれた現代美術」という視点でなされる解説も新鮮だった。個人的にツボだったのは「感謝祭 一九八六年十一月二十八日」。「堕天使(オチコボレ)」も悪くない。

『「カッコいい」とは何か』平野啓一郎 講談社現代新書
ひと言で言えば、本書に描かれるのは1960年代以降の日本で多用されるようになった「カッコいい」という言葉の意味をめぐる旅である。まずはこの言葉が人口に膾炙した経緯、すなわち直接的な語源である「格好が良い」から掘り下げ、次はジャズやロックといった音楽がもたらした「しびれる」体感や、「カッコ悪い」こととの比較を行う。ナチスの制服をファッションとして「カッコいい」とみるのはどういうことか?といった、「外観」とその「実質」との乖離についての考察をする章もある。ちなみにナチス制服デザインを手がけたのは有名なファッションブランドのヒューゴ・ボス。彼は経営難で倒産寸前だったが、ナチスに入党して制服の大量発注を受け、業績が飛躍的に回復したそうだ。どこかの国の出版業界でみたような構図である。著者によれば「カッコいい」存在は「しびれる」ような興奮をもたらすが、その生理的反応自体に倫理性はないとのこと。従って、「カッコいい」対象の選択は個人の自由であるが、しかし少なくとも社会的には一定の制限が設けられることはやむを得ないだろうというのが結論である。至極納得できる。
「クール」と「ヒップ」、「ヒップ」と「スクエア」の違いについての記述では当時の感覚が引用されているが、それによれば作家ではカフカやプルーストはヒップで、ヘンリーミラーやヘミングウェイ、サガンはスクエアとされていたらしい。画家ならピカソやレジェが前者でウォーホールやジャスパー・ジョーンズは後者とのこと。このあたりの感覚はさっぱり解らない。こういったものは時代を経て人々の意識がかわると理解できなくなるものなのかも知れない。
「ダンディズム」の章ではボー・ブランメルやオスカー・ワイルドや三島由紀夫(!)を引き合いにしてダンディとは何かや「男の美学」まで考察している。
このように本書はまさしく「カッコいい」に対して時代やジャンルを超えた考察を加えた労作であり、個々の題材に対する詳細な分析はとても面白い。ただ、最終的に九鬼周造『「いき」の構造』のようにひとつの定義に収斂していくわけではない。これはおそらく「カッコいい」が今も現役で使われ続けており、その意味もある種の理想への憧憬と多様な価値観との間で揺れ動いているからではないだろうか。「カッコいい」を考えることは即ち生き方を考えることであるのだとも気付かされた。とても興味深い旅であった。

マーガレット・アトウッド『昏き目の暗殺者(上)』(ハヤカワepi文庫)
一人の老女による、一族の繁栄と没落、そして妹が遺した一冊の小説についての物語。予備知識無しに読み始めたのだが、続けて読むと密度の高い文章にくらくらしてくる。下巻は今月中に読み終われなかったので、感想は次月にまとめて記載としたい。

<番外編>
『JOKER』(映画)
話題になっていたので観てきた。噂に違わず傑作だった。クライマックスのシーンでCREAMの「WHITEROOM」が流れたときには背中がぞくっとした。要するにJOKERとは「道化の王」である。ヒエラルキーの最底辺の者が頂点の者と入れ替わるカーニバルの夜……。
「これが人生だ」
ジョーカーはまさしく我々なのだ。

(以下、映画の内容に触れるので未見の方はご注意ください。)

ツイッターの感想では『タクシードライバー』を連想したという声がよく聴かれたが、それはもちろんとして、音楽や全編に流れるやるせない感じ、あるいは現実と妄想の境がおぼろげになるところや救いの無さなど、自分としては『未来世紀ブラジル』に共通するところがあると感じた。そういえば最後のシーンは、もしも『未来世紀ブラジル』と同じとすると、それまでの全部がアーサーの妄想だったという見方もできるかもしれない。本作を「バットマンの敵役の誕生を描いたDC映画のひとつ」ではなく単独作品であるとみれば、そういった解釈も可能だろう。(そうなるといよいよ救いは無いわけだが。)
あのシーンを映画の時系列どおり暴動の夜以降に再逮捕されたジョーカー(『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターみたいな感じ)ととるか、それともアーサーが社会復帰して道化師の仕事に就く前に入院していた時の出来事ととるかで、映画の印象はまったく変わってくる。いちどしか観ていないので違っていたら申し訳ないが、市のカウンセリングを受けているシーンで、彼が以前病院で暴行したような会話があったはずだ。もし後者であるとするとアーサーは最初から「壊れて」いて、薬で症状を抑えていただけどいう解釈にもなる。(その場合、アーサーは猫を飼えば良かったかもしれない。)また前者のように時系列通りだとしても、その後病院から脱走してジョーカーがバットマンの敵になると考えてもいいし、全ての物語がアーサーの妄想で、これからも一生を院内で過ごすと考えることもできる。
ラストのシーンでは全ての解釈が重なっている。別にどの解釈でも構わないし、むしろ分からないのが値打ちとも言える。映像的にも文学的な価値も高い作品だと思う。

2019年9月の読了本

『田紳有楽・空気頭』藤枝静男 講談社文芸文庫
自ら「白樺派の残党」と称する作家が私小説の極限まで突き詰めて生み出した独自の世界。私小説もとことん突き詰めると幻想小説と区別なくなるのだろうか。すごく変でとても面白い。解説にもあるが、私小説で表現される「私」とは果たして何なのか。それを極める時、現実の「私」とは違う虚の「私」によって初めて「真」の私が示される。「田紳有楽」では庭に掘られた小さな池の中に沈められたグイ呑みや丼鉢らが一人称で語りだし、骨董商の「私」は実は56億7千万年後に地球に現れて衆生を救う弥勒菩薩であるという。とんでもない話である。もうひとつの「空気頭」では、医者の私や結核で妻が長らく闘病している私や糞尿で催淫剤を作り摂取する私など、複数の視点の「私」が入り交じり、虚と実が流転しながら生きることの意味を浄化していく。それぞれ谷崎潤一郎賞と芸術選奨文部大臣賞を受賞した両作品の文学的価値については巻末の解説と作家案内にこれ以上付け加えるべくもないが、想像力の極北ともいえる展開はバタイユや沼正三を初めて読んだ時のような、あるいはエルンスト『百頭女』や折口信夫『死者の書』を読んだ時の衝撃をうけた。(残雪を加えてもいいかも。)語り得ないことを如何に語る/騙るか、文学のスリリングな冒険はそんなところにあるのかも知れない。

『蝶を飼う男』シャルル・バルバラ 国書刊行会
十九世紀初頭のフランスに生まれ、ボードレールやクールベらと親交を深めた才人による幻の作品集から、中篇ひとつを除いて収録した全五篇の中短篇集。副題には「幻想作品集」とあるが、ひと言で「幻想」という言葉にまとめてしまうのを躊躇してしまうほど、収録作の振り幅がとても大きな本だった。イサク・ディネセンを思わせるようなものであったり、あるいはポーの「群衆の人」のような犯罪小説やヴェルヌの科学小説(もしくは子どもの頃に読んだ、大伴昌司監修による少年マガジンのグラビアページ)を感じさせるものであったり、そしてまた美しいひとつのメルヘンや思わずくすりとさせられるコントであったりと、どれひとつとして同じタイプのものが無い。訳者の亀谷乃里氏による非常に詳しい訳註と解説(数えたら82ページもあった!)を含め、おなかが結構いっぱいになった。
どの作品も愉しいが、なかでも好みだったのは「ロマンゾフ」と表題作の「蝶を飼う男」。まだまだ世の中には知らない作家が多い。買い漏らしていた同著者の『赤い橋の殺人』(光文社古典新訳文庫)も読んでみなくてはなるまい。

