2022年2月の読了本
今月はおもしろい本がけっこう多く読めた。こういう「当たり月」みたいな月もあるね。
『ゆきあってしあさって』高山羽根子/酉島伝法/倉田タカシ 東京創元社
三人の作家による架空の旅のリレー書簡集。宮内悠介氏の解説によれば、今をときめく彼等にもまだ単著の無かった2012年にウェブで公開を始め、翌年の大阪文学フリマで「旅のお土産」付きの書簡を頒布したのが元になっているらしい。前評判の高さもさることながら「架空の旅」には昔から目がないので、出るなりさっそく読んでみたところ、期待に違わずとてもおもしろい本だった。
カルヴィーノ『見えない都市』やササルマン『方形の円』のような架空都市カタログとしても読めるし、石川宗生『四分の一世界旅行記』やヒルトン『失われた地平線』のような、旅行者による異文化コミュニケーションの記録としても愉しめる。とてもごきげんな本だ。中でも酉島伝法氏の旅は『皆勤の徒』を地でいくような壊れっぷりで、あまりの不運に片時も目が離せない。三人の奇想がぶつかりあい互いに刺激しあって、予想だにしない処へと旅は広がってゆく。果たして三人は最果ての地で無事に落ち合うことが出来たのだろうか。
『きのこの自然誌』小川真 ヤマケイ文庫
「知る人ぞ知る」伝説のきのこ博士による、隅から隅まできのこで埋め尽くされたエッセイ。植物学の牧野冨太郎、雪の研究で有名な中谷宇吉郎など、その道の一流の研究者によるエッセイはたいへんにおもしろい。本書もきのこについての愛情が満ち溢れていて、それはもう素晴らしいものだった。
内容は題名が示す通りで、きのこの形や成長の仕方から毒きのこと薬になるきのこ、分布や生態なときのこに関するありとあらゆる話題が取り上げられている。あまりにもきのこ尽くしなので、読んでいるうちに笑ってしまうが、著者がいかにきのこ好きかはよく伝わってきた。そしてこんな色々なタイプに分かれているとはついぞ知らなかった。これまできのこについてあまりにも無関心だったのを恥じるばかりだ。
少しだけ中身を紹介しよう。例えば毒きのこに関する章では、毒きのこを殺人トリックに使うことの難しさが語られる。なぜかというと、毒に対する感受性が人によって違い、毒が回るにも時間がかかる。また、毒きのこを殺人に使おうとするほどきのこに詳しい人なんてそんなに多くないので、死亡原因が特定された瞬間に誰がやったかバレるからとのことだ。(だからシャーロック・ホームズもアガサ・クリスティも松本清張もトリックに使っていないようだと書かれているけど、はたして本当だろうか。)
きのこが「食べ物」によって大きく二種類に分けられることも本書で初めて知った。著者によればおよそ四割が、樹木の根に菌根を作って樹木と共生する「菌根菌(=侵入した植物の根から糖分をもらってエネルギーにするマツタケやトリュフなど)」で、残りが自ら落ち葉や枯れ木などの有機物を分解してエネルギーとするシイタケなどの「腐生菌」のグループらしい。また樹木と菌根菌が共生するといっても何でも良いわけではなく、互いに相性があるとのこと。例えばアカマツのハヤシに生えるきのこと栗林に生えるそれは全く違うそうだ。さらに落ち葉や枯れ木につく腐生菌にも得意な有機物があるそうで、一つの森林の地下には、菌糸の網でつながった複雑な世界が広がっているのだ。
きのこは菌類の中でもカビや細菌のように成長の早いものが敬遠する木質成分(リグニンなど)を、ゆっくりと分解して成長するとのこと。そして季節により変化する土壌温度や降水量による湿度変化を敏感に感じ取り、網のような菌糸から子実体が伸び始め、やがて地上に出ていわゆる「きのこ」となる。知れば知るほど愛しくなってくる。巻末に収録された藤井一至氏による解説では、本書の初版が出版された1983年から現在までの研究成果も補足されていて、知識面のフォローも抜かりがない。本書を通じてきのこの奥深さを知った。おすすめ。
『世界を旅する黒猫ノロ』平松謙三 河出文庫
