2017年7月の読了本

『堆塵館』エドワード・ケアリー 東京創元社
ロンドンの郊外に広がるゴミの山、。そしてその彼方にそびえ建つのはアイアマンガー一族の巨大な屋敷「堆塵館」。あらゆるごみを統べるアイアマンガーの血に秘められた秘密は、赤毛の少女ルーシーが館を訪れた時に大きなうねりとなって動き出す……。久しぶりに「物語」の面白さを堪能できた気がする。登場人物たちがことごとくどこかおかしいところとか、物の声が聞こえる主人公クロッドだとか、なんだかもう堪らない。著者による挿し絵も味があって良い。少年向けに書かれた物語らしいが、こういうのを読みたい大人だって多いんじゃないか。というより物語を読むわくわくを忘れた大人にこそ読んでもらいたいと思う。ツイッターで先に読み終わった人たち感想を見ていると、皆さん口々に「えっ、ここで終わるの?!」とつぶやいていたのだが、その理由が自分にもやっと解った。映画館で『スターウォーズエピソードⅤ 帝国の逆襲』を初めて見たときを思い出してしまった(笑)。これはもう三部作をぜひとも全部出してもらって、最後を見届けないことには落ち着かない。途中でストップすることがないように是非皆さんも買っていただきたい。後悔はきっとしないから。

『穢れの町』エドワード・ケアリー 東京創元社
アイアマンガーの二作目。本作では舞台が堆塵館から「穢れの町」ことロンドンはフォーリッチンガム区へと移り、クロッドとルーシーの冒険は続く。アイアマンガー一族と町の人々に運命の時は迫る。クロッドよ急げ!続きはまだかあ!(帯によると12月には出るらしいので、どうやら物語の結着を見届けることはできるらしい。まずはひと安心だ。)

『龍宮』川上弘美 文春文庫
様々な人“あらざるもの達”との交流を描いた八つの幻想譚。ある時は彼ら自身により、またあるときは同じ屋根の下に住む者たちによって、茫洋とした日常の中に密かに息づく胡乱(うろん)なものたちの姿が語られていく。ひとつ付け加えるならば、たしかに幻想譚ではあるのだけれど、主眼はどちらかというとシチュエーションの不思議さではなく、奇妙な人物たちとのコミュニケーションにある感じだ。(漱石の『夢十夜』でいえば第四夜、おかしな爺さんが「蛇になる、きっとなる」という話に近いかもしれない。)ちょっと背徳的で、官能的な雰囲気もして面白い。イメージが美しい「轟(とどろ)」と「島崎」が特に気に入った。

『引き裂かれた自己』R.D.レイン ちくま学芸文庫
偽の自己を肉化して世界と対峙することで「真の自己」を護る“超越的な戦略”をとる統合失調気質の人々。彼らの特質を現象学的に分析し、その帰結としての統合失調症の理解へとつなげようとする試みの書。もちろん本書の分析は全ての症例に当てはまる訳ではなく、著者によれば破瓜型、緊張型の慢性統合失調症に当てはまるものであっても、妄想型をはじめとする他の慢性精神病を包括するものではないとのことだが、それでも内容については納得できる。今読んでも充分に面白く、本書が書かれた1960年にはきっと画期的な研究だったのではないかという気がする。現象学の精神分析の分野における実践としても、あるいは精神病治療への(当時の)新しい取り組みとしても、どちらの見方をしても興味深く読めた。
もしも本書にあるように自己同一の感覚を持つには他者による認識や世界との関わりが必須なのだとしたら、本当に人間らしいAIがもしも作られたとしたら、外部との充分な関わりを持てず統合失調症的になってしまうということはないのだろうか。

『鏡の前のチェス盤』ボンテンペッリ 光文社古典新訳文庫
1922年に出版されたイタリア発の幻想物語。鏡の中に入り込んだ少年が体験する奇妙な世界は確かにキャロルの〈アリス〉を連想させるが、自分としてはむしろアボットの『二次元の世界』をイメージさせられた。トーファノによる挿絵も愉しい。本篇は120ページほどしかないが、その後に訳者の橋本勝雄による著者ボンテンペッリと挿絵画家トーファノ、そして登場する様々なモチーフについての詳細な解説が付くのはありがたい。ちなみに馴染みのないボンテンペッリなる著者、他の作品としては『怪奇文学大山脈Ⅱ』に収録されているものがあるとのこと。昔読んだのにすっかり忘れていた。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』フィリップ・K・ディック ハヤカワ文庫
逃亡アンドロイドを始末する"賞金稼ぎ"デッカードと"ピンボケ"のイジドアという二人の人物を軸に、ディック世界の要素を惜しげもなく放り込んだ代表作のひとつ。ストーリー的には逃亡アンドロイドを追うデッカードがいかに任務を果たすかが中心となるが、テーマとしてはイジドアの方もかなり重要。そしてマーサー教という新興宗教と電気動物という偽物の命、アンドロイドと人間たちの中で生の意味を問いかけてくる本作は、彼の処女作である非SF作品『市に虎声あらん』にも重なって見えてくる。読書会のために久しぶりに読み返したのだが、思いのほか面白かった。

