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2016年10月の読了本

『少年と空腹』赤瀬川原平 中公文庫
 以前、講談社文庫から出ていた食べ物エッセイ『少年とグルメ』を改題したもの。前半は貧乏ゆえのゲテモノ食や犯罪すれすれの食事の思い出、後半はまだ見ぬ物への憧れが極上の調味料になる。およそ35年前の文章なので、表現に若干気になるところはあるがやはり巧い。そして面白い。食べ物エッセイではあるのだが、副題に「貧乏食の自叙伝」とあるようにグルメではない。食べ物が無かった時代に胃の中に放り込んだ妄想や犯罪や羞恥が塊になっていて、文章の質感がすごい。さすが赤瀬川原平である。それにしても氏の文章に出てくる天丼は本当に旨そうだ。実は甲殻類アレルギーなので海老天は食べられないのだが、赤瀬川原平の天丼は食べてみたい気がする。本当に食べたら喉が痒くなるが、氏に倣って妄想を膨らませるだけなら大丈夫だろう。

『ヘリオガバルス』アントナン・アルトー 河出文庫
 14歳で叛乱とともに戴冠し、放蕩と残虐の限りを尽くしたのち、18歳で暗殺されたローマ皇帝ヘリオガバルス。彼の生涯をシュルレアリストのアルトーがシリアの異教信仰とアナーキーという視点で捉えた異色の歴史書。エメサの残酷な生贄のシーンなど妄想的で迫力に満ちた描写に圧倒される。「見てきたような」力技の文章を前にすると、はたして真偽はどうなのか、あるいは解釈として正しいのかなんてことは、どうでも良くなってしまう気がする。アルトーの妄想力はもしかして岡本太郎や梅原猛のそれにも匹敵するんじゃないか。
 ところで本書は最初のうちとても読み難くて時間がかかったル・クレジオといいドゥルーズといいアルトーといい、仏語系の著者とは相性が良くないのかともおもったが、ツイッターで呟いたところ「フランス語は言語の構造のせいなのか、ワンセンテンスがえらく長くなる傾向があるので、訳文も英語に比べると読みにくくなる」というコメントを頂いて納得した。確かに一文が長い。谷崎潤一郎が得意でないのを思い出した。(ちなみに後半は突然文章が短くなって読みやすくなった。)

『カント「視霊者の夢」』エマニュエル・カント 講談社学術文庫
 『純粋理性批判』を始めとする”三批判”の書で有名な哲学者カントが、同時代に話題だった霊視能力者スヴェーデンボリの神智学的な主張を理性によって検証・批判した異色の小論。それらを幻想/妄想の産物として一蹴するとともに、理性の限界を越えた先にあるものについて語ることの無意味さを説く。
 まずカントによる霊の定義が面白い。彼によれば「ひとつの空間を占める物質があるにも関わらず、同じ空間に受け入れられる性質を持ち(=非物質的存在)、且つ肉体という物質と相互作用をもつもの」(大意)であるという。また「道徳」とは霊的な存在同士に作用する万有引力のようなものではないかという仮説も斬新。霊同士の相互作用により利己的な主張が退けられ社会的な合意がなされるのだというが、心身二元論を突き詰めるなら、たしかに引力が物質にしか働かないと考える理由は無い。(もっとも物質とは違う原理に従うから霊だという理屈もあり得るわけだが。)
 カントが鋭いのは、霊的存在(=魂)が物質とは全く干渉しないのに「肉体」という物質だけには繋がるという、根本的な矛盾に言及している点。たしかにこの矛盾を解消しようとするとかなり無理がある気がするのだが、でもスヴェーデンボリは(丹波哲郎みたいに)「私は視た。霊界はある」って言ってるのだ。カントは最終的にどう論駁するんだろうと興味津々で読んでいくと、原理的に真偽が判断できないことについてあれこれ真面目に考えるのは無駄だから、これ以上この件を考察するのは止めて本当かどうかは随意の探究に委せるという結論。
 「わたしは、相当悪質な夢想家のとてつもない幻想をひたすら模写したり、あるいはこうした作業を彼特有の死後の記述までつづけてゆくことにすっかり飽きてきた。それにわたしには他に配慮しなければならないことがある」だって。わはは、これは面白い。「彼の大著述のなかには、もはや一滴の理性も見当たらない」とか「(本書では)本来は賢明な教えと有益な指示が占めるべき狭い場所をいかにも利口そうに、いっぱいに満たした迷妄と空虚な知識を一掃したとか」もう滅多打ちである。きっとカントにとってスヴェーデンボリの活動は「江戸しぐさ」みたいなものだったのだろう。視霊者の見る夢とはまさしく「胡蝶の夢」だったのだ。