副題は「飛行機に乗って37ヵ国へ」。2001年に産まれ、2021年に老衰で亡くなるまで、著者と一緒に世界37ヵ国を旅した黒猫の記録。北欧やラテン諸国、北アフリカに中東、東欧なと世界各地の風景に写る黒猫ノロの姿がなんともいえず好い。内容は旅先でのエピソードの他、猫と一緒に旅行をする際の検疫などの手続きの仕方など、お役立ち情報が満載で、まるで『猫との地球の歩き方』のような感じ。新型コロナ感染症で渡航が出来なくなってからも金沢などあちこちを旅して、2021年秋に亡くなるほんの10日ほど前まで旅を楽しんだとのことで、環境が変わってもリラックスして過ごせるなど性格的な面もあったのだろうけれど、まさしく旅するスーパーキャットの異名が相応しい。旅と動物好き、とりわけ猫好きにはたまらない本だ。
『不吉なことは何も』フレドリック・ブラウン 創元推理文庫
越前敏弥訳。昔、『復讐の女神』という題名で出されていた中短篇集の改題新訳版。ブラウンの作品は元々SFが大好きでミステリは殆ど読んでこなかったのだが、『真っ白な嘘』『シカゴ・ブルース』の新訳版が出たのを読んでみて、他も読んでみなくてはと思い返した。本書は中でも傑作と名高い作品集だそうで、収録された十の短篇とひとつの中篇はいずれも素晴らしい出来。音楽で言えばスティーリー・ダンかドナルド・フェイゲンのアルバムを聴いている感じだろうか。主人公をとつぜん襲う理解し難い状況と驚きの展開、そして気持ちの良い結末。まさしく極上のミステリといえる。
本書を読んで特に感じたのは、ブラウンのミステリは「誰が?(フーダニット)」や「どうやって?(ハウダニット)」といった一般的な推理小説が力を入れる部分より、むしろ「なぜこんなことが?(ファイダニット)」の傾向が強いということ。サスペンスと言えばたしかにそうなのかも知れないが、自分としてはもっと広く、レオ・ペレッツや、もしかしたら山田風太郎の手法に近いのではないかという気がした。
本書の中で特に気に入ったのは、「生命保険と火災保険」「サタン一・五世」「不吉なことは何も」と、最後の中篇「踊るサンドイッチ」あたりだけれど、バラエティにとんでいて正直どれも甲乙つけがたかった。
書評家の村上貴史氏による解説も、本書の成り立ちや収録作の解題がコンパクトにまとめられていてとても参考になる。こういう形で過去の作品が新しい装いで世に出るのはとてもありがたい。これからも愉しくブラウン再入門を続けていけるといいな。
『ゴルギアス』プラトン 岩波文庫
加来彰俊訳。政治的な弁論術の専門家ゴルギアスとその弟子ポロス、そしてゴルギアスの支持者である新進政治家のカルリクレス(ルは小文字表示)とソクラテスが、目指すべき政治とその手段としての弁論術の在り方について激論を交わす。いつものように誰彼ともなく難癖をふっかけて、相手をぐうの音も出ないほどやり込めるソクラテスについ苦笑してしまうが、歯に絹着せぬ物言いでソクラテスに食ってかかるカルリクレスはちょっと新鮮だった。
ソクラテスは今回の議論のきっかけとなった弁論術について、医術や体育術、あるいは土木や政治術といった「技術(=知識体系)」ではなく、(それが良い状態かどうかには関わりなく、)人にそのときどきの喜びや快楽を作り出すだけの「迎合」という経験(=単なる習熟)の一部に過ぎないと看破する。本書を読む限りでは、当時のギリシアのでは優者こそが正義であり、劣者を力づくで支配してもよい、すなわちそれこそが「自然の正義」という感覚で政治が行われる傾向が強かったようだ。それどころか法に基づいて不正を犯した強者に罰を下すのは、多数を占める弱者の声に耳を傾けて政治を見誤る良くない考えだとまでカルリクレスは述べている。
本書の後半では、のちに『国家』で詳しく展開される「哲人政治」の萌芽が述べられるが、まるで宮沢賢治の『アメニモマケズ』を見るような生真面目さが面映くも心地いい。ここで議論されている弁論術はいかに大衆を説得するかに特化されたものであり、今ならポピュリズムに迎合したマスメディアではないかと思いながら読んでいたところ、訳者解説で全く同じことが書かれていたので笑ってしまった。ソクラテスの言う通りなら、今の与党及びその周辺野党に属する政治家や首長たちは、すべて死後にタルタロスで裁かれるのだろうなあ……と、そんなことを考えながら読み終えた。
『台所のおと』幸田文 講談社文庫
最初は明治の文豪・幸田露伴の娘として知ったのだけれど、作品を実際に読んでみたところ、いやいやどうして、こちらもまた大した才能の持ち主だった。本書にはぜんぶで10の短篇が収録されているが、いずれも病気や老い、あるいは破産や死といった、ぎりぎりの状態で見えてくる人の姿をきめ細やかに描いている。あくまで穏やかな書きぶりではあるけれど、だからこそ感じられる凄味がある。