『中世の窓から』阿部謹也 ちくま学芸文庫
ニュルンベルクに住む人々の暮らしをのぞき窓のようにして、中世キリスト教社会を活写するエッセイ。そこから見えてくるのは様々な庶民の生活や生業であり、貨幣経済の勃興と贈与の世界観のせめぎ合いからユダヤ人排斥や異端思想の歴史まで幅広い。激動の中世に興奮する。
まず冒頭のニュルンベルクとハンブルグの二都の対比が面白い。神聖ローマ帝国の帝都であり富める商人の街と、裸足の聖者・聖ゼバルドゥスの清貧というふたつの側面を持つニュルンベルク。対するはエルベ河畔に建ちハンザ同盟に所属した自由都市。氏の筆により中世ヨーロッパがいきいきと躍動する。ちょっと京の都(あるいは大坂)と堺を連想したりもした。また中世ヨーロッパで市(いち)がアジールだった理由として、当時の遍歴商人たちが森や街道では盗賊に早変わりしていたからではないかという指摘にはびっくり。なるほど、そういう考えもあるわけだな。
キリスト教は、それまでの欧州の習慣であった「物理的な対象物を介在させた贈与」では返済不可能な、「死後の救済」という贈与を与えることで絶対的な優位に立ったという指摘も面白い。そしてやがて貨幣経済の成立によって富を蓄積させた当時の教会に対し、それまでと異なる「貨幣を媒介とする人間関係」に戸惑い悩む人々が霊的な思いを純化させ、ヴァルド、カタリ派などの異端派が生まれたという推察もなかなか。
あと個人的には、オイレンシュピーゲルのいたずらがもつ社会的背景の数々が興味深かった。なぜあのいたずらが当時の人たちにとって痛快だったのか。(それは例えば親方に対するやっかみだとか、特権に対する恨みつらみだとか。)単なるいたずらではなかったわけだ。まあ、汚らしいことに違いはないが(笑)いやあ楽しい一冊だった。

『四角形の歴史』赤瀬川原平 毎日新聞社
〈こどもの哲学 大人の絵本シリーズ〉の一冊。「犬に風景は見えているのか?」という疑問に始まり、風景画の歴史から絵の誕生、そして自然界における直線や四角形の発見まで、著者が自らのユニークな哲学を開陳する。赤瀬川氏の本はいつも読み手を煙に巻くような曖昧さが好い。中国拳法に喩えるなら八卦掌みたいなものか。摺り足で泥の中を進むような技にいつの間にか転ばされている。

『路上探検隊 讃岐路をゆく』路上観察学会/編 宝島社
赤瀬川原平・藤森照信ら路上観察学会のメンバー(赤瀬川原平/藤森照信/南伸坊/林丈二/杉浦日向子/松田哲夫/井上迅の全7名)がはるばる香川へと赴き路上観察を行った記録。トマソン的な"変なもの"を収集する赤瀬川氏に対して建築史的な視点で面白物件を探し出す藤森氏など、見るポイントはそれぞれ違えど、共通するのは「面白がり」の視点だ。読んでいるうちにこちらも粋な遊びにいつのまにか首までつかっている。自分の写真趣味の原点は路上観察学会やトマソンにあるのが再確認できた。

『メッカ』野町和嘉 岩波新書カラー版
ラマダン期間中のメッカおよびメディナの様子をカメラに収めた写真集『メッカ巡礼』の撮影裏話とともに、ムスリムになった著者の信仰告白や、イスラム過激派など現代アラブ社会が持つ問題まで幅広く語る。異教徒立入禁止の場所の写真はなにしろすごい。まさかメッカやメディナの様子が見られるとは思わなかった。以前、『増補 モスクが語るイスラム史』(羽田正/ちくま文庫)を読んでいたので、本書で語られているモスクの内部構造が判ってよかった。
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『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』フィリップ・K・ディック ハヤカワ文庫

言うまでもなくディックの代表作のひとつで、一度聞いたら忘れない印象的な題名もさることながら、『ブレードランナー』としてハリソン・フォード主演で1982年に映画化もされている有名作。逃亡アンドロイドを始末する"賞金稼ぎ"リック・デッカードと、模造動物店につとめる"ピンボケ"のイジドアという二人の人物を軸に、知性と人間性、信仰と共感といった著者の文学を構成する要素が惜しげもなく放り込まれる。憂鬱な日常と人類の黄昏を描いたディック特有のカリカチュアだ。
自分が本書のことを初めて知ったのは、子供のころに読んだSF小説のガイドブック『SF教室』(筒井康隆著)でのこと。たしか「ニューウェーブSF」の仲間として紹介されていたこともあって、始めから思弁的な部分に着目して読んだような記憶がある。だから『ブレードランナー』で暗く格好良いアクション映画になったのを観たときは、なんだか違う作品のような感じがした。(もちろん自走歩道やチューブ式列車といったピカピカの未来都市ではなく、雨が降り薄汚れた人々が暮らす未来都市という生まれて初めてみる光景に一発でノックアウトされてしまい、映画は映画として大のお気に入りなのではあるが。)
実は本書を再読したのは数十年ぶりになる。近々ある読書会のために読み返したのだが、うすぼんやりとした全体の印象はともかくとして、細部はすっかり忘れてしまっており、今回あらためて新鮮な眼で読むことができた。この記事も読書会に備えて一種の備忘録として書いているので、多少とっちらかった文章になるかも知れないが、ご容赦頂きたい。