『はじめての短歌』穂村弘 河出文庫
 初心者には詩とか俳句とか短歌とかいったものはなかなかとっつき難い印象があるが、本書は実例をもちいて、散文と違った論理で作られる短歌のポイントについてとても解りやすく説明してくれている。学校の作文や会社の報告書のように「わかりやすいことが価値のある」ことでなく、むしろ情報を減らし価値を日常から反転することが短歌としての価値を高めるのだそうだ。「生きのびる」のでなく「生きる」、「役に立つ」よりは「役に立たない」を言葉にするための方法が、実例とともに示される。ちょっとずれることの面白さが心地よい。自由律になってしまえばもはや俳句と短歌の区別もつかず、限りなく詩に近づいていく。読むことでフッと肩の力が抜けた。これでいいのか。
 本書を読んだ後で短歌を始めてみた。(自由律のお遊びみたいなものだが。)

『死をもちて赦されん』ピーター・トレメイン 創元推理文庫
 七世紀のウィトビア教会会議でおこった殺人事件。一つ間違えば戦乱の火蓋が切って落とされるこの一触即発の危機に、アイルランドの聡明な法廷弁護士でもある修道女"キルデアのフィデルマ"が謎を解く。ミステリ読書会のために読んだ歴史ミステリの人気シリーズの一作目だが、殊のほか面白くて気に入った。こういう話好きだな。

『大きな鳥にさらわれないよう』川上弘美 講談社
 泉鏡花記念文学賞受賞作。全部で十四の小さな物語が、やがて大きな物語となって遠い未来の運命を描き出す。異形の者たちと物哀しさは筒井康隆の『幻想の未来』やオラフ・ステープルドンの『最後にして最初の人類』、或いはピエール・クリスタンの『着飾った捕食家たち』を思わせるが、本書はどこまでも静かで美しい。おそらく著者の幻想小説としての代表作になるのだろう。傑作である。
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2016年9月の読了本

『見た人の怪談集』岡本綺堂・他 河出文庫
 総勢15人もの有名作家による怪談小説を集めたアンソロジー。古くは鏡花や鷗外に荷風といった大家から、橘外男や角田喜久雄に大佛次郎までが並ぶ様子は壮観。さながら文豪怪談といったところか。「停車場の少女」「日本海に沿うて」「海異記」「竃の中の顔」あたりが怖くて特に自分好み。

『瀬戸際レモン』蒼井杏 書肆侃侃房
 新鋭短歌シリーズの一冊。中城ふみ子賞、短歌研究新人賞次席とのこと。作家・翻訳家の西崎憲氏が推薦していたので読んでみた。現代短歌は全くの門外漢なのだが、とても新鮮で思いがけない言葉が並ぶのが面白い。 気に入ったものを二首ほど挙げてみる。
 こんなにもわたしなんにもできなくて饂飩に一味をふりかけている
 まだすこしバニラでしたよ左手の爪のにおいとわたしと月と

『羽虫群』虫武一俊 書肆侃侃房
 同じく新鋭短歌シリーズ。”世間一般では真っ先に排除される「弱み」”というものを、短歌という枠組みの中で表現した内省的な一群の歌を収録する。読んでいてなかなかつらい作品も多いが、読み手の心象が少しずつ変わっていく様子が何となく見てとれて作品に惹きつけられる。
 問い詰める視線にまわりを囲まれて息したらもう有罪だった
 都合よく胸に開いている大穴に空から星が落ちてこないか

