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2018年11月の読了本

『零號琴』飛浩隆 早川書房
宇宙に謎の痕跡を残して立ち去った存在、世界開闢の「假面劇」を演じる星の住民たち、そして500年ぶりに復活されんとする伝説の巨大楽器・零號琴……。魅力的なガジェットと漫画やアニメのパロディをふんだんに散りばめ、わくわくする物語に仕上げたエンタメ小説。これは面白い。一部に重たい設定や残酷シーンもあるにはあるが、基本的には明るくごきげんな正統派SFだった。全体は『天空の城ラピュタ』に代表される宮崎アニメのトーンに近いと思う。これは主役のキャラによるところも大きいにではないだろうか。内容的にはディレイニーみたいなところもあるしヴァーリィかと思ったらヴァンスみたいでもあるし、いろんなSFのいいところばかり集めた雰囲気。オールドファンは、さま座な先行作品へのオマージュである《ハイペリオンシリーズ》みたいに楽しんで読めると思う。最初の方ではジャック・ヴァンスの中篇「月の蛾」を思わせる「假面劇」のシーンがとても面白い。ゼラズニイ 「フロストとベータ」、ヴァーリィ《八世界シリーズ》、ディレイニー『エンパイア・スター』《人類補完機構シリーズ》あたりかな。
またSF以外に漫画やアニメのパロディも多かった。『仙女旋隊あしたもフリギア!』がテレビアニメの《プリキュア》なのは明らかだけど、他には「牛頭」と五柱の神が『六神合体 ゴッドマーズ』だったり「五聯社(ゴレンジャ)」(=秘密戦隊ゴレンジャ―)というのも出てくる。「鐡靭(てつじん)」は名前から『鉄人28号』なのかと思ったが、あとの展開をみるとどうやら『風の谷のナウシカ』の巨神兵のようだ。『フリギア!』の最終回エピソードはまるで『魔法少女まどか・マギカ』だし、『新世紀エヴァンゲリオン』もあちこちに見え隠れする。
それから意外と手塚治虫のパロディがあったようにも感じた。たとえば「峨鵬丸」は『火の鳥 鳳凰編』の「我王」だし「梦卑」は『火の鳥 未来編』に出てきたムーピー。「亞童」が合体するシーンは『鉄腕アトム』のガデムみたいだし、トロムボノクは『どろろ』の百鬼丸だったりする。シェリュバンの変身シーンは『バンパイヤ』かも知れない。(読んでいない人には何のことかさっぱりわからないですね、失礼しました。)
以上、パロディやオマージュを思いつくままあげてみたが、あくまでもそれらは読者を愉しませるためのテイストであって、小説の骨組みはたいへんしっかりしたものである。ひとつの民族の発生と凋落を描いて壮大なスケールのSFとなっていて、仮にパロディパートが無かったとしても、迫力のある本格SFになっただろう。奇作にして怪作、そしてまた力作であり傑作であるという稀有な小説だった。

『三つの物語』フローベール 光文社古典新訳文庫
フローベールの最高作ともされ、舞台も時代とタッチも全く違う三つの物語が微妙に呼応し合う作品集。最初の「素朴なひと」では無学で朴訥、そして純真なひとりの召使い女性の一生を、飾り気なく素直に語る。自分としてはこの「素朴な人」で描かれる一人の女性の抑制が効いた物語も、最後の「ヘロディアス」で描かれた、ヘロデ王とサロメと「ヨカナーンの首」の緊迫に満ちたエピソードへと至る絢爛かつ腐敗に満ちた物語もそれなりに良かったが、なんといってもふたつめの作品である「聖ジュリアン伝」の純粋なまでの残酷さと救済の美しさに心奪われた。話はまったく違うのだが、前半の雰囲気などはちょっと坂口安吾「夜長姫と耳男」や石川淳「紫苑物語」を連想させる。50ページ近くに亘る詳細な解説も読み応えがあって、フローベール初心者には良い一冊となった。

『永遠のファシズム』ウンベルト・エーコ 岩波現代文庫
知の巨人エーコが「モラル」をテーマに書いた五つの小文を収めた評論集。表題の文章だけでなく湾岸戦争のさなかに発表された冒頭の「戦争を考える」や巻末の「移住、寛容そして堪えがたいもの」をセットで読み、さらにマルティーニ大司教との往復書簡への返答である「他人が登場するとき」、イタリアメディアを巡る「新聞について」を補助線として全体を俯瞰すると、「自由と解放」「知識」「不寛容と排斥」といった著者の深い思索が心に沁みてくる。ぜひともレムの『主の変容病院・挑発』と併せて読んでいただきたい。
「戦争を考える」で言及されるように、自分に賛同するものを味方とし(異なる考えを持つものをひとかたまりにして)自分に賛同しないものを敵とみなすことの恐ろしさは、いつの時代にもどこの世界でも通用することだろう。また「戦争はもはや、多国籍資本主義の本質そのものによって、正面衝突にはなりえない」「権力はもはや一枚岩でも「単一細胞」でもない(中略)権力は拡散し細胞化することで、絶えず無秩序な離合集散を繰り返す無数の合意によって成り立っている」 といった言葉を目にすると、自らの政権と一族郎党の利権の維持に腐心し、そのために仮想敵国と同盟国という単純な国家意識に固まった某国の政権は一体全体なんであろうかという疑問もわいてくる。「鏡ではなく窓をみよ」は心に刻んでおきたい主張である。

『所長』スワヴォーミル・ムロージェク 未知谷
ポーランドで小説や戯曲、漫画なと幅広い創作活動をこなす作家の作品集。無性に変な話が読みたくなったので読んだのだが、期待に違わずとても変だったので満足した。どことも知れぬ国の事務所を舞台にしたマンガチックでナンセンスで辛辣な掌編と、二つの短篇集から選んだ不条理とブラックユーモアに満ちた短篇の数々で構成される。つらい社会ほどユーモアが冴えるというのは世のならいだが、共産主義体制下のポーランドを風刺する筆者の筆はやはり冴え渡っている。植田まさしのサラリーマン4コマ漫画、あるいは落語の「ぜんざい公社」を連想させるような、杓子定規で非効率な社会制度のくだらなさに哄笑をあびせるドタバタ喜劇を笑いながら読んでいるうち、松尾芭蕉の「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな」を思い出した。この続きにはカフカ『審判』や残雪『黄泥街』があるような気もする。底知れぬグロテスクもかすかに。ラストの「乗客」がかなり好きだ。

『不思議の国の少女たち』ショーニン・マグワイア 創元推理文庫
様々な物語に出てくる異世界へ行って戻ってきた子ども達。この世界にとけ込めない彼等を引き受け、折り合いをつけるすべを学ばせる為の寄宿舎があった……。可愛らしい表紙とは違うビターな雰囲気にあれあれと思いつつ読み進むうち、事態はまるで『クリムゾン・リバー』のような展開へと至る。ヒューゴ、ネビュラ、ローカスの三賞を受賞しているが、「SF文庫」でなく「推理文庫」のレーベルで出たのはファンタジーという括りで扱うということなのだろう。しかし内容的にはゼラズニイ『虚ろなる十月の夜に』を思わせる薫りもあり、ジャンルミックスと言えるかも。(ゼラズニイ の『虚ろなる十月の夜に』や『影のジャック』、あるいは《真世界シリーズ》のようにSFかファンタジーが判然としないものや、キム・ニューマン《ドラキュラ紀元シリーズ》のように、ジャンルの先行作品をうまく借景したような作品はどれも面白い。要は面白ければ良いのだ。)

『天体による永遠』オーギュスト・ブランキ 岩波文庫
19世紀の革命家ブランキが、長い幽閉生活のなかでも特に過酷だったトーロー要塞の土牢で書いた晩年の著作。久しぶりの再読だが非常に面白かった。ラプラスの宇宙生成論を端緒に宇宙の無限の広さと時間に想いを馳せ、綿密な分析の果てに驚くべき光景を幻視する。神秘主義を排した徹底的な科学的思考の行き着く先が、ニーチェの永遠回帰や量子力学にもつながる多元宇宙論であるというのが大変に面白い。これを解説のようにペシミズムととるか、もしくは積極的な生の肯定ととるかは読む人の自由であろうと思う。ちなみに19世紀の著作だけあって天文学に関する科学的な記述や知見に関しては今の時代から見て明らかな間違いが山ほどある。しかしそれはあれこれ言っても仕方のないことであり、むしろその奇想をこそ愉しむべきかと、幻想小説ファンとしてはそう思う。

