2017年9月の読了本

『ぼくの宝物絵本』穂村弘 白泉社
会社勤めの白黒の世界にある日突然鮮やかな色で入り込んだ絵本たち。歌人である著者が自ら買い集めたお気に入りの絵本を、オールカラーの書影とともに紹介する本。古い本、くらくらする本、こわい本、気になる本など様々な絵本はどれも魅力的だ。

『禅学入門』鈴木大拙 講談社学術文庫
臨済宗の居士であり日本を代表する仏教学者でもある著者が、欧米人向けに英語で書いた禅の解説書。およそ100年ほど前の本なのだが古臭いことはまったくなく、予備知識が無い外国の読者に向けて書かれているのでとても解りやすい。(ただし禅とはいくら理屈をこねても解るものではなく体験すべきものとのこと。著者は臨済宗なので本書でも公案に重きを置いている。)公案からしてそうなのだが、禅について文章で読むというのがすでにして矛盾しているというか、隔靴掻痒の感はある。でもまあアームチェア・フィッシャーマンというのもあるそうだし、アームチェア・ブッディストがいても良いのではないかとも思う。
著者によれば禅とは「是が非か」という論理を超えて全てを肯定するために、相矛盾した論理を投げつけて修行者を追い込むものらしい。言葉で教示できぬものを、凡ゆることを否定することで自ら悟らせるのが禅の修行。頭ではなくそのままを感じる。神秘ではなく全てが顕らかであると。また、原始仏教をドングリ(鈍栗)、大乗仏教を樫の樹にたとえていて面白い。すこし引用してみよう。
「変化の諸相の間にも、そこには成長の連続性と、また明らかに同一物なることの特徴が窺われるのであって(後略)」
「これゆえに禅にあっては個人的経験を以って一切とする。経験の背景がない人々にはいかなる理念も了解できない。」これなんか、現象学っぽくはないだろうか。もう少し続けてみる。
「禅は唯一神教的でもなければ、万有神昨日で的でもなく、すべてこうした名目を拒否するものである。従って禅には想を集中すべき対象がない。(中略)禅が想の集中であれば、それは哲学の定則に従うということであって、もはや禅ではないのである。」
「禅は心を純粋の虚無にするがごときまったくの否定ではない。何となれば、(中略)禅には何か自己肯定のものがある。しかもそれは自由であり絶対である。そして限界を知らず、抽象の取扱いを拒むものである。禅は溌溂としている。それは無機の岩石、虚無の空間ではない。」
すべての否定でしか示すことができない絶対のもの、理屈による肯定も否定も超えたところにある体感するしかない明瞭なもの。「仏にあっては仏を殺す」とは仏陀に到達するに仏陀をも否定するということ。否定神学にも一見似ているが、論理を否定するところで根本的な違いがある気がする。
開高健は「玉、砕ける」のなかで次のような問題を示した。「白か黒か。右か左か。有か無か。あれかこれか。どちらか一つを選べ。選ばなければ殺す。しかも沈黙していることはならぬといわれて、どちらも選びたくなかった場合、どういって切りぬけたらよいか。」 まさにこれこそ禅ではないだろうか。

『火の書』グラビンスキ 国書刊行会
ポーランドで平行進化を遂げた唯一無二の幻想作家による作品集の第3弾。『動きの悪魔』では鉄道、『狂気の巡礼』では心理をテーマとした著者が、本作では火に関する幻想と神秘の物語を綴る。自作に関するエッセイとインタビューも収録されてお買い得な一冊と言える。収録作で特に気に入ったのは「白いメガネザル」「ゲブルたち」「有毒ガス」あたり。冒頭の「赤いマグダ」も切れ味鋭く、珍しく読後感爽やかな「花火師」も愉しい。またエッセイ「私の仕事場から」も『動きの悪魔』の面白さを増してくれる。いつも良いお仕事をしてくださる芝田文乃氏には感謝したい。既刊本の売れ行きが良くて『サラマンドラ』や『バフォメットの影』『チャンダウラ王』といった長篇作品も訳されるといいなあ。

『きつねのつき』北野勇作 河出書房新社
語り手である「私」が3歳の娘・春子や妻と過ごす三人での暮らし。千金にも値する「何気ない日常」と、そこで起きる奇妙な出来事を淡々と綴る。読み進むうち、全ての発端となった過去の出来事が朧げに見えてはくるが、何ひとつ確かなものは無い。怖くもあり、また悲しくも美しくもある物語は、きつねのつきの童謡の調べにのせてどこまでも続いてゆく。語られることだけが物語ではなく、かつ語られる言葉こそが物語であるのは著者の他の作品と同じだが、とにかく父親の目から語られる娘・春子が可愛い。いつまでも浸っていたい物語である。
ところで本書を読んで特に感じたのだが、北野勇作氏の物語の構造はディック作品に似ているのでははいだろうか。ただし違っているところもあって、それは、作中人物に恐怖がなく優しさに溢れている点。このあたりは作者の違いなのではなかろうか。資質というか性格的なものというか。ところで北野氏の言葉の使い方にはいつも感心してしまう。「いくたい。いく。どもかん!どもかん、どもかんいくたい。いくたいのいくたいのいくたいのいくたいってばあっ」あるいは「ぱたとん、ぱたとん、ぱたたとん、ぱたたとん。」
言葉のつらなりをただ読みすすめるのが愉しい。つくづく休みの日に読むのに向いた本だと思う。

『永久パン 他一篇』A.ベリャーエフ アルトアーツ
『ドウエル教授の首』で有名なロシアSFの祖の中篇と短篇「開け、ゴマ!」を収録。表題作は、とある研究者が発明した「永久に増え続ける食糧」をめぐる騒動を、短篇は伝統的な執事に代わる自動機械の方は導入の顛末を描く。懐かしい話だ。市井の天才発明家、もしくはひとりの研究者が一生を費やし、世界をひっくり返すような発明をするという設定は昔のSFによくあった気がする。そもそもガーンズバックの『ラルフ124C41+』からしてそうだし、スミス等の初期のスペオペもそう。エジソンやテスラたちの影響なのだろうか。それとも20世紀初頭が科学や未来への希望に満ちた世界だったということだろうか。

