FC2ブログ

2020年5月の読了本

『哲学とは何か』竹田青嗣 NHKブックス
一般的にイメージされるようないわゆる「入門書」ではない。著者はフッサールの現象学をスタートとして、プラトン、ホッブス、ルソー、ニーチェにカント、ヘーゲルからハイデガーといった思想家たちの系譜を辿りつつ、あらゆる人間が幸福に暮らせることを実現するための「原理」を追求してきた。その成果は『欲望論』の第1巻、第2巻として著されているが、本書は著者がその先へと進むにあたって、哲学が人にとってどのような役割を果たしてきたのか、そしてどのような役割を果たし得るのかをいま一度振り返ってみたものである。ポストモダン批判からいま流行りの新・実存主義の分析まできっちりやっていて、アップデートを欠かさないのがすごい。こちらは「へえー、ふうー」と感心しながらただ読むばかりである。
あまりにも射程が広いのでどうしても駆け足になってしまうところがあるし、また様々な思想に対する著者独自の解釈も散りばめられているため、この人の本を初めて読む人はちょっと面食らうかも知れない。(自分はこの人の『現象学入門』にはじまる各種哲学入門書を読んできたので、とても馴染みがあった。)とは言え、著者の論旨はとても分かりやすい。「存在の謎」「認識の謎」「言語の謎」という哲学の重要問題を正面突破しようとする試みである。ホッブスの「万人の万人に対する戦争」状態を克服するためには強力な権力と力が必要であるという考え、そして少数の支配者による絶対支配を排するための、ルソーによる「互いに他者の自由と尊厳を認め合い、対等の権限で社会を営む契約を結ぶ」という「社会契約」を「原理」として置く。その上で、何が各人にとって望ましい事なのかを認め合うために必要不可欠な「普遍認識」について、分析哲学からポストモダン思想などを一刀両断にしつつ、結局のところニーチェとフッサールによってその最終解決は示されていることを述べる。そこから対象を「社会」へと広げる足掛かりはヘーゲルの「(自由の)相互承認」である。(このあたりの流れは『人間的自由の条件』を読むと理解しやすいと思う)
著者がカギとするのは、フッサールが構想した「本質学」である。これは例えば人間の生にとって「不安」や「死」がどのような普遍的意味(本質)を持つかを考えるもの。そのために考えだされた方法が現象学であり「本質観取」であった。残念ながらフッサール自身は理念を示しただけで終わったが、本書ではその究極目標である「社会の本質学」へと話を進めていく。「社会の本質学」はその前提としてまず第一に、「現代社会が生み出す人間的矛盾の中心がどこにあるかについての普遍的な探求でなければなら」ず、また第二に「この矛盾がいかなる方法で克服できるかについての普遍的な探求でなければならない」とのこと。また、その解決法として神の存在を持ち出しては哲学の敗北である。
最終章では『欲望論』第3巻で書かれるであろう、その構想が示されて終わる。かなり熱のこもった内容に、読んでいるこちらも思わず熱くなってしまった。(第3巻が出る前に、積んである『欲望論』を読まなくては。)

『献灯使』多和田葉子 講談社文庫
東日本大震災後を題材にした、かなり歯応えのある文芸作品集。本書の約五分の三を占める中篇の表題作と四つの短篇からなる。共通する設定としては、地震で原子力発電所が倒壊して放射能で汚染され、社会制度が崩れ去った日本というものがありそうなのだが、個々の作品が本当に同じ繋がりをもっているかは定かでない。最後の「動物たちのバベル」は戯曲の形をなしていて、まるで筒井康隆『幻想の未来』のような突き抜けた印象すらある。笙野頼子や倉田由美子らにも共通する幻想味と辛辣さを感じたが、幻想小説というよりは海外の優れたSF小説に似た雰囲気がある。土着的な感性で読ませるものとは違っていた。
本書は割と薄めの本なのに読み終わるのに結構時間がかかった。その理由は設定をきちんと説明せず、読者が読み解くことで徐々に開示されていくから…というだけではない。入念に選ばれたひとつひとつの言葉には多重的な意味が持たされ、作品がメタ構造になっているのも大きな理由であろう。帯にあるようにたしかにある種の「デストピア文学の傑作」ではあるのだが、それだけではない様々な面白味を感じる作品集である。

『タコの知性』池田譲(朝日新書)
著者は北大水産学部で学び、今は琉球大学で教鞭をとる生物学者。イカやタコといった頭足類が専門で、社会性やコミュニケーションについて研究をしている方のようだ。本書ではタコに関する基礎的な知識から、彼らの学習能力の高さや、視覚を中心とした感覚世界、さらに厭世的で孤独を好むと思われていたタコにおける社会性の研究など、これまで知ることのなかったタコの奥深さが記されている。鏡を使った鏡像自己認知実験など、さすがイカと並んで「海の霊長類」と呼ばれる頭足類だけはある。(ただしこの辺りの研究は、まだ結論が出たわけではないようだ。)
ひところ話題になった『タコの心身問題』の著者ゴドフリー=スミス氏によるシドニーダコの研究など、世界の最新研究にも触れられていて、「タコ学」の入門編として興味深く読むことができた。こんどたこ焼きを食べる時にはタコの心身問題についても考えてみたい。(ちょっと大げさ)

『モモ』ミヒャエル・エンデ 岩波少年文庫
ドイツの児童文学者エンデの代表作。はるか昔に映画を観てたいそう面白かった覚えがあるのだが、原作を読むのは初めて。実はエンデは『はてしない物語』ぐらいしか読んだ事が無く、本書も「なにを今さら」という気持ちが無くもなかったのだが、やはり読んでみてよかった。(このところ〈ナルニア国物語〉や〈赤毛のアン〉シリーズなど、そういうのが多い。)
話は不思議な力をもつ孤児の少女モモが、時間泥棒「灰色の男たち」から大好きな街の人々を救うという、ジュブナイルのお手本のような内容。映画でストーリー自体は知っていたので、映画とは違う原作ならではの部分を味わうように心がけた。昔の印象よりも、時間を奪われた大人たちの悲哀に身につまされたのと、灰色の男たちがさほど憎らしくなかったのが意外だった。(そういえばカヴェーリンの『ヴェルリオーカ』と読み比べするのもいいかもしれない。)
『はてしない物語』もそうだったが、エンデの物語は筋の運び方がゆったりしていて、子どもが読むには少しボリュームがあるように思う。普段、本を読まない人達にこそ読んでもらいたいと思うが、そういう人にはハードルが高い気もして、なかなか難しいものである。

『クラバート』オトフリート・プロイスラー 偕成社
『大どろぼうホッツェンプロッツ』のシリーズなどで有名なドイツの児童文学者により書かれたファンタジー。ポーランドやチェコとの国境近くに位置するドイツのラウジッツ地方を舞台にして、スラブ系の少数民族ヴェンド人に伝わる昔話をベースに書かれた魔法使いの物語。浮浪者だった少年クラバートが一人前の職人(と魔法使い)になるまでの修行の様子と、親方との最後の対決が描かれているのだが、17〜18世紀における粉挽き職人の徒弟制度や当時の風習、食生活などが克明に記されていてとてもリアルに感じられる。
通奏低音のようにずっと死の予兆が流れていて、天沢退二郎『光車よ、まわれ!』やブラッドベリ『何かが道をやってくる』といったトラウマ級のダーク・ファンタジーを連想させるが、それも昔話が持つ残酷さや暴力性から来ているものとして納得がいった。よく練られた物語であると思う。阿部謹也の『ハーメルンの笛吹き男』や『中世の星の下で』、小池寿子『死者たちの回廊』といった中世ヨーロッパ研究の著作が昔から好きなので、本書もたいそう気に入った。

『キッド・ピストルズの最低の帰還』山口雅也 光文社文庫
〈パンク・マザーグースの事件簿〉の第四短篇集で、今回が初の文庫化。前作『キッド・ピストルズの慢心』の頃に書かれた作品2篇と、その後10年以上の間を置いて書かれた作品3篇を収録する。(書籍としては実に13年ぶりの刊行となる)山口作品はその自由奔放な設定が、逆にミステリのパズルとしての面白さを照射している感じが好きなのだが、このシリーズは特にその「遊び」の部分が強く出ているようで気に入っている。本作はたぶん単行本で刊行された時に買い漏らしていたようで、初めて読むものばかりだったので、前作までとはまた違った楽しみ方ができた。特に気に入ったのは「誰が駒鳥(コック・ロビン)を殺そうが」と「教祖と七人の女房と七袋の中の猫」の二篇。次作『キッド・ピストルズの醜態』がひとまずシリーズ最後の作品となってしまうので、大事に読みたい。

『完全な真空』スタニスワフ・レム 河出文庫
国書刊行会から1989年に出版された本の文庫化。「クラクフの賢人」スタニスワフ・レムによる架空の書評集であり、このところ虚構成分が足りていなかったので数十年ぶりに読み返した。すこぶる面白かった。中身は様々なジャンルの16の架空の本を取り上げ、それに関する書評の体裁を借りてパロディやエッセイや思考実験を書き綴ったもの。振れ幅が広くて、改めて読むと学生時代には正直持て余し気味だったところも見えてきて恥ずかしいが、そんなこちらの思惑とは関係なくレムおじさん終始ノリノリである。
特に気に入ったのは『ギガメシュ』『親衛隊少将ルイ十六世』と、後半に連続して収録されている『誤謬としての文化』『生の不可能性について/予知の不可能性について』『我は僕ならずや』の三作。ほんと学生時代にはいったい何を読んでたんだろうと思う。メタフィクションなどと気構えず、気楽に愉しめる一冊だった。