『怪獣』岡本綺堂 中公文庫
《岡本綺堂読物集》の最終巻となる第7巻。怪談や探偵小説がまだはっきりとは分かれていなかった時代だけに、完全なる犯罪小説から摩訶不思議な奇談までバラエティに富んでいる。個人的にはちょっと不思議でちょっと怖い因縁話の表題作や「恨の蠑螺(うらみのさざえ)」の他、「海亀」「経帷子の秘密」「夢のお七」あたりが好物であった。
少し本書の話からはそれるが、自分は「怪談」とは単なる「こわい話」ではなく不可思議なことがつきものであると思っているので、「怪談」は幻想小説のひとつのサブジャンルであると考えている。したがって異常人格者によるサイコホラーなどサスペンスを主体として「こわい話」は別のカテゴリーであって(注:そちら系の話があまり得意ではないこともある)、怪談とは怖さの中にある割り切れなさを愉しむ娯楽であると考える。ちなみに「幻想小説」の場合は、怖さの代わりに懐かしさが混じってくる感じかも知れない。自分にとって良い怪談と幻想小説とはそんな風なものだ。(もしかしたら怪談は「怪しい話」であっても恐怖小説ではないのだから、別に怖くなくても良いのではないか?という気もしている。「おそれ」という言葉に「恐れ」と同時に「畏れ」という漢字が当てられているように、結果的に底知れぬ不気味さを感じることはあっても。)
また日本の「怪談」とともに西洋の「怪奇小説」も自分は好むものであるが、両者に共通することとして不可思議なものに対する畏れであったり理解できぬことからくる不気味さであったりが見受けられると思う。少し違うところがあるとすれば、対象が水平方向の異界である日本に対し、西洋は上下方向の超自然であることだろうか。ブラックウッド『ウェンディゴ』や『人間和声』などは良い例かも知れない。そして「怖さ」ということで近いのは、例えばエイクマン『奥の部屋』やウエイクフィールド『赤い館』など。いずれも泉鏡花や岡本綺堂、小泉八雲などの作品に共通する「理解し難さ」を持っている気がする。どれも好みである。

『グルブ消息不明』エドゥアルド・メンドサ 東宣出版
オリンピック前のバルセロナを舞台に、決まった肉体を持たずどんな姿にもなれる異星調査員が引き起こす16日間のドタバタを描く。行方不明になった相棒を探す主人公の独白が、ピント外れで時にシュールで妙におかしな光景を映し出すのだが、おそらく書かれているとおりに受け取ってはいけないのだろう。(これも一種の「信頼できない語り手」なのだろう。)本書が収録されている叢書の名前のように《はじめて出逢う世界のおはなし》としてはちょっとハードルが高いかも知れないが、それもまたいい。『パパラギ』のような文明批評として読むのも、筒井康隆のようなギャグとしても読むのもまた自由だ。

「還ってきた老人から始まる仄暗い百の断片」倉阪鬼一郎 惑星と口笛ブックス
シングルカットシリーズの一作。無窮の天蓋の下に広がるは海であり砂でありどことも知れぬ半島の過去の記憶。夜は終わりの始まりでありまた始まりの終わりでもある。こういう感覚は幻想の読書の悦びである。

『19本の薔薇』ミルチャ・エリアーデ 作品社
世界的宗教学者が残した最後の長篇幻想小説。チャウシェスク政権下のルーマニアで老文豪が演劇的なスペクタクル(≒イニシエーション)を通じて自らの記憶回復を図り、《絶対的自由》へと至るまでを緊迫した筆致で描く。エリアーデの幻想は朦朧としたものではなく明晰な論理に基づくものであり、喩えていえばエッシャーの絵のようなものだ。ひとつひとつの要素が意図するところは明解だが、それを丹念に辿ってゆくといつのまにか捻れた世界へと誘われ、ラストに見えてくる全体像は現実世界にはない思考実験となっている。帯に「これほど巧妙にカムフラージュされたメッセージが解読されるかどうかは疑わしい」という著者の言葉があるが、はたして自分はきちんと読み解くことが出来たのだろうか。

『夢みる人びと』イサク・ディネセン 白水uブックス
《七つのゴシック物語》の第2巻で、表題作の他「エルシノーアの一夜」と「詩人」の計三作を収録。どれも読み応えのある物語ばかりだ。一度もみたことのない名作映画を名画座で立て続けに観ているような贅沢感に浸りながら、隅から隅までじっくりと堪能した。先の読めない展開と、あっと驚くような仕掛けが、この《七つのゴシック物語》に収められた作品のいずれにも共通する魅力だ。
たとえばひとつめの「エルシノーアの一夜」は本の密度というか、1ページあたりの文章のみっちりした重さがすごい。内容の濃さはもちろんそうだが、改行がなく地の文と一緒に並んでいる会話文も、そしてどこに連れて行かれるか判らない展開も「そうか、こうくるのか」という感じ。とても好い。つぎの「夢みる人びと」は夜の海をゆくアラビア帆船の上で「夢」について語る詩人と放浪のイギリス人の情景から始まる。「エルシノーアの一夜」とはうってかわって殆ど会話もしくは独白で話が進んでいき、はじめは『千夜一夜物語』かと思ったが実はメリメ『カルメン』でありリンゼイ『憑かれた女』であった。ファム・ファタールに翻弄される男たちの物語を中心に、話中話が複雑に入り乱れてややこしいが面白い。そして最後の「詩人」。これにはびっくりさせられ、思わずぽかんと口を開けてしまった。本書と対になる第1巻『ピサへの道』所載の短篇「猿」ぐらいびっくりした。とんでもない話だ。以上3作の中で一番好きだったのは「夢みる人びと」だが、出来としてはいずれも甲乙つけがたい。(ちなみに『ピサへの道』では「ノルデルナイの大洪水」と「猿」が好きだった。)
ディネセンの作品がすごいのは、物語に登場していない時間も含めて世界が動いている感じかするところだと思う。だから主人公は思わぬ運命で翻弄されもするし、描かれている部分以上に物語に厚みがある。観客に見えない所でも舞台が続いている演劇のようだ。読んだときの感触としてはレオ・ペルッツに近い。(ペルッツの方が外連味が強いが。)食べ物で言えば赤身のブロック肉をかたまりのまま焼いたステーキのような感じ。みっしりと詰まった文章に歯を立てて滋養にみちた塊を食いちぎる。咀嚼するほどに旨味がましてくる。飲み込むのに時間がかかるけど、食べ終わったあとの満足度は高い。いちどに沢山は読めないけれど、読めば必ず満腹になれる。

『裏世界ピクニック3』宮澤伊織 ハヤカワ文庫
実話怪談系のネットロアを題材にした異世界探検物の第3弾。実話怪談をネタにした冒険物というのがとても新鮮で、かつてテレビ放映されたアメリカのドラマ『事件記者コルチャック』が大好きだったので毎回楽しく読んでいる。本書を怪事件解決物として読むとするなら、空魚の右目と鳥子の左手が変異して怪異に対抗する力を持っているという設定が秀逸だと思う。ラブクラフトの《クトゥルフ神話》では宇宙的恐怖の存在からひたすら逃げるしかないが、その後同じ設定を借りたブライアン・ラムレイの〈タイタス・クロウ・サーガ〉に至っては、その恐怖と対峙(退治?)出来るようになった。本書も「ひたすら避けるしかない恐怖」を語った実話怪談のネタを対処できる脅威にアレンジし直したことが、娯楽小説としての間口を広げたと思う。 あと寺沢武一の『コブラ』や『ゴクウ』のように必殺の手や目を持っているというのは、いかにもマンガチックでとっつきやすいと思う。(ちなみに一部で話題になっているように、本書には「百合SF」という側面もあるようだが、そちら方面について自分はまったくの門外漢なので省略する。)

『トランスヒューマンガンマ線バースト童話集』三方行成 早川書房
第六回ハヤカワSFコンテスト優秀賞受賞作に加筆修正した連作集。SFであり童話であるというよくわからない物語が全部で6篇収録されている。こういったジャンル越境型の物語は大好きなので書店で見かけてさっそく読んでみたところ、中身は昔話をモチーフとしつつも結構真っ当なSFだった。軽快かつ痛快。読みやすくて非常に洒落ている。(もうちょっと訳がわからないぐらいでも良かったかも知れない。)ベースは情報技術や物理学をネタにしたハードSFだが味付けは作品によって違う。ジョン・ヴァーリィのようなものからルディ・ラッカーぽいもの、あるいは飛浩隆やコードウェイナー・スミス、はてはゼラズニイ的なものまで様々。個人的には「スノーホワイト/ホワイトアウト」と「アリとキリギリス」あたりが好みだった。(しかし「ちゃんとSFしてたからちょっと残念」というのは我ながら変な読後感だ(笑)。奇妙な味や幻想小説のような得体の知れない話に慣れすぎたのかも知れない。ポップな装丁は中身に合っていてよかったと思う。

