FC2ブログ

2019年7月の読了本

今月は12冊。人生としては大きな節目のあった月だったが、それでも粛々と、淡々と日々の暮しは続いていくのです。

『脳天壊了(のうてんふぁいら)』吉田知子 景文館書店
吉田知子選集の第1巻。表題作をはじめ、現実と妄想・幻覚の判別がつかない不思議で恐ろしい物語を7つ収録した短篇集。現実とは思えないおかしな状況が徐々に進行していき、その間にカットバックのようにトラウマになりそうな過去の記憶が挟み込まれる。まるで休む間も無く悪夢が続く無間地獄のような世界である。その中でとりわけ異彩を放つのは「寓話」と「東堂のこと」の二篇。物語としての起承転結を排除し、静かな日常の描写を徹底することで、地続きのままどこか違う世界へと連れて行かれる感覚がすごい。夢か現かも判らず、それでいてスーパーリアリズムの絵画のように細部まで焦点のあった不気味な話としては、「乞食谷」と「常寒山(とこさぶやま)」が圧倒的だった。この人の作品集はこれで3冊目だが、いずれもレンガで頭を殴られるような、とんでもない作品ばかり。以前読んだ選集Ⅲの『そら』の収録作よりも、クセがあって強烈な作品が多かったような気がする。(あの「お供え」が普通に思えてしまうぐらい。)この後は収録作について思いついた感想を。
まず表題作の「脳天壊了(のうてんふぁいら)」。この作品の全体を覆う雰囲気は、卯月妙子のトラウマ漫画『人間仮免中』にも似ている。本作や「艮(うしとら)」のように最初から「いってしまっている系」の作品は、「お供え」や「迷蕨(めいけつ)」のようにじわじわと日常が侵食されていくのとはまた違う怖さがある。次は「ニュージーランド」。なぜだか知らないが大好きな映画であるフェリーニの映画『そして船は行く』を思い出した。「乞食谷」と「寓話」は、書かれていることは理解出来るが何が書いてあるのかが分からない作品。何かを仮託しているのかも知れないが、されたものが何なのかさっぱり分からない。誰かに感情移入できるわけでもなく、はらはらもすっきりもしない。しかしそれが好い。病みつきになるわけだ。
「東堂のこと」という作品は、ある軍人の一生をただひたすらにエピソードの羅列で描いていく。雰囲気は全く違うが、なぜか上田秋成『春雨物語』の「樊噲(はんかい)」が連想される。外面描写だけが淡々と続く構成だからだろうか。この著者の題名の付け方は、即物的であると同時にとても象徴的だと思う。中身を読んでいるうちに題名がゲシュタルト崩壊を起こしていく。これもまた魔味である。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』ブレイディみかこ 新潮社
『花の命はノー・フューチャー』でハマって、『労働者階級の反乱』で唸って、これがこの人の本の3冊目。地元の「元底辺中学校」に通うようになった息子の暮らしぶりを通じて、貧困や差別や階級や世代や社会と、そして若者の失敗や成長や楽しさや哀しみを見守るとともに、自らも体当たりで悩み喜ぶ親の姿が赤裸々に描かれる。これまでの著作も良かったが、本書では11歳(中1)の息子と一緒に読者も学んでいくことができて、これまでで一番好かった。(たとえば「エンパシーとは何か」という問いを投げかけられて、「自分から誰かの靴を履いてみること(他人の立場に立ってみるという意味の定型表現)」なんて大人でも答えられないぞ、普通。)
前にも書いたれども、この人の書く文章にはエスノグラフィーの視点があって、文化人類学好きからするといちいち面白くて仕方がない。そして個々のエピソードに対して述べられる著者の雑感がまた、どれも読者に難しい問いを投げかけてくるようで、優れて思弁的なのだ。「パンクの矜持」みたいなものを感じてしまって、なんか山口雅也氏のミステリシリーズ〈キッド・ピストルズ〉の独白を読んでいるみたいで非常に格好いい。息子氏にはぜひともこのまま健やかに成長していって、年寄り世代の確執やヘイトや格差など軽やかに乗り越えて行ってもらいたい。前に雨宮まみ『女の子よ銃を取れ』だとか、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』を読んだ時と同じような、爽やかさに満ちた読後感があった。とても気に入った。

『三体』劉慈欣 早川書房
これは紛う事なき本格SFだった。ちなみにここで云うところの「本格SF」とは、科学的知見と、それに裏打ちされた叙情性を兼ね備え、さらに人類や文明に対する問題意識を持つ作品のこと。いわゆる「誰にお薦めしても恥ずかしくない」模範的なSF小説と云ってもいい。イメージ的にはかつての小松左京やA・C・クラーク、今なら上田早夕里やグレッグ・イーガンなどがそれにあたると思う。しかしその一方で「絶望の底から人類に復讐を誓う天才科学者」や「世界の壊滅を画策する秘密結社」をシリアスに描いてしまうような、ひと昔前の特撮映画のような危うさも持つ。そして何より熱い。以前インド映画『バーフバリ』を観たとき、ハリウッド映画には無いパワーを感じて夢中になったが、本書にも同じような印象を持った。(もちろん著者に破天荒なアイデアとそれをモノにするだけの力があったからこそ実現できたといえるだろう。)
文化大革命が引き起こした数々の不幸の描写が本書に重みを加えているが、これは小松左京において「焼け跡」が持つ意味に近しいものがあるのかも知れない。SFにしか書けないテーマをSFにしか書けないやり方で書いた良質なエンタメを久しぶりに読んだ気がする。続篇も刊行されるようで楽しみだ。(そして願わくば最後までこのままの勢いで走り切って欲しい。)

『妄想 他3篇』森鷗外 岩波文庫
著者中期の作品「妄想」「蛇」「心中」「百物語」を収める。それにしても鷗外作品は相変わらず読みにくい。一文が長いのは鏡花で慣れているつもりなのだが、それに加えて著者の性格が厭世的で、何に対してもさめたところがどうにも気持ちが悪い。しかしそんな中でも「蛇」と「百物語」が題材の面白さもあって楽しめた。「蛇」ではある素封家の家に泊まることになった語り手が、その家の妻が癲狂となるに至った顛末を聞くという、実話怪談にでもありそうな話だ。「百物語」は当時の富豪が催した百物語の会に招待された時の記録。結局のところ怪談自体は聞かずに帰ってきてしまうのだが、実際の百物語の会がどのような趣向で開かれたのかが分かってたいへんに興味深い。この会は東雅彦『遠野物語と怪談の時代』でも取り上げられていて詳しく知りたいと思っていたので、今回読むことが出来てよかった。(ただし鷗外という人が好きかどうかはまた別の話/笑)

『神戸・続神戸』西東三鬼 新潮文庫
俳人・西東三鬼が戦中から戦後にかけて暮らした、神戸トーアロードに建つ奇妙なホテルと山の手の住宅の思い出を綴った文章を集める。トルコ人やエジプト人、白系ロシヤ人にバーのマダムなど、国籍も経歴も様々な人々との共同生活は、神戸という街でしか成立し得なかった奇跡的な一瞬を戦火や廃墟の中に立ち上らせ、まるで『日本三文オペラ』を思わせるようなバイタリティと哀しみが活写される。帯には「戦時下の神戸に、幻のように出現する『千一夜物語』の世界」とあるが、それは同時に稲垣足穂の『一千一秒物語』や「星を売る店」等の神戸の陰画であるとも言えるのではないか。地べたに這いつくばって泥水をのみ、それでも粋でモダンで太々しく自由な生き方を貫く彼等の姿を見ていると、そんな風にも思えるのである。さらに戦中戦後を自在に行き戻りする記憶によって読んでいるこちらの時間感覚もおかしくなってくる。(「魔術的」とは言い得て妙。)
とにかく俳句とはまた違う著者の貌が見られて良かった。読みかけになっている全句集もなるべく早く読まなくては。

『なにかが首のまわりに』チママンダ・ンゴズィー・アディーチェ 河出文庫
ナイジェリアに生まれ育ちアメリカで学んだ作家による十二の短篇を収録。様々な「生き辛さ」の形が、アフリカという土地に住む者や移民、あるいは女性といった視点で描かれる。疎外され迫害され、あるいはマイノリティとして生きることをやむなくされる者たちの内面は荒涼として時にいたたまれないが、しかしそれでも一歩踏み出そうとする姿には何か感じ入るものがある。さすがは名エッセイ『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』の著者と感心しながら読み進むと、これまで読んだことのないタイプの作品ばかりだが極めて繊細であった。決して読みやすくはないが読むべき価値はある、そういう類いの本があるが、本書もその一冊だと思う。優しげな外観に惑わされて侮ってはいけない。誠実であることは優しさを意味するわけではない。優しいことは誠実であることではない。しかし誠実でも優しくもなければ生きている意味がない。ぎりぎりのところで見えてくるものが描かれているのだと思う。特に気に入ったのは「イミテーション」「ひそかな経験」「ジャンピング・モンキー・ヒル」「なにかが首のまわりに」など。後半では「アメリカ大使館」の絶望感が際立っていたが、最後の「がんこな歴史家」もこの著者の作品にみられるグローカルな考え方が強く出ていても非常に好かった。(なんとなく『キリンヤガ』を思い出した。)ちなみにアディーチェ作品を読んでいるとなぜか今村夏子を思い出すのだが、つらつら考えているうち理由に思い当たった。どちらの著者の作品でも、主人公たちが理不尽で不条理な世界に接するとき、いわゆる「シャッター反応」を示しているのだ。(ただ、その先に一歩踏み出すのか、あるいはそのままで留まるかによって、両者が目指すところは根源的に違っているのかもしれない。)