『アルゴールの城にて』ジュリアン・グラック 岩波文庫
アルベールとエルミニアン、そしてハイデという3人の男女がアルゴールの城を舞台に繰り広げる心理模様を描いた物語。錯綜するプロットが抵抗となって気楽な読書を妨げるが、中ほどを過ぎた辺りから俄然面白くなってきた。超現実と幻想の織りなす死と不信の物語。読みにくさの原因の大部分は長く複雑な構成の文章によるものだが、同時に執拗に描写される象徴的光景が、その真意を掴むことを拒み魔術的効果を高めている。ロブ=グリエ『迷路の中で』、倉橋由美子『スミヤキストQの冒険』などとはまた別の意味で、心してかかるべき一冊といえるだろう。
このような本を読むといつも思うのは、こういう本が日本語で読めることの幸せについて。そしてそれと同時に、「原文ではどうなってるんだろう?」ということ。文章の雰囲気とか、原著を読むとまた違うのだろう。(自分ではとうてい読めないけれど。)翻訳家の方はまことに大したものだ。そしてまた、泉鏡花や松尾芭蕉を原文で読めることの有り難みも感じたりするのである。

『山の怪談』岡本綺堂・他 河出書房新社
山の怪異に関する民俗学的考察、文人による怪談、そして登山家たちによる神秘体験の実話という三部で構成する、山がテーマの怪異譚。柳田國男や岡本綺堂といった馴染みの人はもちろん、志賀直哉や豊島与志雄、西丸震哉など多彩な顔ぶれ。軽く読める。

『パタゴニア』ブルース・チャトウィン 河出文庫
南米パタゴニア地方を放浪するイギリス人記者が出会う様々な人々と土地の歴史。男が辿る旅は彼のある一人の親族にまつわる思い出に始まり、大きく蛇行しながら過去と現在を行き来して思い出を再び見出す時へと至る。解説で池澤夏樹氏も書いているが、まさにキュビスムの手法で書かれたパタゴニアであり『奥の細道』である。著者は旅行く先の人々と話をしてその土地の過去を見つめ続ける。行き当たりばったりのようにも見える旅先では、現在と過去の人生がただ著者の目の前を通り過ぎてゆく。何も彼には触れず彼もまた触れない。まさに月日は百代の過客にして行きかう年もまた旅人であり、またすべてはnada、かつnadaにして、またnadaとなる。
人々は国籍も暮らしぶりバラバラだが、底抜けに明るかったり信じられないくらいよそ者に親切だったり。しかしどことなく虚無的な雰囲気を感じ取ってしまうのはこちらが考え過ぎなのだろうか。当たり前の光景なのにどことなく不思議な空気がただよう。『黄色い雨』のようでもある。読点(とうてん)はあっても句点が無い文章をずっと読み続けているようだ。
本書は一人の人物に焦点を当てて色んな人に話を聞くことを、場所を移動しながら繰り返すので、とにかく登場人物が多い。だから、ひとつのエピソードが終わるまで一気に読んでしまったほうが良いと思う。息を止めて潜水している感じ。何度か浮上して息継ぎしたら、いつの間にか遠くまできている。そんな読書だった。
最後に蛇足ながら、パタゴニアは現地人を見たマゼランがスペイン語で「大きい足」を意味する「パタゴン」と言ったのが語源とされているが、本書によれば違うのではないかとのこと。マゼランが船中で読んでいたとおぼしき騎士道物語『ギリシャのプリマレオン』にはグランド・パタゴンなる犬頭脚鹿の怪物が出てくるらしく、それが語源だろうとされる。こういう薀蓄がときおり混じるのがとても面白い。

『チャンドス卿の手紙』ホフマンスタール 岩波文庫
初期から中期の散文作品を11篇収録。初期は物語性と意外性に富む作品が多く愉しい。手紙形式のものは呻吟の跡がしのばれるが、最も気に入ったのは紀行文的な「道と出会い」「美しき日々の思い出」「ギリシャの瞬間」の三作。いずれも素晴らしい。「チャンドス卿の手紙」や「帰国者の手紙」では形而上的なものではなく現前する世界そのもの、自らの感覚に飛び込んでくる現実に触れることの悦びが讃えられるが、これらの作品ではまだ不徹底なところがあり、言葉だけが先走りする感がある。それが「美しき日々の思い出」に至ると思索と光景の幸福な一体を見ることが出来る。(ちなみに初期の散文作品にはイサク・ディネセン的な面白さがあると感じた。)
ところで「道と出会い」の冒頭にある「われはジャケの息子アギュールの言葉を想起せり。きわめて不可解不可思議なるものは、虚空にのこる鳥の飛跡、処女(おとめ)にやどる男の痕跡(あと)」という引用は、訳者によればマルセル・シュウォブ『雑録集』からとのことだ。こんなところでシュオッブが出てくるとは。思わぬ名前に驚いた。

『能』宮田登 新潮新書
副題は「650年続いた仕掛けとは」。能を全く知らない初心者にもわかりやすく、その歴史や魅力、そして鑑賞や謡う際の心構えや本質を紹介。芭蕉や漱石などの文学者に与えた影響など知らない話も多く大変に楽しい。江戸時代には口語では互いに言葉が通じなかった地方武士が、能の謡(うたい)の文体である「候文」を公用語として使っていたなどという説明には思わず「へえ」と声がでてしまう。(まるで世界中のムスリムがアラビア語を公用語にしている話みたいだ。)また、芭蕉『奥の細道』で描かれた東北行きの旅が、実は源義経の鎮魂のためだったのではないかという独自の推理まで。うん面白いなあ。まさにこういうのを「ハウツー本」というべきだろう。巻末には鑑賞や参考図書など入手、習いたい人への窓口となる情報もコンパクトにまとめられていて良い。
ちなみに本書で解説されていた世阿弥の言葉がとても好かったので少し引用したい。
それは「花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり」という言葉。「花」とはその時々に適合して判断と行動。「面白き」とは暗い気持ちも吹き飛ぶような明るさや美しさ。そして「珍しき」は「愛ず」であり自然に視線が向けられてゆく「目連らし」のことなのだという。まさしくこういった解説こそが安田氏の真骨頂だ。
まったく普通のこと、誰でも見慣れているはずのものなのに、そこに斬新な切り口、新しい視点を導入して「あはれ」を感じさせる。それが世阿弥の「珍しき」とのこと。ここで必要になるのが「秘すれば花」。次から次へと新機軸を打ち出すのは限界があるが、秘すことで観客自身が能動的になり発見がある。
ちなみに本書が「入門書」として画期的なのは、(能の)面ではなく謡の方に焦点を当てたところ。この本と、写真や代表的な曲の紹介をした本の2冊さえあれば、興味はあるがよくわからない人が鑑賞するに充分な情報が得られると思う。さらにいえば「鑑賞」だけでなく実際に習う「稽古」についても詳しく触れたこと。本書を読んでいるうちに無性に謡本が読みたくなってきたが、こうして深みにはまってそのうち観ているだけでは我慢できなくなるのだろうか。ちょっと不安である(笑)。

