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映画 『陽炎座』

先週に引き続いて鈴木清順監督の<浪漫三部作>から、こんどは『陽炎座』を観てきた。泉鏡花ファンとして見逃せなかった訳だが、いやはやこれは傑作。個人的には世評が高い『ツィゴイネルワイゼン』よりも好きかもしれない。上手いこと鏡花の短篇「春昼」「春昼後刻」「陽炎座」を繋いでオリジナルストーリーに仕立てていた。映像も美しいし、ラスト近く、子ども芝居からの展開と無惨絵のシュールな背景が、不思議と鏡花の怪談の雰囲気をよく再現できていると思う。(ただ「陽炎座」を読んでないと肝心なところが解らないと思うので、青空文庫ででも良いから目を通しておくべきかとは思う。「春昼」「春昼後刻」はストーリーを追う上ではそんなに気にしなくてもいいので。)
ただ物語の流れからすると小説「陽炎座」のラストのままでは映画として終われないので、再び「春昼」「春昼後刻」を持ってきて決着をつけたのは脚本の田中陽造の巧さかも知れない。その意味では「春昼」「春昼後刻」においてあくまでも傍観者だった山崎が当事者とならざるを得なかったのも納得できる。冷酷な伯爵・玉脇に翻弄された二人の女性がやがて物怪に取り込まれて復讐を遂げる物語は、山崎がいることで最後に救いへと変わるのだ。(彼にとってそれが“救い”だったのかはさておき。)
あと原田芳雄がとても好かった。『ツィゴイネルワイゼン』で主役をはった原田芳雄は本作では、「アナ・ボル」(アナーキズム/ボルシェビズム主義者)となって前作で麿赤兒がやったのと同じような狂言廻し役を演じる。これがまた出てきた瞬間に、熱演だがどこか優等生っぽさが抜けない松田優作の演技を食ってしまうほどの存在感があって素晴らしかった。
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映画 『ツィゴイネルワイゼン』

ずっと観たかった映画をやっと観ることができた。鈴木清順監督の<浪漫三部作>が、生誕100年を記念して4Kデジタル完全修復版としてリバイバル公開とのこと。この機械を見逃すわけにはいかない。監督自らが「一瞬の仕掛花火」と言っているものをあれこれ論ずるのも野暮かも知れないが、せっかくなので感想ぐらい残しておきたい。
まずぱっと感じたのは食べ物と酒、煙草がやたら出てくること。「生」と「性」、「私」と「死」、そして随所に象徴的な映像と音、気味の悪さと裏腹の滑稽さがふんだんに散りばめてあって、所々に見える稚拙さとともにまるで70年代のアングラ劇や水木しげる、つげ義春の漫画を思わせた。(麿赤兒が出ていることからしてさもありなん。)構成や演出などいま観ると時代を感じてしまうところもあるが、こういうマニアックなのは嫌いじゃない。内田百閒の短篇をいくつか取り込んでいるが、全体としてはそんなに百鬼園カラーを強くは感じなかった。破滅型の主人公・中砂(なかさご)が居なくなってから「サラサーテの盤」を巧く使って、『冥土』の雰囲気で一気にまとめ上げたのはさすがだった。万人におすすめ出来るわけではないけど、カルトな人気を誇るのもよく理解できた。
あ、ちなみにこの映画、最初のうち誰の視点で観るべき迷ったのだけれど、それは正確にいうと主人公が二人いるから。能で言えば原田芳雄演じるところの中砂がシテで、その友人で常識人の青地(藤田敏八)がワキに当たる。そういえばこの映画は、構成そのものが夢幻能をひっくり返したかたちになっているようだ。能ではこの世に想いを残して死んだ霊(シテ)が僧侶や旅人(ワキ)の前に姿を現して、想いのたけを伝えたあと消えてゆくのに対して、本作ではこの世に居場所が無い高等遊民ならではのさまざまな恨みつらみを遺してシテが死んでゆくまでと、その後の怪異をワキが体験するところまで終わる。ちょうど裏返しの構成だ。