『まちの本屋』田口幹人 ポプラ文庫
盛岡の名物書店「さわや書店フェザン店」で、長年にわたり様々な「本との出会い」を生み出してきた著者が、「まちの本屋」の矜持とこれからの在り方について綴った本。(『「今泉棚」とリブロの時代』や『書店風雲録』みたいな、本を売る側の話も好きなのだ。)多くのスタッフと知恵を出し合って作り上げてきたのは単に本を売るための場所ではなく、「読書欲は、読みたい本との出合いの蓄積から産まれる」という信念によって構築され、地元に根ざしたコミュニティとそれを活用したわくわくする仕掛けであった。エッセイでもありビジネス書でもあり、そしてこれからの出版文化についての書店員からの提案でもある。本好きの端くれとして本書をもちろん愉しく読んだのだが、それと同時に営業企画のテキストとして業種にかかわらず読んでみると良いのではないかとも思った。少子高齢化で地方が消滅していく時代に、これまでの成長拡大する社会を基本としたビジネスモデルではない「何か」を考えるヒントとして。みんな足掻きつつ生きているのだ。
本書を読もことで解けた謎がひとつあった。うちの近所にはいわゆる「まちの本屋」が二軒あるのだが、片方は児童書のコーナーを始めとしてレイアウトに工夫があり、なんだか居心地が良い。贔屓にして通っていたら、どんどん品揃えも良くなって、今ではすっかり顔馴染みになってしまった。それに比べてもう一軒の方は、開店当初こそ応援しようと一生懸命通っていたのだが、売れるとなればヘイト本であっても平気で面陳したり流行りの本しか置かなくなって、いつのまにか行かなくなってしまった。その後も店のスペースを削って保険の事務所を置いてみたり迷走し続け、家からは近いのだけれど「欲しい本が全くない」状態になってかなり経つ。これもまた「地元に根ざした店」であろうとするか、もしくは客と書店員とが互いによい店を作り上げようとしているか、そんなところが掛け違い、最初は小さな違いだったものがやがて大きな差となってしまったのだろう。(今ではその本屋は一階をドラッグストアに明け渡してしまった。とても残念だ。)
かように書籍というものは、著者や出版社、流通から末端の書店員に至るまで、単なる「作り手と受け手」という関係ではなくかなり自由なのが面白い。なぜだろう。本が商材であるとともに文化そのものの担い手でもあるからだろうか。思うに、本は存在自体が既にして「メタ」を内包しているのだ。

『カメリ』北野勇作 河出文庫
「模造亀(レプリカメ)」のカメリを主人公とする連作短篇集。ヒトのいなくなった世界でヒトではないものたちが何かを待ち続ける。残された文化の「鋳型」を使い、似て非なるものを作り維持し続けながら……。始まりもなければ終わりもない世界の断片がゴロリと投げ出されたままになっているのだが、異形のものたちの何気ない日常風景が読んでいてなんとも心地よく、いつまでも続きを読みたくなってくる。世界の背景を語らずして読者に悟らせるところや、主人公が一言も喋らないで話が進行するところ、あるいは一瞬垣間見えるSF設定など気になるところはいろいろあるのだが、ひとまずは全編に流れるそこはかとない寂寥感がカーゴ信仰に近いものとだけ言っておきたい。だからこそ「カメリ、メトロで迷う」でカメリが振舞ったカヌレや「カメリ、ツリーに飾られる」の「メリークリスマス!」が心に響くのだ。不気味さと優しさは両立するのだよね。
著者の作品は長いものよりも短いものの方が好きなのだけれど、これは自分が感じている氏の作品の魅力にも深く関係しているのではないかと思っている。説明がちょっと難しいのだが、例えばミステリの分野には「日常の謎」というジャンルがある。ごく普通の日常生活の中に、ポトリとインクを垂らしたように小さな謎が提示される小説群なのだが、北野氏の作品はそれを反転させ、謎しかない世界で日常が描かれる感じとでもいえばいいだろうか。または真っ白な紙に黒いペンで小さく何か描くのではなく、一面を塗りつぶした画用紙にちょっと塗り残したところがあって、よくみるとそれがSFの形をしてるというか。漫画だと吉田戦車とか割と近い印象かも知れない。
目の焦点をずらして、図ではなく地から浮かび上がってくる魅力に気づくのは意外と難しい。だから長篇よりもコンパクトにまとまったスケッチのような短篇が、さらに言えば『じわじわ気になる(ほぼ)100字の小説』の方が氏の作風にあっている気がするのだ。惑星と口笛ブックス〈北野勇作2本立て〉のシリーズとかね。

『パラドックス・メン』チャールズ・L・ハーネス 竹書房文庫
「幻のSF」をついに手にすることが出来た。夜更かしして一気読みした本はかなり久しぶりだ。長生きはするものだ。
本書は自分が大好きな〈ワイド・スクリーン・バロック〉と呼ばれるタイプの作品で、作家であり評論家でもあるB・W・オールディスが自著『十億年の宴』の中で絶賛していたもの。期待が大きすぎて、いざ読んでみたらがっかりということもあるのでニュートラルな気持ちで読んでみたが、期待どおりの傑作だった。
ベスターの『虎よ、虎よ!』のようなピカレスクやヴォークトの〈非Aシリーズ〉のような超人、同じくヴォークトの〈武器店シリーズ〉やベイリーお得意の帝国ネタなど、これでもかというほどの濃い設定。そして人類進化や時間テーマなど溢れるほどのアイデアを放り込んで、それでいて「主人公アラールの正体は誰なのか?」「メガネット・マインドの目的はなにか?」というミステリ的な面白さでラストまで破綻なく引っ張っていく手腕はさすが。銀河をまたにかけた絢爛豪華な一大スペクタクルとして、すこしも古さを感じさせない。ひとつ欲を言えば、たしかに複雑で壮大ではあるがベスターにある悪趣味さというか猥雑さに欠けるところがあって、わりとあっさり読めてしまうのが残念ともいえる。そういう雰囲気が無いのが良い点でもあり欠点でもあると言えるかも知れない。
次から次へと訪れる危機とそれをかいくぐっていくスリルは、実はゼラズニイ の『影のジャック』や『ロードマークス』を連想しながら読んでいた。そういう意味では本書はワイド・スクリーン・バロックの嚆矢であるとともに、その後の多くのSFの元になっている作品なのだとも感じた。本書の出版に関しての竹書房と担当編集の方、訳者の中村融氏の努力と英断に心から感謝したい。そして出来れば『リタネルの環』やベイリーの諸作品も翻訳されんことを。(ちょっと欲張りすぎ?)

『鴻(おおとり)』吉田知子 新潮社
書下ろしの戯曲を集めた叢書〈書下ろし新潮劇場〉に寄せられた一冊。6世紀初頭の日本を舞台に、病で全身が膿み爛れた王が尽くす惨虐と絶望、そして破滅までを描く。アルトー『ヘリオガバルス』や石川淳『紫苑物語』、坂口安吾『夜長姫と耳男』を思い出しながら読んだ。自暴自棄とも違う気まぐれにより周囲の者たちの命が奪われてゆくエピソードは、王宮の中で繰り広げられる権謀術数と王の絶対的な孤独によるものか。「残酷」という言葉の先に垣間見える純粋結晶のような世界は、文学が示す極北の景色なのかもしれないとも感じた。吉田知子、恐るべし。

『電信柱と妙な男』小川未明 平凡社ライブラリー
東雅夫編による、文豪たちの〈怪異小品集〉の一冊。底なしの怖さと郷愁が同居する不思議な魅力を持つ小川未明の作品から、妖魔や娘、少年といったカテゴリー別で二十四篇の創作と三篇のエッセイを収録する。本書は数多い〈怪異小品集〉のシリーズの中でも出色の出来である。
未明童話がもつ怖さの本質は、小さな子どもは死に近しい存在であるところにあると思う。幽冥の静寂(しじま)に潜む怪異を子供の視点で語る手腕はまなかなものではない。大人は忘れてしまっているが。未明が幼き日への郷愁をオブラートに包むことなく、死も愛も総てをありのまま描き出しているからこそ、恐ろしくも魅惑的な世界が広がっているのだ。唐突に訪れる死の怖さはまさしくトラウマものだが、しかしだからこそ子どもの頃の寂しさや哀しみも含んだ圧倒的な懐かしさで読む者の心を捉えるのだ。実は同じ著者の『文豪怪談傑作選 小川未明集』と違ってそんなに怖さは感じなかった。(あちらは「怪談」だけあって容赦なく怖い。)こちらは〈怪異小品集〉と銘打たれてはいるが、怪異というよりは幻想と言ったほうがいい感じがする。それもどちらかというとフランス系のものに近い。残酷な運命を描いた話もあるが、たとえば稲垣足穂『一千一秒物語』にある「トンコロピーピー」という笛の音が聴こえる郷愁の記憶のように、概ねうら淋しくて懐かしい感じのする話が多い。
本書の後半は未明が童話に専念する前の時代に書かれた、大人向けの幻想譚が収められている。死の影に彩られているのは初期から変わらぬ特徴であるのだが、童話と違ってなぜか心穏やかに読めるのは不思議。そこに行われているのが物語を描くことではなく、内田百閒にも共通するような、情や場の現出であるからかも知れない。
個人的には「Ⅱ 娘たち」「ⅴ 受難者たち」「ⅵ マレビトたち」の章が特に好かった。