例えば冒頭の表題作。病の床についた佐吉が障子越しに、彼の代わりに小料理屋を切り盛りするあきがたてる台所の音を聞いて、彼女の心持ちまでを推し量る描写に舌を巻いた。また「食欲」では、人としてどうしようもない病気の夫の姿がたまらなく厭だ。妻の沙生(すなお)を取り巻く状況のすべてが厭だ。このような空気を見せる男は開高健の作品にも時折り見られるけれど、こちらの方が沙生にとって他人事でないだけ容赦がない。読者の気持ちをぼくぼくと丁寧に潰しにかかる作品だ思う。巻末の「あとでの話」は、老婆が長患いの末に亡くなり葬儀をあげるまでの話だけれど、「喪には喪の華やぎがあった」なんて表現、ちょっとやそっとじゃ思いつかない。軽い語り口の「草履」や「雪もち」「おきみやげ」「ひとり暮らし」などにも、ふとしたところで細やかな心の襞が織り込まれているのがわかる。映画で言えば小津安二郎みたいな感じだろうか。居住まいを正して読みたい作家の一人だ。
『獣たちの海』上田早夕里 ハヤカワ文庫
『華竜の宮(上・下)』と同じ〈オーシャンクロニクル・シリーズ〉に属する中短篇を収録した作品集。入っている三つの短篇と一つの中篇はいずれも書下ろしという贅沢さ。「迷い舟」「獣たちの海」「老人と人魚」の三短篇は、それぞれ「自分の〈朋〉を持たない男」「獣舟」「はぐれものの老人」という異なる視点で描かれていて、質・量ともに圧倒的な長篇には盛り込めなかったスケッチとでもいうべきものになっている。また中篇「カレイドスコープ・キッス」は海の民にとって魚舟や獣舟がどのような意味を持つか、文化人類学的な視点も入れて描いた力作。それぞれの作品がモザイクやジグソーパズルのピースのように嵌まって、作品世界の奥深さを垣間見せるいく感覚は、大原まり子の〈未来史シリーズ〉を読んだときの愉しさにも共通するものだ。(『深紅の碑文(上・下)』はまだ読めていないので、そのうちちゃんと読まなくてはいけないな。)
内容と直接の関係はないが、本書を読んで思ったことをせっかくなので書き留めておきたい。それはミステリとSFの違いに関することだ。ミステリの場合は、事件という形で、個人の生死に関わる脅威が主人公を襲うことが多い。事件の前と後で主人公の価値観が大きな変化を遂げたりもする。しかしその背景となる社会の基盤は、(少なくともその事件の直接の影響で)揺らぐことは無いようだ。逆にSFの場合はどうかというと、社会はおろか世界、場合によっては宇宙そのものにまでとんでもない変化(あるいは壊滅的な影響)が起こることがある。しかしその場合でも、主人公及び身近なものたちの生死が直接的に脅かされることは無い。また抽象的・観念的な考え方に影響を受けることはあっても、それが主人公の日々の生活を変えるほどのショックを与えるものでは無いようだ。個人的にはよく求心的なミステリと遠心的なSF、もしくはミクロなミステリとマクロなSFという比較をされることがあるように思うが、21世紀の『日本沈没』とも評された『華竜の宮』をはじめ、日本SFの一部には、たしかにそのような系譜があるような気がする。
『少年〔新訳版〕』ロアルド・ダール ハヤカワ・ミステリ文庫
田口俊樹訳。ダールは『あなたに似た人』や『オズワルド叔父さん』が大好きなのだが、一般的には『チョコレート工場の秘密』をはじめとする子ども向けの物語の方が有名だろう。本書はそのダールが自分の少年時代のことを中心に書いた自伝だ。(正確には親の話や、18歳でパブリックスクールを卒業してシェル石油に入社し、2年後にアフリカに赴任するまでのことも触れられている。)
伝記は「客観的な事実」を年代別に羅列していく形式だけれども、自伝の場合は事実というより、その時の感情や個人の視点に力点が置かれている。そのため伝記よりもドラマチックな感覚が直接的に得られるところが魅力だと思っている。例えば自分も以前寄稿した『コドモクロニクル』(惑星と口笛ブックス)は、大勢の方々が自分の子ども時代の思い出を書かれていた本だったが、(自分の書いたものはともかくとして、)どの文章も生き生きとして味わい深いものだった。本書は"あの"ロアルド・ダールが著者であり、しかも少年時代のことを題材にした自伝なのだから、おもしろくない訳がない。いや、自伝とあるけれども、創作じゃないかと思うぐらい劇的な出来事で埋め尽くされている。読み進めるのが勿体ないけれど、ページを捲る手が止まらない。読んでいくうち、チョコレート工場やおばけ桃はまさしくこれらの日々から生まれたのだということがわかる。時代背景もあって、学校の先生や寄宿舎の先輩による鞭打ちをはじめとする「指導」という名の虐待が多いのがちょっときついが、それを補って余りあるほどの喜びにも溢れている。このような本を新訳という形でずっと手にとれるというのは、しあわせなことだ。