『永遠でないほうの火』井上法子 書肆侃々房
 新鋭短歌シリーズの3冊目。水と火のイメージが様々に形を変えて現れる。この人も短歌研究新人賞次席とのこと。言葉の選びかたが上手い。三人の中ではいちばん幻想寄りに思える。
 月を洗えば月のにおいにさいなまれ夏のすべての雨うつくしい
 生みながら食む 火を歌いながら生きるよ 声を熾しつづけて

『神様』川上弘美 中公文庫
 自分の好きな「奇妙な味」と呼ばれる小説だと教えていただいて読んでみた。氏の作品を読んだのは今回が初めなのだが(失礼)、たしかにこれはなんとも形容しがたい。端正さが好きな梨木香歩氏の『家守綺譚』よりも更に軽くて儚い感じがする。ふわふわとして捉えどころがなく変なのだが、怖い話というわけでもない。まさに「不思議」と呼ぶのが相応しいかも。なかでも「河童玉」みたいに飄々とした嘘くさい話は特に好きだ。なお、あとで教えていただいた話によれば、3.11の後に一部を書きなおした『神様2011』という作品もあるらしい。そのうちに読んでみたい。

『わたしの小さな古本屋』田中美穂 ちくま文庫
 蟲文庫という倉敷のユニークな古本屋の店主があちこちに書いた小文を集めたエッセイ。この店主は苔が好きなことで知られているのだが、そのせいか本書もとてもゆっくりした時間が流れている。これまで様々な古書店ガイドや古本エッセイで目にしてきた店の雰囲気そのままだ。著者はある人に「一日二十七時間ぐらいある」と云われたとの一文があったが、それもあながち間違いではない感じがする。休日にアイスコーヒーを飲みながら読むのに相応しい感じ本だ。

『反オカルト論』高橋昌一郎 光文社新書
 講談社現代新書で『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』という哲学・論理の本を出している著者が、スピリチュアリズムやSTAP細胞、超能力に占いや迷信、はては江戸しぐさまで様々な事例を俎上にあげて分析し、欺瞞を信じてしまう原因と「誤信・迷信・盲信」を防ぐ心構えを説く。前掲の三冊と同じく、肩の凝らない対話形式で書かれているので読みやすい。
 内容はまず、フォックス姉妹やミナ・グランドンらの心霊実験にまつわるインチキと、それら非科学的な欺瞞に高名な科学者やコナン・ドイルなどの文学者たちがいかに騙されたかのエピソードから始まる。中盤ではSTAP細胞の事件もオカルト事件として論じているのが痛快。(ちなみにSTAP細胞問題は今や教科書に載るレベルの「世界の三大研究不正事件」のひとつであるらしい。)なお本書でいう「オカルト」とは、本来の意味での「オカルティズム(神秘学、隠秘学)」ではなく、「オカルト映画」とか「オカルト小説」という表現で使われる意味に近い。「非科学的な言説」という程度の意味ととれば良いと思う。問題はそれらが心霊現象や超能力ではなく演者によって仕掛けられたトリックであるということだ。
 ではなぜ科学者たちはだまあされてしまうのか?著者によればそれは「科学者は常に合理的に考えることに慣れすぎているため、体験したことのないような非合理な現象に遭遇すると、逆に簡単に騙されてしまう」ということであるようだ。結論を述べてしまえば、科学的根拠と論理、つまり「学」が大事という話になるわけだが、はたして本当にそれだけで騙されなくなるのだろうか。もっと奥深い悪意に対しては別の何かが必要な気もするのだが、考えていたがそれが何かはよく分からなかった。