『土を喰う日々』水上勉 新潮文庫
京都の禅寺の小僧時代に鍛えた腕をもって軽井沢の地で実践する精進料理の数々。一年に亘り旬を喰らい土を食む日々を綴った名随筆。冬の芋や大根と乾物、春の山菜や筍、初夏の梅に夏の茄子や豆腐、秋の松茸やしめじに果実酒の数々と栗。これぞ喜びである。本書における著者の食に対する思いは、道元が「典座教訓」でのべた次の言葉をもって足りるだろう。
「一本の野菜を手にとりあげて仏とし、丈六尺の仏をまねいて一本の野菜となせ。これが仏の神通力である」(注:意訳)
一粒の米にも感謝の気持ちを忘れぬその姿勢は、まさに禅そのものだ。鈴木大拙の『禅学入門』にもそのまま通じるものがある。こんな面白い本とは知らず、今まで何となく敬遠していてもったいなかった。
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2017年8月の読了本

『月山・鳥海山』森敦 文春文庫
生と死を象徴する月山と鳥海山。出羽の二つの山をめぐる様々なエピソードを重ねることで、生と死、此岸と彼岸の境が「もどき、だまし」の繰り返しの中、みちのくの空気の中におぼろとなって消えてゆく。以前、硬質な文体(例えば開高健)と軟質な文体(例えば森茉莉)について考えたことがあったが、本書を読んで、また別に「柔らかいが粘る文章」というのもあるような気がしてきた。まさに緩やかと見せかけてねろねろと纏わりつく粘度の高い作品集といえる。
表題作は此の世と思えないような集落の寺に寄宿したひと冬のおぼろげな記憶の物語。出羽三山はこんなところなのだろうかと思いながら、ここを物語の舞台に選んだというだけですでに半分がた出来上がったようなものではないのかとも思え、「なんだかずるい」ような気もした(笑)。しかし同じ地に立っていても人により見えているものは違う。月山の光景をあんな風に切り取れたのは著者の業(わざ)なのだろう。みちのくは人を捉えて離さない魔力の様なものがある。『東北学』をまた読みたくなってきた。
なお、巻末の短篇「天上の眺め」だけは北国ではなく紀州の山奥が舞台となっている。そこから子ども時代に京城でみた「朝鮮凧」の思い出へと続く。夢のような掌編が食後のデザートのような余韻を残す。なかなか。

『モーパッサン怪奇傑作集』 福武文庫
43歳で夭折した世紀末のフランス自然主義文学を代表する作家モーパッサン。彼が遺した怪奇幻想小説の中から、十一篇を精選した短篇集。
「われわれが各自の思考の中に、各自の器官の中に、それぞれの現実を持っている以上、現実を信ずるとは、なんという子どもらしいことであろう! われわれのそれぞれ異なった視覚、聴覚、嗅覚、味覚は、地球上の人間の数だけの真実をつくりだしている。」
これはモーパッサン自身による言葉だ。これだけ読んでいると、自然主義どころかまるで幻想作家に思えてくる。そして実際のところ、本書に収録されている作品を読んでみると、谷崎潤一郎を思わせる狂気から超自然的なものまで作品はバラエティにとんでいてかなり本格的。とても楽しい。特に気に入ったのは「手」「水の上」「オルラ」「髪の毛」あたりだろうか。
なおこの本は古本屋で買ったのだが、家に帰ってよく見てみると、買うときには気がつかなかった書きこみがしてあった。いわゆる「痕跡本」というやつだ。各収録作品の最後のページに鉛筆で薄く感想が書いてある。買う前に気がついていればきっと買わなかったと思うのだが、こうして読んでみると前の持ち主と会話をしているようで結構楽しい。例えば冒頭の作品「手」ではこんな感じ。
「干からびた手は、それだけで怪奇小説の題材なり得る。本作は怪奇小説風だが、それなりに合理的な説明をくわえている。ために余韻を残すことになる点が、並みの怪奇ものとひと味ちがったものとなっている。」
鉛筆なので消そうと思えば消せるのだが、考えた末そのまま残すことにした。

『エドワルトの夢』ウィルヘルム・ブッシュ 妖精文庫
19世紀ドイツで活躍した風刺画家による作品集。代表作「マクスとモリツ」をはじめとする絵物語5篇と、散文作品である表題作「エドワルトの夢」を収録する。作風はコミカルだがナンセンスでシュールな面もあり、ルイス・キャロルやスウィフトの香りもしてくる。表題作は夢の中で自意識を極限まで小さくした主人公が様々な世界を旅するというもの。ときおり脈絡も無く妻による「エドワルト、そんなにいびきをかかないでってば!」という台詞が挿入されて笑える。