『未来の地図帳』河合雅司 講談社現代新書
副題は「人口減少日本で各地に起きること」。国立社会保障・人口問題研究所が作成した「日本の地域別将来推計人口」という報告書をもとに、これから2045年に向けて日本各地の人口がどのように変化して、それが行政や生活にどのような影響を及ぼすおそれがあるかについて推測した本だ。基本的には細かな数字の羅列なので日本全国でのイメージは浮かべにくいが、大雑把にいうと「①今後も人口が増え続けるのは東京圏と福岡などごく一部の大都市圏のみとなる」「②地方の中核都市に人口流入が進み周辺地域の減少が激しくなる」「③その結果、大きく人口減少が進んで自治が立ち行かなくなる都道府県や市町村と、さほど人口減少が進まず規模が維持できる大都市、そしてますます人口が増える東京といった図式になる」「④これらの変化とともに、高齢者の占める割合は急激に増え続ける」とまあ、こんな感じだろうか。最後の第3部では、そのような時代に向けて政府が掲げるものとは別の、著者なりの処方箋が「5つの視点」としてまとめられている。これが成功するか否かは議論の余地があるにせよ、確かにこれまでの延長的な発想では上手くいかないのは間違いないだろう。少子高齢化とは国土ではなく人口による『日本沈没』である。そしてフィクションではなく数十年後にやってくる現実なのだ。

『怪奇骨董翻訳箱』国書刊行会
今では忘れられた作家・作品を掘り起こし、それぞれタイプの違う「六つの匣」に分けてまとめた、垂野創一郎氏の編訳によるアンソロジー。書名はジェネシスのアルバム名『怪奇骨董音楽箱』からとったとおぼしい。中身は怪奇というより副題の「ドイツ・オーストリア幻想短篇集」の方が正確だろう。世の中にはコッパードやチェスタトンと言った、ひとつのジャンルに収まりきらないタイプの作家がいるが、本書収録の作品もそれらの作家を思わせる、とても奇妙な作品が多かったように思う。(もちろん自分としては、怪奇も好きだがそちらの方も好物なので問題なし。)ポルデヴェイク「クワエウィース?」やフォルメラー「恋人」、それにヘルツマノフスキ=オルランド「さまよえる幽霊船上の夜会(抄)」あたりはかなり気に入った。まるでチェスタトンを読んでいるようなローゼンドルファー「人殺しのいない人殺し」、珠玉の幻想が楽しめるフライ「変貌」、フレクサ「伯林(ベルリン)白昼夢」なども悪くない。18の収録作のうちには、誰でもきっと気にいるものが見つかるのではないか。幻想小説好きにはこの上ない贈り物だった。

『2001年宇宙の旅』アーサー・C・クラーク ハヤカワ文庫
同題のキューブリック監督映画と同時進行で書かれた原作小説。8月3日に開催された読書会の課題本なので数十年ぶりに再読した。昔はノベライズのつもりで読んだので今ひとつの印象だったが、今回改めて独立した小説として読んでみたところ、とんでもない傑作だった。クラークは高校生の頃に一番好きだった作家で、ベストは神秘主義的側面が色濃くでた『幼年期の終わり』で揺るぎないのだが、もうひとつの側面であるハードSFの傑作として『宇宙のランデヴー』『地球帝国』『楽園の泉』といった作品も高く評価している。そういう見方をしてみると、全体の半分近くを占める迫真の宇宙飛行の様子は、これ以上ないほどリアルに、誰も見たことがない風景を目の前に描き出してくれている。映画の印象があまりに強烈なので、ついストーリーにばかり目がいきがちだが、一見、物語の進行に直接関係が無さそうにみえる部分に目をやると、本書の半分近くを占める極めて精密で科学的誤謬がない描写の中にこそ、クラークが本当にやりたかったことが見えてくる気がする。科学的に正しい考証に基づいて、誰も観たことのない壮大な景色を描く「科学的幻視」とでも言うべきものは、まさにSFの醍醐味であるわけで、クラークならば例えば『宇宙のランデヴー』や『楽園の泉』、日本では『日本沈没』や『さよなら、ジュピター』などの小松左京が得意とするところだった。それらは本書でも健在である。(余談だが、本書中に紙の書類に替わって「ニュースパッド」というiPadみたいな端末が使われている描写があって驚いた。あとで教示いただいたところによれば、これはアラン・ケイという人がかつて提唱した「ダイナブック」という概念らしい。)
一方でモノリスやスターチャイルドの面に目を向けると、これまたクラークの趣味全開となる神秘主義的人類進化のど真ん中である。(そうなるとまるで水と油のような科学と神秘主義を結びつけるのが機械的知性の代表となるHALの反乱ということになるだろうか。)ちなみにクラークは科学考証の確かさと神秘主義が矛盾なく同居しているところが面白いのだが、小松左京の場合は科学考証と同居しているのは焼跡が培った民族や人類に対する情念だったりする。イーガンの場合は文学性というか倫理性というか、そんな感じのもの。ニーヴンやクレメント、フォワードあたりはエンタテイメントとしてのSFを志向しているので、科学の器に盛っているのは実は「娯楽性」ではないかという気がしている。面白いけれど後にはあまり残らない。
閑話休題。映像では象徴や比喩としてしか表現し得なかったモノリスの役割も小説になれば極めて分かりやすく、かつスターゲート通過後にみえてくる光景も驚異に満ちていて、自分のなかでクラークが大好きだった高校生の頃の自分が喜んでいるのが良くわかった。神秘主義的な超人類への飛翔と科学的な描写の、一見交わることの無いような概念が同居しているところが本書の魅力であると同時にアンバランスさを示しているがそれでも、いや、だからこそ、ハードSFの器に神秘主義を盛ったクラークならではの傑作といって良いのではないだろうか。いやほんと、読み返すって大事なことだとつくづく思った。

『小鳥たち』山尾悠子/中川多理 ステュディオ・パラボリカ
何処とも知れぬ国にある〈水の城館〉に住まう侍女たち。「小鳥たち」と呼ばれる彼女らと大公妃が繰り広げる幻想的な日常の物語と、気鋭の人形作家による侍女たちの人形写真を収めた愛蔵の一冊。とりわけ最後に収録された老大公妃と黒小鳥たちの写真には鳥肌が立つほどの衝撃を受けた。巻末には両氏による本書成立までの顛末に触れた小文が添えられ、「小鳥たち」「小鳥たち、その春の廃園の」および書下ろしの「小鳥の葬送」という、昏い輝きを放つ黒い宝石のような三篇を飾っている。山尾悠子氏の本はいつも宝箱のようだが、本書はとりわけその印象が強い。

『2010年宇宙の旅』アーサー・C・クラーク ハヤカワ文庫
『2001年宇宙の旅』の"映画版"の方の設定を使った続篇。スターゲートの彼方に消えたボーマンと、木星に投棄されたディスカバリー号のその後が、フロイド博士の目を借りて語られる。ハードSFとしての醍醐味は木星及び衛星の科学的描写と、木星軌道上からの奇想天外な脱出にあるが、作品の主眼はそれよりも寧ろフロイド博士や宇宙船のクルーが織りなす人間模様を描くことにおかれていて、良くも悪しくもハリウッド映画的。オープンで壮大な序曲を思わせた前作のラストを受けた続篇にしては随分こじんまりとしてしまった印象で、個人的にはちょっと残念だった。前半はフロイド博士らが追体験するディスカバリー号の消息なのだが、これなどはタネ明かしをされた手品で別の人たちが驚いている様子を側から眺めているような感じをもった。会話が多くなっているのも、理路整然とした説明文が特長のクラーク作品としては却ってマイナスに働いてしまっている気がする。一番違和感を感じたのは、『2001年宇宙の旅』の映画版と小説版で食い違っていた設定やエピソードを、本書では映画版の方に合わせてしまったこと。だから小説を続けて読むと、似て非なるものになってしまっているのだ。別に映画に合わせなくてもよかったのではないかと思う。さらに本書の中には超知性体となったボーマンの視点から語られるシーンがあるが、これは明らかに超知性を超えた完全なる神(=著者)の視点。
以上、「見たことのない驚異」をSFに期待する自分としては厳しい評価となったが、それでも(ラストの明るさも含めて)娯楽作品としてはまあ及第点といえるのではないかと思う。

『2061年宇宙の旅』アーサー・C・クラーク ハヤカワ文庫
『2001年』『2010年』に続く〈オデッセイ〉シリーズの三作目。これまでと同様にフロイド博士が主役をはっているが作風は全く違っており、ユーモアを交えて娯楽に徹した作品になっている。著者自身による『2001年宇宙の旅』の設定を借りた二次創作と云って良いかもしれない。(訳者も他の3冊が伊藤典夫氏なのに対して本書だけが山高昭氏になっている。)しかしここまで違っていると、割り切って読んでしまえば、これはこれでなかなか面白かった。(ただし『2001年宇宙の旅』に始まる人類進化の謎の進展を期待すると見事に肩すかしをくらうので注意が必要。)
内容はフロイド博士がハレー彗星を探検したり、エウロパに不時着してしまった宇宙船の乗客を助けに向かったりと盛りだくさん。かの名作短篇「メデューサとの出会い」を彷彿とさせる異星生命体との邂逅など見せ場もあり、エウロパの空高く聳えるゼウス山の秘密が早々に予想出来てしまう点を割り引いても良く出来ていて、気軽に読める娯楽作として前作よりむしろ自分の中での評価は高かった。ただ、無理にフロイド博士を出さずに単独作品にしてしまった方がもっと良かったのではないかという気がしないでもない。
スポンサーサイト