『怪奇礼讃』E・F・ベンスン他 創元推理文庫
中野善夫・𠮷村満美子の両氏による編訳で、19世紀末から20世紀半ばにかけてのイギリス幻想怪奇小説を集めたアンソロジー。あえて古風な趣きで少し変わった味わいの作品ばかりを集めたとあって、これまで読んだことのかる作家・作品はあまり多くない。ホジスン、ベンスン、ウェイクフィールド、ダンセイニにブラックウッドといった有名どころの作品も収録されているが、ほとんど知られていないものや今では読めないようなものも多く、読み応えのある本だった。いわゆる怪談から叙情的な幽霊譚、ちょっと可笑しな話など色んなタイプの作品が収録されているが、個人的には「奇妙な味」のマクダーミッド「よそ者」やトマス「祖父さんの家で」、切なさが心に残るアームストロング「メアリー・アンセル」やダンセイニ「谷間の幽霊」、独特のユーモアが光るブラックウッド「囁く者」やベリスフォード「のど斬り農場」などが特に好い。満足度の高い22編の怪奇幻想短編集である。(なにしろ「古風」なのがいい。)
まえがきにある「怪奇とは、すなわち恐怖ではないはずだ。怪奇とは、不思議で怪しいということのはずだ」という言葉には深く同意する。怪奇の本質は恐怖ではなく不気味。その結果、怖さを感じることがあるかも知れないが、必ずしもそれが狙いであるわけではない。得られるものは「恐れ」でなく「畏れ」の場合だってあるのだ。(例えばアルジャーノン・ブラックウッド『ウェンディゴ』のように。)

2019年8月の読了本

アーサー・C・クラーク『3001年終局への旅』ハヤカワ文庫
四百万年前のアフリカに始まった人類とモノリスの旅は、本書でようやく決着をみる。ボーマン、フロイドと繋いできたバトンが、なんとディスカバリー号からハルによって宇宙へと投棄されたプールに渡され、1000年後の世界へと進化レースが続いてゆくとは思いもよらなかった。ハルに宇宙空間へと投棄されたのち、宇宙を冷凍状態で漂い1000年後に蘇生されたプールが出会う未来の世界は妙に懐かしい。既にレムによって『星からの帰還』で「断絶」が書かれた後に、テクノロジーだけが発達して社会や思想が今の延長というのはどうかと思うが、それも含めて古き良き匂いがする作品といえる。(正直なところ100年はおろか50年先にだって、社会や人の価値観がどうなっているかなんて分からない。たぶん今からは想像もつかない世界になっているのは間違いない。)
ひどく饒舌になり、また前作からの引用がやたら多くなった老境のクラークを読むのは複雑な心境だったが、年とってなお創作意欲が衰えないのはたいしたものだと素直に思う。
改めて感じるのは、やはり『2001年宇宙の旅』はキューブリックとの化学反応で生まれたとてつもない傑作だったのだという事。 そして昔は大好きだったがいつのまにか読まなくなってしまったクラークに対して、自分なりのけじめをつける意味でも、この四部作を読んで良かったと思う。読んでいる間は結構つらかったが。(以上で、8/3に行われたSF読書会に向けたのシリーズ4冊一気読みはこれにて終了。)

『フラックスマン・ロウの心霊探究』E&H・ヘロン アトリエサード
古今東西のオカルト的な知識を持つ心理学者ロウが、各地で起こる不可解な事件の謎を解く連作シリーズ。必ずしも超常現象とは限らないあたりは、〈幽霊狩人カーナッキ〉のシリーズにテイストが似ているともいえる。一番の特徴は、殆どのケースで傍観者に徹し、自分から手を出そうとはしないこと。これが彼の肩書きに「狩人」や「探偵」がつかず、題名が「探究」になっている所以だろう。地味な解決が多いが、こういうのもたまに読むとしみじみと面白い。オカルト探偵もののひとつとして充分楽しむことができた。ただ題名が例えば「メダンズ・リー事件」「ヤンド荘事件」などのように、事件が起こった場所の名前になっているのは、後で見返す時にどんな話だったか分からなくなるので困る。それと、「グレイ・ハウス事件」の中でポーの「モルグ街の殺人」の犯人をあっさりばらしているのには笑ってしまった。

『不良少年とキリスト』坂口安吾 新潮文庫
無頼派作家の戦後の評論を中心に据えた雑文集。中は「恋愛論」「欲望について」「敬語論」といった評論と太宰治らとの座談会、そして織田作之助や太宰治の訃報に寄せた文章など多岐にわたる。個人的に気に入ったのは「恋愛論」「詐欺の性格」「敬語論」などの評論と、太宰治の死に接して安吾が書いた追悼文である表題作。織田作之助への追悼文「大阪の反逆」や表題作はそのまま彼らの作品に対する文学論にもなっていて読み応えがある。二つ収録されている座談会は出席者の顔ぶれの割には若干の物足りなさを感じたが、しかしこれもまた彩りのひとつではある。『堕落論』『天皇陛下にささぐる言葉』といった随筆・評論は彼の思想性を最もよく示すものだと思うので、その延長として楽しめる文章が多かったのは収穫だった。 元来は「風博士」「桜の森の満開の下」「夜長姫と耳男」あたりを好むのだが、彼のこういった文章も悪くない。安吾の世界は焼け跡だし無頼だしちょっと変だけど、読んでいて元気が出るのは「こんな時代でもみんな生きていた」と思えるからかも知れない。一本スジが通っているので、多少ずれていようが関係なく押し通すところが魅力でもある。
以下、文章をいくつか引用してみる。
「私は弱者よりも、強者を選ぶ。積極的な生き方を選ぶ。この道が実際は苦難の道なのである。なぜなら、弱者の道はわかりきっている。暗いけれども、無難で、精神の大きな格闘が不要なのだ」(まるでニーチェ。)
「目下の我々のモラルや秩序や理念だけでは、人間は窮すると中世になる」「この転落を防ぐ真に実力ある方法は、目下のところモラルや理論ではどうにもならず、窮しなければ中世にならない。それ以外には別に方法もないように見える」(今の日本の惨状もこういうことか?)
「一方的に自分の利益だけを主張する、ということには、これを自分一人でやる場合には非常に勇気がいるのである。ところが徒党を結んでやる場合には、全然勇気がいらない」(利益というか、好き嫌いや主義主張に置き換えても同じことだ。一周回っていまや安吾の随筆が身近に思える時代になってしまったのだな……。)
「芥川にしても、太宰にしても、彼らの小説は、心理通、人間通の作品で、思想性は殆どない」「虚無というものは、思想ではないのである。人間そのものに附随した生理的な精神内容で、(中略)キリストは思想でなく、人間そのものである」(正面切って文学論が語られるのは時代を感じる。安吾は文学より思想を語った方が好い気がする。しかし「文士は戯作者であるべし」という主張は面白い。)

『稲生物怪録』角川ソフィア文庫
題名は「いのうもののけろく」と読む。江戸時代の広島・三次(みよし)藩に住む気丈な武士の若者・稲生平太郎が、入らずの山で行った肝試しののちに遭遇した怪異とのひと月に亘る攻防を記録した有名な古文書を、コンパクトにまとめた入門編。フルカラーの絵巻物の部と、本人による一人称の記録「三次実録物語」を京極夏彦が現代語訳した「武太夫槌を得る」を雑誌「怪」第伍号から再録したもの、そして広島藩士・柏正甫による聞き書き「稲生物怪録」を編者の東雅夫氏自身が逐語訳したものの三部から構成される。そもそも元本がこちらの想像の上を行く妖怪変化のオンパレードなのに加え、ツボを心得た訳がさらに愉しませてくれる。他で見たことのない独創性に溢れた妖怪変化の数々と、最後に登場する親玉「山ン本五郎左衛門」の貫禄はいつ読んでもほれぼれする。泉鏡花「草迷宮」、稲垣足穂「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」も大好きだが、やはりオリジナルが手元にあるのは嬉しい。