さてそれでは、映画版ではなく小説版の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』について。舞台は最終戦争の放射能に覆われ塵と静寂に暮れゆく地球。惑星移住の夢も絶たれあとに残された人々は、新興宗教である「マーサー教」を信じ、「共感(エンパシー)ボックス」を通じてマーサーおよび他の人々との「真の融合」を求めようとする……。まずこの設定を読んで驚いた。ポストホロコースト物だというのをすっかり忘れてしまっていたのだ。
そして次に驚いたのはデッカードよりもむしろイジドアが真の主人公ではないかとすら思えたこと。ストーリーとしては、逃亡アンドロイドを追うデッカードが悩みながら任務を果たすまでを描いたものであって、イジドアはそこに少し絡む脇役のような扱いでしかない。しかし今回読んだ感じではアンドロイド狩りの部分よりもむしろマーサー教の方が印象深く、そしてイジドアはその点からするとデッカードより重要な役回りをしているようにも見えたのだ。しかし最後まで読むと、この両者がいて初めてテーマ的にも本書が成り立つのが納得できたのではあるが。
このマーサー教という代物が非常に胡散臭くて、また面白い。『死の迷宮』や『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』、あるいは『高い城の男』などに共通するような著者独特の神学、もしくは『ヴァリス』などにも共通する異様で哀しい救済に連なる思想として。なるほど大学生の時に読んでいまひとつ乗り切れなかったわけが判った。当時はデッカードのみの視点で読んでいたのだろう。
なお本書でイジドアやデッカードが口走る「キップル」という概念の正体がいまひとつ分からない。本書では勝手に増殖する「役に立たないもの」のことだとされているが、要はエントロピーみたいなものではないかとも思われる。なにしろ『火星のタイムスリップ』の「ガブル」「ガビッシュ」、あるいは『ユービック』にも共通する不気味さがあって、山を登りつづけるマーサーの姿とともに本書の大きな魅力になっている。(根拠はないがディックはきっとエントロピーというものが嫌いだったのではないだろうか。)
またマーサー教がニセモノの宗教であることが暴露されているが、それがこの当時のディックの心の健全さを示しているようでちょっと悲しい。そして本書においては人間にとってかけがえのないものである感情さえも、「情調(ムード)オルガン」という機械を使うことでいくらでも人工的に調整が可能だというのが、シニカルなディックの健全さを示しているようでまた皮肉だ。本書の中でもっとも大切とされる人間の価値が感情移入(共感)であることが、やがてディックがヴァリスを生み出さなければならなかったのに繋がっているのではないのだろうか。あともうひとつ本書で異様に感じたところは、アンドロイドが容赦なく排除の対象となっていところ。人間と同等もしくは人間より優れた存在(シミュラクラ、ニセモノ)が排除の対象になる描写は著者の他の作品にもよく出てくるが、これってもしかしたら作者の不安の現れなのではないかと思う。

マーサー教という偽物の宗教と電気動物という偽物の命とアンドロイド。そしてその中で見える生の意味。絶望の末に妻イーランとの明日を見い出すデッカードの姿は、彼の処女作である文学作品『市(まち)に虎声あらん』で描かれハドリーの姿と重なって見える。実存的な悩みを抱え、意味もなく自暴自棄な行動に出る両者の姿といい、取り返しのつかないダメージを受けてもまた明日はやってくるという、明るいのか暗いのか判らない(笑)終わり方といい、かなりの部分で本書は『市に虎声あらん』に共通しているのではないか、というのが今回再読しての印象だった。SFとして収まりの悪い部分も含めていかにもディックらしい作品といえるだろう。
他の方ははたしてどのように本書を読まれたのだろうか。

『ヒドゥン・オーサーズ』西崎憲/編 惑星と口笛ブックス

作家、翻訳家にアンソロジスト、そしてミュージシャンなど、数多くの肩書きを持つクリエイター西崎憲氏が新しく立ち上げた電子書籍のレーベル〈惑星と口笛ブックス〉。本書はそのレーベルの記念すべき第1回配本にあたり、大前粟生氏の短篇集『のけものどもの』と同時発売されたオリジナルアンソロジーだ。小説だけでなく詩や短歌、俳句など様々なジャンルの作品を収録しており、しかもどれもが従来の商業枠にはとても収まりそうにない“尖った”作品ばかり。よほど気をつけないと本屋では見つけられないような類いの作品がごろごろ入っていて、次にどんなものがくるのか予想もつかないスリルがあるが、それでいてどれも独特の面白さがある。小説と詩歌が混在しているのも好くて、円城塔やフラワーしげるを探して歩いていたら森の奥に群生していた感じと云えばわかる人にはわかるだろうか。ショーケース的な作品集と言っていいかもしれない。
どちらかといえば小説の方が尖り具合が激しい気がするのは、きっと自分が詩や短歌、俳句の世界に明るくないからだろう。ちょっと難しいが、本書がどんな風に“尖って”いるのか説明してみたい。例えば一般的な小説の場合、読者が住む現実の世界とフィクションの世界をつなぐために、錨(いかり)に当たるようなものがあるのではないかと思う。それはSFのように奇想天外な小説でも同じであって、どんな未来であっても主人公の感情や彼が依って立つ論理体系は今の我々の世界の延長で理解できるものであることが多い。実験小説でも同じことだ。すべての約束事が崩壊して完全に現実世界との接点が絶たれてしまっている文章では、そもそも小説として成り立たない。(少なくとも我々が理解して愉しむための小説としては。それはアンチ・ロマン小説であっても同じこと。面白いかどうかは別にして、書かれている内容自体は充分に理解できる。)
しかし本書に収録された作品(とくに小説)をつらつら眺めてみると、論理や登場人物の情感、世界律などが読者の常識とずれているものが多く、いわゆる「普通」の小説を期待する者には取り付く島がないものも多い。我々の住む世界とは全く繋がりのない世界で異質な人々が紡ぐ物語。共通するものがあるとすれば、唯一彼らが感じる情動ぐらいなものだ。しかも読んでいて面白い。少なくとも自分には読んでいて愉しかった。「初めてなのに美味い」と感じるのはなんだか不思議な経験。(もちろん口に合うかどうかは人によると思う。不味いと思う人も当然いるだろう。)スタニスワフ・レムの作品を読んでいると時に「物語の限界」が奈辺にあるかをつい考えてしまったりするのだが、ここに集められた作品もある意味「小説の極北」を示すものであるかも知れない。受け入れるか拒絶するかの二者択一で読み手を試すような気配が感じられる。同様に西崎氏の編集によって書肆侃侃房から出版されている一般文芸誌の『たべるのがおそい』にも通じる空気があるが、あちらの方が口当たりがよい感じがする。