『屍人の時代』山田正紀 ハルキ文庫
 『金魚の眼が光る』や『人喰いの時代』などと同じく名探偵・呪師霊太郎が登場するミステリシリーズの一冊。文庫オリジナル作品で、中短篇ミステリを四篇収録する。軽い話もあるのだが、通低音のように作品全体を通じて流れているのは、旧日本軍をはじめとする大正から昭和にかけての日本の病理だったりもする。ちなみに山田正紀氏のミステリには一種独特の味があって、それは誰が何を隠しているのか最後まで判らないこと。フーダニット(“Who done it”/犯人は誰か?)でもファイダニット(“why done it/動機は何か?)でもないのが、実はこの人のミステリの魅力なのだろうと秘かに思っている。ハウダニット(”How done it/どうやったのか?)はきっちり書いてあるので「超絶技巧ミステリ」とか形容されるのだが、それだけではないのだ。シリーズを通して読んでいるうちに見えてくるのは「大きな時代の流れと一人の人間の対峙」のような気がしないでもない。呪師霊太郎は探偵であるが同時に個々の作品における狂言回しであり、さらにシリーズ全体での告発者でもあるのだろう。本書収録の作品の中では中篇「少年の時代」が、宮沢賢治や江戸川乱歩の「少年探偵シリーズ」、そして金田一耕助へのオマージュなどふんだんに盛り込まれていてとても面白かった。

『稲垣足穂 飛行機の黄昏』 平凡社
 スタンダード・ブックス叢書の一冊。『一千一秒物語』の稲垣足穂による20代から晩年までの様々な随筆の中から、著者が愛する天体や飛行機などについて語ったものを厳選。若い頃の文章では、夜空の星など実際には殆ど見たことがないとうそぶいていて面白い。この頃の彼にとって大事なのは頭の中の天体なのだ。そしてもしも青空をまっくろに塗りつぶしたら”お天道”がたちまちダンディになるだとか、ちょっとした言葉がいちいちかっこいい。ところが「横寺日記」を書いた四十歳のころにはどんな心境の変化なのか、野尻抱影の星座随筆を読みながら頭上に広がる現実の星たちを憶えていくのがまた可笑しい。
 子供の頃の思い出が書かれた随筆では、彼の創作の原点になった記憶にも通じているようで興味深い。澁澤龍彦でいえば例えば『狐のだんぶくろ』のような感じといえば判るだろうか。あと、今回著者の随筆をまとめて読んでわかったことがある。それは足穂の文章は年取ってからの方が読みやすいということだ。若い頃の文章は理念に走り過ぎて正直ちょっと解りにくい。若かりし頃の足穂にとって、天体とは現実の空に広がるものではなく、子供の頃に広告でみた天文学者や魔術師たちへの憧憬と、耳馴れぬ科学用語が醸し出す浪漫であるようだ。ロバチェフスキー空間といった言葉が説明もなく書かれるところなどはまさしくそうで、所詮は自らの頭の中の世界でしかない。宮沢賢治の詩に重なって見えたりもする。
 蛇足であるが最後にひとこと。天体と同じく飛行機をこよなく愛した足穂によれば、飛行機の「花」はライト兄弟からわずか10年しか続かなかったのだそうだ。そしてジェット機のような「矢型」の飛行機はもはや鳥とは言い難く、まるで悪魔の尻尾を思わせるとも。「あらゆる「便利なもの」は手段では有り得ても、目的であることは不可能である」という彼の言葉を目にすると、便利なだけの技術を嫌悪して空や風と人が一体になることを理想とした足穂の気持ちが判るような気がする。