泉鏡花『海戦の余波』ほるぷ出版
〈名著復刻 日本児童文学館〉の一冊で、明治27年11月に博文館から出版された本の復刻本。海軍中尉を父に持ち、嵐の海で遭難した人を助けようとして溺れた海軍中尉の息子・千代太(ちよた)が海の世界で体験する冒険を描いた童話。本書発行の明治27年(1894年)に勃発した日清戦争の時勢を反映して清国を相手にした勧善懲悪の物語に仕立ててあり、時代を反映して国威発揚の描写も多い。文芸作品として今読むに耐え得るものではないが、鏡花の知らなかった側面が見られて興味深い。「化鳥」や「海神別荘」を連想させるところもあって鏡花ファンとしてはおもしろく読むことができた。竜宮城を死者の赴くところとしているあたり、単純なお伽話とは違う雰囲気も見られる。わがまま放題の男と唐変木な従者の小篇「譬喩談」も併録されているが、こんなものを当時の子供は喜んで読んだのだろうか?今後も絶対に文庫や集成に収録されることはないと思われる二篇であり、名著がどうかはともかくとして綺麗なイラストとともに目にすることができてよかった。(表紙には主人公の千代太と乙姫、家臣の蛸を絵がいた綺麗な絵が印刷されていて、如何にも子ども向けの読み本らしい。)
以下、千代太が嵐の海を見に行くシーンが無駄に格好いいので少し引用してみる。
「一個尺餘(いっかしゃくよ)の赤球の、冥朦(めいもう)として暴風雨に立てる一點紅(いってんこう)は、あはれ太陽が其(その)燃材を失ひて、今や滅亡の期の來(きた)りたる、地球の末路を見るに似たり」
つぎは日清海戦の余波が竜宮城へ向かうところ。
「長さ二尺餘の鰤型水雷波間を縫ひて飛込みつ、玉殿の棟にぶつかりて爆然たる音を発し、微塵に砕けて飛散る刹那、玉殿は凄ましく振蘯してあわや倒れむとぞしたりける」
うーむ、ところどころの描写に鏡花らしい鋭さはあるが、やはり基本的には黒歴史のような気はする(苦笑)。

『随筆 本が崩れる』草森紳一 中公文庫
稀代の読書家にして「物書き」を自称した著者による身の回りについてのエッセイ。以前、文春新書で読んだのだが、中公文庫版で増補されたのでまた買ってしまった。なにしろ蔵書6万2千冊の人のエッセイだけあって何の話を書いても本の影が見え隠れするが、基本的には本に限らず野球や煙草など自らの人生と日々の生活を気の向くままに綴ったものとなっている。好奇心の赴くままに渉猟した分野は中国文学からサブカルチャー、ナチス研究に幕末志士たちなど枚挙に暇がないが、その根本にあるのはやはり物質としての書物だったのだ。「蔵書にわれ困窮すの滑稽」を暮らした風流人は、2008年3月に自宅の中で消息を絶ち、10日後に遺体となって発見されたのだという。そんな事を解説で読んでしまうと、
「本というものは、たえず気をつかっていないと、物も言わずにしのびよってくる獣のようなところがあり、気がついた時は、すでに遅かりしで、人間の居場所などは、知らずに狭められてしまっている」
という言葉も、はたして可笑しいのかぞっとするのか読んでいて自分でもよく分からなくなってくるのである。著者が遺した素晴らしい業績や卓抜したセンス、物書きとしての技量などとはまた別の話として、きっと書鬼ではないが書痴ではあったのだろう。そしてそのような人たちは、わが周辺には結構いるような気がしてならない。 最後に一言だけ引用しておわりとしたい。「つん読の本は、死蔵ではない。読まないでも、本に囲まれているだけで、知恵と安らぎをあたえてくれることをよくしってある人たち、それが、真のつん読派である」
別に自分の言いわけとしてあげたのではない(と思う)。

『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』北村紗衣 白水社
副題に「近世の観劇と読書」とあるように、シェイクスピアの同時代から「正典」として位置付けが確立する18世紀までの膨大な一次資料(シェイクスピア戯曲のファースト・フォリオ、セカンド・フォリオ、その他、当時の女性たちの私信など)をひもとくことで、有名無名の女性たちがいかにシェイクスピアを楽しみ、それが「正典」として評価されることに貢献したのかを明らかにしていく労作。分析の視点は三つあり、ひとつめは17世紀後半の王政復古期において、女性たちがシェイクスピアを始めとする作家たちをどのように評価していたかと、その評価を誰と共有したかについての「解釈共同体モデル」。二つめは女性たちがいかに演劇や文学から楽しみを得て、社会的規範からの自由を勝ち取ろうとした「快楽の重視」。そして三つめはシェイクスピア・レディース・クラブやシェイクスピア・ジュビリーなどの「ファン活動」がいかに正典化に影響を与えたかというもの。シェイクスピアがそれまで正面切って取り上げられなかった「優しさなど伝統的に女性らしいとされる特質を巧妙に表現」していた点や、上流階級や男性だけでなく労働者をはじめとするあらゆる階級や女性も足繁く通った芝居の台本であったこと、ロンドンから遠く離れた地方では刊本の形で楽しまれたこと、そして古典語などの高等教育を受けられなかった女性たちが、実際には家庭や交流関係を通じて大きな社会的影響力を持っていたことなど、読むほどに目から鱗が落ちる内容ばかりだった。
まず、ラテン語やギリシャ語などを学ぶ機会がなく俗語である英語だけで文学活動をした女性たちが、シェイクスピアを評価することで女性の立場の強化に結びつけていたという説明が新鮮。それがシェイクスピアの作品を「正典」とすることに大きな力となっていったとのこと。シェイクスピア戯曲などへの書き込みや私信における台詞の引用からは、女性たちがいかにシェイクスピア劇を楽しみ受容していたかという生き生きとした生活が垣間見える。「閉ざされてもおらず、絶対的でもないシステムで、再開、再解釈、再形成の可能性を秘めたダイナミックで変化する実体」たる正典はそのようにして出来てきたとのことだ。なおこれらの研究が実現したのは、「(昔は)本は性別や階級、季節を問わずいつでも誰でもやりとりできる、長持ちする贈り物として重宝されており、贈与や貸与を通して知識と友情の両方が共有されていた」なのだそうだ。さらに18世紀になると小説や定期刊行物が隆盛になり、女性作家によるシェイクスピアの本からの引用も増えて批評も発達し、「シェイクスピアの価値を構築する」ことが盛んになっていく。なるほど。ここまでくると今に近づいてくる感じがある。
そして1769年には「シェイクスピア・ジュビリー祭」という一日あたり千人を超えるファンが参加したイベントが、彼の故郷ストラトフォード=アポン=エイヴォンで開催され、シェイクスピア人気を決定づけた。ちなみに「ジュビリー」とは50年ごとの記念行事のことだそうで、本当はシェイクスピアの没後150周年にあたる1766年に開催したかったが、諸事情で3年後の1769年にずれてしまったそうな。
シェイクスピアの歴史物はあまり興味が無くて手を出していなかったのだが、本書を読んでちょいと興味が湧いてきた。

『蘆屋家の崩壊』津原泰水 ちくま文庫
語り手の「おれ」こと猿渡という男性が体験する怪異の数々を描いた八篇を収録する連作短篇集。怪奇小説家の「伯爵」との凸凹コンビぶりがいい息抜きになっているが、基本的には怖い話である。ひとつひとつの物語は実話怪談風のものや民俗学的なネタ物、サイコホラーに異形生物、ミステリー的な味付けのものや昏い幻想譚などバラエティにとんでいる。わざとそのような趣向にしたのかと思ったが、巻末に記された著者による跋によれば、結構行き当たりばったりで書いた為のようだ。しかしそれで悉く秀作、且つ全篇が巧く繋がっているのは大したもの。文庫版は書き下ろし作品「奈々村女史の犯罪」を加えた完全版とのことで、怪奇小説ファンなら読んで絶対に損はないともう。(といいつつ自分だって怠慢にも読んでいなかったのだが。食指が動かなかった理由をつらつら考えるに、思うに表題が『蘆屋家の崩壊』なのでパロディ物かと思ってしまったのかもしれない)
収録作はどれもそれなりの味わいで面白いのだが、その中でも個人的に特に気に入ったのは「ケルベロス」「奈々村女史の犯罪」「水牛群」あたり。いずれも締めくくりの一文が秀逸である。

