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2019年5月の読了本

今月は薄めの本も多かったので14冊読むことが出来た。でも薄くても中身は充実。この調子でどんどんいきましょう。

『ビット・プレイヤー』グレッグ・イーガン ハヤカワ文庫
6つの中短篇を収録した最新の日本オリジナル作品集。「七色覚」「不気味の谷」「ビット・プレイヤー」の三作は「しあわせの理由」にも共通する最新テクノロジーと生きることの価値を問いかける重量級の作品で、「失われた大陸」は現代社会に通じる問題を正面から取り上げて『ゼンデギ』を思わせるような力作。そして後半の中篇二作「鰐乗り」と「孤児惑星」は『白熱光』を思わせるような筆致で異文化との接触を描いたいかにもSFらしいSF。―― とまあ、一冊でこの著者のデビュー当初から現在までの作風の変化を楽しめるような作品集だった。個人的には初期の作風が好みなのだが、そのあたりの作品はあまりに重いテーマのため一度にたくさん読めないのが難点。その手の作品のなかでは「七色覚」が好かった。他に気に入ったのは「失われた大陸」と「鰐乗り」。『白熱光』の舞台となる〈融合世界〉は『順列都市』や『ディアスポラ』の延長上にあるSF的な想像力の極北にあるような世界だが、そこで展開されるのは意外とオーソドックスな「サイエンス・フィクション」であり、初期の作品が与えるような衝撃は無い。このあたりは(科学的な描写が苦手な人はともかくとして)とても読みやすい娯楽作品になっていると思う。収録作の振れ幅が大きいので好みは分かれるかも知れないが、その分、誰にもきっとお気に入りの作品が見つかるのではないか。
ちなみにイーガンの作品で個人的に一番好きな長篇は『宇宙消失』なのだが、最高作は『ディアスポラ』だと思っている。そして人に薦めるとしたら本書や『祈りの海』『しあわせの理由』『ひとりっ子』『TAP』といった短篇集だというのが、我ながらちょっと可笑しい。

『湖』ビアンカ・ベロヴァー 河出書房新社
いつの時代ともどこの国ともわからない「精霊が住む湖」の湖畔にある町ボロス。有害化学物質に侵された湖水は徐々に枯れ果て、人々は貧困に喘ぐ。そんな閉塞感にとらわれ未来の無い生活が続く湖畔の町で生まれ育った少年ナミは、自らの出生の秘密と幼い頃の記憶にある母親を求めて町の外へと歩み出す......。
帯には「チェコ幻想×S・キング×C・ブコウスキー」とあるが、そこから想像していたものとはかなり違った。主人公の等身大の視点で語られる物語は、先が全く見えないという点ではたしかにキングの語り口を連想させるかもしれないが、ここに出てくる「幻想」とは現実から解離した異界ではなく、寧ろ日常と融合して引き離すことの出来ない神話的な概念と云った方がよい気がする。当初、暗く固まって病んだ世界はナミの前にどこまでも続いていくと思われるが、「胚」「幼虫」「蛹」「成虫」と名付けられた章が順に進んでいくに連れ、まるで変態を遂げるかのようにその遍歴は様相を変え、ひとつの結末へとナミと読者をいざなってゆく。無知であるがゆえの非力とそこから生み出される暴力は決して口当たりのよい物語を約束するものではないが、主人公と経験をともにした読者は彼のようにきっと何かが得られだろう。それは大きな物語を否定したとき初めて見えてくる帰着点なのかも知れない。ブリューソフ『南十字星共和国』やカダレ『夢宮殿』にも似た空気は旧共産圏に特有のものかもしれない。よい物語だ。

『孤島』ジャン・グルニエ ちくま学芸文庫
原題は「島々」だが著者は島に「(ひとりひとりが)孤立した人々」を重ね合わせているため、日本版では複数形ではなくあえて単数形にしてあるそうだ。著者の記憶に残るあちこちの島々での体験は、人間の生に潜む「虚無」と「空白」であり、生の陰画としての死と対比される地中海の島々での、生のよろこびや充実を読者のもとへと現前させる。アルベール・カミュの生涯を通じた恩師であった著者による文章は、(哲学や美学の教授であるからではないだろうが)サルトルのような実存主義的とはまた別の形で、生の一瞬一瞬に即した思考を綴っていく。松浦寿輝氏の解説にもあるように、世界の無意味さとそれが故の無条件の肯定を示唆したカミュに通じるものであるかも知れない。読む順番としては、巻末に収録された初期の「見れば一目で」を最初にするのが、全体をより深く理解する上で有効であるかも。しかしあちこち彷徨い歩く著者の旅にそって読み進み、ひとつひとつの章に込められた想いが徐々にこころに沁みてくるのもいい。特に気に入ったのは「猫のムールー」と「イースター島」「見れば一目で」の三篇だった。実のことをいえばフランス語の著作は回りくどい表現が苦手であまり好きではないのだが、本書は内容に即して大変に好かった。これからも読み返したくなるタイプの本だと思う。

『心霊殺人事件』坂口安吾 河出文庫
副題に「安吾全推理短篇」とあるように、長篇の『不連続殺人事件』と急逝により中断してしまった『復員殺人事件』ならびに『安吾捕物帳』を除いた、狭義のミステリ短篇が全て収録されている。推理小説を「知的な娯楽」あるいは「パズルを解くゲーム」と割り切っていた著者だけあって、内容はいずれも単純な"フーダニットもの"。犯行動機は殆ど付け足しで、最後には種明かしのようにあっさりと犯人が判ってしまうので、いささか物足りない感じもある。しかしそのおかげで新聞のクロスワードを解くような気楽な気持ちで、収録された全10篇を最後まで愉しく読み終えることができた。(中では「アンゴウ」が群を抜いて好かった。)ゴールデンウィークの連休最後の読書に相応しい一冊だったのではなかろうか。

『遠野物語と怪談の時代』東雅彦 角川選書
明治後期から大正にかけて再興した百物語と怪談の機運を背景にして、柳田國男の『遠野物語』をわが国における民俗学の嚆矢の観点からのみ見るのでなく、あえて実話怪談を始めとする当時の怪談文芸の精華と位置づけることで新たな展望を示す。泉鏡花を始め岡本綺堂や田中貢太郎、室生犀星といった錚々たる名前が連なる怪談文芸の“山脈”を俯瞰するための書物としても非常に参考となる。江戸の隆盛からいったん衰退したのち明治期に再び流行した百物語や、井上円了の妖怪学に対抗して文芸誌を中心に大いに気を吐いた実話系の怪談について語る第二章「怪談ルネッサンス」から、第三章「泉鏡花と柳田國男」では柳田が生涯の親交を結んだ鏡花の話へ。ブラム・ストーカー 『吸血鬼ドラキュラ』に先駆けて蝙蝠の妖魔を描いていたとか、その着想の元はアラビアンナイトではないかなど、鏡花の創作の裏話など知らなかった話も多くファンとしては見逃せない一冊となっている。門人の岩永花仙が最初に鏡花に語り聞かせて「海異記」のもとになった実話怪談というのも読んでみたいので、いつか『百物語怪談会』を入手しなくては。ちくま文庫に収録されている、同じ著者により編纂された〈文豪怪談〉のシリーズもこのような観点からみると編集意図がよく理解できる気がして、森鴎外や芥川龍之介のものなど改めて読んでみたくなった。そう考えると即ち日本文学の読み直しにつながる試みといえるのかもしれない。巻末に収録された復刻資料「日本妖怪実譚」と面白く、とても良い一冊だった。東氏の精力的な活動には、怪奇幻想小説ファンのひとりとしていつも敬服するばかりである。氏を始めとする人々のおかげで、泉鏡花と百物語の関係など、怪談史の研究はこの10年ほどで大きく進んだのではないかと思う。

芥川龍之介『奉教人の死・煙草と悪魔 他十一篇』 岩波文庫
初期から最晩年まで書き綴った切支丹物ばかり13篇を集めた作品集。ことさらに小難しい文学としてとらえなくても幻想小説や時代小説として読んで充分に愉しい作品が多い。著者による完全な創作なのか、それとも実際の文献に基づいたものなのか判然としないのがまた面白いが、解説によれば「さまよえる猶太人」に出てくる文献も「奉教人の死」や「きりしとほろ上人伝」に出てくる日本版『れげんだ・おうれあ(黄金伝説)』からの引用も、さらに「るしへる」における『破提宇子』の異本も、全て著者による創作とのことだ。文体模写がまことに天才的である。ときどき「ぢやぼ」あるいは「ジャボ」という言葉が出てくるので何かと思ったら、ポルトガル語の"Diabo/悪魔"からきてるようだ。(スペイン語のDiablo、イタリア語のDiavoloに同じ)他にも「ぜんちょ」とか「いるまん」とか面白い。
「煙草と悪魔」「さまよえる猶太人」「るしへる」「きりしとほろ上人伝」「じゅりあの・吉助」「神神の微笑」「誘惑」といった諸作品はそのまま幻想小説として愉しめるし、「奉教人の死」「報恩記」あたりは山田風太郎が書いたといっても通用するのではないかと思える。個人的には幸田露伴「幻談」のようにエッセイとも創作ともつかない妙味がある「さまよえる猶太人」や、まるでラブレーを思わせるような「きりしとほろ上人伝」、そしてラストがあまりにも美しい「じゅりあの・吉助」や怪盗・阿媽港甚内(あまかわじんない)が出てくる「報恩記」あたりが好みだった。
ところで「さまよえる猶太人」のなかに「最近では、フィオナ・マクレオドと称したウイリアム・シャアプが、これを材料にして、何とかいう短篇を書いた」とあり、大変に気になったので調べてみた。家にあった『夢のウラド』で確認したところ最初はマクラウド名義で書かれた「暗く名もなき者」ではないかと思ったのだが、その後訳者の中野善夫氏のご指摘によりシャープ名義の「ジプシーのキリスト」という作品に、ずばりキリストを侮辱した者のエピソードが出ていていたのに気がついた。(てっきりマクラウド名義で書かれた作品だと思っていた。)こういうこともまた読書の愉しみだと思う。