『漆黒の慕情』芦花公園 角川ホラー文庫
小説投稿サイトに掲載された『ほねがらみ』で鮮烈なデビューののち、第二作目の『異端の祝祭』が大きな話題をさらった著者の第三作目のホラー小説。。前作と同じく、心霊案件を専門に扱う「佐々木事務所」の所長・佐々木るみと助手の青山幸喜のシリーズなのが嬉しい。『ほねがらみ』はネットロア、『異端の祝祭』はカルト宗教、そして本書は都市伝説を題材にしているが、この著者の本はただ怖がらせるだけでなく、文化人類学や民俗学に依拠する物語の骨格がしっかりしているので、安心して愉しむことができる。
今回はとりわけ宮澤伊織の『裏世界ピクニック』に近いテーマを扱ってはいるが、宮澤作品が異世界(裏世界)を中心に展開しているためにSF寄りな印象を持つのに対し、この芦花作品は現実への侵犯が描かれるので、よりホラーの傾向が強くなる。(怪異を祓うために謎を解いていくため、むしろミステリとの相性が良いと言えるかも。)
あ、それで思いついたのだけれど、もしかしたら京極夏彦の〈京極堂シリーズ〉とポジ・ネガの関係に近いかも知れない。ただし京極堂が謎を解いて魔を祓うことでひとつの物語に終わりを告げるのに対し、〈佐々木&青山シリーズ〉では謎を解いて取り戻したはずの日常そのものが、突然反転して闇となり読者を飲み込んでいく。登場人物にまともな奴がいないのはどちらも似ているけれど、その意味では本シリーズの立ち位置はあくまでもホラー寄りなのだ。裏京極堂と名付ける所以である。
それにしても「幽霊の正体みたり枯れ尾花」ではないけれど、怪異はその正体が明かされ名前をつけられることで、(例えば人を襲う怪物がライオンと名付けられた途端にただの獣になってしまうように)その霊的な力の大半を失わせることが出来るんだよね。おもしろいなあ。
『いかに終わるか 山野浩一発掘小説集』岡和田晃/編(小鳥遊書房)読了。
副題にもあるように、日本におけるニューウェーブSF運動の立役者である著者の小説作品の中から、色々な事情で単行本に収録されてこなかったものを丁寧に掘り起こした作品集。
全体は四部構成になっていて、第一部の1970年代の未収録作に始まり、次いで60年代の未収録作、第三部は雑誌「GORO」に連載された、エッシャーの絵画をモチーフにしたショートショート連作20篇、そして最後は1980年代に書かれた未発表作と2013年に大森望編のオリジナルアンソロジーに書き下ろされた絶筆「地獄八景」を収録。いずれも今では入手困難なものばかりで、著者の変遷と幅広い活躍を一望出来るという意味も含めて資料的価値も高い。創元SF文庫から刊行されている山野浩一傑作選の二冊『鳥はいまどこを飛ぶか』『殺人者の空』と併せて読めば、SF作家としての著者の全貌がおおよそ見てとれると思う。
内容も決して落ち穂拾い的なものではない。「死滅世代」や「都市は滅亡せず」などは他の短篇集に入っていてもなんら遜色無いし、掌篇ながら「宇宙を飛んでいる」や「麦畑のみえるハイウェイ」などもたいへん気に入った。それと「ブルー・トレイン」がもうひとつの「X電車で行こう」だったのには驚いた。最後の「地獄八景」は昔からの読者はちょっと面食らうかも知れないが、意外とブッツァーティあたりに通じる空気感がある。
以上、本格的なニューウェーブSFから気軽に読めるショートショートまで、収録作はバラエティにとんでいるが、どれもどことなく著者らしさを感じるものとなっており、最後まで愉しく読むことができた。編者による解説も懇切丁寧に書かれた力作で、昔からの山野浩一ファンのみならず、これまで読んだことのない読者にもお薦めできる入門編と言えると思う。(余談だが、題名の由来がわからないとツイッターでつぶやいたら、季刊NW-SFの第8号(1973年11月1日)の「特集 いかに終わるか」からだとご教示いただけた。)