2019年6月の読了本

今月はもう少し読めると思ったのだが、最後に失速してしまった。まあ親の入院など心配事もあったし致し方ない。次月は安心して本が読めますように。

『現代SF集』 学習研究社
翻訳家・袋一平氏が訳したソビエトSFを5篇収録したアンソロジー。もとは〈中学生の本棚〉という全30巻の叢書で、「推理と冒険」と名付けられたブロックに属する5冊のうちの一冊だ。収録された作品の末尾には中学校教諭による読書指導が付いているのが面白い。作品に関する情報が全く書かれていないのではっきりとしないが、当時としてはおそらく最新の作品を紹介する意図で編纂されたのではないかと思われる。(ちなみに「推理と冒険」の残りはポーやベルヌ、コナン・ドイルなど。)「個人の成長」「恋愛」「社会のひずみと戦争」と名付けられた叢書の他の作品群からみても、本書はかなり異色な一冊になっている。
以下、個々の収録作について。ドニェプロフ「私が消えた」は蘇生された人間を使った、ある科学的な社会実験に関するもの。ミハイロフ「黒い鶴」は、宇宙飛行士が恒星間で遭遇した謎の存在とその正体についての物語。そしてグレービチ「前線基地の人びと」は、宇宙開発の最前線で命を賭けて働く人びとの気概と苦悩を描く。いずれの作品も科学や労働者の力による社会の発展と未来に対する強い信頼がみられ、いかにも共産圏SFという空気感がある。
続くアンフィロフ「時間は踊る」はパラドックスを生じない特殊な時間理論に基づく実験と科学の勝利を描いた、今でならグレッグ・イーガンのような話。最後のビレンキン「宇宙の神」は狂信者による世界征服の企てに図らずも巻き込まれ、それを阻止しようとする宇宙心理学者の小惑星での活躍を描く。(後半のふたつは社会思想的な主張はさほど強くはない。)使われる専門用語や背景となる考え方など、大人が読んでも結構読み応えがある作品が多く、こんな話を当時の中学生がちゃんと読めたのか少し心配になるが、自分としては期待していなかっただけに意外な掘り出し物だった。これならハヤカワSFシリーズ(銀背)のアンソロジーに収録されていても違和感は無い。特にグレービチ(グレーウィッチ)は小学生で『宇宙パイロット』(「竜座の暗黒星」)を読んで大好きになった作家であり、本書収録作も直球勝負の熱い作品なのが好かった。もしかしたら彼こそ「共産圏SFらしさ」とその良さを最もよく表している作家かも知れない。

『食の実験場アメリカ』鈴木透 中公新書
アメリカという国の独立時代から現代までの食文化史をたどることで、この国が抱える問題と将来に向けた可能性を明らかにする。中公新書は学術書と一般書の中間的な雰囲気があって好きなのだが、本書も名物教授のゼミを受けているような感覚で愉しむことができた。
本書の流れは大きく三つに分かれている。ひとつめはアメリカ入植者が食料調達の困難を克服する過程で、先住民や奴隷として連れてこられた黒人たちの食文化から地方毎に生み出したクレオール的な混血料理の歴史。(アメリカの食文化にクレオール的な側面があると言われて思わず膝を打った。)二つめは既存産業から締め出された移民たちが新たなビジネスとして作り出した、トマトケチャップやピクルスをはじめとするエスニックなフードビジネスの勃興と隆盛ならびに、それらを利用することでハンバーガーやフライドチキンといったファーストフードが生まれ巨大産業化していった流れ。ちなみに本書ではファーストフードは否定的にとりあげられているが、なぜ画一化された外観やメニューなのかも説明されている。「(同じチェーン店だと)見知らぬ土地でもすぐそれとわかるような工夫がされている」「フランチャイズ化は、実はこのように食事が規格化され、同一の外観を守るという原則の上に成り立っているのであり、それは、見知らぬ土地で一種の安心感を与える効果を持つ」とのことだ。自動車社会ならではの理由だと思う。
残る三つめは、格差社会を固定化することで自らを拡大再生産してゆくファーストフードに対抗するように現在進みつつある、地域の農業や流通まで巻き込んだローカルへの回帰の動き。これは60年代にヒッピーたちが取り組んだ、健康や環境を意識した食文化革命の後継に位置付けられるものであり、また初期のクレオール的な文化混交にも繋がるものとのこと。終章ではますます顕著になりつつあるアメリカの自己中心主義や反知性主義の克服において、こういった食文化史の研究がいかに有効かについて熱く語られている。
「今やファーストフードは、現代のビジネスモデルの手本となっただけでなく、格差社会の底辺の移民労働力によって支えられ、没落した中産階級以下の顧客から確実に収益を吸い上げることによって、格差社会から恩恵を得つつ、格差社会の搾取の固定化に加担してきている」本書のこのくだりはファーストフード産業だけでなく、コンビニエンスストアにも言えることではないかと思う。そしてアメリカだけではなく、いまや日本にも当てはまるようになってしまったのではないだろうか。食の歴史からここまで視野が広がるのにも驚いたが、トランプ大統領が無類のファーストフード好きだという話を思い出して妙に納得もした。

『ガルヴェイアスの犬』ジョゼ・ルイス・ペイショット
日本翻訳大賞を受賞した、新潮社クレストブックスの一冊。ポルトガルの寒村ガルヴェイアスのはずれにある日大きな音とともに落ちてきた巨大な「名のない物」。その日から村は硫黄のにおいに包まれパンは苦味が出て酸っぱくなってしまった。しかし人々はそのにおいも名前も、そして自らの肉体や影がありながら「命」をも失い、様々な形を成すそれぞれの「死」と不幸の中に暮らし続ける……。
構成は1984年1月と9月の二部に分かれている。「貧すれば鈍する」の言葉そのままに貧しく頑迷でつらい村人たちの姿を描いた断章が前半に6つ後半に8つ描かれ、その全体を序にあたるエピソードと、未来への余韻を残す最後のエピソードが挟み込む形になっている。そんなに厚い本ではないのだが、途中は数十人の村人たちが役割を変えながら登場して、各話毎に異なる不幸の物語を綴ってゆくので結構複雑な構成になっている。しかし登場人物のプロフィールと互いの関係についてメモを取りながら読み進むと、思わぬところでかなり前に登場した人物が関係してきたり、また気づけばニヤリとするような仕掛けもあって重層的に楽しむことができた。冒頭でとても印象的な登場の仕方をした「名のない物」が、その後全く音沙汰無くなってしまうのが一抹の不安だったのだが、それも最後にはきちんと決着をつけられ、満足のいく読了感が得られた。(というか、終わってみればそれこそがいつも物語の中心にあったのだ。)本書の内容は次の言葉がよく示しているのではないかと思う。
「昨日までは、安全で、確かなところに居場所があったというのに、あの瞬間にこれからの何もかもが崩れ去ってしまった。(中略)今後の人生まるごとのためにとっておいた空間が、いまは巨大な未知の何かに占拠されてしまった。」
緩慢な死は存在を忘れた者たちに死角から忍び寄り、いつのまにか全てを飲み込んでしまうのだ。そしてガルヴェイアスではそのことに犬だけが気がついていた。幻想小説としても読めなくは無いが、無理してそうしなくても得られるものは充分にある一冊だった。

『ヒッキーヒッキーシェイク』津原泰水 ハヤカワ文庫
ヒキコモリ専門のカウンセラー竺原丈吉。彼の作り上げた仕掛けに乗せられた四人のヒキコモリが、翻弄されつつも見事にプロジェクトを成し遂げてゆく顛末を描いた超絶エンタテインメント小説。のっけからすごく引き込まれる。あとがきにもあるように、現実世界に向き合おうとせずネットを通じてつながり合う彼等が、各自の持つ異能を見出されて戸惑いながらも外へと踏み出していく様子には、「賑やかな孤立」という言葉が相応しい。正体を見せない伝説のハッカー(ウィザードリー)である“ロックスミス”よりも謎が深い存在なのは、実は中心人物である竺原自身であり、トリックスターである彼の秘密が徐々に明らかになってゆく過程こそが、かれら四人に下されるミッションの成否とともに本書の面白さの中核をなしている。なによりも本書が魅力的なのは、一切の否定がなく全てを肯定する事で物語が綴られていることだろう。ラストの印象的なひと言までノンストップで疾走する間、頭の中にはずっとご機嫌な音楽が鳴り響いているようだった。(本来の意味で)極めて「ユニーク」であり、かつたいへん痛快な小説である。どんなきっかけであれ、こういう作品に注目が集まり大勢の人に読まれていくのは良いことだと思う。

『むらさきのスカートの女』今村夏子 朝日新聞出版
「小説トリッパー」2019春季号に掲載された著者の最新作で芥川賞候補作。語り手は、むらさき色のスカートをはいた女性の日常をずっと観察し続ける一人の人物。最初は無職だった女性はやがて新しい職場で働きだし、その後は日々の仕事場での様子などがつづられていく。今村氏の小説で描かれる世界は、ひとつひとつはごく当たり前の風景ばかりなのに必ずどこかが大きく歪んでいる。今回の作品でも、まるで凹面鏡に映し出された映像を見ながら街の中を歩いて行くような、そんな気持ちの悪さがずっと付きまとっていた。昔観たルイス・ブニュエル監督の『ブルジョアジーの秘かな愉しみ』という映画に、主人公が物語と全く関係のない大きな袋を背負っているシーンがあって、自分の見ている世界が足元から崩れていくような気味の悪さをおぼえたのだが、今村氏の作品は読む者にそれと同じような不安感を与えるものが多い。(もちろんそれが魅力なわけだが。)マニエリスム的な文学とでも言えば良いのだろうか。印象としては吉田知子氏の作品に近いものがあるかも知れない。作風は前作の『父と私の桜尾通り商店街』あたりからこれまでとは少しずつ変わってきており、ちょっと不思議なユーモアが加わったのと物語性が強くなっている気がする。その結果、『こちらあみ子』や『あひる』を読んだ時に感じた深刻な息苦しさは減り、気味の悪さを「おはなし」として距離を置いて楽しめるようになったというか。これからの活躍も愉しみだ。

『歪み真珠』山尾悠子 ちくま文庫
さまざまなイメージに満ちた十五の掌編を収録した幻想作品集。頁をめくる度にとても硬質な、それでいて豪奢な光景が広がっていく。文庫に収録されたものの再読なのだがやはり好いものは好い。「水源地まで」は後の『飛ぶ孔雀』にイメージが重なるし、過去の「遠近法」「遠近法・補遺」といった作品につながる「火の発見」や、連作短篇集『ラピスラズリ』の世界に属する「ドロテアの首と銀の皿」など、古くからの読者へのボーナスとも言える作品もある。たとえ短い作品であってもまるで長篇の一部のようにも思えてくるのは、確固たる世界が想起されるほどに幻想がよく作り込まれているからなのだろう。収録作はどれも好いのだが、特に気に入ったものを挙げるとすれば「美神の通過」「水源地まで」「向日性について」あたりだろうか。幻想を愉しむのに批評は要らず、ただ受け入れるための目があればいい。

