2016年7月の読了本

『カエアンの聖衣〔新訳版〕』バリントン・J・ベイリー ハヤカワ文庫
 大学時代におおいにハマったSF作家B・J・ベイリーの目くるめく奇想小説。長らく入手困難な状態が続いていたが、ようやく大森望氏による新訳版が出て再読することが出来た。(とはいっても買ってからしばらく積んであったのだが。/苦笑)内容は「ワイドスクリーン・バロックの代表作」という名に恥じない奔放かつ奇怪な物語。謎が謎を呼ぶ服飾家ペデルのパートと、まるでガリヴァー旅行記のように異世界と著者お得意の疑似科学が炸裂する文明学者アマラのパートが交互に描かれ、やがて渾然となって驚くべきラストに収斂する。
 本書はベイリーの作品の中でも特に気に入っているもので、旧版は何度読んだかわからないほど。今回読み返してもやはり傑作の印象は揺るがなかった。ベイリー作品は、思弁小説の極北ともいえるスタニスワフ・レムとはまた違った意味で、SFのもつ醍醐味とわくわく感の一体という理想的な姿を体現しているのかも知れない。キャラクターの扱いは徹底してドライで、ただ物語の一要素としてのみ存在するので、普通の小説のような登場人物への感情移入を拒むところは、少し読みにくいと感じる人もいるかも知れないが、破天荒こそが魅力のワイドスクリーン・バロックにおいて、珍しく物語が破綻していない本書などは、ベイリー作品の中でもっとも人にお薦めしやすい一冊と言えるだろう。絶妙なバランスの上に成り立っているまさに奇跡のような作品だと思う。

『王女マメーリア』ロアルド・ダール ハヤカワ・ミステリ文庫
 物語の名手ダールによる大人のためのメルヘンを9作収録した日本オリジナル編集の一冊。全編に漂う毒とあっと驚く展開がダールの真骨頂。知らぬ間に中毒になっている恐ろしさがある。収録作はどれも良いが、特に好みなのは「ボティボル氏」「執事」「外科医」「王女マメーリア」あたりだろうか。

 ※先日、「7月が過ぎれば若干はおさまる」と書いたのだが、親の介護問題に直面して
   自由な時間をごりごりと削られている状態が続いている。他の私用も重なったため、
   7月に読めた本はわずか2冊(!)という体たらく。8月になっても状況は大して変わっ
   ていないため、これからはたしてどうなることやら。(ストレスで本を買うペースは
   むしろ加速しているので、読めない本が積まれる一方なのは困ったものである。)
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『物欲なき世界』菅付雅信 平凡社

 ジャンルとしてはマーケティングに分類される本だが、前半と後半では随分と印象が違う。ざっくりと云えば、まず前半は最近の若者に見られる傾向の分析から、従来型の高度経済成長を前提とした資本主義社会の終焉を示唆。そして後半は「幸福」の実現に向けた様々な思想家による提言を紹介しつつ、やがて来るべき「物欲なき世界」を示唆する。最初はよくある感じの本かと思っていたが、後半にはどんどん話のスケールが大きくなっていくのでびっくりした。
 本書で挙げられている「最近の若者にみられる傾向」とは具体的にはどんなものかというと、まずひとつはアメリカのポートランドなどから顕著になってきた「低消費型」のライフスタイルのこと。シンプルで自然な暮らしを求める人たちだそうだ。そのスタイルは「ダウンシフト」もしくは「スペンドシフト」と呼ばれていて、“モノ”ではなく“意味”を求める生活様式なのだそう。日本であれば「LOHAS/ロハス」や「スローライフ」という言葉の方がしっくりくるかもしれない。雑誌では『ソトコト』あるいは『キンフォーク日本語版』といった雑誌が提唱する価値観で、無印良品なんかも同じカテゴリーに入るらしい。こういったライフスタイルの人が増えてくると、これまでのようなマーケティングが通用しなくなってくるのだそうだ。(たとえば金融業界のマネートレードに代表されるような業界に身を置いているうち、資本主義の仕組みに疲れてしまった人たちが起業してオーガニック食品の店を始めた事例なんかも紹介されている。)
 そして傾向のふたつめは、eコマースやデジタル工作機械を利用したカスタムメイド化。まあたしかにITの影響は大きいだろうね。過去、インターネットが無かった時代には、書物にしろ現物にしろ、なんらかの“モノ”を持つことでしか情報を得ることが出来なかった訳だけれど、今はモノではなくコンテンツが重視される。また最近では、なんでも個人持ちするのでなく共有する「シェアリング・エコノミー(共有経済)」の動きもあるということだ。(*)色んな形で従来の資本主義的価値観から脱しようとする若い人たちを紹介する。ただ最後のシェアリングについては、価値観の違う他の人々との共存を受け入れる度量と社会的な認知が前提になるような気もして、もしそうなら今のように社会的弱者を排斥する傾向が強い社会では、なかなか受け入れがたい仕組みかもしれない。