『ゆきあってしあさって』高山羽根子/酉島伝法/倉田タカシ 東京創元社
三人の作家による架空の旅のリレー書簡集。宮内悠介氏の解説によれば、今をときめく彼等にもまだ単著の無かった2012年にウェブで公開を始め、翌年の大阪文学フリマで「旅のお土産」付きの書簡を頒布したのが元になっているらしい。前評判の高さもさることながら「架空の旅」には昔から目がないので、出るなりさっそく読んでみたところ、期待に違わずとてもおもしろい本だった。
カルヴィーノ『見えない都市』やササルマン『方形の円』のような架空都市カタログとしても読めるし、石川宗生『四分の一世界旅行記』やヒルトン『失われた地平線』のような、旅行者による異文化コミュニケーションの記録としても愉しめる。とてもごきげんな本だ。中でも酉島伝法氏の旅は『皆勤の徒』を地でいくような壊れっぷりで、あまりの不運に片時も目が離せない。三人の奇想がぶつかりあい互いに刺激しあって、予想だにしない処へと旅は広がってゆく。果たして三人は最果ての地で無事に落ち合うことが出来たのだろうか。
『きのこの自然誌』小川真 ヤマケイ文庫
「知る人ぞ知る」伝説のきのこ博士による、隅から隅まできのこで埋め尽くされたエッセイ。植物学の牧野冨太郎、雪の研究で有名な中谷宇吉郎など、その道の一流の研究者によるエッセイはたいへんにおもしろい。本書もきのこについての愛情が満ち溢れていて、それはもう素晴らしいものだった。
内容は題名が示す通りで、きのこの形や成長の仕方から毒きのこと薬になるきのこ、分布や生態なときのこに関するありとあらゆる話題が取り上げられている。あまりにもきのこ尽くしなので、読んでいるうちに笑ってしまうが、著者がいかにきのこ好きかはよく伝わってきた。そしてこんな色々なタイプに分かれているとはついぞ知らなかった。これまできのこについてあまりにも無関心だったのを恥じるばかりだ。
少しだけ中身を紹介しよう。例えば毒きのこに関する章では、毒きのこを殺人トリックに使うことの難しさが語られる。なぜかというと、毒に対する感受性が人によって違い、毒が回るにも時間がかかる。また、毒きのこを殺人に使おうとするほどきのこに詳しい人なんてそんなに多くないので、死亡原因が特定された瞬間に誰がやったかバレるからとのことだ。(だからシャーロック・ホームズもアガサ・クリスティも松本清張もトリックに使っていないようだと書かれているけど、はたして本当だろうか。)
きのこが「食べ物」によって大きく二種類に分けられることも本書で初めて知った。著者によればおよそ四割が、樹木の根に菌根を作って樹木と共生する「菌根菌(=侵入した植物の根から糖分をもらってエネルギーにするマツタケやトリュフなど)」で、残りが自ら落ち葉や枯れ木などの有機物を分解してエネルギーとするシイタケなどの「腐生菌」のグループらしい。また樹木と菌根菌が共生するといっても何でも良いわけではなく、互いに相性があるとのこと。例えばアカマツのハヤシに生えるきのこと栗林に生えるそれは全く違うそうだ。さらに落ち葉や枯れ木につく腐生菌にも得意な有機物があるそうで、一つの森林の地下には、菌糸の網でつながった複雑な世界が広がっているのだ。
きのこは菌類の中でもカビや細菌のように成長の早いものが敬遠する木質成分(リグニンなど)を、ゆっくりと分解して成長するとのこと。そして季節により変化する土壌温度や降水量による湿度変化を敏感に感じ取り、網のような菌糸から子実体が伸び始め、やがて地上に出ていわゆる「きのこ」となる。知れば知るほど愛しくなってくる。巻末に収録された藤井一至氏による解説では、本書の初版が出版された1983年から現在までの研究成果も補足されていて、知識面のフォローも抜かりがない。本書を通じてきのこの奥深さを知った。おすすめ。
『世界を旅する黒猫ノロ』平松謙三 河出文庫
副題は「飛行機に乗って37ヵ国へ」。2001年に産まれ、2021年に老衰で亡くなるまで、著者と一緒に世界37ヵ国を旅した黒猫の記録。北欧やラテン諸国、北アフリカに中東、東欧なと世界各地の風景に写る黒猫ノロの姿がなんともいえず好い。内容は旅先でのエピソードの他、猫と一緒に旅行をする際の検疫などの手続きの仕方など、お役立ち情報が満載で、まるで『猫との地球の歩き方』のような感じ。新型コロナ感染症で渡航が出来なくなってからも金沢などあちこちを旅して、2021年秋に亡くなるほんの10日ほど前まで旅を楽しんだとのことで、環境が変わってもリラックスして過ごせるなど性格的な面もあったのだろうけれど、まさしく旅するスーパーキャットの異名が相応しい。旅と動物好き、とりわけ猫好きにはたまらない本だ。