『吉田知子選集Ⅲ そら』 景文館書店
幻想的な短篇を全部で9つ収録。どれも秀作揃いだが表題作「そら」と「ユエビ川」にはとりわけ鬼気迫るものを感じた。初っ端の「泥眼」と「静かな夏」からどろんどろんのぐちゃぐちゃだが、あとの方の作品になるほどねちっこさが増していく。つづく「箱の夫」はこれまたすごい。意味がさっぱりわからない。徹頭徹尾、鉤括弧つきの「変」で溢れている。怖くなくて可笑しくもなくて、ただ「変」であるというのはとても難しいことだ。面白いし、なにしろ大したものだと思う。「艮」は大変分かりやすい円環の地獄であり、再読だがやはり好かった。「穴」は名状しがたいものになんらかの名前を付け、ついでに折り合いも付けて生きてゆくタイプの話。「犬と楽しく暮らそう」もそうだ。著者おとくいのもやもや感がよく出ていて、いずれも満足度は高い。また「幸福な犬」ではあからさまにある対象を暗示もしくは揶揄しているのだが、それに目を向けることが恐ろしい。また「ユエビ川」には山野浩一や『スミヤキストQの冒険』の倉橋由美子に通じるものがあると思う。そしてラストの「そら」。ここに至ってとうとう何処かへ連れ去られてしまった感がある。個人的には今村夏子『こちらあみ子』にも通じるものがあると思うが、上田秋成『春雨物語』の印象も持った。以上9作品を通して読んでみて、久しぶりに幻想のもつ恐ろしさを味わった気がする。著者の本は本書以外には講談社文芸文庫『お供え』しか読んだことが無かったのだが、どうやら病みつきになりそうである。氏の作品の特徴としては、節の区切りがなく、長い作品でも最初から最後までひとかたまりで続いていくというのがある気がする。起伏がない何とも形容しがたい話がぬめぬめと続いていくのは、気持ち悪さを感じるとともに快感でもある。

『花嫁と仮髪(かつら)』大阪圭吉 書肆盛林堂
古書店の盛林堂が精力的に発行している《盛林堂ミステリアス文庫》の最新刊。「大阪圭吉 単行本未収録作品集1」とあるが、解説に寄れば2巻以降の刊行は未発見の掲載誌がもしも見つかったらということなので、当面はこの一冊のみということになる。表題作は披露宴会場から新婦のカツラが盗まれるという事件を描いた明朗ミステリで、颯爽と現れて事件を解決する「お嬢さん探偵小島アザミさん」がなんだかカッコいい。他にもほっこりする話や時勢を反映した勇ましい話、エッセイなどバラエティ豊かな作品を全部で8編収録しており、作品の質は高い。手のかかる仕事を丁寧にこなして刊行にこぎ着けた関係者の方の努力に頭が下がる。イラストレーターYOUCHAN氏によるレトロな雰囲気の装丁がとても美しく似合っていてご機嫌な一冊だった。

『別役実Ⅱ』 ハヤカワ演劇文庫
〈芸術選奨文部大臣賞〉と〈読売文学賞〉を受賞した著者の代表作である「ジョバンニの父への旅」と「諸国を遍歴する二人の騎士の物語」を収録した戯曲集。前者は『銀河鉄道の夜』、後者は『ドン・キホーテ』をモチーフにした不条理劇。著者はもともと『虫づくし』『鳥づくし』といったエッセイが好きなのだが、本業(?)である演劇関係の著作は読んだことがなかった。今回初めて読んでみて頗る面白かった。
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2018年10月の読了本

今月も目標の10冊には届かず。土曜日出勤が多かったのがひびいた。祝日で「読書の日」とかあると良いのだが。

『漂流怪人・きだみのる』嵐山光三郎 小学館文庫
評伝のたぐいが好きだ。と言ってもいわゆる偉人伝だとかタイコ持ちのような文章ではなく、なるべく破天荒な人物伝が好い。例を挙げれば、赤瀬川原平が明治時代のジャーナリスト宮武外骨について書いた『外骨という人がいた!』みたいなもの。だと嬉しい。
というわけで「きだみのる」という人のことは、名前に聞き覚えがあるぐらいでほとんど知らなかったのだが、書店でみかけてつい手に取ってしまった。まず題名がいい。ふつう評伝に「怪人」なんてつけないだろう。著者をみると案の定、嵐山光三郎である。これが面白くないわけがない。さっそく購入したところ、やはり大当たりだった。(ちなみに本書を読んで、「きだみのる」という名前にどこかで聞いた覚えがあったのは、開高健の対談集『人とこの世界』に出てきたからだと判明した。開高健がこの人のことを好きだったのは、ある種、彼の理想の暮らしぶりを体現していた人だったからだということも。)
さて「きだみのる」とはそもそもどういう人物なのか。彼は翻訳家にして詩人にして民俗学の実践者。パリ大学でモースに社会学と民族学を学び、モロッコを放浪したのち帰国して本名・山田吉彦名義でファーブル『昆虫記』を翻訳し、その後はフランス通信記者となって、戦後に映画化もされたベストセラー『気違い部落周游紀行』を書いた。アナキスト辻潤や宮嶋資夫らと親交があり、かつ満州の新京ホテルでアナキスト大杉栄を殺害した甘粕正彦からじきじきに情報部員になるよう依頼を受けたとうそぶく。全国各地に熱狂的な信奉者をもち、そしてあまりの自堕落さに疎まれる。抑圧と定住を嫌い自由と放浪を愛した。いや、愛したというより、それなくしては生きられなかった。ゴミと悪臭にまみれた部屋で知性あふれる文章を書きつづけ、行く先々でフリーラブを実践し、そして前歯が二本しかない。こんな人物ほかに見たことがない。読めば読むほど、きだみのるのあまりに破天荒な生き方にびっくりしてしまう。嵐山光三郎は傍観者に徹したときに本領を発揮する気がする。まとわりつくような粘り気をもつ文章は、例えば『桃仙人』や本書のように実体験に基づいたものを書くとき、さらに毒気と破壊力を増す気がする。対象の醜悪さも魅力もありのままに描写して、本質を見抜く力がすごい。
嵐山光三郎は若い頃にきだの担当編集者だったそうで、本書はその思い出を中心につづられている。彼は1年以上に亘って昼夜きだにつきそい、敬愛しつつも疎んじた。(その気持ちは「厄介」という言葉で表現されている。)
嵐山の筆は、自由を追い求めた男に忍び寄る老いと衰弱と焦りとを、愛情と非情がないまぜになった冷徹さで描き出す。生と性への執着の果てに見えてくるのは、崩れ落ちつつある伽藍の悲哀もしくは大いなる虚ろに他ならない。ページの向こうに、走り続けたまま朽ちていった男の壮絶をみた。
第9章には、きだみのると彼の娘ミミをモデルにした三好京三『子育てごっこ』の直木賞受賞の顛末と、三好の養女となったミミのその後が書かれている。
「いつもいらだっている。(中略)徒党を組まずに漂流する意思と、土俗に執着して村の先生になりたいという願望がある。ミミくんを小学校に入学させたい気持と、いつまでも自分の手もとで育てたいという執着がある。矛盾をかかえて生きている。」
たしかにきだみのるは「厄介」ではあったが、それは人間的な魅力の裏返しでもあった。そんなアンビバレントな思いを丸ごと飲み込むことが出来た嵐山光三郎だからこそ醜悪に揶揄された『子育てごっこ』のミミときだ、そして売名の意図すら透けて見える三好の姿勢に対して、素直にNOといえたのだろう。善かれ悪しかれ、きだと過ごした年月を通じて、著者の人生もまた大きく変わったのだ。そして今や漂流老人・嵐山光三郎である。凡ゆる意味で破天荒だった男の晩年と、彼の業を引き継いだ幼い実子のその後を活写して、文庫だけれどかなり読み応えがあった。

『筒井康隆、自作を語る』 早川書房
作品の解説というだけでなく当時の出版事情の説明や交友録でもあり、そして世相の紹介でもある。デビュー作「お助け」から2017年の『モナドの領域』まで、長短篇の数々を発表当時のエピソードを交えて語り尽くした感がある。 聞き手の日下三蔵氏の事前調査がまずもって超人的で、そこに筒井康隆氏の驚異的な記憶力が相まっての面白さといえるだろう。自選短篇集の解説や全著作リストも入ってファン必携の一冊。いやあ面白かった。