   *…なお本書ではヤフーオークションやイーベイといった、中古品のユーザー同士
      での直接取引もシェアリングの一種にあたるとしている。子育ての手伝いを
      同年代のコミュニティでシェアリングする仕組みも紹介されていたが、これは
      なかなか面白い取り組みだと思う。

 冒頭でも書いたように、後半は色んな思想家の著作を引用しつつ、社会的な「幸福」の実現について考察する。若者文化や個人のライフスタイルというミクロな話題から、世界経済の未来というマクロな話題へと論調を変えた第5章からは、哲学・思想の話が好きな自分にとっては滅法面白かった。
 たとえば「お金はものではなく“信用システム”である」と説くフェリックス・マーティン著『21世紀の貨幣論』。氏によれば、お金と云うのは「①信用/②価値単位の提供/③譲渡性」という、三つの基本要素でできた“社会技術”なのだそう。貨幣論といえばマルクスあたりの知識で止まっている自分としては驚きの連続。他にもジュリエット・B・ショア著『プレニテュード 新しい<豊かさ>の経済学』などを紹介しつつ、幸せというものに対する考え方が変化していると指摘したり、第6章ではピケティ著『21世紀の資本』を引き合いにして、高度経済成長を実現する資本主義社会が長く続くことは無いと説く。「昔の夢をもう一度」みたいな風に考えている年寄りには面白くない話だろうが、でもそんな社会であってもそれなりの幸福は実現できるのだという提案は、自分のような小市民としては元気づけられる(?)ものではあるだろう。
 欲を言えば著者自身によるオリジナルの意見が無いのが残念ではあるが、それでも引用されている本を眺めているだけで充分に面白かった。社会学とマーケティングの両方に興味がある人にはお薦めの本だと思う。バリー・マクガイアや忌野清志郎による名曲「明日なき世界」を連想させる題名だけれど、決して絶望に満ちた内容ではないよ。(笑)

近況報告

 「お気らく活字生活」をいつもご訪問いただきありがとうございます。当ブログの管理人であります舞狂小鬼です。このところ公私ともども大変忙しくなり、ろくろく本もまともに読めない状態が続いております。

 7月が過ぎれば若干はおさまるかと思いますが、それまでは不規則な更新になります事をご承知おきいただけたらと存じます。皆さまに面白い本とのますますの新たな出会いがありますように。

 それではまたお会いいたしましょう。

店主敬白

2016年6月の読了本

今月は慰安旅行のおかげで前半は快調だったのだが後半に失速した。でもまあこんなものでしょう。わりと良い本が読めたので内容的には満足できた。

『哲学は資本主義を変えられるか』竹田青嗣 角川ソフィア文庫
 ちょっといかめしい題名だが、2009年にちくま新書から出た『人間の未来』を加筆のうえ改題したもの。(文庫化される時に妙に解りやすい名前になることはこれに限らずままあるが、どちらかというと元の題名の方が好きだな。)中身はといえば、同じ著者により『人間的自由の条件』と『完全解読ヘーゲル「精神現象学」』で示されたヘーゲル哲学を基にした考察をより深化させて、前著への批判に応えるとともにポストモダンと新自由主義の先の哲学的原理を指し示したもの。ページは薄いが内容は濃い。

『ルーフォック・オルメスの冒険』カミ 創元推理文庫
 ユーモア小説『機械探偵クリク・ロボット』や『三銃士の息子』の作者により書かれた、こんどはホームズ物のパロディ。奇想天外な謎とバカバカしいトリックが満載で愉しい。登場人物の名も「虫も殺さぬ顔の盗賊」「疑り深い警察署長」「眉毛つながり」といった人を喰ったものが多くて面白い。