『不吉なことは何も』フレドリック・ブラウン 創元推理文庫
越前敏弥訳。昔、『復讐の女神』という題名で出されていた中短篇集の改題新訳版。ブラウンの作品は元々SFが大好きでミステリは殆ど読んでこなかったのだが、『真っ白な嘘』『シカゴ・ブルース』の新訳版が出たのを読んでみて、他も読んでみなくてはと思い返した。本書は中でも傑作と名高い作品集だそうで、収録された十の短篇とひとつの中篇はいずれも素晴らしい出来。音楽で言えばスティーリー・ダンかドナルド・フェイゲンのアルバムを聴いている感じだろうか。主人公をとつぜん襲う理解し難い状況と驚きの展開、そして気持ちの良い結末。まさしく極上のミステリといえる。
本書を読んで特に感じたのは、ブラウンのミステリは「誰が?(フーダニット)」や「どうやって?(ハウダニット)」といった一般的な推理小説が力を入れる部分より、むしろ「なぜこんなことが?(ファイダニット)」の傾向が強いということ。サスペンスと言えばたしかにそうなのかも知れないが、自分としてはもっと広く、レオ・ペレッツや、もしかしたら山田風太郎の手法に近いのではないかという気がした。
本書の中で特に気に入ったのは、「生命保険と火災保険」「サタン一・五世」「不吉なことは何も」と、最後の中篇「踊るサンドイッチ」あたりだけれど、バラエティにとんでいて正直どれも甲乙つけがたかった。
書評家の村上貴史氏による解説も、本書の成り立ちや収録作の解題がコンパクトにまとめられていてとても参考になる。こういう形で過去の作品が新しい装いで世に出るのはとてもありがたい。これからも愉しくブラウン再入門を続けていけるといいな。
『ゴルギアス』プラトン 岩波文庫
加来彰俊訳。政治的な弁論術の専門家ゴルギアスとその弟子ポロス、そしてゴルギアスの支持者である新進政治家のカルリクレス(ルは小文字表示)とソクラテスが、目指すべき政治とその手段としての弁論術の在り方について激論を交わす。いつものように誰彼ともなく難癖をふっかけて、相手をぐうの音も出ないほどやり込めるソクラテスについ苦笑してしまうが、歯に絹着せぬ物言いでソクラテスに食ってかかるカルリクレスはちょっと新鮮だった。
ソクラテスは今回の議論のきっかけとなった弁論術について、医術や体育術、あるいは土木や政治術といった「技術(=知識体系)」ではなく、(それが良い状態かどうかには関わりなく、)人にそのときどきの喜びや快楽を作り出すだけの「迎合」という経験(=単なる習熟)の一部に過ぎないと看破する。本書を読む限りでは、当時のギリシアのでは優者こそが正義であり、劣者を力づくで支配してもよい、すなわちそれこそが「自然の正義」という感覚で政治が行われる傾向が強かったようだ。それどころか法に基づいて不正を犯した強者に罰を下すのは、多数を占める弱者の声に耳を傾けて政治を見誤る良くない考えだとまでカルリクレスは述べている。
本書の後半では、のちに『国家』で詳しく展開される「哲人政治」の萌芽が述べられるが、まるで宮沢賢治の『アメニモマケズ』を見るような生真面目さが面映くも心地いい。ここで議論されている弁論術はいかに大衆を説得するかに特化されたものであり、今ならポピュリズムに迎合したマスメディアではないかと思いながら読んでいたところ、訳者解説で全く同じことが書かれていたので笑ってしまった。ソクラテスの言う通りなら、今の与党及びその周辺野党に属する政治家や首長たちは、すべて死後にタルタロスで裁かれるのだろうなあ……と、そんなことを考えながら読み終えた。
『台所のおと』幸田文 講談社文庫
最初は明治の文豪・幸田露伴の娘として知ったのだけれど、作品を実際に読んでみたところ、いやいやどうして、こちらもまた大した才能の持ち主だった。本書にはぜんぶで10の短篇が収録されているが、いずれも病気や老い、あるいは破産や死といった、ぎりぎりの状態で見えてくる人の姿をきめ細やかに描いている。あくまで穏やかな書きぶりではあるけれど、だからこそ感じられる凄味がある。