『星の王子さま』サン=テグジュペリ 文春文庫
倉橋由美子氏による新訳版で、氏は2006年に本書の単行本が出版される直前に急逝された。『星の王子さま』は版権が切れたか何かで2005〜6年ごろに複数の出版社からまとまって出たときに読んだのだけれど、当時は訳者や翻訳の違いについて無頓着だったので、別の版元から出たものを読んだきりで本書を読むことはなかった。しかしこのたび文春文庫に収録されるにあたって、元本にあった訳者あとがきと翻訳家の古屋美登里氏による解説に加え、小説家の小川糸氏の解説が新たに追加されているのを知り慌てて購入することに。
さっそく読んでみたところ、自分が年をとったせいなのか倉橋氏の文章の力なのかは判らないが、昔読んだ時よりもかなり心に沁みた。王子が単なる子供ではなく誰もが心の中に秘めている「反大人の自分」であるという指摘は、非常に腑に落ちるものだ。たとえば「大人は数字が好きだ。新しくできた友人のことを話すとき、大人はほんとに大切なことは訊かない」という言葉。違和感を感じつつ日頃の暮らしで慣れてしまった態度について、まるで王子から糾弾されているようだ。自分にとって幸いなのは、ツイッターで出会った人たちが(現実の暮らしではどうであれ少なくともツイッター上では、)この小さな王子のようなつぶやきをしてくれていることかも知れないとも思った。今回、文庫入りしてくれて良かった。文庫にならなければ本書を知らないままこれからも生きていくところだった。

『アリス殺し』小林泰三 創元推理文庫
不思議の国でハンプティダンプティ殺しの容疑をかけられたアリス。この世界に暮らす栗栖川亜栖の現実と交差しつつ、惨劇は続いてゆく。不思議の国と現実世界がリンクして話が進むのはなかなかに面白い。そもそもナンセンスとミステリのロジックは相性が良くないと思っていたのだが、こういうやり方だと繋がるのかと感心した。
著者は日本ホラー小説大賞でデビューしただけあって殺人の描写が必要以上に(?)グロテスクだが、ミステリとしての意外性やトリックの見事さには舌を巻いた。かなり残酷な描写も多いがどこか乾いた感じがあって、どことなくユーモアさえ漂うので、スプラッター系が苦手な自分でも読むのがつらいということはない。またミステリだけでなくファンタジーとしてもきっちり決着をつけてあり、盛りだくさんの内容で満足できた。テイストはショーニン・マグワイアの『不思議の国の少女たち』に近いところがあるかも知れない。

『ソクラテスの弁明・クリトン』プラトン 講談社学術文庫
プラトン初期の著作にして古典中の古典。『ソクラテスの弁明』はあちこちから出ているが、本書はソクラテスが告発され死刑を宣告された裁判で述べる「弁明」と、有罪判決が確定したのちに牢で親友クリトンと交わした会話を記した「クリトン」を収録し、さらに巻末には参考資料としてクセノポン『ソクラテスの弁明』まで加えて、それぞれの解題や詳細や訳註まで加えた豪華版となっている。プラトン版の「弁明」ではソクラテスがその他の著作で繰り返し表明することになる「無知の知」(自分は知者であると思うのは誤りであり、それよりは知を知らないと自認する者が寧ろ優れているということ)が分かりやすく説明される。また「クリトン」では「ただ生きるのではなく、よく生きることが大切である」という有名な信条が吐露される。自分を知者であるとして若者を導くのは「不正」であるという告発もあり、本書では解説にもあるようにソクラテスの考える「哲学」というもの自体がテーマとなっているように思える。そしてそれは即ちプラトンの著作全体の理解を深めるガイドであるとも言える。一方のクセノポン版「弁明」はプラトンのそれとはまた違った雰囲気が味わえる掌編だが、人間味溢れるソクラテスが見られてまた読んで愉しいものになっている。中学や高校の頃に読むのとはまったく異なる姿を見せるのが古典の面白さでもあり、いわゆる「勉強」ではない読書の醍醐味ではないだろうか。(いや学校の学習とは関係ない「勉強」だからこそ愉しいのか?)

『増補版 天下無双の建築学入門』藤森照信 ちくま文庫
以前ちくま新書として出された同題の本に新しい論考「日本の住宅の未来はどうなる?」を追加したもの。「これ、本当に新書だったの?」というぐらい軽い書き方だが、日本の家屋を構成する様々な要素をひとテーマずつ取り上げていつのまにか「建築とは何か?」という大きなテーマへとたどり着くのはたいしたもの。中身は二部に分かれていて、第一部は神社の御柱や茅葺きな日本古来からの建築術を縄文時代まで遡って考察し、第二部では現代にもつうじる住宅建築の各種要素について歴史をふまえつつ解説してゆく。思いもよらない角度からの指摘は、さすが建築史を専門としつつタンポポハウスやニラハウスなどユニークな住宅設計を実践されている著者ならではだろう。(氏の設計による多治見市のタイルミュージアムを観に行ったことがあるが、はるばる足を運んだだけの価値はあった。)建築の価値とは記憶に刻まれて連続性と安定性を約束することであるというのも、過去からの建築の歴史を研究してきた著者ならではの見立てであるし、あるいは個人と社会にゆとりが生まれてくると「対外空間」に目が向けられるようになるというのも、まず「観る人」であった著者だからこそ出てきた意見であると思う。たしかにこんな建築学の本は見たことない。明治の都市計画とか看板建築とか視点が面白いので追っかけているの著者なのだが本書も期待に違わず愉しかった。

『床屋コックスの日記 馬丁粋語録』サッカレ 岩波文庫
「馬丁粋語録」は「べっとうすごろく」と読む。ディケンズと並び19世紀半ばのイギリスで評判を得たサッカレーの2作品が収録されている。「床屋コックスの日記」はひょんなことから義理の叔父貴の遺産が転がり込んで百万長者となった床屋一家の行状を面白おかしく語ったもの。(といいつつ、実はかなりの皮肉と呪詛に満ちている。マナーやルールを知らない「野蛮人」による失敗を本人の独白の形で描きながらも、その向こうに透けて見えるのは狩りや賭け事やパーティに明け暮れる資産家階級たちの、浮世離れした感覚と能天気なやりとりである。)訳は平井呈一氏で、「馬丁粋語録」もそうだが時代がかって味のある文章が時代の雰囲気にぴったり合っていて、読んでいて気持ちがよかった。昔の一人称の作品の場合はこういう語り口も悪くない。(なんせ若い女性の容姿を語るのに「足とふくらっ脛がむきだしなところは、久米仙ものだ」というのだもの。19世紀イギリスで久米仙人はいいよなあ。)

『鉄条網の世界史』石弘之・石紀美子 角川ソフィア文庫
19世紀半ばに米国で農地から放牧牛や羊などを締め出す目的で発明された針付きの針金が、やがて動物ではなく人間を対象にして、「敵と味方」「彼方と此方」を分断するための道具として用いられるまでの歴史を、世界各地の事例をもとに紹介してゆく。戦場へはほぼ同じ頃に発明された大量殺戮兵器の機関銃とともに19世紀末に導入され、戦争の様子を一変させてしまったのだという。簡単に設置でき目立たない鉄条網に絡め取られた兵士は、そのまま機関銃で掃討されてしまう。塹壕で隠れる方法や鉄条網を無効化するスーパー兵器である戦車の登場、さらには毒ガス兵器までが鉄条網の向こう側に隠れている敵軍への攻撃の為に発明されたというのには驚かされる。
ひとつだけ注意点を。第三章まではたしかに鉄条網が生まれてから世界中に広がるまでの歴史なのだが、第四章以降はただひたすらに人類の愚行、即ち鉄条網そのものではなく「鉄条網が使われるような状況」が事細かく描写されてゆく。それはナチスやスターリン時代の旧ソ連のような強制収容所、ヨルダン川西岸地区やベルリンの壁、南米をはじめ世界各地で今も続く先住民への迫害など目を背けたくなるような歴史のオンパレードである。最後の方は当初の趣旨からだいぶずれてしまっているようにも思えるが、単に「個体の移動を妨げる道具」ということだけでなく「その道具が炙り出す人間の愚行」も含めた、象徴としての"鉄条網"と見れば良いのだろう。そしてそれは多くの場合、「自分たちとそれ以外の者たち」を区別し排除する意識の歴史なのだ。まさに今の日本でも起こっている事である