『わたしは英国王に給仕した』ボフミル・フラバル 河出文庫
上昇志向の強いチェコの青年が、ホテル「黄金の都プラハ」の給仕見習いを皮切りに職場を渡り歩いてゆく、ラブレーやダールを思わせるような5つの物語……かとおもいきやナチスの進行と共に事態は大きく変わり、次いで共産革命に翻弄される奇想天外な話だった。下卑で悪趣味な展開も多いが、「信じられないことが現実になる」エピソードの連続はどこか東欧版の魔術的リアリズムを思わせる。「何も見ないし、何も耳にしない」しかし「ありとあらゆるものを見なきゃならないし、ありとあらゆるものに耳を傾けなきゃならない」という、まるで冒頭に主人公が教わる給仕の心得そのままの、驚異的な記憶による一人語りは、歴史に埋もれてしまった無名の人々の喜びや怒りや悲しみを、圧倒的な密度で読者にぶつけてくる。繰り返される悲喜劇の果てに彼が辿り着いた心の境地は、果たしてハッピーエンドと呼べるものなのだろうか。動物たちとの交流がちょっと崇高なものにも思えてくる。 訳者が阿部賢一氏ということで予備知識なしで買った本だったが、選択は間違ってはいなかった。いろんなエキスが溶け込んでいる作品なので、しばらく反芻して愉しんでみたい。やはり本書のような密度の濃い話を時々読まなくては駄目だ。

『穴』小山田浩子 新潮社
第150回芥川賞を受賞した表題作に、「僕」と妻と友人の斉木夫妻の交流を綴った「いたちなく」「ゆきの宿」の二篇を収録した短篇集。前に読んだ『工場』ほどではないが、何気ない日常の描写が続くなかに突然異質なものが入り込むのがなんとも気持ち悪くて好い。自分のなかでは吉田知子や川上弘美と同じ仲間に属するのであるが、不穏な気配だけを感じさせてすっと退くあたりがこの人らしい感じがする。「穴」では川原に穴を掘って暮らす謎の獣や主人公の義兄、微妙に食い違う姑とのやりとりなどが、視界から外れたところにぽっかり空いた孔を暗示するようでそれでいてこともなく日常が過ぎていき、どうにもおさまりの悪い読後感を残す。「いたちなく」でも「ゆきの宿」でも同様で、妻がポツリとこぼした鼬のエピソードや、夜のアロワナの水槽が異界への入口を暗示しつつも、決してその姿を見せることはなく、物語は緩やかに終息してゆく。自分はどれも幻想小説として愉しんでしまうのだが、他の人はどうなのだろう。こういうのが文学と呼ばれるものであるのなら、きっと自分は文学が好きだ。

『仮面の道』クロード・レヴィ=ストロース ちくま文庫
北米先住民の〈サリシュ族〉に伝わる呪術面であるスワイフウェ仮面と、隣接する地域に住む〈クワキウトル族〉に伝わるゾクノワ仮面とクウェクウェ仮面。それらの仮面の特徴と神話分析を軸にして、目や顎などの造型や白と黒の色彩、富と吝嗇、"天空と水"という垂直軸に対する"村と森"という平行軸、あるいは人喰いや近親相姦の禁忌に、羽根と毛皮といった神話的役割や象徴の対比を行うことで、仮面の関係構造を明らかにして行く。伝播していく過程で役割が反転したり、正反対の造型となっているのを総合的に比較していくことで、個々の分析では分からなかった巨大な構造が次第に見えてくるのは、いつもながら圧巻である。〈神話論理〉のような大著と違って研究の対象が絞られているので、レヴィ=ストロース入門としても向いているのではないだろうか。文庫版の特典として、訳書が日本で出た後に本国で出版された増補版の追加部分が新たに訳出されて収録されているのも嬉しい。 今の時代、哲学思想としては批判的な見方もされる構造主義ではあるけれど、神話分析と結びついたときの破壊力はやはり半端ではないと思う。読み進むうち勝手に輝いていた星々が線で結ばれて星座が見えてくるような、もしくは巨大な伽藍が徐々に姿を現してくるような快感がある。これだから文化人類学はやめられないのだ。

『漁師とドラウグ』ヨナス・リー 国書刊行会
叢書〈魔法の本棚〉の一冊。ノルウェーの国民的な作家による、海を舞台にした幻想譚が11篇収録された短篇集。勿体ないので大事にとってあったのだが、ついに手を出してしまった。北欧の暗く荒れた海と死者たちが集う物語は、ドラウグやトロルといった超自然の魔物たちが跋扈する、厳しくもどこか民話的な世界である。内容は全く違うのだが、なぜか『御伽婢子』や『狗張子』といった本邦の奇談集を連想するところもあった。基本的には怪談話が多くて愉しいのだが、そんな中でも特に気に入ったのは「スヨーホルメンのヨー」「綱引き」「アンドヴァルの鳥」「青い山脈の西で」あたりだろうか。(「ドラウグ」って何となく竜のような姿を想像していたのだが海豹の姿をした化け物だった。)
この〈魔法の本棚〉は他にもコッパードの『郵便局と蛇』をはじめ、とんでもなく恐ろしいウェイクフィールド『赤い館』やエイクマン『奥の部屋』など傑作が目白押し。装丁も素晴らしく、まるで宝石箱のような叢書である。苦労して集めた甲斐があったというものだ。

『アナーキストの銀行家』フェルナンド・ペソア 彩流社
著者が遺した膨大な草稿の中から完成度の高い小説を選んで作られた短編集。全部で7つの作品が収録されているが、長いのは冒頭の「独創的な晩餐」と巻末の表題作だけで、残りは数ページ程度の短いスケッチのようなものばかり。ダールやエリンなどの〈異色作家短編集〉の誰か、あるいはチェスタトンあたりを連想させるような、読みやすくてへそ曲がりな話ばかり。ペソアがこういう話を書くとはちょっと意外だった。洗練されたという感じではないが、ごく普通に楽しめる。個人的には「忘却の街道」の幻想味と「狩」のやるせなさ、「アナーキストの銀行家」のひねくれ方が気に入った。 特別ボーナスとして彼が遺した補遺テキストも収録されていて、完成版とはまた違った形の表題作も愉しむことができる。至れり尽くせりであるね。