『奇想の系譜』辻惟雄 ちくま文庫
前々から気になっていて機会がなく読めていなかったのだが、やっと読むことが出来た。もっと早くに読めば良かった。岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曾我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳という江戸時代の表現主義的な画家たちを、「異端」や「奇矯」ではなく〈主流〉の中の前衛と見做し、「奇想」というキーワードで捉え直した名著であった。素人の自分にも大変分かりやすく且つ説得力のある説明で、彼らの画が持つ魅力が伝わってくる。このうち生でみたことがあるのは実は曾我蕭白ぐらいしかないが、その時の感覚を思い返すと他の絵師についても「さもありなん」という気がする。個人的には、伊藤若冲や歌川国芳がこんなに面白いとは思っていなかったので、本書でその一端が知れたのが収獲だった。『奇想の図譜』も読まなくては。
ところで本書のあとがきによれば、本書で取り上げられた絵師たちが日本で殆ど知られていなかった70年代には、海外の人が懸命に買いあさっていたらしい。まさにマニエリスムそのもののような絵ばかりなので、むしろ欧米の人の方が、馴染みが深かったのかも知れない。

『くるみ割り人形とねずみの王様』E・T・A・ホフマン 河出文庫
〈種村季弘コレクション〉の一冊で、種村氏によって訳されたホフマンのメルヘン3篇を収める。収穫作はバレエ組曲の原作として有名な表題作のほか、二人の子供と森の中で出会った不思議な少年との交流を描いた「見知らぬ子ども」、そして シャミッソーの「影をなくした男」まで出てきて興奮の「大晦日の夜の冒険」。前の二つは子供向けの物語で、いずれも無垢で愛らしい子供たちとおぞましい敵役の対比がとても印象的だ。「大晦日…」だけは大人向けだが、こちらも主人公を誘惑しようとする者のいかがわしさはかなりなもの。ホフマンは愛おしいものとおぞましいものの対比を描くのが巧く、こういった「悪」の描き方が、いわゆる「ホフマンらしさ」を感じるひとつの理由になっているわけだが、本書は図らずもその特徴がよく出たものばかりが集められた作品集だったと思う。
ところで本書は映画『ホフマニアダ』を観に行くための予習として読んだものだったので、以下に映画の方の感想も挙げておこう。
『ホフマニアダ』はロシアで15年かけてつくられた人形アニメーションの映画で、ホフマン作品のモチーフをいろいろ組み合わせてあるのでホフマン好きとして大変たのしく観ることができた。物語はまず『黄金の壺』を書いているホフマンが外枠にあって、話自体は彼が空想する『黄金の壺』に沿って進行していく。敵役は「砂男」や「くるみ割り人形とねずみの王様」、「黄金の壺」の魔女など一癖もふた癖もある連中ばかりだ。一方で窮地に陥った彼を助けてくれるのは家に飾ってあったくるみ割り人形で、これがまた颯爽としている。『黄金の壺』を知らないとちょっと解り難いところもあるが、予めパンフレットやウィキペディアで原作の粗筋を読んでおけばまず問題ない。あとはホフマン作品を読んでいるほど細部が楽しめると思う。ラストで物語のキャラクターたちがホフマンを囲んで歌い踊るシーンはけっこう感激した。厳しい現実にへこたれそうになっても、ホフマンが物語を紡いでくれれば詩人の世界はまたよみがえる。まるでジーン・ウルフの名作「デス博士の島 その他の物語」みたいだ。細部まで手を抜かずに作ってあるのはもちろんだが、なにしろホフマンおよび彼の遺した作品に対する敬意と愛情が感じられて大変に良かった。

『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』 河出文庫
今村純子・編訳。ヴェイユが16歳の時に書いた初めての論考から最晩年(といっても僅か34歳だが)のものまで、時系列順に7つの文章を収録したもの。特に「『イーリアス』、あるいは力の詩篇」からの四つは力作で、ヴェイユ思想の概要を掴むのに適していると思う。例えば「工場生活の経験」や「奴隷的でない労働の第一条件」を読めばよく解るが、彼女の場合は単なる机の上での思索ではない。過酷な工場での労働を経験した上で練られた、地に足がつき、それでいて緻密な思索が展開されていく。「不幸」な状態を脱して、「重力」に抗い「恩寵」に依って善をなすにはどうしたら良いのか? 彼女の問いかけは今の我々にさえ、いや今だからこそ我々にはなおさらに重い。
ナチスによる侵攻とレジスタンスを踏まえた論考では、人格がもつ「集団」への従属的性格と、それ故に人格をナチスに対する抵抗の礎にするのがいかに無意味かという点に結構なページが割かれている。このあたりは思想家ヴェイユの面目躍如といったところだろう。ある意味、ハイデガーの対極にいるような思想家かも。
「この宇宙は神の品物だということをわたしたちは知っている。わたしたちは、絶対的な支配者として、無分別で盲目的で完全に従順な神の下僕である必然性がわたしたちに授けられたことを、心の奥底から神に感謝すべきである」「不幸な人の「なぜ」にはいかなる応答もない。なぜなら、わたしたちが生きているのは必然性のうちであって、合目的性のうちではないからである。この世界に合目的性があるならば、善の場所は、もうひとつの世界ではなかろう」「ただ叫ぶだけでなく、耳を傾けることができる人は、応答を聞く。この応答とは、沈黙である」 「わたしたちの魂のうちに入るのは、充分に鋭いふたつの切っ先だけである。それは不幸と美である」(以上、いずれも「神への愛と不幸」より)このあたりが案外ヴェイユ思想の核心なのかも知れない。自らの思考の限界ぎりぎりで信仰に肉薄していく感じが強くする。
生きており、魂を持つものを、「物」にしてしまう力に抗うこと。また究極の客体である美と主体である善を、自由、本質、存在がひとつとなった「神」に向けた行為をなすこと。あるいは虚偽と誤謬をまとった権利、人格、個性、集団といった観念を否定し、真に聖なるものとして「その人のすべて」を認めること。聖なるものの唯一の源泉である善、それこそが悪に対して声なき声で叫ぶ心の部分であるとし、聖なるものとは人間の内なる非人格的なものであると理解すること。それらこそ長い思索の末にヴェイユが辿り着いた、キリスト教への信仰の原点にして終着点だったのではないだろうか。
「精神は、人間が知性と名指すものを超えたところにいる。精神かいるのは、叡智が始まるところである」 「(このように言語で表現できない)思考をつかめるようになった精神は、この地点まで達したあらゆる精神は、すでに真理のうたに身を置いている」(「人格と聖なるもの」より)
彼女は幸せな人生をまっとう出来たのだろうか。そうだったら良いのだが。

2019年5月の読了本

今月は薄めの本も多かったので14冊読むことが出来た。でも薄くても中身は充実。この調子でどんどんいきましょう。

『ビット・プレイヤー』グレッグ・イーガン ハヤカワ文庫
6つの中短篇を収録した最新の日本オリジナル作品集。「七色覚」「不気味の谷」「ビット・プレイヤー」の三作は「しあわせの理由」にも共通する最新テクノロジーと生きることの価値を問いかける重量級の作品で、「失われた大陸」は現代社会に通じる問題を正面から取り上げて『ゼンデギ』を思わせるような力作。そして後半の中篇二作「鰐乗り」と「孤児惑星」は『白熱光』を思わせるような筆致で異文化との接触を描いたいかにもSFらしいSF。―― とまあ、一冊でこの著者のデビュー当初から現在までの作風の変化を楽しめるような作品集だった。個人的には初期の作風が好みなのだが、そのあたりの作品はあまりに重いテーマのため一度にたくさん読めないのが難点。その手の作品のなかでは「七色覚」が好かった。他に気に入ったのは「失われた大陸」と「鰐乗り」。『白熱光』の舞台となる〈融合世界〉は『順列都市』や『ディアスポラ』の延長上にあるSF的な想像力の極北にあるような世界だが、そこで展開されるのは意外とオーソドックスな「サイエンス・フィクション」であり、初期の作品が与えるような衝撃は無い。このあたりは(科学的な描写が苦手な人はともかくとして)とても読みやすい娯楽作品になっていると思う。収録作の振れ幅が大きいので好みは分かれるかも知れないが、その分、誰にもきっとお気に入りの作品が見つかるのではないか。
ちなみにイーガンの作品で個人的に一番好きな長篇は『宇宙消失』なのだが、最高作は『ディアスポラ』だと思っている。そして人に薦めるとしたら本書や『祈りの海』『しあわせの理由』『ひとりっ子』『TAP』といった短篇集だというのが、我ながらちょっと可笑しい。

『湖』ビアンカ・ベロヴァー 河出書房新社
いつの時代ともどこの国ともわからない「精霊が住む湖」の湖畔にある町ボロス。有害化学物質に侵された湖水は徐々に枯れ果て、人々は貧困に喘ぐ。そんな閉塞感にとらわれ未来の無い生活が続く湖畔の町で生まれ育った少年ナミは、自らの出生の秘密と幼い頃の記憶にある母親を求めて町の外へと歩み出す......。
帯には「チェコ幻想×S・キング×C・ブコウスキー」とあるが、そこから想像していたものとはかなり違った。主人公の等身大の視点で語られる物語は、先が全く見えないという点ではたしかにキングの語り口を連想させるかもしれないが、ここに出てくる「幻想」とは現実から解離した異界ではなく、寧ろ日常と融合して引き離すことの出来ない神話的な概念と云った方がよい気がする。当初、暗く固まって病んだ世界はナミの前にどこまでも続いていくと思われるが、「胚」「幼虫」「蛹」「成虫」と名付けられた章が順に進んでいくに連れ、まるで変態を遂げるかのようにその遍歴は様相を変え、ひとつの結末へとナミと読者をいざなってゆく。無知であるがゆえの非力とそこから生み出される暴力は決して口当たりのよい物語を約束するものではないが、主人公と経験をともにした読者は彼のようにきっと何かが得られだろう。それは大きな物語を否定したとき初めて見えてくる帰着点なのかも知れない。ブリューソフ『南十字星共和国』やカダレ『夢宮殿』にも似た空気は旧共産圏に特有のものかもしれない。よい物語だ。