『目まいのする散歩』武田泰淳 中公文庫
死後に野間文芸賞を受賞した著者の最晩年のエッセイ。人生のさまざまな場面、現在に至る記憶の中を歩く。読んでいるうち、「散歩」という言葉が行為から乖離して、著者の生そのものへとなっていくように感じる。自覚しようがしまいが、日々のあらゆることは生きることに繋がっているのだ。そして著者にとって「散歩」とは、移りゆく月日を過ごし生を続けてゆくことだったのだろう。自らの命を一歩ずつ確かめるような歩みが、読むほどにじわじわと効いてくる。エッセイというよりは内省録と呼びたい。以下、思いつくままに感想を。
「笑い男の散歩」に出てくる笑い男とは著者のことである。病気のために、常に薄ら笑いを浮かべたような顔つきになった著者が、靖国から千鳥ヶ淵、そして代々木公園を散歩する。歩くことは生きることである。「あぶない散歩」に子どもの頃に見た花電車の思い出が書かれている。(そういえば自分も子どもの頃に「花バス」なるものを見に行った。いつのまにか無くなってしまったが。 路上で長く待たされて、貧弱なデコレーションに包まれたバスがあっという間に通過していくのを眺めていた覚えがある。あれが貧弱に見えたのが、「昔」と「今」との分かれ目だったのかも知れない。バブルの狂騒の遥か以前の話。)
「いりみだれた散歩」の中にはこんな一文がでてくる。
「新聞もとっていなかったので、あたりの風景は、(中略)妙にはっきりと迫ってきた。世の中は、新聞なしでも、われわれの周辺に実在していた。国内の大事件とは離れていて、事件と事件はつながらずに、ただ風に吹かれて、ひろがっていた」
スマホやパソコンの画面を通じてあらゆる情報が手に入るが、虚実もはっきりとしないまま、うすぼんやりと自らが心地の良いと感じる観念をもてあそぶ。 そう考えだすと、ただ立ち尽くして観察することしか出来なくなるわけではあるが。本を読み内容を理解する行為は手間がかかるものだけれども、その分、内省の時間を得ることになるのかも知れない。
「鬼姫の散歩」には氏が"鬼姫"と称する彼の妻(作家の武田百合子氏)とのなれそめと、二人の間に産まれた娘がまだ幼かった頃の思い出とが書かれている。周囲の様々な死に彩られた思い出話はひりひりと痛い。脳血栓で倒れた著者の記憶の散歩である。最後の「船の散歩」と「安全な散歩?」は昭和四十四年に夫婦でソ連旅行をした時の記録になっている。粛清の時代を過ぎた社会主義の街並みを、糖尿病のため朦朧とした状態で旅してゆく。突然、旧日本陸軍二等兵の記憶が交叉して、今と過去とが入り混じる。奔放な妻がとてもいい。その時の様子を妻の視点で書いた武田百合子『犬が星みた』も読んでみたくなり買ってきた。。

『魔法の庭・空を見上げる部族』カルヴィーノ 岩波文庫
既刊の晶文社/ちくま文庫版にさらに五篇を追加した、ほぼ決定版に近い短篇集。第二次大戦やその後のイタリアを舞台にスケッチのような「素直」な物語が展開する。カルヴィーノは初期のリアリズムと後の放埓な空想がどう繋がっていくのか以前から疑問だったのだが、訳者・和田忠彦氏による解説で納得できた。ただ巻末に収録された三作「アンティル諸島の大凪」「空を見上げる部族」「ある夜のスコットランド貴族の独白」はそれまでのリアルな他作品に比べて格段に妄想度が高くて、この路線の延長を少し行ったあたりにレオ・ペルッツなんかがいそうな気がする。(カルヴィーノは同じ虚構でもそこから少しずれた方向に進んでいったわけだが。)

『異類婚姻譚』本谷有希子 講談社文庫
芥川賞を受賞した表題作のほか「トモ子のバウムクーヘン」「〈犬たち〉」「藁の夫」の全部で四つの短篇を収録。どれも現実と深淵のあわいを描いて幻想的かつスリリング。「異類婚姻譚」では、家で何もしない怠惰な生活を送る旦那は、緩み続けてやがて人の姿すら留めなくなる。徐々に「私」は蝕まれていき、やがて二匹の蛇がお互いの尾を飲み込むように二人の姿は瓜二つになってゆく。そして不気味さと恐怖が最高潮に達した時、一夜の夢のような幻想が花開く。こういったリアルな気味悪さも好いのだが、「トモ子のバウムクーヘン」の怖さはラブクラフトの諸作品やホジスン『異次元を覗く家』などコズミックホラーに通じるものがあるし、シュールな「藁の夫」やだんだんと恐ろしさが増してくる「〈犬たち〉」など、まるで「奇妙な味」の作品集を読んでいるよう。読後感の悪さも含め、海外小説好きにはお薦めの一冊だと思う。

『黄泥街』残雪 白水uブックス
凄まじい本を読んだ。汚穢と邪推と虚言、空疎な会話の繰り返し。まるで等活地獄の屎泥処をみているかような悪夢のような描写がひたすら続く。読みやすくはあるが読むのにかなり力がいった。全く予想だにしなかった世界を見せられた。中国文学の力は恐ろしいとおもう。これは開高健が短篇「玉、砕ける」で書いた難問へのひとつの答えなのかも知れない。開高健の書いた難問とは「白か黒か。右か左か。有か無か。あれかこれか。どちらか一つを選べ。選ばなければ殺す。しかも沈黙していることはならぬといわれて、どちらも選びたくなかった場合、どういって切りぬけたらよいか」というもの。
「二つの椅子があってどちらかにすわるがいい。どちらにすわってもいいが、二つの椅子のあいだにたつことはならぬというわけである。しかも相手は二つの椅子があるとほのめかしてはいるけれど、はじめから一つの椅子にすわることしか期待していない気配であって、もう一つの椅子を選んだらとたんに『シャアパ{殺せ}!』、『ターパ{打て}!』、『タータオ{打倒}!』と叫びだすとわかっている。こんな場合にどちらの椅子にもすわらずに、しかも少くともその場だけは相手を満足させる返答をしてまぬがれるとしたら、どんな返答をしたらいいのだろうか。」
開高は作中である答えを示唆しているが、本書もまた剣ヶ峰を辿る別の解なのだという気がする。

『台湾生まれ 日本語育ち』温又柔 白水uブックス
台湾出身の両親のもとに生まれ、台湾人としての国籍を持ち3歳の時から日本で暮らしてきた著者が綴る、日本語と中国語と台湾語の間の半生。日本語を「国語」として育った著者の様々な思い。日本語と中国語と台湾語、あるいは外国人登録証明書とパスポートと台湾総統選挙通知表。ひとりの人にとって「国」とは何か。そして「外国人」とは。読み進むうち、大きなものは「国」の違いではなく、文化であり言葉の違いなのだと知る。好奇心の豊かさがこの本の面白さの源泉であり、品のよさが魅力である。台湾語と中国語と日本語の入り交じる森を軽やかに闊歩する著者は、自分にとって「母国語」とは、それらの言葉が入り交じる母親の「ママ語」であると誇らしげに語り、「母国」も「国語」も揺らぎの中に溶けてゆく。しみじみと面白い。哀しいわけではないが読んでいると切なくなる。沖縄の本を読んでいる感じに近いかも知れない。「マイノリティ」もしくは「帰属」の物語と言って良いかも。この著者には侵略や迫害からくる萎縮の心は無い。しかし思わぬところから突きつけられる「境界」による葛藤があり、突き詰めればそれは境界に住む全ての人にとっての、「自分」の物語となる。第64回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。

『旅人 開高健』高橋曻 つり人社
1977年から1988年まで、都合20回ほどの釣り旅行に同行して寝食を共にし、開高健を撮り続けたカメラマンが語る、記憶の中の釣り師・開高の姿。エピソード自体は『オーパ!』などの著作で憶えがあるが、異なる視点で語られるのが懐かしくもありまた面白い。写真の数々が懐かしいものから初めてみるものまでどれもきれいで、開高健のポートフォリ集としても好い。『オーパ、オーパ!!』については、開高本人によるもののほかに既に調理人・谷口博之による『開高健先生と、オーパ!旅の特別料理』があるが、本書を加えることでさらに三通りの視点から楽しめる。
強さを心にまとうのも女性への想いも食べることへの拘りも全部ひっくるめて、開高文学の基本は「ダンディズムと渇望」と思っているのだが、本書を読みながらその根っこはやはり子どもの頃の戦争体験なんだろうかなどと考えていた。そうしてみると、開高健が釣りにのめり込んだ理由もなんとなくわかる気がする。表現を替えながらも、釣り上げた瞬間に何者かを手にすることが出来るのだと何度も繰り返し書いていたから。「円環が閉じた」と。

岡本綺堂『修禅寺物語』 旺文社文庫
著者の戯曲の代表作である「修禅寺物語」の他、「佐々木高綱」「小栗栖(おぐるす)の長兵衛」「俳諧師」「新宿夜話」の計五つの作品を収める。いずれも新歌舞伎用に書き下ろされたものだ。綺堂作品では怪奇物が好きなのだが、話が巧いのでこういった人情話の類もなかなかどうして悪くない。文庫ではあるが戸板康二による解説や作品説明、坂東三津五郎による映画版の撮影秘話、円地文子による思い出の他、代表作の解題や年譜まで40ページ近くにのぼるおまけが付いたお得な一冊だった。収録作の中ではもちろん表題作はいいのだが、他にも意外と地味な感じの「俳諧師」が好きだったりする。また「新宿夜話」の第三場が、とてもいい映画のラストシーンみたいですごく好かった。岡本綺堂のリーダビリティは相変わらず大したものである。こういうのを読むと泉鏡花の戯曲なんかを読み返したくなってしまう。神無月がいい本で締めくくれてよかった。

2018年9月の読了本

今月はSF関係の本がが多かった。

『小さなトロールと大きな洪水』ヤンソン 講談社文庫
『ムーミン谷の彗星』から『ムーミン谷の十一月』まで八冊のムーミンシリーズに先立って、1945年にひっそりと刊行されていた幻の第1作目。ムーミントロールとママがいなくなってしまったパパに再び出会いムーミン谷に住み着くまでの物語。ムーミンたちの顔つきも後のシリーズとはかなり違ってはいるが、どことなく物悲しい雰囲気や登場する謎の生き物などの雰囲気はたしかに後のムーミンシリーズそのもの。古書店で見かけて迷いながらもつい買ってしまったのだが、結果的には読めて良かった。