2023年10月の読了本

辺見庸『私とマリオ・ジャコメッリ』 NHK出版
作家・辺見庸が文字通り自分にとってのジャコメッリについて語った一冊。エッセイとも言えるしジャコメッリ論とも、あるいは彼の写真を通して資本や報道の欺瞞を暴く現代社会論ともいえる。モノトーンで硬質、夢幻と現(うつつ)の区別なく自らの視た対象を切り取った"表現者"ジャコメッリ。ロラン・バルトやハイデガー、シオランといった思想家たちの言葉を引き合いに出しつつ、白黒写真に映し出された異界を通じて「時間=死」(死すべきものとしての時間内存在である自分)を表現し続けた彼の世界を、「スカンノ」「死が訪れて君の眼に取って代わるだろう」「夜が心を洗い流す」といった作品集の中からの何枚かとともに紹介する。本書の元になった番組をNHK教育テレビで観たときから、自分の中にもこの稀有の写真家が彫り込まれたのだが、それを追体験するような文章だった。

高原英理編『川端康成異相短篇集』 中公文庫
いま最も注目している幻視の書き手が川端康成のある種の特性を切り取ってみせた作品集。なぜだか急に川端康成が読みたくなって書棚から引っ張り出してきたが、収録作はどれも変で好い。変態じみた静かな狂気のようなものを感じる。ノーベル賞作家の掴みどころのない感性が"異相"という視点で示されたことに舌を巻く。三分の2ほどは幻想小説と読んでも差し支えないものであって、その意味でもかなり自分好みといえる。結果的に死の色が濃い作品集になっているが、現実と虚構が交叉する本邦の魔術的リアリズムとしても、谷崎や乱歩にも通じるクィアな小説としても十分に愉しめるものだった。
収録作品で個人的に特に気に入ったのは「心中」「白い満月」「地獄」「無言」「たまゆら」といったところか。とても質の高い作品集だった。

ピーター・S・ビーグル/井辻朱美訳『最後のユニコーン 旅立ちのスーズ』 ハヤカワ文庫
名作ファンタジー『最後のユニコーン』の後日譚となる「二つの心臓」と、そこで新たに登場した少女が妖精に連れ去られた姉を探す旅に出る「スーズ」の二篇を収録した中篇集。
なぜこの著者の描く物語はいつも切ないのだろうと考える。自らの魂とも言えるものの喪失とその探求、何かを得るために差し出さなければいけないもの、生きていくことの責任と誇り、そして各々がいるべきところへの帰還。深い信頼と、それが故の別れには常に死の影が付きまとう。昏くつらい世界ではあるけれど、だからこそ彼らが秘めた悲しみが胸を打つのだろう。とりわけ「スーズ」が好い。まさしくある種の「ゆきてかえりし物語」でもある。

福田拓也『オンラインまだき』 しろねこ社
書き下ろされた詩と絵画による〈小さな詩集の大全集〉の第四弾。これまでの草野理恵子氏、多宇加世氏、夏野雨氏によるものとまた違う、おそろしいまでに衝撃的な詩集だった。
本を読む時のタイプとして、脳内にイメージを思い浮かべながら読む視覚的な人と、イメージは浮かばず文章の意味だけが理解される言語的な人がいるという話を以前聞いたことがある。また、読む時に脳内で音読する人と目で文字を追って直接理解する人がいるとも。
この詩集はそれら全ての人にとって、一種破壊的な体験を及ぼすものという気がする。改行も文中の句読点もなく、ただひたすら連なる文字の群れ。個々の単語の意味や音のリズムはあっても、全体の意味は次々と脱臼されていく文章。例えば「わたし」を「輪他死」と置くことで視覚的にも意味的にも多重にずらしていく試み。理解しようとする行為からするすると逃れ続ける何物かが、全編にわたって綴られている。いやびっくりした。