以下、個々の作品について順にふれていく。
まず冒頭に選ばれている作品が「レム『完全な真空』」というのが洒落ている。収録作品の紹介を兼ねつつ、架空の書評集である本作に関する架空の書評となっていて、いきなりご機嫌。
続く「コスカ『ロビンソン物語』」ではデフォー『ロビンソン・クルーソー』を元にして「発狂」と妄想を描いている。あまりにJ.G.バラードっぽくて驚いてしまった。なるほど妄想を突き詰めると内宇宙になってしまうわけか。
「ハナハン『ギガメシュ』」ではジョイス『ユリシーズ』をも凌ぐ、古今東西の書物や音楽など凡ゆる文化を盛り込んだメタフィクションを、架空の書評で取り上げる。本当にこんな本があったら空恐ろしいし、読みこなすことなどとうてい出来そうもないが、レムの頭の中にだけあることが分かっているので"安心して"愉しむことが出来る。泰平ヨンシリーズよりひねくれていない。(実は虚構の力は筒井康隆よりレムの方がはるかに強烈ではないかとかねがね思っていたのだ。)「メリル『性爆発』」はありと凡ゆるものがセックスを基準としたものに置き換えられた世界と、その終焉を描いたSF小説。マクルーハンが出てきて「メディア」ではなく「性」とその消費を主張するあたり、時代を感じさせるが笑える。〈泰平ヨン〉にありそうな話だ。
「ツェラーマン『親衛隊少将ルイ十六世』」はアルゼンチン奥地に虚偽で塗り固められたブルボン王朝を興した、元ナチス親衛隊の少将の話。ガルシア=マルケスやレオ・ペルッツが書いてもおかしくないような話だが、ドイツ語をフランス語だと強弁し、お互いを実在のブルボン王朝の人名で呼び合うところなど、殆どギャグに近い。物語を書くことの軛から離れるとレムの筆がここまで自由になれるのを知って驚きである。(筒井康隆が『残像に口紅を』で、かなりの文字が消えた状態になって初めて、親に関する思いのたけを書き記すことが出来たのを連想した。)
「マリオ『とどのつまりは何も無し』」は一種の「反小説(アンチロマン)論」になっていて、ロラン・バルトを茶化しつつ、ロブ=グリエをとことん突き詰めたような「反小説」の作法を夢想する。筒井康隆『虚人たち』とも通底する自覚された虚構性がユニーク。思考実験ではあるものの決して小難しいものではなく、全編ユーモアに溢れている。本当にこんな小説があっても面白くないしきっと読まないので、架空の書評で読めるのがちょうどいい塩梅だと思う。
「フェルセンゲルト『逆黙示録』」と「スパランツァーニ『白痴』」は割と普通の印象だった。レムの書評はかなり独特の(偏屈といってもいい)文学観が面白いのだが、いわゆる文学に関してはレムは評論めいたものより実作の方がいい気がする。
『あなたにも本が作れます』はもはや書籍ですらない。ディアゴスティーニか学研『大人の科学』のような商品の顛末を書いたコントである。こういうのは軽い気晴らしか箸休め的な感じでいい。
「ムラチェ『イサカのオデュッセウス』」も「第一級の天才」を探す軽い読み物で、普通に面白い。
「スーラ『てめえ』」は面白いアイデアなのだが、残念ながら筒井康隆が「読者罵倒」で実作してしたものを読んでしまったのでインパクトはだいぶ小さかった。
「ウェインライト『ビーイング株式会社』」も、最近ビジネス関係でよく聞かれる「モノ消費からコト消費へ」というのに似ていて、時代がレムに追いついてしまった感がある。(もちろん一部分だけだが。)
「クロッパー『誤謬としての文化』」は哲学エッセイ。そのまま自分の名前で発表しても面白い内容を、あえて「文化は偶然から生まれた誤謬である」という思想家の主張と、さらにその主張は誤りであって、誤謬ではあるが生存に必要な必然であったもの(そして科学に取って代わられるもの)であるという別の思想家の主張として、架空の書評にまとめ上げるという、ひねくれ方が大変に面白い。
「コウスカ『生の不可能性について/予知の不可能性について』」も同様に科学と哲学の間の思考実験である。これは傑作。コウスカ教授なる人物がこの世に生まれる可能性を巡って、確率と偶然に関する摩訶不思議な議論が繰り広げられる。
「ドブ『我は僕ならずや』」もすごい。コンピュータ上に無限に広がる純数学的宇宙と、そこに暮らすパーソノイドなる人工生命体を創りだす実験の記録であり、イーガンの「ワンの絨毯」や『ディアスポラ』を連想させる設定から、やがてパーソノイドたちによる神学論争へと話が進む。まさに驚異と科学と哲学をつないでゆく思弁小説である。
最後に収録された『新しい宇宙創造説』はノーベル賞記念講演のテキストという体裁で、B.J.ベイリーを彷彿とさせるとんでも宇宙論が開陳される。『天の声』や『捜査』を連想させるところもあり、まさしく「書かれなかったSF小説」なのではないかと思ったりもした。

全体をみると、今ではちょっと時代遅れの感がある作品が無きにしも非ずだが、およそ50年前に書かれたことを考えると、やはりレムおそるべしである。

『月のケーキ』ジョーン・エイキン 東京創元社
子どもから大人まで愉しめるファンタジー短篇集。現実の狭間から垣間見える魔法の世界が、喪失と回復の物語を優しく彩る。帯には「ちょっぴり不気味で幻想的」とあるが、さほどの気味悪さは感じなかった。エドワード・ゴーリーの残酷さを少し緩めにして、代わりにお伽話の要素を加えたような感じとでも言えばいいだろうか。ぜんぶで13の短篇が収録されているが、ハズレがひとつもないのがすごい。どれも面白いが、特に気に入ったのは表題作「月のケーキ」と「羽根のしおり」「緑のアーチ」に「おとなりの世界」、そして「銀のコップ」のあたり。「バームキンがいちばん!」「ドラゴンのたまごをかえしたら」「ペチコートを着たヤシ」なども、ついくすりと笑ってしまう。
余談だが「オユをかけよう!」に出てくる「こおりんしゃ」というのが、原著だとなんと言うのかが気になった。「icecle」だろうか。まったく予備知識無しで読んだのだが、かなり好い本だった。

『すべては消えゆく』マンディアルグ 光文社古典新訳文庫
副題には「マンディアルグ最後の傑作集」とあり、1987年に発表された最後の長篇に掌編の「クラッシュフー」と「催眠術師」を加えたもの。実はマンディアルグをちゃんと読むのは今回が初めてで、生田耕作と澁澤龍彦が好んだシュールでエロチックで惨虐な小説がどんなものだったか、よく分かった。
全体の6分の5を占める表題作は、ひとりの男が欲と好奇心から性と死の饗宴へと巻き込まれ、はからずも通過儀礼的な体験を経て別の世界への目が開かれるというもの(で合っているのかな?)。突然起こる男と女の出会いと、マグリット『恋人たち』を思わせるような謎多きやりとりが続き、思わせぶりな対話が筒井康隆の「あのふたり様子が変」を連想させるが、後半になってがらりと変わるのに驚かされた。この終わりかたは嫌いではない。娼婦と演劇を二重写しにしたりファム・ファタルに翻弄されるという展開は、いかにも澁澤あたりが好みそうなものであった。
余談だがマンディアルグの短篇「ダイヤモンド」を翻案して澁澤龍彦が「犬狼都市」を書いたというのを解説で初めて知った。ああいう話であるのなら、『狼の太陽』『燠火』などの短篇集もいつか読んでみたい。

『謎のアジア納豆』高野秀行 新潮文庫
世界の辺境を旅していつも驚くようなルポルタージュを書く著者が、アジアに広がる納豆文化について体当たり調査をした本。副題に「そして帰ってきた〈日本納豆〉」とあるように、ぐるりと回って日本の納豆についても起源を考察する。タイ、ミャンマー、日本、ネパール、中国と各地を飛び回って納豆作りの現場に立ち会い、自分でもいくつもの納豆を自作して見えてきたのは、「納豆は藁でなくても作れる」「元々の納豆は糸を引かないものが多い」「納豆はおかずではなくうま味調味料である」といった、目から鱗がぽろぽろと落ちるような事実だった。もう少し「きちんと」書けば、講談社学術文庫から出てもおかしくないのではないかと思えるほどの情報量である。(もっとも著者の場合はこのお気楽さこそが大事な魅力なのだが。)
「世界の◯◯食べてみた」みたいな紀行文のわくわく感と、中公新書のような学術系新書の知的おもしろさのちょうど中間的な位置付けにある本といえるかも知れない。やはりこの人の本は好い。著者の他の本によくある命懸けの危険と隣り合わせのハラハラこそないが、ある意味、前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』にも匹敵するレベルの傑作ではないかとも思う。続編が出るらしいので楽しみである。
スポンサーサイト



2020年4月の読了本

『エスター・カーン』アーサー・シモンズ 平凡社ライブラリー
著者のことは知らなかったのだが、解説に寄れば世紀末に活躍しオスカー・ワイルドやオーブリー・ビアズリー、W・B・イェイツらと親交を結んだ作家とのこと。本書は短篇集『心の冒険』の八つの収録作から五つを選んで訳したもの。いずれも光よりも闇、生よりも死、幸せよりも悔悛を求めるような人々の、心の有り様が執拗に語られている。正直シモンズの文章は仰々しくて回りくどさもあって、決して読みやすくはない。しかしどの話も不思議と惹きつけられるものを持っていて、ついついページをめくってしまう。「いかにも」な感じで個人的には好きなタイプかも。
最も気に入った話は一人のユダヤ人女性が女優として大成するまでをいた表題作だが、捻れた感性の「秋の都」や「シーワード・ラックランド」もなかなか好かった。

『寄り添うツイッター』キングジム公式ツイッター担当者 KADOKAWA
2010年から公式ツイッターを始めて、いわゆる「ゆるい系」の企業アカウントのはしりとなった著者が、ある日とつぜん社長に呼び出され、やったことのないツイッターなるものを始めるに至ったいきさつから、ツイッターを運営する上での心構え、他の企業アカウントとの交流の様子や普段の仕事ぶりなどについて赤裸々に綴った本。TLで「キングジムのアカウントが企業垢なのに面白い」と聞いてフォローしたのが、本書によればおそらく2012年ごろのこと。自分もけっこう長いつきあいになる。本書に出てくるエピソードもリアルタイムでみてきたものばかりで、懐かしかったのと裏話が読めたので二倍楽しかった。企業の広報担当者に向けたビジネス本ではあるのだが、ツイッターユーザーなら普通に楽しめるのではないかと思う。最終的に作り上げた「発信者の人格」が「オープンで親しみやすい『近所の人』」だというのも納得できた。