『孤島』ジャン・グルニエ ちくま学芸文庫
原題は「島々」だが著者は島に「(ひとりひとりが)孤立した人々」を重ね合わせているため、日本版では複数形ではなくあえて単数形にしてあるそうだ。著者の記憶に残るあちこちの島々での体験は、人間の生に潜む「虚無」と「空白」であり、生の陰画としての死と対比される地中海の島々での、生のよろこびや充実を読者のもとへと現前させる。アルベール・カミュの生涯を通じた恩師であった著者による文章は、(哲学や美学の教授であるからではないだろうが)サルトルのような実存主義的とはまた別の形で、生の一瞬一瞬に即した思考を綴っていく。松浦寿輝氏の解説にもあるように、世界の無意味さとそれが故の無条件の肯定を示唆したカミュに通じるものであるかも知れない。読む順番としては、巻末に収録された初期の「見れば一目で」を最初にするのが、全体をより深く理解する上で有効であるかも。しかしあちこち彷徨い歩く著者の旅にそって読み進み、ひとつひとつの章に込められた想いが徐々にこころに沁みてくるのもいい。特に気に入ったのは「猫のムールー」と「イースター島」「見れば一目で」の三篇だった。実のことをいえばフランス語の著作は回りくどい表現が苦手であまり好きではないのだが、本書は内容に即して大変に好かった。これからも読み返したくなるタイプの本だと思う。

『心霊殺人事件』坂口安吾 河出文庫
副題に「安吾全推理短篇」とあるように、長篇の『不連続殺人事件』と急逝により中断してしまった『復員殺人事件』ならびに『安吾捕物帳』を除いた、狭義のミステリ短篇が全て収録されている。推理小説を「知的な娯楽」あるいは「パズルを解くゲーム」と割り切っていた著者だけあって、内容はいずれも単純な"フーダニットもの"。犯行動機は殆ど付け足しで、最後には種明かしのようにあっさりと犯人が判ってしまうので、いささか物足りない感じもある。しかしそのおかげで新聞のクロスワードを解くような気楽な気持ちで、収録された全10篇を最後まで愉しく読み終えることができた。(中では「アンゴウ」が群を抜いて好かった。)ゴールデンウィークの連休最後の読書に相応しい一冊だったのではなかろうか。

『遠野物語と怪談の時代』東雅彦 角川選書
明治後期から大正にかけて再興した百物語と怪談の機運を背景にして、柳田國男の『遠野物語』をわが国における民俗学の嚆矢の観点からのみ見るのでなく、あえて実話怪談を始めとする当時の怪談文芸の精華と位置づけることで新たな展望を示す。泉鏡花を始め岡本綺堂や田中貢太郎、室生犀星といった錚々たる名前が連なる怪談文芸の“山脈”を俯瞰するための書物としても非常に参考となる。江戸の隆盛からいったん衰退したのち明治期に再び流行した百物語や、井上円了の妖怪学に対抗して文芸誌を中心に大いに気を吐いた実話系の怪談について語る第二章「怪談ルネッサンス」から、第三章「泉鏡花と柳田國男」では柳田が生涯の親交を結んだ鏡花の話へ。ブラム・ストーカー 『吸血鬼ドラキュラ』に先駆けて蝙蝠の妖魔を描いていたとか、その着想の元はアラビアンナイトではないかなど、鏡花の創作の裏話など知らなかった話も多くファンとしては見逃せない一冊となっている。門人の岩永花仙が最初に鏡花に語り聞かせて「海異記」のもとになった実話怪談というのも読んでみたいので、いつか『百物語怪談会』を入手しなくては。ちくま文庫に収録されている、同じ著者により編纂された〈文豪怪談〉のシリーズもこのような観点からみると編集意図がよく理解できる気がして、森鴎外や芥川龍之介のものなど改めて読んでみたくなった。そう考えると即ち日本文学の読み直しにつながる試みといえるのかもしれない。巻末に収録された復刻資料「日本妖怪実譚」と面白く、とても良い一冊だった。東氏の精力的な活動には、怪奇幻想小説ファンのひとりとしていつも敬服するばかりである。氏を始めとする人々のおかげで、泉鏡花と百物語の関係など、怪談史の研究はこの10年ほどで大きく進んだのではないかと思う。

芥川龍之介『奉教人の死・煙草と悪魔 他十一篇』 岩波文庫
初期から最晩年まで書き綴った切支丹物ばかり13篇を集めた作品集。ことさらに小難しい文学としてとらえなくても幻想小説や時代小説として読んで充分に愉しい作品が多い。著者による完全な創作なのか、それとも実際の文献に基づいたものなのか判然としないのがまた面白いが、解説によれば「さまよえる猶太人」に出てくる文献も「奉教人の死」や「きりしとほろ上人伝」に出てくる日本版『れげんだ・おうれあ(黄金伝説)』からの引用も、さらに「るしへる」における『破提宇子』の異本も、全て著者による創作とのことだ。文体模写がまことに天才的である。ときどき「ぢやぼ」あるいは「ジャボ」という言葉が出てくるので何かと思ったら、ポルトガル語の"Diabo/悪魔"からきてるようだ。(スペイン語のDiablo、イタリア語のDiavoloに同じ)他にも「ぜんちょ」とか「いるまん」とか面白い。
「煙草と悪魔」「さまよえる猶太人」「るしへる」「きりしとほろ上人伝」「じゅりあの・吉助」「神神の微笑」「誘惑」といった諸作品はそのまま幻想小説として愉しめるし、「奉教人の死」「報恩記」あたりは山田風太郎が書いたといっても通用するのではないかと思える。個人的には幸田露伴「幻談」のようにエッセイとも創作ともつかない妙味がある「さまよえる猶太人」や、まるでラブレーを思わせるような「きりしとほろ上人伝」、そしてラストがあまりにも美しい「じゅりあの・吉助」や怪盗・阿媽港甚内(あまかわじんない)が出てくる「報恩記」あたりが好みだった。
ところで「さまよえる猶太人」のなかに「最近では、フィオナ・マクレオドと称したウイリアム・シャアプが、これを材料にして、何とかいう短篇を書いた」とあり、大変に気になったので調べてみた。家にあった『夢のウラド』で確認したところ最初はマクラウド名義で書かれた「暗く名もなき者」ではないかと思ったのだが、その後訳者の中野善夫氏のご指摘によりシャープ名義の「ジプシーのキリスト」という作品に、ずばりキリストを侮辱した者のエピソードが出ていていたのに気がついた。(てっきりマクラウド名義で書かれた作品だと思っていた。)こういうこともまた読書の愉しみだと思う。

『星の王子さま』サン=テグジュペリ 文春文庫
倉橋由美子氏による新訳版で、氏は2006年に本書の単行本が出版される直前に急逝された。『星の王子さま』は版権が切れたか何かで2005〜6年ごろに複数の出版社からまとまって出たときに読んだのだけれど、当時は訳者や翻訳の違いについて無頓着だったので、別の版元から出たものを読んだきりで本書を読むことはなかった。しかしこのたび文春文庫に収録されるにあたって、元本にあった訳者あとがきと翻訳家の古屋美登里氏による解説に加え、小説家の小川糸氏の解説が新たに追加されているのを知り慌てて購入することに。
さっそく読んでみたところ、自分が年をとったせいなのか倉橋氏の文章の力なのかは判らないが、昔読んだ時よりもかなり心に沁みた。王子が単なる子供ではなく誰もが心の中に秘めている「反大人の自分」であるという指摘は、非常に腑に落ちるものだ。たとえば「大人は数字が好きだ。新しくできた友人のことを話すとき、大人はほんとに大切なことは訊かない」という言葉。違和感を感じつつ日頃の暮らしで慣れてしまった態度について、まるで王子から糾弾されているようだ。自分にとって幸いなのは、ツイッターで出会った人たちが(現実の暮らしではどうであれ少なくともツイッター上では、)この小さな王子のようなつぶやきをしてくれていることかも知れないとも思った。今回、文庫入りしてくれて良かった。文庫にならなければ本書を知らないままこれからも生きていくところだった。

『アリス殺し』小林泰三 創元推理文庫
不思議の国でハンプティダンプティ殺しの容疑をかけられたアリス。この世界に暮らす栗栖川亜栖の現実と交差しつつ、惨劇は続いてゆく。不思議の国と現実世界がリンクして話が進むのはなかなかに面白い。そもそもナンセンスとミステリのロジックは相性が良くないと思っていたのだが、こういうやり方だと繋がるのかと感心した。
著者は日本ホラー小説大賞でデビューしただけあって殺人の描写が必要以上に(?)グロテスクだが、ミステリとしての意外性やトリックの見事さには舌を巻いた。かなり残酷な描写も多いがどこか乾いた感じがあって、どことなくユーモアさえ漂うので、スプラッター系が苦手な自分でも読むのがつらいということはない。またミステリだけでなくファンタジーとしてもきっちり決着をつけてあり、盛りだくさんの内容で満足できた。テイストはショーニン・マグワイアの『不思議の国の少女たち』に近いところがあるかも知れない。

『ソクラテスの弁明・クリトン』プラトン 講談社学術文庫
プラトン初期の著作にして古典中の古典。『ソクラテスの弁明』はあちこちから出ているが、本書はソクラテスが告発され死刑を宣告された裁判で述べる「弁明」と、有罪判決が確定したのちに牢で親友クリトンと交わした会話を記した「クリトン」を収録し、さらに巻末には参考資料としてクセノポン『ソクラテスの弁明』まで加えて、それぞれの解題や詳細や訳註まで加えた豪華版となっている。プラトン版の「弁明」ではソクラテスがその他の著作で繰り返し表明することになる「無知の知」(自分は知者であると思うのは誤りであり、それよりは知を知らないと自認する者が寧ろ優れているということ)が分かりやすく説明される。また「クリトン」では「ただ生きるのではなく、よく生きることが大切である」という有名な信条が吐露される。自分を知者であるとして若者を導くのは「不正」であるという告発もあり、本書では解説にもあるようにソクラテスの考える「哲学」というもの自体がテーマとなっているように思える。そしてそれは即ちプラトンの著作全体の理解を深めるガイドであるとも言える。一方のクセノポン版「弁明」はプラトンのそれとはまた違った雰囲気が味わえる掌編だが、人間味溢れるソクラテスが見られてまた読んで愉しいものになっている。中学や高校の頃に読むのとはまったく異なる姿を見せるのが古典の面白さでもあり、いわゆる「勉強」ではない読書の醍醐味ではないだろうか。(いや学校の学習とは関係ない「勉強」だからこそ愉しいのか?)