『死の鳥』ハーラン・エリスン ハヤカワ文庫

※『死の鳥』収録作品の内容に触れていますので、未読の方はご注意ください。

 伝説的な作家ハーラン・エリスンによる、長年待ちに待った新しい短篇集だ。学生時代に『世界の中心で愛を叫んだけもの』(1973年にハヤカワSFシリーズから刊行、79年に文庫化)を読んで以来、各種アンソロジーや傑作選でときおり目にすることはあっても、このようにまとまった形で読むのは本当に久しぶり。しかも全篇が本邦へのエリスン紹介の第一人者である伊藤典夫氏訳による日本オリジナル編集とあって、まるでハーラン・エリスン傑作集の趣きさえある。収録された10の短篇はどれも粒よりのものばかりだ。
 彼の作風を評して「ウルトラヴァイオレンス」という形容があるが、たしかに彼の作品には凄惨な暴力シーンが多く、その手の描写が苦手な人にはちときついかもしれない。しかし虐げられし者たちからの視点による物語はどれも一読の価値があるといえるだろう。彼の作品の多くは「クライム・ノベル」あるいは「ピカレスク・ロマン」の範疇に入るものが多い。そしてそこで描かれる暴力とは、この世界で疎外され虐げられている者たちが感じる「痛み」に他ならないとも思える。

 話は変わるが、エリスンと同様に読むのがつらい作品を書く作家としては、アンナ・カヴァンやジェイムズ・ティプトリィJrなどが挙げられると思う。ただし彼らの暴力性の発露はエリスンも含めそれぞれ違う形を示している気がする。しごく乱暴な言い方をすれば、例えばカヴァンの場合は痛みが語り手自身へと向かい自傷の形を示すのに対して、ティプトリィの場合は語り手が冷徹な記録係に徹することで一切の感情を殺しているようにも見える。ここではあまり深入りすることはしないが、個人的には作者の作家としての根源的な部分に関わるものではないかと思っている。一方でエリスンの場合、語り手が感じる痛みは裏返しとなってそのまま外の世界へとはね返される。ある意味彼の描く暴力は世界に対する異議申し立てであり、その点では極めて政治的な側面を持つともいえるだろう。

 以上、ごちゃごちゃと書いたが、エリスンの小説は物語としてももちろん面白い。アクションはたっぷり、スリラーや謎解きの要素もたっぷりで、流れるような文体と鮮烈なビジュアルイメージは脳裏に強烈な印象を残す。なお凝った文体や作品の複雑な構成、それにアンソロジー『危険なビジョン』の編集といった活動内容からしてエリスンは「ニューウェーブSF作家」の印象が強かったが、今回あらためて題材を見てみると意外とオーソドックスなものが多いので驚いた。本書でも「バットマン」に出てくる悪役ジョーカーのような怪人や切り裂きジャック、クトゥルフを思わせるような邪神にフランケンシュタイン、それに狼男とパルプ小説やホラー映画でおなじみのキャラクターが多く登場する。「ジェフティは五つ」ほどあからさまな作品でなくても、懐古的な視点でみることが可能だろう。このあたりはゼラズニイとも似た部分があるかも知れない。
 作中で主人公たちは自らのアイデンティティをかけて世界への異議申し立て(であるところの暴力)と、救済を求める心の叫びを上げる。しかし彼らの願いが必ずしも叶えられるわけではなく、また彼らもそれを期待しているわけでもない。エリスン作品はそんなところがたまらなく格好いい。そしてだからこそ余計に、作中で示される思いがけぬ「救済」が読むものの心を打つのだ。

 ちなみに本書の中から個人的にベストを選ぶとするなら、「死の鳥」と「北緯38度54分、西経77度0分13秒 ランゲルハンス島沖を漂流中」の二作になるだろうか。とてもどちらか一方に決めることはできそうにない。ざっとお気に入りの作品を挙げていくだけでも半分以上の名前が挙がるわけだし。解説で高橋良平氏が書かれているように、まだまだ訳されていないエリスンの作品は多いので、ぜひ本書をきっかけにして再評価が進み、日本でもさらに多くの作品集が刊行されて欲しいと切に願う。
これからエリスンを読める人は幸いである。

【収録作】
「「悔い改めよ、ハーレクィン!」とチクタクマンはいった」
「竜討つものにまぼろしを」
「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」
「プリティ・マギー・マネー・アイズ」
「世界の縁にたつ都市をさまよう者」
「死の鳥」
「鞭打たれた犬たちのうめき」
「北緯38度54分、西経77度0分13秒 ランゲルハンス島沖を漂流中」
「ジェフティは五つ」
「ソフト・モンキー」