『天皇陛下にささぐる言葉』坂口安吾 景文館書店
安吾が敗戦後の焼野原とその後の復興を経て書き綴った、戦争と人間と天皇と平和についての文章を四篇収録した小冊子。中綴じで僅か200円という価格設定といい、まさに“今”というタイミングでの出版といい、内容だけでなく本書の存在そのものが極めて強いメッセージ性を持って読者に迫ってくる。(こういうの、とても好きだ。)
収録されているのは表題の「天皇陛下にささぐる言葉」の他、「堕落論[初出誌版]」「天皇小論」「もう軍備はいらない」で、全部合わせても30ページ程にしかならない短いものばかりだが、どれも読み応えがある。景文館書店はこれ以外にも吉田知子やバタイユなんかを出していて、なかなか目が離せない出版社なのだ。 今回の『天皇陛下にささぐる言葉』などはまさに企画の勝利とも言えるし、出版社たるもの是非このような仕事をしてもらいたいものだ。某出版社の文庫出版停止騒動でささくれだった気持ちがだいぶ楽になった。
以下、表題作からいくつかの言葉を抜粋する。
「然し、一国の運命をつかさどる政治というものが、サロンの御婦人の御気分なみでは、こまるのである」 「実質なきところに架空の威厳をつくろうとすると、それはただ、架空の威厳によって愚弄され風刺され、復讐をうけるばかりである」
「けれども、現在どこかに本当に戦争したがっている総理大臣のような人物がいるとすれば、その存在は不気味というような感情を全く通りこしている存在だ。同類の人間とは思われない。理性も感情も手がとどかない何かのような気がするだけだ」

『千霊一霊物語』アレクサンドル・デュマ 光文社古典新訳文庫
『三銃士』『モンテ・クリスト伯』などで有名な19世紀フランスの文豪による「忘れられた名作」。青年デュマが遭遇した奇怪な事件をきっかけに、居合わせた人々が自らの体験した超常現象について語ってゆく。実在の歴史上の人物を散りばめる手法は、山田風太郎の明治物やあるいはホラー小説では小野不由美『残穢』に似ているかもしれない。『千夜一夜物語』や「百物語」あるいは実話怪談の体で、善と悪や科学と奇蹟の狭間を漂うような物語が7つ収録されていて、最後の話はまさかの○○○になるのには驚いた。ベストセラー作家の筆の冴えを堪能した。知られざる怪奇幻想の佳品と呼べる作品ではなかろうか。古典新訳文庫はいつも良い本を出すなあ。
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2019年4月の読了本

今月はわずか6冊。年度末は忙しくて読書が全然はかどらない。ストレス解消に本を買うので未読本が溜まる一方で悪循環である。会社を休んで朝から晩までずっと本を読む「読書休暇」があると良いなあ。

『宝石泥棒』山田正紀 ハルキ文庫
"甲虫の戦士"ジローは失われた宝石「月(ムーン)」を再び人類の手に取り戻すため、「狂人(バム)」のチャクラ、呪術師のザウラーとともに「空なる螺旋(フェーン・フェーン)」を求めて命懸けの旅を続ける……。 異世界ファンタジーとも見える冒頭から、やがて物語が進み全貌が明らかになるにつれて、骨太の背景が見えてくる。これは紛れもなく焼け跡の中から生まれた日本SFの系譜に連なる作品であり、また博物誌や文化人類学的なアイデアにあふれた傑作であった。読書会のため数十年ぶりに読み返したのだが、物語としての突っ込みどころも満載で非常に読書会向けの本だった。
たいへんに読みやすいのは何故かというと「RPG的」であるから。第一章から第三章まで、ジロー達は章が入れ替わるたびごとに気候や生態系の全く違う地域に進み、しきたり(文化)の全く違う街を遍歴する。個々の世界の特徴がとても明確で且つバラエティにとんでいる。冒険が進むにつれ次のステージへのヒントが明かされるのもゲームと同じ。章が変わるたびに登場人物がリセットされるので、1シーンに出てくるキャラが少なくて頭に入れやすい。物語の最初でやや強引に冒険の目的が明らかにされ、あとはそれに沿ってストーリーが進行するのも、まるでゲームのシナリオを読んでいるような感覚に近い。また大した意味もなく突然挿入される濡れ場のシーンはいかにもかつての中間小説誌っぽかったりする。読みやすさも含めて今でいうところの「ラノベ的」の元祖と云えるのかも知れない。(そしてまた、そうであるなら中間小説は大人向けのラノベであった言えるのかも。)
実をいうと山田氏のSF作品はむかし好きでかなり読んでいたのだが、読むたびになんとなくもやもやした感じが残り、いつの間にか手に取ることが無くなっていたのだった。読んでいるときはとても面白いのだが、あとで思い出そうとしても内容が殆ど思い出せなかったりもした。数十年ぶりに本書を読み返すことで、その「もやもや感」の正体は、壮大で突拍子の無い物語に内在する「バカバカしさ」ではないかと気がついた。例えば本書で言えばジローが稲魂の神殿に侵入するきっかけとなった出来事。キングであれば圧倒的な書き込みできっと納得させてしまうであろう設定が、あまりにあっさりと、ときに投げやりなまでに簡潔に示されることで、読みながら醒めていく部分がありはしないだろうか。 どこか捉えどころのない印象は、そんなところにあるのではないか ――『宝石泥棒』を読み返していて、そう思ったのであった。一方で根っこにあるテーマは「生きることの意味」や「理不尽な運命(あるいは超越存在)への抵抗」がストレートに打ち出されていたりもする。(このテーマ性については、さすが小松左京の「直系の子ども」(本人談)だけはあると思う。)このような壮大なテーマと物語の展開の設定のアンバランスも、どこか落ち着かない印象を感じさせる原因にもなっているのではないだろうか。こういった特徴は山田作品の短所でもあれば強力な長所でもあって、『阿弥陀』『仮面』『螺旋』『神曲法廷 』等のミステリではその「バカバカしさ」ゆえに圧倒的で強力な謎の提示に成功していると思う。また『宝石泥棒』では章ごとに結構細かく註が付けられていて、これがさらに面白さを増しているわけだが、しかしよく考えるとこの註は誰が誰に向けて書いたものなのだろうか。「はたして註を書いているのは誰か?」という額縁問題を考えだすと本書そのものの意味も変わってくるような気がしてくる。
以上、今の目で見るとあちこちアラも目立つが、なかなかどうしてよく考えられた作品であり、しかもこれが僅か28歳のときに書かれた作品だと知ると、やはり山田正紀は天才なのではないかという気もする。色んな意味で愉しめる小説だった。

『偶像の黄昏』フリードリヒ・ニーチェ 河出文庫
精神錯乱に見舞われる少し前、極めて活発な創作活動を送った「驚異の年」に書かれた一冊。自らの思想の俯瞰図を描こうという意図のもとに、これまでの著書でも触れられてきた考えが、断章や寓話など様々な手法を用いて繰り返される。新訳なので読みやすくはあるけれど、元々が断章や草稿の集まりだけにニーチェ思想をある程度は知っていないと解りにくいかもしれない。生の本能に従う、あるいはディオニュソス的な道徳を肯定して、キリスト教的な道徳を生に対する反抗であるとして否定するのは相変わらずだ。なお本書でいうところの「偶像」とはキリスト教的な道徳観もしくはソクラテスの弁証法的理性など、一般的に社会規範や倫理の礎とされる象徴のことで、ニーチェの手にかかるとそれらはみなルサンチマンによる転倒として斥けられる。(「天人五衰」みたいなものかも知れない。)
また「力への意志」はひとつ間違えると封建主義の擁護や優生思想の理論的背景として利用される危うさを持つが、他者との関係性ではなく個人個人が自分で体現すべき理想の内面化として読むべきかと思う。あらゆるものを否定する独特のやり方も、それが間違っている正しいかではなく(解説にもあるように)二項対立そのものを無効化するアプローチとして考える方が面白いのではないだろうか。ただしポストモダン的な相対主義に陥っては不毛な循環になるので宜しくないとは思うが。
しかし本書を読んで改めて思ったのだが、バタイユとかニーチェってほんと頭おかしいと思う。でもそれだけに刺激的な読書が楽しめるわけだけれど。

『神統記』ヘシオドス 岩波文庫
ギリシア神話における宇宙と神々がいかに誕生し、主神たるゼウスがいかに世界を統治するに至ったかを謳いあげた叙事詩。数多い神々の系譜やクロノスや巨人族との戦いなど、知らなかったことが多くて面白いが、ギリシアの神々の乱脈ぶりには苦笑せざるを得ない。

『流れよわが涙、と孔明は言った』三方行成 ハヤカワ文庫
『トランスヒューマンガンマ線バースト童話集』でハヤカワSFコンテスト優秀賞を受賞し、作家デビューをはたした著者による作品集。前作と同様に小説投稿サイトに投稿されたものや、コミケで販売されたアンソロジーで発表されたものなど、収録作はバラエティにとんでいる。ギャグが冴える表題作や書下ろしの「走れメデス」などはいかにも同人誌的なノリが感じられるが、自分には寧ろ「折り紙食堂」や「闇」といった作品における狂気すれすれのシュールさとでもいうべきものの方が、より好ましいものと感じられた。なかなか愉しい一冊である