『増補版 天下無双の建築学入門』藤森照信 ちくま文庫
以前ちくま新書として出された同題の本に新しい論考「日本の住宅の未来はどうなる?」を追加したもの。「これ、本当に新書だったの?」というぐらい軽い書き方だが、日本の家屋を構成する様々な要素をひとテーマずつ取り上げていつのまにか「建築とは何か?」という大きなテーマへとたどり着くのはたいしたもの。中身は二部に分かれていて、第一部は神社の御柱や茅葺きな日本古来からの建築術を縄文時代まで遡って考察し、第二部では現代にもつうじる住宅建築の各種要素について歴史をふまえつつ解説してゆく。思いもよらない角度からの指摘は、さすが建築史を専門としつつタンポポハウスやニラハウスなどユニークな住宅設計を実践されている著者ならではだろう。(氏の設計による多治見市のタイルミュージアムを観に行ったことがあるが、はるばる足を運んだだけの価値はあった。)建築の価値とは記憶に刻まれて連続性と安定性を約束することであるというのも、過去からの建築の歴史を研究してきた著者ならではの見立てであるし、あるいは個人と社会にゆとりが生まれてくると「対外空間」に目が向けられるようになるというのも、まず「観る人」であった著者だからこそ出てきた意見であると思う。たしかにこんな建築学の本は見たことない。明治の都市計画とか看板建築とか視点が面白いので追っかけているの著者なのだが本書も期待に違わず愉しかった。

『床屋コックスの日記 馬丁粋語録』サッカレ 岩波文庫
「馬丁粋語録」は「べっとうすごろく」と読む。ディケンズと並び19世紀半ばのイギリスで評判を得たサッカレーの2作品が収録されている。「床屋コックスの日記」はひょんなことから義理の叔父貴の遺産が転がり込んで百万長者となった床屋一家の行状を面白おかしく語ったもの。(といいつつ、実はかなりの皮肉と呪詛に満ちている。マナーやルールを知らない「野蛮人」による失敗を本人の独白の形で描きながらも、その向こうに透けて見えるのは狩りや賭け事やパーティに明け暮れる資産家階級たちの、浮世離れした感覚と能天気なやりとりである。)訳は平井呈一氏で、「馬丁粋語録」もそうだが時代がかって味のある文章が時代の雰囲気にぴったり合っていて、読んでいて気持ちがよかった。昔の一人称の作品の場合はこういう語り口も悪くない。(なんせ若い女性の容姿を語るのに「足とふくらっ脛がむきだしなところは、久米仙ものだ」というのだもの。19世紀イギリスで久米仙人はいいよなあ。)

『鉄条網の世界史』石弘之・石紀美子 角川ソフィア文庫
19世紀半ばに米国で農地から放牧牛や羊などを締め出す目的で発明された針付きの針金が、やがて動物ではなく人間を対象にして、「敵と味方」「彼方と此方」を分断するための道具として用いられるまでの歴史を、世界各地の事例をもとに紹介してゆく。戦場へはほぼ同じ頃に発明された大量殺戮兵器の機関銃とともに19世紀末に導入され、戦争の様子を一変させてしまったのだという。簡単に設置でき目立たない鉄条網に絡め取られた兵士は、そのまま機関銃で掃討されてしまう。塹壕で隠れる方法や鉄条網を無効化するスーパー兵器である戦車の登場、さらには毒ガス兵器までが鉄条網の向こう側に隠れている敵軍への攻撃の為に発明されたというのには驚かされる。
ひとつだけ注意点を。第三章まではたしかに鉄条網が生まれてから世界中に広がるまでの歴史なのだが、第四章以降はただひたすらに人類の愚行、即ち鉄条網そのものではなく「鉄条網が使われるような状況」が事細かく描写されてゆく。それはナチスやスターリン時代の旧ソ連のような強制収容所、ヨルダン川西岸地区やベルリンの壁、南米をはじめ世界各地で今も続く先住民への迫害など目を背けたくなるような歴史のオンパレードである。最後の方は当初の趣旨からだいぶずれてしまっているようにも思えるが、単に「個体の移動を妨げる道具」ということだけでなく「その道具が炙り出す人間の愚行」も含めた、象徴としての"鉄条網"と見れば良いのだろう。そしてそれは多くの場合、「自分たちとそれ以外の者たち」を区別し排除する意識の歴史なのだ。まさに今の日本でも起こっている事である

『天皇陛下にささぐる言葉』坂口安吾 景文館書店
安吾が敗戦後の焼野原とその後の復興を経て書き綴った、戦争と人間と天皇と平和についての文章を四篇収録した小冊子。中綴じで僅か200円という価格設定といい、まさに“今”というタイミングでの出版といい、内容だけでなく本書の存在そのものが極めて強いメッセージ性を持って読者に迫ってくる。(こういうの、とても好きだ。)
収録されているのは表題の「天皇陛下にささぐる言葉」の他、「堕落論[初出誌版]」「天皇小論」「もう軍備はいらない」で、全部合わせても30ページ程にしかならない短いものばかりだが、どれも読み応えがある。景文館書店はこれ以外にも吉田知子やバタイユなんかを出していて、なかなか目が離せない出版社なのだ。 今回の『天皇陛下にささぐる言葉』などはまさに企画の勝利とも言えるし、出版社たるもの是非このような仕事をしてもらいたいものだ。某出版社の文庫出版停止騒動でささくれだった気持ちがだいぶ楽になった。
以下、表題作からいくつかの言葉を抜粋する。
「然し、一国の運命をつかさどる政治というものが、サロンの御婦人の御気分なみでは、こまるのである」 「実質なきところに架空の威厳をつくろうとすると、それはただ、架空の威厳によって愚弄され風刺され、復讐をうけるばかりである」
「けれども、現在どこかに本当に戦争したがっている総理大臣のような人物がいるとすれば、その存在は不気味というような感情を全く通りこしている存在だ。同類の人間とは思われない。理性も感情も手がとどかない何かのような気がするだけだ」

『千霊一霊物語』アレクサンドル・デュマ 光文社古典新訳文庫
『三銃士』『モンテ・クリスト伯』などで有名な19世紀フランスの文豪による「忘れられた名作」。青年デュマが遭遇した奇怪な事件をきっかけに、居合わせた人々が自らの体験した超常現象について語ってゆく。実在の歴史上の人物を散りばめる手法は、山田風太郎の明治物やあるいはホラー小説では小野不由美『残穢』に似ているかもしれない。『千夜一夜物語』や「百物語」あるいは実話怪談の体で、善と悪や科学と奇蹟の狭間を漂うような物語が7つ収録されていて、最後の話はまさかの○○○になるのには驚いた。ベストセラー作家の筆の冴えを堪能した。知られざる怪奇幻想の佳品と呼べる作品ではなかろうか。古典新訳文庫はいつも良い本を出すなあ。

2019年4月の読了本

今月はわずか6冊。年度末は忙しくて読書が全然はかどらない。ストレス解消に本を買うので未読本が溜まる一方で悪循環である。会社を休んで朝から晩までずっと本を読む「読書休暇」があると良いなあ。

『宝石泥棒』山田正紀 ハルキ文庫
"甲虫の戦士"ジローは失われた宝石「月(ムーン)」を再び人類の手に取り戻すため、「狂人(バム)」のチャクラ、呪術師のザウラーとともに「空なる螺旋(フェーン・フェーン)」を求めて命懸けの旅を続ける……。 異世界ファンタジーとも見える冒頭から、やがて物語が進み全貌が明らかになるにつれて、骨太の背景が見えてくる。これは紛れもなく焼け跡の中から生まれた日本SFの系譜に連なる作品であり、また博物誌や文化人類学的なアイデアにあふれた傑作であった。読書会のため数十年ぶりに読み返したのだが、物語としての突っ込みどころも満載で非常に読書会向けの本だった。
たいへんに読みやすいのは何故かというと「RPG的」であるから。第一章から第三章まで、ジロー達は章が入れ替わるたびごとに気候や生態系の全く違う地域に進み、しきたり(文化)の全く違う街を遍歴する。個々の世界の特徴がとても明確で且つバラエティにとんでいる。冒険が進むにつれ次のステージへのヒントが明かされるのもゲームと同じ。章が変わるたびに登場人物がリセットされるので、1シーンに出てくるキャラが少なくて頭に入れやすい。物語の最初でやや強引に冒険の目的が明らかにされ、あとはそれに沿ってストーリーが進行するのも、まるでゲームのシナリオを読んでいるような感覚に近い。また大した意味もなく突然挿入される濡れ場のシーンはいかにもかつての中間小説誌っぽかったりする。読みやすさも含めて今でいうところの「ラノベ的」の元祖と云えるのかも知れない。(そしてまた、そうであるなら中間小説は大人向けのラノベであった言えるのかも。)
実をいうと山田氏のSF作品はむかし好きでかなり読んでいたのだが、読むたびになんとなくもやもやした感じが残り、いつの間にか手に取ることが無くなっていたのだった。読んでいるときはとても面白いのだが、あとで思い出そうとしても内容が殆ど思い出せなかったりもした。数十年ぶりに本書を読み返すことで、その「もやもや感」の正体は、壮大で突拍子の無い物語に内在する「バカバカしさ」ではないかと気がついた。例えば本書で言えばジローが稲魂の神殿に侵入するきっかけとなった出来事。キングであれば圧倒的な書き込みできっと納得させてしまうであろう設定が、あまりにあっさりと、ときに投げやりなまでに簡潔に示されることで、読みながら醒めていく部分がありはしないだろうか。 どこか捉えどころのない印象は、そんなところにあるのではないか ――『宝石泥棒』を読み返していて、そう思ったのであった。一方で根っこにあるテーマは「生きることの意味」や「理不尽な運命(あるいは超越存在)への抵抗」がストレートに打ち出されていたりもする。(このテーマ性については、さすが小松左京の「直系の子ども」(本人談)だけはあると思う。)このような壮大なテーマと物語の展開の設定のアンバランスも、どこか落ち着かない印象を感じさせる原因にもなっているのではないだろうか。こういった特徴は山田作品の短所でもあれば強力な長所でもあって、『阿弥陀』『仮面』『螺旋』『神曲法廷 』等のミステリではその「バカバカしさ」ゆえに圧倒的で強力な謎の提示に成功していると思う。また『宝石泥棒』では章ごとに結構細かく註が付けられていて、これがさらに面白さを増しているわけだが、しかしよく考えるとこの註は誰が誰に向けて書いたものなのだろうか。「はたして註を書いているのは誰か?」という額縁問題を考えだすと本書そのものの意味も変わってくるような気がしてくる。
以上、今の目で見るとあちこちアラも目立つが、なかなかどうしてよく考えられた作品であり、しかもこれが僅か28歳のときに書かれた作品だと知ると、やはり山田正紀は天才なのではないかという気もする。色んな意味で愉しめる小説だった。