『高丘親王航海記』澁澤龍彦 文藝春秋
 本邦への幻想文学紹介の先達による白鳥の歌。高丘親王の史実を題材に、過去と現在、夢とうつつ、物語と現実の枠を超えて描かれる天竺への旅路の顛末を描く。「儒艮(ジュゴン)」や「獏(ばく)」や「大蟻食い(のアンチポデス)」、あるは「迦陵頻伽(カリョウビンガ)」やラフレシアや蜜人といった、東南アジアの幻想的でエキゾチックなものたちとの出逢いが、痛ましくも心穏やかなる親王の道行を彩る。まさに親王にとって天竺を求める旅は「エクゾティシズムのかたまり」であって、それを描く『航海記』もまた同じくである。美しいとはまさにこういう本のことをいうのだろう。

『MOUSE マウス』牧野修 ハヤカワ文庫
 近未来の日本でドラッグ漬けの子供たちが生きる弱肉強食の世界「ネバーランド」を舞台に、言葉によって現実を侵食する狂気と幻想の世界が繰り広げられる。一風変わったノワール小説なのかと思っていたら、最後の「ボーイズ・ライフ」できれいにSFとしても畳まれた。とても面白い。『月世界小説』も好かったし、もう少しこの著者の作品を追いかけてみたいと思わせた。

『挿絵叢書 竹中英太郎(一)怪奇』(皓星社)
 雑誌「新青年」に発表された探偵小説を中心にして、夢野久作を始めとする作家たちの短篇を竹中英太郎の挿絵と共に、初出当時の雰囲気で再現した本。如何にも好事家向けの企画という気がしないでもないが(自分も含めて/笑)、一冊まるごと、主役が小説ではなくて挿絵の方だというのが愉快。(もちろんのこと小説が詰まらない訳ではない。)また巻末には、本シリーズの編集を手がける大衆小説研究家・末永昭二氏と装丁家の大貫伸樹氏による、挿絵画家としての竹中英太郎についての小文を収録。続刊として「推理」「エロ・グロ・ナンセンス」を準備中とあるが、このクオリティなら続けて読んでみたい。

『物欲なき世界』菅付雅信 平凡社
 ジャンルとしては一応マーケティングに分類されるが、結構ジャンルを横断している印象の本だ。前半では人口増加と高度経済成長を前提とした従来型の資本主義社会の終焉を思わせるさまざまな事例を紹介し、やがて来るべき「物欲なき世界」を示唆、そして後半ではそんな混沌とした社会における「幸福」の実現に向け、様々な思想家による提言を紹介する。
 ちなみにここで言われる「物欲」とは、何かを所有することである種のステイタスが得られるタイプの価値観のことで、たとえば「いつかはクラウン」みたいなものだと思えば良いのではないか。最近の若者は「物欲」を無くしているというのが著者の主張だが、人生出世すごろくの社会が破綻してしまっている今、確かに若い人たちの「物」に対する執着(すなわち「物欲」)は無くなってきているのかも知れない。突然論調が変わる第5章からが自分には気に入った。ミクロな話題からマクロな話題へ、個人の生き方から世界経済の未来へと大きくシフト。読み進むうちにどんどん面白くなるので驚いた。

『風狂 虎の巻』由良君美 青土社
 「風狂」をキーワードとして、著者の古今東西の絵画・文学・詩歌についての文章をまとめたもの。新装版による33年ぶりの復刊。歯に衣着せぬ物言いがいつものことながら如何にも著者らしく痛快だ。本書には本業の英文学ばかりでなく、国文学への深い造詣もうかがわせる文章が多く収録されている。幻想文学系の文章では日本のカルティズムについて語ったものも面白いが、なにしろ四篇に及ぶ夢野久作の作家論が圧巻といえるだろう。坂口安吾や三篇の大泉黒石に関する文章もまた面白い。他には師と仰いだ平井呈一氏への追悼や、恩師・中村草田男氏の俳諧についての文などもあり、いずれもしみじみと好い。まさに“木兎斎”おそるべしである。こういう本を読む休日の昼下がりは最高だね。