『葡萄酒色の夜明け』開高健 ちくま文庫
サントリー宣伝部にも所属していた小玉武氏の編による〈開高健ベスト・エッセイ〉の続篇。単著として出されたエッセイからの抜粋ではなく、これまで読んだことのない文章ばかりだったのでまずはよかった。内容は若き日に作家宛に送った書簡から、旅や飲食にまつわる随想、「男」や「女」についての想い、かつて会ったことのある著述家の記憶と文学論など多岐にわたっていて、エッセイと銘打ちながらも、全体を読み通すことで「開高健」という人物が見渡せる構成になっている。個人的には川端康成や三島由紀夫について書いた文章が非常に面白かった。三島由紀夫が自身を分析して言った「一に批評家、二に劇作家、三に小説家」という言葉が引用されているが、ひるがえってみると開高自身も小説家である前にまず自分自身に対する厳しい批評家ではなかったろうか。彼の文章を読んでいるとそんな気がしてくる。この人の根底に流れるのは倦怠と焦燥である。釣りをおぼえる前、彼はそれを忘れようと狂騒の最中に自らの身体を晒した。アルジェリア独立に揺れるパリ、傷跡も生々しいベトナム、アイヒマン裁判などを転々としつつ、最後に戻ってくるのは憂鬱という名の日常なのだ。「男」や「家庭」や「文学」といったしがらみでがんじがらめになった自分の姿を見ないようにするには、自然の中に身を置くしかなかった。沈まないためには漂うしかなかった。考え過ぎてしまうことが宿痾となる、そんな人生を歩んできた人物のような気がする。だからこそ鳥獣草木について語るときは筆が伸びやかで、街や人について語るような息苦しさがないのだ。時を経てルポ作品の中身や作中で表明される作者の価値観などが古びてしまったとき、それでも開高健の著作に価値があるとしたら、それは自分に真摯に向き合う姿勢や誠実さではないだろうか。そんな気がする。(だからこそ自分が開高健の著作で好きなのは、まず『フィッシュ・オン』に始まり『オーパ、オーパ!!』に終わる釣り紀行なのだ。)

『聖アントワヌの誘惑』フローベール 岩波文庫
ブリューゲルの版画作品『聖アントニウスの誘惑』に想起され、ゲーテ『ファウスト』に影響を受けつつ30年の歳月をかけて完成された著者の代表作。知識という名の悪魔によって、荒野に隠遁する聖者に次々と投げつけられる幻覚は、現実と見紛うばかりの迫真性に満ちている。
高慢や物欲、色欲といったわかりやすい誘惑に始まり、キリスト教の異端思想からはては仏教、ギリシアやローマの多神教など異教の思想まで、ありとあらゆる手段でアントワヌの信仰に揺さぶりをかける250ページあまりの展開は、ただただ圧巻である。唐突なラストも訳者解説によって合点がいった。フローベールは『三つの物語』しか読んだことがないのだが、小説としての完成度は別にして、こちらの方が好みかも知れない。徹底した客観的描写による誘惑の数々。信仰を突き詰めるが故に必然的に至った皮肉な結末も含め、図らずもいびつになってしまった思想小説としてひとまずは評価しておきたい。(それにしてもまさか仏陀まで出てくるとは思わなかった。)

2019年3月の読了本

今月はわりと順調だった。フィクションが多かったせいかも。

『物理学と神』池内了 講談社学術文庫
宇宙物理学の研究者が記した、一種変わった科学史の本。過去から物理学が神に仮託することで何を表そうとしてきたかについて、カントやニュートンの時代から二十世紀の相対性理論や量子力学、超ひも理論までを俯瞰しつつ、数式を使わず平易に説明される。物理学や自然哲学が無限者たる神をいかに「追放」していったかを描く第一章から、ラプラスやマックスウェルの悪魔が跋扈する第二章へと進み、永久機関や錬金術、パラドックスなども出てきてなかなかに面白い。元々は集英社新書で刊行されたもののようだ。実は読み始める前は「古今の科学者が神への信仰とどのように折合いをつけてきたのか?」というような話を期待していたのだが、ふたを開けてみると割と一般的な科学史だった。(これはこれで面白い。)いかに神の存在を前提としないで世界の成り立ちを説明出来るかが自然科学の発展を支えてきた思想であるならば、実験の再現性が科学のキモであることも納得できるだろう。誰が何度やっても同じ現象が再現できるという事こそが、神による奇跡ではなく単なる自然現象であることの証拠になるわけだ。ただしどこまで行っても「では何故そのようになっているのか?」という疑問は残るわけではあるが。(それでも科学の発展によって決着の時は無限後退し続けることにはなる。)こういった本を読んでいると内容が浮世離れしていてすこぶる好いね。
最後に面白い小ネタをひとつご紹介。「ゼノンが次々とパラドックスを持ち出して人々に論争を挑んだのは、独裁者である僭主が振りまく調子のよい喧伝の裏には、恐ろしい魂胆が隠されていることを気づかせるためであったと言われる」 そうだ。知らなかった。

『定本 黒部の山賊』伊藤正一 ヤマケイ文庫
時代は終戦直後。北アルプス源流の三俣蓮華や黒部渓谷を舞台にして、猟で糧を得る男たちとの交流や厳しい自然、山小屋を訪れる登山客らのエピソードが語られる。副題に「アルプスの怪」とあるが『山怪』のような実話怪談は第四章だけで、その他の6章ではいずれも、開発されてダムが作られる前、気軽に観光客が行けるような場所ではなかった黒部渓谷の情景や、そこでの暮らしぶりが迫真性をもって描かれている。黒部山中に住んでいた猟師崩れの「山賊」たちと、ひょんなことから親交を深めることになった著者が記した山の生活の記録なのだが、これがとんでもなく面白い。無法というより、自然こそが法の世界。そこで生きるとはどういうことか。死に直結する気候の急変、熊やカモシカや狸といった野生動物の生と死の延長に、現実と神秘が混じり合い怪異が語られるからこそ本書の副題の意味があるのだと思う。刊行後50年経ってもまったく色褪せない山岳書の名著だ。

『墓場の少年』ニール・ゲイマン 角川文庫
カーネギー賞(英)とニューベリー賞(米)を受賞した冥界版『ジャングル・ブック』とでも呼ぶべき本。死者たちによってノーボディと名付けられた赤ん坊が大きくなって世界を知り自らの運命を切り開くまでを描く。想像していたようなどろどろで暗いゴシックホラー的なものではなく、真っ当なヤングアダルト向けの小説だった。予備知識ゼロで読み始めたところ、まるで映画を観ているようで驚いたのだが、著者のプロフィールをみたら『コララインとボタンの魔女』や『アメリカン・ゴッズ』の原作を書いている人だった。どうりでリーダビリティに長けているわけだ。ヤングアダルト向けと書いたけれど話自体はわくわくどきどき冒険あり涙ありで、おとなが読んでも愉しめる。『コララインとボタンの魔女』じゃないけれど、本作も人形アニメーションにぴったりな感じで悪くなかった。

『快絶壮遊〔天狗倶楽部〕』横田順彌 ハヤカワ文庫
副題に「明治バンカラ交遊録」とあるとおり、押川春浪と彼が組織したスポーツ社交団体「天狗倶楽部」を中心とした明治の著名人の交友関係を、丹念な調査によって掘り起こした労作。とはいっても読み口は全く堅苦しくない。著者の他の著書と同じように、愉快なエピソードを軽い口調で語ってくれているのですらすらと読み進むことができる。(ただし、やたら人名が出てくるので、人の名前を憶えるのが苦手な人はちょっとだけ大変かも。)取り上げられているのは押川春浪や中村春吉などこれまでの著作でもお馴染みの人々から、河岡潮風や永代静雄、小杉未醒といったまるで聞いたことのない人まで様々。全十二章の中には、それまで歴史の彼方に埋もれて忘れ去られていた交流の様子が活写される。1999年に出版された単行本の初文庫化ということだが、存在自体全く知らなかった。大河ドラマ『いだてん』の影響だろうが何だろうが、とにかくこういう本が手に入るのは有難いことだ。個人的にはヨコジュンの文章が久しぶりに文庫で読めるのが嬉しい。もっと長生きしてたくさん本を書いて欲しかったなあ。

『シンドローム』佐藤哲也 福音館書店
〈ボクラノSFシリーズ〉の一冊。ひとりの男子高校生の視点で、四人の学生たちの日常と謎の飛行物体が街外れの山に墜落してからの一週間の出来事を描く。主人公のひねくれた独白のおかしさと徐々に進行する"兆候"の深刻さのギャップが、これまで読んだことのないような雰囲気の物語を作り出している。これが果たして主に児童向けに書かれた本と呼べるかどうかは別として、まぎれもなく侵略SFの傑作である。後年、ウィンダム『トリフィド時代』のような“ある種”の位置を占めることは間違いないと思う。著者の作品は割と好きで『イラハイ』や『ぬかるんでから』などいくつか読んでいたのだが、こんな本が出ていることはツイッターで教えてもらうまでまったく知らなかった。ありふれた日常から不穏に満ちたラストまで、忘れ得ぬ余韻を残す作品である。(ただし子どもの頃に読むとトラウマになるかも知れない。)