『偶像の黄昏』フリードリヒ・ニーチェ 河出文庫
精神錯乱に見舞われる少し前、極めて活発な創作活動を送った「驚異の年」に書かれた一冊。自らの思想の俯瞰図を描こうという意図のもとに、これまでの著書でも触れられてきた考えが、断章や寓話など様々な手法を用いて繰り返される。新訳なので読みやすくはあるけれど、元々が断章や草稿の集まりだけにニーチェ思想をある程度は知っていないと解りにくいかもしれない。生の本能に従う、あるいはディオニュソス的な道徳を肯定して、キリスト教的な道徳を生に対する反抗であるとして否定するのは相変わらずだ。なお本書でいうところの「偶像」とはキリスト教的な道徳観もしくはソクラテスの弁証法的理性など、一般的に社会規範や倫理の礎とされる象徴のことで、ニーチェの手にかかるとそれらはみなルサンチマンによる転倒として斥けられる。(「天人五衰」みたいなものかも知れない。)
また「力への意志」はひとつ間違えると封建主義の擁護や優生思想の理論的背景として利用される危うさを持つが、他者との関係性ではなく個人個人が自分で体現すべき理想の内面化として読むべきかと思う。あらゆるものを否定する独特のやり方も、それが間違っている正しいかではなく(解説にもあるように)二項対立そのものを無効化するアプローチとして考える方が面白いのではないだろうか。ただしポストモダン的な相対主義に陥っては不毛な循環になるので宜しくないとは思うが。
しかし本書を読んで改めて思ったのだが、バタイユとかニーチェってほんと頭おかしいと思う。でもそれだけに刺激的な読書が楽しめるわけだけれど。

『神統記』ヘシオドス 岩波文庫
ギリシア神話における宇宙と神々がいかに誕生し、主神たるゼウスがいかに世界を統治するに至ったかを謳いあげた叙事詩。数多い神々の系譜やクロノスや巨人族との戦いなど、知らなかったことが多くて面白いが、ギリシアの神々の乱脈ぶりには苦笑せざるを得ない。

『流れよわが涙、と孔明は言った』三方行成 ハヤカワ文庫
『トランスヒューマンガンマ線バースト童話集』でハヤカワSFコンテスト優秀賞を受賞し、作家デビューをはたした著者による作品集。前作と同様に小説投稿サイトに投稿されたものや、コミケで販売されたアンソロジーで発表されたものなど、収録作はバラエティにとんでいる。ギャグが冴える表題作や書下ろしの「走れメデス」などはいかにも同人誌的なノリが感じられるが、自分には寧ろ「折り紙食堂」や「闇」といった作品における狂気すれすれのシュールさとでもいうべきものの方が、より好ましいものと感じられた。なかなか愉しい一冊である

『葡萄酒色の夜明け』開高健 ちくま文庫
サントリー宣伝部にも所属していた小玉武氏の編による〈開高健ベスト・エッセイ〉の続篇。単著として出されたエッセイからの抜粋ではなく、これまで読んだことのない文章ばかりだったのでまずはよかった。内容は若き日に作家宛に送った書簡から、旅や飲食にまつわる随想、「男」や「女」についての想い、かつて会ったことのある著述家の記憶と文学論など多岐にわたっていて、エッセイと銘打ちながらも、全体を読み通すことで「開高健」という人物が見渡せる構成になっている。個人的には川端康成や三島由紀夫について書いた文章が非常に面白かった。三島由紀夫が自身を分析して言った「一に批評家、二に劇作家、三に小説家」という言葉が引用されているが、ひるがえってみると開高自身も小説家である前にまず自分自身に対する厳しい批評家ではなかったろうか。彼の文章を読んでいるとそんな気がしてくる。この人の根底に流れるのは倦怠と焦燥である。釣りをおぼえる前、彼はそれを忘れようと狂騒の最中に自らの身体を晒した。アルジェリア独立に揺れるパリ、傷跡も生々しいベトナム、アイヒマン裁判などを転々としつつ、最後に戻ってくるのは憂鬱という名の日常なのだ。「男」や「家庭」や「文学」といったしがらみでがんじがらめになった自分の姿を見ないようにするには、自然の中に身を置くしかなかった。沈まないためには漂うしかなかった。考え過ぎてしまうことが宿痾となる、そんな人生を歩んできた人物のような気がする。だからこそ鳥獣草木について語るときは筆が伸びやかで、街や人について語るような息苦しさがないのだ。時を経てルポ作品の中身や作中で表明される作者の価値観などが古びてしまったとき、それでも開高健の著作に価値があるとしたら、それは自分に真摯に向き合う姿勢や誠実さではないだろうか。そんな気がする。(だからこそ自分が開高健の著作で好きなのは、まず『フィッシュ・オン』に始まり『オーパ、オーパ!!』に終わる釣り紀行なのだ。)

『聖アントワヌの誘惑』フローベール 岩波文庫
ブリューゲルの版画作品『聖アントニウスの誘惑』に想起され、ゲーテ『ファウスト』に影響を受けつつ30年の歳月をかけて完成された著者の代表作。知識という名の悪魔によって、荒野に隠遁する聖者に次々と投げつけられる幻覚は、現実と見紛うばかりの迫真性に満ちている。
高慢や物欲、色欲といったわかりやすい誘惑に始まり、キリスト教の異端思想からはては仏教、ギリシアやローマの多神教など異教の思想まで、ありとあらゆる手段でアントワヌの信仰に揺さぶりをかける250ページあまりの展開は、ただただ圧巻である。唐突なラストも訳者解説によって合点がいった。フローベールは『三つの物語』しか読んだことがないのだが、小説としての完成度は別にして、こちらの方が好みかも知れない。徹底した客観的描写による誘惑の数々。信仰を突き詰めるが故に必然的に至った皮肉な結末も含め、図らずもいびつになってしまった思想小説としてひとまずは評価しておきたい。(それにしてもまさか仏陀まで出てくるとは思わなかった。)

2019年3月の読了本

今月はわりと順調だった。フィクションが多かったせいかも。

『物理学と神』池内了 講談社学術文庫
宇宙物理学の研究者が記した、一種変わった科学史の本。過去から物理学が神に仮託することで何を表そうとしてきたかについて、カントやニュートンの時代から二十世紀の相対性理論や量子力学、超ひも理論までを俯瞰しつつ、数式を使わず平易に説明される。物理学や自然哲学が無限者たる神をいかに「追放」していったかを描く第一章から、ラプラスやマックスウェルの悪魔が跋扈する第二章へと進み、永久機関や錬金術、パラドックスなども出てきてなかなかに面白い。元々は集英社新書で刊行されたもののようだ。実は読み始める前は「古今の科学者が神への信仰とどのように折合いをつけてきたのか?」というような話を期待していたのだが、ふたを開けてみると割と一般的な科学史だった。(これはこれで面白い。)いかに神の存在を前提としないで世界の成り立ちを説明出来るかが自然科学の発展を支えてきた思想であるならば、実験の再現性が科学のキモであることも納得できるだろう。誰が何度やっても同じ現象が再現できるという事こそが、神による奇跡ではなく単なる自然現象であることの証拠になるわけだ。ただしどこまで行っても「では何故そのようになっているのか?」という疑問は残るわけではあるが。(それでも科学の発展によって決着の時は無限後退し続けることにはなる。)こういった本を読んでいると内容が浮世離れしていてすこぶる好いね。
最後に面白い小ネタをひとつご紹介。「ゼノンが次々とパラドックスを持ち出して人々に論争を挑んだのは、独裁者である僭主が振りまく調子のよい喧伝の裏には、恐ろしい魂胆が隠されていることを気づかせるためであったと言われる」 そうだ。知らなかった。

『定本 黒部の山賊』伊藤正一 ヤマケイ文庫
時代は終戦直後。北アルプス源流の三俣蓮華や黒部渓谷を舞台にして、猟で糧を得る男たちとの交流や厳しい自然、山小屋を訪れる登山客らのエピソードが語られる。副題に「アルプスの怪」とあるが『山怪』のような実話怪談は第四章だけで、その他の6章ではいずれも、開発されてダムが作られる前、気軽に観光客が行けるような場所ではなかった黒部渓谷の情景や、そこでの暮らしぶりが迫真性をもって描かれている。黒部山中に住んでいた猟師崩れの「山賊」たちと、ひょんなことから親交を深めることになった著者が記した山の生活の記録なのだが、これがとんでもなく面白い。無法というより、自然こそが法の世界。そこで生きるとはどういうことか。死に直結する気候の急変、熊やカモシカや狸といった野生動物の生と死の延長に、現実と神秘が混じり合い怪異が語られるからこそ本書の副題の意味があるのだと思う。刊行後50年経ってもまったく色褪せない山岳書の名著だ。