『竜のグリオールに絵を描いた男』ルーシャス・シェパード 竹書房文庫
ひとつの谷を覆いつくし何千年ものあいだ命を永らえてきた巨大な竜。その竜による暗く密かなる支配の波動は善悪や意志、そして現実と夢の境界を越え、そこに住む者たちに生きる意味を突きつける。年間ベストに入る傑作短篇集だった。表題作のほか「鱗狩人の美しき娘」「始祖の石」「嘘つきの館」の4つの中短篇が収録されているのだが、どれも違う味わいでなおかつ読み応え充分なものばかり。冒頭の「竜のグリオールに絵を描いた男」は数十年ぶりの再読だったがやはり傑作だった。物語としての決着がはっきりしないのもL.シェパードらしくて好い。「鱗狩人の美しき娘」は初読だったのだが、これが素晴らしい。生きることには正しさも間違いもなく、偶然と(生きること自体への)誠実さがあるだけ……とでもいうべきか。竜の胎内めぐりもSF(ファンタジー?)としての仕掛けも面白いし「落とし前」のつけ方も非常にうまい。次の「始祖の石」は、グリオールによって生成されたとされる宝石「始祖の石」とカルト教団にまつわる殺人事件。それをめぐる法廷論争で二転三転する「真実」は、善悪の境い目はおろか世界認識の揺らぎと自己意識の存在そのものへの疑義をも生じさせる。何が真実かわからない後味の悪さが著たまらない。最後の「嘘つきの館」では三度びっくりした。まずはこの世界における竜という存在について、ふたつめは中盤のとんでもない展開に関して、そして最後は主人公ホタの行く末について。以上、四篇どれもが独創的かつ深い思弁性をもち甲乙つけ難かった。そしてなぜか殊能将之を思い出した。

北野勇作『その先には何が!?︎ じわじわ気になる(ほぼ)100字の小説』 キノブックス
北野勇作氏はツイッターでフォローしており、ときどき流れてくる「ほぼ百字小説」という創作を愉しみにしている。本書はその中から130篇をチョイスして書籍化したもので、装丁やイラストからすると子供向けのようだが年齢に関係なく誰でも愉しめる。茫洋としてユーモラスで何度でも読み返したい一冊だ。なにが起きているのか分からない。なぜそうなるのか分からない。読んでいくうちに360°全方位を物語で包まれる感があり、読むたびに容貌が変わるので同じものを何度読んでも話が憶えられない。全部で130篇の話が入っているのだがそれが100でも1000でもおそらく印象は変わらないと思う。「話の続きを考えようキャンペーン」というチラシが挟みこまれていたのだが、個人的にはこれらの話に続きは「無い」のだと思う。たしかに続きを書きたくなるような話もあるし、あるいは最後のオチが効いているのだとかいろんなものが入っているが、個人的にはその場にぽんと置かれたままの超芸術トマソンみたいな話が好きだ。基本的にはブライアン・イーノのアンビエント・ミュージックを聴いているような感じかもしれない。(ただし著者がサービス精神旺盛なので、ときどき落語が混じるのが妙に面白い。)色々な話のショーケースのようでもある。

『猫のまぼろし、猫のまどわし』東雅夫/編 創元推理文庫
古今東西の猫を題材にした創作やエッセイを多数収録したアンソロジー。全体は3つに分かれ、パート1は「猫町をさがして」と題して、萩原朔太郎「猫町」とブラックウッド「古い魔術」を軸に"猫町"をテーマにした創作やエッセイ、パート2は「虚実のあわいニャーオ」と題して猫の魔術的な性質に焦点を当てた実話系、そして最後のパート3は「怪猫、海をわたる」と題し、鍋島の猫騒動を中心に少し怖い物語を集めてある。自分は幻想怪奇が好きで、猫をテーマにした作品は結構こわいものが多いという印象を持っていた。しかし本書の収録作はさほど怖くはなく、比較的穏やかなものが多い気がする。たとえばパート3に収録されていた泉鏡花「駒の話」は、自宅の近所にすんでいた白猫の思い出を古今の動物にまつわる不思議とともに語った随筆で、品が良く粋な御新造のような白猫のことを鏡花もいたく気に入っていたようである。この文章がいいのだ。
収録作の配置にも気が配られており、前後に関連のある作品が並べられているのも愉しい。懇切丁寧な編者解説も含めて猫好きにお薦めの好アンソロジーだと思う。

『博物誌』ルナール 岩波文庫
『にんじん』などで有名な著者による、故郷シトリーの農村で目にする様々な生き物や動物園で見かけた動物、猟や釣りの獲物などについての覚え書き。子供のような比喩とエスプリ、あるいは都会人の視点での自然の楽しみが描かれる。擬人法を使って気取った七面鳥だとか農家の夫婦のようなあひるとか、妙におかしい。題名はビュフォンを意識しているようだが、科学的な記述とは反対の方向にある。軽く読める一冊となっていて、解説によれば著者も気に入っていた作品のようだ。

『華竜の宮(上・下)』上田早夕里 ハヤカワ文庫
ホットプルームの活性化により陸上の多くが数百mの海面下に沈んだ世界。再編された政治体の下で生活を営む陸上民に対して、海上民たちは遺伝子改造による「魚舟」との共生の道を選び、独自の文化を築き繁栄をとげていた。しかしカタストロフを乗り越えた人々に対して、今また新しい危機が迫りつつあった……。
生物学や文化人類学、地球物理学など様々な分野の知識を駆使して描かれる物語は、複数の人物の視点で語られるうち、やがて「大きな」ひとつの物語へと集束してゆく。著者は小松左京賞を受賞した『火星ダーク、バラード』でデビューしたのだが、本書において大いなるものに抗う人々の姿はまさしく小松左京を思わせるものだった。自分ひとりの力ではどうしようもない流れに、それでも抗おうとする意志。「人類」というものの可能性を信じようとする意志。個人の思いという微視的なものと、地球や生物の運命といった巨視的なものとの対比が小説としての完成度とは別のところで琴線に触れてくる。これこそがSFを読む醍醐味といえるだろう。この物語のテーマはつないでゆくことではないのかという気がする。命を、世界を、次の時代へと、次の人々へと。ひとつずつつないでゆくこと。
(その後、名古屋SFシンポジウムにゲストで来られた上田氏の話を聴く機会があった。これで認められなければSF作家としてはおしまいだろうと思い、発表のあてもないのにノートにずっと書き込んでいた設定を全部ぶち込んだとのこと。なるほど、だからいろんなテーマがてんこ盛りなのだ。なお本書の続篇『深紅の碑文』は、フィクションの中でアクションとして消化されてしまう「暴力」を、本物の暴力として描きたかったとのこと。本書とは印象が違う作品のようなので、これまた読むのが愉しみである。)

『ねこひきのオルオラネ』夢枕獏 集英社文庫
今や押しも押されもせぬ大作家となった著者の初めての著作。自分は夢枕作品を読み始めたのがアクション路線に舵を切った『幻獣変化』からだったので本書は読んだことなかった。もっと甘い感じのファンタジーと思っていたのだが、自意識過剰な語り口も含めて「夢枕獏」そのものだった。「山奥の奇妙なやつ」や「自分ぼっこ」はSFやファンタジーというよりも『山怪』や『里山奇談』の雰囲気に近い。もうちょっとで実話怪談に届きそうだが、ぎりぎりでフィクションにとどまっている。のちの片鱗をのぞかせるところもあり、今を知れば二倍楽しめるかも知れない。なお唐突に出てくるタイポグラフィがベスター『虎よ、虎よ!』などを思わせてなかなか楽しかった。よく考えたらデビュー作「カエルの死」がそうだったのだよな。

『ビブリア古書堂の事件手帖 ~扉子と不思議な客人たち~』三上延 メディアワークス文庫
全7作で完結したシリーズの後日譚となっている短篇集。7年後のビブリア古書堂を舞台に、お馴染みの人物たちにまつわるエピソードが四つ語られる。ボーナストラックのような感じなのだが、もしかしたら続くのかも知れない。

『中野のお父さん』北村薫 文春文庫
出版社の文芸編集部門に勤める主人公が遭遇するちょっとした疑問を、中野の実家に住む彼女の父親(実は高校国語教師)が快刀乱麻のごとく解き明かす。ミステリとしてはかなり軽めだが、初出をみたら「オール讀物」だったので納得した。『六の宮の姫君』のように本や文芸そのものにまつわる「謎」が描かれる「闇の吉原」や「謎の献本」あたりの作品が個人的には好み。話が進むに連れて父娘の関係がほのぼのと、またしんみりと見えてくるのが隠し味となっている。(解説で佐藤夕子氏も述べているように、著者のイメージが重ね合わされているのかも知れない。)カバーの益田ミリ氏が、《覆面作家シリーズ》の高野文子氏のイラストと同じぐらいぴったり合って好かった。