『砂糖の空から落ちてきた少女』ショーニン・マグワイア 創元推理文庫
異世界から元の「この世界」に戻ってきた子ども達を迎え入れる〈迷える青少年のためのホーム〉を題材にした三部作の最後の作品。子ども達の前日譚を描いた前作『トランクの中に行った双子』とは違い、本書は第一作『不思議の国の少女たち』の直接的な続編になっていて、互いに補完しあって重層的な物語を形作っている。今回は前二作に比べてユーモアが強めで凄惨な展開にこそならないが、本来の自分の居場所である場所が失われた子ども達のひりひりした焦燥感は同じだ。巻末の訳者解説によればこの後も少なくともあと2冊は続きが出されることが決定しているようなので、願わくば〈魔法の国ザンス〉のように長大なシリーズと化してしまったがゆえ、当初の魅力がぼやけてしまうようなことが無いことを祈る。そんなに簡単に往き来出来ないからこそ、夢の国は夢であり続けるのだから。

『父と私の桜尾通り商店街』今村夏子 角川書店
「文芸カドカワ」に掲載された三篇に、「早稲田文学増刊」と「たべるのがおそい」、書き下ろしの一篇を加えた最新短篇集。発表誌が違うためか、これまでのイメージとはかなり違う作品が多かった。文芸カドカワのものは軽めの印象だし、「ひょうたんの精」と「せとのママの誕生日」はファンタジーというか魔術的リアリズムというか、そちらの方面に振れている。「白いセーター」と「ルルちゃん」あたりは相変わらず構図が歪んでいる絵を観ているようで、歪んでいるのは「わたし」なのか周囲なのか或いは読者自身なのか判らない不穏さがこわい。しかしそれ以外の作品は、表題作も含めて突然垣間見える不安定さは相変わらずでも、それでも『こちらあみ子』や『星の子』のような苦しさは無く割と穏当に受け入れられる。著者の作風の広がりを愉しむ事ができた。
鼻の奥に鉄の匂いがするようなひりひりした感じは吉田知子にも似る。

『小鼠 油田を掘りあてる』L・ウイバーリー 創元推理文庫
欧州の小国グランド・フェンウィック大公国が世界中の大国を翻弄する痛快シリーズの掉尾を飾る第4弾。今回はエネルギー危機を題材にして、いつものごとく首相であるマウントジョーイ伯爵の頭脳が冴えわたる。それにしても本書になぜ創元推理文庫の<帆船マーク>が付けられているのか不思議だ。Q爆弾をはじめとする天才科学者コーキンツ博士の発明は怪奇と幻想よりSFに近いものだし、物語自体はポリティカル・フィクションというか、『大誘拐』や〈陽気なギャング・シリーズ〉といった犯罪小説、あるいは映画でいえば『スティング』や『オーシャンズ11』あたりの雰囲気に近いと思う。まあジャンルは何にせよ面白ければ良いのだし、金も力も持たないものが丁々発止、頭と口で強い連中を手玉にとる物語が面白くない筈がないのである。

『ドーキー古文書』フラン・オブライエン 白水uブックス
海辺の町ドーキーを舞台に、ひとりの若者が奇妙な人々と共に繰り広げる狂おしくも哀しいドタバタ劇。超自然と科学、信仰と倫理、日常と文学などの要素が入り混じった軽喜劇とでもいえばいいのだろうか。酒と信仰と奇想に彩られた本気とも冗談ともつかない展開で、最終的にどこへ連れて行かれるのか予想も出来ない。ついあちこちをつついて読み解いてみたくなる物語だが、真面目に考えるほど著者に「全て冗談だよ」とひっくり返されそうな気もする。アマチュア科学者にしろ巡査部長にしろ世界的な某有名作家にしろ、出てくるのはなにしろ頭のイカれた連中ばかりなのだ。ぜひとも皆、幸せになってもらいたいものである。ところでなぜ本書の題名が「古文書」なのだろうか。最後まで読んでも結局題名の意味はわからなかった。(そしてなぜ「国書刊行会にしか出せない(出さない)海外文学叢書」が〈ドーキー・アーカイヴ〉と名付けられたのかも。)

『あやかしの裏通り』ポール・アルテ 行舟文化
『第四の扉』など本格ミステリを数多くものにして「フランスのディクスン・カー」とも称される著者による新作ミステリ。ミステリというより探偵小説と呼ぶのが相応しい、いかがわしさと懐かしさが同居した物語が沁みてくる。奇抜な謎と合理的な解決、そして意外な犯人という三拍子がみごとに揃った愉しい作品だった。ひとつの通りが丸ごと消失するという大技も見事に決まり、犯人が〈少年探偵団シリーズ〉に出てくるような劇場型犯罪を犯した理由も(納得出来るかどうかは別にして)まあ理解はできる。ただし作中で示される図の通りだとすると、これで本当に消失トリックが成立するかは疑問に感じた。もうちょっと路地の形とか扉の位置とか工夫が要るんではなかろうか。まあ仰々しい謎解きも含めて、それら全部が愉しいのではあるが。こういうのを読むと、やはり自分はハードボイルドや社会派あるいはサスペンスなどよりも、本格ミステリが好きなんだなあと実感するのだ。

『傍迷惑な人々 サーバー短篇集』サーバー 光文社古典新訳文庫
長年にわたりニューヨーカーの誌面を飾ったジェイムズ・サーバーの代表的な作品の数々を、「家族の絆」「傍迷惑な人々」「暴走妄想族」「そういうぼくがいちばん……」といったテーマ別に分けて紹介したもの。本人による挿絵や一コマ漫画も収録され、多彩な一面(というか漫画の方が本職?)を見ることが出来る。異色作家短編集では分かりにくかった作家としての立ち位置も、こうしてみるとわかるような気がしてくる。エッセイとも創作ともつかないところとか、ユーモアとナンセンスに溢れたところとか、日本で例えるとしたら「東海林さだお」に近いのかな?とも思った。(きつめのジョークはサキの『クローヴィス物語』に似ているかも知れない)軽めでスマートでユーモアがあって、さらりと読めて腹に残らない洒落た作品群はたしかに、いかにもニューヨーカー誌に載っていそうな感じである。単純明快な面白さといえるだろう。

『この世界は何だ⁉︎ じわじわ気になるほぼ100字の小説』北野勇作 キノブックス
ツイッターで発表された掌編を130集めて一冊の本に仕立てたシリーズの第三弾。今回は題名にあるように「世界」がテーマで、 暗闇世界や縁側世界、坂道世界に組み立て世界などなど、様々な世界がひとつのページごとに広がっている。テーマが「世界」だからか、前二作よりもSFらしさを強く感じた。(自分が好ましいタイプのSFらしさ)いつもの氏の作品と同じく不思議な描写や理屈が続くのだが、なぜだかストンと腑に落ちる。氏の創作活動の根っこには落語とかSFとか演劇とか色々なものがあると思われるが、自分に共通するSFの根っこは案外このあたりにあるのではないかという気がした。(根拠はないが) 根拠のない思いつきをついでにもう一つ。氏の創作には本書のような掌編がいちばん向いているかも知れない。もしかしたら本シリーズが、氏の代表作になるのかもしれない。

2019年2月の読了本

『言わなければよかったのに日記』深沢七郎 中公文庫
『楢山節考』や『みちのくの人形たち』などの著者による日記風の身辺雑記、子供の頃の思い出、そして「◯◯ポルカ」と自ら名付けた肩がこらない小文を集めたもの。小説とエッセイで文体や作風が違う作家は何人か見てきたが、これ程違うのも珍しい。世間の常識を知らない著者が引き起こす、時に可笑しく時に恥ずかしい先輩作家との交流は、勝手に想像していたイメージを粉々に打ち砕いた。ここまで創作とエッセイで雰囲気が変わる作家は、他には恩田陸や楳図かずおぐらいしか思い浮かばない。いやあ驚いた。

『臨済録』入矢義高訳注 ワイド版岩波文庫
看話(かんな)禅として有名な臨済宗の祖である臨済の言行を、弟子の慧然が記したとされる言行録。修行中に師の黄檗(おうばく)や大愚らと交わした問答や、後年弟子たちとのやりとりを記した「上堂」「勘弁」「行録」と、弟子に噛んで含めるように修行の肝要を諭す「示衆」、そして臨済の経歴を記した「塔記」の5つのパートからなる。なんといっても白眉は「示衆」ではあるが、その他の章も、側から見ていて全く意味が掴めない謎の行動の一部始終が面白い。何を話しても最後には払子で払うか一喝するか、打つか出て行くか悟るかしか無いやりとりがなんともシュールである。僧問う(修行僧の質問)→ 師云く(師の返し)→ 僧擬議す(僧、もたつく)→ 師便ち打つ(師、すかさず僧を打つ) という一連の流れがまるで目に浮かぶようだ。しかしそれらも結局は「示衆」の章で示されるように「無依独立の人々こそがそのままで諸仏の母(≒誰しもが産まれながらにして仏)」だから、あれこれ考え外に求めれば求めるほど「迷いの世界に輪廻する」ことになる(=言葉に仏法を求めるから迷う)。だからこそそれを無化せんがためのやりとりであるのだ。ただし、あるがままの自分を肯定するのが一番難しいわけだが......。
本書は問答の様子が極めて具体的に書かれているため、禅の実践的入門書として読むことも出来るのではないだろうか。(もっとも、そんなことをすると臨済師にすかさず打たれそうではあるが。)こんなに面白いのならもっと早くに読んでおけば良かった。