『俳句の海に潜る』中沢新一・小澤實 角川書店
文化人類学者と俳人による対談集。俳句を人間的・文化的な短歌に対置する非人間的・自然的なものと定義し、またアニミズムの視点から東北の地を旅した芭蕉や山梨に深く根を下ろした飯田蛇笏を評価する。冒頭から中沢氏によるいきなりの大風呂敷が面白い。俳句の面白さは、あえて型に嵌める「定型性」と、海に浮かぶ島のように「個々が独立していること」にあるのだそう。それらの「島」の間には固定された橋を渡すのではなく、舟で行き来するのだと。そして氏によれば「定型」こそがその舟なのだ。舟(定型)は、死や海や"自由"という異質で危険な世界に踏み込んでいくための「儀礼/フォルム」に他ならないのだという。いわゆる俳句の「アースダイバー」なのだが、これはこれでなかなか変わった見方で興味深かった。

『文豪妖怪名作選』東雅夫/編 創元推理文庫
創元推理文庫では珍しい、どちらかといえばちくま文庫で出るようなタイプのアンソロジー。中には尾崎紅葉から寺田寅彦まで総勢十九名の文豪による小説から随筆まで妖怪にまつわる作品が勢ぞろいしている。「怪談」ではなく「妖怪」なのがミソで、怖いばかりでなく滑稽だったり悲しかったりとバラエティに富む。たいへん楽しかった。ところでアンソロジーの場合は作品の面白さ以外にもうひとつ愉しみがある。それはどのような意図で収録作品を決め、どのような意図でこの並びにしたのかを勝手に推測しながら読むというもの。(中にはあまり意図が無さそうなのもあるけど。)簡単にいえば音楽のアルバム収録曲の順番みたいなものだ。本書ではそのあたりの意図が結構判りやすい気がして、とても面白かった。
まず冒頭に尾崎紅葉「鬼桃太郎」を配し、次が泉鏡花「天守物語」という師弟の並びがシブい。泉鏡花はともかく尾崎紅葉がこんな話を書いていたとは知らなかった。「天守物語」はいつ読んでも綺麗で豪奢。秋草釣りのシーンなど堪らない。「天守物語」には重要な役どころとして獅子頭が出てくるので、その次が柳田國男「獅子舞考」になっているところなど狙っているとしか思えない。ところで本考では獅子舞の由来をとくのが趣旨なのに、まず唐獅子の身体が三つに裂けたのを分け取りしたという話から、龍が三つに切れて空から落ちた話、ついで将門や鎌足の首塚や胴塚まで延々と5ページ。で、これが本筋には全く関係ないんである。論旨が分からなくなるほど捩じくれるのは、いつもの國男節であるね。
と、ここまでは何となく推測がついたのだが、次の宮澤賢治「ざしき童のはなし」との繋がりが判らなかった。「ざしき童のはなし」からその次、小泉八雲「ムジナ」については、「見えているのに正体が判らないモノ」の流れなのかも知れない。この次は簡単だ。小泉八雲「ムジナ」⇒芥川龍之介「貉(むじな)」⇒瀧井孝作「狢」と明らかに名前つながり。瀧井作品を三作品のさいごに持ってきたのがミソで、瀧井の「狢」とは狸のことと作中にあるので、そのあとの檀一雄「最後の狐狸」につながっていく。次の日影丈吉「山姫」へは「狐狸」の狐から山犬や狼への流れだろう。
次がまた難しい。日影丈吉「山姫」から徳田秋聲「屋上の怪音 赤い木の実を頬張って」への流れは、子供が消えることだろうか。そして徳田秋聲から次の室生犀星「天狗」へは、天狗の神隠しとともに泉鏡花と同郷の文豪というつながりもある。さらに「天狗」から椋鳩十「一反木綿」の共通点は鎌鼬や辻斬りだろうか。
と、ここまでは順調だったのだが、「一反木綿」の後の内田百閒「件」への流れはよく分からない。もしかしたら次の織田仁二郎「からかさ神」まで併せて、「人に化けるもの」ということだろうか。(一反木綿と傘化けだけなら器物妖怪という括り方もできるのだが。)次の火野葦平「邪恋」については明らかに器物の妖怪化であり、後の佐藤春夫「山妖海異」とは河童つながりになっている。「山妖海異」は河童を始め幽霊船や舟幽霊など様々な怪異譚を集めたものだが、続く稲垣足穂「荒譚」も同様、稲生物怪録や足穂が子供の頃に聞いたお化け話などの集成になっている。色んな化物が出てくるのは次の獅子文六「兵六夢物語」も同じだ。そして最後は寺田寅彦の随筆「化物の進化」でシメとなる。稲垣足穂や獅子文六の作品の冒頭には作者本人による語りがあるので、この辺りが寺田随筆との共通点になるのだろうか。「化物の進化」は井上円了ではないが古の怪異を科学の目で解き明かしつつ、神秘への畏怖と興味を説くもの。これで全てが終わり円環は閉じる。

『リア王』シェイクスピア 新潮文庫
言わずと知れた四大悲劇の掉尾を飾る最高作。実は今回初めて読んだ。シェイクスピアは以前から福田恆存訳のものを読むようにしているのだが、本書は訳もとりわけいい感じがする。四大悲劇の中では『マクベス』と同じぐらい楽しめた。特に道化が好い。正直いうと前半は悲劇というより「パワハラ親父が定年を迎え、肩書きがとれたら部下にしっぺ返しをくらう話」に見えてしまったのだが(笑)、後半からどんでん返しに次ぐどんでん返しで面白くなった。安易な救いが無いのもいい。作品としては「夏の夜の夢」や「あらし」の方が好きなのだが、四大悲劇のなかではこれが一番という気がする。