2018年8月の読了本

『ぼくの短歌ノート』穂村弘(講談社文庫)
近代から現代まで、また伝統的なものから破天荒なものまで。様々な短歌を「賞味期限」や「今と永遠」「生殖」といったテーマ別に集めて、それぞれの鑑賞のポイントとともに紹介した本。様々な現代短歌のショーケースの如き一冊に収録された有名無名の歌人たちの歌が心に沁みてくる。自分の短歌に対する興味はこの人と西崎憲氏によって始まった気がする。自由律は好きだ。ちなみに古い短歌では、この本にも載っている次の歌がいい。
「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」(明恵)

『宝島』真藤順丈(講談社)
本土返還前の「アメリカ世(ゆ)」時代沖縄で、駐留基地から物資を盗んでは配って回り「戦果アギヤー」と呼ばれたならず者たちと、そして英雄と呼ばれたひとりの男がいた。 広大な土地を接収され兵士による狼藉に晒される沖縄の人々の苦悩と、それでも生き抜こうとする強さを描いた物語。コザの人々の英雄「オンちゃん」の弟レイと親友グスク、そして恋人のヤマコらが夜の街を駆け巡る。登場する多くの人々が織りなすのは、オンちゃん失踪の謎を巡って展開するミステリなのだが、それだけでは収まらない豊かさを併せ持っている。読んでいるうち、どことなく『日本三文オペラ』や『ぼくのキャノン』などを連想したりもした。(あ、そうそう。「ミステリ」といっても、あくまでもチャンドラー『さらば愛しき女よ』やライアル『深夜プラス1』がミステリというぐらいの意味なのでお間違えなきよう。決して御嶽の中で不可能犯罪が起こるといった小説ではありません。/笑)
現代史を関わる重いテーマをあつかったミステリがたまにあるが、本書もそのひとつと言えるだろう。SFには科学考証もへったくれもなく荒唐無稽な面白さを武器に色んなものを取り込んでしまう強さがあるが、ミステリにだってフーダニットとか関係なく、ひとつの謎さえ提示すれば凡ゆるものを巻き込んで物語に仕立て上げられる強さがあると思う。そういった意味で本書は現代にもつながる問題意識を持った、とてもよくできたエンタテイメント小説だと思う。アメリカ統治時代から今へと続く沖縄の人たちのつらい歴史が、当事者の視点で描かれていて、そういう記憶が積み重なって今の沖縄があり、先日亡くなられた翁長知事の言葉があったのだ。(クライマックスで描かれる1970年のコザ暴動とか、恥ずかしながら全然知らなかった。)物語の〈語り手〉に想いを馳せるとき、つらい日々にも喜びを見出せる「宝島」へと変わるのだろう。

『ヨーロッパの昔話』マックス・リュティ(岩波文庫)
ヨーロッパに伝わる昔話を伝説や聖者伝などと比較して共通する特徴とともに本質的な性格の違いを示し、それらがもつ機能を把握する試み。プロップやユング、小松和彦とはまた違う文芸学的・様式分析的なアプローチで、昔話がもつ広くて深い世界を示す。そして昔話について書かれているのに、色々な小説のことが頭に浮かんできてしまう。
たとえば昔話がもつ象徴性について、「豚飼いの少年や王女のことを昔話が語っているばあいには、ただ単にひとりの(中略)ことをいっているのではなくて、同時に人間一般のことをいっている。病気はただ病気というだけでなく、同時に苦悩を意味する」とあるが、これなどはムアコックの《永遠のチャンピオン》のシリーズが持っている昔話的な様式を思い出した。エルリックなど英雄伝説の面から神話的な特徴も勿論取り出せわけだが、それよりも平面的で図形的な登場人物たちがおりなす役割に注目した場合、昔話との親和性がより強く感じられる気がする。
また昔話の主人公たちには精神的な動揺や成長がなく平面的だという指摘もある。だからこそ主人公たちが立ち向かわなければならない試練は精神的ではなく物理的なものなのだと。昔話は登場人物たちを平面化して具象世界とまったく違った様相をまとわせるのだ。これを漫画に喩えてみると、「伝説」とは萩尾望都の作品であり、「昔話」とは赤塚不二夫のそれなのではあるまいか。
昔話における輪郭の鋭さは個々の事物の描写ではなく単に「名指す」だけで、話の発展を楽しむことに主眼が置かれているのだという指摘からは、アニメ『まんが日本昔話』における省略された描線は方法として正しかったのだという思いがする。
本書の中では「昔話の機能と意義」の章がたいへん面白かった。
「昔話はなにも要求しない。昔話は解釈せず、説明もしない。ただ見て叙述するだけである。(中略)われわれは幸福感をもってそれに身をまかせる。その意味で昔話はほとんどひとりでに生まれる」「昔話は、その説明を断念しているからこそ、われわれの信頼を得るのである。」だとか、
「昔話の興味は、最後に獲得される宝物とか王国、妻などにあるのではなくて、冒険それ自身にある。」 「昔話が図形的登場人物にあたえるのは、じつは物ではなくていろいろな可能性である」といった記述。
あるいは「昔話は単に叙述するばかりである。しかしながら純粋な文学として昔話は、叙述されたことの内面的真実を信じることを要求する。昔話は無用な遊戯としてふるまうのでなくて、ひとつの世界体験を具体的な像とする」「(昔話は)世界のそもそもの本質を見きわめようとしているのであり、そしてわれわれに深い信頼をこめて世界の本質の展望を見せてくれるのである。それは昔話自身が信じている本質の展望である」などなど、目から鱗が何枚も落ちる思いがする。示唆に富んだ良い本だった。
最後にもうひとつおまけを。このように作品の様式に着目した場合、稲垣足穂が『一千一秒物語』で行ったことは、人物たちの類型化・平面化や繰り返されるエピソードを通じ、昔話の手法で文学を表すことではないだろうかという気がする。ただ真性の昔話と違うのは、今はもう辿り着けない世界への「懐かしさ」を通じ、読者を現実へと引き戻すところなのだろう。

『羊飼いの指輪 ファンタジーの練習帳』ロダーリ(光文社古典新訳文庫)
本書は『チポリーノの冒険』『猫とともに去りぬ』などで知られるイタリアの児童文学作家が、ラジオ番組のために作った物語を集めたもの。収録されているのは全部で20あり、各話とも子供たちと一緒に作り上げた結末が三つずつ添えられている。いずれも古今東西の有名な童話の枠組みを現代風にアレンジしたものだが、結末はハッピーエンドから教訓的なものまで様々。本の最後にはその中で作者が好きな結末について明かされてもいるが、三つある結末はどれも間違いというわけではない。「子供たちと一緒に考えた」という事こそが大切なのだ。
ここでいう《ファンタジー》とは、そのまま想像力という言葉に置き換えてもいいだろう。いま自分が生きている世界に無いものや、より良い世界を想い描く力こそが、ロダーリをはじめとするイタリアの児童書の作者たちが子供たちに伝えたいことなのだ。
話自体は軽めのものばかりで現代を舞台にしたものが多いため、「ファンタジー」というよりは星新一のショートショートを思わせるような感じ。ちょうどマックス・リュティ『ヨーロッパの昔話』を読み終えたところなので、物語の作法の比較をしているようで興味深かった。

『蔵の中・鬼火』横溝正史(角川文庫)
昭和8〜11年の、戦後の本格推理の前にあたる著者の第二期を代表する6つの作品を収録した中短篇集。耽美、妖艶、凄惨、稚気、幽玄など様々な貌を見せる犯罪小説群は、いずれも古き時代の香気を放つ。集中では「鬼火」「蔵の中」「かいやぐら物語」が特に好かった。ちなみに集中で最も長い作品は「鬼火」で、「蔵の中」が映画化されるまではこれが唯一の表題作だったと思われる。三人の男女が繰り広げる嫉妬と欲の地獄絵図が描かれ、引退した元警部の語りによる額縁効果で残酷さはやわらげられているが、陰惨で救いのない物語であることには違いない。戦前の変格探偵独特の味わいがファンにとっては堪らない。

『空を駆けるジェーン』アーシュラ・K・ル=グウィン(講談社)
《空飛び猫物語》シリーズの第四作。今回は一番下の妹猫ジェーンが主役で、田舎暮らしに飽き足らなくなった彼女が、兄弟たちの下を離れて自分のための居場所を見つけるまでを描く。軽く読めるけど何度も読み返したくなるシリーズだね、これは。

『ここは、おしまいの地』こだま(太田出版)
『夫のちんぽが入らない』で衝撃的な登場をした著者が自らの生い立ちと今を綴った自伝的エッセイ。ヤンキーと百姓が九割を占める集落での子供時代。心が壊れた家族。劣等感と不安感に苛まれた小中の頃など、ユーモアと共に描かれるのは強烈な記憶の数々だ。きっと前著を読んでいなければ、おかしな人ばかりが登場する爆笑の自伝的エッセイで済ませられたのだろうが(それでも衝撃的だが)、この人たちの生きてきた半生を考えるとなかなかつらいものがある。字でかかれたサイバラ、もしくは卯月妙子じゃないかという感じか。
でも不思議なことに、読み進むうちに浮かんでくるのは、どんな境遇でも生きていけるのだという妙な安心感だったり希望だったりする。軽く読めるが読後感は深い。第34回講談社エッセイ賞を受賞している。