『グアテマラ伝説集』M・A・アストゥリアス 岩波文庫
 古代から現代に至るグアテマラの歴史とマヤの神話を、濃密な密林の香気と魔術的な演出で甦らせた連作集。著者がヨーロッパで親交を結んだツァラやデスノスらから影響を受けた、ダダイズム・シュルレアリスムの手法が異様な迫力を生む。中南米とはいえ魔術的リアリズムとは違ってなんだか不思議な文章だと思って読んでいたが、解説を読んで納得した。やはりシュルレアリスムそのものだったのだ。文意を読み取るのが大変なので、変に全体イメージの整合性を考えるよりも、単語の羅列が醸し出す雰囲気を素直に味わった方がいいのかもしれない。なんだかすごいものを読んでしまった気分だ。

『人間不平等起源論』ジャン=ジャック・ルソー 講談社学術文庫
 ルソーによる有名な著作を板倉裕治氏による新訳で読む。自然状態の人間はホッブスの「普遍的闘争状態」などではなく自由で平等な状態にある存在であり、不平等は私的所有およびそれを保証する法の確立によって生まれたものだと主張する。そして執筆当時の政治体制である封建体制は堕落した統治状態であるとして、真の共和制の実現を説く。竹田青嗣氏の『哲学は資本主義を変えられるか』のサブテキストのつもりで読んだのだが、古典だけあって論旨が少しまどろっこしくて正直読みにくかった。でもまあホッブス思想をひっくり返すところなどは面白い。併録されている「戦争法原理」は紛失原稿の断片が発見されて再構成・復元されたものだそうで、何となくお得感あり。(笑)

『パルプ』チャールズ・ブコウスキー ちくま文庫
 ハードボイルドの設定を借りてはいるが、探偵も事件も徹底してチープで物語が意味をなさない怪作。無意味過ぎて読者がそこに何かの意味を見たくなってしまうほどの無意味さ。柴田元幸氏による訳はとても読みやすいのだが、かと言って作品が理解できるかどうかは別問題。舞城王太郎みたいな感じもあって玩具みたいで色々いじりたくなる。すごいものを読んだような気がするのだが、単なる勘違いなのかも知れない(笑)。(自伝的小説はあまり得意ではないので、実はブコウスキー作品はこれまで読んだことが無かった。本書は他の作品とは違うと聞いたのだが、他のはどうなんだろうか。)なにしろちょっと形容しがたい魔力がある本だった。

『哲学は資本主義を変えられるか』竹田青嗣 角川ソフィア文庫

 ※今回はちょっと固めですがご容赦ください。

 前にも書いたことがあると思うけど、自分が日本の思想家の中で一番おもしろいと思うのが竹田青嗣氏なのだ。『現象学入門』(NHKブックス)を読んでその面白さに驚き、氏の著作を遡って読んだ後は、新たに思想入門書がでるたびに片っ端から買って読んだ。
 最初の頃の哲学者としての氏の活動は、「エロス」(注:エッチな言葉ではなく“生の躍動”といった本来の意味なのでお間違えなきよう。/笑)をキーワードにした、「生きる」ことへの思索が中心だった。しかしその後は、西研氏らと共に立ち上げた研究会でヘーゲルやカントの著書を原書で徹底して読み込むことで、新たな段階に進んでいる。(とかエラそうに書いているけど、実際には著書を読んで「ほえー」と感心しているばかりなのだ。/苦笑)
 今の氏の活動がどんな状況であるかを自分のつたない理解で要約してみると、「現象学や実存哲学をベースにしつつ、ヘーゲルが『精神現象学』で提唱した「自由の相互承認」という概念に基づいて、現実社会で誰もが幸福に暮らせるための哲学的な原理を構築する」といったところだろうか。
 「哲学なんて実際の生活に何も役に立たない」という意見は良く聞かれるものであるが、自分は(竹田青嗣氏と同様に)そうは思わない。哲学は原理的で根源的であるがゆえに却って、あらゆる社会生活の局面で考え方の基盤になりうるものだと思っている。ちなみに哲学が社会と関わり合うときの基本的なモデルは「公共のテーブル」というだと竹田氏は述べているが、これは当初ハンナ・アーレントにより提唱されたものだそうだ。たとえば科学が「唯一の真理」を追究するものだとすれば(*)、哲学はひとつのテーブルで議論しあい「真理」では無く「お互いの合意」を目指すもの。同じテーブルについた人々の間で、いかに納得のうえで合意を取り付けることが出来るかが大事であり、その材料を提供するのが哲学の社会との関わり方なのだ。なお、このあたりの思索については、柄谷行人氏の著作である『トランスクリティーク』(岩波現代文庫)を批判的に考察しつつ、建設的な提案を行った『人間的自由の条件』(講談社学術文庫)に詳しい。ご興味がある方はどうぞ。