例えば冒頭の表題作。病の床についた佐吉が障子越しに、彼の代わりに小料理屋を切り盛りするあきがたてる台所の音を聞いて、彼女の心持ちまでを推し量る描写に舌を巻いた。また「食欲」では、人としてどうしようもない病気の夫の姿がたまらなく厭だ。妻の沙生(すなお)を取り巻く状況のすべてが厭だ。このような空気を見せる男は開高健の作品にも時折り見られるけれど、こちらの方が沙生にとって他人事でないだけ容赦がない。読者の気持ちをぼくぼくと丁寧に潰しにかかる作品だ思う。巻末の「あとでの話」は、老婆が長患いの末に亡くなり葬儀をあげるまでの話だけれど、「喪には喪の華やぎがあった」なんて表現、ちょっとやそっとじゃ思いつかない。軽い語り口の「草履」や「雪もち」「おきみやげ」「ひとり暮らし」などにも、ふとしたところで細やかな心の襞が織り込まれているのがわかる。映画で言えば小津安二郎みたいな感じだろうか。居住まいを正して読みたい作家の一人だ。
『獣たちの海』上田早夕里 ハヤカワ文庫
『華竜の宮(上・下)』と同じ〈オーシャンクロニクル・シリーズ〉に属する中短篇を収録した作品集。入っている三つの短篇と一つの中篇はいずれも書下ろしという贅沢さ。「迷い舟」「獣たちの海」「老人と人魚」の三短篇は、それぞれ「自分の〈朋〉を持たない男」「獣舟」「はぐれものの老人」という異なる視点で描かれていて、質・量ともに圧倒的な長篇には盛り込めなかったスケッチとでもいうべきものになっている。また中篇「カレイドスコープ・キッス」は海の民にとって魚舟や獣舟がどのような意味を持つか、文化人類学的な視点も入れて描いた力作。それぞれの作品がモザイクやジグソーパズルのピースのように嵌まって、作品世界の奥深さを垣間見せるいく感覚は、大原まり子の〈未来史シリーズ〉を読んだときの愉しさにも共通するものだ。(『深紅の碑文(上・下)』はまだ読めていないので、そのうちちゃんと読まなくてはいけないな。)
内容と直接の関係はないが、本書を読んで思ったことをせっかくなので書き留めておきたい。それはミステリとSFの違いに関することだ。ミステリの場合は、事件という形で、個人の生死に関わる脅威が主人公を襲うことが多い。事件の前と後で主人公の価値観が大きな変化を遂げたりもする。しかしその背景となる社会の基盤は、(少なくともその事件の直接の影響で)揺らぐことは無いようだ。逆にSFの場合はどうかというと、社会はおろか世界、場合によっては宇宙そのものにまでとんでもない変化(あるいは壊滅的な影響)が起こることがある。しかしその場合でも、主人公及び身近なものたちの生死が直接的に脅かされることは無い。また抽象的・観念的な考え方に影響を受けることはあっても、それが主人公の日々の生活を変えるほどのショックを与えるものでは無いようだ。個人的にはよく求心的なミステリと遠心的なSF、もしくはミクロなミステリとマクロなSFという比較をされることがあるように思うが、21世紀の『日本沈没』とも評された『華竜の宮』をはじめ、日本SFの一部には、たしかにそのような系譜があるような気がする。
『少年〔新訳版〕』ロアルド・ダール ハヤカワ・ミステリ文庫
田口俊樹訳。ダールは『あなたに似た人』や『オズワルド叔父さん』が大好きなのだが、一般的には『チョコレート工場の秘密』をはじめとする子ども向けの物語の方が有名だろう。本書はそのダールが自分の少年時代のことを中心に書いた自伝だ。(正確には親の話や、18歳でパブリックスクールを卒業してシェル石油に入社し、2年後にアフリカに赴任するまでのことも触れられている。)
伝記は「客観的な事実」を年代別に羅列していく形式だけれども、自伝の場合は事実というより、その時の感情や個人の視点に力点が置かれている。そのため伝記よりもドラマチックな感覚が直接的に得られるところが魅力だと思っている。例えば自分も以前寄稿した『コドモクロニクル』(惑星と口笛ブックス)は、大勢の方々が自分の子ども時代の思い出を書かれていた本だったが、(自分の書いたものはともかくとして、)どの文章も生き生きとして味わい深いものだった。本書は"あの"ロアルド・ダールが著者であり、しかも少年時代のことを題材にした自伝なのだから、おもしろくない訳がない。いや、自伝とあるけれども、創作じゃないかと思うぐらい劇的な出来事で埋め尽くされている。読み進めるのが勿体ないけれど、ページを捲る手が止まらない。読んでいくうち、チョコレート工場やおばけ桃はまさしくこれらの日々から生まれたのだということがわかる。時代背景もあって、学校の先生や寄宿舎の先輩による鞭打ちをはじめとする「指導」という名の虐待が多いのがちょっときついが、それを補って余りあるほどの喜びにも溢れている。このような本を新訳という形でずっと手にとれるというのは、しあわせなことだ。