と、ここまで書いてきてふと思ったのだが、これはもしかしたら食べ物に喩えるなら「名古屋の味」に近いのかもしれないね。味噌煮込みうどんを普通のうどんだと思って食べるから生煮えの「不味いうどん」に思えるのであって、「味噌煮込み」という別種の料理だと思えば素直に味わうことができる。味噌カツだってあんかけスパゲティだって同じことだ。あるいはホヤやナマコや酒盗みたいなものかも知れない。万人受けするものではないが熱心な愛好者をもつ。電子書籍という形態はまさに産地直送の通販なわけで、こういったものを継続して供給するにはもってこいのような気がする。(となれば好き嫌いがあるのは当然であろう。)これだけ冒険的な作品を誰もが手に取れる形で世に出せたのは、まさに電子書籍であればこそだと思う。ちゃんとした形で電子書籍を読んだのは実は初めてだったのだが、色々と苦労した甲斐があった。それにしてもこれだけの濃さとレベルからしても定価700円というのは非常に安いと思う。紙の書籍なら配本数が少ないので見つけるまであちこちの書店を駆けずり回って、悩みながら3000円ぐらい出して買う自分の姿が容易に想像できてしまう。
収録作はどれもわくわくしながら読んだが、特に自分好みだったものを順に挙げるとするなら次のものだろうか。

大滝瓶太「二十一世紀の作者不明」
斎藤見咲子「マジのきらめき」
大原鮎美「月光庭園」
野村日魚子「夜はともだちビスケット」
ノリ・ケンゾウ「お昼時、睡眠薬」
伴名練「聖戦譜」
岡田幸生「『無伴奏』抄」
深沢レナ「芋虫・病室・空気猿」
深堀骨「人喰い身の上相談」

ぜひ他の方の感想も聞いてみたいものだ。
しかし西崎憲さんの文学アンテナの感度と編集の手腕、そして実行力にはほとほと感心してしまう。願わくば氏の創作も、これ以上のペースでたくさん読めますように。

2017年6月の読了本

『死せる神々 ロシア幻想短編集III』A.アンフィテアトロフ他 アルトアーツ
20世紀初頭のロシアに花開いた幻想文学の系譜を紹介するアンソロジーの第3弾。バラエティにとんだ6つの短編を収録する。一般書店で売っているものではないので通販を利用したのだが、一昔前なら絶対に入手できなかったような作品が読めるのはネット時代のいいところだと思う。収録作品の中ではケン・リュウの中国ファンタジーを思わせる「オパール」や、ただひたすら圧倒される「沈黙」が好かった。

『里山奇談』coco/日高トモキチ/玉川数 角川書店
いわゆる「異界」である山や川辺を訪れた人々が体験した奇しい話の聞き語り集。ページをめくると目の前に不思議な世界が広がってゆく。柳田國男や柴田宵曲、根岸鎮衛『耳嚢』などが好きな人はかなり気にいるのではないか。たんに怖いというより「畏れ多い」と言った方がしっくりくる。実話系遠野物語とでも呼べば良いだろうか。マタギの人たちに山奥での体験を聞いた『山怪』も面白かったけど、こちらは舞台が里なのでよけい身近に感じる。いたずらに怖がらせようとするのは興ざめだけど、こういうのは好きだ。

『奇妙で美しい石の世界』山田英春 ちくま新書
本業の装丁家としてだけでなく瑪瑙コレクターとしても広く知られている著者が、「模様の美しい石」の数々に関する様々なエピソードをカラー写真とともに紹介した本。風景画のように見える「風景石」や樹木のように見える石など、収録された写真はどれもたいへんにとても美しい。それにしても瑪瑙がこんなにきれいな石だとは知らなかった。語られている薀蓄も愉しい。たとえば「中国で、美しい石「玉(ぎょく)」といえば翡翠だが、日本で「玉」といえば、まず瑪瑙やジャスパーなのだ。「玉川」と名がつく川は上流から瑪瑙などの美石が流れてくる川であることも多い。」世界を広げてくれる本は読んでいて愉しい。