『あひる』今村夏子 角川文庫
単行本で読んだのにまた買ってしまった。そしてぞわぞわしながらあっという間に読んでしまった。西崎憲氏の解説を読みたかったのである。氏によればこの著者は新しい型紙を作る作家であり、おそらく裸の王様が着ている(社会性という)服が見えない子供のひとりなのだと。作品自体ももちろん素晴らしいのだが、解説がまた素晴らしかった。悪意、暴力、醜悪さなど見てはならないとされるものがあり、文学はそれを直視することが目的だったりもするが、西崎氏が指摘されるように、著者が描いているような、ある種の見えない(ことになっている)社会性は確かにこれまで読んだことが無かったように思う。なぜだかミエヴェルの『都市と都市』を思い出した。

『えーえんとくちから』笹井宏之 ちくま文庫
重度の身体表現性障害で長く療養生活を続けた作者の遺した短歌集に、未発表の俳句、詩、エッセイなどを加えた増補版。世界が小さい分、作者の手触りが強く感じられるようだが、いずれも繊細で柔らかな趣きがある。若さや技巧が見え隠れするのは好悪とはまた別。自分は好ましいものと感じた。以下、表題作を含め、気に入ったものを幾つかあげてみる。
えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい
ふわふわを、つかんだことのかなしみの あれはおそらくしあわせでした
こころにも手や足がありねむるまえしずかに屈伸運動をする

『青きドナウの乱痴気』良知力 平凡社ライブラリー
副題に「ウィーン1848年」とあるように、ウィーンにおける市民革命の始まりからその敗北と独裁政治の開始までの約8ヶ月間を描いた社会史の本である。皇帝や貴族といった当時の支配階級や職人をはじめとする市民、そして他の地域から流入して街の最底辺を構成した労働者たちや学生が、ときに連帯しときに敵対しながら複雑に絡み合う姿が、彼らの暮らしぶりや考え方などとともに活写される。十九世紀初頭のウィーンはリーニエと呼ばれる壁に取り囲まれた「閉鎖された都市」であり、外から食料を持ち込むには消費税を支払わねばならなかった。大衆への課税は日常の食物の値を吊りあげることだったため「庶民の怨嗟の的」となり、ウィーン三月革命とともに群衆による暴動が起こったのだという。その後長期間にわたり様々な「乱痴気」が起こるのであるが、その行動には思想も秩序もなくまさに「乱痴気」。しかしその中にも近代への足音は確実に聞こえてきているようだ。人々に漲るこのパワーこそが「革命」の原動力なのだろう。まさに「大衆の反逆」であるといえるかも。

『自然魔術』ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ 講談社学術文庫
近代自然科学の黎明期に記された、実験的・経験主義的な思想に基づく書。全二十巻を約三分の一にした抄訳だが、全体を通しての雰囲気はよくわかる。水・空気・火・土にスピリト(精気)を加えた五つの元素が、共感と反感を通じて影響しあい、或いは全ての生命がある秩序を持って連鎖するという世界観で貫かれている。自然を一種の「機械」とみなして原理を探ろうとする、近代科学とは相容れない今では失われた「もうひとつの知」と呼べるようなものが読者に生々しく迫ってくる。
いかにも当時の本らしく内容は体系立てられておらず、物理化学的な記述から女性の顔を白くする方法や如何に肉を柔らかくするかといった「生活の知恵」のようなものまで、全てが隠れた力を操る「技(アルス)」の実践的カタログといて同列に語られている。科学的に正しい内容とトンデモ説がごっちゃになって、今のインターネットの世界のようにも感じた。(ネットの世界がまだ中世レベルなのだとも言える。)澤井繁男氏による訳者解説も本書の思想的な位置付けを詳しく示してくれて好い。
以下にその一部を紹介したい。
本書によれば自然魔術は自然学の完成形とされるそうである。「技(アルス)」の力を借りず、自然だけの助けを得て事物を行う人を「魔術師」と呼ぶ。これはまた過去から「哲学」とも呼ばれており、ピュタゴラス、エンペドクレス、デモクリトス、プラトンらがその探求者として名高いとのこと。この自然魔術を善とすれば、もう一つの魔法は邪悪な霊と関係を持つ妖術であるとのことだ。またこの世の全ては火・空気・水・土という「四大元素」からなり、更に「質量」「形相」という二つを合わせた都合三つの要素で作られる。薄さ・厚さ・粗さ・滑らかさ・割れやすさなどは質量に起因し、冷・熱・湿・乾や柔軟・熟成・矮小、保存・凝縮・腐敗などの特性は全て形相に起因する。
章が進むと次のような記述も出てくる。
アブラナと葡萄には憎悪の関係があるので、アブラナは酩酊に効く。野生の雄牛をイチジクの木に繋ぐと大人しく穏やかになるので、牛肉を煮るときに野生のイチジクの茎を加えると速やかに煮立つ。ニンニクと磁石には際立った不一致があり、ニンニクを塗ると磁石は鉄を引きつけなくなる。(これって類感呪術の一種だよね。)そして類感呪術の次には「生物は腐敗から生まれる」との記述が。パスツールまであとおよそ300年の時代である。
なんとなく雰囲気は伝わっただろうか。つまるところ科学も魔術も、原因と結果の関係性を追求することで世界を理解しようとするものではないかと思う。ただ前者が神の介在なしに理を示そうとするのに対して、後者は「そういう風にできている」というところで足踏みしている感じがする。まあ「神の意図」を世界に読み取ろうとするわけだから当然かも知れない。「正しいかどうか」でなく、当時の人がどのように世界を理解していたかに寄り添いながら読まなくてはいけないので、意外と頭を使う読書だった。今でいうところの科学の領域から地続きで魔術や占星術の領域につながっているのがすごい。書かれた内容自体は正直たいしたことないが本としては極めて面白いという不思議な体験が出来た。それにしてもプリニウスの『博物誌』に並ぶ16世紀のイタリアの書が文庫で手軽に読めるとは、講談社学術文庫おそるべしである。

『キッド・ピストルズの冒瀆』山口雅也 光文社文庫
パラレルワールドの英国を舞台に、パンク探偵が活躍するミステリシリーズの復活第1弾。《マザーグース・ミステリ》の要素を盛り込んだ四つの短篇が収録されていて、さらに著者やゲストによる巻末エッセイやインタビュー、解説、作品リストなど50ページあまりが追加され、さらに本編も著者によるリマスター化がなされた決定版となっている。探偵役のキッドや相棒のピンクをはじめとする登場人物たちの魅力はもちろん、マザーを題材にした見立てや意外な結末などミステリとしても一級品。これが再び手に取れるようになったのは慶賀であるといえよう。創元のソフトカバー版から数えて何度目かの再読だったがやはり面白い。国内外合わせたミステリーの中で、もしかしたら一番好きなシリーズかも知れない。

『只野真葛の奥州ばなし』勝山海百合/現代語訳 荒蝦夷
江戸で生まれ育ち仙台へと嫁いだ才女・只野真葛が記した奇談集『奥州ばなし』を、小説家の勝山海百合氏が現代の言葉に直したもの。巻末には彼女の伝記『わが真葛物語』の著者・門玲子氏との対談や年譜も収録されていて、『独考』や『むかしばなし』で知られた著者の生涯や人柄がよく伝わってくる。(恥ずかしながら本書を読むまでこの只野真葛という人物を知らなかった。知れば知るほど読書欲をそそる人物である。)
具体的な内容は例えば柳田國男『遠野物語』に出てくるような聞き伝えを、時に自らの意見を交えてまとめたもの。随筆とすれば『遠野物語』よりも雰囲気は根岸鎮衛の『耳嚢』の方に近いかも知れない。(地元に根差した話という点では『北越雪譜』にも。)各話の最後には勝山海百合氏の感想が書き加えられているほか、時おり著者に関係があった滝沢解(馬琴)による註釈も添えられていて、ちょっと得した気分にもなれる。
なお出版元の荒蝦夷(あらえみし)は仙台に本社を置く地方出版社で、本書も荒蝦夷が出している「仙台学」という雑誌の連載が元になっている。国書刊行会の〈叢書 江戸文庫〉『只野真葛集』ぐらいでしか読めなかったものが、このように気軽な読み物となって紹介されること自体が、仙台の文化の豊かさを示しているようだ。金沢の泉鏡花記念館が出している泉鏡花作品のオリジナル文庫といい、文化は中央発信ばかりでない証であるようで嬉しい。

『丹夫人の化粧台』横溝正史 角川文庫
日下三蔵/編の怪奇探偵小説傑作選で、正史が本格ミステリを書く前の、戦前の作品ばかりを十四篇収録している。独特の風味があって、中にはおどろおどろしい作品もあるが、久生十蘭のようなスマートなものやユーモアに溢れるものまでバラエティに富んだセレクションになっていて好い。なんで今ごろ横溝正史の戦前の怪奇物ばかり集めたアンソロジーが出されたのかと思ったが、解説に書いてあった経緯を読んで納得した。