『父が消えた』尾辻克彦(河出文庫)
芥川賞受賞の表題作ほか全五篇を収録した短篇集。まごう事なき赤瀬川原平の文章である。氏の文章は、一度発した言葉を後から自分で否定するのが特徴的。不安定なのだ。そしてもう一つの特徴は、暗喩か直喩か分からないような表現が、言葉の意味をずらしていく点。異化作用とでも言えばいいのだろうか。私小説的なのに詩的で幻惑される文体に魅了される所以である。まずは冒頭の表題作からでは、亡くなった父親の記憶を交えながら八王子霊園へと向かう旅の様子が、ゆらゆらとふらつきながら、ときどきぐっと傾いていつのまにか文学になったりしている。ガリ版刷りの天文同好会の会報原稿を鉄書く「矢川泰平」と小学生の娘の夏の午後を描く「星に触わる」、新婚の後輩から屋上を貰った「図学校の先生」と妻の不穏な日々を描く「猫が近づく」。いずれも著者の私生活がぎりぎり透けて見える。輪郭がはっきりしないのが味だ。
それにしてもこの人、気配を書かせたら本当に巧い。「猫が近づく」でかすかに見せた不穏は「自宅の蠢き」では決定的になっている。受賞の報せから始まる「お湯の音」はまるで櫻画報を見るような楽しさに満ちている。捉えどころのない語り口は著者の不安の裏返しなのかも知れないが、それでいて胡桃子ちゃんとの父子二人だけの家庭もきちんとして、しっかりと地面に立っている気もするのである。ここから『少年とグルメ』や『島の時間』に広がっていくと思うもまた楽しい。中では表題作と「お湯の音」が好かった。夏石鈴子氏の解説に「父が消えた」が芥川賞を獲った時の選考委員による選評が紹介されているが、開高健の「残念ながら私は支持することができない。書くことがない」という言葉は資質の違いとしてとてもよく分かる。逆に丸谷才一や井上靖、大江健三郎らが評価したというのも。

『醜聞の作法』佐藤亜紀(講談社文庫)
18世紀前半、ルイ15世の治世を舞台にある男が仕掛けようとする、高貴な人々についての一つの「醜聞」。それはやがてパリを揺るがす大騒動へと発展していく……。 二十二の書簡を通して、虚々実々の駆け引きとコンゲームのようなスリルが味わえる小説。たいへんに巧い。解説の渡邊利道氏が、本書の持つ歴史的背景を詳しく説明してくれていて、作品世界をより深く味わうためのよい手引きとなっている。メディアを利用して大衆を煽動し、社会を動かす戦略についても触れられているが、その危険性は本書刊行の2013年よりも今の方がより切実なものになっていると言えよう。

『怖るべき子供たち』コクトー(角川文庫)
ある一組の姉弟と彼らに翻弄される友人たちを中心に、色々な象徴を散りばめつつ悲劇のラストまで駆け抜ける。どの辺りが「怖るべき」なのか考えながら読んでいたが、当時の社会通念は今と違っているし、なかなか判断が難しかった。現代の視点からは、新しい価値観を持った世代の登場と彼らの生態がそれまでの世代に与える衝撃をこの作品に見るのは難しいのかもしれない。むしろまるで古典悲劇を見るような後半の構成の法に、「新しさ」よりも「普遍的」なものを感じてしまう。表題の「怖るべき」を象徴する二人の姉弟はエキセントリックな言動を終始繰り返すが、それは今で言うところの「厨二」に似ているとも言える。その意味で我々は怖るべき時代に生きているのかも知れない。

『踊る大地球』山口昌男(晶文社)
文化人類学者である著者が世界中の地域のフィールドワークで残したデッサンを、説明とともに多数収録したスケッチ集。聞き手が漫画『まんだら屋の良太』の畑中純だったのがびっくりした。まるで氏の業績のように躍動する素描がとても愉しくて、観ているだけでわくわくする。

川崎徹「ねこ」/深堀骨「人喰い頭の体操」(惑星と口笛ブックス)
電子書籍の専門レーベル《惑星と口笛ブックス》からシングルカット版で新しくリリースされた短篇二作品。「ねこ」はCMディレクターとして有名な著者が書いた作品なのだが、これが素晴らしかった。説明しようとすると大事なところがみんな抜け落ちてしまいそうで、この雰囲気を語るには作品と同じだけの言葉を費やさないといけない気がする。例えばお気に入りの喫茶店の空気感とかに近い。
続く「人喰い☆頭の体操」は『アマチャ・ズルチャ 柴刈天神前風土記』で独特の世界を作り上げた著者による最新描き下ろし作品。おなじく《惑星と口笛ブックス》からでたアンソロジー『ヒドゥン・オーサーズ』収録の「人喰い身の上相談」に続く人喰いシリーズ第2弾で、相変わらず人を喰った話である(笑)。古いテレビネタが多くてなかなか良かった。(出てきた「鉄火大将、知ってっか」の元ネタはよくわからなかったが。)毒と笑いと悪趣味とパワーがこの人の持ち味なので、ちょっと刺激が欲しい時に読むのが好いと思う。

『ほとんど記憶のない女』リディア・デイヴィス(白水uブックス)
なんとも捉えどころのない「変な話」が51編。物語ではない何かだ。どの作品でも、とてもユニークな思索や状況が述べられるが、大切なのはそこではなく「語られている」ということ自体とその語られ方だと思う。要約不能な書物はそれだけで面白い。こういうものを読むと、本を好きで良かったなあと思う。

『不思議な図書館』村上春樹:文/佐々木マキ:絵(講談社)
市立図書館に本を借りにきた男の子が体験する、恐怖と憧れに彩られた不思議な三日間。思えば村上春樹の本を読むのは『中国行きのスロウ・ボート』以来かもしれない。佐々木マキのイラストがあか抜けしつつ不気味な雰囲気にぴったり。そういえば装画が佐々木マキじゃなくなったあたりから村上春樹を読んでないのだよなあ。『羊をめぐる冒険』など、あの絵によってさらに格好良さが際立っていた気がする。 なにしろ羊男のイラストが出てくる話は『羊男のクリスマス』も含めてみんな好きなのだ。

『論理学』エティエンヌ・ボノ・コンディヤック(講談社学術文庫)
18世紀フランスの哲学者による論理学についての入門書。全体は二部に分かれ、基本的には「感官(≒感覚器官)で捉えられる感覚印象にのみ基づいて観念がつくられる」という、著者が拠って立つ経験科学的な実証主義に基づく考察がなされ、言語の誕生から分析と類推を経て「凡ゆる思考」が生まれるまでの経過が展開される。論旨は極めて解りやすく、当たり前のことが順を追ってひとつずつ積み上げられていくのが愉しいのだが、ただし(解説で訳者の山口裕之氏も述べているように)「経験論から導き出される概念がこの世の全ての概念である」という保証はどこにもない。いやむしろ著者は「経験から導き出されることの無い抽象的な概念が存在する可能性」に対しては敢えて目をつぶっているような気もするのだ。
具体的な内容についても少し触れておこう。第一部では知識を構成する観念と心の諸機能の成り立ちが考察されている。幼児は自然現象の観察と分析から得られた感覚印象により、秩序だった体系を成す集合(=知識)を得るとする。そしてすべての分析こそが正確な知識と思索の元となると説かれる。つづく第二部では言語の起源について考察がなされ、あらゆる観念(≒思考)が言語によって成り立ち、そしてあらゆる言語は直接的な経験や行動から生じるとされる。論理学といいつつある種の言語学のようでもある。「心の諸機能の分析」の章ではまるで現象学のような考察も展開されたりと、(「帰納法の限界」も含めて)経験論哲学の古典として、当初思っていた以上に愉しむことができた。

2018年7月の読了本

今月は全然読めなかった。次月こそは盆休みもあるしたくさん読みたい。読めないとストレス解消に買ってしまうので溜まる一方である。

『オレって老人?』南伸坊 ちくま文庫
ご存知シンボー氏による、「老い」をテーマにした面白エッセイ。色々なところに発表した文章なので年代はばらばらだが、およそ50代後半から70までの心境や身体の変化について、ユニークでそのうえ妙に納得出来る話が詰まっている。「現在百五十七才の老人からみたら、私もまだまだガキだろうし、ハナタレ小僧であろう。」なんてくだりにはつい声を出して笑ってしまう。南伸坊氏のエッセイには赤瀬川原平氏と同じニオイがあるのだが、これが美学校の空気というものなんだろうか。
それにしてもこういう年の取り方は良いなあ。偏屈だったり変に威張っている老人もいるけど、どうせ体にあちこちガタがくるなら不機嫌よりも、にこやかな方がいい。そして「おじいちゃん、また本を買ってきたの!?」といわれてエヘヘと笑うのだ。そうなると積読だろうがダブりだろうが怖くない。
は、もしかしてオレって老人?