『未来への大分岐』マルクス・ガブリエル/マイケル・ハート/ポール・メイソン/斎藤幸平 集英社新書
経済思想学者・斎藤氏と3人の論客による対談集。第一部のM・ハート(米)では、アントニオ・ネグリとの共著『〈帝国〉』に始まる三部作で示された「コモン」「マルチチュード」といった概念に基づく、新自由主義とも福祉国家への回帰とも違う新しい民主主義のビジョンが語られる。続く第二部M・ガブリエル(独)では、話題をよんだ著書『なぜ世界は存在しないのか』で展開された新実在論をベースに、民主主義を破壊する相対主義からの離脱と倫理の普遍性に拠る熟議型民主主義への移行、哲学の可能性について議論が交わされる。最後の第三部は『ポストキャピタリズム』の著者である経済ジャーナリストポール・メイスン(英)が主張する、情報技術の発達が社会に与える4つの衝撃と、それによる資本主義の終焉が示される。ちなみに4つの衝撃とは①モノや情報財の生産費用や価格が限りなくゼロに近づくこと、②高度な自動化により労働と余暇の関係性が変わっていくこと、③ネットによる人々の繋がりが「正の外部性」という新しい実用性・効用を創出すること、④協働による情報の民主化を促進すること、以上の4つである。 本書に出てくる4人の考えは一致する部分もあるし食い違う部分もある。共通するのは「上からの」押し付けではなく自然発生的な社会運動への期待であったり、一部の人間によって情報テクノロジーが独占されることの危険性、トランプやプーチンといった権威主義的リーダーの台頭への危機感など。状況が絶望的になりつつある焦りもあるが、未来への希望も垣間見える。 いま流行りの本全体を覆う帯になっていて、話題のM・ガブリエルが一番目立つ扱いになっているが、個人的にはハートとの対談が初っ端から新自由主義に引導を渡していて気持ちいい。ピケティ『21世紀の資本』、ハート&ネグリ『マルチチュード』、バラード『千年紀の民』あたりが思い出されて好印象で、一番読み応えがあった。斎藤氏とメイソン氏の対談では他の2人に比べて意見の食い違いが多く見られたが、その理由は、より具体的な処方に関する議論だったからではないかと思った。(政治体制がしっかりしている西欧では政府を通じて対策がうちやすいのに対し、日本をはじめとするアジア地区では国に期待出来ない。)しかしどの人もそれぞれの著書の内容を過不足なく紹介した上で議論に踏み込んでいて解りやすい。ネグリ&ハートとガブリエルは読んだがメイソンは未読なので、そのうち読んでみなくては。消費税が上がり改憲が話題に上がる今こそ読んでおくべき本だと思う。特に「難しいこと分からないから全部政府与党にお任せ」とか盲目的に「日本すごい」とか言ってる人にこそ読んでもらいたいが、でもそういう人は絶対読まないのだろうなあ。
最後に題名の「分岐」についてひとこと。英語の「危機(crisis)」はギリシャ語に由来し、「疫病の転換点」といった使われ方をしていた言葉だそうだ。適切な手当てをすれば快方に向かい対処を誤ると取り返しがつかない事態になる、「危機」とはそのような重大な「分岐点」を指し、本書は世界がそのような危機を迎えているという認識と、危機を好機に変えるための展望を示すことを狙いとしているとのことだ。副題にある「資本主義の終わりか、人間の終焉か?」とあるのも、前者はポストキャピタリズムとしての新たな社会モデルへの離脱という肯定的な意味でつけられている。

『なめらかな世界と、その敵』伴名練 早川書房
以前から絶賛の声を聞いていた作家の初作品集。表題作を含む6つの短篇が収録されている。この人の作品自体を初めて、そしてまったく予備知識無しで読んだのだが、ど真ん中豪速球の、さまざまな先行作品に対する思いに溢れた作品ばかりだった。どう説明すればいいのだろう。例えばミル・クレープのケーキを想像してもらいたい。過去から現在までの国内外のSF小説のすべてを薄く積み重ねて作ったミル・クレープ。縦に切ると色とりどりの断面が美しく、一片をスプーンで掬って口に入れると、層の間に挟まれたクリームとフルーツのような過去の名作の断片を「あ、これはアレだ」という具合にいちいち確認しながら味わうことができる。話自体もとっつきやすく、ボーイ・ミーツ・ガール的な気恥ずかしさもあって、自分のようなおじさんには妙に懐かしい。先行作品へのオマージュという点ではダン・シモンズの〈ハイペリオン・シリーズ〉が思い出されるが、こちらの方が根っこの部分はもっと感傷的であったかい印象がある。また同じようにとっつきやすいみてくれでも、ディレイニーの場合は、深く掘り下げていくと神話だったりタロットだったりといった、ある種の「教養」が滲み出てくる感じがするのだが、こちらから溢れ出てくるのは古今東西のSFに対する真っ直ぐな敬意と愛だ。終着点は出発点と同じくまた愛すべきSFであり、小さく美しい。
収録作に対する個人的な好みからいうと「ゼロ年代の臨界点」や「シンギュラリティ・ソヴィエト」あたりと相性がいいのだが、表題作や巻末書き下ろしの「ひかりより速く、ゆるやかに」などは高校生か大学生の頃に読んだらころっと参ってしまっただろうと思う。梶尾真治氏の諸作品やマイクル・コニイ『ハローサマー、グッドバイ』などを連想させて秀逸である。さりげなく「竜のグリオールに絵を描いた男」や『漂流教室』や『夢幻会社』を織り交ぜてあるのもくすぐりが巧い。視覚的イメージに溢れ、アニメ的でもある。どなたかもツイッターで呟いておられたが、あまりSFを読んだことのない人から古参のファンまで、いろんな人がそれぞれ愉しむことができる稀有な作品集だと思う。これからが楽しみな作家が増えたので嬉しい。

『文豪たちの怪談ライブ』東雅夫/編著 ちくま文庫
明治後期から大正にかけて泉鏡花や柳田國男といった小説家や学者、画家やジャーナリストらの間で一大ブームとなった百物語・怪談会。新聞雑誌や書籍などからそれらの記録を丹念に掘り起こし、当時の空気を今に甦らせる。『文藝百物語』に始まり『百物語の怪談史』『遠野物語と怪談の時代』、そして一連の〈文豪怪談傑作選〉のシリーズと内容が重なり合ったり補足しあったりしながら、当時の様子が臨場感をもって迫ってくる。本書では特に鏡花を焦点を定めて、人々との関わりを描くことに注力されている。芥川龍之介や室生犀星といった文豪にこれまでと全く違う光を当てた事だけでも本シリーズを高く評価しているのだが、このように色々な角度で分析を加えていくと、立体的な捉え方ができてさらに面白みが増していく。良き哉。 本書ならではの趣向として、各章のはじめに鏡花の末期の様子が綴られ、紗久楽さわ氏によるイラストがまた興を添えている。ややもすると明治・大正の文章ばかりで堅苦しく感じる人もいるかも知れないが、それをこれらの趣向が和らげている感じがするのも好い。(あれこれ書いたが要するに、おばけ好きなのでこういう本がとにかく愉しいのである。本書はさらに一級の資料でもあるうえ面白いし。)

2019年7月の読了本

今月は12冊。人生としては大きな節目のあった月だったが、それでも粛々と、淡々と日々の暮しは続いていくのです。

『脳天壊了(のうてんふぁいら)』吉田知子 景文館書店
吉田知子選集の第1巻。表題作をはじめ、現実と妄想・幻覚の判別がつかない不思議で恐ろしい物語を7つ収録した短篇集。現実とは思えないおかしな状況が徐々に進行していき、その間にカットバックのようにトラウマになりそうな過去の記憶が挟み込まれる。まるで休む間も無く悪夢が続く無間地獄のような世界である。その中でとりわけ異彩を放つのは「寓話」と「東堂のこと」の二篇。物語としての起承転結を排除し、静かな日常の描写を徹底することで、地続きのままどこか違う世界へと連れて行かれる感覚がすごい。夢か現かも判らず、それでいてスーパーリアリズムの絵画のように細部まで焦点のあった不気味な話としては、「乞食谷」と「常寒山(とこさぶやま)」が圧倒的だった。この人の作品集はこれで3冊目だが、いずれもレンガで頭を殴られるような、とんでもない作品ばかり。以前読んだ選集Ⅲの『そら』の収録作よりも、クセがあって強烈な作品が多かったような気がする。(あの「お供え」が普通に思えてしまうぐらい。)この後は収録作について思いついた感想を。
まず表題作の「脳天壊了(のうてんふぁいら)」。この作品の全体を覆う雰囲気は、卯月妙子のトラウマ漫画『人間仮免中』にも似ている。本作や「艮(うしとら)」のように最初から「いってしまっている系」の作品は、「お供え」や「迷蕨(めいけつ)」のようにじわじわと日常が侵食されていくのとはまた違う怖さがある。次は「ニュージーランド」。なぜだか知らないが大好きな映画であるフェリーニの映画『そして船は行く』を思い出した。「乞食谷」と「寓話」は、書かれていることは理解出来るが何が書いてあるのかが分からない作品。何かを仮託しているのかも知れないが、されたものが何なのかさっぱり分からない。誰かに感情移入できるわけでもなく、はらはらもすっきりもしない。しかしそれが好い。病みつきになるわけだ。
「東堂のこと」という作品は、ある軍人の一生をただひたすらにエピソードの羅列で描いていく。雰囲気は全く違うが、なぜか上田秋成『春雨物語』の「樊噲(はんかい)」が連想される。外面描写だけが淡々と続く構成だからだろうか。この著者の題名の付け方は、即物的であると同時にとても象徴的だと思う。中身を読んでいるうちに題名がゲシュタルト崩壊を起こしていく。これもまた魔味である。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』ブレイディみかこ 新潮社
『花の命はノー・フューチャー』でハマって、『労働者階級の反乱』で唸って、これがこの人の本の3冊目。地元の「元底辺中学校」に通うようになった息子の暮らしぶりを通じて、貧困や差別や階級や世代や社会と、そして若者の失敗や成長や楽しさや哀しみを見守るとともに、自らも体当たりで悩み喜ぶ親の姿が赤裸々に描かれる。これまでの著作も良かったが、本書では11歳(中1)の息子と一緒に読者も学んでいくことができて、これまでで一番好かった。(たとえば「エンパシーとは何か」という問いを投げかけられて、「自分から誰かの靴を履いてみること(他人の立場に立ってみるという意味の定型表現)」なんて大人でも答えられないぞ、普通。)
前にも書いたれども、この人の書く文章にはエスノグラフィーの視点があって、文化人類学好きからするといちいち面白くて仕方がない。そして個々のエピソードに対して述べられる著者の雑感がまた、どれも読者に難しい問いを投げかけてくるようで、優れて思弁的なのだ。「パンクの矜持」みたいなものを感じてしまって、なんか山口雅也氏のミステリシリーズ〈キッド・ピストルズ〉の独白を読んでいるみたいで非常に格好いい。息子氏にはぜひともこのまま健やかに成長していって、年寄り世代の確執やヘイトや格差など軽やかに乗り越えて行ってもらいたい。前に雨宮まみ『女の子よ銃を取れ』だとか、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』を読んだ時と同じような、爽やかさに満ちた読後感があった。とても気に入った。