『漆黒の慕情』芦花公園 角川ホラー文庫
小説投稿サイトに掲載された『ほねがらみ』で鮮烈なデビューののち、第二作目の『異端の祝祭』が大きな話題をさらった著者の第三作目のホラー小説。。前作と同じく、心霊案件を専門に扱う「佐々木事務所」の所長・佐々木るみと助手の青山幸喜のシリーズなのが嬉しい。『ほねがらみ』はネットロア、『異端の祝祭』はカルト宗教、そして本書は都市伝説を題材にしているが、この著者の本はただ怖がらせるだけでなく、文化人類学や民俗学に依拠する物語の骨格がしっかりしているので、安心して愉しむことができる。
今回はとりわけ宮澤伊織の『裏世界ピクニック』に近いテーマを扱ってはいるが、宮澤作品が異世界(裏世界)を中心に展開しているためにSF寄りな印象を持つのに対し、この芦花作品は現実への侵犯が描かれるので、よりホラーの傾向が強くなる。(怪異を祓うために謎を解いていくため、むしろミステリとの相性が良いと言えるかも。)
あ、それで思いついたのだけれど、もしかしたら京極夏彦の〈京極堂シリーズ〉とポジ・ネガの関係に近いかも知れない。ただし京極堂が謎を解いて魔を祓うことでひとつの物語に終わりを告げるのに対し、〈佐々木&青山シリーズ〉では謎を解いて取り戻したはずの日常そのものが、突然反転して闇となり読者を飲み込んでいく。登場人物にまともな奴がいないのはどちらも似ているけれど、その意味では本シリーズの立ち位置はあくまでもホラー寄りなのだ。裏京極堂と名付ける所以である。
それにしても「幽霊の正体みたり枯れ尾花」ではないけれど、怪異はその正体が明かされ名前をつけられることで、(例えば人を襲う怪物がライオンと名付けられた途端にただの獣になってしまうように)その霊的な力の大半を失わせることが出来るんだよね。おもしろいなあ。
『いかに終わるか 山野浩一発掘小説集』岡和田晃/編(小鳥遊書房)読了。
副題にもあるように、日本におけるニューウェーブSF運動の立役者である著者の小説作品の中から、色々な事情で単行本に収録されてこなかったものを丁寧に掘り起こした作品集。
全体は四部構成になっていて、第一部の1970年代の未収録作に始まり、次いで60年代の未収録作、第三部は雑誌「GORO」に連載された、エッシャーの絵画をモチーフにしたショートショート連作20篇、そして最後は1980年代に書かれた未発表作と2013年に大森望編のオリジナルアンソロジーに書き下ろされた絶筆「地獄八景」を収録。いずれも今では入手困難なものばかりで、著者の変遷と幅広い活躍を一望出来るという意味も含めて資料的価値も高い。創元SF文庫から刊行されている山野浩一傑作選の二冊『鳥はいまどこを飛ぶか』『殺人者の空』と併せて読めば、SF作家としての著者の全貌がおおよそ見てとれると思う。
内容も決して落ち穂拾い的なものではない。「死滅世代」や「都市は滅亡せず」などは他の短篇集に入っていてもなんら遜色無いし、掌篇ながら「宇宙を飛んでいる」や「麦畑のみえるハイウェイ」などもたいへん気に入った。それと「ブルー・トレイン」がもうひとつの「X電車で行こう」だったのには驚いた。最後の「地獄八景」は昔からの読者はちょっと面食らうかも知れないが、意外とブッツァーティあたりに通じる空気感がある。
以上、本格的なニューウェーブSFから気軽に読めるショートショートまで、収録作はバラエティにとんでいるが、どれもどことなく著者らしさを感じるものとなっており、最後まで愉しく読むことができた。編者による解説も懇切丁寧に書かれた力作で、昔からの山野浩一ファンのみならず、これまで読んだことのない読者にもお薦めできる入門編と言えると思う。(余談だが、題名の由来がわからないとツイッターでつぶやいたら、季刊NW-SFの第8号(1973年11月1日)の「特集 いかに終わるか」からだとご教示いただけた。)
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