   *…科学哲学におけるクーンのパラダイム論を引き合いにだすまでもなく、
     科学で扱われるのが「唯一の真理」ではないことは承知しているが、
     ここではあくまでも便宜的にそう書かせてもらった。なので深くは突っ込
     まないで頂きたい。(笑)

 前置きが長くなった。本書『哲学は資本主義を変えられるか』は当初『人間の未来』という題名でちくま新書から出た本を改題したもので、ヘーゲル哲学を再考した前著『人間的自由の条件』への批判に応えるため議論をさらに深掘りし、前著のラストで簡単に示された展望をさらに追究したものとなっている。例によって自分の備忘録も兼ねて、内容について以下にざっと紹介してみよう。

 本書で中心となっているのは、だいたいヘーゲルおよびマルクス思想の哲学的な原理解釈。資本主義を歴史上初めて出現した「持続的な拡大再生産を可能にする経済システム」と定義して、それは「普遍交換」(≒大量輸送による商業)に「普遍分業」(≒商業により促された分業制による拡大生産)、そして「普遍消費」(≒何らかのかたちでの大量消費)という三つの原理によって支えられていると説く。(もちろんバタイユの“過剰なエネルギーの供給とその蕩尽”についても言及があったりして、消費社会という化け物のようなシステムを分析するために、色々な思想が総動員されている感がある。)
 さて、これらの原理に基づいて経済システムが動いていくわけだが、そのままでは経済格差や社会的な不平等が発生してしまう。個人の想いが違うことで強制や抑圧が起こり、国と国が互いに覇権を争うことになる。まさにホッブスが「普遍闘争状態」と呼んだ状態である。ではこの状態を解消するにはいったいどうすればよいのだろうか。本書によればその鍵となるのが、冒頭でもふれたようにヘーゲルの「自由の相互承認」であるのだという。(ちなみに竹田氏によれば『精神現象学』をはじめとするヘーゲルの思想は現在かなり誤解されているそうで、当時の社会情勢からくる問題もたしかにあるけれども、その思想の根本は今でも通用する普遍的な価値を持っているそうだ。)以下、もう少し詳しくふれてみる。
 「自由の相互承認」の元になっているのは「法(recht/レヒト)」と呼ばれている概念である。ヘーゲル独特の用法なので一般的な解釈とは違い、これは「法」と「権利」と「正義」という三つの意味を含むものなのだそう。「法(recht)」の行使は何かを「禁止」することを基本とするが、それは権威を持つ者の命令なのではなく、ただ単に「他人の自由(人格)を侵害するな」という意味らしい。(これって仏教が言うところの「自分がされて厭やことを他人にするな」という考え方に近いのではないかな。)
 放っておけば資本主義社会では個人の欲望のせめぎあいが始まり、その結果、強者による弱者からの搾取につながる。だからこそ社会をそのままの姿で放置するのではなく、「人倫(社会的な倫理)」によって制限を加えるべきだというのがヘーゲルの主張。そしてそれは「法(recht)」に基づいたものでなければいけないというのだ。(ちょっと話がややこしいがここは重要。)
 竹田氏は次にヘーゲルの主張を引き継ぐ形で、市民社会たる近代社会が構想されるにあたって一番重要だったのは「完全ルールゲーム」の理念であったと定義し、市民社会こそがそれまでの封建社会から普遍闘争状態の原因になる「暴力原理」を完全に排除して、これを純粋なルールゲームに変えるための試みであったのだと述べる。それは「ほんとう」についての秩序が存在するであろうという信憑を、人々の間につねに育て上げることなのだ。
 こうして市民社会が確立したことによって初めて、平和的議論の土台となる「公共のテーブル」が準備されたことになる。(ちなみに本書ではホッブス/ルソー/ヘーゲルという偉大な思想家3名によって示された近代国家理念の本質的概念のことを、「普遍ルール社会」と呼んでいる。)
 さてとりあえず議論の土台が出来たところで、次に行うのは人々の幸福とは何か?社会は何を目標に構築されるべきか?という考察である。たとえば目標とする理念をひとことで「最大多数の最大幸福」と呼んだところで、「一般福祉」つまり幸福の実現はどのような理念に基づいて追究されるべきかが明確でないと、アーシュラ・K・ル=グインにより短篇「オメラスから歩み去る人々」で示された問題に答えることは出来ない。本書ではそれにどのように応えたか。本書で示された意見を要約すると、おおよそ次のようになるだろう。