『未知の鳥類がやってくるまで』西崎憲 筑摩書房
書下ろしの表題作を含んだ十の短篇が収録された、著者8年ぶりとなる作品集。氏の小説は、現実にはあり得ない世界がリアルに描かれるところが好きだ。幻想ではあるけれども 、氏の翻訳作品と同じく焦点が定まり輪郭がくっきりして見える。小説としてのリアルさと、幻想のもつ荒唐無稽さは、本来違うものだということを改めて気付かせてくれる。
小説としてはあくまで写実的に、且つそこから地続きに侵襲してくる異界は、今自分がいるところとは異なる理(ことわり)が統べる世界である。それが懐かしいものであったり、恐ろしいものであったり、あるいは象徴的なものであったりするのは、きっと読者が作品に対して自分なりの解釈を施しているからだろう。しかしここに現れている光景は、(現実の世界と同様に)本来は理解不能なものではないかとも思う。どの作品も、誰もが皆、何かしらの痛みや不安を抱えて生きるこの世界に起こる、不思議な出来事を描いている。その意味で、西崎氏の描くSFは「少し不穏」の略であるとも言える。
もしかすると氏の小説は人を選ぶものかも知れない。しかし、ある人にとっては受け入れがたいものが、また別の人にとっては尽きせぬ魅力の源泉であったりもするのだ。たとえばコッパードやカヴァンのように。
具体例をあげるとすれば、「行列(プロセッション)」や長いタイトルの「おまえ知ってるか、東京の紀伊國屋を大きい順に結ぶと北斗七星になるって」は何かを暗示させるようで、自分の最も好きなタイプの話である。一方、「箱」「東京の鈴木」「開閉式」あたりは同じく解釈を拒む物語であっても、そこから浮かび上がってくる不気味さが心地よい。さらに表題作や『世界の果ての庭』を連想させるモザイク小説「一生に二度」については、文学あるいは想像力の可能性を思わせてくれるものであると思う。久しぶりの作品集、期待に違わず満足のいくものだった。

『動物裁判』池上俊一 講談社現代新書
中世ヨーロッパには、人を殺傷した家畜や農園に被害を及ぼす小動物・昆虫を人間と同じ手順で裁判にかけて、死刑宣告や破門宣告を告げる不思議な慣習が存在した。それら「動物裁判」が生まれた経緯と数百年に亘って続けられた理由について、著者は豊富な例証と先行研究を紹介しつつ、自らの仮説を述べていく。そしてそれらが決して前近代の非合理な考え方に基づくものではなく、村落の周囲に広がる脅威に満ちた自然が、開墾されやがて「飼い慣らされて」いく過程で考え出された、当時としては極めて「合理的」な慣習だったのだということが明らかにされる。(結論を大雑把に言ってしまうと、「自然世界を人間世界に同化させる主観的人間中心主義」が「動物を人間の理性的な法に従属させる」ために行ったこと……となるだろうか。)
異教の神々が棲まう「異界」が世俗化され、キリスト教的な善悪の観念/倫理観が発展するにつれ、行為の主体がもつ「人格」と「意図」による「責任」が重要視されるようになる。またその過程で「魔女」あるいは「悪魔化した動物」といったものたちが「発明」され、「主観的人間中心主義」が18世紀に「客観的人間中心主義」へと姿をかえていくまで続いていくことになる。
著者が述べるこの仮説に賛同するか或いは異議を唱えるかは、最終的に読者の判断に委ねられている。それに対する自分の考えはさておき、穏やかな日曜日を過ごすための本として相応しいものであった。

『わが父塚本邦雄』塚本靑史 白水社
短歌会に屹立する巨人の生涯を、息子という視点から語ったもの。文学史的な記述とは違う塚本邦雄の姿が見えてきて興味深い。特にユニークなのは塚本邦雄伝であるとともに、著者の半生記にもなっている点。塚本邦雄が誕生して成長し、やがて結婚して子供(すなわち著者)が産まれるまでの期間については、他の資料をもとに書かれたとおぼしき客観的な記述にすぎないが、著者が小学校に上がる頃からは生の記憶がどしどし出てきて俄然面白くなる。寺山修司や三島由紀夫、中井英夫や須永朝彦らとの親交の様子は、身近な者だけが知る貴重な記録だ。また、長年に亘り邦雄のマネージャー役を務め、書肆季節社を立ち上げて多くの歌集を出版した政田岑生(きしお)と「玲瓏(れいもう)の會」をめぐる毀誉褒貶も、赤裸々に綴られている。
塚本邦雄については、恥ずかしながら「たくさんの歌集や小説を出した偉い歌人」というぐらいしか知らなかったので、本書はたいへんに面白く読めた。格調高い作品の中に潜むユーモアや生活感の元になったエピソードは、彼とともに暮らした者による説明なくしては知る由もなかっただろう。『塚本邦雄全集』が編まれるまでの裏話も読めたし、文庫版の短歌全集の刊行がさらに愉しみになった。
ちょっと驚いたのは塚本邦雄が1920年(大正9年)8月生まれで、同年生まれにはレイ・ブラッドベリやアイザック・アシモフらがおり、『火星年代記』「刺青の男』『華氏451度』『われはロボット』『鋼鉄都市』『裸の太陽』など、両者の著作をかなり好んで読んでいたとのこと。こんなところで良く知った作家の名前が出てくるとは…。

『深宇宙ニュートリノの発見』吉田滋 光文社新書
太陽ニュートリノや大気ニュートリノではない、深宇宙の彼方から飛来する高エネルギーのニュートリノを捉えたい……その強い思いで研究を続けてきた著者が、長年の体験を綴った科学ノンフィクション。南極点に設置された巨大な国際観測装置IceCubeで測定されたデータから、2012年に「アーニー」と「バート」と名付けられた二つのニュートリノ信号が発見され、さらに2017年には「IceCube-170922A」と名付けられた信号により、γ線フレアを起こしている銀河系「TXS 0506+056」が同定されるまでのくだりはたいへんに胸熱である。
天文学は、数十億光年というスケールの世界が、量子物理学という極微の世界とつながっているところに、たまらない魅力があるわけだが、本書では南極の分厚い氷の下という極限世界までもが加わって、さらにロマンをかきたててくれる。研究内容の記述は素人にはなかなか難しいものではあるが、なるべく平易に説明してくれているので、理論とシミュレーションと実測データ解釈のせめぎ合いも(無責任に)愉しむことが出来た。確率的に1平方キロメートルあたり年間数十個程度しか反応しないであろう超高エネルギーニュートリノを数十年かけて研究し、ついに40億光年彼方のオリオン座方面からの飛来を捉えるという概要だけで、自分などはもう堪らない。最先端研究の当事者が自ら書下ろしてくれる一般向けの読み物には昔から目がないのだが、本書もまた良いものであった。不要不急な読書とはかくも素晴らしいものである。

『キッド・ピストルズの慢心』山口雅也 光文社文庫
探偵が警察より上位にあるパラレルワールド英国を舞台にした連作で、マザーグース・ミステリでもある〈キッド・ピストルズ・シリーズ〉の第三弾。長短とりまぜて五篇の作品が収録されているが、そのうち表題作と巻末の「ピンク・ベラドンナの改心」は、語りがキッドやピンク自身による一人称であり、作中で彼らの生い立ちが語られるキャラ小説でもある。かつて単行本で出た時にはそれまでとはガラリと変わった装丁になり、しかも京極夏彦によるものと知って驚いたが、本書にはその顚末を綴った京極氏によるエッセイも収録されている。著者によるクリスティのマザーグース・ミステリ総解説も載っていて、かなりお買い得な一冊となっている。自分の記憶では、この頃は『ミステリーズ』や『日本殺人事件』といった異色作にして大傑作という作品が次々と上梓され、作風が大きく広がりを見せている時期だった。この人はどれだけの引き出しを持ってるんだろうと思った記憶がある。
本書では前作までと同じテイストの比較的オーソドックスなものは「靴の中での死体」と「さらわれた幽霊」の二篇ぐらいで(もちろんどちらも面白い)、残りの三篇は著者が新しいことに挑戦してみたという印象。特に気に入ったのをあげるとすらば「さらわれた幽霊」と「ピンク・ベラドンナの改心」だろうか。どちらも世間の常識に対するパンク的な異議申し立ての精神が効いていて、たいへん愉しかった。気分的に疲れているときには古風な怪奇小説を読みたくなるが、こういう感じのミステリを読むのもいいものである。

『MMT』井上智洋 講談社選書メチエ
表題にある「MMT」とは「現代貨幣理論/Modern Monetary Theory」のこと。帯に「"異端"の経済学」とうたわれているように、マクロ経済学やミクロ経済学といったケインズ経済学の立場からは「ブードゥー経済学」などと批判される非主流の経済学派だそう。経済学に関してはまったくの素人だが、異端は大好きなので(笑)、書店で見つけてさっそく読んでみた。
ノーベル経済学賞が設立されたのは、人の幸せにとって経済が科学や医学・生理学と同じくらい、とても重要と判断されたからだと、昔聞いたことがある。貧乏は人を殺すのだ。したがってこれまでの経済理論に則った緊縮財政や金融政策では立ち行かない今の日本でこそ、読まれるべき本なのかも知れないとも思う。著者は主流派に属する経済学者だが、主流派経済学者(ニュー・ケインジアン)か非主流派(ポスト・ケインジアン)かにはこだわりがなく、優れた提案は積極的に取り入れるべきという考え方のようだ。MMTに対しても、納得できる部分と議論の余地がある部分が混在しているとのこと。なおMMTとはあくまでも貨幣理論であり、その延長線上で政策提言なども出てくるというらしい。
著者によれば、MMTの主張で主流派と最も大きな論争になるのは次の3点。
①財政的な予算制約はない(つまり自国の通貨を発行している国がいくら国債を発行して借金しても財政破綻することはない)
②金融政策は有効ではない(つまり中央銀行が貨幣供給の制御を行っても金融は不安定でコントロールできない)
③景気を安定させるには(金融政策ではなく政府による)雇用保障プログラムを導入すべき
本書ではこれらの点について順に解説を加えていくのだが、どれもこれまでの常識をひっくり返されるようでとても刺激的な内容となっている。例えば①では、国が発行する貨幣を「債務証書」とみなし、国が「借金」を増やすことで国民が納税すべきお金を得ることが出来ると考える。つまり「租税を財源に政府支出をする」のではなく、経済を回すためには政府支出が先なのだ。
②については様々な異論があり容易に決着はつかなさそうだが、要は「金利政策によってインフレ率が制御可能か否か」というところに帰着する。著者はある程度の金利政策でインフレ率の制御が可能と考えており、その点では「金融政策は無効なので代わりに雇用保障プログラムを行う」とする考えとは異なる立場をとるが、それでもベーシック・インカムが有効と考えている点で共通するところはあるようだ。
現代の世界経済が抱える問題と、その解決策を探るためのモデルとしてMMTを理解するのに、コンパクトにまとまっていて良い本だと感じた。