『主の変容病院・挑発』スタニスワフ・レム 国書刊行会
ナチス占領時代のポーランドで精神病院に勤務する若い医師を主人公とした初期作品と、架空の書評やエッセイとも一読判別がつかないメタフィクショナルな四篇を収録。哲学・倫理的な重いテーマをめぐる思索として、全てが響きあう。関口時正氏による翻訳は細部にまで配慮が行き届いているし、訳者後記での言葉の解釈に関する逡巡や本国での出版事情もとても面白い。また沼野充義氏による解説「レムは一人でそのすべてである」もレム文学の大まかな俯瞰や最晩年のレムの様子が描写されていて胸熱。大満足の一冊だった。まさにレク・コレクションの最後を飾るにふさわしい作品だったと思う。
『挑発』ついて少しだけふれておきたい。後半のメタフィクション『挑発』は、ナチスによるユダヤ人大虐殺をはじめ歴史上の虐殺を考察した架空の本『ジェノサイド』の書評で幕を開けるのだが、これがとにかくすごい。
「神を殺すことができないドイツ人は、神に《選ばれたる民》を殺してその地位を奪い、血なまぐさいin effigie〔肖像による〕退位の式の後、自らを歴史によって選ばれたる者と宣言しようとしたのだ。」
あるいは
「殺戮は《反・贖罪》行為であり、それによってドイツ人は《神との契約》から解放されたのだった。しかしその解放は完全なものであるべきで、つまりそれが神の保護下から反対の徴の保護下に移ることと等しくなってはならないのだった。殺戮は悪魔的な悪に捧げる行為となってはならず(後略)」
などなど。やはりレムはすごいなあ……。
続く「『人類の一分間』は地球上の全人類が一分間の間にしていることを統計学的に示した架空の本で、『ジェノサイド』もこちらも、本物を是非読んでみたくなる。出来ることなら第二期レム・コレクションが開始されて、未訳の長篇『地には平和を』や『技術大全』などが訳されると嬉しいのだが。

『古代西洋万華鏡』沓掛良彦 法政大学出版局
『ギリシア詞華集』全十六巻の全訳を果たした著者が、詩群を通じて古代ギリシアの人々の暮らしぶりや価値観を紹介した快作。内容は事物描写を目的とする作品や、障碍者及び女性蔑視と稚児愛を基とする風刺や性愛、碑銘詩など多岐にわたる。今はもちろんのこと、中世キリスト教の道徳観とも異なる価値観によって営まれていた古代ギリシアの社会の諸相が、素朴な詩の数々を通じて身近なものとして目の前に浮かんでくる。紹介されているのは四千五百に及ぶその膨大な詩篇のごく一部に過ぎないが、それでも極めて興味深い。
なお「詩としては九割がた屑(大意)と言い切ってしまっているのが楽しくて、そして例として挙げられているのを見てみると確かにひどい(笑)。
「当銀行は、市民の方々にも、異国の方々にも等しくご利用いただけます。 預けたお金は規定どおりに払い戻しいたします。 口実を設けて支払を渋る者もいましょうが、カイコスは他人様のお金は、 ご要望かあれば夜中でも御払いいたします。」 (『ギリシア詞華集』第九巻第四三五番)
これも「詩」なのだろうか?

『澁澤龍彦玉手匣(エクラン)』東雅夫/編 河出書房新社
さきほど取り上げた『文豪妖怪名作選』と同じ東雅夫氏の編集による、澁澤龍彦のきらめくような文章の集大成。稀代の怪談文芸編集者による、澁澤龍彦入門とでもいうべき本に仕上がっている。(それにしても東氏、八面六臂の大活躍であるね。)
膨大な彼の著作の中からドラコニアと呼ぶに相応しい文章を、まるで寄せ木細工の木片のようにモザイク状に緻密に組合せて美しい一冊に仕上げてあり、そこに現出しているのはまさに「澁澤」。ひとつの玉手匣に仕上げる腕前はまるで箱根細工を見ているようでもある。複雑な手順で開けてみると、中に入っているのは、なにかしら綺麗なオブジェのような気がしてならない。装丁も含めてとても素敵な本だ。

『人形作家』四谷シモン 中公文庫
人形作家・四谷シモンによる自伝。嵐山光三郎による聞き書きを元に書かれた2002年出版のものに、その後の出来事を書下ろしで加えてある。子供時代の思い出から澁澤龍彦や唐十郎らとの出会い、そして状況劇場での役者時代を経て人形作家となるまでの半生にくわえ、その当時の人形作品を写真で紹介するという至れり尽くせりな構成。(それにしても壮絶な子供時代の思い出には声も出ない。大泉滉とその父親の大泉黒石、あるいは岡本太郎とその両親の岡本一平・かの子を連想した。)
本書を読み終えて思ったことだが、この四谷シモン氏、まずもって人としての熱量が違う。そしてそういう人々の熱がぐるぐると渦巻いていた当時の新宿の様子がその場にいるような臨場感でもって描かれている。氏の作品に対する思いも示されていて、掲載された写真を鑑賞する上でとても参考になった。人形好きにもサブカル好きにもお薦めの一冊と言えるだろう。

『天王船』宇月原晴明 中公文庫
松永久秀、織田信長、羽柴秀吉、そしてマルコポーロにフビライ・ハーンと、歴史上の人物を語り手にした四つの物語からなる短篇集。広く知られている歴史上の事実と矛盾しないようにしながら、荒唐無稽で蠱惑的なエピソードを紡ぐ腕前はたいしたもの。歴史の薄皮を一枚めくるとそこには、暗殺教団の技を密かに本邦に伝える集団、球体関節により自在に身体を疾らせながら殺戮機械と化す少女の人形、あるいは秀吉の「中国大返し」を成功に導いた二つの神器など、怪しげなものたちが跋扈する世界が広がる。読んでいて山田風太郎の諸作品を連想した。忍法帖の香りのする明治物のようだ。なお、どうやら本書は外伝らしいので、先日から本篇の『黎明に叛くもの』を探してるのだがまだ入手できていない。ぜひとも読んでみたい。

2017年7月の読了本

『堆塵館』エドワード・ケアリー 東京創元社
ロンドンの郊外に広がるゴミの山、。そしてその彼方にそびえ建つのはアイアマンガー一族の巨大な屋敷「堆塵館」。あらゆるごみを統べるアイアマンガーの血に秘められた秘密は、赤毛の少女ルーシーが館を訪れた時に大きなうねりとなって動き出す……。久しぶりに「物語」の面白さを堪能できた気がする。登場人物たちがことごとくどこかおかしいところとか、物の声が聞こえる主人公クロッドだとか、なんだかもう堪らない。著者による挿し絵も味があって良い。少年向けに書かれた物語らしいが、こういうのを読みたい大人だって多いんじゃないか。というより物語を読むわくわくを忘れた大人にこそ読んでもらいたいと思う。ツイッターで先に読み終わった人たち感想を見ていると、皆さん口々に「えっ、ここで終わるの?!」とつぶやいていたのだが、その理由が自分にもやっと解った。映画館で『スターウォーズエピソードⅤ 帝国の逆襲』を初めて見たときを思い出してしまった(笑)。これはもう三部作をぜひとも全部出してもらって、最後を見届けないことには落ち着かない。途中でストップすることがないように是非皆さんも買っていただきたい。後悔はきっとしないから。

『穢れの町』エドワード・ケアリー 東京創元社
アイアマンガーの二作目。本作では舞台が堆塵館から「穢れの町」ことロンドンはフォーリッチンガム区へと移り、クロッドとルーシーの冒険は続く。アイアマンガー一族と町の人々に運命の時は迫る。クロッドよ急げ!続きはまだかあ!(帯によると12月には出るらしいので、どうやら物語の結着を見届けることはできるらしい。まずはひと安心だ。)

『龍宮』川上弘美 文春文庫
様々な人“あらざるもの達”との交流を描いた八つの幻想譚。ある時は彼ら自身により、またあるときは同じ屋根の下に住む者たちによって、茫洋とした日常の中に密かに息づく胡乱(うろん)なものたちの姿が語られていく。ひとつ付け加えるならば、たしかに幻想譚ではあるのだけれど、主眼はどちらかというとシチュエーションの不思議さではなく、奇妙な人物たちとのコミュニケーションにある感じだ。(漱石の『夢十夜』でいえば第四夜、おかしな爺さんが「蛇になる、きっとなる」という話に近いかもしれない。)ちょっと背徳的で、官能的な雰囲気もして面白い。イメージが美しい「轟(とどろ)」と「島崎」が特に気に入った。

『引き裂かれた自己』R.D.レイン ちくま学芸文庫
偽の自己を肉化して世界と対峙することで「真の自己」を護る“超越的な戦略”をとる統合失調気質の人々。彼らの特質を現象学的に分析し、その帰結としての統合失調症の理解へとつなげようとする試みの書。もちろん本書の分析は全ての症例に当てはまる訳ではなく、著者によれば破瓜型、緊張型の慢性統合失調症に当てはまるものであっても、妄想型をはじめとする他の慢性精神病を包括するものではないとのことだが、それでも内容については納得できる。今読んでも充分に面白く、本書が書かれた1960年にはきっと画期的な研究だったのではないかという気がする。現象学の精神分析の分野における実践としても、あるいは精神病治療への(当時の)新しい取り組みとしても、どちらの見方をしても興味深く読めた。
もしも本書にあるように自己同一の感覚を持つには他者による認識や世界との関わりが必須なのだとしたら、本当に人間らしいAIがもしも作られたとしたら、外部との充分な関わりを持てず統合失調症的になってしまうということはないのだろうか。

『鏡の前のチェス盤』ボンテンペッリ 光文社古典新訳文庫
1922年に出版されたイタリア発の幻想物語。鏡の中に入り込んだ少年が体験する奇妙な世界は確かにキャロルの〈アリス〉を連想させるが、自分としてはむしろアボットの『二次元の世界』をイメージさせられた。トーファノによる挿絵も愉しい。本篇は120ページほどしかないが、その後に訳者の橋本勝雄による著者ボンテンペッリと挿絵画家トーファノ、そして登場する様々なモチーフについての詳細な解説が付くのはありがたい。ちなみに馴染みのないボンテンペッリなる著者、他の作品としては『怪奇文学大山脈Ⅱ』に収録されているものがあるとのこと。昔読んだのにすっかり忘れていた。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』フィリップ・K・ディック ハヤカワ文庫
逃亡アンドロイドを始末する"賞金稼ぎ"デッカードと"ピンボケ"のイジドアという二人の人物を軸に、ディック世界の要素を惜しげもなく放り込んだ代表作のひとつ。ストーリー的には逃亡アンドロイドを追うデッカードがいかに任務を果たすかが中心となるが、テーマとしてはイジドアの方もかなり重要。そしてマーサー教という新興宗教と電気動物という偽物の命、アンドロイドと人間たちの中で生の意味を問いかけてくる本作は、彼の処女作である非SF作品『市に虎声あらん』にも重なって見えてくる。読書会のために久しぶりに読み返したのだが、思いのほか面白かった。

『中世の窓から』阿部謹也 ちくま学芸文庫
ニュルンベルクに住む人々の暮らしをのぞき窓のようにして、中世キリスト教社会を活写するエッセイ。そこから見えてくるのは様々な庶民の生活や生業であり、貨幣経済の勃興と贈与の世界観のせめぎ合いからユダヤ人排斥や異端思想の歴史まで幅広い。激動の中世に興奮する。
まず冒頭のニュルンベルクとハンブルグの二都の対比が面白い。神聖ローマ帝国の帝都であり富める商人の街と、裸足の聖者・聖ゼバルドゥスの清貧というふたつの側面を持つニュルンベルク。対するはエルベ河畔に建ちハンザ同盟に所属した自由都市。氏の筆により中世ヨーロッパがいきいきと躍動する。ちょっと京の都(あるいは大坂)と堺を連想したりもした。また中世ヨーロッパで市(いち)がアジールだった理由として、当時の遍歴商人たちが森や街道では盗賊に早変わりしていたからではないかという指摘にはびっくり。なるほど、そういう考えもあるわけだな。
キリスト教は、それまでの欧州の習慣であった「物理的な対象物を介在させた贈与」では返済不可能な、「死後の救済」という贈与を与えることで絶対的な優位に立ったという指摘も面白い。そしてやがて貨幣経済の成立によって富を蓄積させた当時の教会に対し、それまでと異なる「貨幣を媒介とする人間関係」に戸惑い悩む人々が霊的な思いを純化させ、ヴァルド、カタリ派などの異端派が生まれたという推察もなかなか。
あと個人的には、オイレンシュピーゲルのいたずらがもつ社会的背景の数々が興味深かった。なぜあのいたずらが当時の人たちにとって痛快だったのか。(それは例えば親方に対するやっかみだとか、特権に対する恨みつらみだとか。)単なるいたずらではなかったわけだ。まあ、汚らしいことに違いはないが(笑)いやあ楽しい一冊だった。