J.ジョイス、W.B.イェイツ他/下楠昌哉編訳『妖精・幽霊短編小説集』 平凡社ライブラリー
副題は「『ダブリナーズ』と異界の住人たち」。本アンソロジーの趣旨が編訳者あとがきに書いてあって、それによるとジェイム図・ジョイスの『ダブリナーズ』を一種の幽霊譚の集積として読むことだそうだ。「妖精と遭遇」「心霊の力」などと銘打たれた八つの章にはそれぞれ数篇の幻想譚が収められ、全ての章の最後にはその趣旨に相応しいとジョイスの作品が併置されている。
ただ編者の意図はよく解るが、正直、最後まで違和感は否めなかった。心象にこだまする死者の声のリアリズムと、物理的に現れる霊現象とを同列に扱うのはやはりよろしくないと思うのだ。『ダブリナーズ』で描かれるリアリズムの視点はあくまで生者の世界のもので、レ・ファニュやイェイツ、オブライエンといった幻視家たちの作品とはカードの裏表のような関係にある。幻想の風景に肉薄はするけれど、決してリアリズムの世界から踏み外すことはない。テイストは確かに唸らされるものはあるが、幻想作品を散々読んだ後にシメとしてジョイスがくると、無理やりカードの裏側を見せられたような感覚がある。チャールズ・ディケンズ「第一支線 信号手」やジェローム・K・ジェローム「科学の人」、あるいはオブライエン「何だったんだあれは?」とやーティン「聖マーティン祭前夜(ジョン・シーハイによって語られた話)」など、収録されている個々の作品は名作揃いでたいへん愉しく読めた。おもしろい試みとして記憶はしておきたい。

アイザック・アシモフ/高橋泰邦訳『ミクロ潜航作戦』 ハヤカワSFシリーズ
アシモフのオリジナル作品ではなく映画『ミクロの決死圏』のノベライゼーションだが、人体を細菌大に縮小された潜水艇が進む描写やミステリ的な要素など著者ならではの工夫が凝らされていて思ったより愉しく読めた。
アシモフの文章は分かりやすくはあるけれど美文ではなく、ときに回りくどかったりする。登場人物たちによる軽妙な会話もミステリ向きではあってもSFにはあまり向いているとは思えず、本作でも中高生のころにはウィットに富んだ会話と思っていたものが、今読むといささかズレている感触をおぼえる。アシモフ作品というと自分の中ではラッセルやラインスターなどと同じくB級グルメ的な位置付けなのだ。
それでも予想以上に愉しく読めたのは、最近はこういったストレートな娯楽SFを読んでいなかったからだろうと思う。いわゆる古典SFをたまに読みたくなるのはそういうことだ。

ドニー・アイカー/安原和見訳『死に山』 河出文庫
1959年にソヴィエト時代のロシアで起こった悲惨な遭難事件の真相を、アメリカのドキュメンタリー映像作家が追ったノンフィクション。ある方もSNSで書かれていたが、邦題は秀逸だ。単純に"死の山"と訳すのではなく"死に山"としたことで、この事件が持つ異様さ、不安定さをうまく表していると思う。
当時の再現ドラマの章と現在進行形の著者自身の調査の章が交互に記されるが、ドラマの方はちょっと安っぽい感じがして、どうせなら高野秀行のように完全な自分目線で統一した方が良かったのではないか?という気がしないでもない。
様々な怪奇事象は最終的には「なぜ安全なテントの中から9名もの経験豊かなトレッカー達が、パニックを起こして極寒の雪原へと飛び出していったのか」という謎に収斂していき、超常現象ではない合理的な原因が突き止められる。若者たちを襲った悲劇をオカルトや陰謀論で軽薄に消費するのでなく、彼らの等身大の死に様を再現することが鎮魂になるという著者の主張は一応理解は出来た。本当の狙いがどこにあったかは別として、よく出来たノンフィクションではある。

イタロ・カルヴィーノ/米川良夫訳『不在の騎士』 白水Uブックス
《我々の祖先》三部作の掉尾を飾る作品。騎士道という「理念」が甲冑の中に宿った不在の騎士アジルールフォと、彼の従者たる狂気のグルドゥルー。また理念としての騎士道に憧れた女騎士ブラダマンテと、彼女に心惹かれる若き見習い騎士のランバルド。これら一癖も二癖もある面々が、シャルルマーニュ公の治世に織りなす騎士道物語のパロディ(あるいは『ドン・キホーテ』の陰画)……かと思いきや、物語の語り手として聖コロンバヌス修道院の修道尼テオドーラが現れ突如メタフィクションの様相を呈する。むかし国書刊行会のハードカバーで読んだ時にはえらくとっ散らかった物語との印象を持ったが、いやいやどうして、ゴシック小説を思わせる構造の仕掛けなど、技巧がよく練られた快作だった。ここに色々なものを読み取るのは読者の自由だろう。なお訳者・米川氏の名前が「よしお」ではなく「りょうふ」だとは知らなかった。