『スキタイの子羊』ヘンリー・リー/ベルトルト・ラウファー 博品社
叢書〈博物学ドキュメント〉全二十冊の一冊。中世ヨーロッパのアジア旅行記に登場する〈植物子羊〉、すなわちスキタイの子羊あるいはタタールの子羊やバロメッツなどと呼ばれていた「子羊の生える木」に関する伝承の起源と、それがいかに中世ヨーロッパに伝播していったかを考察する。二部構成となっていて、前半のリーはその起源を「木になる羊毛」と形容された綿花に求め、後半のラウファーはリーを批判的に引用しつつ、繊維を産するピンナ貝および中国の「水羊布」とキリスト教できるアレゴリーがその起源であると断定する。いずれが正しいのかはさておき(いずれも少しずつ正しそうな気もするが)、言葉の取り違えや概念を図像化する際の変質によって奇怪なイメージが出来上がる過程は大変に面白い。如何にももっともらしい嘘のオンパレードが可笑しい。ところでこの叢書、シュテュンプケ『鼻行類』を出したところのようで、リストをみると他にも魅力的な書名が並んでいる。探求書がまた増えてしまった。

『キッド・ピストルズの妄想』山口雅也 光文社文庫
〈パンク=マザーグースの事件簿〉シリーズの二作目。前作『キッド・ピストルズの冒涜』に続いてマザーグースに彩られた奇怪な(そして魅力的な)シュチュエーションの三つの事件が収録されている。このシリーズ、マザー・グースと不可能犯罪とパンク(権威への反抗)が混じり合う独特の雰囲気がたまらなく好いのだが、今回は童謡以外にもう一つ「狂気の論理」、すなわち「妄想」が全体を貫くテーマに据えられていて、一種の「狂人」である死者の思いの奥底まで深く潜ってゆくキッドの「妄想」が圧巻。反重力の夢、洪水伝説と箱舟、〈ピクチャレスク〉とオルフェウス。何れ劣らぬ狂気の代弁者たるキッドは、その異様な風貌と相まってまるで冥界を覗き見る司祭のようにもみえてくる。(それにしってもキッドはかっこいいなあ。こういう「おいら」の使い方好きだ。)迷推理を開陳する探偵たちや相棒ピンクのトリックスターぶりに惑わされがちではあるが、軽い読み心地とは裏腹になかなかどうして重たいものが流れているように感じた。馴染みの話がこれまでと違う相貌を見せてくれるのは、再読の効用ともまた再読ならではの愉しみ方ともいえるだろう。

2019年1月の読了本

『ねこたま』北野勇作 惑星と口笛ブックス
〈北野勇作2本立て〉シリーズの第二弾で、「タマモン」と「船と猫と宿と星」の二つの作品を収録したもの。前者は藤子・F・不二雄の作品にありそうで、それでいてぜんぜん違うような話。背中にファスナーがあったら開けたくなるが、ファスナーがある事に気がついてはいけない、そんな話だ。(他の北野作品と同じように、例によって要約は出来そうにない。) 後者は「傾斜」「秘密」「迷子」「辻褄」「屋上」「星座」「湯気」という微妙に題材が絡みつつ独立しているような奇妙な話が7つまとめられている。全体的にSFっぽさが強い感じはあるが、いつもの北野ワールドでもある。この〈2本立て〉というのは、いいシリーズだな。ふと思ったのだけど、北野勇作作品の雰囲気って笑いのセンスとかが、うすた京介の漫画に似ているかも知れない。

『語りかける身体』西村ユミ 講談社学術文庫
著者は現在は看護学科の教授をされている方で、本書は「介護ケアの現象学」という副題が示すように、氏がかつて博士課程のときに行った研究をもとに、「遷延性植物状態」にある患者と看護師の間のコミュニケーションを通じて、患者の「意識」について現象学的な考察を行った本だ。著者自らが植物状態患者の専門施設で実際に看護に携わったのち、施設で三人の患者を受け持った看護師Aさんへインタビューを行い、さらにその内容を詳細に考察するという構成になっている。最後の章はこのような研究スタイルをとったこと自体の振り返りと、先行する現象学的看護研究の分析(および不徹底さに対する批判)にあてられており、看護現場へのメルロ=ポンティの現象学の見事な実践であるとともに、現象学了解への優れたサブテキストにもなっている。自分としてはまず看護研究において、患者の病いの体験を了解したり看護実践に中にある「知」や「技能」を探究する方法として、現象学が過去から注目されてきたことを知らなかったので驚いた。
「外的刺激に対する反応が見られず、周囲の環境や他者と相互作用することができない」とされてきた植物状態患者が、実際には看護師との間で前意識的な「原初的地層」での未分化な知覚(=共感覚)を通じて感覚を交差させているという(看護師の)実感があるということ。そしてこれを「視線がピッと絡む」とか「手の感触」といった表現でインタビューの言葉の中から掬い出すことができたのは、著者が自らも現場に入り込み、かつ現象学の本質を充分に理解していたからに他ならない。理論と臨床の幸福な出会いを示すものだろう。良い本を読むことができた。
実は自分の父親は「進行性核状性麻痺」という病気で、今も徐々に身体機能が衰えつつある。歩行も困難になり寝ている時間が増え、呼びかけても反応がとても遅い。半年ほど前からは言葉も殆ど発しなくなった。しかし過去からを知る自分にとっては、微妙な顔の表情や仕草で父親が何を欲してどんな気持ちでいるのかが手に取るように「わかる」のである。また、母親も認知症が進み記憶の殆どは溶けていってしまったが、しかし一緒に食事をしながら会話をする瞬間にみせる感情や言葉のやりとりは、間違いなく母親そのもの。そう考えると「植物状態」とされる人たちを「意識障害」と単純に判断して良いものかという疑問はたしかに浮かぶ。現に本書によれば、意識レベルの評価スケールによる点数の結果と、実際にケアを実践している看護師の感覚は大きな食い違いを示しているようだ。どこまでを意識と呼べるのかや、あるいはどこまでも看護する側の判断でしかないという課題はあれども、たしかにその瞬間は目の前の人は「生きている」のである。自分の父親や母親と同じように。

『紫の雲』M・P・シール アトリエサード
これまで名前ばかりが有名だった幻の幻想小説がやっと読めた。300ページを超える本文のうち幻想味の強い極地冒険パートは僅か5分の1ほどで、北極から帰った男の目の前に広がるのは紫の死の雲によって全人類が死滅した世界。死屍累々とはこのことか。男は生存者を探して死の街をひたすら行く。死者たちは防腐作用のある雲により、死後数ヶ月たっても突如訪れたその瞬間の姿のまま保たれている。老いも若きも、富めるものも貧しきものも、人種や性別も全て関係なく死はすべての者に平等に襲いかかり、その様子は「死の舞踏(ダンス・マカブル)」を見せられているようだ。(これに良く似た話を昔どこかで読んだと思って考えたら『火の鳥 未来編』だった。それにしても誰にも咎められることなく何でも好きなことをできるのは、幼児的な万能感に満ちた楽しさではあるものの、絶望感とか身体の不調とか無いものだろうか。また陸上の全動物が死に絶えて文明も滅んでいるのにかかわらず、何年も経ってから肉や菓子や珈琲が手に入るというのはちょっと変な感じがしないでもない。)死と荒廃の描写はその後も延々と続いてゆくが、3分の2を超えたところで物語は大きな変化を遂げ、やっと本書のテーマが見えてくる。もっとも読み返してみると、「白いやつ」と「黒いやつ」の二つの声、語り手の名前がアダムであること、堕落と悪徳の人々などなど、最初から手がかりが書かれており、それにこちらが気づかなかっただけなのだが。
物語としては非常にバランスが悪いと思いながら読んでいたのだが、解説を読んだら当初は三部作として構想されていたとあり納得がいった。途中、ミルトンの本がやっと出てきて気がついたわけだが、本書は名づけるなら「得楽園」か、あるいは「逆ヨブ記」といった感じかもしれない。読み終わってみればキリスト教的な神秘思想のど真ん中に位置付けられるような小説だったといえるだろう。主人公の無駄な熱量といい執拗なまでの破滅の描写といい、まさに力作であり怪作であるとおもう。読めて良かった。

『不気味な物語』グラビンスキ 国書刊行会
『不気味な物語』『情熱』という著者の二つの短篇集から既訳のものを除いて収録したもの。これでほぼ全ての代表作が訳されたとのことだが、とてもバラエティにとんでいて、こんな人がまだ隠れていたのかと驚かされた。
前半の〈不気味な物語〉のパートに収録された6つの短篇の中で特に好みなのは「シャモタ氏の恋人」「サラの家で」「視線」あたりか。凡そ結末の想像がつく作品もあるが、途中の盛り上げと最後の〆がいかにも上手い。後半の〈情熱〉のパートでは本書のなかで一番長い中篇「情熱」と「悪夢」「投影」が好かった。特に「情熱」は美しく活気に満ちたヴェネツィアの描写が素晴らしい。美と醜、崇高と卑近とが同居するヴェネツィアの街を舞台に、まるで演劇を観ているような愛と死と幻想の物語が繰り広げられる。こんな話を読むとグラビンスキの懐の深さが実感できる。ある種の吸血鬼物としても読める「サラの家で」や、まさか続き物とは思わなかった「偶然」と「和解」、オブライエン「失われた部屋」やプリースト『伝授者』、ポー「陥穽と振り子」などにも通じる不条理で不気味な部屋の光景が出てくる「悪夢」から非常にショッキングなラストの「屋根裏」まで、バラエティに富んでいて読者を飽きさせない。まさに愛蔵版ともいえそうな凝った装幀もすばらしく、これまでの『動きの悪魔』『狂気の巡礼』『火の書』と合わせてこの著者の作品は怪奇幻想ファンなら必携であろう。