 ■人間の生にとって何が「善」で何が「幸福」かは本質的に多様性を持っていて
  一律には決められない。しかし各人がそれぞれの「幸福」を追求する可能性は
  確保されるべきであり、よって社会的な「善」とは、社会の人々が「自らの実存
  の独自な存在可能性」を追求しうる条件が常に確保され、また改善され続けて
  いくこと以外には内実を定位することは出来ない。(**)

 これこそが近代国家の公準(存在理由)の原理として「一般福祉」を置くことができる理由となるのだそうだ。ふむふむ。また本書ではこれ以外にも、「普遍資産」の完全に平等な配分は不可能であることと、大切なのは配分の偏りが各自の仕事の成果に応じていることが、一般福祉の成立条件として示されている。そして役割の分化は各人の資質に合わせた自由な「意志」の決定の結果として現れ、決して権威や権力によって決められたり社会的に固定されるものではないと説く。これはもしかしたら「オメラスから歩み去る人々」で示された問題のひとつの回答にもなり得るのではないだろうか。(あくまでも哲学的原理としてではあるが。)

  **…参考までにヘーゲルの言葉が本書に引用されているので抜き出しておこう。
     「おのれを善と主張する悪(が存在する)」「行為を......自分自身にとって善であ
     ると主張することができる。......そのような行為を他の人たちにとって善であると
     主張するのはいつわりないし偽善(である)」 
     ううーん、やっぱりヘーゲルすごいわ。

 さて駆け足ではあるが本書の議論の内容を見てきた。一般福祉のもととなる「事(こと)そのもの」(byヘーゲル)あるいは「公共のテーブル」(byハンナ・アーレント)という概念こそが、「自由の相互承認」の前提になる相互理解のベースであり、また唯一の方法であるという示唆が示されたことは、確かにあるひとつの社会の中では有効だろうしかし実はまだもうひとつ大きな課題が残っている。竹田氏も述べているように、近代国家同士が「普遍的闘争状態」を克服できていないことこそが問題なのだ。
 そこで終章では、新たに見田宗介氏の「限界問題」という概念を用いて、資本主義における様々な限界問題(例えば地球温暖化に代表される環境問題など)に対処する目的で、国家同士が大きな一般福祉の下に協調しあう仕組みを指し示して終わる。最後の展望がすこしあっさりしすぎて物足りないところではあるが、哲学的原理と社会における実践をつなぐものとして本書はじゅうぶん読み応えのあるものであったと思う。
 そういえば現象学の創始者であるフッサールも『イデーン』などの主著で現象学の哲学的な原理を構築したのち、晩年には『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』で実社会への展望を示したのでなかっただろうか。本書も同様に「哲学は役に立たない」という主張に対するひとつの反証であるといえるかもしれない。

<追記>
 昔から「暴力」の本質とは何かについてずっと考えてきたが、なかなか自分のなかで答えは見つかっていなかった。それが本書を読んでいるうちにふと思いついたので、忘れないように追記しておきたい。
 主観としての立場からいうならば、「暴力」というのは「外部から一方的に与えられ、自らの意にそぐわぬ行いを強制する力」のことではないだろうか。圧倒し侵犯する力。そしてついでに言うなら、「信仰」とは「外部からくる暴力的な力を受容し自らのものとすること」ではないのだろうか。原始ユダヤ教などをみると、そんな気がする。
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プロフィール

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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