『三体』劉慈欣 早川書房
これは紛う事なき本格SFだった。ちなみにここで云うところの「本格SF」とは、科学的知見と、それに裏打ちされた叙情性を兼ね備え、さらに人類や文明に対する問題意識を持つ作品のこと。いわゆる「誰にお薦めしても恥ずかしくない」模範的なSF小説と云ってもいい。イメージ的にはかつての小松左京やA・C・クラーク、今なら上田早夕里やグレッグ・イーガンなどがそれにあたると思う。しかしその一方で「絶望の底から人類に復讐を誓う天才科学者」や「世界の壊滅を画策する秘密結社」をシリアスに描いてしまうような、ひと昔前の特撮映画のような危うさも持つ。そして何より熱い。以前インド映画『バーフバリ』を観たとき、ハリウッド映画には無いパワーを感じて夢中になったが、本書にも同じような印象を持った。(もちろん著者に破天荒なアイデアとそれをモノにするだけの力があったからこそ実現できたといえるだろう。)
文化大革命が引き起こした数々の不幸の描写が本書に重みを加えているが、これは小松左京において「焼け跡」が持つ意味に近しいものがあるのかも知れない。SFにしか書けないテーマをSFにしか書けないやり方で書いた良質なエンタメを久しぶりに読んだ気がする。続篇も刊行されるようで楽しみだ。(そして願わくば最後までこのままの勢いで走り切って欲しい。)

『妄想 他3篇』森鷗外 岩波文庫
著者中期の作品「妄想」「蛇」「心中」「百物語」を収める。それにしても鷗外作品は相変わらず読みにくい。一文が長いのは鏡花で慣れているつもりなのだが、それに加えて著者の性格が厭世的で、何に対してもさめたところがどうにも気持ちが悪い。しかしそんな中でも「蛇」と「百物語」が題材の面白さもあって楽しめた。「蛇」ではある素封家の家に泊まることになった語り手が、その家の妻が癲狂となるに至った顛末を聞くという、実話怪談にでもありそうな話だ。「百物語」は当時の富豪が催した百物語の会に招待された時の記録。結局のところ怪談自体は聞かずに帰ってきてしまうのだが、実際の百物語の会がどのような趣向で開かれたのかが分かってたいへんに興味深い。この会は東雅彦『遠野物語と怪談の時代』でも取り上げられていて詳しく知りたいと思っていたので、今回読むことが出来てよかった。(ただし鷗外という人が好きかどうかはまた別の話/笑)

『神戸・続神戸』西東三鬼 新潮文庫
俳人・西東三鬼が戦中から戦後にかけて暮らした、神戸トーアロードに建つ奇妙なホテルと山の手の住宅の思い出を綴った文章を集める。トルコ人やエジプト人、白系ロシヤ人にバーのマダムなど、国籍も経歴も様々な人々との共同生活は、神戸という街でしか成立し得なかった奇跡的な一瞬を戦火や廃墟の中に立ち上らせ、まるで『日本三文オペラ』を思わせるようなバイタリティと哀しみが活写される。帯には「戦時下の神戸に、幻のように出現する『千一夜物語』の世界」とあるが、それは同時に稲垣足穂の『一千一秒物語』や「星を売る店」等の神戸の陰画であるとも言えるのではないか。地べたに這いつくばって泥水をのみ、それでも粋でモダンで太々しく自由な生き方を貫く彼等の姿を見ていると、そんな風にも思えるのである。さらに戦中戦後を自在に行き戻りする記憶によって読んでいるこちらの時間感覚もおかしくなってくる。(「魔術的」とは言い得て妙。)
とにかく俳句とはまた違う著者の貌が見られて良かった。読みかけになっている全句集もなるべく早く読まなくては。

『なにかが首のまわりに』チママンダ・ンゴズィー・アディーチェ 河出文庫
ナイジェリアに生まれ育ちアメリカで学んだ作家による十二の短篇を収録。様々な「生き辛さ」の形が、アフリカという土地に住む者や移民、あるいは女性といった視点で描かれる。疎外され迫害され、あるいはマイノリティとして生きることをやむなくされる者たちの内面は荒涼として時にいたたまれないが、しかしそれでも一歩踏み出そうとする姿には何か感じ入るものがある。さすがは名エッセイ『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』の著者と感心しながら読み進むと、これまで読んだことのないタイプの作品ばかりだが極めて繊細であった。決して読みやすくはないが読むべき価値はある、そういう類いの本があるが、本書もその一冊だと思う。優しげな外観に惑わされて侮ってはいけない。誠実であることは優しさを意味するわけではない。優しいことは誠実であることではない。しかし誠実でも優しくもなければ生きている意味がない。ぎりぎりのところで見えてくるものが描かれているのだと思う。特に気に入ったのは「イミテーション」「ひそかな経験」「ジャンピング・モンキー・ヒル」「なにかが首のまわりに」など。後半では「アメリカ大使館」の絶望感が際立っていたが、最後の「がんこな歴史家」もこの著者の作品にみられるグローカルな考え方が強く出ていても非常に好かった。(なんとなく『キリンヤガ』を思い出した。)ちなみにアディーチェ作品を読んでいるとなぜか今村夏子を思い出すのだが、つらつら考えているうち理由に思い当たった。どちらの著者の作品でも、主人公たちが理不尽で不条理な世界に接するとき、いわゆる「シャッター反応」を示しているのだ。(ただ、その先に一歩踏み出すのか、あるいはそのままで留まるかによって、両者が目指すところは根源的に違っているのかもしれない。)

『未来の地図帳』河合雅司 講談社現代新書
副題は「人口減少日本で各地に起きること」。国立社会保障・人口問題研究所が作成した「日本の地域別将来推計人口」という報告書をもとに、これから2045年に向けて日本各地の人口がどのように変化して、それが行政や生活にどのような影響を及ぼすおそれがあるかについて推測した本だ。基本的には細かな数字の羅列なので日本全国でのイメージは浮かべにくいが、大雑把にいうと「①今後も人口が増え続けるのは東京圏と福岡などごく一部の大都市圏のみとなる」「②地方の中核都市に人口流入が進み周辺地域の減少が激しくなる」「③その結果、大きく人口減少が進んで自治が立ち行かなくなる都道府県や市町村と、さほど人口減少が進まず規模が維持できる大都市、そしてますます人口が増える東京といった図式になる」「④これらの変化とともに、高齢者の占める割合は急激に増え続ける」とまあ、こんな感じだろうか。最後の第3部では、そのような時代に向けて政府が掲げるものとは別の、著者なりの処方箋が「5つの視点」としてまとめられている。これが成功するか否かは議論の余地があるにせよ、確かにこれまでの延長的な発想では上手くいかないのは間違いないだろう。少子高齢化とは国土ではなく人口による『日本沈没』である。そしてフィクションではなく数十年後にやってくる現実なのだ。