『芥川龍之介選 英米怪異・幻想譚』 岩波書店
芥川が旧制高校の副読本として編纂したアンソロジーから精選した幽霊譚20編に、芥川自身が訳したイェーツ「春の心臓」とルイス・キャロル「アリス物語(抄)」、それに彼の異色作「馬の脚」を収録した短篇集。外れがひとつもない驚異的な本で、隅から隅までたっぷりと楽しむことができた。編者の一人である芥川研究家の澤西祐典氏による解題と巻末の解説も大変に参考になる。(それにしてもボルヘスと芥川龍之介の趣味がここまで似通っていたとは知らなかった。本書は『芥川版 バベルの図書館』と呼んでも差し支えないかも知れない。また芥川がウェルズを嫌いだったとは知らなかった)しかも全ての作品がいずれも当代随一の訳者による新訳で、且つ、うち11篇が本邦初訳という贅沢さだ。
かなり怖い正統派の怪談だとかユーモアに満ちた法螺話タイプの幽霊話、幻想味と気味の悪さと可笑しさとが入り混じる(奇妙な味〉に近いものなど、様々なタイプの小説が集められているので一概に比較はできないしどれも面白いのだが、その中でも特に好かったものを挙げるとすれば、レディ・グレゴリー「ショーニーン」、M・R・ジェイムズ「秦皮(とねりこ)の木」、アーノルド・ベネット「不老不死の霊薬」、フランシス・ギルクリスト・ウッド「白大隊」E・M・グッドマン「残り一周」あたりだろうか。もともとウェイクフィールド の「赤い館」や「ゴースト・ハント」、エーヴェルスの「蜘蛛」のように、正体がよくわからない怪異で読者を本気で怖がらせにきてる話が好きなんだが、M・P・ジェイムズの「秦皮(とねりこ)の木」もそんな話であり、訳者が西崎憲氏というのも個人的なツボなのだ。こういう怪談がもっと読みたい。本書に登場するには他にもオスカー・ワイルド、ダンセイニ卿、ポー、スティーヴンソン、ビアス、ウェルズ、ブラックウッドなどなど、とんでもないオールスターキャストである。こんな本が出たこと自体が、ある種の「事件」といっても良いかも知れない。

『奇商クラブ』G・K・チェスタトン 創元推理文庫
「奇妙な商売」にまつわるミステリアスな出来事を、隠遁した元判事バジル・グラントが解き明かしてゆく物語で、本書には南條竹則氏による新訳を六篇収める。いずれも独特の論理による物語が展開されて読者はぐるぐると引き摺り回されるが、馴れるとクセになってくる。出てくる商売はいずれもありそうでなさそうな、ちょっとニヤリとするものばかりだ。(本当に商売として成り立つのかは疑問だが。) 読みどころはこれらの商売のアイデアのほか、それらが引き起こす謎や奇妙な状況、さらにバジルによる謎解きの快感など様々で、それが読者を迷わせる理由にも魅力にもなっていると思う。商売(あるいは商店)に焦点を当てた作品といえば、別役実『当世 商売往来』や藤子不二雄Aによる『ブラック商会変奇郎』などが思い浮かぶが、この小説では商品を扱う物質的な商いではなく「サービス」であるところがチェスタトンらしいとも感じた。こういうのは心を豊かにする読書であるといえるかも。なお本書に収録された作品の中には、まったく別の人物である「ブラウン少佐」が複数でてくるのだが、これには何か意味があるのだろうか。(その後に書かれた神父の名もブラウンだし)

『海と山のピアノ』いしいしんじ 新潮文庫
鎮魂、というより生と死の連環を見送る側から描いたような九つの短篇からなる作品集。文学というよりは正しく「エンタテインメント」であると思う。面白く感動的で考えさせもするが、心が揺さぶられるよりは楽しませることに主眼が置かれた物語。素材は民俗学や文化人類学に親しいものばかりであり、幻想や奇想が現実と交差する魔術的な光景が展開していくのが魅力的。個人的には「秘宝館」と「川の棺」が大変好かったし、「ふるさと」と「浅瀬にて」も悪くなかった。ただ悩ましいかったのは、様々な要素を盛り込みすぎてエンタテインメントにも文学にも振り切れていないと感じられる作品もあったこと。どう言えばいいだろうか、大江健三郎[同時代ゲーム』にも通じるような「やり過ぎちゃった感」とでもいうべきか。その結果、読み進むうちに別の方向へと引っ張られて最終的に宙ぶらりんの状態になったところで物語としての終わりを迎えることになる。思わせぶりが楽しいんだけど、もう一息で届かないもどかしさがある。(どことなくジェフ・ヴァンダミアの〈サザーン・リーチ〉を思い出した。)「あたらしい熊」なども非常に惜しかった。最初はすごく変な話だったのに、いい話になってしまった。読みたかったのはいい話ではなく変な話なのだ。あまりあれこれ盛り込まずに、ひとつのエピソードを掘り下げた作品の方が性に合うようだ。いっそのこと池上永一『バガージマヌパナス』や『風車祭』のようにエンタメに徹する方が、却ってストレートに伝わったのかも知れない。繰り返すが決して悪くはない。非常に好きな素材であり、好きな作風だけに「惜しい」という印象が強かった。でも読んで損をしたという意味ではない。これもまた読書の楽しさであるのだ。

『死者の百科事典』ダニロ・キシュ 創元ライブラリ
『若き日の哀しみ』で有名なユーゴスラビアを代表する作家による「死」をめぐる九つの短篇に、著者自身による解題「ポスト・スクリプトゥム」を付した作品集。文章も内容もとても密度が濃く、どの作品も歯応え抜群。まるで濃厚なチーズを丸かじりしているような満足感がある。どれもすばらしい出来なのだが、あえてその中から特に好きなものを選ぶとすれば、「魔術師シモン」「死者の百科事典」「眠れる者たちの伝説」「王と愚者の書」といったところだろうか。いずれも現実と虚構が境目なく入り混じる、まるで鈍器のような短篇である。容赦なく、思い切りがいいのが好い。
たとえば表題作。解説にもあるように本書の収録作に共通するのは、単語の羅列による描写の頻出なのだが、この作品についてはそれが大きな意味を持って迫ってくる。何処とも知れない図書館には無名の人々の一生を記した事典がひっそりと仕舞われている。そこに書かれているのは、ひとつの命を育み巡らせた事物でありエピソードであり世界である。語りつくせぬそれらの記録を、事典の編者たちが驚異的な筆力で記録してゆく様子がただひたすらに描かれ、読者は読み手とともにひとつの人生を追体験することになる。そのとき読者は言葉の羅列の先に霞んで見えなくなってゆく世界の消失点を幻視することになるのだ。 読んでいる間じゅう上田秋成『春雨物語』を読んだときのような、いわゆる「文学」とは違うルールで書かれたような違和感を感じたが、それこそが「世界を描く」ということなのかも知れない。刺激的な読書体験を味わえる本だった。また「眠れる者たちの伝説」は折口信夫ならぬダニロ・キシュ版の「死者の書」であった。ただしエロスではなくアガペーの。「王と愚者の書」は大変に恐ろしい物語で、過去のある人物が書いた陰謀論の偽書が、人口に膾炙して独裁者の手引きとなっていった様子が年代記の体裁で記される。デマはそれがどんな悪意に満ちたものであっても、打ち消すことがいかに難しいか。これは現在進行形の話だ。

『その正体は何だ? じわじわ気になるほぼ100字の小説』北野勇作 キノブックス
〈じわ100シリーズ〉の二冊目。ツイッターで発表された1400を超える作品の中から130をセレクト。研ぎ澄まされた表現で、少し怖かったり可笑しかったり不思議だったりじわじわくる話がずらりと並ぶ。一気に読んでしまったが、毎日少しずつ愉しむもよし、気に入ったのを何度も読み返すもよし、いつでも気ままにページを開けるのが良い。今回は生き物っぽいものがテーマだが、見慣れた昆虫が顕微鏡で拡大されると見た事のない相貌を示すように、大きく切り取られたエピソードがごろっと転がされているのが愉しい。とても奇妙でとても面白かった。

『言わなければよかったのに日記』深沢七郎 中公文庫
『楢山節考』や『みちのくの人形たち』などの著者による日記風の身辺雑記、子供の頃の思い出、そして「◯◯ポルカ」と自ら名付けた肩がこらない小文を集めたもの。世間の常識を知らない著者が引き起こす、時に可笑しく時に恥ずかしい先輩作家との交流は、勝手に想像していたイメージを粉々に打ち砕いた。あまりの天然ぶりに韜晦しているのかとも思ったが、ところどころ出てくる鋭い心象から察するにやはり天然なのだろうと思う(なんせ桃仙人だし。)可笑しいことは可笑しいのだが、ちょっといたたまれない感じもある。創作とエッセイで文体や作風が違う作家は何人か見てきたがここまで雰囲気が変わる作家は、他には恩田陸や楳図かずおぐらいしか思い浮かばない。いやあ驚いた。解説を尾辻克彦が書いていたので気がついたのだが、この空気感は赤瀬川原平に共通するのだな。ただし赤瀬川氏が意識してそれをやっているのに対し、深沢七郎は完全に自然体だと思う。まさしく天賦の才だ。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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