<追記>
 以上が本のレビュー投稿サイト「シミルボン」に投稿した内容である。ひょんなことからシミルボンに投稿することになったので、これからもSF関連の書籍については両方に記事をアップすることになると思う。追記として本書の作品のなかで個人的なベストを選んでみたい。まずは本文中にも書いたように「死の鳥」と「ランゲルハンス島沖を漂流中」が同率首位をキープ。次いで第3位以降は「ソフト・モンキー」「世界の縁にたつ都市をさまよう者」「「悔い改めよ、ハーレクィン!」とチクタクマンはいった」といった順位で続く。(次点は「おれには口がない、それでもおれは叫ぶ」と「鞭打たれた犬たちのうめき」。「鞭打たれた犬...」がファンタジーではなくミステリ系の賞であるエドガー賞を受賞しているのにはちょっと驚いた。ちなみにこの手の話では自分が好きなのは『世界の中心で愛を叫んだけもの』に収録されている「ガラスの小鬼が砕けるように」である。)
 扶桑社版の短篇集『死の鳥』が刊行されなかったのはかえすがえすも残念なことではあるが、もしもその結果として日本オリジナル編集の本書が生まれたと言えるのなら、それはそれで喜ばしいことかもしれない。解説で高橋氏が述べているように、今年は若島正氏の編纂によるエリスンの犯罪小説短篇集が国書刊行会から刊行予定とのこと。まだまだ楽しみは続きそうだ。

第6回名古屋SF読書会レポート

  ※遅くなってしまい申し訳ありませんが、さる7月30日(土)に開催された読書会について
    レポートをまとめました。バリントン・J・ベイリー『カエアンの聖衣』の内容に触れ
    ていますので、未読の方はご注意ください。

 名古屋SF読書会も早や第6回を数えるまでになった。今回の課題本はアニメ『キルラキル』の元ネタになったとして、アニメ放映時に話題になったバリントン・J・ベイリーの『カエアンの聖衣』。刊行当時は「ワイドスクリーン・バロック」と呼ばれる一群の小説の代表作として一部マニアの間で話題になったが、その後、絶版となって長らく入手困難となっていたものだ。このたび目出度く大森望氏の新訳で復刊が叶ったのを記念して、課題本に選ばれた。かなり癖のある作品だけに、SFを読み慣れていない人も多く参加するこの読書会でどのような意見が出るか、興味深くもちょっと怖くもある。(笑)
 ツイッターやフェイスブックで告知をしたところ、申し込みの出足は早かったが、ある程度のところでぴたっと止まってしまった。うーむ、やはり古典的な有名作と違ってファンの食いつきはいいが広く興味をそそるものではないのか?面白いのになあ......。(しかし最終的にはスタッフも入れて30名弱となり、丁度しゃべりやすいくらいの人数になったので、このような作品には却って良かったかも知れない。)

 読書会の前半はいつものように3つのテーブルに分かれ、ホワイトボードに書きながらのグループ協議。そして休憩を挟んだ後半は、ホワイトボードをずらりと前に並べて全員で各グループの意見の確認と質疑応答を行うという、いつものパターンで進めた。
 前半の部は自分の班は9名。まずは各自が順番に感想を述べ合い、その後、疑問点や意見を交わすのだが、旧版刊行当時に読んだというSFファンの人と、今回新訳で初めて読んだという人が入り混じるのでなかなか面白い。さらには翻訳家の中村融氏が加わっていただけたので、「ワードスクリーン・バロック(*)」が日本に紹介された時のエピソードや、ベイリーについてとても興味深い話が聞けたのは良かった。
 なにしろベイリーは奇想天外なアイデアがウリの作家。本書もまともな人物が出てこないアクの強い作品なので初読の人にどのように受け入れられるか不安だったのだが、その点は杞憂だった。自分の班では初読・再読関係なく概ね好評で、「まともな登場人物が出てこない(笑)」と言われつつ、みなさん結構愉しんでいただけたようだ。