『四角形の歴史』赤瀬川原平 毎日新聞社
〈こどもの哲学 大人の絵本シリーズ〉の一冊。「犬に風景は見えているのか?」という疑問に始まり、風景画の歴史から絵の誕生、そして自然界における直線や四角形の発見まで、著者が自らのユニークな哲学を開陳する。赤瀬川氏の本はいつも読み手を煙に巻くような曖昧さが好い。中国拳法に喩えるなら八卦掌みたいなものか。摺り足で泥の中を進むような技にいつの間にか転ばされている。

『路上探検隊 讃岐路をゆく』路上観察学会/編 宝島社
赤瀬川原平・藤森照信ら路上観察学会のメンバー(赤瀬川原平/藤森照信/南伸坊/林丈二/杉浦日向子/松田哲夫/井上迅の全7名)がはるばる香川へと赴き路上観察を行った記録。トマソン的な"変なもの"を収集する赤瀬川氏に対して建築史的な視点で面白物件を探し出す藤森氏など、見るポイントはそれぞれ違えど、共通するのは「面白がり」の視点だ。読んでいるうちにこちらも粋な遊びにいつのまにか首までつかっている。自分の写真趣味の原点は路上観察学会やトマソンにあるのが再確認できた。

『メッカ』野町和嘉 岩波新書カラー版
ラマダン期間中のメッカおよびメディナの様子をカメラに収めた写真集『メッカ巡礼』の撮影裏話とともに、ムスリムになった著者の信仰告白や、イスラム過激派など現代アラブ社会が持つ問題まで幅広く語る。異教徒立入禁止の場所の写真はなにしろすごい。まさかメッカやメディナの様子が見られるとは思わなかった。以前、『増補 モスクが語るイスラム史』(羽田正/ちくま文庫)を読んでいたので、本書で語られているモスクの内部構造が判ってよかった。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』フィリップ・K・ディック ハヤカワ文庫

言うまでもなくディックの代表作のひとつで、一度聞いたら忘れない印象的な題名もさることながら、『ブレードランナー』としてハリソン・フォード主演で1982年に映画化もされている有名作。逃亡アンドロイドを始末する"賞金稼ぎ"リック・デッカードと、模造動物店につとめる"ピンボケ"のイジドアという二人の人物を軸に、知性と人間性、信仰と共感といった著者の文学を構成する要素が惜しげもなく放り込まれる。憂鬱な日常と人類の黄昏を描いたディック特有のカリカチュアだ。
自分が本書のことを初めて知ったのは、子供のころに読んだSF小説のガイドブック『SF教室』(筒井康隆著)でのこと。たしか「ニューウェーブSF」の仲間として紹介されていたこともあって、始めから思弁的な部分に着目して読んだような記憶がある。だから『ブレードランナー』で暗く格好良いアクション映画になったのを観たときは、なんだか違う作品のような感じがした。(もちろん自走歩道やチューブ式列車といったピカピカの未来都市ではなく、雨が降り薄汚れた人々が暮らす未来都市という生まれて初めてみる光景に一発でノックアウトされてしまい、映画は映画として大のお気に入りなのではあるが。)
実は本書を再読したのは数十年ぶりになる。近々ある読書会のために読み返したのだが、うすぼんやりとした全体の印象はともかくとして、細部はすっかり忘れてしまっており、今回あらためて新鮮な眼で読むことができた。この記事も読書会に備えて一種の備忘録として書いているので、多少とっちらかった文章になるかも知れないが、ご容赦頂きたい。

さてそれでは、映画版ではなく小説版の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』について。舞台は最終戦争の放射能に覆われ塵と静寂に暮れゆく地球。惑星移住の夢も絶たれあとに残された人々は、新興宗教である「マーサー教」を信じ、「共感(エンパシー)ボックス」を通じてマーサーおよび他の人々との「真の融合」を求めようとする……。まずこの設定を読んで驚いた。ポストホロコースト物だというのをすっかり忘れてしまっていたのだ。
そして次に驚いたのはデッカードよりもむしろイジドアが真の主人公ではないかとすら思えたこと。ストーリーとしては、逃亡アンドロイドを追うデッカードが悩みながら任務を果たすまでを描いたものであって、イジドアはそこに少し絡む脇役のような扱いでしかない。しかし今回読んだ感じではアンドロイド狩りの部分よりもむしろマーサー教の方が印象深く、そしてイジドアはその点からするとデッカードより重要な役回りをしているようにも見えたのだ。しかし最後まで読むと、この両者がいて初めてテーマ的にも本書が成り立つのが納得できたのではあるが。
このマーサー教という代物が非常に胡散臭くて、また面白い。『死の迷宮』や『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』、あるいは『高い城の男』などに共通するような著者独特の神学、もしくは『ヴァリス』などにも共通する異様で哀しい救済に連なる思想として。なるほど大学生の時に読んでいまひとつ乗り切れなかったわけが判った。当時はデッカードのみの視点で読んでいたのだろう。
なお本書でイジドアやデッカードが口走る「キップル」という概念の正体がいまひとつ分からない。本書では勝手に増殖する「役に立たないもの」のことだとされているが、要はエントロピーみたいなものではないかとも思われる。なにしろ『火星のタイムスリップ』の「ガブル」「ガビッシュ」、あるいは『ユービック』にも共通する不気味さがあって、山を登りつづけるマーサーの姿とともに本書の大きな魅力になっている。(根拠はないがディックはきっとエントロピーというものが嫌いだったのではないだろうか。)
またマーサー教がニセモノの宗教であることが暴露されているが、それがこの当時のディックの心の健全さを示しているようでちょっと悲しい。そして本書においては人間にとってかけがえのないものである感情さえも、「情調(ムード)オルガン」という機械を使うことでいくらでも人工的に調整が可能だというのが、シニカルなディックの健全さを示しているようでまた皮肉だ。本書の中でもっとも大切とされる人間の価値が感情移入(共感)であることが、やがてディックがヴァリスを生み出さなければならなかったのに繋がっているのではないのだろうか。あともうひとつ本書で異様に感じたところは、アンドロイドが容赦なく排除の対象となっていところ。人間と同等もしくは人間より優れた存在(シミュラクラ、ニセモノ)が排除の対象になる描写は著者の他の作品にもよく出てくるが、これってもしかしたら作者の不安の現れなのではないかと思う。

マーサー教という偽物の宗教と電気動物という偽物の命とアンドロイド。そしてその中で見える生の意味。絶望の末に妻イーランとの明日を見い出すデッカードの姿は、彼の処女作である文学作品『市(まち)に虎声あらん』で描かれハドリーの姿と重なって見える。実存的な悩みを抱え、意味もなく自暴自棄な行動に出る両者の姿といい、取り返しのつかないダメージを受けてもまた明日はやってくるという、明るいのか暗いのか判らない(笑)終わり方といい、かなりの部分で本書は『市に虎声あらん』に共通しているのではないか、というのが今回再読しての印象だった。SFとして収まりの悪い部分も含めていかにもディックらしい作品といえるだろう。
他の方ははたしてどのように本書を読まれたのだろうか。

『ヒドゥン・オーサーズ』西崎憲/編 惑星と口笛ブックス

作家、翻訳家にアンソロジスト、そしてミュージシャンなど、数多くの肩書きを持つクリエイター西崎憲氏が新しく立ち上げた電子書籍のレーベル〈惑星と口笛ブックス〉。本書はそのレーベルの記念すべき第1回配本にあたり、大前粟生氏の短篇集『のけものどもの』と同時発売されたオリジナルアンソロジーだ。小説だけでなく詩や短歌、俳句など様々なジャンルの作品を収録しており、しかもどれもが従来の商業枠にはとても収まりそうにない“尖った”作品ばかり。よほど気をつけないと本屋では見つけられないような類いの作品がごろごろ入っていて、次にどんなものがくるのか予想もつかないスリルがあるが、それでいてどれも独特の面白さがある。小説と詩歌が混在しているのも好くて、円城塔やフラワーしげるを探して歩いていたら森の奥に群生していた感じと云えばわかる人にはわかるだろうか。ショーケース的な作品集と言っていいかもしれない。
どちらかといえば小説の方が尖り具合が激しい気がするのは、きっと自分が詩や短歌、俳句の世界に明るくないからだろう。ちょっと難しいが、本書がどんな風に“尖って”いるのか説明してみたい。例えば一般的な小説の場合、読者が住む現実の世界とフィクションの世界をつなぐために、錨(いかり)に当たるようなものがあるのではないかと思う。それはSFのように奇想天外な小説でも同じであって、どんな未来であっても主人公の感情や彼が依って立つ論理体系は今の我々の世界の延長で理解できるものであることが多い。実験小説でも同じことだ。すべての約束事が崩壊して完全に現実世界との接点が絶たれてしまっている文章では、そもそも小説として成り立たない。(少なくとも我々が理解して愉しむための小説としては。それはアンチ・ロマン小説であっても同じこと。面白いかどうかは別にして、書かれている内容自体は充分に理解できる。)
しかし本書に収録された作品(とくに小説)をつらつら眺めてみると、論理や登場人物の情感、世界律などが読者の常識とずれているものが多く、いわゆる「普通」の小説を期待する者には取り付く島がないものも多い。我々の住む世界とは全く繋がりのない世界で異質な人々が紡ぐ物語。共通するものがあるとすれば、唯一彼らが感じる情動ぐらいなものだ。しかも読んでいて面白い。少なくとも自分には読んでいて愉しかった。「初めてなのに美味い」と感じるのはなんだか不思議な経験。(もちろん口に合うかどうかは人によると思う。不味いと思う人も当然いるだろう。)スタニスワフ・レムの作品を読んでいると時に「物語の限界」が奈辺にあるかをつい考えてしまったりするのだが、ここに集められた作品もある意味「小説の極北」を示すものであるかも知れない。受け入れるか拒絶するかの二者択一で読み手を試すような気配が感じられる。同様に西崎氏の編集によって書肆侃侃房から出版されている一般文芸誌の『たべるのがおそい』にも通じる空気があるが、あちらの方が口当たりがよい感じがする。

と、ここまで書いてきてふと思ったのだが、これはもしかしたら食べ物に喩えるなら「名古屋の味」に近いのかもしれないね。味噌煮込みうどんを普通のうどんだと思って食べるから生煮えの「不味いうどん」に思えるのであって、「味噌煮込み」という別種の料理だと思えば素直に味わうことができる。味噌カツだってあんかけスパゲティだって同じことだ。あるいはホヤやナマコや酒盗みたいなものかも知れない。万人受けするものではないが熱心な愛好者をもつ。電子書籍という形態はまさに産地直送の通販なわけで、こういったものを継続して供給するにはもってこいのような気がする。(となれば好き嫌いがあるのは当然であろう。)これだけ冒険的な作品を誰もが手に取れる形で世に出せたのは、まさに電子書籍であればこそだと思う。ちゃんとした形で電子書籍を読んだのは実は初めてだったのだが、色々と苦労した甲斐があった。それにしてもこれだけの濃さとレベルからしても定価700円というのは非常に安いと思う。紙の書籍なら配本数が少ないので見つけるまであちこちの書店を駆けずり回って、悩みながら3000円ぐらい出して買う自分の姿が容易に想像できてしまう。
収録作はどれもわくわくしながら読んだが、特に自分好みだったものを順に挙げるとするなら次のものだろうか。

大滝瓶太「二十一世紀の作者不明」
斎藤見咲子「マジのきらめき」
大原鮎美「月光庭園」
野村日魚子「夜はともだちビスケット」
ノリ・ケンゾウ「お昼時、睡眠薬」
伴名練「聖戦譜」
岡田幸生「『無伴奏』抄」
深沢レナ「芋虫・病室・空気猿」
深堀骨「人喰い身の上相談」

ぜひ他の方の感想も聞いてみたいものだ。
しかし西崎憲さんの文学アンテナの感度と編集の手腕、そして実行力にはほとほと感心してしまう。願わくば氏の創作も、これ以上のペースでたくさん読めますように。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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