カール・ポパー/小笠原誠訳『開かれた社会とその敵 第一巻(上)』(岩波文庫)
第一巻の副題は「プラトンとその呪縛」。はるかギリシア時代にまで遡って、全体主義の源流を探る。読みやすいし論旨もつかみやすい。(まだ途中なので感想は全部読み終わってからとします。)

宮澤伊織『ウは宇宙ヤバイのウ!〔新版〕』 ハヤカワ文庫
10年前に一迅社文庫から出た作品に、主人公を女性に変えて百合物にするなどの改変を行った新版とのこと。元本を読んでないのでそのあたりはよく分からないが、当時、一部のSFファンの間で話題になったように、色々なSFのパロディが盛り込まれている。アニメ『キルラキル』のようなコミカルさと軽いノリで一気に読み終えた。続きは出るのかな?

石沢麻依『貝に続く場所にて』 講談社文庫
2021年の群像新人文学賞と芥川賞を受賞した作品。コロナ禍にあるドイツの街ゲッティンゲンに住む「私」は、過ぎ去った3月11日の海に消えた野宮の突然の訪問により、9年前の喪失の記憶と向かい合うことになる。死者と他者は距離を測りかねる点において同一かも知れない。知ろうとすること、無知であること、思い出したくない記憶と忘れられない記憶、そして対話すること。
本書の仕掛けである、太陽系惑星を縮尺通りに再現した「惑星の小径」を巡ってゲッティンゲンに現れる不思議な現象は、実をいうとSF小説では割とありふれたものだ。全体の構成が見えてくるにつれて妙に安心感をおぼえるが、本書が描き出そうとするものは当然ながらそこではない。死との対峙を通して生に向き合うのは極めて文学的と思うのだ。
特異点として否応なしに置かれてしまった震災の記憶。いつか自分にもくる喪失にどのように向き合うのか。戸惑いと逡巡を繰り返す「私」はハイデガーと同じ問題を問い続けるが、似たような"文学的な決着"の付け方でも、古谷田奈月「無限の玄」のようにならないのは著者の生真面目さによるものかも知れない。過去の記憶を今に繋いでいくために文学や芸術は大きな役割を果たしているという、著者の対談の言葉が松永美穂氏により解説で引用されているが、たしかに本書は真摯な芸術論でもあると思う。
ところで話は変わるが、前に山口雅也『奇偶』や本書でもそうだったけど、文学やミステリではとても苦労するのに、SFが得意な「科学を利用した"IF"」の手法を使うと簡単に表現出来ることがあると思う。具体的な例を挙げるとすれば、前者はシルヴァーバーグ『確率人間』で、後者はイーガン『宇宙消失』やあるいは量子力学的な観測者問題。思考実験としての文学ジャンルの面目躍如といったところかも知れない。

映画『ミツバチのささやき』

〈午前十時の映画祭〉で『ミツバチのささやき』を観てきた。印象に残るシーンはたくさんあったけれど、どう解釈して良いのか分からない点も多くて、ネットで他の人のレビューを読んでみた。結果、みんな好き勝手書いたのでしごく腑に落ちた。結局のところ、自分が感じたそのままで良いのだ。
映像で描かれた抒情詩あるいは文学。スペイン語圏の映画はルイス・ブニュエルぐらいしか観ていないが、暗喩と象徴に満ちた展開は、海外文学で言えばラテンアメリカやポルトガルの香りに共通するものがある。そしてまた幼いアナの体験の背景には、社会と人々の運命を引き裂いたスペイン内戦と人民戦線の敗走、また体制側であろう父親と、時代に翻弄された母親が織りなす複雑な人間模様が透けて見える。
フランケンシュタインをめぐる神秘体験は、女の子に果たして何をもたらしたのかも含め、何度も振り返りたくなる傑作なのだろうと、改めて思う次第。(それにしても女の子が可愛らしかった。観た人みんな言ってるけど。)

2023年9月の読了本

モリエール/鈴木力衛訳『ドン・ジュアン』 岩波文庫
主人公は名高い放蕩者の代名詞となっている伝説的人物で、要するに"チャラ男"の物語だ。元になったスペインの説話に始まりフランスのパレー・ロワイヤル劇場にかけられるまでの顛末は、巻末の訳者解説に詳しい。
快楽追求者にして無神論者、さらに偽善者という救いようのない人物による、やりたい放題の悪辣ぶりと、彼が相応の報いを受ける取ってつけたようなラストは、(作品の出来はともかくとして)正直なところそんなに好みではなかった。なにしろ聞きしに勝るクズ男ぶりで、開始後わずか数ページで「刺されて死ねば良いのに」と思わせるのはさすがだ。
どこを不快に思ったのだろうと考えてみる。結果、今の日本社会がまさしく、そういう人間がメディアでもてはやされる社会であるからだろうという思いに達した。こういう輩はみんな雷に撃たれて悶死すればいいのである。まあ、もっと単純な話をするなら、頭の悪い主人公の物語が昔から嫌いだということでもあるんだけど。

川野芽生『奇病庭園』 文藝春秋
角、翼、鉤爪、鱗、毛皮など、余剰のものを生やした者たちの世界が、やがて〈天使総督〉〈七月の雪より〉〈いつしか昼の星の〉という名の者たちを中心に動き出し、きれいなイメージの奔流がモチーフを微妙にずらしつつ重ね合いながら永遠の静寂へと向かう。
当初はイタロ・カルヴィーノの『見えない都市』やギョルゲ・ササルマンの『方形の円』、あるいは別役実の『当世病気道楽』を思わせたが、時系列を敢えて崩すことで得られる幻想的な構成は、むしろ魔術的リアリズムに近いかも知れない。話の筋はぜんぜん違うが、高原英理『観念結晶大系』も思い出させた。それほどの厚さはない物語なのに、繰り返されるロンドのようなエピソードを何度も読み返すのはとても豊麗な体験だった。
(ところで本書で芽生は「めぐみ」と読むのだということを今更ながら初めて知った。)

廣野由美子『100分de名著 シャーロック・ホームズ スペシャル』 NHK出版
例によって番組は観ないでテキストだけ読んだ。『批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義』の著者と知って少し構えたけれど、ぜんぜん固苦しくなくて愉しく読めた。
探偵小説を推理と人間ドラマの二面から捉えて、探偵を「職業として他人の秘密を暴く文学装置」と定義した上で、一連のホームズ物を(著者が思う「人間が描かれたもの」という)"小説"の一形式として読み取ろうとする試みが、けっこう新鮮に感じる。人間性の探究がとりわけ英国探偵小説の特色であるという見解は、そんなに国別で読み比べたことが無いからよく分からないけれど。
久しぶりにシャーロック・ホームズを読んでみたくなった。シェイクスピアと同じで、たまに読み返したくなるんだよね、不思議なものです。

シェイクスピア/福田恆存訳『お気に召すまま』 新潮文庫
シェイクスピアの喜劇時代の後期に書かれた作品。訳者による解題にあるが、舞台となるアーデンの森が持つある種の「魔力」を想定して読むと、他愛もない恋の駆け引きを描いた浪漫喜劇が、のちの『あらし』のような幻想物語にも思えてきて愉しい。ところでシェイクスピアって、泉鏡花の戯曲に共通するようなおもしろさがあるね。

京極夏彦『鵼の碑』 講談社ノベルズ
17年ぶりの京極堂とあって期待半分、こわさ半分といったところで読み始めた。懐かしい面々がまるで顔見世興行のような感じで次々と出てきて、それぞれに活躍の場も作られていて、キャラ小説としてはまず大満足といったところだった。関口と「父親を殺した」という女性のパートである〈蛇〉、あるいは榎木津の探偵事務所スタッフ・益田による失踪した薬局の経営者探しのパートである〈虎〉、はぐれ刑事・木場と過去の死体消失事件のパート〈貍(たぬき)〉、京極堂こと中禅寺秋彦の古文書調査の〈猨(さる)〉、そして〈鵺(ぬえ)〉といったパートがそれぞれ独立して進んでいき、やがてキメラのように入り組んだ様相を呈する。書いてある内容は矢吹駆シリーズ並に面倒くさいけど、会話の遣り取りがほぼ落語なので読みやすい。これがキャラ小説の利点だろう。内容にはとても時事的な面をこれまで以上に感じた。隠れたテーマは昨今のSNSを背景にした盲信やポピュリズムと、一人ひとりの生き方なのじゃないかとさえ思った。日光三所権現にまつわる信仰の謎を解く〈猨〉のパートが個人的には最もわくわくしたが、謎解きとしても『塗仏の宴』以降の作品の中でいちばんよくできていたと思う。なにしろ性根の腐った悪いやつが出てこないのが好い。次回作の『幽谷響(やまびこ)の家』までどれだけ待たされるのか分からないけれど、まだたのしみにして待つことが出来そうな気がする。
しかし「百鬼夜行」シリーズは、巻を重ねるごとに「巷説百物語」シリーズと重なっていくなあ。作品世界をぜんぶくっつけたくなるのは作家のならいなのかねえ。

絲山秋子『末裔』 河出文庫
58歳、定年間近の中年男性。妻には病気で3年前に先立たれ、独立した子ども二人とも疎遠になり、今はゴミ屋敷と化した一軒家に独りで住む公務員。最初のうちは行動や心理描写がやたら哀しくていたたまれない。これはまさしく自分だ。暮らしぶりも境遇もぜんぜん違うけれど自分だ。
ある日突然、男は不可思議な困難に巻き込まれる。心に欠落を抱えたまま彷徨を続ける中年のオルフェウスは、微睡みの中へ、記憶の深層へと降りてゆくことになる……。
おそらくこれはユングの地下室の夢と同じような意味を持つのだろう。過去に深く降りてゆけば行くほど、古く凝り固まった暗い思いは崩れて解けていき、遠くが見えてくる。自分に向き合うことで一人の人間としての尊厳へと至る。気付かされることで救われる。それはたとえおっさんだろうが同じ、ということがありがたい。なんとやさしい物語なんだろうか。

ダニイル・ハルムス/増本浩子&ヴァレリー・グレチュコ訳『ハルムスの世界』 白水Uブックス
ロシア・アバンギャルドを代表する作家の短篇を集めたオリジナル作品集。2010年にヴィレッジブックスから出されたものに10篇を加えた増補改訂版とのこと。ハルムスは本書で初めて読んだのだけれど、なかなか好みだ。ナンセンスで時に不条理で、そこはかとないユーモアのある小噺がテンポよく進んでいく。(もちろんその裏側には当時の社会への絶望感が隠れてもいるわけだが。)乾いた文章と独特のかっこよさに、稲垣足穂『一千一秒物語』、あるいは安部公房やカフカあたりを連想した。あちこちに挿し込まれたハルムスについてのコラムも著者を知る上で参考になる。装丁も中身に似ておしゃれで気に入った。それにしても〈永遠の本棚〉はいい企画だなあ。

ジョン・スラデック/鯨井久志訳『チク・タク・チク・タク……(以下、全部で10回繰り返し)』(竹書房文庫)
なぜだか理由は分からないが、アシモフのロボット工学三原則(「ロボットは人に危害を加えてはならない」という例のアレ)が機能していない一台のロボットが、才知を駆使して倫理観の崩壊した未来の地球でのし上がっていくピカレスク・ロマン。人間ならきっとサイコパスと呼ばれているであろう主人公が、倫理にもとる所業を繰り返す。中身はヴォネガットからユーモアを除いてシニカルさと残酷さを強めた感じとでも言えばいいだろうか。徹頭徹尾、悪趣味で露悪的で猥雑で残酷でどす黒い。誰もしあわせになどならない。でもおもしろい。世界中で奴隷扱いされているロボットによる復讐物と考えると、ヴィアン『墓に唾をかけろ』にも共通する凄みがあるとも言える。まさしく怪作の部類に入る作品だろう。これを世に出したとは、さすがは竹書房文庫と言いたい。そしてアクロバティックな文章をうまく日本語に移し替えた訳者にも拍手を送りたい。

ところで作中に、ひとつ明らかな科学的間違いを見つけた。金塊は濃硫酸では溶けない。(金を溶かせるのは濃塩酸と濃硝酸を混ぜた王水)したがって本書中のある犯罪は不可能だ。


高野秀行『トルコ怪獣記』 河出文庫
この人の本は好きで結構読んでいるつもりだが、 本書については2010年の講談社文庫版(書名は『怪獣記』)を読んでいないので、これが初めてになる。
トルコについて書かれた本を読むのは小島剛一『トルコのもう一つの顔』(中公新書)以来となる。久しぶりだ。高野秀行氏の本はどれも基本エンタメなのだが、政治の話題も避けることなく正面から触れていくのが好い。本書でもUMA(未知生物)探しの能天気な話と思っていたら、トルコが抱えるクルド人問題に正面から斬りかかったりして油断がならない。トルコで目撃されたジャナワールという「怪獣」の正体を突き止める旅の目的がどうなったかはここでは書かないけれど、コンゴの怪獣ムベンベやインドの怪魚ウモッカといった、これまでのUMA探検シリーズの中でいちばんの面白さじゃないかと思う。

今井むつみ/秋田喜美『言語の本質』 中公新書
認知・発達心理学者と言語学者が共同で研究した成果を解りやすくまとめた本。オノマトペという、言葉の中でも特異な位置を占めるものの特徴を探ってゆくうち、子どもが言語を取得する上で欠かすことの出来ない重要なピースであることが示される。さらにそこから発展して、言語取得に必要なもうひとつのピースが「アブダクション推論」、すなわちあることを知ると過剰に一般化したり、ある現象からパターンを抽出して未来を予測したり、結果から原因へと遡及する機能であることと、数多い動物の中で人間だけが唯一アブダクション推論を幼少期から身につけていることが明らかにされ、最終的には言語能力の取得に関する壮大なビジョンが見えてくる……。
「言語の本質」に至るまでの過程は、感動的ですらある。研究が進み確固たるものとして本書の仮説が証明されるまでにはまだ長い道のりがあるだろうけれど、感覚的には「これは本物っぽい」という印象を受ける。昔に読んだ古澤満氏の『不均衡進化論』と同じ種類のどきどき感だった。今井むつみ氏の本は、ちくまプリマー新書から出た『ことばの発達の謎を解く』以来だけれど、やっぱりおもしろい、いや素晴らしい研究だと思う。こんなのが手軽に読めるとは、何としあわせなことだろうか。

ベネディクト・アンダーソン/加藤剛訳『越境を生きる』 岩波現代文庫
ナショナリズム研究の名著『想像の共同体』の著者による回想録。アイルランドで過ごした子ども時代や親のこと、ひょんなことからアメリカに渡りコーネル大学の教員としてその後の人生を過ごすことになったこと、インドネシアをはじめとする東南アジアを中心とした政治学の研究と人々との交流などが赤裸々に語られる。第3章「フィールドワークの経験から」と、『想像の共同体』の執筆裏話や戦略的な「比較」という手法を述べた第4章「比較の枠組み」が本書の白眉だと思うが、大学を退官してからの活動について述べた最終章「新たな始まり」まで、常に自らの枠を定めず、好奇心の赴くままに外へ外へと出ていこうとする姿勢で一貫していて、全編を通してかなり熱い。もとはNTT出版により日本の研究者に向けた企画としてインドネシアの諺「伏せられたヤシガラ椀の中のカエル(≒井の中の蛙)」をもじった『ヤシガラ椀の外へ』という題名で出されたものだが、著者は常に自らの枠を定めず、好奇心の赴くままに外へ外へと出ていこうとする姿勢で一貫している。最終章ではインドネシア語の言い回し「風を探している」になぞらえて、研究者は「風を探そうとの心構え、風を見つけたらそれを捕らえようとする気概が大切なのだ」と、そしてそのためには「物理的(フィジカル)な旅と精神的(メンタル)な旅の両方をすることが重要」だと述べる。謙虚さとあたたかさに溢れた人だったことが、文庫版に寄せられた葬儀の様子からも推察される。良い本だった。そして『三つの旗のもとに』が読みたくなった。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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