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2019年3月の読了本

今月はわりと順調だった。フィクションが多かったせいかも。

『物理学と神』池内了 講談社学術文庫
宇宙物理学の研究者が記した、一種変わった科学史の本。過去から物理学が神に仮託することで何を表そうとしてきたかについて、カントやニュートンの時代から二十世紀の相対性理論や量子力学、超ひも理論までを俯瞰しつつ、数式を使わず平易に説明される。物理学や自然哲学が無限者たる神をいかに「追放」していったかを描く第一章から、ラプラスやマックスウェルの悪魔が跋扈する第二章へと進み、永久機関や錬金術、パラドックスなども出てきてなかなかに面白い。元々は集英社新書で刊行されたもののようだ。実は読み始める前は「古今の科学者が神への信仰とどのように折合いをつけてきたのか?」というような話を期待していたのだが、ふたを開けてみると割と一般的な科学史だった。(これはこれで面白い。)いかに神の存在を前提としないで世界の成り立ちを説明出来るかが自然科学の発展を支えてきた思想であるならば、実験の再現性が科学のキモであることも納得できるだろう。誰が何度やっても同じ現象が再現できるという事こそが、神による奇跡ではなく単なる自然現象であることの証拠になるわけだ。ただしどこまで行っても「では何故そのようになっているのか?」という疑問は残るわけではあるが。(それでも科学の発展によって決着の時は無限後退し続けることにはなる。)こういった本を読んでいると内容が浮世離れしていてすこぶる好いね。
最後に面白い小ネタをひとつご紹介。「ゼノンが次々とパラドックスを持ち出して人々に論争を挑んだのは、独裁者である僭主が振りまく調子のよい喧伝の裏には、恐ろしい魂胆が隠されていることを気づかせるためであったと言われる」 そうだ。知らなかった。

『定本 黒部の山賊』伊藤正一 ヤマケイ文庫
時代は終戦直後。北アルプス源流の三俣蓮華や黒部渓谷を舞台にして、猟で糧を得る男たちとの交流や厳しい自然、山小屋を訪れる登山客らのエピソードが語られる。副題に「アルプスの怪」とあるが『山怪』のような実話怪談は第四章だけで、その他の6章ではいずれも、開発されてダムが作られる前、気軽に観光客が行けるような場所ではなかった黒部渓谷の情景や、そこでの暮らしぶりが迫真性をもって描かれている。黒部山中に住んでいた猟師崩れの「山賊」たちと、ひょんなことから親交を深めることになった著者が記した山の生活の記録なのだが、これがとんでもなく面白い。無法というより、自然こそが法の世界。そこで生きるとはどういうことか。死に直結する気候の急変、熊やカモシカや狸といった野生動物の生と死の延長に、現実と神秘が混じり合い怪異が語られるからこそ本書の副題の意味があるのだと思う。刊行後50年経ってもまったく色褪せない山岳書の名著だ。

『墓場の少年』ニール・ゲイマン 角川文庫
カーネギー賞(英)とニューベリー賞(米)を受賞した冥界版『ジャングル・ブック』とでも呼ぶべき本。死者たちによってノーボディと名付けられた赤ん坊が大きくなって世界を知り自らの運命を切り開くまでを描く。想像していたようなどろどろで暗いゴシックホラー的なものではなく、真っ当なヤングアダルト向けの小説だった。予備知識ゼロで読み始めたところ、まるで映画を観ているようで驚いたのだが、著者のプロフィールをみたら『コララインとボタンの魔女』や『アメリカン・ゴッズ』の原作を書いている人だった。どうりでリーダビリティに長けているわけだ。ヤングアダルト向けと書いたけれど話自体はわくわくどきどき冒険あり涙ありで、おとなが読んでも愉しめる。『コララインとボタンの魔女』じゃないけれど、本作も人形アニメーションにぴったりな感じで悪くなかった。

『快絶壮遊〔天狗倶楽部〕』横田順彌 ハヤカワ文庫
副題に「明治バンカラ交遊録」とあるとおり、押川春浪と彼が組織したスポーツ社交団体「天狗倶楽部」を中心とした明治の著名人の交友関係を、丹念な調査によって掘り起こした労作。とはいっても読み口は全く堅苦しくない。著者の他の著書と同じように、愉快なエピソードを軽い口調で語ってくれているのですらすらと読み進むことができる。(ただし、やたら人名が出てくるので、人の名前を憶えるのが苦手な人はちょっとだけ大変かも。)取り上げられているのは押川春浪や中村春吉などこれまでの著作でもお馴染みの人々から、河岡潮風や永代静雄、小杉未醒といったまるで聞いたことのない人まで様々。全十二章の中には、それまで歴史の彼方に埋もれて忘れ去られていた交流の様子が活写される。1999年に出版された単行本の初文庫化ということだが、存在自体全く知らなかった。大河ドラマ『いだてん』の影響だろうが何だろうが、とにかくこういう本が手に入るのは有難いことだ。個人的にはヨコジュンの文章が久しぶりに文庫で読めるのが嬉しい。もっと長生きしてたくさん本を書いて欲しかったなあ。

『シンドローム』佐藤哲也 福音館書店
〈ボクラノSFシリーズ〉の一冊。ひとりの男子高校生の視点で、四人の学生たちの日常と謎の飛行物体が街外れの山に墜落してからの一週間の出来事を描く。主人公のひねくれた独白のおかしさと徐々に進行する"兆候"の深刻さのギャップが、これまで読んだことのないような雰囲気の物語を作り出している。これが果たして主に児童向けに書かれた本と呼べるかどうかは別として、まぎれもなく侵略SFの傑作である。後年、ウィンダム『トリフィド時代』のような“ある種”の位置を占めることは間違いないと思う。著者の作品は割と好きで『イラハイ』や『ぬかるんでから』などいくつか読んでいたのだが、こんな本が出ていることはツイッターで教えてもらうまでまったく知らなかった。ありふれた日常から不穏に満ちたラストまで、忘れ得ぬ余韻を残す作品である。(ただし子どもの頃に読むとトラウマになるかも知れない。)

『砂糖の空から落ちてきた少女』ショーニン・マグワイア 創元推理文庫
異世界から元の「この世界」に戻ってきた子ども達を迎え入れる〈迷える青少年のためのホーム〉を題材にした三部作の最後の作品。子ども達の前日譚を描いた前作『トランクの中に行った双子』とは違い、本書は第一作『不思議の国の少女たち』の直接的な続編になっていて、互いに補完しあって重層的な物語を形作っている。今回は前二作に比べてユーモアが強めで凄惨な展開にこそならないが、本来の自分の居場所である場所が失われた子ども達のひりひりした焦燥感は同じだ。巻末の訳者解説によればこの後も少なくともあと2冊は続きが出されることが決定しているようなので、願わくば〈魔法の国ザンス〉のように長大なシリーズと化してしまったがゆえ、当初の魅力がぼやけてしまうようなことが無いことを祈る。そんなに簡単に往き来出来ないからこそ、夢の国は夢であり続けるのだから。

『父と私の桜尾通り商店街』今村夏子 角川書店
「文芸カドカワ」に掲載された三篇に、「早稲田文学増刊」と「たべるのがおそい」、書き下ろしの一篇を加えた最新短篇集。発表誌が違うためか、これまでのイメージとはかなり違う作品が多かった。文芸カドカワのものは軽めの印象だし、「ひょうたんの精」と「せとのママの誕生日」はファンタジーというか魔術的リアリズムというか、そちらの方面に振れている。「白いセーター」と「ルルちゃん」あたりは相変わらず構図が歪んでいる絵を観ているようで、歪んでいるのは「わたし」なのか周囲なのか或いは読者自身なのか判らない不穏さがこわい。しかしそれ以外の作品は、表題作も含めて突然垣間見える不安定さは相変わらずでも、それでも『こちらあみ子』や『星の子』のような苦しさは無く割と穏当に受け入れられる。著者の作風の広がりを愉しむ事ができた。
鼻の奥に鉄の匂いがするようなひりひりした感じは吉田知子にも似る。

『小鼠 油田を掘りあてる』L・ウイバーリー 創元推理文庫
欧州の小国グランド・フェンウィック大公国が世界中の大国を翻弄する痛快シリーズの掉尾を飾る第4弾。今回はエネルギー危機を題材にして、いつものごとく首相であるマウントジョーイ伯爵の頭脳が冴えわたる。それにしても本書になぜ創元推理文庫の<帆船マーク>が付けられているのか不思議だ。Q爆弾をはじめとする天才科学者コーキンツ博士の発明は怪奇と幻想よりSFに近いものだし、物語自体はポリティカル・フィクションというか、『大誘拐』や〈陽気なギャング・シリーズ〉といった犯罪小説、あるいは映画でいえば『スティング』や『オーシャンズ11』あたりの雰囲気に近いと思う。まあジャンルは何にせよ面白ければ良いのだし、金も力も持たないものが丁々発止、頭と口で強い連中を手玉にとる物語が面白くない筈がないのである。

『ドーキー古文書』フラン・オブライエン 白水uブックス
海辺の町ドーキーを舞台に、ひとりの若者が奇妙な人々と共に繰り広げる狂おしくも哀しいドタバタ劇。超自然と科学、信仰と倫理、日常と文学などの要素が入り混じった軽喜劇とでもいえばいいのだろうか。酒と信仰と奇想に彩られた本気とも冗談ともつかない展開で、最終的にどこへ連れて行かれるのか予想も出来ない。ついあちこちをつついて読み解いてみたくなる物語だが、真面目に考えるほど著者に「全て冗談だよ」とひっくり返されそうな気もする。アマチュア科学者にしろ巡査部長にしろ世界的な某有名作家にしろ、出てくるのはなにしろ頭のイカれた連中ばかりなのだ。ぜひとも皆、幸せになってもらいたいものである。ところでなぜ本書の題名が「古文書」なのだろうか。最後まで読んでも結局題名の意味はわからなかった。(そしてなぜ「国書刊行会にしか出せない(出さない)海外文学叢書」が〈ドーキー・アーカイヴ〉と名付けられたのかも。)

『あやかしの裏通り』ポール・アルテ 行舟文化
『第四の扉』など本格ミステリを数多くものにして「フランスのディクスン・カー」とも称される著者による新作ミステリ。ミステリというより探偵小説と呼ぶのが相応しい、いかがわしさと懐かしさが同居した物語が沁みてくる。奇抜な謎と合理的な解決、そして意外な犯人という三拍子がみごとに揃った愉しい作品だった。ひとつの通りが丸ごと消失するという大技も見事に決まり、犯人が〈少年探偵団シリーズ〉に出てくるような劇場型犯罪を犯した理由も(納得出来るかどうかは別にして)まあ理解はできる。ただし作中で示される図の通りだとすると、これで本当に消失トリックが成立するかは疑問に感じた。もうちょっと路地の形とか扉の位置とか工夫が要るんではなかろうか。まあ仰々しい謎解きも含めて、それら全部が愉しいのではあるが。こういうのを読むと、やはり自分はハードボイルドや社会派あるいはサスペンスなどよりも、本格ミステリが好きなんだなあと実感するのだ。

『傍迷惑な人々 サーバー短篇集』サーバー 光文社古典新訳文庫
長年にわたりニューヨーカーの誌面を飾ったジェイムズ・サーバーの代表的な作品の数々を、「家族の絆」「傍迷惑な人々」「暴走妄想族」「そういうぼくがいちばん……」といったテーマ別に分けて紹介したもの。本人による挿絵や一コマ漫画も収録され、多彩な一面(というか漫画の方が本職?)を見ることが出来る。異色作家短編集では分かりにくかった作家としての立ち位置も、こうしてみるとわかるような気がしてくる。エッセイとも創作ともつかないところとか、ユーモアとナンセンスに溢れたところとか、日本で例えるとしたら「東海林さだお」に近いのかな?とも思った。(きつめのジョークはサキの『クローヴィス物語』に似ているかも知れない)軽めでスマートでユーモアがあって、さらりと読めて腹に残らない洒落た作品群はたしかに、いかにもニューヨーカー誌に載っていそうな感じである。単純明快な面白さといえるだろう。

『この世界は何だ⁉︎ じわじわ気になるほぼ100字の小説』北野勇作 キノブックス
ツイッターで発表された掌編を130集めて一冊の本に仕立てたシリーズの第三弾。今回は題名にあるように「世界」がテーマで、 暗闇世界や縁側世界、坂道世界に組み立て世界などなど、様々な世界がひとつのページごとに広がっている。テーマが「世界」だからか、前二作よりもSFらしさを強く感じた。(自分が好ましいタイプのSFらしさ)いつもの氏の作品と同じく不思議な描写や理屈が続くのだが、なぜだかストンと腑に落ちる。氏の創作活動の根っこには落語とかSFとか演劇とか色々なものがあると思われるが、自分に共通するSFの根っこは案外このあたりにあるのではないかという気がした。(根拠はないが) 根拠のない思いつきをついでにもう一つ。氏の創作には本書のような掌編がいちばん向いているかも知れない。もしかしたら本シリーズが、氏の代表作になるのかもしれない。
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2019年2月の読了本

『言わなければよかったのに日記』深沢七郎 中公文庫
『楢山節考』や『みちのくの人形たち』などの著者による日記風の身辺雑記、子供の頃の思い出、そして「◯◯ポルカ」と自ら名付けた肩がこらない小文を集めたもの。小説とエッセイで文体や作風が違う作家は何人か見てきたが、これ程違うのも珍しい。世間の常識を知らない著者が引き起こす、時に可笑しく時に恥ずかしい先輩作家との交流は、勝手に想像していたイメージを粉々に打ち砕いた。ここまで創作とエッセイで雰囲気が変わる作家は、他には恩田陸や楳図かずおぐらいしか思い浮かばない。いやあ驚いた。

『臨済録』入矢義高訳注 ワイド版岩波文庫
看話(かんな)禅として有名な臨済宗の祖である臨済の言行を、弟子の慧然が記したとされる言行録。修行中に師の黄檗(おうばく)や大愚らと交わした問答や、後年弟子たちとのやりとりを記した「上堂」「勘弁」「行録」と、弟子に噛んで含めるように修行の肝要を諭す「示衆」、そして臨済の経歴を記した「塔記」の5つのパートからなる。なんといっても白眉は「示衆」ではあるが、その他の章も、側から見ていて全く意味が掴めない謎の行動の一部始終が面白い。何を話しても最後には払子で払うか一喝するか、打つか出て行くか悟るかしか無いやりとりがなんともシュールである。僧問う(修行僧の質問)→ 師云く(師の返し)→ 僧擬議す(僧、もたつく)→ 師便ち打つ(師、すかさず僧を打つ) という一連の流れがまるで目に浮かぶようだ。しかしそれらも結局は「示衆」の章で示されるように「無依独立の人々こそがそのままで諸仏の母(≒誰しもが産まれながらにして仏)」だから、あれこれ考え外に求めれば求めるほど「迷いの世界に輪廻する」ことになる(=言葉に仏法を求めるから迷う)。だからこそそれを無化せんがためのやりとりであるのだ。ただし、あるがままの自分を肯定するのが一番難しいわけだが......。
本書は問答の様子が極めて具体的に書かれているため、禅の実践的入門書として読むことも出来るのではないだろうか。(もっとも、そんなことをすると臨済師にすかさず打たれそうではあるが。)こんなに面白いのならもっと早くに読んでおけば良かった。

『あひる』今村夏子 角川文庫
単行本で読んだのにまた買ってしまった。そしてぞわぞわしながらあっという間に読んでしまった。西崎憲氏の解説を読みたかったのである。氏によればこの著者は新しい型紙を作る作家であり、おそらく裸の王様が着ている(社会性という)服が見えない子供のひとりなのだと。作品自体ももちろん素晴らしいのだが、解説がまた素晴らしかった。悪意、暴力、醜悪さなど見てはならないとされるものがあり、文学はそれを直視することが目的だったりもするが、西崎氏が指摘されるように、著者が描いているような、ある種の見えない(ことになっている)社会性は確かにこれまで読んだことが無かったように思う。なぜだかミエヴェルの『都市と都市』を思い出した。

『えーえんとくちから』笹井宏之 ちくま文庫
重度の身体表現性障害で長く療養生活を続けた作者の遺した短歌集に、未発表の俳句、詩、エッセイなどを加えた増補版。世界が小さい分、作者の手触りが強く感じられるようだが、いずれも繊細で柔らかな趣きがある。若さや技巧が見え隠れするのは好悪とはまた別。自分は好ましいものと感じた。以下、表題作を含め、気に入ったものを幾つかあげてみる。
えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい
ふわふわを、つかんだことのかなしみの あれはおそらくしあわせでした
こころにも手や足がありねむるまえしずかに屈伸運動をする

『青きドナウの乱痴気』良知力 平凡社ライブラリー
副題に「ウィーン1848年」とあるように、ウィーンにおける市民革命の始まりからその敗北と独裁政治の開始までの約8ヶ月間を描いた社会史の本である。皇帝や貴族といった当時の支配階級や職人をはじめとする市民、そして他の地域から流入して街の最底辺を構成した労働者たちや学生が、ときに連帯しときに敵対しながら複雑に絡み合う姿が、彼らの暮らしぶりや考え方などとともに活写される。十九世紀初頭のウィーンはリーニエと呼ばれる壁に取り囲まれた「閉鎖された都市」であり、外から食料を持ち込むには消費税を支払わねばならなかった。大衆への課税は日常の食物の値を吊りあげることだったため「庶民の怨嗟の的」となり、ウィーン三月革命とともに群衆による暴動が起こったのだという。その後長期間にわたり様々な「乱痴気」が起こるのであるが、その行動には思想も秩序もなくまさに「乱痴気」。しかしその中にも近代への足音は確実に聞こえてきているようだ。人々に漲るこのパワーこそが「革命」の原動力なのだろう。まさに「大衆の反逆」であるといえるかも。

『自然魔術』ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ 講談社学術文庫
近代自然科学の黎明期に記された、実験的・経験主義的な思想に基づく書。全二十巻を約三分の一にした抄訳だが、全体を通しての雰囲気はよくわかる。水・空気・火・土にスピリト(精気)を加えた五つの元素が、共感と反感を通じて影響しあい、或いは全ての生命がある秩序を持って連鎖するという世界観で貫かれている。自然を一種の「機械」とみなして原理を探ろうとする、近代科学とは相容れない今では失われた「もうひとつの知」と呼べるようなものが読者に生々しく迫ってくる。
いかにも当時の本らしく内容は体系立てられておらず、物理化学的な記述から女性の顔を白くする方法や如何に肉を柔らかくするかといった「生活の知恵」のようなものまで、全てが隠れた力を操る「技(アルス)」の実践的カタログといて同列に語られている。科学的に正しい内容とトンデモ説がごっちゃになって、今のインターネットの世界のようにも感じた。(ネットの世界がまだ中世レベルなのだとも言える。)澤井繁男氏による訳者解説も本書の思想的な位置付けを詳しく示してくれて好い。
以下にその一部を紹介したい。
本書によれば自然魔術は自然学の完成形とされるそうである。「技(アルス)」の力を借りず、自然だけの助けを得て事物を行う人を「魔術師」と呼ぶ。これはまた過去から「哲学」とも呼ばれており、ピュタゴラス、エンペドクレス、デモクリトス、プラトンらがその探求者として名高いとのこと。この自然魔術を善とすれば、もう一つの魔法は邪悪な霊と関係を持つ妖術であるとのことだ。またこの世の全ては火・空気・水・土という「四大元素」からなり、更に「質量」「形相」という二つを合わせた都合三つの要素で作られる。薄さ・厚さ・粗さ・滑らかさ・割れやすさなどは質量に起因し、冷・熱・湿・乾や柔軟・熟成・矮小、保存・凝縮・腐敗などの特性は全て形相に起因する。
章が進むと次のような記述も出てくる。
アブラナと葡萄には憎悪の関係があるので、アブラナは酩酊に効く。野生の雄牛をイチジクの木に繋ぐと大人しく穏やかになるので、牛肉を煮るときに野生のイチジクの茎を加えると速やかに煮立つ。ニンニクと磁石には際立った不一致があり、ニンニクを塗ると磁石は鉄を引きつけなくなる。(これって類感呪術の一種だよね。)そして類感呪術の次には「生物は腐敗から生まれる」との記述が。パスツールまであとおよそ300年の時代である。
なんとなく雰囲気は伝わっただろうか。つまるところ科学も魔術も、原因と結果の関係性を追求することで世界を理解しようとするものではないかと思う。ただ前者が神の介在なしに理を示そうとするのに対して、後者は「そういう風にできている」というところで足踏みしている感じがする。まあ「神の意図」を世界に読み取ろうとするわけだから当然かも知れない。「正しいかどうか」でなく、当時の人がどのように世界を理解していたかに寄り添いながら読まなくてはいけないので、意外と頭を使う読書だった。今でいうところの科学の領域から地続きで魔術や占星術の領域につながっているのがすごい。書かれた内容自体は正直たいしたことないが本としては極めて面白いという不思議な体験が出来た。それにしてもプリニウスの『博物誌』に並ぶ16世紀のイタリアの書が文庫で手軽に読めるとは、講談社学術文庫おそるべしである。

『キッド・ピストルズの冒瀆』山口雅也 光文社文庫
パラレルワールドの英国を舞台に、パンク探偵が活躍するミステリシリーズの復活第1弾。《マザーグース・ミステリ》の要素を盛り込んだ四つの短篇が収録されていて、さらに著者やゲストによる巻末エッセイやインタビュー、解説、作品リストなど50ページあまりが追加され、さらに本編も著者によるリマスター化がなされた決定版となっている。探偵役のキッドや相棒のピンクをはじめとする登場人物たちの魅力はもちろん、マザーを題材にした見立てや意外な結末などミステリとしても一級品。これが再び手に取れるようになったのは慶賀であるといえよう。創元のソフトカバー版から数えて何度目かの再読だったがやはり面白い。国内外合わせたミステリーの中で、もしかしたら一番好きなシリーズかも知れない。

『只野真葛の奥州ばなし』勝山海百合/現代語訳 荒蝦夷
江戸で生まれ育ち仙台へと嫁いだ才女・只野真葛が記した奇談集『奥州ばなし』を、小説家の勝山海百合氏が現代の言葉に直したもの。巻末には彼女の伝記『わが真葛物語』の著者・門玲子氏との対談や年譜も収録されていて、『独考』や『むかしばなし』で知られた著者の生涯や人柄がよく伝わってくる。(恥ずかしながら本書を読むまでこの只野真葛という人物を知らなかった。知れば知るほど読書欲をそそる人物である。)
具体的な内容は例えば柳田國男『遠野物語』に出てくるような聞き伝えを、時に自らの意見を交えてまとめたもの。随筆とすれば『遠野物語』よりも雰囲気は根岸鎮衛の『耳嚢』の方に近いかも知れない。(地元に根差した話という点では『北越雪譜』にも。)各話の最後には勝山海百合氏の感想が書き加えられているほか、時おり著者に関係があった滝沢解(馬琴)による註釈も添えられていて、ちょっと得した気分にもなれる。
なお出版元の荒蝦夷(あらえみし)は仙台に本社を置く地方出版社で、本書も荒蝦夷が出している「仙台学」という雑誌の連載が元になっている。国書刊行会の〈叢書 江戸文庫〉『只野真葛集』ぐらいでしか読めなかったものが、このように気軽な読み物となって紹介されること自体が、仙台の文化の豊かさを示しているようだ。金沢の泉鏡花記念館が出している泉鏡花作品のオリジナル文庫といい、文化は中央発信ばかりでない証であるようで嬉しい。

『丹夫人の化粧台』横溝正史 角川文庫
日下三蔵/編の怪奇探偵小説傑作選で、正史が本格ミステリを書く前の、戦前の作品ばかりを十四篇収録している。独特の風味があって、中にはおどろおどろしい作品もあるが、久生十蘭のようなスマートなものやユーモアに溢れるものまでバラエティに富んだセレクションになっていて好い。なんで今ごろ横溝正史の戦前の怪奇物ばかり集めたアンソロジーが出されたのかと思ったが、解説に書いてあった経緯を読んで納得した。

『スキタイの子羊』ヘンリー・リー/ベルトルト・ラウファー 博品社
叢書〈博物学ドキュメント〉全二十冊の一冊。中世ヨーロッパのアジア旅行記に登場する〈植物子羊〉、すなわちスキタイの子羊あるいはタタールの子羊やバロメッツなどと呼ばれていた「子羊の生える木」に関する伝承の起源と、それがいかに中世ヨーロッパに伝播していったかを考察する。二部構成となっていて、前半のリーはその起源を「木になる羊毛」と形容された綿花に求め、後半のラウファーはリーを批判的に引用しつつ、繊維を産するピンナ貝および中国の「水羊布」とキリスト教できるアレゴリーがその起源であると断定する。いずれが正しいのかはさておき(いずれも少しずつ正しそうな気もするが)、言葉の取り違えや概念を図像化する際の変質によって奇怪なイメージが出来上がる過程は大変に面白い。如何にももっともらしい嘘のオンパレードが可笑しい。ところでこの叢書、シュテュンプケ『鼻行類』を出したところのようで、リストをみると他にも魅力的な書名が並んでいる。探求書がまた増えてしまった。

『キッド・ピストルズの妄想』山口雅也 光文社文庫
〈パンク=マザーグースの事件簿〉シリーズの二作目。前作『キッド・ピストルズの冒涜』に続いてマザーグースに彩られた奇怪な(そして魅力的な)シュチュエーションの三つの事件が収録されている。このシリーズ、マザー・グースと不可能犯罪とパンク(権威への反抗)が混じり合う独特の雰囲気がたまらなく好いのだが、今回は童謡以外にもう一つ「狂気の論理」、すなわち「妄想」が全体を貫くテーマに据えられていて、一種の「狂人」である死者の思いの奥底まで深く潜ってゆくキッドの「妄想」が圧巻。反重力の夢、洪水伝説と箱舟、〈ピクチャレスク〉とオルフェウス。何れ劣らぬ狂気の代弁者たるキッドは、その異様な風貌と相まってまるで冥界を覗き見る司祭のようにもみえてくる。(それにしってもキッドはかっこいいなあ。こういう「おいら」の使い方好きだ。)迷推理を開陳する探偵たちや相棒ピンクのトリックスターぶりに惑わされがちではあるが、軽い読み心地とは裏腹になかなかどうして重たいものが流れているように感じた。馴染みの話がこれまでと違う相貌を見せてくれるのは、再読の効用ともまた再読ならではの愉しみ方ともいえるだろう。

2019年1月の読了本

『ねこたま』北野勇作 惑星と口笛ブックス
〈北野勇作2本立て〉シリーズの第二弾で、「タマモン」と「船と猫と宿と星」の二つの作品を収録したもの。前者は藤子・F・不二雄の作品にありそうで、それでいてぜんぜん違うような話。背中にファスナーがあったら開けたくなるが、ファスナーがある事に気がついてはいけない、そんな話だ。(他の北野作品と同じように、例によって要約は出来そうにない。) 後者は「傾斜」「秘密」「迷子」「辻褄」「屋上」「星座」「湯気」という微妙に題材が絡みつつ独立しているような奇妙な話が7つまとめられている。全体的にSFっぽさが強い感じはあるが、いつもの北野ワールドでもある。この〈2本立て〉というのは、いいシリーズだな。ふと思ったのだけど、北野勇作作品の雰囲気って笑いのセンスとかが、うすた京介の漫画に似ているかも知れない。

『語りかける身体』西村ユミ 講談社学術文庫
著者は現在は看護学科の教授をされている方で、本書は「介護ケアの現象学」という副題が示すように、氏がかつて博士課程のときに行った研究をもとに、「遷延性植物状態」にある患者と看護師の間のコミュニケーションを通じて、患者の「意識」について現象学的な考察を行った本だ。著者自らが植物状態患者の専門施設で実際に看護に携わったのち、施設で三人の患者を受け持った看護師Aさんへインタビューを行い、さらにその内容を詳細に考察するという構成になっている。最後の章はこのような研究スタイルをとったこと自体の振り返りと、先行する現象学的看護研究の分析(および不徹底さに対する批判)にあてられており、看護現場へのメルロ=ポンティの現象学の見事な実践であるとともに、現象学了解への優れたサブテキストにもなっている。自分としてはまず看護研究において、患者の病いの体験を了解したり看護実践に中にある「知」や「技能」を探究する方法として、現象学が過去から注目されてきたことを知らなかったので驚いた。
「外的刺激に対する反応が見られず、周囲の環境や他者と相互作用することができない」とされてきた植物状態患者が、実際には看護師との間で前意識的な「原初的地層」での未分化な知覚(=共感覚)を通じて感覚を交差させているという(看護師の)実感があるということ。そしてこれを「視線がピッと絡む」とか「手の感触」といった表現でインタビューの言葉の中から掬い出すことができたのは、著者が自らも現場に入り込み、かつ現象学の本質を充分に理解していたからに他ならない。理論と臨床の幸福な出会いを示すものだろう。良い本を読むことができた。
実は自分の父親は「進行性核状性麻痺」という病気で、今も徐々に身体機能が衰えつつある。歩行も困難になり寝ている時間が増え、呼びかけても反応がとても遅い。半年ほど前からは言葉も殆ど発しなくなった。しかし過去からを知る自分にとっては、微妙な顔の表情や仕草で父親が何を欲してどんな気持ちでいるのかが手に取るように「わかる」のである。また、母親も認知症が進み記憶の殆どは溶けていってしまったが、しかし一緒に食事をしながら会話をする瞬間にみせる感情や言葉のやりとりは、間違いなく母親そのもの。そう考えると「植物状態」とされる人たちを「意識障害」と単純に判断して良いものかという疑問はたしかに浮かぶ。現に本書によれば、意識レベルの評価スケールによる点数の結果と、実際にケアを実践している看護師の感覚は大きな食い違いを示しているようだ。どこまでを意識と呼べるのかや、あるいはどこまでも看護する側の判断でしかないという課題はあれども、たしかにその瞬間は目の前の人は「生きている」のである。自分の父親や母親と同じように。

『紫の雲』M・P・シール アトリエサード
これまで名前ばかりが有名だった幻の幻想小説がやっと読めた。300ページを超える本文のうち幻想味の強い極地冒険パートは僅か5分の1ほどで、北極から帰った男の目の前に広がるのは紫の死の雲によって全人類が死滅した世界。死屍累々とはこのことか。男は生存者を探して死の街をひたすら行く。死者たちは防腐作用のある雲により、死後数ヶ月たっても突如訪れたその瞬間の姿のまま保たれている。老いも若きも、富めるものも貧しきものも、人種や性別も全て関係なく死はすべての者に平等に襲いかかり、その様子は「死の舞踏(ダンス・マカブル)」を見せられているようだ。(これに良く似た話を昔どこかで読んだと思って考えたら『火の鳥 未来編』だった。それにしても誰にも咎められることなく何でも好きなことをできるのは、幼児的な万能感に満ちた楽しさではあるものの、絶望感とか身体の不調とか無いものだろうか。また陸上の全動物が死に絶えて文明も滅んでいるのにかかわらず、何年も経ってから肉や菓子や珈琲が手に入るというのはちょっと変な感じがしないでもない。)死と荒廃の描写はその後も延々と続いてゆくが、3分の2を超えたところで物語は大きな変化を遂げ、やっと本書のテーマが見えてくる。もっとも読み返してみると、「白いやつ」と「黒いやつ」の二つの声、語り手の名前がアダムであること、堕落と悪徳の人々などなど、最初から手がかりが書かれており、それにこちらが気づかなかっただけなのだが。
物語としては非常にバランスが悪いと思いながら読んでいたのだが、解説を読んだら当初は三部作として構想されていたとあり納得がいった。途中、ミルトンの本がやっと出てきて気がついたわけだが、本書は名づけるなら「得楽園」か、あるいは「逆ヨブ記」といった感じかもしれない。読み終わってみればキリスト教的な神秘思想のど真ん中に位置付けられるような小説だったといえるだろう。主人公の無駄な熱量といい執拗なまでの破滅の描写といい、まさに力作であり怪作であるとおもう。読めて良かった。

『不気味な物語』グラビンスキ 国書刊行会
『不気味な物語』『情熱』という著者の二つの短篇集から既訳のものを除いて収録したもの。これでほぼ全ての代表作が訳されたとのことだが、とてもバラエティにとんでいて、こんな人がまだ隠れていたのかと驚かされた。
前半の〈不気味な物語〉のパートに収録された6つの短篇の中で特に好みなのは「シャモタ氏の恋人」「サラの家で」「視線」あたりか。凡そ結末の想像がつく作品もあるが、途中の盛り上げと最後の〆がいかにも上手い。後半の〈情熱〉のパートでは本書のなかで一番長い中篇「情熱」と「悪夢」「投影」が好かった。特に「情熱」は美しく活気に満ちたヴェネツィアの描写が素晴らしい。美と醜、崇高と卑近とが同居するヴェネツィアの街を舞台に、まるで演劇を観ているような愛と死と幻想の物語が繰り広げられる。こんな話を読むとグラビンスキの懐の深さが実感できる。ある種の吸血鬼物としても読める「サラの家で」や、まさか続き物とは思わなかった「偶然」と「和解」、オブライエン「失われた部屋」やプリースト『伝授者』、ポー「陥穽と振り子」などにも通じる不条理で不気味な部屋の光景が出てくる「悪夢」から非常にショッキングなラストの「屋根裏」まで、バラエティに富んでいて読者を飽きさせない。まさに愛蔵版ともいえそうな凝った装幀もすばらしく、これまでの『動きの悪魔』『狂気の巡礼』『火の書』と合わせてこの著者の作品は怪奇幻想ファンなら必携であろう。

『芥川龍之介選 英米怪異・幻想譚』 岩波書店
芥川が旧制高校の副読本として編纂したアンソロジーから精選した幽霊譚20編に、芥川自身が訳したイェーツ「春の心臓」とルイス・キャロル「アリス物語(抄)」、それに彼の異色作「馬の脚」を収録した短篇集。外れがひとつもない驚異的な本で、隅から隅までたっぷりと楽しむことができた。編者の一人である芥川研究家の澤西祐典氏による解題と巻末の解説も大変に参考になる。(それにしてもボルヘスと芥川龍之介の趣味がここまで似通っていたとは知らなかった。本書は『芥川版 バベルの図書館』と呼んでも差し支えないかも知れない。また芥川がウェルズを嫌いだったとは知らなかった)しかも全ての作品がいずれも当代随一の訳者による新訳で、且つ、うち11篇が本邦初訳という贅沢さだ。
かなり怖い正統派の怪談だとかユーモアに満ちた法螺話タイプの幽霊話、幻想味と気味の悪さと可笑しさとが入り混じる(奇妙な味〉に近いものなど、様々なタイプの小説が集められているので一概に比較はできないしどれも面白いのだが、その中でも特に好かったものを挙げるとすれば、レディ・グレゴリー「ショーニーン」、M・R・ジェイムズ「秦皮(とねりこ)の木」、アーノルド・ベネット「不老不死の霊薬」、フランシス・ギルクリスト・ウッド「白大隊」E・M・グッドマン「残り一周」あたりだろうか。もともとウェイクフィールド の「赤い館」や「ゴースト・ハント」、エーヴェルスの「蜘蛛」のように、正体がよくわからない怪異で読者を本気で怖がらせにきてる話が好きなんだが、M・P・ジェイムズの「秦皮(とねりこ)の木」もそんな話であり、訳者が西崎憲氏というのも個人的なツボなのだ。こういう怪談がもっと読みたい。本書に登場するには他にもオスカー・ワイルド、ダンセイニ卿、ポー、スティーヴンソン、ビアス、ウェルズ、ブラックウッドなどなど、とんでもないオールスターキャストである。こんな本が出たこと自体が、ある種の「事件」といっても良いかも知れない。

『奇商クラブ』G・K・チェスタトン 創元推理文庫
「奇妙な商売」にまつわるミステリアスな出来事を、隠遁した元判事バジル・グラントが解き明かしてゆく物語で、本書には南條竹則氏による新訳を六篇収める。いずれも独特の論理による物語が展開されて読者はぐるぐると引き摺り回されるが、馴れるとクセになってくる。出てくる商売はいずれもありそうでなさそうな、ちょっとニヤリとするものばかりだ。(本当に商売として成り立つのかは疑問だが。) 読みどころはこれらの商売のアイデアのほか、それらが引き起こす謎や奇妙な状況、さらにバジルによる謎解きの快感など様々で、それが読者を迷わせる理由にも魅力にもなっていると思う。商売(あるいは商店)に焦点を当てた作品といえば、別役実『当世 商売往来』や藤子不二雄Aによる『ブラック商会変奇郎』などが思い浮かぶが、この小説では商品を扱う物質的な商いではなく「サービス」であるところがチェスタトンらしいとも感じた。こういうのは心を豊かにする読書であるといえるかも。なお本書に収録された作品の中には、まったく別の人物である「ブラウン少佐」が複数でてくるのだが、これには何か意味があるのだろうか。(その後に書かれた神父の名もブラウンだし)

『海と山のピアノ』いしいしんじ 新潮文庫
鎮魂、というより生と死の連環を見送る側から描いたような九つの短篇からなる作品集。文学というよりは正しく「エンタテインメント」であると思う。面白く感動的で考えさせもするが、心が揺さぶられるよりは楽しませることに主眼が置かれた物語。素材は民俗学や文化人類学に親しいものばかりであり、幻想や奇想が現実と交差する魔術的な光景が展開していくのが魅力的。個人的には「秘宝館」と「川の棺」が大変好かったし、「ふるさと」と「浅瀬にて」も悪くなかった。ただ悩ましいかったのは、様々な要素を盛り込みすぎてエンタテインメントにも文学にも振り切れていないと感じられる作品もあったこと。どう言えばいいだろうか、大江健三郎[同時代ゲーム』にも通じるような「やり過ぎちゃった感」とでもいうべきか。その結果、読み進むうちに別の方向へと引っ張られて最終的に宙ぶらりんの状態になったところで物語としての終わりを迎えることになる。思わせぶりが楽しいんだけど、もう一息で届かないもどかしさがある。(どことなくジェフ・ヴァンダミアの〈サザーン・リーチ〉を思い出した。)「あたらしい熊」なども非常に惜しかった。最初はすごく変な話だったのに、いい話になってしまった。読みたかったのはいい話ではなく変な話なのだ。あまりあれこれ盛り込まずに、ひとつのエピソードを掘り下げた作品の方が性に合うようだ。いっそのこと池上永一『バガージマヌパナス』や『風車祭』のようにエンタメに徹する方が、却ってストレートに伝わったのかも知れない。繰り返すが決して悪くはない。非常に好きな素材であり、好きな作風だけに「惜しい」という印象が強かった。でも読んで損をしたという意味ではない。これもまた読書の楽しさであるのだ。

『死者の百科事典』ダニロ・キシュ 創元ライブラリ
『若き日の哀しみ』で有名なユーゴスラビアを代表する作家による「死」をめぐる九つの短篇に、著者自身による解題「ポスト・スクリプトゥム」を付した作品集。文章も内容もとても密度が濃く、どの作品も歯応え抜群。まるで濃厚なチーズを丸かじりしているような満足感がある。どれもすばらしい出来なのだが、あえてその中から特に好きなものを選ぶとすれば、「魔術師シモン」「死者の百科事典」「眠れる者たちの伝説」「王と愚者の書」といったところだろうか。いずれも現実と虚構が境目なく入り混じる、まるで鈍器のような短篇である。容赦なく、思い切りがいいのが好い。
たとえば表題作。解説にもあるように本書の収録作に共通するのは、単語の羅列による描写の頻出なのだが、この作品についてはそれが大きな意味を持って迫ってくる。何処とも知れない図書館には無名の人々の一生を記した事典がひっそりと仕舞われている。そこに書かれているのは、ひとつの命を育み巡らせた事物でありエピソードであり世界である。語りつくせぬそれらの記録を、事典の編者たちが驚異的な筆力で記録してゆく様子がただひたすらに描かれ、読者は読み手とともにひとつの人生を追体験することになる。そのとき読者は言葉の羅列の先に霞んで見えなくなってゆく世界の消失点を幻視することになるのだ。 読んでいる間じゅう上田秋成『春雨物語』を読んだときのような、いわゆる「文学」とは違うルールで書かれたような違和感を感じたが、それこそが「世界を描く」ということなのかも知れない。刺激的な読書体験を味わえる本だった。また「眠れる者たちの伝説」は折口信夫ならぬダニロ・キシュ版の「死者の書」であった。ただしエロスではなくアガペーの。「王と愚者の書」は大変に恐ろしい物語で、過去のある人物が書いた陰謀論の偽書が、人口に膾炙して独裁者の手引きとなっていった様子が年代記の体裁で記される。デマはそれがどんな悪意に満ちたものであっても、打ち消すことがいかに難しいか。これは現在進行形の話だ。

『その正体は何だ? じわじわ気になるほぼ100字の小説』北野勇作 キノブックス
〈じわ100シリーズ〉の二冊目。ツイッターで発表された1400を超える作品の中から130をセレクト。研ぎ澄まされた表現で、少し怖かったり可笑しかったり不思議だったりじわじわくる話がずらりと並ぶ。一気に読んでしまったが、毎日少しずつ愉しむもよし、気に入ったのを何度も読み返すもよし、いつでも気ままにページを開けるのが良い。今回は生き物っぽいものがテーマだが、見慣れた昆虫が顕微鏡で拡大されると見た事のない相貌を示すように、大きく切り取られたエピソードがごろっと転がされているのが愉しい。とても奇妙でとても面白かった。

『言わなければよかったのに日記』深沢七郎 中公文庫
『楢山節考』や『みちのくの人形たち』などの著者による日記風の身辺雑記、子供の頃の思い出、そして「◯◯ポルカ」と自ら名付けた肩がこらない小文を集めたもの。世間の常識を知らない著者が引き起こす、時に可笑しく時に恥ずかしい先輩作家との交流は、勝手に想像していたイメージを粉々に打ち砕いた。あまりの天然ぶりに韜晦しているのかとも思ったが、ところどころ出てくる鋭い心象から察するにやはり天然なのだろうと思う(なんせ桃仙人だし。)可笑しいことは可笑しいのだが、ちょっといたたまれない感じもある。創作とエッセイで文体や作風が違う作家は何人か見てきたがここまで雰囲気が変わる作家は、他には恩田陸や楳図かずおぐらいしか思い浮かばない。いやあ驚いた。解説を尾辻克彦が書いていたので気がついたのだが、この空気感は赤瀬川原平に共通するのだな。ただし赤瀬川氏が意識してそれをやっているのに対し、深沢七郎は完全に自然体だと思う。まさしく天賦の才だ。

My Choice/2018年印象に残った本


2018年はぎりぎり120冊、月平均で10冊となった。(シングルカット版など特殊な形の電子書籍を除く。)目標の100冊はクリアしたが、本を買うペースに読むペースが全然追いついていない。それどころか読みたい本がどんどん増え続けているのはいかがしたものだろうか。
さてそれでは気を取り直して、毎年恒例としているように読んだ本の中から「印象に残った本」を挙げてみたい。(本当は旧年中にアップしたかったのだが間際まで本を読んでいたので遅くなってしまった。)このところ新刊を追いかけるだけで精いっぱいで既刊本(=積読本)を読む時間がないのが残念であるが、しかしそれを補って余りあるほどに収穫が多かった一年でもあった。

<新刊部門> ―今年出版された本―
『虚ろなる十月の夜に』ロジャー・ゼラズニイ 竹書房文庫
ゼラズニイが怪奇小説や映画に出てくる怪物たちを題材にして書き上げた最後の単独長篇作。物語が進むにつれて徐々に明らかになってゆく設定、洒落た会話、そしてあっけなく終わるラストなど、どこをとってもまごう事なきゼラズニイ作品だった。同じ作者の《真世界シリーズ》やムアコックの《永遠のチャンピオンシリーズ》がSFであるのと同じレベルでSFといえるが、そんなレッテルなど関係なくゼラズニイのスタイルが好きな人ならぜひ。

『半分世界』石川宗生 東京創元社
創元SF短編賞を受賞した「吉田同名」の他、表題作を含む全4作を収録した中短編集。まさに「奇想」と呼ぶに相応しい作品ばかりで、しかもそのいずれもが楽々と世界文学のレベルに達している。「吉田同名」と「半分世界」は、まるでミルハウザーやブッツァーティを読んでいるような不思議な感覚が横溢しているし、「白黒ダービー小史」では架空のボールゲーム「白黒ダービー」を使って哲学や科学やスポーツのパロディ、そしてロミオとジュリエットばりのロマンスが語られ笑いが止まらない。圧巻はラストの中篇「バス停夜想曲、あるいはロッタリー999」だった。一つの地点を固定してそこを通り過ぎてゆく人々を描くのは、まるで逆パターンのチャトウィン『パタゴニア』のようだし、話が進むにつれ『百年の孤独』や『族長の秋』を思わせるような展開になってゆく。解説にもあるが、まさに南米文学の幻想性に通じるものがある。

『なぜ世界は存在しないのか』マルクス・ガブリエル 講談社選書メチエ
従来の形而上学と構築主義を共に批判しつつ、無限に多様な「意味の場」の重なりとして存在を規定する「新しい実在論」を提言する。訳文もこなれていて口語調で非常に読みやすいし、なんだかよくできた青春小説を読み終えたような満足感がある。内容をとても乱暴に要約してしまうと、「全ての物の総体たる『世界』は存在しない、というテーゼを、唯物論や「構築主義」(一種の解釈主義)などの矛盾を指摘することで立証」しようとするものなのだが、ベストセラーになったのも頷けるたいへん楽しい哲学書だった。ポストモダン思想以来のニヒリズムを克服する手段として、こういうやり方もあるのだと、ちょっと感心した。色んな先達のいいところを集めている印象があるが、ちなみに「世界」を否定した本書の最終結論はルイ・アームストロングの「What a Wonderful World」ではないかという気がする。

『絶景本棚』本の雑誌編集部編 本の雑誌社
様々なジャンルの読書家の皆さん34名により作り上げられた本棚写真の饗宴。ただ本が並んでいるだけの写真なのに、いくら見てもなぜか見飽きない。持っている本に知らない本、欲しい本に要らない本。色んな本があるがどれも美しい。自分の家の「絶景」はどの辺りになるのか、本書を眺めては考えていた。

『銘度利加』十田撓子 思潮社
第68回H氏賞を受賞した著者の第一詩集。明晰だがシュールな情景が考え抜かれた言葉によって表現される。SF好きで山野浩一やラングドン・ジョーンズの小説に親しんだ人であれば懐かしいと思うかもしれない。あるいは文字で表されたマグリットのようにも。読んでいてとても気持ちが良かった。
以下、「パニヒダ」の中から少し抜粋する。

天体から音が聞こえてくる

水が星座を読むように
胸の奥からふつふつと湧き出てくる
それは音のかたちを持っていた

その音を説明するために
しかし私は
言葉を使わなくてはならない

あるいは頭に浮かんだ音や時間を、言葉でそのままの姿に切り取ったものではないかとも思う。まさしくこれは妄想である。しかも密度が濃くて非常に強固な妄想。こんな文章を、黒塗りの柩の中に閉じ込めたような装丁で目の前に差し出されたら「やばい」。

『マニエリスム談義』高山宏×巽孝之 彩流社
「学魔」高山宏氏とアメリカ文学史の碩学である巽孝之氏による対談集。グスタフ・ルネ・ホッケが広げたマニエリスムの視点から、アメリカン・マニエリスムと呼ばれる文学作品の流れについて、ポーやメルヴィル、ピンチョンまでをいわゆる「英米文学論」の枠を遥かに超えて楽しく語り尽くす。キーワードは「見方の快楽主義」。そう、マニエリスムとは見方をずらすことで得られる快楽であり、それによってレトリックやピクチャレスクといった幅広い概念が統一されてゆく。軽い読み口だが結構深い。巻末には本編とは別に、ユリイカの2015年3月臨時増刊号『150年目の「不思議の国のアリス」』に掲載された両氏による対談「『不思議の国のアリス』と/のアメリカニズム」が特別収録されているのも良い。

『海うそ』梨木香歩 岩波現代文庫
昭和のはじめに南九州の孤島「遅島」を民俗学のフィールドワークで訪れた「わたし」。そこでの人々との交流と神秘的体験は心に傷を持つ「私わたしに長く忘れ得ぬ記憶を残し、そして50年後の再訪による喪失と流転の合一は救済と得心へと結実する。美しい物語だ。
ウネさんによる、雨が降ると海から雨坊主がやってきて縁先にずらりと並んでおんおん泣くという話、あるいは小舟に乗るときは船霊(ふなだま)さんに手を合わせて無事をお願いするのだという話など、島に伝わる民俗学的な風習を読むのが愉しい。序盤からぼんやりと感じられた不穏な空気は、中盤にさしかかって平和な島に隠された廃仏毀釈の過酷な歴史が見え隠れし始めたところで腑に落ちる。中世哲学研究家の山内志朗氏による解説も、通時的な軸と共時的な軸をもとにして本書における神秘体験の本質を読み解いており、たいへんに面白い。

『飛ぶ孔雀』山尾悠子 文藝春秋
待ちに待った山尾作品。『歪み真珠』以来8年ぶりの新刊だが、連作長篇としては2003年の『ラピスラズリ』以来だから15年ぶりとなるのか。相変わらず一筋縄ではいかないが、そこが好い。相関図や作中の出来事を整理して何度も読み返す。しかし結局は藪の中となり、それが余韻となってまた再びページをめくりたくなってしまう。こうなると中毒みたいなものである。
「火を熾し難くなった世界」を舞台にした二つの中篇「飛ぶ孔雀」「不燃性について」は、カードの裏表の様に時に錯綜し時に重なり合って読者を迷わせる。不思議な街に蠢くおかしな人々や様々なメタファーも心地いい。

『竜のグリオールに絵を描いた男』ルーシャス・シェパード 竹書房文庫
ひとつの谷を覆いつくし何千年ものあいだ命を永らえてきた巨大な竜。その竜による暗く密かなる支配の波動は善悪や意志、そして現実と夢の境界を越え、そこに住む者たちに生きる意味を突きつける。年間ベストに入る傑作短篇集だった。表題作のほか「鱗狩人の美しき娘」「始祖の石」「嘘つきの館」の4つの中短篇が収録されているのだが、どれも違う味わいでなおかつ読み応え充分なものばかり。どれもが独創的かつ深い思弁性をもち甲乙つけ難く、そしてなぜか殊能将之を思い出した。

『漂流怪人・きだみのる』嵐山光三郎 小学館文庫
「きだみのる」とはどういう人物なのか。翻訳家にして詩人にして民俗学の実践者。パリ大学でモースに社会学と民族学を学び、モロッコを放浪したのち帰国して本名・山田吉彦名義でファーブル『昆虫記』を翻訳し、その後はフランス通信記者となって、戦後に映画化もされたベストセラー『気違い部落周游紀行』を書いた。アナキスト辻潤や宮嶋資夫らと親交があり、かつ満州の新京ホテルでアナキスト大杉栄を殺害した甘粕正彦からじきじきに情報部員になるよう依頼を受けたとうそぶく。全国各地に熱狂的な信奉者をもち、そしてあまりの自堕落さに疎まれる。抑圧と定住を嫌い自由と放浪を愛した。いや、愛したというより、それなくしては生きられなかった。ゴミと悪臭にまみれた部屋で知性あふれる文章を書きつづけ、行く先々でフリーラブを実践し、そして前歯が二本しかない。こんな人物ほかに見たことがない。そんな破天荒な人物の醜悪さと魅力を、若いころに担当編集者となった嵐山光三郎が思い出を中心にあますところなく描き出した一冊。

『異類婚姻譚』本谷有希子 講談社文庫
芥川賞を受賞した表題作のほか「トモ子のバウムクーヘン」「〈犬たち〉」「藁の夫」の全部で四つの短篇を収録。どれも現実と深淵のあわいを描いて幻想的かつスリリングだ。読後感の悪さも含め、海外小説好きにはお薦めの一冊だと思う。

『台湾生まれ 日本語育ち』温又柔 白水uブックス
台湾出身の両親のもとに生まれ、台湾人としての国籍を持ち3歳の時から日本で暮らしてきた著者が綴る、日本語と中国語と台湾語の間の半生。日本語を「国語」として育った著者の様々な思い。日本語と中国語と台湾語、あるいは外国人登録証明書とパスポートと台湾総統選挙通知表。ひとりの人にとって「国」とは何か。そして「外国人」とは。読み進むうち、大きなものは「国」の違いではなく、文化であり言葉の違いなのだと知る。好奇心の豊かさがこの本の面白さの源泉であり、著者の品のよさが最大の魅力である。この著者には侵略や迫害からくる萎縮の心は無いが、しかし思わぬところから突きつけられる「境界」による葛藤がある。突き詰めればそれは境界に住む全ての人にとっての、「自分」の物語となろう。

『三つの物語』フローベール 光文社古典新訳文庫
フローベールの最高作ともされ、舞台も時代とタッチも全く違う三つの物語が微妙に呼応し合う作品集。最初の「素朴なひと」で描かれる一人の女性の抑制が効いた物語も、最後の「ヘロディアス」で描かれる絢爛かつ腐敗に満ちた物語もそれなりに良かったが、なんといってもふたつめの作品である「聖ジュリアン伝」の純粋なまでの残酷さと救済の美しさに心奪われた。50ページ近くに亘る詳細な解説も読み応えがあって、フローベール初心者には良い一冊となった。


<既刊部門> ―古本・絶版とりまぜて今年自分が読んだ本―
『夢みる人びと』イサク・ディネセン 白水uブックス
《七つのゴシック物語》の第2巻で、表題作の他「エルシノーアの一夜」と「詩人」の計三作を収録。どれも読み応えのある物語ばかりで、一度もみたことのない名作映画を名画座で立て続けに観ているような贅沢感に浸りながら、隅から隅までじっくりと堪能した。ディネセンの作品がすごいのは、物語に登場していない時間も含めて世界が動いている感じかするところだと思う。だから主人公は思わぬ運命で翻弄されもするし、描かれている部分以上に物語に厚みがある。時間がかかるけど満足度は高い。いちどに沢山は読めないけれど、読めば必ず満腹になれる。

2018年12月の読了本

『温泉と城壁』北野勇作 惑星と口笛ブックス
〈北野勇作2本立て〉の第一弾。「路面電車で行く王宮と温泉の旅一泊二日」と「壁の中の街」の二つの短篇を収録。いずれの作品も、どことも知れぬ街の風物を描いた紀行文(のようなもの)だ。「◯◯ではない」という否定の積み重ねでしか表せない定義不能な物語なのだが、自分の感覚ではまさしくこれが「幻想小説」のど真ん中とも言える。筒井康隆「エロチック街道」からエロティックな部分を抜いたり、あるいは南條竹則『幻想秘湯巡り』の紀行と幻想の比率を逆転にするとこんな感じになるのかも。内田百間が好きな人にもおすすめだと思う。

『古本的思考』山口昌男 晶文社
後期山口の歴史人類学と古本に関する講演録とインタビューの記録、そしてあちこちに書いた小文をまとめたもの。全部で三部からなりいずれも「古本を通じて人脈を全部取り戻す、そういう過程を通じて枠組み(パラダイム)を作りながらまた古本を探し、探した古本のなかからまた新しい枠組みが出てくる、そういう関係」を追求している。
著者の後期を代表する著作である『「挫折」の昭和史』『「敗者」の精神史』『内田魯庵山脈』の歴史人類学三部作は、薩長支配から逃れて下野した旧幕の「敗者」たちが福島や静岡などで築いた独自の「知のネットワーク」を古本研究から解き明かしたもの。晩年になり再び古本熱が復活した著者により、こういった埋もれた記録を掘り起してゆく研究の面白さや、その過程で出会った古本の持つ魅力が熱く語られて読む者を飽きさせない。細かすぎてどうでも良いと思えるほどの詳細な知識や、まるで聞いたことのない人物のエピソードなど、知の迷宮の如き氏の活動の記録が甦ってくる。思わぬ名前がポンと飛び出して繋がったり、歴史の表舞台からは決して知ることの出来ない人脈が見えてくる過程はとてもスリリングだ。(たとえば尾形光琳の作風が漆芸をはじめとする京都、能登、富山などの工芸家を経て、アール・デコに至った可能性など考えたこともなかった。)
山名文夫、山中共古、石井研堂、田中智学、山中共古、林若樹、清水晴風、川喜田半泥子、勝野金政などなど、聞いたことがあるのも無いのも全部引っくるめて、個性的な面々の消息を読んでいるうち、「敗者」の自由と著者の喜びがひしひしと伝わってくる。「読む」というのはまさにはこういうことをいうのだろう。

『トリフィド時代』ウインダム 創元SF文庫
世界中の人々が緑の流星雨を眺めた後に突如訪れたカタストロフ。運良く難を逃れた主人公は、盲目となった人々が溢れ疫病が蔓延し、そしてトリフィドが跋扈する世界で生き残りをかけた戦いを始める……。
数十年前に旧版を読んだきりだったのだが、新訳版が出たのを機に読んでみたところ記憶にあった以上に良質な物語だった。『草の死』や『氷』や『エンジン・サマー』がそうであるように文学的であり、『宇宙戦争』や『日本アパッチ族』や『天体による永遠』がそうであるようにSF的である。極めて深い思弁性と物語としての面白さを兼ね備えた傑作であると断言したい。地味だとか古いとか思っていて申し訳なかった。
前半は『ロビンソン・クルーソー』のようなサバイバルもしくは「コージー・カタストロフ」物として読めるが、高い倫理観を持つが故に苦悩する人物を語り手とした内省物であり、語り口はロマンではなくあくまでもリアリズム。さらに『ヘンリー・ライクラフトの手記』のような格調性と文学性を獲得している。なお著者はたまたま高い倫理観を持つ人物を選んだわけではなく、「盲人の国では片目のものが王となる」という言葉からもわかるように、必然的に語り手を倫理観の高い人物に設定しなければならなかったのだろうと思う。とても英国的である。なお「生きのびるための暴力は是が非か」という問題関して『トリフィド時代』や『さなぎ』で答えたウインダムに対し、後の世代となるアメリカ人作家ハーラン・エリスンは全く違うアプローチの仕方をした。それをイギリスとアメリカの違いといってしまうとステレオタイプな考え方になってしまうかも知れないが、面白いことではある。
さらに後半になると、子供たちや人類の未来、文明の行く末という、まさに「SF文学しか気にしない」問題を取り上げることで、ウェルズの後継とでも呼べる作品に仕上がっている。トリフィドが被災者たちに対しては、長い苦しみから解放する「慈悲の鞭」であるとともに、人類にとっては復活への足枷であるという、絶妙な位置付けである事が徐々に明らかになるのには舌を巻いた。トリフィドが植物でありながら昆虫的「知性」をもっている(らしい)のも興味深い。また緑の流星雨と疫病が部分が都合良すぎると初読のときから思っていたのだが、まさかあんな意味だったとは。(すっかり忘れていた。)隅々まで隙のない物語である。
なお、その後行われた本書の読書会では、「トリフィドをいかにして食べるか」という話題で盛り上がった。作中に「食べられるが不味い」「家畜の餌」という記述があったが、きっとイギリス人は何でも煮てしまうからであって、食べようによってはきっとおいしいのではないかという意見が出た。トリフィド料理、魅力的である。刺身にして山葵醬油で食べたり、塩をまぶして水抜きすれば青臭さが抜けるのではないか?とか、ロシアで油を取るために品種改良された可能性もあるので、日本か中国ならきっと食用トリフィドを新しい品種で作るのではないかと。日本人は「木の根」でも食べるからトリフィドぐらいへっちゃらなのである。また中国人も四つ足はテーブル以外、二本足は両親以外は食べてしまうと言われているので同様にへっちゃらなのである。トリフィドは胡麻油でニンニクや唐辛子と一緒に炒めてもきっと美味しいに違いない。

『本・子ども・絵本』中川李枝子 文春文庫
『いやいやえん』や『ぐりとぐら』で有名な絵本作家による自伝エッセイ。自らの生い立ちから保育園の保育士としての17年間、そしてそのあいだ子どもたちと共に読んだ絵本についての記憶が綴られる。初版は1982年と古く、中で語られる教育理論は極めて伝統的なものなのでジェンダー論を知ったうえで読むと若干「?」と思う点が無くもないが、本の思い出や子どもたちとの触れ合いについて書かれた文章は文句なく面白い。なかでも「岩波少年文庫と私」と「子どもの世界」は非常に好かった。(また「私と本との出会い」の章にあった「戦争前の子どもの本は私が買ってもらった『野口雨情少年詩集』とはくらべものにならないほど紙も印刷も上等、表紙もぜいたくで、さし絵がふんだんに入っていました」という文章には心を打たれた。戦争が人を幸せにすることは絶対にない。)
読んでいて思ったことだが、題名にある「本」とは親や兄妹と一緒に夢中になった本のことを、「子ども」とは自分が勤めていたみどり保育園で出会った子供達と彼らの成長を見守る大人たちのあるべき姿を、そして「絵本」とは園児たちと一緒に楽しみ、やがて自分でも創り出すことになった「読書の入り口」であり「人生の入り口」でもある物語のことを意味するのだろう。なにしろ紹介される本がどれも魅力的で、『ちいさなねこ』や『いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう』、『三びきのやぎのがらがらどん』といった本を改めて読みたくなってきた。

『血みどろ臓物ハイスクール』キャシー・アッカー 河出文庫
これは何というか、内容を説明するのは無理だ。例えばデュシャンの「大ガラス」やエルンスト『百頭女』のように、あるものをそのまま感じ取るしかない。言葉で表現されているのに感じ取るしか無いというのは初めての経験でとても興味深い。ストーリーはあって無いようなものだが、「父親とどろどろの関係を結んでいる十歳の娘がアメリカのハイスクールで倫理的な問題を起こした挙句に海外へと連れ去られ、ありとあらゆる責め苦を味わったのち生死を超越した神話的世界へと消えてゆく(ような)話……」と書いているそばから違う気がしてくるが、ともかくそんな話だ。とことん下品で直裁的な表現を用いつつ、象徴的で本質的なものを読者に体験させようとしているように見える。著者はこの世のあらゆる罪を背負わされた「女」という存在から、本来不可分であるべき女性性をすべて剥ぎ取って、負であることのみをジェイニーという少女に全て飲み込ませてしまう。(ただしジェイニーはそんなことでへこたれるようなタマではないのだが。) デビューしたてのころの高橋源一郎が『さようなら、ギャングたち』や『ジョン・レノンvs火星人』でみせた悪趣味と真摯さを100倍もエスカレートさせて、そこに考え得る限りの下品さをぶち込んだ、そんな作品と言える。舞城王太郎をさらにえげつなくした感じといってもいいかもしれない。カーター大統領やジャン・ジュネがそのままの役回りで出てきたりするのも実験的であり、思えばそれが前述の高橋源一郎作品を連想させる理由のひとつなのかも知れない。 これまでに経験したことのない稀有な読書体験だった。参りました。なお、挿絵がかなりアレなので、電車の中で読むときには注意した方がいいと思う。

『トランクの中に行った双子』ショーニン・マグワイア 元推理文庫
『不思議の国の少女たち』のシリーズの2作目で、前作の前日譚にあたる。双子の姉妹ジャクリーン(ジャック)とジリアン(ジル)がいかにあちらの世界へと赴きこの世へ帰ってきたかを描くが、前作同様に甘くはない。個人的には前作よりこちらの方が面白かった。「扉」が象徴する世界の秩序が仄めかされていて、素材はファンタジーだがつくりはゼラズニイ『虚ろなる十月の夜に』がSFであるのと同じ意味でSFといっても良いだろう。次はまた一作目と同じ舞台に戻るようだが、本作の直接の続きをさらに読んでみたい気もする。

『どこに転がっていくの、林檎ちゃん』レオ・ペルッツ ちくま文庫
第一次世界大戦時にロシアの捕虜収容所で受けた理不尽な行為に対し、解放後にロシアへと舞い戻って収容所の責任者セリュコフに復讐しようと企てる男。当時の流行歌のようにどこに転がっていくか予想もつかない二年間の旅は、思いがけない運命を彼に招き寄せる……。
ペルッツを日本人作家にたとえるなら、自分の場合は山田風太郎にイメージがだぶるのだが、本書には幻想味が殆どなくイメージがかなり違っていた。(いや『おれは不知火』や『明治波濤歌』あたりならそうでもないか。)ドン・キホーテばりに偏執的な主人公と、停滞していると思うと突然動き出す緩急激しい展開はとても面白く、発表当時ベストセラーになったというのもなるほど頷ける。ただし自分にとってのベストはあくまでも『夜毎に石の橋の下で』や『スウェーデンの騎士』であることに変わりはない。ペルッツに魔術的なものを求めてしまうのはぜいたくなのだろうか。

『現代の地獄への旅』ディーノ・ブッツァーティ 東宣出版
中後期の作品を中心に切れ味がいい十四のショートショートと、八つの章からなる中篇を収録した日本オリジナル作品集の二冊目。変幻自在の語り口で幻想的かつ残酷で憂愁に満ちた物語が語られ、冒頭から最後の作品までしっかりと愉しめた。百鬼園先生のように、作者自身が主人公となっている作品が表題作の中篇をはじめ幾つか収録されているが、その中でも白眉は「庭の瘤」ではないかと思う。特に好みだったのは「卵」「自然の魔力」「庭の瘤」だが、「十八番ホール」「キルケー」や表題作の中の「加速」や「片付けの日」や「庭」も強烈だった。もしかして「甘美な夜」や「目には目を」に見られるような底意地の悪さが著者の真骨頂ではないかという気もする。思えば『タタール人の砂漠』も『七人の使者』も底意地の悪さではかなりなものだった。次回の第三集も楽しみである。

『怖い短歌』倉阪鬼一郎 幻冬社新書
古今東西の歌人の作品から「暗黒短歌」ばかりを集め、テーマ別に紹介・解説したアンソロジー。非常に労作である。短歌に歌われている内容を鑑賞するとともに、その短歌を選んだ選者のセンスを確かめ味うことができ、一冊で何度も楽しめる本だ。たとえば「吸血鬼よる年波の悲哀からあつらえたごく特殊な自殺機」(高柳蕗子)という歌に著者は「おのれの心臓に杭を打ちこむ特殊な自殺機械」を想像しているが、これはきっとヴィアンの夢想した「心臓抜き」に違いないと思う。いや自分的にはぜひそうであってほしい。とまあ、こんな風に読んでいくとやたら時間がかかるのが特徴でもある。(笑)
一応章立てになってはいるが、個々の章では「代表作」を詠んだ歌人の作品を、他のテーマに属する歌も含めて一度に紹介しているのでどこから読んでも支障はないと思う。(ただ同じ作者の歌は傾向が似ているので、通して読むとやはりテーマ別の感じはしてくる。) 個人的に好きな章は第3章「向こうから来るもの」や第8章「奇想の恐怖」あたりだったのがいかにも自分らしい。新しく知った歌人では林和清(かずきよ)、伊舎堂仁(いしゃどうひとし)、前川佐美雄(さみお)、中城ふみ子、杉原一司(かずし)、高柳蕗子、笹公人(ささきみひと)といった人の歌が大変面白くて収穫だった。怪奇幻想を好む読者にはおすすめの一冊だと思う。 大晦日に読むのによい本だった。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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