   *…SF作家のブライアン・W・オールディスが著書『十億年の宴』で、ある種の
      SF作品に対して名付けた名称。彼はアルフレッド・ベスターの『虎よ、虎よ
      !』について「絢爛豪華な風景と、劇的場面と、可能性からの飛躍に満ち
      た、自由奔放な宇宙冒険物」(P284)と呼んだ。同じような傾向の作品を書く
      作家として、他にはA・E・ヴァン・ヴォークトや、チャールズ・L・ハーネス、
      クリス・ボイスなどがいる。

 グループの中で出た意見で印象的だったのは、人物の描き方が表面的だという指摘。これはベイリー作品の本質にも関わるところだと思う。突拍子もない奇想天外なアイデアを惜しげもなく大量に投入して読者を煙に巻く、あるいは異様な宇宙やいびつな社会を描いて気味悪くも蠱惑的な世界に読者を招待する、そんなところが魅力であるワイドスクリーン・バロックは、その反面、キャラクターが物語を進める上での道具でしかなく、いわゆる「文学的な深み」に欠けるという弱点を持つ。代表格であるベイリーはまさにそういった形容がぴったりくる作家ではないだろうか。(注:これはもちろんベイリーがSF作家として優れていないということではない。)
 ちなみに中村融氏からは「ベイリーは小説がへた」という身も蓋もないご意見を頂戴した。(笑)本書にはリアルド・マストを始めとする3人組のギャングが登場するのだが、この3人の書き分けが出来ておらず区別がつかないという話から、旧訳の翻訳を担当した冬川亘氏はひとりの人物を関西弁にするという荒業に出たというエピソードまでご紹介いただき、みな驚く。なるほど、旧作では主人公の服飾家ペデル・フォバースが自分のことを「あたし」と呼ぶなど優男(?)ぶりが目立っていたように思えたのだが、それも訳者の工夫だったわけか。
 皆がこぞって褒めていたのは、インフラサウンドを武器に戦う生物や蠅の惑星の異様な生物たち、ヤクーサ・ボンズとソヴィア人、カエアン人たちの異質な世界、そして何と言ってもフラショナルスーツに秘められたおそるべき力と隠された秘密など、次から次へと投入される豪華絢爛なアイデアの数々だ。すごいアイデアに圧倒されながら続きを読んでいくとそれっきり出てこなくて、「これで終わりかよ!」の繰り返しだったという方もいたが、本書では最終的には設定がきちんと辻褄を合せた形で収束しているのも、(ベイリーには珍しく/笑)小説としての完成度が高くて好印象だったようだ。
 最初に旧訳版に読んだときには蠅の惑星やヤクーサ・ボンズの印象が強烈に残っていたのだが、今回再読してみて、それらのパートの分量が記憶よりもはるかに少なかったことが意外だった。逆に言えばそれほど強く記憶に残ったということであり、初読の人はあれをどのように感じたのか訊いてみれば良かったのだが、つい聞きそびれてしまった。学生時代は仲間内でかなり話題になったのだが。(他に印象に残ったシーンとしては、惑星プロッシムに“フラショナルスーツの花”が咲くところを挙げておられる方が何人かいた。)
 なお、なぜ本書に日本人(の末裔)が出てくるのか?という疑問に対しては、ヤクーサ・ボンズが裸であることから当時イギリスで人気のあったスモウレスラーと歴史上の僧兵のイメージを重ねたのではないかという意見があったことを付け加えておきたい。これも中村氏の情報によれば、当時のイギリスでは日本ブームがあったということらしい。

 ひととおりの感想が出尽くしたところで、中村氏から参加者への特別サービスの話題提供があった。日本においてワイドスクリーン・バロックがどのように紹介されてきたかについて、1978年刊の「SF兵器カタログ」というムックまで遡って繙いていくというもので、知らなかったことが次々出てきてとても面白い。(**)