『お供え』吉田知子 講談社文芸文庫
七篇を収録する短篇集で、表題作は第19回の川端康成文学賞を受賞。全体の印象をざっくりいうと、山尾悠子のような幻想味と今村夏子のような不気味さを併せ持ったような作風とでもいえばよいだろうか。とても自分好み。アンソロジーを除くと現在文庫で読める作品集がこれしか無いのはつらい。以下、個別の作品について少しふれてみる。
「祇樹院」「迷蕨」は、二篇とも一度も来たことが無い場所の記憶が蘇ってくるのが恐ろしい。夢野久作『ドグラ・マグラ』とか折口信夫『死者の書』などもそうだけど、記憶とか認知の歪みの話はぞっとするのが多い。なにが怖いかといって、自分の感覚が信用できないのがいちばん怖いと思う。
「門」は屋敷の中で迷う描写がとても愉しい。少し余談になるが屋敷(日本家屋)が面白い話というと、筒井康隆「遠い座敷」などが思い浮かぶ。西洋の場合は屋敷ではなくて「館」になるが、屋敷と館の怖さの違いは何かと考えるに、館では部屋が廊下で繋がる形になっていて個々が独立しており、いっぽうの屋敷では部屋同士が襖で仕切られている点ではないかと思う。洋館の場合、ドアを閉めると部屋が外部と隔絶される結界となるので安心感が生まれる代わりに、万が一閉じ込められた時の恐怖も半端ではない。一方の座敷の場合は閉じ込められることはないが、その代わりに外から容易に侵入される恐怖、あるいは地つづきでどこまでも追いかけられる恐怖というのはある。つまり「閉じた怖さ」と「開いた怖さ」ではないかと思うのだ。ちなみに洋館で日本家屋に近い恐怖を味わう場所があるとしたら、廊下ではないかと思う。(例えばキングの『シャイニング』など。)
閑話休題。収録作の続きを。「海梯」はすらすらと読み進むうちに突然ざらりとした違和感があって、世界の位相が切り替わる感じが怖い。表題作「お供え」は徐々にエスカレートしてゆく世界の歪みがどこかの時点で不可逆点を越える、いわゆる「やばい」話である。
「逆旅(げきりょ)」は語り手の歪さが徐々に見えてくるにつれて不気味さが増してきて、どことなく今村夏子を連想した。そして「艮(うしとら)」は唯一男性が主人公の作品。暴力的かつ破滅的な展開はいっそ分かり易く、いちばん「まとも」にさえ思える。
以上、七作品を通して読んでみて、明確にホラーとして読めるのは冒頭の「祇樹院」とラストの「艮」かと思うが、「お供え」や「逆旅」のようにもやもやした感じが後を引くのも決して悪くない。特に好みなのは「迷蕨」「門」「海梯」あたり。著者の作品群はいずれも幻想怪奇に属するものであるといえる。雰囲気で読ませる小説なのに、視覚的な描写に優れているのが珍しいと思う。もっと読んでみたいものだ。

『ヒトラーとUFO』篠田航一 平凡社新書
新聞社のドイツ特派員を務めた著者による、ドイツ各地に伝わる有名な都市伝説や噂話を地元の識者へのインタビューとともに紹介した本。馬鹿げた話から、なるほどと思わず感心してしまう(信じるとは言ってない)話まで、様々な噂話が出てくる。ブティックの試着室から女性が消える「オルレアンの噂」や駐留米兵が目撃した人狼のような生物など盛り沢山で、軽い読み物だが比較文化の実例集のようでもある。表題は根強く残るヒトラー生き延び説と宇宙人来訪説から。他に日本でも類話が知られている「消えた乗客」の話や、あるいはフリーメーソンの陰謀説など有名な話が多いので親しみが湧く。面白かったのはドイツ西部の地方都市ビーレフェルトが、実は存在しない架空の都市だという都市伝説。絶妙に存在感が薄い都市だというのがまたいい。(日本だと自分が住んでいる名古屋みたいな感じかも知れない。)噂話の根底にあるのは、新しいものやよく知らない相手に対する不安だったりするのだろう。(ところでアメリカ大統領が宇宙人と接触しているという都市伝説は、トランプ大統領の出現によってトドメをさされたのではないか。彼やその取り巻きが黙っていられるわけがないから。)

『日本沈没(上/下)』小松左京 小学館文庫
ハードSFであり政治小説であり災害パニック小説でもある日本SFの金字塔的作品。昔は「日本が沈む」というイメージばかりに目がいっていたが、改めて読み直してみると、国家と国民の行く末に焦点をあてた極めて社会性・思弁性の高い小説だった。力作である。深海艇わだつみが日本海溝の底で出逢った驚くべき光景や日本列島が大地震とともに沈んでゆく様子が圧倒的な筆力で描かれておりとにかく凄まじい。著者は未知との遭遇の場面を描くのが上手いと思う。『さよならジュピター』では木星でのジュピターゴーストとの邂逅もそうだったが、まるで眼前にあるかの如く、解らないものを解らないまま描けるのが素晴らしい。災害のシーンなども主人公たちが不在のまま、何ページにもわたり淡々と書かれているのが却って恐ろしさを増している。やはりSFは人ではなく世界そのものを描く小説であるというのは、正しいのかも知れない。(ただ、ときおり挿入される、ホステスや愛人との取ってつけたようなロマンスは、いかにも昔の中間小説を思わせて少し気恥ずかしかった/笑い。)
小松左京はSFを書いてるけれど、SFでしか書けないものを(と思って)書いてるけれど、実は人間を書きたいのだ。本書もその点は同じで非常に熱い。献辞にある「すべて"大いなるもの"に立ちむかいつつある人々へ」という言葉を読むと、デビュー作の「地には平和を」や『果てしなき流れの果に』から希求するものが変わっていない気がする。大いなる自然を前にしてあまりにも無力な存在である人間が、それでも抗おうとする姿こそが、小松左京がその創作活動を通じて一貫して描こうとし続けたものであったに違いないのだ。(だから自分にとって人間ドラマとしても開高健『日本三文オペラ』のオマージュとしても、小松作品の最高作は『日本アパッチ族』なわけだが。)
話を『日本沈没』に戻そう。
そもそも小松左京の長篇は、綿密な準備に基づく書き込みで圧倒されるが基本的には思考実験なので、ドラマとしての面白さとSFとしての面白さが少しずれているように自分には感じられる。 (一方で短篇の場合は、力技で一気に押し込んだ切れ味鋭い作品が多い。)そういう意味では、『日本沈没』も先述のように驚異的なシミュレーションによる具体的で迫真性の高い描写と、日本と云う国とその国民の行く末に目を向けさえすればドラマとしての多少の欠点には目をつぶってもいいのかもしれない。
長くなってしまったが、最後にひとつだけ付け加えておきたい。『日本沈没』で描かれる政治家の振る舞いがいずれも素晴らしくて泣けるのだが、どこかで見覚えがあるとおもったら映画『シン・ゴジラ』だった。あの話は日本が沈まなかった『日本沈没』だったのだろう。

『パイドロス』プラトン 岩波文庫
弁論家リュシアスによる〈恋〉に関する論述をきっかけにして、ソクラテスと若者パイドロスが不死なる魂の求める真実性と、「知を愛する」ための技術としての弁論術のあるべき姿について語る対話篇の一冊。川辺で語る二人が気持ちよさそう。ところで本書では「自分を恋する者に身を委ねるか、それとも恋していないものと親密になるべきか」について議論がなされるのだが、ここで前提になっているのは壮年男性による少年愛。時代や場所が変われば「常識」も変わるのだ。

『真珠郎』横溝正史 角川文庫
金田一耕助とともに著者を代表する探偵キャラ由利麟太郎が活躍するシリーズ。妖艶で残酷な殺人鬼・真珠郎が一読忘れがたい印象を残す。横溝作品は視覚的イメージ豊かなものが多いが、本作も乱舞する蛍の中に佇む真珠郎や暗闇の洞窟など美しさと怖さの対比が巧い。『八つ墓村』のような冒険あり、『本陣殺人事件』のような凄惨あり、そして『犬神家の一族』のような耽美あり。思っていたよりかなり面白くて、もっと早くに読めばよかった。

『奪われた家/天国の扉』コルタサル 光文社古典新訳文庫
著者の実質的デビュー作にあたる『動物寓話集』を全訳したもので、現実と幻想と奇妙さが入り混じる八短篇を収録。 特に気に入ったのは表題二作と、「パリへ発った婦人宛ての手紙」「バス」。
「遥かな女」では訳者・寺尾隆吉氏による入魂の回文やアナグラムがすごかった。原著の雰囲気を残しつついかに他言語に置き換えるかという取り組みは、渡辺一夫氏による『ガルガンチュワ』『パンタグリュエル』や柳瀬尚紀氏による『フィネガンズ・ウェイク』を思い出させて大変に面白い。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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