『怪奇骨董翻訳箱』国書刊行会
今では忘れられた作家・作品を掘り起こし、それぞれタイプの違う「六つの匣」に分けてまとめた、垂野創一郎氏の編訳によるアンソロジー。書名はジェネシスのアルバム名『怪奇骨董音楽箱』からとったとおぼしい。中身は怪奇というより副題の「ドイツ・オーストリア幻想短篇集」の方が正確だろう。世の中にはコッパードやチェスタトンと言った、ひとつのジャンルに収まりきらないタイプの作家がいるが、本書収録の作品もそれらの作家を思わせる、とても奇妙な作品が多かったように思う。(もちろん自分としては、怪奇も好きだがそちらの方も好物なので問題なし。)ポルデヴェイク「クワエウィース?」やフォルメラー「恋人」、それにヘルツマノフスキ=オルランド「さまよえる幽霊船上の夜会(抄)」あたりはかなり気に入った。まるでチェスタトンを読んでいるようなローゼンドルファー「人殺しのいない人殺し」、珠玉の幻想が楽しめるフライ「変貌」、フレクサ「伯林(ベルリン)白昼夢」なども悪くない。18の収録作のうちには、誰でもきっと気にいるものが見つかるのではないか。幻想小説好きにはこの上ない贈り物だった。

『2001年宇宙の旅』アーサー・C・クラーク ハヤカワ文庫
同題のキューブリック監督映画と同時進行で書かれた原作小説。8月3日に開催された読書会の課題本なので数十年ぶりに再読した。昔はノベライズのつもりで読んだので今ひとつの印象だったが、今回改めて独立した小説として読んでみたところ、とんでもない傑作だった。クラークは高校生の頃に一番好きだった作家で、ベストは神秘主義的側面が色濃くでた『幼年期の終わり』で揺るぎないのだが、もうひとつの側面であるハードSFの傑作として『宇宙のランデヴー』『地球帝国』『楽園の泉』といった作品も高く評価している。そういう見方をしてみると、全体の半分近くを占める迫真の宇宙飛行の様子は、これ以上ないほどリアルに、誰も見たことがない風景を目の前に描き出してくれている。映画の印象があまりに強烈なので、ついストーリーにばかり目がいきがちだが、一見、物語の進行に直接関係が無さそうにみえる部分に目をやると、本書の半分近くを占める極めて精密で科学的誤謬がない描写の中にこそ、クラークが本当にやりたかったことが見えてくる気がする。科学的に正しい考証に基づいて、誰も観たことのない壮大な景色を描く「科学的幻視」とでも言うべきものは、まさにSFの醍醐味であるわけで、クラークならば例えば『宇宙のランデヴー』や『楽園の泉』、日本では『日本沈没』や『さよなら、ジュピター』などの小松左京が得意とするところだった。それらは本書でも健在である。(余談だが、本書中に紙の書類に替わって「ニュースパッド」というiPadみたいな端末が使われている描写があって驚いた。あとで教示いただいたところによれば、これはアラン・ケイという人がかつて提唱した「ダイナブック」という概念らしい。)
一方でモノリスやスターチャイルドの面に目を向けると、これまたクラークの趣味全開となる神秘主義的人類進化のど真ん中である。(そうなるとまるで水と油のような科学と神秘主義を結びつけるのが機械的知性の代表となるHALの反乱ということになるだろうか。)ちなみにクラークは科学考証の確かさと神秘主義が矛盾なく同居しているところが面白いのだが、小松左京の場合は科学考証と同居しているのは焼跡が培った民族や人類に対する情念だったりする。イーガンの場合は文学性というか倫理性というか、そんな感じのもの。ニーヴンやクレメント、フォワードあたりはエンタテイメントとしてのSFを志向しているので、科学の器に盛っているのは実は「娯楽性」ではないかという気がしている。面白いけれど後にはあまり残らない。
閑話休題。映像では象徴や比喩としてしか表現し得なかったモノリスの役割も小説になれば極めて分かりやすく、かつスターゲート通過後にみえてくる光景も驚異に満ちていて、自分のなかでクラークが大好きだった高校生の頃の自分が喜んでいるのが良くわかった。神秘主義的な超人類への飛翔と科学的な描写の、一見交わることの無いような概念が同居しているところが本書の魅力であると同時にアンバランスさを示しているがそれでも、いや、だからこそ、ハードSFの器に神秘主義を盛ったクラークならではの傑作といって良いのではないだろうか。いやほんと、読み返すって大事なことだとつくづく思った。

『小鳥たち』山尾悠子/中川多理 ステュディオ・パラボリカ
何処とも知れぬ国にある〈水の城館〉に住まう侍女たち。「小鳥たち」と呼ばれる彼女らと大公妃が繰り広げる幻想的な日常の物語と、気鋭の人形作家による侍女たちの人形写真を収めた愛蔵の一冊。とりわけ最後に収録された老大公妃と黒小鳥たちの写真には鳥肌が立つほどの衝撃を受けた。巻末には両氏による本書成立までの顛末に触れた小文が添えられ、「小鳥たち」「小鳥たち、その春の廃園の」および書下ろしの「小鳥の葬送」という、昏い輝きを放つ黒い宝石のような三篇を飾っている。山尾悠子氏の本はいつも宝箱のようだが、本書はとりわけその印象が強い。

『2010年宇宙の旅』アーサー・C・クラーク ハヤカワ文庫
『2001年宇宙の旅』の"映画版"の方の設定を使った続篇。スターゲートの彼方に消えたボーマンと、木星に投棄されたディスカバリー号のその後が、フロイド博士の目を借りて語られる。ハードSFとしての醍醐味は木星及び衛星の科学的描写と、木星軌道上からの奇想天外な脱出にあるが、作品の主眼はそれよりも寧ろフロイド博士や宇宙船のクルーが織りなす人間模様を描くことにおかれていて、良くも悪しくもハリウッド映画的。オープンで壮大な序曲を思わせた前作のラストを受けた続篇にしては随分こじんまりとしてしまった印象で、個人的にはちょっと残念だった。前半はフロイド博士らが追体験するディスカバリー号の消息なのだが、これなどはタネ明かしをされた手品で別の人たちが驚いている様子を側から眺めているような感じをもった。会話が多くなっているのも、理路整然とした説明文が特長のクラーク作品としては却ってマイナスに働いてしまっている気がする。一番違和感を感じたのは、『2001年宇宙の旅』の映画版と小説版で食い違っていた設定やエピソードを、本書では映画版の方に合わせてしまったこと。だから小説を続けて読むと、似て非なるものになってしまっているのだ。別に映画に合わせなくてもよかったのではないかと思う。さらに本書の中には超知性体となったボーマンの視点から語られるシーンがあるが、これは明らかに超知性を超えた完全なる神(=著者)の視点。
以上、「見たことのない驚異」をSFに期待する自分としては厳しい評価となったが、それでも(ラストの明るさも含めて)娯楽作品としてはまあ及第点といえるのではないかと思う。

『2061年宇宙の旅』アーサー・C・クラーク ハヤカワ文庫
『2001年』『2010年』に続く〈オデッセイ〉シリーズの三作目。これまでと同様にフロイド博士が主役をはっているが作風は全く違っており、ユーモアを交えて娯楽に徹した作品になっている。著者自身による『2001年宇宙の旅』の設定を借りた二次創作と云って良いかもしれない。(訳者も他の3冊が伊藤典夫氏なのに対して本書だけが山高昭氏になっている。)しかしここまで違っていると、割り切って読んでしまえば、これはこれでなかなか面白かった。(ただし『2001年宇宙の旅』に始まる人類進化の謎の進展を期待すると見事に肩すかしをくらうので注意が必要。)
内容はフロイド博士がハレー彗星を探検したり、エウロパに不時着してしまった宇宙船の乗客を助けに向かったりと盛りだくさん。かの名作短篇「メデューサとの出会い」を彷彿とさせる異星生命体との邂逅など見せ場もあり、エウロパの空高く聳えるゼウス山の秘密が早々に予想出来てしまう点を割り引いても良く出来ていて、気軽に読める娯楽作として前作よりむしろ自分の中での評価は高かった。ただ、無理にフロイド博士を出さずに単独作品にしてしまった方がもっと良かったのではないかという気がしないでもない。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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