  **…中村融氏には他にも「ベイリーは自分がダメ人間なので作品にもダメ人間をよく
       登場させる。結果的にアンチヒーローを描くことになる」とか「ベイリーは蟹が
       好きだが、それは“硬いものの中に柔らかいものが詰まっている”というセルフ
       イメージから」といった、とても面白い話を聞かせていただけた。

 休憩が終わってからはホワイトボードを前にして、各グループからの報告と全員による質疑応答の時間。「少年JUMPの漫画みたい」とか「“服”は自然に反して人間が作り出した“価値”を体現するものであり、ひとつの文化を背負うものである」、あるいは「服を着るカエアン人と服に着られるザイオード人」などといったなかなか示唆に富んだ指摘が出たが、総じていうとやはり「ヘンテコで面白い話だなあ」という感じだったのではないだろうか。
 自分としては、大好きな作家の大好きな作品がdisられることなく好評を博したので正直ホッとした。(笑)『キルラキル』効果なのだろうか、どうやら本書の売れ行きが良かったのか11月には新しい短篇集『ゴッド・ガン』が出るらしいし、ベイリーファンとしては喜ばしい限りだ。

<追記>
 次回、第7回の名古屋SFシンポジウムも予定が決まった。期日は11月23日(水・祝)で、課題本はスタニスワフ・レムの名作『ソラリス』(ハヤカワ文庫)。ロシア語版からの重訳で一部が省略されている『ソラリスの陽のもとに』ではなく、ポーランド語版からの原典訳版なので、これまで読んだことのある人もまた違う印象を持つのではないかと、参加者の皆さんの感想をお聞きするのが今から楽しみで仕方ない。

2016年8月の読了本

 親の介護の話は兄貴と協力しながら徐々に進めている。残りの余暇についても、7月は読書会、8月はSFシンポジウムの対応で時間をつかったこともあり読書はなかなか厳しい状況が続いている。(でも読書会とシンポジウムは準備の甲斐あってとても充実したものになったので良しとしよう。)
 さてそんなわけで今月も読めたのはたったの2冊。時間が取れない分、選書にはこれまで以上に気を遣っているので、どちらも面白い本だった。(しかしこのペースだと、ストレス解消のために買う量が増えているのと相まって、本が溜まっていくなあ。どうしよう。/苦笑)

『怪談四代記』小泉凡 講談社文庫
 副題は「八雲のいたずら」。小泉八雲の曾孫にあたる民俗学者が、八雲に関するエピソードを語るエッセイ。八雲に関わる世界各地の人々との交流や、それにまつわる不思議な体験の思い出がとても面白い。そして図らずも、優れた小泉八雲論にもなっている。八雲の足跡を辿る著者自身の旅行記も面白いのだが、ところどころに挿入される曾祖父・小泉八雲やその息子(著者の祖父)である民俗学者・小泉一雄の著書からの引用がまた愉しい。(八雲:『明治日本の面影』、一雄:『父「八雲」を憶ふ』など)本書を読んでいるうち、それらの本も読みたくなってきた。こうしてまた読みたい本が増えていくのだ。(笑)

『魔法の夜』スティーヴン・ミルハウザー 白水社
 ローラにハヴァストロー 、クーパーやダニーにリンダ、そしてショーウィンドウのマネキンたち……。老若男女、人生の憂さに身を焦がし、満たされぬ思いを抱える全ての者たちの上に、月の光と夜の声による魔法の夜が訪れる。心に残る佳作。
 ミルハウザーは面白いのだが何となく腑に落ちないところがあって、それほど良い読者ではない。でもこの本はとても面白く読み終えることが出来た。自分が大好きなジョン・クロウリー『リトル・ビッグ』もそうだが、直接言葉にできないものを様々な描写の積み重ねで徐々に暗示していく話が好きだ。
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Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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