『ブローティガン 東京日記』R.ブローティガン 平凡社ライブラリー
『アメリカの鱒釣り』や『西瓜糖の日々』といった作品で有名な作家・詩人の著者が、1976年5月から6月30日までの東京訪問時に書き留めた詩をまとめたもの。全く馴染みのない文化、言葉すら通じない異国でひとり過ごす寂しさと見知らぬものへの興味を独特のリズムで描きだす。布団の中でぱらぱらとページをめくっていると、ついうとうとしてしまう。ブローティガンは読んでいて気持ちいいのだ。
「ねむりのないねむりのあとに ふたたびねむる ねむること なく」(「ぼくのベッドを見る/午前三時」)

『星の子』今村夏子 朝日新聞出版
わが子の病気をきっかけにして「あやしい宗教」にのめりこんだ両親。娘の目を通して彼らの日々の生活が淡々と語られる……。いつも氏の作品ではいびつな人間関係を通してぞわぞわと心を逆なでにされる。無事に毎日を送りたければ気づいてはならないことがある。気付けば耐えられなくなるから。描かれぬものこそが雄弁に語りかけてくて止められない。
描かれているのはひと言で言えば「しあわせ」と呼ばれるものなのかもしれないが、それはよくあるように健やかな状態が失われて感じられるといった安直な描き方ではない。どこまで歪めてもそれを「しあわせ」と呼ぶことができるのか、ぎりぎりの判断を強制する。そして極限まで歪んだ「しあわせ」は、そのまま「不気味の谷」と化して読者にせまってくる。このあたりは同じく「痛み」をテーマとするアンナ・カヴァンの作風とも違っている。なぜならカヴァン作品の語り手は自らの不幸を直視しているから。そう考えると今村作品はカヴァンよりもある意味さらに残酷な物語と言えるかもしれない。

『夜の夢見の川』T・スタージョン、G・K・チェスタトン他 創元推理文庫
翻訳家・アンソロジストの中村融氏による〈奇妙な味〉の作品を集めたアンソロジーの第2弾。恐怖あり不思議あり余韻ありの好作品集で、前作『街角の書店』よりさらに薄暮から暗闇にかけての気配が強まった気がする。(なにしろ冒頭の「麻酔」には度肝を抜かれた。)
「麻酔」「バラと手袋」「お待ち」の後味の悪さに「終わりの始まり」「ハイウェイ漂泊」「銀の猟犬」や「心臓」「怒りの歩道」の不安な気持ち、「アケロンの大騒動」と「イズリントンの犬」のユーモアに「剣」と表題作の底知れぬ怖さ。何れ劣らぬ十二の秀作揃いで“ほの昏い”読書が堪能できた。

『少年十字軍』マルセル・シュウォッブ 王国社
シュウォッブは一部に熱狂的なファンを持つ作家。本書は彼の『黄金仮面の王』『二重の心』という二つの初期作品から厳選して訳出した短篇集で、ポーやダンセイニ、ヴァーノン・リーなどに共通する幻想と衒学と愉しさに溢れている。休日にパスタとワインの昼食を摂って、午後の風に吹かれながらリクライニングチェアで本書を読んだらまさに至福の時間だった。特に好みだったのは「黄金仮面の王」「大地炎上」「リリス」「少年十字軍」。ちなみに訳者の多田智満子氏はアルトー『ヘリオガバルス』やユルスナール『東方綺譚』など手がけられていて、格調高い訳文も好かった。

『花の命はノー・フューチャー』ブレイディみかこ ちくま文庫
イギリスの港町ブライトンで労働者階級の連合いと暮らす著者による強くて痛快なエッセイ。氏が語るのは「逆境」が世代を越えて受け継がれるクラスタで暮らすということ。センチメンタルな気持ちなど吹き飛ばして生きる姿はパンク。読んでいて気持ちがいい。
「『そんなに未来に希望が持てないのなら、生きる甲斐がないじゃないか』と言われることがよくある」
「最後には各人が自業自得の十字架にかかって惨死するだけの人生」
「それでも(中略)生きようとするからこそ、人間の生には意味がある。そういう意味だったら、わたしもまだ信じられる気がする」
それにしてもシモーヌ・ド・ボーヴォワールに雨宮まみ、こだまに笙野頼子、そしてチママンダ・ンゴズィ・アディーチェにブレイディみかこと、読むと無性に何かを語りたくなる本の著者がきまって女性というのは、きっと何か意味があるという気がする。

『東方綺譚』マグリット・ユルスナール 白水uブックス
東方の地を舞台に著者が自在に想像を膨らませて描いた九つの物語。多田智満子氏の美しい訳文が幻想的な雰囲気を一層かきたてて素晴らしい。冒頭の「老絵師の行方」と掉尾を飾る「コルネリウス・ベルクの悲しみ」がとても気に入った。