『薔薇忌』皆川博子 実業之日本社文庫
柴田錬三郎賞を受賞した幻想小説の短篇集。芝居を題材にして、死と妖艶に彩られた7つの物語を収録しており、いずれも完成度は高い。この人の作品にみえる幻想は、自分が「幻想」にイメージするものとは違うのだけれど、現実世界に二重写しになって透けてみえる妖しさと爛熟とが、たしかに異界を思わせる。かすかに腐敗臭までしてくるようだ。
皆川作品は赤江瀑や折口信夫らの作品と親和性が高いと常々思っていたのだが、本書を読んで何となく感じたことがあった。それは、彼らに共通するジトジトと湿り気を帯びて爛れた幻想世界が、実は「エロス」すなわち「生の欲動」に直結したものではないかと言うこと。「生/性」と、その裏返しである「死」の横溢、それこそが稲垣足穂や中原中也、あるいは澁澤龍彦やJ.G.バラードといった作家たちの、乾いて生のまま石と化した世界の対極にあるものではないだろうか。前者は躍動する生に溢れるが故、死を厭いつつも魅了される。一方、後者の鉱物的で無機質な世界では、時間が止まり生と死の区別すら存在しない。そう考えると皆川博子の幻想がミステリの変奏として読めるのもよく分かる気がする。(そして足穂や澁澤の幻想がSFに接近していくのも。)同じ「幻想」と呼ばれていてもコインの表と裏ぐらい違っているのが面白い。
収録作で特に気に入ったのは「紅地獄」「桔梗合戦」とラストの「翡翠忌」。どれも切れ味抜群の剃刀のような作品であった。

『薺・蝶々の目』泉鏡花 泉鏡花記念館文庫
鏡花の家の斜向かいに住んでいた「美枝子」という少女をモデルに書かれた四つの物語を収録した作品集。「薺(なずな)」「蝶々の目」「祭りのこと」は短篇ないし掌編で、最後の「龍胆(りんどう)と撫子(なでしこ)」は未完の長篇の抄録となっている。「薺」と「蝶々の目」で少女が呼ばれる"みんみい"という愛称は、僅か7歳で亡くなった実在の少女に鏡花自らがつけていたものだそうで、細やかな描写も登場人物たちの会話も、著者の深い愛情を感じさせる。
冒頭から三つの作品は言ってみれば他愛のない、しかしだからこそかけがえのない日常の風景を淡々と描いたものだが、「龍胆と撫子」は平田実篤の「仙境異聞」を思わせるエピソードや寺の和尚がみたちょっと不思議な夢など、鏡花得意の幻想と人情話が相まってかなりおもしろく、未完で終わってしまったのがもったいない。
本書は泉鏡花記念館が出しているオリジナル文庫〈いつか読んでみたい一冊〉の第四弾。第一弾『化鳥・夫人利生記』と第二弾『絵本の春・寸情風土記』は残念ながら未入手だが、第三弾『爪びき・道祖神の戯』と本書を読んでみて、改めてマニアックだが良いセレクションだと感じた。

『木になった亜沙』今村夏子 文藝春秋
三つの中短篇を収録した著者の最新作品集。表題作と「的になった七未」は『文學界』に、「ある夜の思い出」は『たべるのがおそい』に発表されたものだ。
『父と私の桜尾通り商店街』あたりから顕著になってきたと思うのだが、著者の作品はこのところ、シャガールの絵のような幻想味を帯びてきているように思う。(妙にリアルなところもあるが。)本書でも「木になった亜沙」「的になった七未」は現実世界からの浮揚が甚だしくて、まるで筋肉少女帯の歌を聴いているような感覚を持った。個人的には『こちらあみ子』や『あひる』あたりのぎりぎりの線を攻められるのが好きなので、本書の中では特に「ある夜の思い出」が気に入った。いずれにせよ、新刊を追いかける作家がいるということは、しあわせなことである。

2020年3月の読了本

3月は11冊読めた。いつもこれぐらいのペースで読めるといいのだけれど。

『昔日の客』関口良雄 夏葉社
かつて東京・大森にあった古本屋「山王書房」の店主による名随筆集。過去に三茶書房から刊行されていたものの復刊。大正生まれの店主による古き良き時代の古書店の空気がたいへんに気持ち良い。店を訪れた客とのやりとりや、尾崎一雄、尾崎士郎、上林暁、野呂邦暢、三島由紀夫といった錚々たる作家たちとの交流のエピソードなど、隅から隅まで面白く、また懐かしい。古本エッセイはもともと出久根達郎が好きでよく読んでいるのだが、本書も気品のある文章が気持ちよくて、少しずつ読むつもりが一気に最後まで読んでしまった。帯に「古本と文学を愛するすべての人へ」とあるが、まさにすべての人に薦めたいと思うような本である。夏葉社すばらしい。

『女であるだけで』ソル・ケー・モオ 国書刊行会
全3冊からなるラテンアメリカ文学の新しい叢書〈新しいマヤの文学〉の初回配本。メキシコの村で起きた夫殺し事件を通じて、先住民女性が受ける暴力や差別、抑圧や人権無視などの苦しみを告発する。「マヤ語で書かれた現代文学」という言葉に惹かれて手に取ってみたのだが、予想以上にすばらしいものだった。貧困や飲酒による先住民の生活破壊や、宗教観や慣習から男への従属を強いられる女性といった大きな社会問題はもちろんだが、一人称や三人称が入り乱れて眩暈を催すような構成もよく読むタイプの海外小説では味わえないものだ。普通なら一貫してオノリーナ・カデナ・ガルシーアの視点で書きそうなものだけれど。夫となるフロレンシオ・ルネス・コタに金で買われ「所有物」として悲惨な人生をおくるオノリーナ・カデナ・ガルシーアに焦点を当てるばかりでなく、彼女の恩赦を勝ち取る弁護士のデリア・カスティージョ・ガルマや、吐き気がするほど酷い性格の持主で最後にオノリーナに殺されてしまうフロレンシオ自身の物語、さらに彼女と子どもたちを守ろうとする村人の物語まで、複数の視点が切れ目なく描かれる様はガルシア=マルケスやチュツオーラを初めて読んだ時の感覚を思い出させてくれる。(フロレンシオのくだりでは、吉田知子の「艮(うしとら)」や上田秋成の「樊噲(はんかい)」を連想した。)これは同じ著者の短篇集『穢れなき太陽』もぜひ読んでみなくては。そして〈新しいマヤの文学〉の続刊2冊もまた楽しみである。

『安田登『特別授業 「史記」』(NHK出版)
「別冊 NHK100分de名著 読書の学校」というシリーズの一冊で、毎回著名な人物により一冊の本が取り上げられ、中学・高校に出向いて行った特別授業を本にしたもの。(テレビ放送はされていない)
本書では能楽師の安田氏により司馬遷の『史記』が紹介される。著者は能楽師になる前から漢字についての研究をしていた人で、旧著の『身体感覚で『論語』を読み直す。』がとんでもなく面白かった。そこで本屋の店頭で見かけたときにすかさず買ったのだが、やはり期待を裏切らない面白さだった。文字の発明によって「論理」が生まれたり、あるいは「心」や「法」という漢字(=概念)がいつ生まれたかを当時の記録から繙いたりすることで、中高生に平易に中国の歴史と文化のおこりを判りやすく解説していく。思いもよらない角度からの説明がスリリングで、大人が読んでも充分に面白い。こういうのがいわゆる学びの面白さというものであり、また一人一人の教養になっていくのだとおもう。

『怪物』ディーノ・ブッツァーティ 東宣出版
ブッツァーティの初期から後期に亘る作品の中から選んで編集した日本オリジナル短篇集の第3弾。これでひとまず終了が惜しいほどに、どの本も粒よりの作品集となっている。ブッツァーティの作品は日常の狭間に突然顔を覗かせる深淵や、普遍的とも思える寓意性が特徴だと思うが、いずれもオチが効いているというよりは、厭な雰囲気のまま展開して余韻を残しつつ終わる掌編といった方がしっくりくる気がする。(既訳のある「七階」や「七人の使者」などはまさにそんな感じ)本書収録の作品もどれも面白かったが、個人的に特に好かったのは「エッフェル塔」「一九五八年三月二十四日」「五人の兄弟」と、表題作「怪物」といったところだろうか。「一九五八年三月二十四日」などは死亡した宇宙飛行士たちの物語であり、ラストはいかにもブッツァーティらしいが読み方によってはとてもJ・G・バラードらしくもある。独特の匂いがクセになる人だと思う。そしてなにより本書の版元である東宣出版。本書以外にも〈はじめて出逢う世界のおはなしシリーズ〉というとんでもない叢書を持っているし、群像社と同様、小粒ながら侮れない出版社である。

『赤毛のアン』モンゴメリ 文春文庫
かつて集英社文庫から出た旧版に手を入れた新訳版。訳者・松本侑子氏による詳細な訳注がとにかく素晴らしい。帯にあるように「児童書でも、少女小説でもない大人の文学」として、生まれて初めて読む本書を心から愉しむことが出来た。(なんせマシューとマリラが兄妹ということも知らなかったぐらい。)
訳者あとがきに詳しく書かれているように、様々な古典からの引用やグリーン・ゲイブルズの美しい自然と四季の移り変わりの描写、失敗を繰り返しながら日々成長していく少女アンの生き生きした姿と、それを見守る周囲の大人たち。アンだけでなく、彼女を引き取り育てる過程でマシューとマリラもまた成長し満たされてゆく様子も含め、多層的に愉しむ事が可能な大人向けの文学作品となっている。例えば『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』『ドン・キホーテ』のように、子供向けの「世界名作文学」として読まれた作品が、完訳版を読むと実は全く違った豊かさを持っていたというのと同じことが、この『赤毛のアン』にも言える。『ベン・ハー』や『アラビアのロレンス』といった、総天然色の大作映画を観たような満足感があった。小・中学生の頃は冒険小説やSF、ミステリを読みふけっていて、いわゆる世界名作全集に載るような作品は敬遠していたのだが、いや、お見それしました。正直見くびっていたが、こんなに面白いとは思わなかった。もっと早くに読めばよかった。本書に限らず死ぬまでに読んでおかなくてはいけない本は多い。そしていつでも間に合わないことはないのだ。

『関西怪談』田辺青蛙 竹書房怪談文庫
〈ご当地怪談シリーズ〉の一冊で、関西で著者が収集した怖い話/不思議な話を聞き書きの形でまとめた実話怪談物。吟味され研磨されて冷たく輝く怪談になるまえの原石のような話が58編収録されている。変に因縁めいたものより、理解不能なものとの出会い頭の邂逅の方がよほど怖いと思うたちなので、実話怪談とは相性がいいと思っているのだが、本書の場合は怖さよりも、民話や説話が出来上がっていく過程を見ているような面白さが先に立つ感じがあった。これは著書の資質によるものかも知れない。『あめだま』や『人魚の石』にも通じるような、そこはかとない愛嬌が著者らしくて好い。単に奇妙な話として楽しめたが、オチもなければ解決もない不思議な話を読むのは贅沢な愉しみである。

『電信柱のある宇宙』別役実 白水Uブックス
演劇をテーマにした著者の初期エッセイを、氏の訃報にふれて本棚から引っ張り出して読んでみた。構成としては、独自の演劇論から導き出される「創造ということ」や「歩くこと」「何もないこと」「食べること」といったことがらに関する文章をおさめた第一章、第二章と、目を外に向け様々な対象について語った第三章、そして身辺雑記的な文章の第四章からなる。氏の方法論が直接的に語られているため、他のエッセイに比べると硬質だがかえって理解しやすいものになっている気がする。何もない舞台の上に一つの世界を作り出すためには、自らの行為に自覚的かつ批評的でなくてはならず、だからこそ紡がれていく言葉の数々が興味深い。(氏がトールキンの『指輪物語』を高く評価している点もなにやら象徴的である。)
「日常性」と「非日常性」という、元来は不連続であるはずのものを連続させてみせる装置として演劇を、あるいは舞台、役者、ストーリーといったものを捉えている著者らしく、いずれの文章でも我々を取り巻く日常から様々な観念を取り出しては、それを鮮やかに「非日常」へと裏返してみせる。そして本質的な何かを垣間見せてくれる。(もしくは見たような気にさせてくれる。)不条理というものは時に不安を感じさせるものであり、その反面当たり前の世界から連れ去ってくれる魅力(魔力?)を持つが、それを自覚して活動を続ける氏の文章もまた同じである。
彼は本書の中で、幻想あるいはファンタジーというものについて、単に「非現実的」つまり現実から遊離する距離によって測られるべきものではなく、現実への浸透力や腐蝕力、即ちそれが如何に現実と拮抗し、如何に緊張しあっているかによって測られるべきであると述べている。これなどは我が意を得たりという気で読んでいた。やはり氏の本は好きだ。優れたレイ・ブラッドベリ論である「ブラッドベリ宇宙の構図」や、クレーとの比較からシャガールの作品論を展開する「シャガールの幻想」が収録されているのも好い。

『どーなつ』北野勇作 早川書房
ハヤカワSFシリーズ Jコレクションとして世に出た一冊。現在は電子書籍のみで刊行されている。これまで以上に抽象的というか象徴的な題名がつけられているが、たしかに「ドーナツの穴を味わおうと色んな角度から攻めてみた結果、何を食べているのかよく分からなくなった」ような話である。(褒めてます)もうちょっとSF寄りに書くと、「ディックのテイストで書かれた『ストーカー』」という感じだろうか。仄めかしとはぐらかしが、童謡や落語や憧憬の中に散りばめられていて解りにくいが、根はハードSFである。ただしニュートン力学ではなく相対性理論もしくは量子力学なので、絶対的な正解というものは無い。それが著書の作品をとっつきにくくしている理由でもあるし、他に無い魅力でもあるのだ。ふとジーン・ウルフやR・A・ラファティを思い出した。
内容はアメフラシを利用した火星のテラフォーミングと、戦争兵器として利用された各種技術と、そしてその結果変容を遂げた人類の姿を、複数の個人の目を通して描いたもの。10の短篇がぬめぬめとフワフワと連なりながら、ひとつの世界の成り立ちとその結末を何となく指し示している。『かめくん』や『カメリ』と違って物語の背景(設定)が直接書かれているのは、北野ワールドへの入門篇としてもいいかも知れない。

『深山霊異記[増補版]』アルジャナン・ブラックウッド 個人出版
第二十九回文学フリマ東京で頒布されたものに「呼び声」と「東と西へ伸びる道」という二篇のを追加収録したもの。山を題材にした幻想小説と、時空を超えた男女の魂の出逢いを描く幻想恋愛小説、それに「冬のアルプス」「松」「風」といった自然について書かれたエッセイが収録されている。中では同じ著者の「ウェンディゴ」や『人間和声』を思わせるような畏怖すべき存在を描いた「生贄」や、折口信夫『死者の書』を連想させる「旅人たち」あたりが特に好かった。「冬のアルプス」や「風」も、ブラックウッドの神秘感を知る上で参考になった。
それにしても、こういった本を個人が出版して文学フリマで販売したり、それを地方でも通販で買えるのだから、いい時代になったものだ。翻訳と頒布をしていただいた渦巻栗氏には深くお礼を申し上げたい。

『装丁物語』和田誠 中公文庫
言わずと知れたグラフィックデザイナー/イラストレーターの大家が、これまで手がけてきた本の装丁について自らの思いを綴った本。著者の装丁に関する考え方や、遠藤周作、谷川俊太郎、星新一、丸谷才一、村上春樹、つかこうへい といった人々の本にまつわる記憶、他にも映画や翻訳小説など具体的な事例が数多く取り上げてあり、見知った本の作られ方はたいへんに興味深い。もっとも一方では、自分の詳しくない分野について書かれている章は、固有名詞が分からないので少し読むのがきつかったりもするわけだが。普段何気なく手にしている本の装丁について、改めて見直す良いきっかけになった。(ところでこの本の装丁は誰がやったんだろう?)
余談だが、「そうてい」の漢字は「装幀」が正式で「装丁」や「装釘」は略字または当て字かと思っていた。しかし本書によれば広辞苑には「装訂」が正しく「幀」の音はタウで掛物の意味であると書いてあるのこと。読みも意味も違った当て字であるらしい。知らなかった。

『稲垣足穂 詩文集』 講談社学芸文庫
『稲垣足穂詩集』(思潮社)と『稲垣足穂全詩集』を底本として、後半に四篇の詩論・エッセイを追加した作品集。題名に「詩文」とあるが、足穂の場合は韻を踏むようないわゆる普通の「詩」ではなく、モチーフやテーマの掘り下げ、そして読者に与える効果そのものが詩であるという意味で名付けられている。基本は他の作品集と同じく散文で書かれたコントであり、大正から昭和初期の山の手の少年が夢見たような、機械仕掛けや天体や飛行機などの表層をなぞるレトロフューチャーなファンタジーの世界だ。
足穂文学の特質は、自然な感情の発露を否定した先にある圧倒的な物理と、それを通して描かれる抽象的な論理の展開にあると考えている。実は足穂がもつ独特の風味は、そこからくる表層性にあるのではないかとつねづね思っているのだけれど、本書を読んでいるうち、その理由は作中時間の欠如にあるのではないかという疑惑が浮かんだ。時間経過が無くはないが、極めて希薄だと思うのだ。さらに、無機質な論理にも関わらずその向こう側にはリリカルなものが透けてみえることこそが彼の魅力なのだと思う。
また足穂文学は彼が「生活のための文学」あるいは「文学のための文学」を否定し、自然的なものを排除することを理想とするところから、シュルレアリスムを意識したものとなる。しかし自分の思うところでは、シュルレアリスムというよりは、寧ろホッケや高山宏のマニエリスム文学に近いのではないかという気がする。
彼の特質は作品そのものを通じて感じさせるものなので、自らの創作姿勢を解説したエッセイの類いは、却って解りにくかったりするのであるが、それでも本書に収録されている「タルホ入門」や、優れたE.A.ポオ論である「機械学者としてのポオ及現世紀に於ける文学の可能性について」はとても好かった。

2020年2月の読了本

『アダムとイヴの日記』マーク・トウェイン 河出文庫
それぞれ違う時期に書かれた「アダムの日記」と「イヴの日記」の二つの作品を合本にしたもの。アダムとイヴによって書かれた日記という体裁で失楽園から死を迎えるまでの二人の様子が、同じエピソードも含めて視点を変えて語られる。合理的な思考のアダムと、この素晴らしい世界と命が育む美しさを心から愛するイヴ。どちらも相手のことを、知性が劣ったものとして苛立ちと憐れみをもって遇するあたりは、ユーモアと風刺の文学の担い手たる作者の面目躍如だが、やがて物語は愛の賛歌へと変貌を遂げてゆくのが何ともいえず宜しい。そしてなるほど帯にあるように最後の一行こそがトウェインの真骨頂といえる。きれいな挿絵と併せて心をちょっと豊かにしてくれる読書だった。よきかな。

『本屋、はじめました 増補版』辻山良雄 ちくま文庫
長年リブロで勤め上げ、池袋店の閉店とともに自らの新刊書店Titleを立ち上げた著者が開業までの顛末を描いたエッセイ。カフェが併設されていたり二階にイベントスペースがあったりと、昔好きでよく行っていた珈琲と古書の店リチルを思い出した。(リチルはその後移転して読書喫茶として続いているが、なかなか行く機会が無くなってしまったのだ。)「回転前夜」の章で初めて本が搬入されたときの、「一冊だけでは一冊の本にすぎないものが、ある規則に従いながらほかの本とともにずらりと並ぶことで、より深い意味を帯びてくる」には強く首肯した。
カフェと古書ということなら福知山にあるMOZICAも大変素晴らしいお店だが、この本を読んでいて古書店と新刊書店の違いに思いがおよんだ。古書の場合は(ある程度は選べるにせよ)基本的には品物をコントロールすることは出来ない。入ってきた品物で勝負するしか無い代わりに、過去の書籍でも時を超えて入手することができる。一方の新刊書店の場合、どんな本でも注文すれば何度でも何冊でも入手可能だが、その代わり現在流通しているものに限られる。いずれも客に「本との出会い」を提供する場ではあるのだが、新刊書店の方が良きにつけ悪しきにつけ、より一層「経営者としての店主」の顔がくっきりと見えてくる気がする。
また古書店の場合は古今東西の思いもかけない本との出会いがあるが、新刊書店の場合は今息づいている膨大な本から選書することで読者に「今この瞬間の世界」を届けることが出来る。Titleの場合はイベントスペースを併設して著者と絡めたトークイベントなどを開催することで、さらに幅広い層への多層的なアピールも可能となる。そう考えると、古書/新刊という垣根を超えて本を通じたかけがえのない「価値」を提供するという点で、両者は同じと言えるのではないだろうか。
名古屋にもこういった店がないか考えたところ、新瑞橋にある七五書店が頭に浮かんだ。もしもTitleが七五書店のような感じだとすれば、居心地がいいのも頷ける。いつか東京に遊びに行った時にでも訪れてみたいものだ。
新たに本屋を開業したい人には有益なアドバイスになる記述が盛りだくさんだし、なにしろ本屋の矜持が感じられる好著だった。(ただ、自分では本屋はやれないとも思った。やはり自分は読む側に専念する方が良さそうだ)

『真鍋博の植物園と昆虫記』真鍋博 ちくま文庫
1976年に出版された2冊の空想博物誌を合体して収録。風刺と諧謔に満ちたレオーニ『平行植物』もしくはユーモアとセンス溢れる別役実『虫づくし』とでも言えばいいだろうか。星新一のショートショートにぴったりのおしゃれでシュールでユニークな動植物たちが特徴的なイラストで描かれる。当時の世相を植物や虫に見立てているので時代を感じさせるものも多いが、そういった「ちょっとレトロな未来感」も含めて愉しむことができた。「深夜放草」や「防衛毛虫(有翅目軍備類)」「ニューモデルムシ(新種同類)」などは思わずニヤリとさせられる。定規やコンパスをあてたような無機質なタッチの絵によって、類書の無い独特の世界が展開されている。真鍋氏の本はイラストが好きで小学生のころ市立図書館で借りて読んでいたのだが、今回の2冊の内容を改めて読んでみると内容は完全に大人向けであった。内容はほとんど理解できていなかったと思うが、夜更けにこっそりとテレビを点けて観た『11PM』などを思い出したりもした。優れた大人向けファンタジーとして、さらに過去の空気を閉じ込めたタイムカプセルとして、一冊で二度も三度もおいしい作品である。余談だが本書を読んでみて、円城塔をはじめて読んだ時の既視感の正体に気がついた。実は真鍋博であったのだ。子どものころに、真鍋博の『超発明』や『自転車讃歌』を図書館で借りて読んだ時の感覚が、自分の中で重なっていたのだとおもう。

『ゴーストリイ・フォークロア』南條竹則 KADOKAWA
2010年から2018年まで雑誌『幽』に連載された18のエッセイをまとめたもので、内容は副題にある通り「17世紀〜20世紀初頭の英国怪異譚」である。まず驚いたのは文字の色が黒じゃなくて紫色だったこと。半村良『妖星伝』を思い出した。ヒュー・マクディアミッドやトマス・クロフトン=クローカーなど全く聞いたことのない人の著作が次々と紹介されて新鮮だが、第10章「海の魔法」では、翻訳家の中野善夫氏によってその後、作品集が刊行されたF・マクラウド/W・シャープが取り上げられているし、第7章の冒頭で紹介される「コリンナについて」という短篇小説は、同じく中野氏によって代表作『ジャーゲン』が訳されたキャベルによるもの。(キャベルはアーサー・マッケンのファンだったそうだ。)それ以外にも日本でいえば『御伽婢子』にあたるような本や、バラッド、抒情詩など「マイナー」なところからも数多く紹介されているのが嬉しい。最後のコールリッジ『老水夫行』までしっかりと愉しめた。このように怪奇幻想に関する肩のこらない読み物はなかなか無いので、手を変え品を変えいろいろと書いていただける南條氏の存在はありがたい。装幀も凝っていて古い怪奇小説のファンにはおすすめである。

『漱石全集を買った日』山本善行×清水裕也 夏葉社
京都ので古書店を営む店主と、筑摩書房の夏目漱石全集がきっかけで古本の世界に目覚めた古本好きの会社員の対談集。清水氏は本格的に古本を集めだしてまだ数年とのことだが、どっぷりと沼にはまっていて話の内容が信じられないほど濃い。(東京に遠征して中央線沿いの古本屋を3日間で50軒くらい回り、さらに古本展を三つほど挟む強行スケジュールをこなしたりと、もうすっかり本の虫である。)二人の好きな作家や詩人が取り上げられるが寡聞にして知らない人も多く、また全国の古書店や新刊書店の名前が挙げられるがほとんど行ったことのない店ばかり。一部知っている店の名があるが、それはどれも素晴らしい店ばかりなので他も推して知るべしであろう。久しぶりに本を読みながらたくさんメモらせてもらった。この本の出版元である「夏葉社」についても一章を割いて語られていて、関口良雄『昔日の客』が無性に読んでみたくなった。夏葉社では他にも良い本をたくさん出しているようで、七五書店でたまたま目に留まった本書を手に取ったのも何かの縁だろう、少し追いかけてみたい気がする。こういうのが本を読む醍醐味とでもいうのだろうな。広く深く読書を愉しみたい人間にはうってつけの本だった。
以下、参考に本書で出てきた古書店の名前を挙げてみると、岡山の「蟲文庫」や「古京文庫」、松山の「トマト書房」」「古書猛牛堂」、福岡の「本々堂」に「徘徊堂」など。名古屋では「千代の介書店」と「シマウマ書房」の名があがっている。均一台が面白い古書店として言及されているのは、東京だと荻窪の「ささま書店」や西荻窪の「盛林堂書房」のほか「音羽館」や「水中書店」。大阪だと「天牛書店」「天地書房」や「一色文庫」に「金箔書房」、神戸の「やまだ書店」や「古書つのぶえ」、京都の「吉岡書店」「萩書房」「三密堂書店」などなど。興味津々である。

『われらみな食人種(カニバル)』クロード・レヴィ=ストロース 創元社
文化人類学の泰斗によってイタリアの日刊紙に発表された16の時評に、原著刊行時には未刊行だった論文「火あぶりにされたサンタクロース」を加えた随想集。内容は多岐にわたり、例えば狂牛病やダイアナ妃の事故死から、オーギュスト・コントが晩年に提唱した「人類教」なる新宗教、あるいは自著をもとにした人類学的な諸テーマに関する論考など幅広い。首尾一貫しているのは、構造主義的思考を取り入れ対象を相対化して眺める視点である。たとえば「母方オジの帰還」の最後に書かれた次の文章が、氏のスタンスを明確に表していると思う。
「いわゆる複雑で進化した社会と、誤って未開なり古代的なりと呼ばれた社会、この両者の隔たりは思い込まれているほど大きくはない。遠いものが近いものを照らし出すように、近いものが遠いものを照らし出すこともある」
訳者あとがきには本書の監訳者・渡辺公三氏の急逝に関する文章があって、知らなかったのでショックだった。それでも「著者自身による理想的な"レヴィ=ストロース入門"と言えなくもない。(中略)レヴィ=ストロースの世界のひろがりを手ぶらで散策するには、本書に代わるものはないのではないだろうか」という言葉どおり、手頃に読める本書を無事に世に出してもらえたのは僥倖とでもいう他はない。面白いよ。

『星を継ぐもの』ジェイムズ・P・ホーガン 創元SF文庫
鏡明氏の解説にもあるように1950年頃の懐かしいSFを彷彿とさせる。ミステリとの親和性が高いのは、月面で発見された五万年前の宇宙服を着た死体(まるで不可能犯罪)の謎を解く「名探偵」ハント博士の存在もさることながら、ラストの関係者全員を集めた謎解きタイムや、どんでん返しまでがミステリの作法に従ったものだからだろう。翻ってSFとしての魅力は、まさしく五万年前の宇宙服を着た人類という「オーパーツ」がまずあるわけだが、最後の最後に見せる遠大なビジョンが、「センス・オブ・ワンダー」という懐かしいキーワードを思い起こさせる点にもある。また主人公ハントの役割が『宇宙船ビーグル号』に出てくる総合科学者(ネクシャリスト)のグローヴナーによく似ていて、いわゆる「天才」が快刀乱麻で謎を解くのも、これもまた古き香りといえる。
しかし一方で、SFとして一番の大仕掛けにあたるアイデアには、ある種の新本格ミステリのトリックに見られる「雑な感じ」もあって、途中のあちこちに見られる論理とあわせ、レムやイーガンを経験した現代のSFファンにとっては、良くも悪くも過去のSFを思わせるものとなっている。他にも、異世界の言語を翻訳する際のロゼッタ・ストーンに当たるものがカレンダーや度量衡まで載っている「手帳」であるところとか、専門的な固有名詞まで含めて完全に意味が同定されてしまう点、あるいは航空機の中にテレビ電話室があったり、皆がスパスパ葉巻を吸ったりする点もツッコミを入れたくなる。こういうところにこそSFファンはうるさい(=面倒くさい)のだ。全篇そんな調子なので解説にあるように「ハードSF」と呼ぶにはちょっとためらいがあるが、それでも40年ぶりに読み返してみて意外と面白かった。
SFファンからみて設定が決定的に弱い(甘い)と思われるのは、地球とミネルヴァで生物が並行進化したというくだりと、異星人の社会が歴史とともに進化したというくだり。社会制度に「進化」という概念をいれちゃダメだ。

『パイドン』プラトン 光文社古典新訳文庫
死を宣告されたソクラテスが獄中で弟子たちと交わす対話。快楽や苦痛により容易に影響を受ける「肉体」に対して、超越存在としてのイデアを希求する「魂」が存在することを「証明」し、また魂は「死ぬ」ことはなく(不死性)永遠に滅びることもないこと(不滅)を論証する。最後には肉体の死後に魂が向かう大地の下の世界の様子が語られ、日暮れと共に毒杯をあおいでソクラテスはその生涯を終える……。
「死」を通じて魂の永遠性に真正面から取り組んだ思想書としても、あるいはプラトン哲学の真髄をなすイデア論としても読み応えがある。また訳者・納富信留氏の50ページにも及ぶ詳細な解説は、時に回りくどいところもあるソクラテスの対話を精読するための良きガイドとなっていて、あちこち戻って読み返すのも愉しかった。
まあ色々と突っ込みたくなるところはあるけれども、それも含めてプラトンの本は錆びついた頭に適度な刺激を与えてくれるので好きなのだ。さらに古典新訳文庫は、なにしろ訳が平易で分かりやすいため、ストレスなく気軽に読めるのがありがたい。自分のように、趣味で哲学書をかじっているような人間にとっては、読みやすいのが一番大事なことなのである。

『形を読む』養老孟司 講談社学術文庫
著者は言わずと知れた解剖学者だが、本書のテーマは「生物の形態」について。①数学的・機械的な観点、②機能的観点、③発生的な観点、④進化的観点という、4つの見方で生物の様々な器官の形や構成について語られている。キュヴィエやトムソンらの研究、鰓弓動脈や耳骨と顎関節の構造比較など専門的な話はもちろん面白いのだが、著者の真骨頂はむしろ形態のもつ「客観的」属性を見い出し「意味」を定める観察者の主観に想いを馳せる哲学的なところにこそある。(そして先に述べた4つの観点こそが著者の「主観」にほかならない。)
本書の前半は形態学成立の背景や方法論の説明に当てられていて、比較的抽象的な議論が続くので少しとっつきにくいと思うが、章が進むにつれて尻上がりに面白くなっていく。読み終えてからまた最初に戻って読み返してみると、周到に描かれた「形」をめぐる本書の見取り図が見えてきて感心した。解剖学の即物性(生々しさ)と著者の高度な思弁性が相まって不思議な感覚が愉しめる本だった。
余談だが「形」といえば高山宏の「フィギュラリズム」がすぐ頭に浮かぶ。生物の形が想起させるイメージや社会的な意味についても、地続きで考察していけるとさらに愉しいのだろうが、残念ながら自分はそこまでの知見を持ち合わせていないのが残念である。

2020年1月の読了本

年末年始に充実した読書が出来た。この調子で今年もがんばろー。

『雨の国、夜の国』北野勇作 惑星と口笛ブックス
電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」から刊行された〈北野勇作二本立て〉の三作目。前半の「雨の国で」には四つ、後半の「騒がしい夜」には六つの掌編を収録する。いずれも雨と夜を題材にした不可思議な、それでいてどこか懐かしい話だ。電子書籍はこういう連作のような連作ではないような、そんな作品にとても合う形式ではないかと思う。

『雲』エリック・マコーマック 東京創元社
ハリー・スティーンなる語り手が出張先でふと見つけた『黒曜石雲』なる謎の古書。研究機関にその本の調査を依頼したことから、自らの生涯にまつわる咎と傷の記憶が展開してゆく……。
と書くとまるで「普通」の小説みたいだが、マコーマックなのだから当然一筋縄ではいかない。話中話が多くて、物語があちこちの枝葉に分かれてはまた戻る。読んでいるうちに、なにが本筋なのかわからなくなってくる。ミハル・アイヴァス『黄金時代』やデュマ『千霊一霊物語』にも共通する面白さがある。また物語が進むにつれて新たな人との出逢いがハリーをそれまでと違った世界へと導いていくわけだが、登場人物する全員がどこか偏執的な面をもっているため、読めばよむほど不安がかきたてられる。『パラダイス・モーテル』や『ミステリウム』ほどではないにせよ死と猟奇の香りも漂い、いかにも著者らしい作品といえる。(実際のところ84ページには「キャリック」という名前が出てくる。これは『ミステリウム』の舞台となった町の名前で、全住民が避難を命じられ町全体が封鎖されたという設定までそのまま。)ただ最終的には『黒曜石雲』の謎も解けて物語としてもきちんと(?)決着がついてしまうのは、これまでのマコーマック作品には無かったことだ。割り切れない部分を丸呑みにして愉しむのがマコーマックの醍醐味味だと思っているひとは少し拍子抜けするかも知れないが、しかしそれは贅沢というものだろう。たとえばエドワード・ゴーリーの絵本が好きな人であればきっと気に入ると思う。その意味ではマコーマックへの入門書として最適かも知れないとも思った。

『ブラック・トムのバラード』ヴィクター・ラヴァル 東宣出版
H・P・ラブクラフトの短篇「レッド・フックの恐怖」をモチーフにして、 ハーレムに住む黒人の若者チャールズ・トマス・テスターを主人公に語り直したクトゥルフ神話系ホラー。怪奇幻想の要素とアメリカ社会が抱える人種差別問題をうまく絡めて、迫力に満ちた物語を作り出している。2016年のシャーリィ・ジャクスン賞(中篇部門)を受賞したとのことだが、ラップ音楽から派生した「至上のアルファベット」や黒人音楽のエッセンスが、見てはならない世界を描くのに効果をあげていて、いい意味で“厭な感じ”が受賞作に相応しい雰囲気を醸し出している。同じ著者により書かれ世界幻想文学大賞を受賞した"The Changeling"もぜひ読んでみたい。
ところで本書は〈はじめて出逢う世界のおはなし〉という叢書なのだが、こんなのをはじめて出逢う一冊に選んで良いのだろうか。トラウマにならないか、あるいは道を踏み外さないか、いずれにせよ心配である。

『自分のなかに歴史をよむ』阿部謹也 ちくま文庫
中世西洋社会史の泰斗である著者が、中高生向けに自らの生い立ちと学問への想い、そして研究の成果を解りやすく語った本。前半はいわゆる阿部謹也版の青春記である。恩師である上西先生から教えられた、「それをやらなければ生きてゆけないというテーマを探すのですね」という言葉や、30半ばになって念願のドイツ留学を果たし、ハーメルンの笛吹き男伝説と出会ったときの衝撃。そこから中世の賎民研究を通じて「ひとつの社会における人間と人間の関係のあり方」や、ヨーロッパ社会の転換点となった11、12世紀ごろのキリスト教浸透による社会変化、はては昔の思想の痕跡を残すメルヘンの世界や音楽の歴史まで、その興味の対象と深い思索はとどまるところを知らない。中高生の頃にこんな本に出会えたら、どんなにか良かっただろうと思える一冊だった。この人の著作はどれを読んでもわくわくして面白いのだが、その秘密の一端が理解できたような気がする。それはおそらく研究対象に向ける眼差しの強さだったのだ。
「学問の意味は生きるということを自覚的に行う、つまり自覚的に生きようとすることにほかなりません(後略)」
「『解るということはいったいどういうことか』という点についても、先生があるとき、『解るということはそれによって自分が変わるということでしょう』といわれたことがありました。」などなど、時々はっとすることが書いてある。
中盤以降は30代半ばにドイツに留学した時の思い出と、古文書を直接読み解いていくことで得られた知見について書かれている。たとえば欧州の人々において贈与や互酬に関する感覚が日本のそれと大きく異なるようになったのは、11~12世紀ごろにキリスト教が社会の隅々まで浸透するようになってからとのこと。その結果、集落と外の世界あるいは人体と自然界といった、ミクロコスモスとマクロコスモスに基づく世界観がキリスト教的な宇宙に一元化されることになったらしい。また過去の人々が世界を見る目は現代の人のそれとは根本的に違っており、それはただ漫然と文献を読んでいても見つかるものではない。それが明瞭に示されているのは、実はメルヘン(魔法昔話)だったりするのだそうだ。非常に解りやすく且つスリリングな本なので、若者向けにちくまプリマーブックスで出せばいいのにと思ったら、なんと最初はちくまプリマーブックスから出ていた本だった。

『おちび』エドワード・ケアリー 東京創元社
のちにマダム・タッソーと呼ばれるスイス生まれの少女マリーの半生を描く、自叙伝の体裁をとった奇想天外な物語。歴史上の著名な人物たちが虚実入り乱れて織りなすエピソードは、山田風太郎の明治物やディケンズを連想させる。さらにマリーの圧倒的な生命力と周囲の人々の強烈な個性が相まって、中盤から先はページを繰る手が止まらなくなる。作者自身による個性的なイラストが添えられているのは〈アイアマンガー三部作〉と同じで、リーダビリティの高い作品をさらに愉快なものにしている。ストーリー自体は血と汚辱と暴力にまみれたもので、特にフランス革命下のパリのくだりなど決して「心地よさ」を保証するものではない。それでも嬉々として読んでしまうのは、怒りも喜びも悲しみも全てを呑み込んで流れてゆく波乱の都パリの魅力でもあるだろう。なにしろ描かれる人間模様が秀逸である。読者は安心して作者の企みに流されていけばよい。途中100ページあたりがどん底で、正直読んでいてつらくて仕方なかったのだが、ちっちゃいマリーの逆境に負けないバイタリティに元気をもらえた。強力な物語は力をくれるのだ。同じ著者の『望郷館追想』と『アルヴァとイルヴァ』もなんとか手に入れて読みたいものである。

『北村薫のうた合わせ百人一首』北村薫 新潮文庫
近代から現代に亘る短歌を、「季節の色」「少女のねむり」「まぼろし」「父逝きて」など、テーマ別に二組ずつ百首選んで紹介。「読み」のおもしろさとともに、思い浮かぶその他の短歌も自由気ままに挙げられて飽きさせない。後ろに収録された著者と二人の歌人(藤原龍一郎、穂村弘の両氏)による対談で藤原氏がいみじくも指摘されているように、本書は「普通の短歌の読み方を教える本」ではなく、「短歌だけでなく文学全般に興味がある人が、読者として想定されている本」であると思う。解説の三浦しをん氏と同じく自分も過去の名歌などまったく頭に入っていないのだが、それでも(だからこそ?)ひとつひとつの作品が沁み入るように入ってきて、散文を読むのとはまた違った脳の部位が働く感じが新鮮だった。
もちろん塚本邦雄や若山牧水などの有名な人の作品も収録されているのだが、自分が知らない歌人に出会えるのが愉しい。本書で収穫だったのは、石川美南、竹村公作、梶原さい子の三名の方を知ることができたこと。またどこかの本屋で見つける楽しみが増えた。(ネットで注文するのでなく、出来れば本屋で出会いたいものである)収録作では石川美南、竹村公作、梶原さい子といった方々の歌が気に入った。
ただ短歌や俳句の本は世界がぎゅっと詰まっていて読むのに時間がかかる。本書の巻末対談にもあったように「カルピスの原液」に近い。隠喩に象徴、韻を踏んだり省略したり。日本語のもつ可能性を目一杯愉しめるが、読み飛ばすことはできない。日常風景の一瞬を切り取ったような短歌も悪くはないけど、どうせなら思いもかけないイメージが広がるものが読みたいかな。その意味でフラワーしげるや石川美南の作風はとても自分好みだと思う。

『失われた地平線』ジェイムズ・ヒルトン 河出文庫
『チップス先生、さようなら』の著者による秘境小説。帯や裏表紙の紹介には「冒険小説」とあるが、自分にはそれよりトマス・モアに始まるユートピア小説の系譜に連なる作品に思えた。(あるいは東洋風に桃源郷小説といってもいいかも。)チベットの奥地にある謎の宗教施設シャングリ・ラに到達するまでのくだりはたしかに冒険小説らしくはあるが、本書の大部分を占めるのは、ラマ僧たちの暮らしぶりや施設の存在意義に関するコンウェイと大ラマとの会話などといった思索的な文章である。第一次大戦を経てある種の諦観に達した主人公コンウェイの性格造形も、「文明」や「戦争」を巡る思想実験の案内役として相応しいと感じた。
あくまでエンタテインメントとして読む場合には、教団の設立にまつわる奇想天外な秘密こそが重要であり、それが本書を『ユートピア』と同じような「ファンタジー」とする一番の理由となっている。小説としての面白さは他にも、本編をプロローグとエピローグで挟み込んだ「額縁構造」になっているところとか、決着をつけずに余韻を残して終わるところなどいくつもあるが、総じて当初予想していたより遥かに穏やかな物語だった。じつのところ文章自体は現代の小説に比べて形容が多くて回りくどいのだが、時期的には横溝正史の『鬼火』と同じ頃の刊行とのことで、そう考えるとかなりスマートな文章にも思えてくる。
それにしても本書には別の意味で驚かされた。まず『チップス先生さようなら』の著者による作品だったこと。つぎにシャングリラが「シャン・グリラ」じゃなくて「シャングリ・ラ」だったこと。(辞書で調べると"SHANGRI-LA"とある。)さらには映画化されており、しかも「ミュージカル仕立て」だったとのこと。はたしてどんな映画だったのだろうか。

『夢十夜』文・夏目漱石/漫画・近藤ようこ 岩波現代文庫
幻想小説の名作を見事に漫画化した作品の文庫化。漱石の洒脱と近藤氏のセンスが相まって、新たな作品として昇華されている。文庫なので字が小さいのが難点ではあるが(眼鏡を外して読んでいた)、最後にあとがき代わりの「第十一夜」が書下しで収録されていて、これまた軽妙洒脱で好かった。

『「ROEって何?」という人のための経営指標の教科書』小宮一慶 PHPビジネス新書
『図解でわかる会社の数字』花岡幸子 ちくま新書
どちらも会社の財務会計を経営指標を読み解くための一般向け解説書だが、前者は機関投資家や経営的な視点から、後者は個人投資家の株式投資の視点から書かれている。経理部門の実務担当ではないのでさほど専門的な知識が必要なわけでは無いが、知っておきたい人にはちょうどいいぐらいの本だった。半分ほどはおさらいだが、それでも知らなかったこともちらほら。特に前者の方はいい。『人事屋が書いた経理の本』と併せて読めば、財務会計と管理会計の入門として充分なのではないだろうか。しかし工学部の電気系が専攻だった自分がこんな本を読むことになるとは。30年前の自分に言っても絶対信じないだろう。
あと、この2冊を読んで改めて思ったのは、いくら決算資料や財務諸表を読んでも、その企業株を買うべきか売るべきかなんて外からは絶対わからないということ。数年単位の上がり下がりなんていくらでもあるし、本当は20年ぐらい持たないと意味がない。しかしれぐらい経つと、社会環境の変化や技術革新で脱落していく企業も出る。(家電メーカーのここまでの凋落など昔は想像すらできなかった。)資金を山ほど抱えた機関投資家が複数の株を運用してリスクヘッジするぐらいしかないのではなかろうか。

『アラバスターの壺/女王の瞳』ルゴーネス 光文社古典新訳文庫
19世紀末から20世紀前半にかけて活躍したアルゼンチンの詩人・作家レオポルド・ルゴーネスの幻想短篇を18篇収録した作品集。馴染みのない名前だが、帯にある「ボルヘス、コルタサルと並ぶラプラタ幻想文学の巨匠」という惹句に惹かれて手に取った。一読した印象は想像していた以上に古風で、E・A・ポーや『死都ブリュージュ』のG・ローデンバックなどに近い。いやむしろ科学知識への言及からすると『失われた部屋』や『金剛石のレンズ』のフィッツ=ジェイムズ・オブライエンの方かもしれない。内容はいずれも思い切りど真ん中の幻想小説であり満足がいった。訳者の大西亮氏による45ページにもおよぶ解説とあとがきも、年譜と合わせて著者の生涯や作風、あるいは作品解題まで余すところなく書き込まれて圧巻である。(ディック『ヴァリス』の大滝啓裕による解説をちょっと連想した。)なおボルヘス編〈バベルの図書館〉にも『塩の像』なる短篇集が収録されているとのことなので、そのうち読んでみたい。

『タボリンの鱗』ルーシャス・シェパード 竹書房文庫
以前に同文庫から出た〈竜のグリオールシリーズ〉の作品集の第二弾で、表題作と「スカル」の2つの中篇が収録されている。バラエティに富んでいて比較的万人受けする話が多かった前作に比べ、本書ではいかにもシェパードらしい残酷さと幻惑が全編を彩り、グリオールの邪悪な意思が猖獗を極める。ルルフォ『ペドロ・パラモ』やリャマサーレス『黄色い雨』などに心惹かれる人であれば愉しめると思うが、暴力や性描写が露骨に示されるのでつらい人もいるかも知れない。個人的には、シェパードは昔はあまり面白いと思わなかったが、最近は逆にとても面白く感じるようになった。それはストーリー自体と、文章が示すことに乖離があるからではないかと思っている。 ねじくれてあちこち横道に逸れる文章を豊潤ととるか、あるいは、まどろっこしいととるか。また、シェパードにはとてもいやな話が多い。面白くないわけではなく、ただ読み進むのが厭なのだ。(念のために補足しておくと、「面白い」と「厭」は両立する)本作もそうで、ストーリーだけ書き出すと大変に面白いのだが、実際に読むととても厭。でも面白いからついつい最後まで読んでしまう。そしてそれぞれのエピソードの意味を考えてしまうのだ。すごく雑な喩えであるが、シェパードは湿ったJ.G.バラードなのではないだろうか。バラードは徹頭徹尾「乾いて」いるので、グネグネした展開が苦にならない、というか逆に魅力である。一方でシェパードのもつ湿り気の正体はある種の神秘主義。此岸と彼岸を前提とした展開は魔術的リアリズムと呼ばれた所以であろう。そしてグリオール連作では超自然的存在は竜の形で顕現している。(あるいは不可知の壁として。)
すなわちこの世界においてグリオールとは、まさしく眼前に存在する「神」なのである。しかも慈愛ではなく残酷をもって支配する神。スタニスワフ・レムの諸作品を引き合いに出すまでもなく「神」を描くというその一点において、〈竜のグリオールシリーズ〉は正当なる「SF」と呼べるのではないだろうか。個人的には「タボリンの鱗」ラストの圧倒的な迫力と、「スカル」後半の途切れることのない緊迫感に感服した。こういう小説に出会えることが、いわゆる「SF読み」としての醍醐味ではないかと思うのである。まずは本書を世に出してくれた訳者の内田昌之氏と竹書房にあつくお礼を申し上げたい。そして出来ることならば、残る一篇も無事に訳されますように。

『ゆめこ縮緬』皆川博子 角川文庫
ミステリ/時代小説/幻想小説とジャンルを超えて傑作を書き続ける巨匠による、八つの幻想小説を収録した短篇集。ここに広がるのは、大正から昭和初期にかけての古き日本を舞台にした闇と情念の世界。隠花のようにひっそりと生きる人々の哀しみと郷愁。湿り気を帯びて密着してくるような気味の悪さが巧い。こういう濡れた感じの耽美は本来さほど得意な方ではないのだけれど、語りのうまさでつい読んでしまう。氏の描く幻想は現実の外に確固として存在する「異界」ではない。それは遠き日の朧げなる記憶であり、微かなる夢としての幻想でもある。まさしく「日常のうわっつら」をなぞる代わりに「不可思議な霧のなか」を映し出したものなのだ。本書に収録された作品も例えば橋に囲まれた中洲であったり西條八十の詩集『砂金』であったり、それぞれが様々に重なり合うイメージでつながって、美しくも儚い世界を作り出している。じっとりと湿り気を帯びたような小説は実はあまり得意ではないのだが、本作についてはただひたすらに圧倒され読み食らうばかりであった。
中で特に好きなものを選ぶとすれば「文月の使者」「青火童女」の二作になるだろうか。しばらく夢に出てきそうな、そんな作品集であった。
最新記事
カテゴリ
プロフィール

舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

最新トラックバック
FC2カウンター
最新コメント
リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR