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2022年2月の読了本

今月はおもしろい本がけっこう多く読めた。こういう「当たり月」みたいな月もあるね。

『ゆきあってしあさって』高山羽根子/酉島伝法/倉田タカシ 東京創元社
三人の作家による架空の旅のリレー書簡集。宮内悠介氏の解説によれば、今をときめく彼等にもまだ単著の無かった2012年にウェブで公開を始め、翌年の大阪文学フリマで「旅のお土産」付きの書簡を頒布したのが元になっているらしい。前評判の高さもさることながら「架空の旅」には昔から目がないので、出るなりさっそく読んでみたところ、期待に違わずとてもおもしろい本だった。
カルヴィーノ『見えない都市』やササルマン『方形の円』のような架空都市カタログとしても読めるし、石川宗生『四分の一世界旅行記』やヒルトン『失われた地平線』のような、旅行者による異文化コミュニケーションの記録としても愉しめる。とてもごきげんな本だ。中でも酉島伝法氏の旅は『皆勤の徒』を地でいくような壊れっぷりで、あまりの不運に片時も目が離せない。三人の奇想がぶつかりあい互いに刺激しあって、予想だにしない処へと旅は広がってゆく。果たして三人は最果ての地で無事に落ち合うことが出来たのだろうか。

『きのこの自然誌』小川真 ヤマケイ文庫
「知る人ぞ知る」伝説のきのこ博士による、隅から隅まできのこで埋め尽くされたエッセイ。植物学の牧野冨太郎、雪の研究で有名な中谷宇吉郎など、その道の一流の研究者によるエッセイはたいへんにおもしろい。本書もきのこについての愛情が満ち溢れていて、それはもう素晴らしいものだった。
内容は題名が示す通りで、きのこの形や成長の仕方から毒きのこと薬になるきのこ、分布や生態なときのこに関するありとあらゆる話題が取り上げられている。あまりにもきのこ尽くしなので、読んでいるうちに笑ってしまうが、著者がいかにきのこ好きかはよく伝わってきた。そしてこんな色々なタイプに分かれているとはついぞ知らなかった。これまできのこについてあまりにも無関心だったのを恥じるばかりだ。
少しだけ中身を紹介しよう。例えば毒きのこに関する章では、毒きのこを殺人トリックに使うことの難しさが語られる。なぜかというと、毒に対する感受性が人によって違い、毒が回るにも時間がかかる。また、毒きのこを殺人に使おうとするほどきのこに詳しい人なんてそんなに多くないので、死亡原因が特定された瞬間に誰がやったかバレるからとのことだ。(だからシャーロック・ホームズもアガサ・クリスティも松本清張もトリックに使っていないようだと書かれているけど、はたして本当だろうか。)
きのこが「食べ物」によって大きく二種類に分けられることも本書で初めて知った。著者によればおよそ四割が、樹木の根に菌根を作って樹木と共生する「菌根菌(=侵入した植物の根から糖分をもらってエネルギーにするマツタケやトリュフなど)」で、残りが自ら落ち葉や枯れ木などの有機物を分解してエネルギーとするシイタケなどの「腐生菌」のグループらしい。また樹木と菌根菌が共生するといっても何でも良いわけではなく、互いに相性があるとのこと。例えばアカマツのハヤシに生えるきのこと栗林に生えるそれは全く違うそうだ。さらに落ち葉や枯れ木につく腐生菌にも得意な有機物があるそうで、一つの森林の地下には、菌糸の網でつながった複雑な世界が広がっているのだ。
きのこは菌類の中でもカビや細菌のように成長の早いものが敬遠する木質成分(リグニンなど)を、ゆっくりと分解して成長するとのこと。そして季節により変化する土壌温度や降水量による湿度変化を敏感に感じ取り、網のような菌糸から子実体が伸び始め、やがて地上に出ていわゆる「きのこ」となる。知れば知るほど愛しくなってくる。巻末に収録された藤井一至氏による解説では、本書の初版が出版された1983年から現在までの研究成果も補足されていて、知識面のフォローも抜かりがない。本書を通じてきのこの奥深さを知った。おすすめ。

『世界を旅する黒猫ノロ』平松謙三 河出文庫
副題は「飛行機に乗って37ヵ国へ」。2001年に産まれ、2021年に老衰で亡くなるまで、著者と一緒に世界37ヵ国を旅した黒猫の記録。北欧やラテン諸国、北アフリカに中東、東欧なと世界各地の風景に写る黒猫ノロの姿がなんともいえず好い。内容は旅先でのエピソードの他、猫と一緒に旅行をする際の検疫などの手続きの仕方など、お役立ち情報が満載で、まるで『猫との地球の歩き方』のような感じ。新型コロナ感染症で渡航が出来なくなってからも金沢などあちこちを旅して、2021年秋に亡くなるほんの10日ほど前まで旅を楽しんだとのことで、環境が変わってもリラックスして過ごせるなど性格的な面もあったのだろうけれど、まさしく旅するスーパーキャットの異名が相応しい。旅と動物好き、とりわけ猫好きにはたまらない本だ。

『不吉なことは何も』フレドリック・ブラウン 創元推理文庫
越前敏弥訳。昔、『復讐の女神』という題名で出されていた中短篇集の改題新訳版。ブラウンの作品は元々SFが大好きでミステリは殆ど読んでこなかったのだが、『真っ白な嘘』『シカゴ・ブルース』の新訳版が出たのを読んでみて、他も読んでみなくてはと思い返した。本書は中でも傑作と名高い作品集だそうで、収録された十の短篇とひとつの中篇はいずれも素晴らしい出来。音楽で言えばスティーリー・ダンかドナルド・フェイゲンのアルバムを聴いている感じだろうか。主人公をとつぜん襲う理解し難い状況と驚きの展開、そして気持ちの良い結末。まさしく極上のミステリといえる。
本書を読んで特に感じたのは、ブラウンのミステリは「誰が?(フーダニット)」や「どうやって?(ハウダニット)」といった一般的な推理小説が力を入れる部分より、むしろ「なぜこんなことが?(ファイダニット)」の傾向が強いということ。サスペンスと言えばたしかにそうなのかも知れないが、自分としてはもっと広く、レオ・ペレッツや、もしかしたら山田風太郎の手法に近いのではないかという気がした。
本書の中で特に気に入ったのは、「生命保険と火災保険」「サタン一・五世」「不吉なことは何も」と、最後の中篇「踊るサンドイッチ」あたりだけれど、バラエティにとんでいて正直どれも甲乙つけがたかった。
書評家の村上貴史氏による解説も、本書の成り立ちや収録作の解題がコンパクトにまとめられていてとても参考になる。こういう形で過去の作品が新しい装いで世に出るのはとてもありがたい。これからも愉しくブラウン再入門を続けていけるといいな。

『ゴルギアス』プラトン 岩波文庫
加来彰俊訳。政治的な弁論術の専門家ゴルギアスとその弟子ポロス、そしてゴルギアスの支持者である新進政治家のカルリクレス(ルは小文字表示)とソクラテスが、目指すべき政治とその手段としての弁論術の在り方について激論を交わす。いつものように誰彼ともなく難癖をふっかけて、相手をぐうの音も出ないほどやり込めるソクラテスについ苦笑してしまうが、歯に絹着せぬ物言いでソクラテスに食ってかかるカルリクレスはちょっと新鮮だった。
ソクラテスは今回の議論のきっかけとなった弁論術について、医術や体育術、あるいは土木や政治術といった「技術(=知識体系)」ではなく、(それが良い状態かどうかには関わりなく、)人にそのときどきの喜びや快楽を作り出すだけの「迎合」という経験(=単なる習熟)の一部に過ぎないと看破する。本書を読む限りでは、当時のギリシアのでは優者こそが正義であり、劣者を力づくで支配してもよい、すなわちそれこそが「自然の正義」という感覚で政治が行われる傾向が強かったようだ。それどころか法に基づいて不正を犯した強者に罰を下すのは、多数を占める弱者の声に耳を傾けて政治を見誤る良くない考えだとまでカルリクレスは述べている。
本書の後半では、のちに『国家』で詳しく展開される「哲人政治」の萌芽が述べられるが、まるで宮沢賢治の『アメニモマケズ』を見るような生真面目さが面映くも心地いい。ここで議論されている弁論術はいかに大衆を説得するかに特化されたものであり、今ならポピュリズムに迎合したマスメディアではないかと思いながら読んでいたところ、訳者解説で全く同じことが書かれていたので笑ってしまった。ソクラテスの言う通りなら、今の与党及びその周辺野党に属する政治家や首長たちは、すべて死後にタルタロスで裁かれるのだろうなあ……と、そんなことを考えながら読み終えた。

『台所のおと』幸田文 講談社文庫
最初は明治の文豪・幸田露伴の娘として知ったのだけれど、作品を実際に読んでみたところ、いやいやどうして、こちらもまた大した才能の持ち主だった。本書にはぜんぶで10の短篇が収録されているが、いずれも病気や老い、あるいは破産や死といった、ぎりぎりの状態で見えてくる人の姿をきめ細やかに描いている。あくまで穏やかな書きぶりではあるけれど、だからこそ感じられる凄味がある。
例えば冒頭の表題作。病の床についた佐吉が障子越しに、彼の代わりに小料理屋を切り盛りするあきがたてる台所の音を聞いて、彼女の心持ちまでを推し量る描写に舌を巻いた。また「食欲」では、人としてどうしようもない病気の夫の姿がたまらなく厭だ。妻の沙生(すなお)を取り巻く状況のすべてが厭だ。このような空気を見せる男は開高健の作品にも時折り見られるけれど、こちらの方が沙生にとって他人事でないだけ容赦がない。読者の気持ちをぼくぼくと丁寧に潰しにかかる作品だ思う。巻末の「あとでの話」は、老婆が長患いの末に亡くなり葬儀をあげるまでの話だけれど、「喪には喪の華やぎがあった」なんて表現、ちょっとやそっとじゃ思いつかない。軽い語り口の「草履」や「雪もち」「おきみやげ」「ひとり暮らし」などにも、ふとしたところで細やかな心の襞が織り込まれているのがわかる。映画で言えば小津安二郎みたいな感じだろうか。居住まいを正して読みたい作家の一人だ。

『獣たちの海』上田早夕里 ハヤカワ文庫
『華竜の宮(上・下)』と同じ〈オーシャンクロニクル・シリーズ〉に属する中短篇を収録した作品集。入っている三つの短篇と一つの中篇はいずれも書下ろしという贅沢さ。「迷い舟」「獣たちの海」「老人と人魚」の三短篇は、それぞれ「自分の〈朋〉を持たない男」「獣舟」「はぐれものの老人」という異なる視点で描かれていて、質・量ともに圧倒的な長篇には盛り込めなかったスケッチとでもいうべきものになっている。また中篇「カレイドスコープ・キッス」は海の民にとって魚舟や獣舟がどのような意味を持つか、文化人類学的な視点も入れて描いた力作。それぞれの作品がモザイクやジグソーパズルのピースのように嵌まって、作品世界の奥深さを垣間見せるいく感覚は、大原まり子の〈未来史シリーズ〉を読んだときの愉しさにも共通するものだ。(『深紅の碑文(上・下)』はまだ読めていないので、そのうちちゃんと読まなくてはいけないな。)
内容と直接の関係はないが、本書を読んで思ったことをせっかくなので書き留めておきたい。それはミステリとSFの違いに関することだ。ミステリの場合は、事件という形で、個人の生死に関わる脅威が主人公を襲うことが多い。事件の前と後で主人公の価値観が大きな変化を遂げたりもする。しかしその背景となる社会の基盤は、(少なくともその事件の直接の影響で)揺らぐことは無いようだ。逆にSFの場合はどうかというと、社会はおろか世界、場合によっては宇宙そのものにまでとんでもない変化(あるいは壊滅的な影響)が起こることがある。しかしその場合でも、主人公及び身近なものたちの生死が直接的に脅かされることは無い。また抽象的・観念的な考え方に影響を受けることはあっても、それが主人公の日々の生活を変えるほどのショックを与えるものでは無いようだ。個人的にはよく求心的なミステリと遠心的なSF、もしくはミクロなミステリとマクロなSFという比較をされることがあるように思うが、21世紀の『日本沈没』とも評された『華竜の宮』をはじめ、日本SFの一部には、たしかにそのような系譜があるような気がする。

『少年〔新訳版〕』ロアルド・ダール ハヤカワ・ミステリ文庫
田口俊樹訳。ダールは『あなたに似た人』や『オズワルド叔父さん』が大好きなのだが、一般的には『チョコレート工場の秘密』をはじめとする子ども向けの物語の方が有名だろう。本書はそのダールが自分の少年時代のことを中心に書いた自伝だ。(正確には親の話や、18歳でパブリックスクールを卒業してシェル石油に入社し、2年後にアフリカに赴任するまでのことも触れられている。)
伝記は「客観的な事実」を年代別に羅列していく形式だけれども、自伝の場合は事実というより、その時の感情や個人の視点に力点が置かれている。そのため伝記よりもドラマチックな感覚が直接的に得られるところが魅力だと思っている。例えば自分も以前寄稿した『コドモクロニクル』(惑星と口笛ブックス)は、大勢の方々が自分の子ども時代の思い出を書かれていた本だったが、(自分の書いたものはともかくとして、)どの文章も生き生きとして味わい深いものだった。本書は"あの"ロアルド・ダールが著者であり、しかも少年時代のことを題材にした自伝なのだから、おもしろくない訳がない。いや、自伝とあるけれども、創作じゃないかと思うぐらい劇的な出来事で埋め尽くされている。読み進めるのが勿体ないけれど、ページを捲る手が止まらない。読んでいくうち、チョコレート工場やおばけ桃はまさしくこれらの日々から生まれたのだということがわかる。時代背景もあって、学校の先生や寄宿舎の先輩による鞭打ちをはじめとする「指導」という名の虐待が多いのがちょっときついが、それを補って余りあるほどの喜びにも溢れている。このような本を新訳という形でずっと手にとれるというのは、しあわせなことだ。

『漆黒の慕情』芦花公園 角川ホラー文庫
小説投稿サイトに掲載された『ほねがらみ』で鮮烈なデビューののち、第二作目の『異端の祝祭』が大きな話題をさらった著者の第三作目のホラー小説。。前作と同じく、心霊案件を専門に扱う「佐々木事務所」の所長・佐々木るみと助手の青山幸喜のシリーズなのが嬉しい。『ほねがらみ』はネットロア、『異端の祝祭』はカルト宗教、そして本書は都市伝説を題材にしているが、この著者の本はただ怖がらせるだけでなく、文化人類学や民俗学に依拠する物語の骨格がしっかりしているので、安心して愉しむことができる。
今回はとりわけ宮澤伊織の『裏世界ピクニック』に近いテーマを扱ってはいるが、宮澤作品が異世界(裏世界)を中心に展開しているためにSF寄りな印象を持つのに対し、この芦花作品は現実への侵犯が描かれるので、よりホラーの傾向が強くなる。(怪異を祓うために謎を解いていくため、むしろミステリとの相性が良いと言えるかも。)
あ、それで思いついたのだけれど、もしかしたら京極夏彦の〈京極堂シリーズ〉とポジ・ネガの関係に近いかも知れない。ただし京極堂が謎を解いて魔を祓うことでひとつの物語に終わりを告げるのに対し、〈佐々木&青山シリーズ〉では謎を解いて取り戻したはずの日常そのものが、突然反転して闇となり読者を飲み込んでいく。登場人物にまともな奴がいないのはどちらも似ているけれど、その意味では本シリーズの立ち位置はあくまでもホラー寄りなのだ。裏京極堂と名付ける所以である。
それにしても「幽霊の正体みたり枯れ尾花」ではないけれど、怪異はその正体が明かされ名前をつけられることで、(例えば人を襲う怪物がライオンと名付けられた途端にただの獣になってしまうように)その霊的な力の大半を失わせることが出来るんだよね。おもしろいなあ。

『いかに終わるか 山野浩一発掘小説集』岡和田晃/編(小鳥遊書房)読了。
副題にもあるように、日本におけるニューウェーブSF運動の立役者である著者の小説作品の中から、色々な事情で単行本に収録されてこなかったものを丁寧に掘り起こした作品集。
全体は四部構成になっていて、第一部の1970年代の未収録作に始まり、次いで60年代の未収録作、第三部は雑誌「GORO」に連載された、エッシャーの絵画をモチーフにしたショートショート連作20篇、そして最後は1980年代に書かれた未発表作と2013年に大森望編のオリジナルアンソロジーに書き下ろされた絶筆「地獄八景」を収録。いずれも今では入手困難なものばかりで、著者の変遷と幅広い活躍を一望出来るという意味も含めて資料的価値も高い。創元SF文庫から刊行されている山野浩一傑作選の二冊『鳥はいまどこを飛ぶか』『殺人者の空』と併せて読めば、SF作家としての著者の全貌がおおよそ見てとれると思う。
内容も決して落ち穂拾い的なものではない。「死滅世代」や「都市は滅亡せず」などは他の短篇集に入っていてもなんら遜色無いし、掌篇ながら「宇宙を飛んでいる」や「麦畑のみえるハイウェイ」などもたいへん気に入った。それと「ブルー・トレイン」がもうひとつの「X電車で行こう」だったのには驚いた。最後の「地獄八景」は昔からの読者はちょっと面食らうかも知れないが、意外とブッツァーティあたりに通じる空気感がある。
以上、本格的なニューウェーブSFから気軽に読めるショートショートまで、収録作はバラエティにとんでいるが、どれもどことなく著者らしさを感じるものとなっており、最後まで愉しく読むことができた。編者による解説も懇切丁寧に書かれた力作で、昔からの山野浩一ファンのみならず、これまで読んだことのない読者にもお薦めできる入門編と言えると思う。(余談だが、題名の由来がわからないとツイッターでつぶやいたら、季刊NW-SFの第8号(1973年11月1日)の「特集 いかに終わるか」からだとご教示いただけた。)
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昨夜みた夢 2021年(第392夜~第401夜)

2月に見た夢です。もっと見たと思うのだけれど忘れてしまった。記録に残すのはいまだに結構大変。

《如月》


【第401夜】
寝室に入ると、バスケットボールのゴールが置いてある。仕方なく3点シュートを決めようとするが、妻がゴールリングに麦わら帽子を被せているので入らない。どうもボールが弾まないと思ったら、空気が抜けてしまっている。

【第400夜】
ビートたけしのテレビ番組。数字の札が運動場に撒かれていて、坂上二郎が、それは誰かを当てる。(例えば「8181」とあれば「ハイハイ」で赤ん坊。)ヴァルプルギスの夜なので狼男などが襲ってくるが、次々と当てていく坂上二郎。全部倒して番組は終わり、たけしは引退を表明する。

【第399夜】
カブトガニを飼うことになった。今までのようには出来ないので、事務所スタッフにも風呂リモコンの操作を覚えてもらう。しかしいくら教えても、ちょうど1mがうまく測れない。諦めて猫と遊んでいると、後輩が犬の散歩で家の前を通りかかった。勝手に庭に入ってくる。猫は知らんぷりだ。

【第398夜】
駅から会社まで歩く。ジャニーズ事務所の若者が運転するワゴン車が通りかかり、乗せてもらう。細い田舎道を走っていると、女の子を連れた母親とすれ違う。母親が若者に話かける。公文式の教材について二人であれこれ言っている。始業時間に遅れそうで焦る。

【第397夜】
イギリスでは留学生に一匹ずつ使い魔があてがわれる。友人にも小さい羊のような使い魔がついている。おかげで死者がいない体(てい)で、新商品の広告が出てくれるので、実際に崖の上に行かなくても事前にシミュレーションが出来る。便利なものだ。

【第396夜】
雪の歩道を歩く。踏み固められた路面は凍りついて危険。歩くときはゆっくり、急に立ち止まらないようにと拡声器の声が響いている。前方で歩行者信号が点滅を始めた。腰を落として足を止めると、そのまま滑って車道ぎりぎりで停止した。あちこちで歩行者同士の追突事故が起こっている。

【第395夜】
師匠とロープウェイに乗る。眼下は田園風景。あちこちに温泉の湯煙が見える。目指すは遥か彼方、山々の向こうだ。まだ一時間半ほどロープウェイに揺られていくとのこと。その間に同期の社員が雑誌インタビューを受ける。暖房の神様というキャプションが付くらしい。なんだか笑ってしまう。

【第394夜】
体育館に子供らが集まっている。番組の収録らしい。空からムーミンの雲が降りてくる。拡張現実の技術のようだ。
突然、皆の頭に極彩色の丁髷がついた。おもちゃの刀や銃を手にしたとたん恐竜が出現する。子供らは大喜び。ブロントザウルスに向けて発砲すると、美しい花火の光が打ち上がった。

【第393夜】
カードをもらった。梵天百貨店が得意先に配っている梵天カード。南天の実が印刷されていて、厄除けや滋養強壮に効果があるという。図柄は何種類かある。

【第392夜】
新しい事務所を契約に行く。下駄箱を開けると餌入れがあって、ミニチュアピンシャーが飛び出してくる。赤やオレンジのサイケデリックな柄だ。外のBMWが駐車禁止の切符を切られ、持ち主の男性が項垂れている。不動産屋とラーメン屋に向かうが、BMWの男性は車が無いので横を走っている。

2022年1月の読了本

1月は年明け早々にいろいろな出来事があって、思いのほか読むことができなかった。まあこんな時もあるよね。レムの2冊が読めたのはよかったです。

『インヴィンシブル』スタニスワフ・レム 国書刊行会
関口時正訳。飯田規和によるロシア語からの重訳でかつてハヤカワ文庫から出版された『砂漠の惑星』を、ポーランド語から直接訳した新訳版。『ソラリスの陽のもとに』に対する『ソラリス』のように省略されていた部分の補遺は無さそうだが、レム自身の思いが伝わってくるようなすっきり感が好ましい。16ページにもわたる沼野充義氏の解説も本作の位置付けをより一層明確にしてくれており、小説自体の元々の出来と相まって満足のいく年越し本となった。
物語は二等巡洋艦インヴィンシブル号が、辺境の惑星「レギスⅢ」で消息を絶ったコンドル号の救助に向かうところから始まる。原因不明の大量死や遺された「虫」という言葉、また陸上に生物が全く存在しない異様な生態系など、ミステリ小説のように次々と現れる謎の数々は、やがて論理的で冷徹な推論によって驚くべき事実を副艦長ロアンの前に突きつけてゆく……。
実をいうと、旧訳版は高校生の時に読んで最初に好きになったレム作品だった。物語後半の自走式特殊用途車両〈キュクロプス〉による死闘や、コミュニケーションを一切拒絶する異世界存在との対峙など、湿ったところの無いハードな世界に魅了されて何度読み返したか分からない。その後、新訳版『ソラリス』で打ちのめされてレムの最高傑作は『ソラリス』だと思ったのだけれど、今回『インヴィンシブル』を読んで、『ソラリス』にも負けず劣らずの傑作という思いを強くした。ただしもっとも感嘆したのはこれまでとは違って、どう捉えて良いか今ひとつ理解出来なかった最終章「不死身」(旧訳版では「無敵」)だった。この章に限っていえば、『ソラリス』にも匹敵する深い洞察へと到達しており、レムの目指した「SFの可能性」が見事に体現されている気がする。改めてこの〈スタニスワフ・レム コレクション〉は、SFジャンルのみならず世界文学の観点からも事件と呼べるものだと思う。

『ノスタルジア食堂』イスクラ グラフィック社
東欧の旧社会主義国のレシピを、当時使われていた食器に盛り付けた写真と共に紹介した本。旧ソヴィエト連邦の国々や旧ユーゴスラビア連邦、それにチェコやハンガリー、ポーランドといったそれ以外の東欧諸国を含め30ヵ国以上にも及ぶ地域の食堂で供された料理が、とても美味しそうだ。サラダやスープ、肉や卵の料理、コメ料理やパンとデザートに分けられた各章に加え、ソヴィエトの普段使いの食器や現地で今も開いている大衆食堂の写真付きエッセイも載っていて、単なる料理本では無い愉しさがある。
料理本とエッセイが混じったものとしてはピョートル・ワイリ/アレクサンドル・ゲニスの『亡命ロシア料理』がとてもおもしろかったが、本書も食事の背景となる文化まで垣間見える作りになっているのが良い。いかにも労働者向けの栄養満点な料理と大量生産されたようなカトラリー、そしてレトロフューチャーなデザインの内装が好きな人ならいつまでも眺めていられるのではないだろうか。このところトルコ料理やエジプト料理を食べる機会が増えてとても嬉しいのだけれど、こうしてみるとまだまだ知らない世界は多いね。またそのうちロシア料理も作ってみよう。

『地球の平和』スタニスワフ・レム 国書刊行会
芝田文乃訳。第二期〈スタニスワフ・レム・コレクション〉の第二回配本で、ついに〈泰平ヨン〉シリーズ最後の長篇を読むことができた。しかもこの小説とほぼ同時に刊行された『大失敗』で〈宇宙飛行士ピルクス〉の物語に終止符を打つとともに、その後は小説作品を書かなかったので、(ノンフィクションを除けば)最晩年のレムを知る上で貴重な著作でもあり、今回の刊行は本当に嬉しい。そして実際に期待を裏切ることはなかった。
内容は訳者あとがきや沼野充義氏による解説でも詳しく触れられているように、二つのテーマが混在しているうえ時系列も混じっているので、なかなか一筋縄ではいかない。ひとつめのテーマは「自己同一性」とは何か?というもので、原因は不明だが脳梁切断術/カロトミーにより左脳と右脳の思考が分裂してしまったヨンと、彼の右脳に隠された秘密を探ろうと様々な秘密組織が闘いを繰り広げる物語が展開する。このパートはかなりドタバタの要素が強く、従来のヨンシリーズの雰囲気に近い。そしてもうひとつのテーマは軍拡競争と兵器の進化。月にすべての軍拡競争を押し付けたことで地球上では見かけ上の平和が訪れている世界で、月面で自動進化を遂げた兵器たちが地球に対する脅威となり、その状況を探るべく月へと降り立ったヨンの物語だ。古くは『インヴィンシブル』(旧題『砂漠の惑星』)から何度も作者によって取り上げられてきたアイディアが盛り込まれ、シリアスかつ思索的なものとなっている。最終的には小松左京「紙か髪か」やルディ・ラッカー『ソフトウェア』を思わせるような展開になって、いかにもSFっぽい終わり方となるが、全体的にはやはりファンタジーであり寓話と呼ぶべきという気がする。軍拡と兵器進化については「囚人のジレンマ」に近いところもあるが、そもそも何が正解なのか決められていない不可知問題となっているのがいかにもレムらしい。(余談だが、著者のギャグのセンスはバスター・キートンに近いのではないかという気もした。)
『泰平ヨンの航星日記』や『回想記』の感覚の延長で読んだ『泰平ヨンの現場検証』がとてつもなく読みにくかった覚えがあるけれど、本書を読んで、もう一度読み返してみたいと思った。(ちなみに自分がシリーズ中の最高作と思っているのは『未来学会議』だけれど、かつて殊能将之氏は『現場検証』を最高作と言っていた。)

『日々のきのこ』高原英理 河出書房新社
菌類と人類の奇妙な話と聞いてさっそく購入。味のある表紙イラストだと思ったら、装画ヒグチユウコとなっていて納得。なんとも愛らしい装丁で、内容ともどもまさしく愛蔵したくなる本だ。中には「所々のきのこ」「思い思いのきのこ」「時々のきのこ」という三つの作品が収録されているが、どれも特に物語としてのオチがあるわけでもなく、登場人物やエピソードが微妙に重なり合っていて、ゆるい作品世界を構成している。まるできのこの傘のように、厳しくもなく辛くもない、ほわんほわんした世界だ。
菌類との共生による世界の変容という捉え方をすれば、どなたかが言っていたようにクラーク『幼年期の終わり』やベア『ブラッド・ミュージック』のようなSFととれなくもない。しかし本書にはそれらの小説に見られるような、「進化」などといった見晴らしのいいビジョンは無い。きのこの胞子によって視界が遮られ、右も左も分からずただ足元の覚束ない道を歩き続けているような物語が続くだけだ。でもそれが心地良い。きのこによる変容とは食事も仕事も何もせず日々を暮らし、やがて菌糸の山の中に埋もれていくのを是とすることに他ならない。
かつて銀林みのる『鉄塔武蔵野線』を読んで「鉄塔文学」が誕生したと感じたのと同じく、本書を読んだ時、真の意味での「きのこ文学」が誕生したのではないかという気がした。

『包む』幸田文 文藝春秋新社
今は講談社文芸文庫に〈現代日本のエッセイ〉として収録されているようだが、今回読んだのは昔の単行本の方。昭和32年の再版で、ページをめくるたびに古い家屋のようなにおいがふわっと漂ってくる久しぶりに嗅ぐにおいだ。文章もまた、なんとも風情があって良い。自分は幸田露伴が昔から好きなのだけれど、今の人にはむしろ幸田文の父親と言うことでのみ評価されているのかも知れない、などと思ってみたり。
自分は随筆を読む場合、薄田泣菫の『艸木虫魚』をひとつの基準というか理想型として比較しながら読んだりしているのだが、本書は泣菫にも負けず劣らずのおもしろさだった。旧仮名遣いはもちろんのこと、「お辨當(べんとう)」や「體育(たいいく)」、「與太者(よたもの)」といった古い漢字、あるいは「下性(げしょう)がよくない」や「とつおいつ考へてゐる」などの今ではみられなくなった表現すらとても新鮮だ。「気ぶっせい」などという言葉を目にしたのは、はたして何十年ぶりだろうか。
感情を抑えた端正な文章で綴られる随筆は読んでいて気持ちのいいものだが、本書の場合は、心の起伏が直截的に著されていて、読んでいるこちらの心も上下に揺さぶられることが多い。著者もその辺りは自覚があったようで、あとがきには以下のように書かれている。
「包むに包みきれずあらはれてしまふのが書くといふことだ。包みかねるのが文章で、包みたいのがわが心ではないかとおもふ」
これもまた良いものだ。
初夏の道行で出逢った怪事を書いた「風の記憶」や、隣家におこる凶事を書いた「夾竹桃」が突然挟み込まれているのには、すっかりやられてしまった。いずれも幻想怪奇の物語としても読める逸品だと思う。また、父親・幸田露伴の釣りの趣味について語った「鱸(すずき)」など、時折り混じる昔語りもおもしろい。想像を遥かに超えるおもしろさで、たいへん気に入った。

『火星の歩き方』臼井寛裕/野口里奈/庄司大悟 光文社新書
主に地学の観点から、火星に関する最新の知見がコンパクトにまとめられている本。衛星軌道上からの写真と、着陸した探査機による地上の写真をもとに分析した内容なので、肝心なところが分からないもどかしさはある。しかし標高21kmを超えるオリンポス山や、最大幅300km、深さ7kmの大地溝帯マリネリス峡谷など特徴的な地形を気球で巡る火星一周の旅、あるいは南極・北極の魅惑的な地形などの他、地球上で火星によく似た景色が見られる地域の紹介など、盛りだくさんの内容で愉しく読めた。著者が火山学を専門にしている方々のようなので、マクロな地形の話が割と多め。イメージが浮かびにくいところもあるが、アンディ・ウィアー「火星の人』を思い出しながら読むといい感じだった。赤い火星を舞台にしたSF小説といえば他にも、クラーク『火星の砂』、ブラッドベリ『火星年代記』、ディック『火星のタイムスリップ』、マクドナルド「火星夜想曲』、そしてロビンスン『レッド・マーズ』など枚挙にいとまが無いが、バイキングやオポチュニティ、インサイトといった火星探査機によって真の姿が明らかになるにつれ、ファンタジィの世界から徐々に等身大の驚異へと変わってきたといえる。これからはエピローグで触れられているように、「土地倫理」や「ジオ多様性」といった環境保全を意識した惑星探査の物語へと、更に変化を遂げていくのではないだろうか。軽いタッチだけれど、いろいろと考えさせられる本だった。

『とうもろこし倉の幽霊』R・A・ラファティ 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
井上央編/訳。SF界にはジーン・ウルフやP・K・ディックなどのように熱烈なファンを持つ作家が何人かいるが、ラファティはその中でも最右翼に位置するのではないか。しばらく既刊の文庫が入手出来ない状態が続いていたが、新たに〈ラファティ・ベスト・コレクション〉として刊行された『町かどの穴』『ファニーフィンガーズ』の二冊に続き、"銀背"でも全篇初邦訳という快挙がなされた。全部で9つの中短篇が収録されているが、ここには浅倉久志氏や伊藤典夫氏によって紹介され本邦で形作られた「ユーモアあふれるホラ吹きおじさん」といった作者のイメージはほぼ感じられない。皮を剥いても剥いても中から違う面が出てくるような、神秘的で不思議な世界が繰り広げられるのは、同じ訳者による『翼の贈りもの』の印象に近いかも知れない。『次の岩につづく』にも共通する、まさしくラファティの芯の部分が多くみえている気がする。それは神話的な皮を被った何か。信仰なのか、それとも異質な論理なのかよく分からないけれど、ともかくそれが掴みきれていないもどかしさがある。最初のうちは作者独特の、まわりくどくて繰り返しが多い文体になかなか慣れなかったが、中ほどからはコツが飲み込めたようでさくさくと読み進められるようになった。
裏表紙にはラファティの「伝奇集」と書いてある。たしかにボルヘスや魔術的リアリズムっぽくはあるけれど、ラテンアメリカのそれというよりは、むしろエイモス・チュツオーラやハイチのヴードゥーのように、自分にはもっと土俗的な雰囲気を感じさせる。本書で特に気に入ったのは「さあ、恐れなく炎の中へ歩み入ろう」と「王様の靴ひも」、そして「鳥使い」の三篇。特に「さあ、恐れなく……」はすごかった。まだ何度か読み返さなければ解らないけれど、誤解を恐れず言えば、ラファティの『ヴァリス』かも知れない。ラファティのクレドだと言っては怒られそうだけど、『第四の館』にも通じる著者の宗教観が全開の「問題作」だった。続く「王様の靴ひも」は、笑いの中にもジョン・クロウリーの『リトル、ビッグ』にも共通する、「失われたもの」への郷愁が見え隠れして好み。「鳥使い」は〈不純粋科学研究所〉のシリーズの一品で、一筋縄ではいかないファンタジーの世界が描かれる。本書を読み終えて、作者はよくもまあこんな話ばかりを書いたものだと感心するとともに、よくもまあ訳出してもらえたものだと、ちょっと感激もした。

『方法叙説』ルネ・デカルト 講談社学術文庫
小泉義之訳。『方法叙説(序説)』は今回初めて読んだのだけれど、新訳なので文意がとりやすくたいへん読みやすい。訳注も既刊のものから全面的に見直しがかけられていて、詳しい訳者解説とともに全体を通して愉しく読むことができた。もっと哲学哲学したものかと思ってたけど、実際に読んだ印象としては予想とだいぶ違っていた。どちらかと言うとエッセイに近い。「私の精神の歴史」が当初の題名案であったという話のとおり、第三部までは自らの思想遍歴や信条などを書き記すものになっている。
そして第四部に至ってついにかの有名な「方法的懐疑」が登場する。(このあたりはまさしくワクワクもの。)第四部はそれまでとは毛色が変わって、オランダの隠遁生活で初めて書いた形而上学的な省察の内容が具体的に書かれている。そこで自らの思索の基礎になるものを突き詰めて行ったときに生まれたのがこの方法的懐疑だ。〈私は思考する、故に、私は存在する〉はあくまでも自分自身の思考原理として考え出されたものであり、ここまでの流れを読んできてしごく納得した。「懐疑の対象となりえる人間に起因するあらゆる観念から、完全体である神の存在は生まれ得ない。よって神に関する考えは外から自分に与えられたものである」という、後に批判されることになる部分も、本書を読めばどこから出てきたものかよく理解できる。いやこれはおもしろい。
第五部では動物と人間の身体的な構造の共通点を検証することで、肉体の本性は自然に属するものだが魂(精神活動)は人間に固有のものであり、それは神に与えられたものであることを論証しようとする。訳注によれば、デカルトが1630年に表明した「永遠創造真理説明」の概要を著したもののようだ。
そして最後の第六部。ここではガリレオが地動説を取り上げた著作によってローマ教皇庁宗教裁判所から有罪判決を受けた報を受け、デカルトがそれまで書き溜めていた『世界論』の刊行を止めるに至った経緯や、自分の存命中には書き物が公刊されることを望まないことなどが記される。(「書き物がもたらすかもしれない評判によっても、自己を教育するために使うつもりの時間が奪われてしまう機会を与えないため」と、結構露骨に書かれている。)
学校で習った古典著作の原典に直接あたることの愉しさは、おとなになってから知ったのだけれど、なかなかいいものだ。

昨夜みた夢 2022年(第383夜~第391夜)

年が明けてから、どうも仕事の夢ばかりみてつまらない。仕事の夢は書き残さないので朝になると忘れてしまっている。

《睦月》

【第391夜】
金沢の親戚の家へ行く。トイレの電灯のスイッチが分からずあちこち触っていたら、風呂のリモコンが点いて消せなくなる。ちょうど大阪の従兄弟が帰ってきたのでやり方を教えてもらう。
自宅へ帰ると金沢の伯父が遊びに来ている。先日亡くなったが元気そうだ。好い人なので丁寧に応対する。

【第390夜】
謎の男がいる。あいつは何かを隠してる、と囁かれたが、何を隠しているのか分からない。

【第389夜】
海の近くの巨大温泉に来た。浦島太郎が生け簀を操作すると、鯛やヒラメが天高く噴き上がる。よく見るとプラスチックの作り物だ。
友人宅へと向かう。孫と遊んでいる。ポテチを出されたが腹がいっぱいで食べられない。ポテチの大袋がテレビ横に何個も買い置きしてある。会えて良かった。

【第388夜】
SF映画を観ている。どこかの町がじわじわと侵食されているが、倫理綱領には違反していないので問題ない。

【第387夜】
新宿の百貨店で演奏会を妻と観る。終了後に催事場の古書市ではぐれてしまい、スマホには先に新幹線に向かうとメールが。慌てて追いかけるも閉店間際なのでエレベーターが止まり店内掃除を始めている。
空手の練習をしている連中を避けて、東北新幹線の改札口に着いたところで目が覚めた。

【第386夜】
最後に残ったのはロシア語のテーブル。正式なものではなく仮の文章が記入してあるが、まだ読んではいけない。溝に何も録音されていないLPレコード盤が回っている。

【第385夜】
夫婦で科学館に出かける。シークレットキッチンに招待されるが場所が分からず館内をうろうろする。6階の案内所に書評家の大矢博子氏が立っている。妻が「何処ですか?」と訊くと、目配せで案内所の後ろの階段を示し「5階に降りて」と小声で呟く。まさかこんなところにあるとは。

【第384夜】
夜の道路をスクーターでどこかへ向かっている。気がつくと前方に二台のスクーターが見える。徐々にスピードを落として近寄ってくる。危険を感じて手で荷物を押さえたら、案の定、引ったくろうとしてきた。相手のスクーターを蹴って引き離そうとする。夜の疾走と攻防が続く。

昨夜みた夢
【第383夜】(初夢)
志村けんが主演のドラマ。高額の保険金がかかった宝石だけを狙う神出鬼没の大泥棒。そして彼を追ういかりや長介は保険調査員。ひと仕事を終えて始発列車を待つ志村を、ホームでただ一人待ついかりや。さりげなく声をかけると、危険を感じた志村は脱兎のごとく走り出す。

My Choice/2021年印象に残った本

2021年は引き続きCOVID-19に明け暮れた年だったけれど、自分の周囲は幸いなことに落ち着いていて、本もいつものように読むことができた。数えてみたところ読んだ本は全部で129冊。2020年は131冊、2019年は121冊だったから、ひとまずは順調といったところか。小さい字が見にくくなってはきたものの、眼鏡を外せば支障なく読めるのでまだまだ頑張りたい。
さてそれでは毎年恒例の「印象に残った本」を挙げてみたい。なお「新刊」には今年文庫化されたものを含み、「既刊」には新刊で買ったまま積んであったものを含んでいるのであしからず。また文章は以前アップした月の記事の抜粋して一部修正したものです。

<新刊部門> ―今年出版された本―
『十二章のイタリア』内田洋子 創元ライブラリ
著者は通信社を主宰し、四十年余りに亘って日本とイタリアの掛橋となっているジャーナリスト。イタリア語学科の学生だった頃の思い出から、卒業後に単身飛び込んだイタリアの暮らし、そしてこれまでに出会った多くの人々の記憶が交差して熟成し、まさに馥郁たる香りが文章の間からたちのぼってくるようなエッセイとなっている。昔、林望『イギリスはおいしい』や玉村豊男『パリ 旅の雑学ノート』、須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』などを初めて読んだときのことを思い出した。
出版に関わる仕事に携わっているだけに、本に関わる話題が多いのはもちろんだが、本書の魅力はそればかりではない。ひとことで言えば、ここに書かれているのはイタリアの「文化」だ。文化とは美術や建築物のことばかりではない。また、テレビの旅行番組や雑誌の特集記事に載っている流行りの音楽やファッションのことでもない。それは「日々の営み」であると思う。仮に、栄養補給の為の食事や、体力維持のための睡眠や、あるいは仕事のための時間以外のすべてのものが「文化」だとしよう。本書を読めば、筆者が友人たちと過ごした食事や、高速道路を降りて尋ねた村で過ごした時間、ベネツィアのバールで出逢った人々との会話も、すべてがイタリアの「文化」そのものと感じることができる筈だ。それにしても開放的で友好的なイタリアの人たちにとって、食事を通じた交流がいかに大切なことか。開高健ではないが、まさしく「心に通じる道は胃を通る」のである。
どのページを開いても驚いたり哀しんだり笑ったり、心豊かな読書体験を味わえるのだが、とりわけ本書の良さをよくあらわしているのは、ウンベルト・エーコとの邂逅を綴った第十一章「テゼオの船」ではないかと思う。エーコが述べたという次の言葉が象徴的だ。
「本を読まない人は、七十才になればひとつの人生だけを生きたことにのる。その人の人生だ。しかし本を読む人は、五千年を生きる。本を読むと言うことは、不滅の過去と出会うことだからだ」
以前、どこかで聞いた「人がひとり亡くなるということは、図書館ひとつ焼け落ちたのと同じである」という言葉を思い出した。差し詰めイタリアに暮らす人々は、一人ひとりが数千年に亘るヨーロッパ文化源流の歴史を持った図書館であるといえるかも知れない。

『山の人魚と虚ろの王』山尾悠子 国書刊行会
若い妻との新婚旅行へと出た「私」。列車による数日間の二人の旅は、〈夜の宮殿〉への訪問を経て、〈山の人魚団〉なる舞踏集団を主宰していた伯母の葬儀へと続いてゆく……。
断片的な記憶の連なりは暗示に満ちたエピソードに彩られ、読む者もまた「私」と同じように、夢か現実かも判然としないイメージの世界を彷徨うことになる。絵画でいえばレメディオス・バロ、小説で言えばグスタフ・マイリンク『ゴーレム』やレオノーラ・キャリントン『耳らっぱ』などを連想させる。(或いは外函の装丁に使われたルドンのリトグラフ。)いずれ物語の流れというよりは、イマジネーションのひらめきを愉しむ作品かと思う。個人的には著者は『飛ぶ孔雀』のあたりから、さらに凄みを増したように感じている。
曖昧さはなく明晰に細部まで書き込まれているにも関わらず、全体を見るとどことなく歪で不安定な構成。見たこともない言葉の繋がりに異化作用を覚えつつ、それでいて懐かしさも感じさせる。物語の背後にしっかりとした虚構の存在を思わせる作風は、幻想からシュールリアリズムの世界へともう一歩踏み込んだと言えるのではないかと、そんな気もする。何度も読み返して味わいたくなる作品だ。

『旱魃世界』J・G・バラード 創元SF文庫
山田和子訳。バラード初期の傑作〈破滅三部作〉の第二作目として1964年にアメリカで出版された『燃える世界』を、1965年にイギリスで出版するにあたり著者自ら全面的に書き直した作品。これまで邦訳されていたのはアメリカ版であり、イギリス版は今回が初お目見えとなる。
帯やあらすじ紹介には「完全版」と謳われているが、自分の印象を一言でいうと"デジタルリマスター版"という感じ。アナログ録音の楽曲がデジタルリマスターで隅々までくっきりした音になってよみがえるように、本書では著者の示そうとするビジョンは、『燃える世界』より細部まで鮮明に、くっきりとピントが合っている。作品としての評価は、もとより一人一人の読者に委ねられるものであるけれども、少なくとも自分にはアメリカ版とはまったく別の(はるかに優れた)作品であると思えた。
ではバラードが本書で示そうとしたビジョンとは何か。それは解説で牧眞司氏が書かれているように、当初からバラードが一貫して追求し続けた「内宇宙(イナー・スペース)」であり、中期の〈テクノロジー三部作〉で明確になっていった「景観(ランドスケープ)」というもの。初期三部作ではそれが破滅的な超自然という極限状態であったのに対して、中期三部作では人工的に作り出された景観(テクノロジカル・ランドスケープ)であるという違いはあるが、景観と精神を一致させたおかしな人間が狂言回しとなって主人公が地獄巡りをする構図は同じ。精神と一体化した景観はときに攻撃的であり拒絶的であるが、ときに穏やかであり受容をも示す。
精神世界と外宇宙が出会う場所、時間と空間と精神が溶け合う場所である内宇宙(本書では「内なる景観(イナー・ランドスケープ)」という表現がされている)に著者が極めて自覚的であるのは、次の言葉からも分かると思う。
「失われた時間の瀬に干上がったイメージだけが残る、遠い宇宙の亡霊たち」「そこでは、未来を構成する要素が、静物画のオブジェクトのように、形も関係性もなく、彼を取り囲んでいるだけだった」
正直なことを言うと『燃える世界』は初期三部作の中では一番評価が低かったのだが、本書を読んで印象が変わった。中期三部作を代表する作品がが『クラッシュ』であるように、初期三部作を代表する作品は本書『旱魃世界』でさえあると思う。

『サラ金の歴史』小島庸平 中公新書
副題は「消費者金融と日本社会」。最初は興味本位と怖いもの見たさで手に取ったのだけれど、読んでみたところ極めて優れた消費経済史になっていた。しかもこれまで聞いたこともないような話が丹念に拾い集められていておもしろい。ネットで高評価なのも頷ける。終章に詳しく書いてあるが、「サラ金」をダーティーな印象で感情的に糾弾するのでなく、敢えて一歩引いたところから眺めることで、マクロな経済環境の中で日本の金融システムが作り出した特殊な業界の姿を客観的に捉えることに成功している。(もちろん、その非人道的な取立ての様子なども、第5章にしっかりと出てくるが、主眼は「なぜそのようなことになったのか」を解き明かすことにある。)
なぜサラ金は借金の返済能力が低く債務不履行のリスクが高い人に積極的に融資を行なったのか。純粋な営利企業であるはずのサラ金が、行政によるセイフティネットの代わりに貧困層への金融を行うという「奇妙な事態」がなぜ起こったのか、そういった疑問が本書を読むことで氷解した。
駅前で配られた大量のティッシュや親しみやすいテレビCMと、一方で「サラ金地獄」による膨大な数の自己破産や自殺者を生み出したことは、ひとつの同じ企業による事業活動の結果なのだ。(そしてなぜそうなったかは全て説明されている。)
本書によれば、個人向けの金融は、かつて「素人高利貸」と呼ばれたものにその起源があるとのこと。2010年に完全施行された改正貸金業規制法によって上限金利が大幅に引き下げられた結果、現在では最大手の武富士が倒産し、アコムとプロミスが銀行の子会社となってしまっており、サラ金という業界はほぼ消滅したように見える。しかし彼らが考え出した数々の「革命的な」金融技術は、形を変えていまでも個人向け融資の世界で受け継がれているのだそうだ。テーマ自体は決して好みのものでは無いのだけれど、非常に知的興奮を誘う良書だった。

『夕暮れの草の冠』(柏書房)
西崎憲氏の編纂によるアンソロジー〈kaze no tanbun〉の最終巻となる第三巻。とても美しい工芸品のような書物だ。創作、随筆などの区別なく、ただ十八の「短文」として収録された文章が、その配列や装丁の妙も合わさったことで、書籍の形をしたひとつの完成体として存在している。もちろん全体としては「創作」の比率が高いのだけれど、それもまた幻想小説やSFや私小説といったジャンルの垣根など無く、ただ、ある一人の作家による「創作」としてそれぞれが屹立しているように思える。
人を襲って食べる恐るべき何物かは、ライオンという名が付けられた瞬間に恐ろしくはあるがただの獣に姿を変えた。ここに収録されている数々の文章は、ライオンと呼ばれるようになる前の「何か」ではないだろうか。もしくは、あるひとつのジャンルとして理解されることを拒絶して、「◯◯ではない」という言葉を列ねることでしか表現し得ない、まるで「否定神学」にも似た「否定小説」とでも呼ぶべきもの。読む者の胆力を試される本なのかも知れない。
このような作品集からどこか一部を切りだすのは野暮かも知れないが、特に個人的に気に入ったものを挙げるとすれば、小山田浩子「コンサートホール」、松永美穂「たうぽ」、日和聡子「白いくつ」、西崎憲「病院島の黒犬。その後」、皆川博子「夕の光」あたりだろうか。いずれも、いわく言い難い分類不能の文章として、空前絶後の試みを締めくくるに相応しいものだった。

『エルサレム』ゴンサロ・M・タヴァレス 河出書房新社
木下眞穂訳。世界中で高い評価を受けるポルトガルの作家の代表作。著者が「悪のメカニズムの解析を試みた」という「王国」四部作の第三作目にあたる作品で、全篇が死と孤独、痛みと暴力に満ち溢れている。そして意識するしないには関係なく、登場する誰もが世界の不合理に苛まれつつ生きながらえている。
題名は旧約聖書の詩篇の一節、迫害を受けて漂泊を続けるユダヤの民が魂の故郷を思って告げたとされる、「エルサレムよ、もしも、わたしがあなたを忘れるなら、わたしの右手はなえるがよい」という言葉から取られているとのこと。ゲオルク・ローゼンベルク精神病院を核とした数奇な運命に翻弄されるミリアやヒンネルク、エルンスト、カース、テオドール達。彼らの届かぬ思いと剥き出しの暴力がぶつかり合うとき、悪とともにひとつの奇跡が現れることになる……。
これはすごい作家を読んでしまった。日本で言えば石川淳に匹敵する強さを持っているかも。言葉では直接指し示せないものを感じさせるのが文学の力だとすれば、本書はまさしく文学そのものという気がする。(それもとびきり残酷で美しい光景の。)ぜひともタヴァレスの他の作品も出版されんことを祈る。
ところで余談だが、本書の訳者である木下眞穂氏はペイショット『ガルヴェイアスの犬』で日本翻訳大賞を受賞された方だった。迂闊にも読み終わってから気が付いたのだが、道理で作品に間違いがないわけだ。あれもとんでもない作品だったものなあ。ポルトガル文学恐るべし。

『小鳥たち』アナ・マリア・マトゥー 東宣出版
宇野和美訳。 2010年にセルバンテス賞を受賞作した、二十世紀スペインを代表する作家のひとりということだが、恥ずかしながらこれまでまったく知らなかった。それもそのはず、これまで邦訳されたのは児童文学ニ作品を除くと単行本一冊しかないらしい。「リリカルで詩的なリアリズムに空想と幻想が美しく混じりあう」とのふれこみに惹かれて読んでみたが、期待にたがわず素晴らしい本だった。
本書は副題に「マトゥーテ短篇選」とあるように、彼女の著作のいくつかから、全部で二十一篇の掌篇を選んだ日本オリジナルの作品集となっている。〈はじめて出逢う世界のおはなし〉シリーズの一冊なのだけれど、正直いって子どもの頃に本書を読んだら、ある種のトラウマになったかも知れない。収録されているのは、そんな風につらくて哀しくて美しくて、そして心に沁みる物語ばかり。誤解を恐れずに言えば、イサク・ディネーセンの作品に近い香りがした。本邦では小川未明の童話に通じる残酷さを持つ。
どれも一読の価値があると思うが、そのなかでも特に気に入ったのを選ぶとすれば「小鳥たち」「メルキオール王」「島」「枯れ枝」「店の者たち」「月」あたりだろうか。とりわけ「島」や「月」で描かれる幻想の美しさは格別だ。


<既刊部門> ―古本・絶版とりまぜて今年自分が読んだ本―
『観念結晶大系』高原英理 書肆侃侃房
読み終えた瞬間、心に浮かんだのは「懐かしい」という言葉だった。50年ほど前ならまさしく「思弁小説(スペキュレイティブ・フィクション)」として読まれたかも知れない。山野浩一の作品のいい部分だけを集めたような観念の純粋さが美しい。第一部「物質の時代」は現代が舞台。どことも知れない世界の絵を描き続ける少年、シュルレアリスムの画家、ブルックナーの音楽に魅せられるピアニストらの消息と、死に彩られた鉱物的で硬く冷たい幻想は、澁澤龍彦『犬狼都市』や川又千秋『幻詩狩り』を連想するような読み心地だ。(もしかすると中原中也「一つのメルヘン」にも近いかも知れない。)鉱物の夢をめぐる、時代も国も超えた人々の運命から、やがて観念の世界がその輪郭を顕してくる過程は実にスリリングだ。
第二部「精神の時代」は打って変わって、『ヴンダーヴェルト』なる幻視の書が紹介される。これは第一部でその存在が示されたものだが、これなどまさに川又千秋『幻詩狩り』に登場する謎の詩篇「時の黄金」を思わせる。
内容はといえば、たむらしげるのイラストのような透明感がありつつ漆黒の闇を持つ、美しくも悲しい世界が描かれる。このあたりは宮澤賢治の詩や童話、ますむらひろしの漫画作品を思い出したりしながら、徐々に加速していく物語から最後まで目が離せなかった。を、愉しく読むことができた。
そして第三部「魂の時代」では再び現代世界が舞台に。「石化症」と呼ばれている謎の疾病を通じて、意識と時間に関する考察と、そしてその背後に潜む純粋思念の世界が徐々にその姿を顕してゆく。ラストはバラード『結晶世界』の行き着く先を描いたらこのようになるのではないかと思えるような、詩的想像力に溢れた美しさだった。
人々の想いなどすべて押し流してしまう冷徹さこそが、優れた幻想小説の必須要因であるとするならば、本書は間違いなくその筆頭に上がってくるだろう。そんな充実した読書時間だった。これは傑作。
(追記:澁澤龍彦をモデルにしたと思しき「紫峰朋彦」という著述家には思わず笑ってしまった。みんなアンビバレントな気持ちを抱えながらも、澁澤の影からは逃れられないのだ。

『ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ』キルメン・ウリベ 白水Uブックス
金子奈美訳。(同じ著者の「ムシェ 小さな英雄の物語』では、見事に第二回日本翻訳大賞を受賞されている方。)バスク語で書かれた文学として、スペイン国民小説賞を受賞した作品。著者が自分の家族や知人の生き様について語るモザイクのような断片が、なんとも心地よい。国書刊行会〈新しいマヤの文学〉を読んだ時にも感じたことだけど、話者の数が少ない言語だからといって、その人たちの生み出す文化がメジャーな言語のそれに比べて見劣りするわけではない。むしろ歴史的な背景と密接な関係を持っていたりして、作品として深みが増している気さえする。
本書はスペイン・バスク地方の都市ビルバオから、ニューヨークへと向かう旅のエピソードを縦軸に、そして漁師だった祖父と一族の思い出を辿るエピソードを横軸として綴られている。しかしはっきりしたストーリーは無いに等しく、著者がその時々に感じたことや、教科書には載らない人々の歴史が途中に挟み込まれ、枝分かれしてはまた合流して、さながら森の中を進む小径のようになっている。もっとも自分が知らないだけで、建築家リカルド・バスティダや画家のアウレリオ・アルテタと言った名前は、聞く人が聞けばすぐわかるのかも知れないが。
小説なのかエッセイなのかドキュメンタリーなのかよく分からないうえ、訳者あとがきにもあるように、現実と虚構のあいだをわざと曖昧にしてあるため、次にどこへ連れて行かれるのか予想もつかない。(まあ面白ければそんな区別なんてどうでもいいんだけれど。)それもそのはず、なんと本書は、『ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ』という小説をキルメン・ウリベという作家が書くまでを綴った小説なのだ。入子構造になった物語は万華鏡のように章が変わるたび違った光景を見せてくれるし、所々に差し込まれた詩や歌詞が色を添えてくれる。そして誠実な著者の探索と逍遙に付き合って愉しんでいるうち、やがて見えてくるのは、内戦やその後のフランコ独裁政権に翻弄されたバスクの人々の等身大の姿。そして最終ページを読み終わって本を閉じた時に思ったのは、「個を通じて普遍へと至る道」はまさしく本書においても健在ということだった。細かなエピソードの積み重ねの中に、一瞬の啓示が感じられる時がままあるが、それが何なのかは、おぼろげでよく分からない。しかしそれが日々の暮らしであり、人々の生きた証なのかも知れない。良い物語だと思う。
蛇足だが、20章 「ボストン」には、ハーヴァード大学の自然史博物館にある植物のガラス標本の話が出てくる。およそ50年かけて精密な植物標本を(なんと!)ガラス細工で作り上げたブラシュカ親子についてのエピソードで、知らなかったので検索してみたら本当に凄いものだった。本書にはこういう愉しみ方もある。

『百年と一日』柴崎友香 筑摩書房
27の独立した短い物語に、〈娘の話〉及び〈ファミリーツリー〉という、断続的に続く2つの物語を加え、ぜんぶで29の話が収録されている短文集。例えばひとつ目の物語は「一年一組一番と二組一番は、長雨の夏に渡り廊下のそばの植え込みできのこを発見し、卒業式して二年後に再会したあと、十年経って、二十年経って、まだ会えていない話」と名付けられている。そして内容は、まさにその通りである。
また、こんな物語もある。「二階の窓から土手が眺められた川は台風の影響で増水して決壊しそうになったが、その家ができたころにはあたりには田畑しかなく、もっと昔のには人間も来なかった」―― まさにこの通りだ。
なんだろう、普段読んでいるような、というか、一般的に想像する「物語」のルールとは違う組み立てをされている感じ、とでもいえば良いだろうか。決して詰まらないとか読みにくいということはないが、ただいつもの調子で読んでいると、自分の足元が不意に消えてしまうような感覚を覚える。初めのうちは、上田秋成の『春雨物語』を読んだときのような寄る辺なさを感じたが、徐々にそれが続いていくにつれ、新しい何かを感じさせるものに変わっていった。最近読んだ作品の中でいちばん雰囲気が近いものを探すとすれば、西崎憲氏の『ヘディングはおもに頭で』あたりかも知れない。あるいは昔映画館で観た『コヤニスカッツィ』という映画か。
直接指し示めそうとすれば見えなくなってしまうもの。もしもそんなものを表そうとすれば、その輪郭を囲ってゆくことで、真ん中に残された空虚の形で示すしかないだろう。もしくは視界の影にふと横切らせるしかないだろう。そしてそれが出来るのが文学の力だとすれば、本書はとても力強い「文学」の宣言であるように思える。
はたして何を伝えようとしたのか、とても自分にはきちんと受け止められたとは思えないが、すくなくともそのひとつが「時の流れ」であり「継続」であるのは間違いない気がする。きっとこれからも棘のように、頭の片隅をちくちくと刺激し続けるに違いない。

『猫の客』平出隆 河出文庫
数年間だけ夫婦で暮らした借家を日々訪れてくれた隣家のチビ猫。愛おしい命の交流といくつかの別れを、静謐な美しい文章で綴った、まるで詩のような小説。フランスをはじめとする海外22カ国で翻訳されていて、各国でベストセラーになっているとのことだ。『葉書でドナルド・エヴァンズに』の解説でこの本のことを知り読んでみたのだが、これはいい本だった。この場所に住んでいたのはちょうど『葉書で…』の時期と重なるようで、友人の死やカナダ、ヨーロッパへの旅行のこともちらりと顔を出す。しかし中心にあるのはあくまでも、家での暮らしと四季の移り変わり、そして「客」として訪れる小さな猫との時間であり、それが故に後半の別れと新たな出会いが却って強く心に刻まれる。解説の末次エリザベート氏によれば、フランスではこの小説が一種の「俳句小説」として受け止められているとのこと。そう言われるとたしかに納得できるところはある。自分も最後のページを閉じた後、いつまでも余韻を味わっていた。この本が俳句になり得ているとすれば、それは全身全霊をもってこの世界に存在している猫たちのおかげであるといえるだろう。そしてこの本を読む者は著者と同様、この世に生かされていることを猫によって気付かされるのだ。忘れられない本がまた増えた。

『黒い玉』トーマス・オーウェン 東京創元社
加藤尚宏訳。副題は「十四の不気味な物語」。ベルギーの幻想怪奇作家による同題の短篇集から、恐怖色の強い作品を訳出したもの。(幻想味の強い残り十六篇は同じく東京創元社から出た『青い蛇』に収録されている。)
「恐怖」と書いたが、自分があまり小説で怖いと思ったことが無いせいか、たとえ主人公を凄惨な運命が襲っても、怖さよりは寧ろ切なさを強く感じてしまった。個人的な好みでいえば『青い蛇』の方が上と感じるが、本書も他の作家には無い独特の魅力を持っている。ひとつ10から20ページほどの短い話ばかりなので、さくさくと読めるのもいい。特に気に入ったのを挙げるとすれば「雨の中の娘」「父と娘」「黒い玉」「鼠のカヴァール」あたりだろうか。現実世界に疲れて心がざわざわした時にでも読みたい本だ。

『短歌タイムカプセル』東直子/佐藤弓生/千葉聡・編著 書肆侃侃房
「一千年後に残したいと思う現代短歌を一冊のアンソロジーにまとめよう」というコンセプトで、戦後から2015年までに歌集を発表した人の中から115人を選び、代表作二十首と、さらにそのなかから一首を選んで鑑賞文を附したもの。収録はあいうえお順なので、新旧の歌人が入り交じって出てきておもしろい。
短歌には詳しくないため知らない人が殆どで、ひとりひとり鑑賞しながら自分の好みに合う歌とその作者を控えつつ読んでいたため、予想以上に時間がかかった。
当然ながら良い歌が目白押しなので、いちいち書き出していくとキリがない。そこで以下、特に気に入ったものをいくつかピックアップしてみたい。いやあ、好かった。
〈岡野大嗣〉   もういやだ死にたい そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい
〈小島ゆかり〉  なにゆゑに自販機となり夜の街に立つてゐるのか使徒十二人
〈塚本邦雄〉   夢の沖に鶴立ちまよふ ことばとはいのちを思ひ出づるよすが
〈寺山修司〉   マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
〈早川志織〉   指さして子にものの名を言うときはそこにあるものみなうつくしき
〈フラワーしげる〉あなたが月とよんでいるものはここでは少年とよばれている
〈松村由利子〉  チューリップあっけらかんと明るくてごはんを食べるだけの恋ある

『きらめく共和国』アンドレス・バルバ 東京創元社
宇野和美訳。2017年に刊行され、スペインのエラルデ小説賞を受賞した傑作中篇。亜熱帯の町サンクリストバルに突如どこからともなく現れた三十ニ人の子どもたち。かれらは理解不能な言葉で会話し、人を襲い物を盗み、そして死んだ。その顛末を二十二年後に書いた回想記の形をとっていて、最初は何が起こっているのか解らないまま、子どもたちの存在自体がひとつの謎として描かれていく。「謎の提示とその解決」という意味では広義のミステリと呼べなくもないが、そう言ってしまうとJ・G・バラードの『殺す』や『コカイン・ナイト』もミステリということになってしまうのでよろしくないか。(かと言って、あれらの作品は創元SF文庫から出ているといってSFというわけでもないが。)あらかじめ決められた結末に向かって突き進んでいく構成は、なんとなくガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』を連想した。
敢えて分類するなら、いわゆる〈世界文学〉ということになるのだろう。妙な緊迫感に満ちた展開はエリック・マコーマックやスティーヴン・ミルハウザーにも似たことろがあるが、あそこまで冷めてはおらずある種の熱気がある。むしろポルトガルのジョゼ・ルイス ・ペイショットによる『ガルヴェイアスの犬』に近い感動をおぼえた。してみると、これは中南米の魔術的リアリズムへとつながる〈ラテン文学〉に共通する香りなのかも知れない。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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