『墓場の少年』ニール・ゲイマン 角川文庫
カーネギー賞(英)とニューベリー賞(米)を受賞した冥界版『ジャングル・ブック』とでも呼ぶべき本。死者たちによってノーボディと名付けられた赤ん坊が大きくなって世界を知り自らの運命を切り開くまでを描く。想像していたようなどろどろで暗いゴシックホラー的なものではなく、真っ当なヤングアダルト向けの小説だった。予備知識ゼロで読み始めたところ、まるで映画を観ているようで驚いたのだが、著者のプロフィールをみたら『コララインとボタンの魔女』や『アメリカン・ゴッズ』の原作を書いている人だった。どうりでリーダビリティに長けているわけだ。ヤングアダルト向けと書いたけれど話自体はわくわくどきどき冒険あり涙ありで、おとなが読んでも愉しめる。『コララインとボタンの魔女』じゃないけれど、本作も人形アニメーションにぴったりな感じで悪くなかった。

『快絶壮遊〔天狗倶楽部〕』横田順彌 ハヤカワ文庫
副題に「明治バンカラ交遊録」とあるとおり、押川春浪と彼が組織したスポーツ社交団体「天狗倶楽部」を中心とした明治の著名人の交友関係を、丹念な調査によって掘り起こした労作。とはいっても読み口は全く堅苦しくない。著者の他の著書と同じように、愉快なエピソードを軽い口調で語ってくれているのですらすらと読み進むことができる。(ただし、やたら人名が出てくるので、人の名前を憶えるのが苦手な人はちょっとだけ大変かも。)取り上げられているのは押川春浪や中村春吉などこれまでの著作でもお馴染みの人々から、河岡潮風や永代静雄、小杉未醒といったまるで聞いたことのない人まで様々。全十二章の中には、それまで歴史の彼方に埋もれて忘れ去られていた交流の様子が活写される。1999年に出版された単行本の初文庫化ということだが、存在自体全く知らなかった。大河ドラマ『いだてん』の影響だろうが何だろうが、とにかくこういう本が手に入るのは有難いことだ。個人的にはヨコジュンの文章が久しぶりに文庫で読めるのが嬉しい。もっと長生きしてたくさん本を書いて欲しかったなあ。

『シンドローム』佐藤哲也 福音館書店
〈ボクラノSFシリーズ〉の一冊。ひとりの男子高校生の視点で、四人の学生たちの日常と謎の飛行物体が街外れの山に墜落してからの一週間の出来事を描く。主人公のひねくれた独白のおかしさと徐々に進行する"兆候"の深刻さのギャップが、これまで読んだことのないような雰囲気の物語を作り出している。これが果たして主に児童向けに書かれた本と呼べるかどうかは別として、まぎれもなく侵略SFの傑作である。後年、ウィンダム『トリフィド時代』のような“ある種”の位置を占めることは間違いないと思う。著者の作品は割と好きで『イラハイ』や『ぬかるんでから』などいくつか読んでいたのだが、こんな本が出ていることはツイッターで教えてもらうまでまったく知らなかった。ありふれた日常から不穏に満ちたラストまで、忘れ得ぬ余韻を残す作品である。(ただし子どもの頃に読むとトラウマになるかも知れない。)

『砂糖の空から落ちてきた少女』ショーニン・マグワイア 創元推理文庫
異世界から元の「この世界」に戻ってきた子ども達を迎え入れる〈迷える青少年のためのホーム〉を題材にした三部作の最後の作品。子ども達の前日譚を描いた前作『トランクの中に行った双子』とは違い、本書は第一作『不思議の国の少女たち』の直接的な続編になっていて、互いに補完しあって重層的な物語を形作っている。今回は前二作に比べてユーモアが強めで凄惨な展開にこそならないが、本来の自分の居場所である場所が失われた子ども達のひりひりした焦燥感は同じだ。巻末の訳者解説によればこの後も少なくともあと2冊は続きが出されることが決定しているようなので、願わくば〈魔法の国ザンス〉のように長大なシリーズと化してしまったがゆえ、当初の魅力がぼやけてしまうようなことが無いことを祈る。そんなに簡単に往き来出来ないからこそ、夢の国は夢であり続けるのだから。

『父と私の桜尾通り商店街』今村夏子 角川書店
「文芸カドカワ」に掲載された三篇に、「早稲田文学増刊」と「たべるのがおそい」、書き下ろしの一篇を加えた最新短篇集。発表誌が違うためか、これまでのイメージとはかなり違う作品が多かった。文芸カドカワのものは軽めの印象だし、「ひょうたんの精」と「せとのママの誕生日」はファンタジーというか魔術的リアリズムというか、そちらの方面に振れている。「白いセーター」と「ルルちゃん」あたりは相変わらず構図が歪んでいる絵を観ているようで、歪んでいるのは「わたし」なのか周囲なのか或いは読者自身なのか判らない不穏さがこわい。しかしそれ以外の作品は、表題作も含めて突然垣間見える不安定さは相変わらずでも、それでも『こちらあみ子』や『星の子』のような苦しさは無く割と穏当に受け入れられる。著者の作風の広がりを愉しむ事ができた。
鼻の奥に鉄の匂いがするようなひりひりした感じは吉田知子にも似る。

『小鼠 油田を掘りあてる』L・ウイバーリー 創元推理文庫
欧州の小国グランド・フェンウィック大公国が世界中の大国を翻弄する痛快シリーズの掉尾を飾る第4弾。今回はエネルギー危機を題材にして、いつものごとく首相であるマウントジョーイ伯爵の頭脳が冴えわたる。それにしても本書になぜ創元推理文庫の<帆船マーク>が付けられているのか不思議だ。Q爆弾をはじめとする天才科学者コーキンツ博士の発明は怪奇と幻想よりSFに近いものだし、物語自体はポリティカル・フィクションというか、『大誘拐』や〈陽気なギャング・シリーズ〉といった犯罪小説、あるいは映画でいえば『スティング』や『オーシャンズ11』あたりの雰囲気に近いと思う。まあジャンルは何にせよ面白ければ良いのだし、金も力も持たないものが丁々発止、頭と口で強い連中を手玉にとる物語が面白くない筈がないのである。

『ドーキー古文書』フラン・オブライエン 白水uブックス
海辺の町ドーキーを舞台に、ひとりの若者が奇妙な人々と共に繰り広げる狂おしくも哀しいドタバタ劇。超自然と科学、信仰と倫理、日常と文学などの要素が入り混じった軽喜劇とでもいえばいいのだろうか。酒と信仰と奇想に彩られた本気とも冗談ともつかない展開で、最終的にどこへ連れて行かれるのか予想も出来ない。ついあちこちをつついて読み解いてみたくなる物語だが、真面目に考えるほど著者に「全て冗談だよ」とひっくり返されそうな気もする。アマチュア科学者にしろ巡査部長にしろ世界的な某有名作家にしろ、出てくるのはなにしろ頭のイカれた連中ばかりなのだ。ぜひとも皆、幸せになってもらいたいものである。ところでなぜ本書の題名が「古文書」なのだろうか。最後まで読んでも結局題名の意味はわからなかった。(そしてなぜ「国書刊行会にしか出せない(出さない)海外文学叢書」が〈ドーキー・アーカイヴ〉と名付けられたのかも。)

『あやかしの裏通り』ポール・アルテ 行舟文化
『第四の扉』など本格ミステリを数多くものにして「フランスのディクスン・カー」とも称される著者による新作ミステリ。ミステリというより探偵小説と呼ぶのが相応しい、いかがわしさと懐かしさが同居した物語が沁みてくる。奇抜な謎と合理的な解決、そして意外な犯人という三拍子がみごとに揃った愉しい作品だった。ひとつの通りが丸ごと消失するという大技も見事に決まり、犯人が〈少年探偵団シリーズ〉に出てくるような劇場型犯罪を犯した理由も(納得出来るかどうかは別にして)まあ理解はできる。ただし作中で示される図の通りだとすると、これで本当に消失トリックが成立するかは疑問に感じた。もうちょっと路地の形とか扉の位置とか工夫が要るんではなかろうか。まあ仰々しい謎解きも含めて、それら全部が愉しいのではあるが。こういうのを読むと、やはり自分はハードボイルドや社会派あるいはサスペンスなどよりも、本格ミステリが好きなんだなあと実感するのだ。

『傍迷惑な人々 サーバー短篇集』サーバー 光文社古典新訳文庫
長年にわたりニューヨーカーの誌面を飾ったジェイムズ・サーバーの代表的な作品の数々を、「家族の絆」「傍迷惑な人々」「暴走妄想族」「そういうぼくがいちばん……」といったテーマ別に分けて紹介したもの。本人による挿絵や一コマ漫画も収録され、多彩な一面(というか漫画の方が本職?)を見ることが出来る。異色作家短編集では分かりにくかった作家としての立ち位置も、こうしてみるとわかるような気がしてくる。エッセイとも創作ともつかないところとか、ユーモアとナンセンスに溢れたところとか、日本で例えるとしたら「東海林さだお」に近いのかな?とも思った。(きつめのジョークはサキの『クローヴィス物語』に似ているかも知れない)軽めでスマートでユーモアがあって、さらりと読めて腹に残らない洒落た作品群はたしかに、いかにもニューヨーカー誌に載っていそうな感じである。単純明快な面白さといえるだろう。

『この世界は何だ⁉︎ じわじわ気になるほぼ100字の小説』北野勇作 キノブックス
ツイッターで発表された掌編を130集めて一冊の本に仕立てたシリーズの第三弾。今回は題名にあるように「世界」がテーマで、 暗闇世界や縁側世界、坂道世界に組み立て世界などなど、様々な世界がひとつのページごとに広がっている。テーマが「世界」だからか、前二作よりもSFらしさを強く感じた。(自分が好ましいタイプのSFらしさ)いつもの氏の作品と同じく不思議な描写や理屈が続くのだが、なぜだかストンと腑に落ちる。氏の創作活動の根っこには落語とかSFとか演劇とか色々なものがあると思われるが、自分に共通するSFの根っこは案外このあたりにあるのではないかという気がした。(根拠はないが) 根拠のない思いつきをついでにもう一つ。氏の創作には本書のような掌編がいちばん向いているかも知れない。もしかしたら本シリーズが、氏の代表作になるのかもしれない。
最新記事
カテゴリ
プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

最新トラックバック
FC2カウンター
最新コメント
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR