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2018年7月の読了本

今月は全然読めなかった。次月こそは盆休みもあるしたくさん読みたい。読めないとストレス解消に買ってしまうので溜まる一方である。

『オレって老人?』南伸坊 ちくま文庫
ご存知シンボー氏による、「老い」をテーマにした面白エッセイ。色々なところに発表した文章なので年代はばらばらだが、およそ50代後半から70までの心境や身体の変化について、ユニークでそのうえ妙に納得出来る話が詰まっている。「現在百五十七才の老人からみたら、私もまだまだガキだろうし、ハナタレ小僧であろう。」なんてくだりにはつい声を出して笑ってしまう。南伸坊氏のエッセイには赤瀬川原平氏と同じニオイがあるのだが、これが美学校の空気というものなんだろうか。
それにしてもこういう年の取り方は良いなあ。偏屈だったり変に威張っている老人もいるけど、どうせ体にあちこちガタがくるなら不機嫌よりも、にこやかな方がいい。そして「おじいちゃん、また本を買ってきたの!?」といわれてエヘヘと笑うのだ。そうなると積読だろうがダブりだろうが怖くない。
は、もしかしてオレって老人?

『お供え』吉田知子 講談社文芸文庫
七篇を収録する短篇集で、表題作は第19回の川端康成文学賞を受賞。全体の印象をざっくりいうと、山尾悠子のような幻想味と今村夏子のような不気味さを併せ持ったような作風とでもいえばよいだろうか。とても自分好み。アンソロジーを除くと現在文庫で読める作品集がこれしか無いのはつらい。以下、個別の作品について少しふれてみる。
「祇樹院」「迷蕨」は、二篇とも一度も来たことが無い場所の記憶が蘇ってくるのが恐ろしい。夢野久作『ドグラ・マグラ』とか折口信夫『死者の書』などもそうだけど、記憶とか認知の歪みの話はぞっとするのが多い。なにが怖いかといって、自分の感覚が信用できないのがいちばん怖いと思う。
「門」は屋敷の中で迷う描写がとても愉しい。少し余談になるが屋敷(日本家屋)が面白い話というと、筒井康隆「遠い座敷」などが思い浮かぶ。西洋の場合は屋敷ではなくて「館」になるが、屋敷と館の怖さの違いは何かと考えるに、館では部屋が廊下で繋がる形になっていて個々が独立しており、いっぽうの屋敷では部屋同士が襖で仕切られている点ではないかと思う。洋館の場合、ドアを閉めると部屋が外部と隔絶される結界となるので安心感が生まれる代わりに、万が一閉じ込められた時の恐怖も半端ではない。一方の座敷の場合は閉じ込められることはないが、その代わりに外から容易に侵入される恐怖、あるいは地つづきでどこまでも追いかけられる恐怖というのはある。つまり「閉じた怖さ」と「開いた怖さ」ではないかと思うのだ。ちなみに洋館で日本家屋に近い恐怖を味わう場所があるとしたら、廊下ではないかと思う。(例えばキングの『シャイニング』など。)
閑話休題。収録作の続きを。「海梯」はすらすらと読み進むうちに突然ざらりとした違和感があって、世界の位相が切り替わる感じが怖い。表題作「お供え」は徐々にエスカレートしてゆく世界の歪みがどこかの時点で不可逆点を越える、いわゆる「やばい」話である。
「逆旅(げきりょ)」は語り手の歪さが徐々に見えてくるにつれて不気味さが増してきて、どことなく今村夏子を連想した。そして「艮(うしとら)」は唯一男性が主人公の作品。暴力的かつ破滅的な展開はいっそ分かり易く、いちばん「まとも」にさえ思える。
以上、七作品を通して読んでみて、明確にホラーとして読めるのは冒頭の「祇樹院」とラストの「艮」かと思うが、「お供え」や「逆旅」のようにもやもやした感じが後を引くのも決して悪くない。特に好みなのは「迷蕨」「門」「海梯」あたり。著者の作品群はいずれも幻想怪奇に属するものであるといえる。雰囲気で読ませる小説なのに、視覚的な描写に優れているのが珍しいと思う。もっと読んでみたいものだ。

『ヒトラーとUFO』篠田航一 平凡社新書
新聞社のドイツ特派員を務めた著者による、ドイツ各地に伝わる有名な都市伝説や噂話を地元の識者へのインタビューとともに紹介した本。馬鹿げた話から、なるほどと思わず感心してしまう(信じるとは言ってない)話まで、様々な噂話が出てくる。ブティックの試着室から女性が消える「オルレアンの噂」や駐留米兵が目撃した人狼のような生物など盛り沢山で、軽い読み物だが比較文化の実例集のようでもある。表題は根強く残るヒトラー生き延び説と宇宙人来訪説から。他に日本でも類話が知られている「消えた乗客」の話や、あるいはフリーメーソンの陰謀説など有名な話が多いので親しみが湧く。面白かったのはドイツ西部の地方都市ビーレフェルトが、実は存在しない架空の都市だという都市伝説。絶妙に存在感が薄い都市だというのがまたいい。(日本だと自分が住んでいる名古屋みたいな感じかも知れない。)噂話の根底にあるのは、新しいものやよく知らない相手に対する不安だったりするのだろう。(ところでアメリカ大統領が宇宙人と接触しているという都市伝説は、トランプ大統領の出現によってトドメをさされたのではないか。彼やその取り巻きが黙っていられるわけがないから。)

『日本沈没(上/下)』小松左京 小学館文庫
ハードSFであり政治小説であり災害パニック小説でもある日本SFの金字塔的作品。昔は「日本が沈む」というイメージばかりに目がいっていたが、改めて読み直してみると、国家と国民の行く末に焦点をあてた極めて社会性・思弁性の高い小説だった。力作である。深海艇わだつみが日本海溝の底で出逢った驚くべき光景や日本列島が大地震とともに沈んでゆく様子が圧倒的な筆力で描かれておりとにかく凄まじい。著者は未知との遭遇の場面を描くのが上手いと思う。『さよならジュピター』では木星でのジュピターゴーストとの邂逅もそうだったが、まるで眼前にあるかの如く、解らないものを解らないまま描けるのが素晴らしい。災害のシーンなども主人公たちが不在のまま、何ページにもわたり淡々と書かれているのが却って恐ろしさを増している。やはりSFは人ではなく世界そのものを描く小説であるというのは、正しいのかも知れない。(ただ、ときおり挿入される、ホステスや愛人との取ってつけたようなロマンスは、いかにも昔の中間小説を思わせて少し気恥ずかしかった/笑い。)
小松左京はSFを書いてるけれど、SFでしか書けないものを(と思って)書いてるけれど、実は人間を書きたいのだ。本書もその点は同じで非常に熱い。献辞にある「すべて"大いなるもの"に立ちむかいつつある人々へ」という言葉を読むと、デビュー作の「地には平和を」や『果てしなき流れの果に』から希求するものが変わっていない気がする。大いなる自然を前にしてあまりにも無力な存在である人間が、それでも抗おうとする姿こそが、小松左京がその創作活動を通じて一貫して描こうとし続けたものであったに違いないのだ。(だから自分にとって人間ドラマとしても開高健『日本三文オペラ』のオマージュとしても、小松作品の最高作は『日本アパッチ族』なわけだが。)
話を『日本沈没』に戻そう。
そもそも小松左京の長篇は、綿密な準備に基づく書き込みで圧倒されるが基本的には思考実験なので、ドラマとしての面白さとSFとしての面白さが少しずれているように自分には感じられる。 (一方で短篇の場合は、力技で一気に押し込んだ切れ味鋭い作品が多い。)そういう意味では、『日本沈没』も先述のように驚異的なシミュレーションによる具体的で迫真性の高い描写と、日本と云う国とその国民の行く末に目を向けさえすればドラマとしての多少の欠点には目をつぶってもいいのかもしれない。
長くなってしまったが、最後にひとつだけ付け加えておきたい。『日本沈没』で描かれる政治家の振る舞いがいずれも素晴らしくて泣けるのだが、どこかで見覚えがあるとおもったら映画『シン・ゴジラ』だった。あの話は日本が沈まなかった『日本沈没』だったのだろう。

『パイドロス』プラトン 岩波文庫
弁論家リュシアスによる〈恋〉に関する論述をきっかけにして、ソクラテスと若者パイドロスが不死なる魂の求める真実性と、「知を愛する」ための技術としての弁論術のあるべき姿について語る対話篇の一冊。川辺で語る二人が気持ちよさそう。ところで本書では「自分を恋する者に身を委ねるか、それとも恋していないものと親密になるべきか」について議論がなされるのだが、ここで前提になっているのは壮年男性による少年愛。時代や場所が変われば「常識」も変わるのだ。

『真珠郎』横溝正史 角川文庫
金田一耕助とともに著者を代表する探偵キャラ由利麟太郎が活躍するシリーズ。妖艶で残酷な殺人鬼・真珠郎が一読忘れがたい印象を残す。横溝作品は視覚的イメージ豊かなものが多いが、本作も乱舞する蛍の中に佇む真珠郎や暗闇の洞窟など美しさと怖さの対比が巧い。『八つ墓村』のような冒険あり、『本陣殺人事件』のような凄惨あり、そして『犬神家の一族』のような耽美あり。思っていたよりかなり面白くて、もっと早くに読めばよかった。

『奪われた家/天国の扉』コルタサル 光文社古典新訳文庫
著者の実質的デビュー作にあたる『動物寓話集』を全訳したもので、現実と幻想と奇妙さが入り混じる八短篇を収録。 特に気に入ったのは表題二作と、「パリへ発った婦人宛ての手紙」「バス」。
「遥かな女」では訳者・寺尾隆吉氏による入魂の回文やアナグラムがすごかった。原著の雰囲気を残しつついかに他言語に置き換えるかという取り組みは、渡辺一夫氏による『ガルガンチュワ』『パンタグリュエル』や柳瀬尚紀氏による『フィネガンズ・ウェイク』を思い出させて大変に面白い。
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2018年6月の読了本

6月は全部で11冊。土日に用事が入るとなかなか本を読むことが出来ない。
2か月またいでしまったので先月簡単にしか触れなかった『人間とはなにか』について、お約束通り上下巻あわせて書いてみた。

『人間とはなにか(上下)』マイケル・S・ガザニガ ちくま学芸文庫
認知神経科学の権威が、人間をユニークたらしめている点、あるいは人間を地球上で唯一無二の存在たらしめている点について、他の動物と人間の脳のはたらきに焦点を当てて生物学や心理学、医学や言語学など様々な角度から考察した本。上巻では脳の大きさや構造、発達心理学や言語、父系制と攻撃性、社会集団の形成と倫理、情動と共感能力などについて取り上げられ、下巻では芸術や美や、右脳と左脳の役割の違い、自己意識や知性などについて語られていて、結構たっぷりな内容である引用される先行研究も、リチャード・ランガムからアントニオ・ダマシオまで非常に幅広い。以下、かいつまんで中身を紹介してみよう。
たとえば人間とチンパンジーの「父系制」と雄の暴力性について語られた章ではランガムからの引用で、「人間とチンパンジーの攻撃性を引き起こす情動はプライド」「全盛期のチンパンジーのオスは、何をするにしても自分の地位に基づく」「すべての行為の目的はボスになることだ」 などなど、まるでどこかの国の政治家のような話が展開される。しかしその一方で人類は「互恵的な社会的交換」を長続きさせるため、「行動をしばらく抑制する」(=満足感を得るのを先送りする)能力と、「互恵的交換でごまかしをする者を罰する」能力という二つの能力を進化させてきたとのこと。これらは人間ならではの能力の例なのだそうだ。
次は芸術と美について。ナンシー・エイキンによれば、芸術とは①作品を生み出す芸術家、②作品自体、③作品の鑑賞者、④作品に鑑賞者が付与する価値、の四つの要素からなるものだそうだ。なんとなく同意できる内容ではある。またレイバー、シュワルツ、ウィンキールマンら3人の心理学者は「美」を美的な心地よさと定義し、知覚する者の処理ダイナミクスによるものであると神経科学の立場から主張しているそうだ。知覚する者が対象の心的な処理を滑らかに行えるほど美的反応がポジティブになるとのこと。なにを読んでも何となく納得してしまうのが面白い。またニコラス・ハンフリーによれば、「自然や芸術における美しい"構造"とは、事物の間にある"分類学的な"関係の証拠を、有益で理解しやすいかたちで示すことで(生物が自らの)分類作業を容易にするもの」だと結論付けている。してみると、美のパターン認識とは恐怖の感情等に起因する「ソマティック・マーカー仮説」に似たところがあるのかもしれない。
E.O.ウィルソンは著書『バイオフィリア』で「生物と生物でないものを見分け自発的に他の生物に関心をいだく生得的な傾向」について述べた。これは人間だけでなく動物にも共通の特徴といえる。しかし観察不可能な力に対して推論し、因果関係を説明しようとするのは唯一人間だけであるとも。たとえば疾病により左右の脳が分離した患者に対するテストの結果、右脳にだけ例えば「笑え」と指示を出すと、左脳は突然笑い出したことの適当な理由をでっち上げてしまうらし。知覚や情動に優位な右脳と、事象を解釈することに長けた左脳。人間はこれら二つの脳を使い分けながら、課題に優位な半球が主導権を握ることで問題解決を図るのだ。ふうむといった言葉しかでない。感心しながら読み進む。
自己意識について考察する章では、自己意識の有無を調べるのに、その論拠をエピソード記憶(=自分の経験に関する記憶)の実験で確かめようとする話がでてきて思わず唸った。さすがに実験心理学の人は頭がいい。ただ、人間以外の動物に自己意識があるかどうか結論が出ていないので、これが人間固有の特徴なのかどうかは判らないようだ。結論にはちょっと拍子抜けしたが、それはまあ致し方ないだろうと思う。知性の本質についての章では、AIとの比較を通じて検討を行うが、ジェフ・ホーキンスによる「記憶による予測説」というのを紹介していてたいへん面白かった。脳は外界からの入力に基づいて「計算」しているのではなく、膨大な量の記憶から合致するものを探して次に必要な行動を「予測」するのだそう。
以上、様々な角度から「人間とはなにか」について考察したようすをざっくりと紹介してみた。まるでデパートのように色々な話題が取り上げられているが、人間の脳のはたらきを調べるにはまさか侵襲検査をするわけにもいかないので、fMRIを使用したり、先天的な欠損を持つ人と健常な人との比較を行って調べた結果が中心になる。当然ながらなかなか「これだ!」という結論は出しにくいわけだが、読み終わると、人として生きることについて少し真摯になれるような気がする。そんな本である。

『新・繪釋夷蘇府(しん・ゑどきいそつぷ)』塚本邦雄[詞]/望月通陽[繪] 花曜社
旧仮名遣いで綴られた塚本版イソップ寓話に、まるでラスコー洞窟の壁画のような綺麗な挿画が添えられた美しい本。ページを開くと禽獣草木や農民猟師の、諧謔皮肉の効いた物語が目の前に次々と広がる。ひとつひとつはさらりと読めて、教訓はあるのかないのかよく分からないが(笑)、あとに残るビターな味わいがいい。オーウェル『動物農場』もそうだけれど、寓話は説教じみたものよりちょっと残酷な方が好い。

『里山奇談 めぐりゆく物語』coco/日高ともきち/玉川数 角川書店
こわい話に沁みる話、不思議な話など、人々が山と里で体験した出来事を聞き語りでまとめた『里山奇談』の第二集。「みちしるべ」「たずねびと」「牧場の怪」などは本当に怖いが、一方では「祖母の話」「はじまりの音」などはしみじみと好い。この本で良いのは変に脅かそうと構えたりせず、ニュートラルな姿勢に徹しているところ。著者が「生き物屋」の方たちゆえに山や里の自然への敬意をもち、あるがままに受け入れているからこそに違いない。タイプは違うが、いずれの話も読む者の心深くに分け入ってくる。それはきっと心開いているものにしか見えない世界を描いているからなのだろう。里山が自然と人界をつなぐ入口となっていることと関係しているのかも知れない。お薦めの本である。

『僕僕先生 恋せよ魂魄』仁木英之 新潮文庫
日本ファンタジーノベル大賞を受賞した人気作の第9巻で今回は「別れ」がテーマ。『僕僕先生』は今でも読み続けている数少ないシリーズのひとつ。自分は普段は本をキャラクターでは読まないのだがこのシリーズだけは別で、登場人物の想いについつい引き込まれて可笑しかったりつらかったりする物語を読み進むうちに、いつのまにか心のバランスがとれて楽になっている。じわじわと効いてくるのが、漢方や整体を施されているみたいでなんだか楽しい。まさに「読むクスリ」だ。

『眠る石 綺譚十五夜』中野美代子 日本文芸社
中国文学研究で知られる著者による幻想譚。七世紀の中央アジアや九世紀のジャワ、もしくは十六世紀のロンドンから二十世紀のアンコール・ワットまで古今東西さまざまな場所を巡って、そこに刻まれた過去の記憶を今に蘇らせる。そこに見えるは無常の影なのだろうか。カルヴィーノ『マルコポーロの見えない都市』や澁澤龍彦『高丘親王航海記』などが好きな人にはお薦めだと思う。中野美代子氏はこれまで『孫悟空の誕生』などの学術系の本しか読んでなかったのだけれど、創作もなかなかどうして。とても面白かった。同趣向の本らしい『ゼノンの時計』もぜひ読んでみたい。

『翻訳ってなんだろう?』鴻巣友季子 ちくまプリマー新書
文化センターで行われた翻訳講座をもとにして著者の翻訳論を紹介した本で、単なる「英文和訳」ではない「翻訳」の魅力を説明するため、有名な文学作品10作の一部を実際に訳しながら進んでいく。取り上げられるテキストも『赤毛のアン』『嵐が丘』『高慢と偏見』など有名なものばかりで親しみやすい。(ただ、取り上げられた作品で自分の守備範疇なのはキャロル『不思議の国のアリス』、ポー「アッシャー家の崩壊」の2作品ぐらいだったのが少し残念だった。趣味丸出しで申し訳ないが個人的にはブラックウッドやブラム・ストーカー、メアリー・シェリーなどもテキストに選んでもらえるともっと良かったとおもう。)
たとえば『嵐が丘』では人称を様々に変えて全体の印象がどう変わるかを試しているのだが、その中でヒースクリフとキャサリンの会話を関西弁で訳したのが滅法面白かった。
「これで、ようやっとあんさんのえげつなさがわかったで。つれのうて、うそばっかりや。」
文学作品を実際に訳してみると言葉の選び方による微妙なニュアンスの違いがよく判り、翻訳の面白さと難しさが見えてくるのだ。なお自分は普段は紙の書籍派なのだが、この本に限って言えば紙の書籍より電子書籍の方が向いていると思う。単語の意味を調べるのに電子書籍の方が圧倒的に便利だ。

『異妖新篇』岡本綺堂 中公文庫
〈岡本綺堂読物集〉の第六集。怪談とも探偵小説とも判然としない味わいの十短篇のほか、附録として「S君の話」「綺堂夜話」の二篇が収録されている。集中で好きな作品は、特に怖さが際立つ「西瓜」「くろん坊」「妖婆」の三つ。包みの中の西瓜が女の生首に変じたという古文書の記録をめぐる怪談「西瓜」など、基本的に怪異の原因について説明は無いのだが、そこがいい。ラフカディオ・ハーンの「茶碗の中」を引き合いに出すまでもなく、意味のない異変というのが一等怖いのだ。
話は変わるが綺堂の場合、ある場所を訪れた他所者がその土地や人にまつわる曰く因縁についての話を聞くというものが多いように思う。本書を読んでいてもしかして能のフレームじゃなかろうかと気がついた。懐かしい感じがするのは、そのせいもあるかも知れない。

『増補 健康半分』赤瀬川原平 デコ
本の存在自体を知らなかったのだが、古本市で見かけて購入。元は病院の待合室に置く小冊子『からころ』に「病気よ窓」という題名で連載されていたものだそうだ。絶筆となった「頭に広がる謎の答え」も収録され、解説は編集者の松田哲夫氏。古書とはいえ出会えて良かった。本書を読むと、赤瀬川氏は歳をとって肩の力がさらに抜け、老人力から健康半分へと進化したようだ。 「人には好きなものと嫌いなものとあるが、その『好き』の方が先に出る人と『嫌い』の方が先に出る人といるのではないか。」「人生も押し迫ってくると、『好き』が強いお人好しタイプの方が楽な気がする。」とてもいいなあ。

『キリストの身体』岡田温司 中公新書
キリスト教世界で様々な変奏を重ねながら表されてきたキリストの図像に関する解説書。第Ⅰ章「美しいキリスト、醜いキリスト」から第Ⅴ章「愛の傷」まで、肖像やイコン、聖体や聖痕、受難の傷や心臓が持つ意味が、多くの図像を用いて解りやすく語られる。
その容姿が伝えられていないナザレのイエスは、それ故に西洋の人々の宗教観と美意識を映し出す鏡となってきた。美と醜、二つのイメージを揺れ動くナザレのイエス。第Ⅰ章ではこれまで様々に語られ描かれてきたイエスの姿を通じて、キリスト教的な世界観を指し示している。光輝く美しいキリストと虐げられ痛めつけられた醜いキリスト。二つの異なるイメージが特徴的な信仰は、偶像への愛着と嫌悪という、相反する感情ないし態度を表しているのだ。なおこのようなあり方を偶像崇拝とも偶像破壊とも区別する意味で「イコノクラッシュ」と呼ぶことがあるそうだ。偶像破壊論者に対するイコン擁護の論説を読んでいると、密教における観想と仏像の関係につながっていくようで面白い。
つづく第Ⅱ章ではパンとワインがキリストの血と肉になることについて考察される、これまた面白い。最後の晩餐でイエスは自らをなぞらえたパンと血を弟子達に供した。この晩餐の起源はユダヤ教の過越の祝いの食事(セデル)にあるのではないかとのこと。食卓で小さくちぎって横に除けられる「アフィコメン」という種なしパンには、「到来するもの」という意味も含まれているという。やがて12世紀になると聖別されたパンとワインすなわち聖体の拝領を通じて教会は共同体として一体化し、「キリストの神秘体」と同一であるとみなされることになる。こうして聖体そのものが崇拝の対象として扱われるようになっていくのだ。
そんなに厚くない本なのに情報量が多くて読むのにすこし時間がかかる。この著者の本、中公新書で他にもいろいろ出ているがどれもハズレなしというのがすごいよね。

『タイタンの妖女』カート・ヴォネガット・ジュニア ハヤカワ文庫
SFという枠を超えてアメリカ文学を代表する存在となった著者の初期代表作のひとつ。登場人たちをみまう滑稽かつ残酷な運命の物語は、苦しくて皮肉だが諦観とは違う、宥しと愛情に溢れた人生を描いて秀逸である。読書会の課題本ということで久しぶりに再読したが、印象はまったく変わらなかった。やはり著者の中で一番好きな作品だ。
読書会の時に「読みにくかった」という声を聞いたのだが、自分はそんな印象はなかったので少し意外だった。そういわれてみるとたしかにヴォネガットの文章には一種独特な仰々しさというか、まだるっこしさみたいなものがある。(村上春樹や高橋源一郎が影響を受けたというのも、さもありなん。)でもこれは基本的に「慣れ」なのではないだろうか。読み慣れるとそれなりに心地よさを感じてしまう、そんな中毒性があるのがヴォネガットの文体ではないかと思うのだ。
実をいうと〈徹底的に無関心な神の教会〉についてはすっかりその存在を忘れてしまっていたのが、宗教(とくにキリスト教教会)に対する皮肉がかなり効いていて好かった。(ボコノン教よりも好きかも知れない。)
本書は登場人物がことごとく不幸に見舞われる救いようのない物語なわけだが、そんな中でも「かりちゃった、あ、テント」のような戯れ歌や、水星のシーンやラストの雪のシーンなどのリリカルな描写が奇跡のように心に残る。どんなにつらく理不尽な運命であっても心に救いはあるという、まるでバカボンパパの「これでいいのだ」のような全肯定感こそが本書の魅力ではないだろうか。ヴォネガットはアイロニカルではあるけれどシニカルではないのだ。やはり傑作と感じた次第である。
余談だが、時間等曲率漏斗に囚われて全時間を知るラムフォードに、はたして自由意志はあるのか?ということを考えると、SFファンとしてはシルヴァーバーグ『確率人間』(ミステリファンなら山口雅也『奇遇』?)を思い出す。もしかしたら本書の登場人物の中で最も不幸なのはラムフォードなのかも知れない。以上、読書会でラムフォードを目の仇のようにする意見があったのでちょっとつけたし。

『かもめのジョナサン【完成版】』リチャード・バック 新潮社
かつて大ベストセラーになった寓話に数十年ぶりに最終章が加わったもの。以前はキリストや仏陀のような解脱者の雰囲気が漂う終わり方だったが、追加された第4章では後の世代による神格化と再発見が描かれる。なるほどという感じ。惜しむらくは五木寛之氏による訳が、国重純二氏と菅野楽章氏による元の訳を「自由に」変えてしまったものだということ。ご本人は「創訳」と呼んでいるが、いわゆる「超訳」と同じようなものであろう。『イリュージョン』の作者による神秘化の否定の物語を、出来れば手を入れない訳で読みたかった。

2018年5月の読了本

『マニエリスム談義』高山宏×巽孝之 彩流社
「学魔」高山宏氏とアメリカ文学史の碩学である巽孝之氏による対談集。グスタフ・ルネ・ホッケが広げたマニエリスムの視点から、アメリカン・マニエリスムと呼ばれる文学作品の流れについて、ポーやメルヴィル、ピンチョンまでをいわゆる「英米文学論」の枠を遥かに超えて楽しく語り尽くす。キーワードは「見方の快楽主義」。そう、マニエリスムとは見方をずらすことで得られる快楽であり、それによってレトリックやピクチャレスクといった幅広い概念が統一されてゆく。軽い読み口だが結構深い。巻末には本編とは別に、ユリイカの2015年3月臨時増刊号『150年目の「不思議の国のアリス」』に掲載された両氏による対談「『不思議の国のアリス』と/のアメリカニズム」が特別収録されているのも良かった。
本書を愉しむには少し前知識があった方が良いかもしれない。「マニエリスム」とは元々は美術用語であり、イタリアルネッサンス後期の作品に見られる傾向を指す言葉。技巧的/作為的で素直な写実でない構図や、何らかの意図を加えた表徴が特徴なのだが、のちにグスタフ・ルネ・ホッケが著書『迷宮としての世界』においてシュールレアリスム等を含むもっと広い概念として展開した。ホッケはさらに絵画だけでなく文学のジャンルにもその概念を敷衍し、全く別の概念を借りて人工的な世界を作り出した小説(例えばSF)なども「マニエリスムの文学」として定義した。(ここまでくると最初の面影はまったくない。)日本では種村季弘氏、高山宏氏、若桑みどり氏らにより紹介され、美術史や欧州文学を中心とした研究が進んでいる。また「アメリカン・マニエリスム」とは、アメリカ文学の潮流をマニエリスムの観点から捉え直そうとする運動のこと。対象としては先述のエドガー・アラン・ポーやメルヴィルなどが挙げられる。
とまあ、背景についてざっくりと書いてみたけど、自分もそんなに詳しいわけではないのだ(笑)。読んでいると知らない研究者や書名が次から次へ出てくるけど、取り敢えずそのあたりはさらりと流しながら2人の会話を愉しめば良いのではないかと思う。
内容は結構刺激的だ。例えばポーの書いた探偵小説論においては、「統一性/unity」「多様性/variety」「独創性/originality」が三大原理とされているが、これは彼自身が編集者として腕をふるった「雑誌」の構成理論であり、そしてまた丸ごとマニエリスムの定義でもピクチャレスクの定義でもあるとのこと。フランス語でmagasin(マガザン)とは倉庫のことであり、さらにこれはドイツ語で言うところのヴンダーカンマー(驚異の部屋)に近い。
高山氏「だからポーの文学を見て、目がチラチラするとか言う人間はおかしいんだよ。何か変な展覧会見て目がチラチラするのと同じレベルの問題だからね。」「ゴシックはマニエリスムの最俗悪の部分を集めちゃった世界でしょう。一番世俗的に受ける、貴族趣味から落っこちてきた最悪の部分を全部ガラクタのように集めちゃった。」
うーん、面白い。中で冗談めかして書かれている「高山宏:本文訳、巽孝之:脚註訳の『白鯨』と『詳注 エドガー・アラン・ポー小説集』」はぜひ読んでみたい。実現してほしいものだ。
第二章は「ピクチャレスク・アメリカ」と称して、カント以来の造園術が織りなすピクチャレスクの伝統として、ポーの「アルンハイムの地所」における〈第二の自然〉やJ・G・バラードの「テクノロジカル・ランドスケープ」、W・ギブスンの「電脳空間(サイバースペース)」を捉え直したりして、これまた大変に面白い。
fact(事実)とfiction(創作)は語源的には区別がないとか、amazing(驚き)の中にはmaze(迷路)があるとか、何気ない言葉の端々に刺激を受ける。フーコーの『言葉と物』も読みたくなってくるし、いい本は次々に本を呼ぶのだなあ。

『ケンジントン公園のピーター・パン』バリー 光文社古典新訳文庫
ピーター・パンといえばアニメにもなった『ピーターとウェンディ』があまりにも有名だが、本書はそれに先立って作者バリーが小説『白い小鳥』の中で初めて語ったピーター・パンの物語だ。もとは語り手の男性がディヴィドという少年と一緒に、ケンジントン公園を舞台にした鳥や妖精たちの不思議な物語を作り上げるという「話中話」なのだが、本書はその部分だけを取り出したもの。母親の元から妖精の世界へと去った永遠の幼児ピーター・パンが初めて登場する哀しい話となっている。全編に漂う物哀しさについては、巻末の訳者・南條竹則氏による詳しい解説で理解できたが、なんとなく『アンパンマン』誕生の話を思い出した。

『海うそ』梨木香歩 岩波現代文庫
昭和のはじめに南九州の孤島「遅島」を民俗学のフィールドワークで訪れた「わたし」。そこでの人々との交流と神秘的体験は心に傷を持つ「私わたしに長く忘れ得ぬ記憶を残し、そして50年後の再訪による喪失と流転の合一は救済と得心へと結実する。美しい物語だ。
ウネさんによる、雨が降ると海から雨坊主がやってきて縁先にずらりと並んでおんおん泣くという話、あるいは小舟に乗るときは船霊(ふなだま)さんに手を合わせて無事をお願いするのだという話など、島に伝わる民俗学的な風習を読むのが愉しい。序盤からぼんやりと感じられた不穏な空気は、中盤にさしかかって平和な島に隠された廃仏毀釈の過酷な歴史が見え隠れし始めたところで腑に落ちる。中世哲学研究家の山内志朗氏による解説も、通時的な軸と共時的な軸をもとにして本書における神秘体験の本質を読み解いており、たいへんに面白い。

『飛ぶ孔雀』山尾悠子 文藝春秋
待ちに待った山尾作品。『歪み真珠』以来8年ぶりの新刊だが、連作長篇としては2003年の『ラピスラズリ』以来だから15年ぶりとなるのか。相変わらず一筋縄ではいかないが、そこが好い。相関図や作中の出来事を整理して何度も読み返す。しかし結局は藪の中となり、それが余韻となってまた再びページをめくりたくなってしまう。こうなると中毒みたいなものである。
「火を熾し難くなった世界」を舞台にした二つの中篇「飛ぶ孔雀」「不燃性について」は、カードの裏表の様に時に錯綜し時に重なり合って読者を迷わせる。不思議な街に蠢くおかしな人々や様々なメタファーも心地いい。
(それにしても山尾作品にはすり鉢状や円筒状の建物がよく出てくるな。)

『人間とはなにか(上)』マイケル・S・ガザニガ ちくま学芸文庫
認知神経科学の権威による、人間を地球上で唯一無二のユニークな存在たらしめている要因、いわゆる「人間らしさ」について考察した本。上巻では脳の大きさや構造、発達心理学や言語、父系制と攻撃性、社会集団の形成と倫理、情動と共感能力などについて取り上げられる。

『太陽肛門』G・バタイユ 景文館書店
若きバタイユがロシアの哲学者レフ・シェストフやニーチェの影響の下に書いた宣言書。エロティシズムと挑発に満ちた難解な文章だが、訳者の酒井健氏による解題がわかりやすい。魂の危機に際してバタイユが辿った思想の遍歴とその到達点が興味深い。先に読んだ『マニエリスム談義』を思い出した。マニエリスムのお手本のような本である。エロで悪趣味で厨二でマニエリスムとは、バタイユはやはりすごい。そして頭がおかしい。

『ギョウザとわたし/餃子和我』南條竹則 惑星と口笛ブックス
焼餃子や水餃子に蒸し餃子は勿論のことワンタンや包子に焼売といった、著者がこれまで味わってきた様々な「餃子」の思い出を綴った味なエッセイ。国内の小さな店から本場中国や台湾の高級店まで、数多くの店と記憶が詰まっている。餃子とは庶民的な食べ物であり、かつご馳走でもあるため、餃子について語ることは文化について語ることにもなる。そしてなにより餃子をつまみながら中国酒を飲む様子がいかにも旨そうだ。氏は老酒より白酒の方が好みのようで、餃子のように気軽に読み進むうち過去の記憶が琥珀色に染まり、古酒の薫りが漂ってくる。(それにしても竹の香りの酒は聞いたことがあるが、蓮や菊や薔薇の薬酒というのは知らなかった。さすが『酒仙』や『中華満喫』の著者である。)
『「好吃不如餃子、舒服不如倒着」という中国北方の諺は、「餃子より美味い物はなく、寝るより楽はない」という程度の意味らしい。飾らない食は心をうつすのだ。

『ボウエン幻想短篇集』エリザベス・ボウエン 国書刊行会
7冊の短篇集から選んだ17の作品に加え、短篇集の序文4つを収録した日本オリジナルの短篇作品集。収録作には故郷アイルランドや戦時下を舞台にした作品が多いのだが、「序文」を読んで背景を理解することができた。幽霊譚はどれも味わいながら読んだが、それ以外にも一瞬のうちに現実に寄り添う超自然的要素が良い味を出している。彼女にとって幻想とは人と世界の狭間に生まれる不安定な関係なのかもしれない。過去の出来事がはっきりとは示されないまま、不穏な心理ゲームが進行してゆく様子がいかにも巧い。そして怖い話はほんとうに怖い。どうしたらこんな話を思いつけるのだろう。
特に気に入った作品は「嵐」「奥の客間」「林檎の木」「十六番」「あの薔薇を見てよ」「恋人は悪魔」「幻のコー」「闇の中の一日」とたくさんあるが、さらにベストスリーを選ぶとすれば「恋人は悪魔」「幻のコー」「闇の中の一日」あたりだろうか。怖い話が好きなら正統派のゴーストストーリー「奥の客間」や戦慄的なイメージの「林檎の木」などもお薦め。訳者の太田良子氏による解題も参考になる。ボウエンを丸谷才一が好きだったというのは何となく解る気がした。

『変愛小説集 日本作家編』岸本佐知子編 講談社文庫
題名は「恋愛」ではなく「変愛(ヘンアイ)」。様々な形の「変な愛」を描いた作品ばかりを集めたオリジナル・アンソロジーの文庫化だ。ここでいう愛とはひとりの人をめぐる関係性を指すものであり、即ち自分好みの変な作品ばかりという事でもある。収録されている作品は十六編あるがどれも変でどれも面白い。単行本から再録が叶わなかった作品があるそうなので、いずれ元本も読んで見なければなるまい。特に気に入った作品は多和田葉子「韋駄天どこまでも」、本谷有希子「藁の夫」、安藤桃子「カウンターイルミネーション」あたりだろうか。

『白魔』マッケン 光文社古典新訳文庫
『夢の丘』等で有名な著書による代表的短篇の表題作と、日常の世界の陰に潜むもうひとつの世界への誘いを描く中篇「生活のかけら」、そして『翡翠の飾り』の中から三つの掌編を収録。クロウリー『リトル、ビッグ』のように隠された真の世界が妖しくも美しい。訳者の南條竹則氏も書かれているが、マッケンが描く女性はいずれも他の幻想小説と違って「小説の飾り」ではなく血が通った存在なのが好い。だからこそ「白魔」では、少女が残した手記に登場する「白い人」や二重写しになる幻想世界が余計恐ろしくも魅力的に見えてくるのだ。
自分は結局のところレオ・レオーニ『平行植物』や中原中也「一つのメルヘン」のように、〈至高の世界〉やその反対の〈妖魔の世界〉ということでもなく、我々の住む世界とは違う世界がただ無関係に存在しているだけというのが好きなのだと、読むうちに改めて気づかされた。

2018年4月の読了本

今月は光文社古典新訳文庫版の《ナルニア国物語》の一気読みに挑戦してみた。これまでのスタンダードである岩波少年文庫版(瀬田貞二訳)は著者ルイスが生前に刊行した順番になっているが、こちらは現在の欧米で主流になっている物語の中の年代順になっている。子ども向け文学はさほど読まずに来たので、このシリーズは今回初めて読んでみたのだが、色々な意味で愉しく読めた。イラストレーターのYOUCHAN氏による挿絵が土屋京子氏による現代風の訳文にぴったり合っていて、ともすれば重苦しくなる話を読みやすいものにしてくれていた。

『魔術師のおい』C・S・ルイス 光文社古典新訳文庫
年代順シリーズの第1巻。ナルニア国がいかにしてできあがり、第2巻に登場する魔女がいかにしてこの地に至ったかが語られる。語り口は平易で、紋切り型の展開が少々鼻につくところもあるが子ども向けの物語として、これはこれでわるくない。子供たちが「やってはいけないこと」をするたびに新たな展開があるのが、なんといっても懐かしい感じ。「禁忌の侵犯」は子ども向けの物語の王道だと思う。
禁忌といえば、いっぱいまで巻かれたゼンマイに付けられた留め金や、もしくは高所に持ち上げられた錘を支える柱のようなイメージがある。不用意に触ると蓄えられた大きなエネルギーが一気に解放されて大変なことになるのだ。(しかし子供というものは、なんでも触ってみて次にどうなるか知りたい存在なのだよね。)
ちなみに禁忌のもうひとつのイメージは「契約違反」。宗教的にはこちらの方がメインかもいれない。

『ライオンと魔女と衣装だんす』C・S・ルイス 光文社古典新訳文庫
ナルニア国物語の中で最も有名な作品。ライオンのアスランをはじめキリスト教的な象徴があちこちに散りばめられていて、躍動感ある描写と波瀾万丈なストーリーは確かに読む者を飽きさせない。「ほう、次はこうくるのか」という感じ。
本書で一番の見せ場である〈いにしえよりも古い魔法〉のくだりでは、「裏切りを犯したことが無いものが自ら進んで生け贄となり、裏切り者の代わりに捧げられた時、石舞台が割れ死は時を遡る」という定めが登場するが、これなどはまさに贖罪そのものであり、この辺りのキリスト教的な世界観が本書の欠点でもあり魅力でもあるのだと思う。(ちなみに、本書を読んでいる間じゅうエドマンドの不甲斐なさにずっといらいらしていた。もしかすると、子どもの頃だったら最後まで読み通せなかったかも知れない。)

『馬と少年』C・S・ルイス 光文社古典新訳文庫
前作で子供だった四兄弟姉妹が立派な王族になって登場する。(このように世代が移り変わっていくのが年代記の魅力であることを再認識した。)物語は一組の少年少女が波瀾万丈の冒険の末、ついに自由を勝ち取るというもの。この手の話は面白くないわけがない。ただ、ライオンのアスランによって無から創造されたはずのナルニア国が、本書ではアーケンやカロールメンといった蛮族の国にも見劣りするただの一小国になってしまっている点がすこし気になった。十字軍とか異教徒への布教など、現実世界のキリスト教にまつわる矛盾が無意識のうちに反映されているような気もする。
ところで、このあたりまで読んだところで、ピアズ・アンソニイが《魔法の国ザンス》を書くときには本シリーズの設定を参考にしたのではないか、という気持ちが強くなってきた。ザンスの方は本シリーズとは違ってギャグやパロディが満載だけど。(ザンスシリーズは最初のうちは普通のファンタジーだったのだが、『夢馬の使命』のあたりから「架空の国を舞台にした年代記」という体裁を捨てて、キャラクターものへと路線変更していったような印象がある。)

『カスピアン王子』C・S・ルイス 光文社古典新訳文庫
ピーター上級王らの治世から時を経て人間が支配する世界へと変わってしまったナルニア。昔のナルニアを取り戻すため〈古きナルニア人〉とともに立ち上がったカスピアン王子を救わんと、呼び戻されたピーター達が活躍する。これまでの「善と悪」あるいは「敬虔と欺瞞」と言った対立の構図から、今回は人間的な世界観とデュオニソス的・異教的な世界観の対立になっているのが大変に興味深い。より一般的(?)なファンタジーの技法に近付いている気がするが、作者的には本当にそれで良いのか?という気もする。アスランの存在を「喜び/JOY」の視点から繙いてみせる井辻朱美氏の解説が示唆に富んでいて大変によかった。

『ドーン・トレッダー号の航海』C・S・ルイス 光文社古典新訳文庫
前巻に続いてカスピアン王子、そしてルーシーおよびエドマンドの兄妹が登場する。本書で初登場なのは彼らの従弟である(いけ好かない)ユースティス。一行は帆船ドーン・トレッダー号に乗り奇妙な島々を巡りつつ、世界の果てまで驚くべき航海を繰り広げる。驚異の島々を巡る冒険はアルゴ探検隊などの正統的な末裔であり、個人的には本書がシリーズの中で物語として一番まとまっている気がした。(そういえば手塚治虫による漫画『三つ目がとおる』の「イースター島航海編」は、「死水島」など本書に登場する島々に何となく似ていた。『ナルニア国物語』は当然読んでいそうだし、インスピレーションをもらっていた可能性はあると思う。)
ちなみに巻末の立原透耶氏による解説(というより熱烈なファンレター)が最高だった。ここまで読んできた読者へのご褒美といって良いかも知れない。

『銀の椅子』C・S・ルイス 光文社古典新訳文庫
前巻まで続いてきた陽光と緑に満ちた世界から、雪と闇の世界へと舞台が大きく変わる。喪われし者を取り戻すために冥府へと赴く物語は様々な神話や説話で語られてきたが、まさかこのナルニア国物語でお目にかかるとは思わなかった。ムーミンシリーズでも『ムーミン谷の彗星』や『ムーミン谷の冬』など、明るいばかりでない世界が描かれていたが、本書は同じような位置付けにあたる物語ではないだろうか。本書はテーマをひと言で表すとすれば「裏ナルニア」あるいは「衰弱と死」。前半は若干つらかったが、後半になり安達ヶ原あるいは青髭のような人食い鬼のエピソードを経て、イナンナやオルフェウスの如き冥界下りになってからが面白い。(ただし昏い。子どもが読むとトラウマになるタイプの話かも知れない。本書ではカスピアン王子たちの老いもポイントになっている。)
今回重要になるのは「誓約」(=為すべきことを示す「しるし」とその履行)なのだが、それを守らなくても結果オーライで進んでいくのには少々ひっかかるものがあった。本シリーズでは精神的に幼い子どもが冒険を通じて成長するのがひとつのパターンになっていて、それが読者である子供たちの心をつかむのだろうが、主人公が二人揃って駄目な子どもというのはいかがなものかという気はする。ただそういった不完全と思われる部分も含めて本書は愛されてきたのだろう。シニカルだがいざという時に頼りになる〈ヌマヒョロリ〉族のパドルグラムが、まるでスナフキンのようないい味を出していてとても好かった。
本書ではさらに、ナルニア世界では「言葉をしゃべる」というのが魂の基準であることが判ったのは収穫であった。(もっと端的に言うと、〈もの言うけもの〉はナルニアの世界では「名誉白人」なのだ。)シリーズ中、もっとも異色作であるといえるのではなかろうか。

『最後の戦い』C・S・ルイス 光文社古典新訳文庫
いよいよ年代別ナルニア国物語も最終巻。全7巻の長大な夢と魔法と冒険の物語は、いわゆる「最後の預言者」にあたる詐欺師の大ザルによるあまりにも卑俗な企てで、あっけない最後を迎えてしまう。(てっきり『ライオンと魔女と衣装だんす』に出てきた魔女が甦って、アスランたちと最後の決戦をするのかと思っていた。若干肩透かしぎみ。)
しかし時の終焉とすべての「ナルニアなるもの」の顕現を経て辿り着く物語のグランドフィナーレは、哀しみと喜びとが入り交じる稀有な体験だった。物語の後半、約3分の一にも及ぶ世界の終わりと王国の幻視は、キリスト教的な神秘主義を間近にみているようで圧倒された。掉尾を飾る山尾悠子氏の解説も心に響くもので、とてもいい読書体験になった。

『話術』徳川夢声 新潮文庫
今でいうマルチタレントのはしりで漫談や朗読で知られた著者が、いわゆる「人前で話をすること」に関するあれこれについて綴った実用本。昔のベストセラーが今回改めて新刊で出たので読んでみた。前半は日常会話における話術が中心で、後半は話芸を生業にする職業について書かれている。書名が『話芸』ではなく『話術』になっているのがひとつのキモで、つまりは壇上で話をする商売ばかりでなく、普段のおしゃべりも含めた「ハナシ」全般ということだ。いずれも具体的な技術ではなく心構え等が中心となっていて、目新しくはないがなるほどと思うことは多い。これも著者の「話術」の巧さなのかもしれない。
本書の内容を少し紹介すると、たとえばハナシの目的は「相手にこちらの思っていることを伝授すること」なのだそうだ。それには大きく分けて3つあり、ひとつめは「あなたに◯◯して欲しい」と言った「意思」、二つめは「私は悲しい」などの「感情」、そして三つめは「◯◯は△△である」といった「知識」とのこと。「ふむふむ」と云いながら読み進める。
また、昔の実用本や随筆の楽しみ方はこういった当時の風俗や考え方に触れることにあるのではないかとつねづね思っているのだが、本書には人前で話をする職業のひとつとして、童話を読むことを生業とする「童話家」というのが挙げられていて面白かった。独特の「童話節」で語るともあるが、自分にはそういった朗読をみた記憶はまったく無い。奥付を見てみると本書の発刊は昭和22年とかなり古いが、そのころには一般的な職業だったのだろうか。
また、このころのノウハウ本には一種独特の雰囲気があるとも思う。人生訓を語るというか蘊蓄を語るというか。それを味わうのがもうひとつの愉しみでもある。ただし気を付けないと、あまりに説教くさくて閉口する本が無きにしも非ず。別にご高説を賜る必要はなくて、愉しく読めれば当方はそれで充分なのだが。(その点本書にはそのような説教臭さはないので大丈夫。)
ところで本書と直接の関係はないのだが、読んでいるうちに思いだしたことがあった。エライ人の話が時に鼻持ちならないのは、地位が上になるにつれて相手とのおしゃべり(=会話のやりとり)が減って、先方が聞き役に回る頻度が増えるからではないだろうか。長年そういう関係が続くと、相手が自分の意見に感服していると勘違いする輩が出てくるのかも知れない。話術は自分のことを伝える技術というだけでなく、会話をうまく続けていくためにも大切なものなのだ。
徳川無声という名を前から耳にすることはあってもどんな人物か知らなかったので、今回はいい機会になった。このところテレビを見なくなってしまったので良くは判らないのだが、最近は教養を持った所謂マルチタレントと呼ばれる人が、テレビの世界から少なくなってしまったような気がする。昔はこういった人たちが数多く活躍して放送文化を作り上げてきたのだろうが、今後はどうなるのだろうか。

『地球の長い午後』ブライアン・W・オールディス ハヤカワ文庫
黄昏ゆく遠未来の地球の悪夢的な様相と、やがて訪れるであろう黙示録的終末を、想像力の限りを尽くして描いた傑作SF。訳者・伊藤典夫氏による、植物の名前に関する独創的な意訳も素晴らしい。読書会のために数十年ぶりに読み返したのだが、記憶していた以上に面白かった。
自転が停止した地球を舞台に奇怪な植物が繁茂する昼の領域から永遠の黄昏の領域へ、そして夜の領域へと移ってゆく構成や、その中で描かれる奇怪な植物と無慈悲に死んでゆく退化した人々の姿、あるいは本能のままに快楽を貪る様子はまるでボッスの「快楽の園」を思わせる。世界は何の説明も無くあるがままに描写され、どんな世界なのかは物語が進むにつれて現れるヒントを元に読者が読み解いていく必要がある。こういった不親切さが本書を愉しむ上での障害になっている部分もあるが、それはまた大きな魅力でもある。直接的な後継作としては、椎名誠『水域』や『アド・バード』、酉島伝法『皆勤の徒』あたりが思い浮かんだ。
以下、読書会で面白かった話を備忘録代わりに書いておきたい。
物語としては行き当たりばったりでいい加減なところも多いと思っていたが、オールディスは第一長篇の『寄港地のない船』から一貫して、アメリカSFの見た目だけを借りて中身は感情移入出来ないキャラばかり登場する「アンチロマン」を書いていたとのこと。確かにドラマツルギーの否定を前提にして読んでみると、嫌な主人公や簡単に死んでいく主要人物、肩すかしの展開など腑に落ちるところが多い。また著者にとって登場人物とは物語を動かすコマに過ぎず、書きたかったのは寧ろその舞台となる「風景」そのものだったというのは目から鱗だた。本書を面白いと感じた人と詰まらないと感じた人の違いは、どうやらその辺りにある気がする。
アミガサタケに代表される「種の存続を目的とする知性」と、グレンに代表される「個の生存を目的とする知性」の違いには、知的階級と労働者階級との階級闘争も二重写しになって見える。ラストでアミガサダケが示す壮大なビジョンの方がSFファンとしては惹かれるものがあるけれど、それに背を向けた主人公グレンの「選択」もまた格好いい。まるで労働者階級の反乱でありパンクだ。全編を通じてシニカルなユーモアが感じられるが、キャラクターの扱い方やそういった独特のユーモアにJ・G・バラードと共通するものを感じるのは、英国人気質ということなのかそれとも両者がいずれもアジアでの戦争体験を持っているからだろうか。
なお本書の冒頭にはイギリスの詩人アレキサンダー・ポープの『人間論』の一説が掲げられているが、ポープは理神論(=宇宙の創造主としての神は認めるが人格神としての神は認めず、したがってその後の世界に神は関与しないという信仰)で有名な詩人でもある。すなわち本書は理神論に基づく「神無き後の世界(つまり諸行無常)」を描いていのではないかという意見を述べたところ、翻訳家の中村融氏からは賛同とともに「実はオールディスは無神論者だった」というコメントを頂いたのも大変面白かった。

『ザ・ファースト・ペンギンス』松波晴人 講談社
「フォーサイト・スクール」メソッドなる、企画の創出ならびに組織の中での実行に関する手法を小説仕立てで解説したビジネス書。こんなに上手くいくか?とは思うがまあ仕方ない。組織内の軋轢については身につまされた。

2018年3月の読了本

3月は2月に続いて目標の10冊に達しなかった。新しい職場に移るための引き継ぎや子供の就職など環境変化も色々あったが、本があれば乗り切れるのである。っこれからも本をたくさん読んでいきたい。

『日々の暮し方』別役実 白水uブックス
氏の本はどれも大好きなのだが、本書も相変わらず切れ味抜群だった。ところで本書は「エッセイの小径」の一冊になっているのだが、日常生活にまつわる様々な出来事に対して「正しい◯◯の仕方」と称して屁理屈を捏ねあげるこの本は、はたしてエッセイと呼んで良いものなのだろうか。(こういう書き方をするところが、すでに文章に影響を受けている。/笑)
全45篇に亘る「正しい◯◯の仕方」の中から特に気に入ったものを列記すると、「退屈」「煙草の吸い方」「風邪のひき方」「待ちあわせ」「お別れ」「ものの捨て方」「禿げ方」「日記の書き方」「ジャンプ」、そして「正しい『あとがき』の書き方」といったところ。続けて読んでいると頭が軽くトリップしそうになるが、こればかりは読んでみないと判らない。少し具体例を挙げてみよう。たとえば「正しい待ちあわせの仕方」においては、「待つ」という行為は一生懸命すればするほど「意図の余りの積極性」と「行為の余りの消極性」のバランスが悪いのだと主張する。従って待つ場合は「ほとんど待たない」か「待ってないふりをする」のが正しいやり方なのだそうだ。そして最後に示されるのは秘伝「ゴドー待ち」。(=ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』ですね。)いやほんと面白い。他にも「つまり『白髪』というのは、『禿』へのためらいから生じた、一種の妥協案にほかならない。それならいっそのこと、『禿』の方が潔いということになるではないか」だとか、論理のアクロバットというか論理のサーカスというか、こういった流れが別役エッセイの真骨頂といえる。中毒性が強いので読むときはちょっとご注意を。

『銘度利加』十田撓子 思潮社
第68回H氏賞を受賞した著者の第一詩集。明晰だがシュールな情景が考え抜かれた言葉によって表現される。SF好きで山野浩一やラングドン・ジョーンズの小説に親しんだ人であれば懐かしいと思うかもしれない。あるいは文字で表されたマグリットのようにも。読んでいてとても気持ちが良かった。
以下、「パニヒダ」の中から少し抜粋する。

天体から音が聞こえてくる

水が星座を読むように
胸の奥からふつふつと湧き出てくる
それは音のかたちを持っていた

その音を説明するために
しかし私は
言葉を使わなくてはならない

あるいは頭に浮かんだ音や時間を、言葉でそのままの姿に切り取ったものではないかとも思う。
ツイッターでは「やばい」という感想が流れてきたのだが、読んでみてその意味がよくわかった。まさしくこれは妄想である。しかも密度が濃くて非常に強固な妄想。こんな文章を、黒塗りの柩の中に閉じ込めたような装丁で目の前に差し出されたら確かに「やばい」。

『百年泥』石井遊佳 新潮社
第158回芥川賞受賞作。インドのIT企業で社員向け日本語教室の講師をする女性。百年に一度の大洪水で打ち上げられた泥の中から、彼女の前に様々な過去の残滓が出現する。魔術的な街チェンナイにおいては、自身の幻想的な過去もまた現実に溶けるのだ。
芥川賞という冠が仮に無かったとしても、普通の幻想文学として読んでも充分に面白い。川上弘美氏の作品が好きな人なら、きっと口に合うような気がする。インドの人々の描写にはかなりのリアリティを感じたが、そこから地続きでいつの間にかあり得ない光景が出現するのは何とも不思議。南米文学の魔術的リアリズムにも通じる香気がある。

『夢のウラド』F・マクラウド/W・シャープ 国書刊行会
著者はスコットランド生まれの男性評伝作家で、19世紀に女性名でケルト色の濃い幻想小説を発表した人物。本書は二つの名前で発表された短篇小説を精選して全部で20篇収録しており、両者の異なる作風が一冊で楽しめるお得感がある。マクラウドのパートはケルト神話とキリスト信仰がベースの幻想小説がメインで、シャープの方は美しい風景とえげつない人間関係が同時に描かれ独特の味がある。どちらにも好きな作品は多く迷うところだが、前者では表題作と「島々の聖ブリージ」「最後の晩餐」、後者では「ジプシーのキリスト」「フレーケン・ベルグリオット」あたりが好みだろうか。どちらかといえばマクラウドの方が自分の趣味には合う感じがする。
夢の紡ぎ手マクラウドにより奏でられる旋律は、時には月光が照らす谷に静かに流れる哀しき調べであり、そしてまた時には、碧い海の飛沫の中に浮かぶ安らぎの歌でもある。ページをめくるたび、今はもう失われてしまった世界、二度とたどり着けない世界への扉が開かれてゆく感じがとても好い。ただ、「聖なる冒険」と「風と沈黙と愛」は物語というより著者の神秘思想の直接的な発露のようにも思える。
読み進めるほどにウイリアム・シャープとフィオナ・マクラウド名義の作品との違いが際立ってくるのは、訳者・中野善夫氏の編集が上手いのだろう。ダンセイニなら『ペガーナの神々』と『ウイスキー&ジョーキンズ』くらい違うのではないか。いや『二壜の調味料』のほうがいいかも知れない、などと考えるのもまた一興である。

『ドラコニアの夢』澁澤龍彦 角川文庫
アンソロジスト東雅夫氏が膨大な澁澤龍彦の文章な中から選んだ「澁澤入門編」とでも言うべきセレクション。貫くテーマは「澁澤×文豪」。創作から評論、エッセイに対談まで、文豪ストレイドッグスに因んだ視点で澁澤ワールドを一望できる好著である。解説で明かされている編集の意図も面白い。
『高丘親王航海記』から選ばれた幻想的な小編も好いが、例えば「卵から林檎まで」は「初めから終わりまで」の意味で使われていたとかいった、澁澤らしいペダンティックが出てくるとやはり嬉しくなる。(前菜には卵、デザートには林檎が欠くべからざるものだったからだそうだ。)そして澁澤が一等好きな鏡花作品は「草迷宮」だと知り、「ほほー」などと意味のない感心をするのも愉しい。三島由紀夫との対談も収録されていたり、全体的に良いセレクションだった。

『蕃東国年代記』西崎憲 創元推理文庫
幻想の彼方の国、蕃東国を舞台にした、とろりとした東洋幻想譚。時代も主人公も異なる五つの物語が展開するが、その間に挟まる幻想の地誌や民俗学的考察がさらに味わいを深くしている。物語の方も、よくあるような現実世界をちょっと捻って幻想味をつけたものではなく、古今東西の神話や説話のモチーフを細かく裁断して混ぜ合わせたとても贅沢なつくりであると思う。読むほどに心地よく酔いしれる、幸福な読書時間である。
作品の中で一番読み応えのあるのはやはり最後の「気獣と宝玉」だろう。「竹取物語」を彷彿とさせる求婚難題譚であり、今後へと続く余韻を残す見事な中篇となっている。元々西崎氏の作品は大好きで本書の作品もすべて好きなのだが、あえて気に入ったのを選ぶとすればこの「気獣と宝玉」のほか「海林にて」と「有明中将」あたりだろうか。

『島とクジラと女をめぐる断片』アントニオ・タブッキ 河出文庫
太平洋中央部に位置するポルトガル領・アソーレス諸島を旅した著者が、その島の捕鯨と難破と人々の記憶で作り上げる緩やかな集積。薄ぼんやりしつつピリッとした何ものかに惹かれる。ラストの「ピム港の女」が見事だ。作風は違えども、全体の印象は開高健に似ているものを感じた。たとえば寂寥感であるとか虚無感であるとか。島の人々が崇める神々についてのエピソードが面白かった。たとえば後悔と郷愁の神は老人の顔をした子供で、憎悪の神は痩せさらばえた小さな黄色い犬なのだそうだ。(C・プリーストの『夢幻諸島から』を思い出した。)
アソーレス諸島に伝わる伝統的な捕鯨に同行した際の回想では、捕鯨手たちの見事な技と鯨の断末魔の叫びを目の当たりにして、「まもなく消えてしまう種族」が同族を獲る姿が淡々と描写される。須賀敦子氏による訳も見事で、自分も含めてある種の人は思いきり嵌るタイプの作品だと思う。

『涙香迷宮』竹本健治 講談社文庫
明治時代のジャーナリスト/小説家/翻訳家である黒岩涙香が作ったとされる“いろは歌”に隠された暗号と、「連珠」(五目並べから発展した囲碁のバリエーション)をめぐる殺人事件が見事に融合した超絶技巧のミステリ。黒岩涙香やいろは歌に関する蘊蓄が延々と披露されていくのがとても好い。蘊蓄ミステリ大好きなのだ。こういう本を読むと、とてもしあわせな気持ちになれる。いや本当に素晴らしい。全く予備知識無しで読み始めたのだが、『囲碁殺人事件』『将棋殺人事件』『トランプ殺人事件』に続く天才棋士・牧場智久のシリーズだったのにも驚いた。懐かしい。読んでいるうちに、天才を描くのは天才にしか出来ないという言葉とともにトーマス・M・ディッシュの『キャンプ・コンセントレーション』が思い出されてきた。黒岩涙香が残した隠れ家に飾られていた四十八のいろは歌がとにかくすごくて、これだけでも本書を読む価値がある。本当によくこんなの考えついたものだと思う。殊能将之『黒い仏』をちょっと連想したりもした。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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