『本棚探偵 最後の挨拶』喜国雅彦 双葉文庫
ハードカバーでも読んだのだが、文庫になったのを見かけたらつい買ってしまった。人気ギャグ漫画家による古本とミステリをテーマにしたエッセイの第四弾。著者は本書で日本推理作家協会賞を受賞した。この巻で一旦打止めとのことでちょっぴり寂しい気持ちがするが、でも読み返したらやっぱり面白かった。「文庫本のためのあとがき」も新たに書き下ろされているのでお買い得。

『むずかしい愛』カルヴィーノ 岩波文庫
境遇も性別も様々な人々による「冒険」を通して、人との触れ合いの不在と、そしてそんな世界で生きていくということの一瞬を照射する。カルヴィーノの作品ではときどきハッとするような文章にぶつかる。といっても大上段に構えた警句とかではなく、わけのわからなさにどきっとするのだ。たとえば「幸福とはウズネッリにとって、宙ぶらりんの状態、息を殺して生きるようなものだ」とか、あるいは「彼は藤の花をながめていた。いかにも藤の花のながめ方を心得ているといった様子で、かれは藤の花をながめていた。」といった文章。やはりどう考えても変だ。カルヴィーノの魅力はもしかしたらこういった「わけのわからなさ」にあるのかも知れない。最初はすこし戸惑ったが、後半の「ある読者の冒険」からツボに入った。「ある夫婦の冒険」「ある詩人の冒険」「あるスキーヤーの冒険」の流れはちょっと奇跡っぽいとさえ思う。
(SFファンのための追記:ふと思ったのだけれど、本書のテーマである「愛(=コミュニケーション)」の不在や不可能性は、スタニスワフ・レムの『エデン』や『ソラリス』といった作品と共通するところがあるかもしれない。)

『ヒドゥン・オーサーズ』西崎憲/編 惑星と口笛ブックス
ついにでた電子書籍オリジナルの叢書〈覚醒と口笛ブックス〉の第一弾。(大前粟生氏の短篇集『のけものどもの』と同時発売。)同じく西崎氏の編集で書肆侃侃房から出ている文芸誌『たべるのがおそい』と同様に、小説だけでなく詩や短歌などジャンルミックスの作品集となっているが、こちらの方がより「尖がって」いるような気がする。たとえば冒頭の作品は、我々の住む世界とは全く繋がりのない(因果律も異なる)世界で、異質な人々が紡ぐ物語。もしも我々自身と共通するものがあるとすれば、それは 唯一彼らが感じる情動ぐらいなものなのだ。こんな調子で最初から最後まで、読んだことがないような作品が続く。従来の商業枠には収まりきれない作品を収録したショーケース的作品集といえるだろう。
特に好みだった作品は、大滝瓶太「二十一世紀の作者不明」、斎藤見咲子「マジのきらめき」、大原鮎美「月光庭園」、野村日魚子「夜はともだちビスケット」、ノリ・ケンゾウ「お昼時、睡眠薬」、伴名練「聖戦譜」、岡田幸生「『無伴奏』抄」、深沢レナ「芋虫・病室・空気猿」、深堀骨「人喰い身の上相談」あたりだろうか。

2017年5月の読了本

出張に行く機会が増えたことも大きいが、だんだんと読書ペースが戻ってきて嬉しい。好きな本を好きなタイミングで読めるしあわせを噛みしめている今日この頃であるね。

『ハイン 地の果ての祭典』アン・チャップマン 新評論
20世紀初頭まで南米パタゴニアに暮した原住民族セルクナム族。彼らが伝えていた男子の成人儀式「ハイン」の様子とその宇宙観について、人類学者でもあった神父グシンデの貴重な写真と記録を基にして著者がまとめた本。
儀式の中心となるのは成人男性が演じる様々な精霊たち。精霊は天を表すものと地から湧き出るものの二種類に分かれており、いずれも赤・白・黒の三色に塗り分けられた身体と奇怪な仮面で表現される。精霊の異様な姿と不思議な儀式の描写に魅了される。白人の入植と麻疹の流行で彼らの社会は今はもう崩壊してしまっており、儀式でもあり演劇でもあったハインの記録をこうして残す事ができたのは良かった。
彼らの社会は極端な男性権力型で、それを正当化するために伝えられていた神話がまたすごい。遥かな昔、彼らの社会は今とは逆で女性シャーマン「月」が支配する極端な母権制であり男たちが革命により勝ち取ったとされる。(まるで映画『猿の惑星』をみているようだ。)男たちの一斉蜂起で女の世界が一夜にして滅び、後に残ったのは秘密結社により受け継がれるミソジニーと男性支配の構図。まあこのような文化が今に受け継がれなくて良かったのかもしれないが、本で読んでいる分には大変に興味深い。異様な精霊たちの姿と相まってまるで物語を読んでいるような感覚に陥いってゆく。いろんな意味ですごい。
最後まで読んだら地元の話題がでてきて驚いた。この貴重な記録や写真を残したマルティン・グシンデ神父は、その後1959年に南山大学に教授として赴任して人類学研究所の設立に関わったとのことだ。なお全編に流れる雰囲気は何となく『悲しき熱帯』を思わせたが、著者がレヴィ=ストロースの薫陶を受けた事とは多分関係ないだろう。文化人類学好きなら絶対愉しめる。

『うろんな客』/『不幸な子供』/『敬虔な幼子』エドワード・ゴーリー 河出書房新社
四日市市立博物館で開催していた「エドワード・ゴーリーの優雅な秘密」展を見に行って、あまりに面白かったのでミュージアム・ショップで衝動買いしてしまった3冊。なんとも人を喰った展開とブラックな味わいが堪らなく好い。『うろんな客』にでてくる“うろん”のピンバッジまで買ってしまった。

『母の記憶に』ケン・リュウ 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
大評判となった『紙の動物園』に続く日本オリジナル短篇集の第二弾。ショートショートから中篇まで、訳者の古沢嘉通氏が厳選したバラエティあふれる十六篇が収められてあるが、今回もいずれ劣らぬ傑作揃いでハズレが無い。冒頭の「烏蘇里羆(ウスリーひぐま)」「草を結びて環(たま)を銜(くわ)えん」からいきなり物語世界に引きずりこまれる。色んなタイプの物語が入っているので、前作と同様、読む人によって好きな作品が分かれるのではないだろうか。
ケン・リュウ作品が後を引くのは登場人物の関係がとてもウエットだからかもしれない。つねづねSFの魅力は展開のドライさにあると思っているのだが、この人の作品ほどウエットで且つ面白いSFというのはこれまで経験したことがない。ウエットなのはジェンダーや家族関係に踏み込むからだろうか。そしてドライではない代わりにとてもビター。たとえば「レギュラー」ではサイコパスのよる連続殺人とそれを捜査する私立探偵の物語を軸に、未来のテクノロジーが生み出すアジア社会の描写と探偵を苦しめる過去の呪縛が良い具合に合わさってサスペンスを盛り上げる。抒情的なのだけれど甘くはないところが持ち味だ。
あえて気に入った作品を三つ選ぶとすれば、「草を結びて環を銜えん」「レギュラー」「上級読者のための比較認知科学絵本」だろうか。「カサンドラ」「訴訟師と猿の王」や「万味調和」もかなり気に入った。

『ペルーの異端審問』フェルナンド・イワサキ 新評論
あちこちの古文書館に保管された異端審問史料を丹念にひもといて、「異端の罪」に問われた被告たちの罪状と、彼らがいかに裁かれたかを紹介した本。むかし平凡社ライブラリーで読んだヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』を裏返したみたいな印象だが、人々がどのような信仰をおくっていたかの貴重な記録でもある。罪の動機も現代とそう変わらない。訴えさえあれば審問会が開かれるので、聖女と称して様々な奇跡を起こした人々が悪魔の所業として逆に異端に問われることだってある。結果、自分から見たら『黄金伝説』に列挙される聖人たちと区別のつかない者たちが裁かれることにもなるのだ。
ただし実際には「異端審問=即極刑」というわけではないようだ。被告は裁判で悪魔信仰を放棄(否定)して審問官に「単なる肉欲を抑えられぬ一罪人」と見なされれば、追放などの軽い処置で済む。また正真の「愚者」と見なされれば、やはり死刑ではなく病院送致となる。罪状や審問のやりとりはえげつないものも多いが、歴史学的な見方をすればかなり面白い。また当時の彼らの感覚はそのまま読めば幻想文学としても楽しめる。バルガス・リョサが序文を書いて筒井康隆か帯の推薦文を書いているのはダテではないのだ。

『水蜘蛛』マルセル・ベアリュ 白水uブックス
幻想的な中短篇を十二篇収録した作品集。〈小説のシュルレアリスム〉叢書の一冊だが中身は正統派の幻想小説だった。18~19世紀ごろの別の誰かの作品といっても通用しそうな気もする。「球と教授たち」「向いの家」「宝の島」「百合と血」などはとても好み。詩人だけあってイメージが詩的でとても綺麗だ。表題作のエーベルス「蜘蛛」にも通じる不安感や「球と教授たち」のタルホ的な味わいも面白かった。

『食通知つたかぶり』丸谷才一 中公文庫
神戸を皮切りに伊賀や高松に酒井など日本全国を食べ歩く。ひたすら食い、呑み、味わうことに徹しているのが気持ちいい。作者自身が執筆の動機を「言葉によってどれだけものの味を追へるか」と述べているだけあって食べ物の形容がとにかく見事。ねっとりとして舌にまとわりつくような味わいがある。旧仮名遣いの文章も好い。書名の「知つたかぶり」みたいに小さい「っ」を使わないってのはなんか良いなあ。
食べ歩きエッセイの愉しさは、いかに言葉をつくすかにあると思っているのだが本書はその点では申し分なく、これでもかと言わんばかりに書き込まれた言葉がそのまま舌に旨い。「豪奢」に「嬌柔」に「流麗」とか、あるいは「瀟洒」に「柔媚」など。また「清楚淡白」に「香美脆味」、「優雅端正」に「清凛豊饒」、「甘美肥甜」なんてのもでてくる。(もっとも岡山の魚正とか名古屋の鳥孝など店を検索してみるととんでもなく高級な店なので旨いのは当たり前かも。)
あるレストランでは「牛の髄の焼いたの(ベイクト・ボウン・マロウ)」を食べていていかにも美味しそうなのだが、こんなの今では絶対食べられないだろう。古い本なので他にも鯨料理など今ではおいそれとは食べられないものも出てきて、図らずもある時代の日本を切り取ったポートフォリオのようになっているのが興味深い。ひとつ驚いたは、店の名前をそのままに、感心しない料理はそのまま「いただけない」とか書かれているのもあったこと。自由すぎる表現は丸谷氏ご本人の性格によるものか、あるいはこれもその時代では普通だったのか。はたして店の人は怒らなかったのだろうか?

『巨神計画(上・下)』シルヴァン・ヌーヴェル 創元SF文庫
世界各地の古代地層から見つかったのは超文明による巨大ロボットの部品だった。その秘密を解き明かすべく集められた個性的なメンバーは、否応なく世界レベルの陰謀に巻き込まれてゆく……。軽く読めるエンタメ三部作の第一作で、小説としての重厚感や“らしさ”よりもハラハラドキドキとスピード感に力点が置かれている。アニメや映画になれば気分よく楽しめる良作になるのではなかろうか。エピソードは荒唐無稽な感じが強いが、ロボット物が好きな人には堪らないだろう。

『まっぷたつの子爵』カルヴィーノ 岩波文庫
〈我らの祖先三部作〉の一作目。砲撃で真二つとなり「悪半」と「善半」の半身ずつに別れた領主メダルド子爵により奇想天外で示唆に満ちた物語が展開する。三部作の好きな順番は『不在の騎士』、『木のぼり男爵』、『まっぷたつ』だったのだが、今回読み返してみて以前読んだ時になぜ本書が苦手だったのかを思い出した。「悪半」の残酷さが辛かったのだ。圧倒的な悪者感に、そうだった、そうだったと頷きながらページをめくっていた。でも傑作。他の二冊も読み返してみたくなった。

『死都ブリュージュ』ローデンバック 岩波文庫
喪われし想い出を求めて廃市に隠遁し、亡き人の面影を追う独りの男が出逢ったのは、放埓な一人の踊り子。憂愁と沈黙の街を舞台に、信仰と愛、情熱と誘惑、そして苦悩と破滅への道を歩む男の姿を描く。現実ではない幻想のブリュージュがここにある。個人的にはもう少し踊り子ジャーヌが悪魔的である方が良かったが、それはないものねだりというものだろう。黄昏のロマンに満ちた作品。

『バッタを倒しにアフリカへ』前野ウルド浩太郎 光文社新書
ファーブルに憧れて昆虫の研究者となった著者が単身モーリタニアへと乗り込み、サバクトビバッタの研究に没頭した3年間の思い出を綴った笑いあり涙ありの熱血ノンフィクション。砂漠、異文化、昆虫ときたら面白くないわけがない。フィールドワークの楽しさに満ちた一冊となっている。
また同時に、将来がみえず不安に満ちたポスドクが徒手空拳で異国の地に乗り込み、現地の人々と一緒になって逆境を跳ね返して夢を叶えるという、ある種の“ビルドゥングスロマン”にもなっている。つらい生活を楽しみ、"無収入"になってもその深刻でも明るさを忘れない姿がとても好い。昆虫版の『ルワンダ中央銀行総裁日記』とでも言えば雰囲気が伝わるだろうか。(トーンはもっと能天気だが/笑。なにしろ1ページ目からしてすでに面白い。バッタの研究者なのにバッタアレルギーで、バッタに触られるとじんましんが出るとか。)
専門分野のサバクトビバッタ以外にもゴミムシダマシやマメハンミョウ、毒バッタなど面白い生態の昆虫が出てくるので、虫の写真さえ大丈夫だったらノンフィクション好きの人には超おすすめの一冊だ。

『ランボー詩集』堀口大學訳 白凰社
ランボーの詩作を初期と後期に分けてまとめなおし巻末に解説を附す。個人的には後期詩篇の方が好きなものが多かった。(初期詩篇は今読むとけっこう“厨二”的なものも多い。)たとえば「鴉たち」の「暮れの鐘、余韻をあとに消ゆる頃 九天の高きより吹きおろせ」「君ら、義務の宣布者たれ、おお、黒きわが凶つ鳥!」といったくだりはかなり好き。 昏い作品の方が切れ味が良い気がするのは単に自分の趣味のせいか。幻想的な詩篇も多く、訳者の言葉の選び方も冴えている。装幀も味があって好い。中には肖像や巴里にランボーを呼び寄せたヴェルネールによる彼のデッサンなどもあり、結構愉しめた。とくに気に入ったのは「酔いどれ船」「鴉たち」「渇きの喜劇」と『地獄の一季』あたりか。
なお、「ジャンヌ・マリーの手」の中に「京のまた大阪の?」という文章があったのだが、巻末の訳者自身による鑑賞ノートには原文は"Des Khenghavars ou des Sions?"とある。それぞれペルシャの古都とエルサレムのことなのだが、翻訳のあまりの自由さに笑ってしまった。

『世界のすべての朝は』パスカル・キニャール 伽鹿舎
17世紀フランスに実在した音楽家サント・コロンブの生涯を静かな筆致で描く。彼の二人の娘と弟子マラン・マレ、亡き妻との邂逅を通じて示されるのは、言葉で語りえぬものと高みへと至る想い。(などと言うとそれもまた違うのであるが。)イサク・ディネセン(カレン・ブリクセン)の諸作にも通じる捉えどころのなさと深みがあるが、読んでいる間はただただ心地よい。読んだあと、つい何かを語りたくなってくる作品だが、本作についてはあれこれ言わぬのが良さそうだ。
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サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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