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2018年9月の読了本

今月はSF関係の本がが多かった。

『小さなトロールと大きな洪水』ヤンソン 講談社文庫
『ムーミン谷の彗星』から『ムーミン谷の十一月』まで八冊のムーミンシリーズに先立って、1945年にひっそりと刊行されていた幻の第1作目。ムーミントロールとママがいなくなってしまったパパに再び出会いムーミン谷に住み着くまでの物語。ムーミンたちの顔つきも後のシリーズとはかなり違ってはいるが、どことなく物悲しい雰囲気や登場する謎の生き物などの雰囲気はたしかに後のムーミンシリーズそのもの。古書店で見かけて迷いながらもつい買ってしまったのだが、結果的には読めて良かった。

『竜のグリオールに絵を描いた男』ルーシャス・シェパード 竹書房文庫
ひとつの谷を覆いつくし何千年ものあいだ命を永らえてきた巨大な竜。その竜による暗く密かなる支配の波動は善悪や意志、そして現実と夢の境界を越え、そこに住む者たちに生きる意味を突きつける。年間ベストに入る傑作短篇集だった。表題作のほか「鱗狩人の美しき娘」「始祖の石」「嘘つきの館」の4つの中短篇が収録されているのだが、どれも違う味わいでなおかつ読み応え充分なものばかり。冒頭の「竜のグリオールに絵を描いた男」は数十年ぶりの再読だったがやはり傑作だった。物語としての決着がはっきりしないのもL.シェパードらしくて好い。「鱗狩人の美しき娘」は初読だったのだが、これが素晴らしい。生きることには正しさも間違いもなく、偶然と(生きること自体への)誠実さがあるだけ……とでもいうべきか。竜の胎内めぐりもSF(ファンタジー?)としての仕掛けも面白いし「落とし前」のつけ方も非常にうまい。次の「始祖の石」は、グリオールによって生成されたとされる宝石「始祖の石」とカルト教団にまつわる殺人事件。それをめぐる法廷論争で二転三転する「真実」は、善悪の境い目はおろか世界認識の揺らぎと自己意識の存在そのものへの疑義をも生じさせる。何が真実かわからない後味の悪さが著たまらない。最後の「嘘つきの館」では三度びっくりした。まずはこの世界における竜という存在について、ふたつめは中盤のとんでもない展開に関して、そして最後は主人公ホタの行く末について。以上、四篇どれもが独創的かつ深い思弁性をもち甲乙つけ難かった。そしてなぜか殊能将之を思い出した。

北野勇作『その先には何が!?︎ じわじわ気になる(ほぼ)100字の小説』 キノブックス
北野勇作氏はツイッターでフォローしており、ときどき流れてくる「ほぼ百字小説」という創作を愉しみにしている。本書はその中から130篇をチョイスして書籍化したもので、装丁やイラストからすると子供向けのようだが年齢に関係なく誰でも愉しめる。茫洋としてユーモラスで何度でも読み返したい一冊だ。なにが起きているのか分からない。なぜそうなるのか分からない。読んでいくうちに360°全方位を物語で包まれる感があり、読むたびに容貌が変わるので同じものを何度読んでも話が憶えられない。全部で130篇の話が入っているのだがそれが100でも1000でもおそらく印象は変わらないと思う。「話の続きを考えようキャンペーン」というチラシが挟みこまれていたのだが、個人的にはこれらの話に続きは「無い」のだと思う。たしかに続きを書きたくなるような話もあるし、あるいは最後のオチが効いているのだとかいろんなものが入っているが、個人的にはその場にぽんと置かれたままの超芸術トマソンみたいな話が好きだ。基本的にはブライアン・イーノのアンビエント・ミュージックを聴いているような感じかもしれない。(ただし著者がサービス精神旺盛なので、ときどき落語が混じるのが妙に面白い。)色々な話のショーケースのようでもある。

『猫のまぼろし、猫のまどわし』東雅夫/編 創元推理文庫
古今東西の猫を題材にした創作やエッセイを多数収録したアンソロジー。全体は3つに分かれ、パート1は「猫町をさがして」と題して、萩原朔太郎「猫町」とブラックウッド「古い魔術」を軸に"猫町"をテーマにした創作やエッセイ、パート2は「虚実のあわいニャーオ」と題して猫の魔術的な性質に焦点を当てた実話系、そして最後のパート3は「怪猫、海をわたる」と題し、鍋島の猫騒動を中心に少し怖い物語を集めてある。自分は幻想怪奇が好きで、猫をテーマにした作品は結構こわいものが多いという印象を持っていた。しかし本書の収録作はさほど怖くはなく、比較的穏やかなものが多い気がする。たとえばパート3に収録されていた泉鏡花「駒の話」は、自宅の近所にすんでいた白猫の思い出を古今の動物にまつわる不思議とともに語った随筆で、品が良く粋な御新造のような白猫のことを鏡花もいたく気に入っていたようである。この文章がいいのだ。
収録作の配置にも気が配られており、前後に関連のある作品が並べられているのも愉しい。懇切丁寧な編者解説も含めて猫好きにお薦めの好アンソロジーだと思う。

『博物誌』ルナール 岩波文庫
『にんじん』などで有名な著者による、故郷シトリーの農村で目にする様々な生き物や動物園で見かけた動物、猟や釣りの獲物などについての覚え書き。子供のような比喩とエスプリ、あるいは都会人の視点での自然の楽しみが描かれる。擬人法を使って気取った七面鳥だとか農家の夫婦のようなあひるとか、妙におかしい。題名はビュフォンを意識しているようだが、科学的な記述とは反対の方向にある。軽く読める一冊となっていて、解説によれば著者も気に入っていた作品のようだ。

『華竜の宮(上・下)』上田早夕里 ハヤカワ文庫
ホットプルームの活性化により陸上の多くが数百mの海面下に沈んだ世界。再編された政治体の下で生活を営む陸上民に対して、海上民たちは遺伝子改造による「魚舟」との共生の道を選び、独自の文化を築き繁栄をとげていた。しかしカタストロフを乗り越えた人々に対して、今また新しい危機が迫りつつあった……。
生物学や文化人類学、地球物理学など様々な分野の知識を駆使して描かれる物語は、複数の人物の視点で語られるうち、やがて「大きな」ひとつの物語へと集束してゆく。著者は小松左京賞を受賞した『火星ダーク、バラード』でデビューしたのだが、本書において大いなるものに抗う人々の姿はまさしく小松左京を思わせるものだった。自分ひとりの力ではどうしようもない流れに、それでも抗おうとする意志。「人類」というものの可能性を信じようとする意志。個人の思いという微視的なものと、地球や生物の運命といった巨視的なものとの対比が小説としての完成度とは別のところで琴線に触れてくる。これこそがSFを読む醍醐味といえるだろう。この物語のテーマはつないでゆくことではないのかという気がする。命を、世界を、次の時代へと、次の人々へと。ひとつずつつないでゆくこと。
(その後、名古屋SFシンポジウムにゲストで来られた上田氏の話を聴く機会があった。これで認められなければSF作家としてはおしまいだろうと思い、発表のあてもないのにノートにずっと書き込んでいた設定を全部ぶち込んだとのこと。なるほど、だからいろんなテーマがてんこ盛りなのだ。なお本書の続篇『深紅の碑文』は、フィクションの中でアクションとして消化されてしまう「暴力」を、本物の暴力として描きたかったとのこと。本書とは印象が違う作品のようなので、これまた読むのが愉しみである。)

『ねこひきのオルオラネ』夢枕獏 集英社文庫
今や押しも押されもせぬ大作家となった著者の初めての著作。自分は夢枕作品を読み始めたのがアクション路線に舵を切った『幻獣変化』からだったので本書は読んだことなかった。もっと甘い感じのファンタジーと思っていたのだが、自意識過剰な語り口も含めて「夢枕獏」そのものだった。「山奥の奇妙なやつ」や「自分ぼっこ」はSFやファンタジーというよりも『山怪』や『里山奇談』の雰囲気に近い。もうちょっとで実話怪談に届きそうだが、ぎりぎりでフィクションにとどまっている。のちの片鱗をのぞかせるところもあり、今を知れば二倍楽しめるかも知れない。なお唐突に出てくるタイポグラフィがベスター『虎よ、虎よ!』などを思わせてなかなか楽しかった。よく考えたらデビュー作「カエルの死」がそうだったのだよな。

『ビブリア古書堂の事件手帖 ~扉子と不思議な客人たち~』三上延 メディアワークス文庫
全7作で完結したシリーズの後日譚となっている短篇集。7年後のビブリア古書堂を舞台に、お馴染みの人物たちにまつわるエピソードが四つ語られる。ボーナストラックのような感じなのだが、もしかしたら続くのかも知れない。

『中野のお父さん』北村薫 文春文庫
出版社の文芸編集部門に勤める主人公が遭遇するちょっとした疑問を、中野の実家に住む彼女の父親(実は高校国語教師)が快刀乱麻のごとく解き明かす。ミステリとしてはかなり軽めだが、初出をみたら「オール讀物」だったので納得した。『六の宮の姫君』のように本や文芸そのものにまつわる「謎」が描かれる「闇の吉原」や「謎の献本」あたりの作品が個人的には好み。話が進むに連れて父娘の関係がほのぼのと、またしんみりと見えてくるのが隠し味となっている。(解説で佐藤夕子氏も述べているように、著者のイメージが重ね合わされているのかも知れない。)カバーの益田ミリ氏が、《覆面作家シリーズ》の高野文子氏のイラストと同じぐらいぴったり合って好かった。
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2018年8月の読了本

『ぼくの短歌ノート』穂村弘(講談社文庫)
近代から現代まで、また伝統的なものから破天荒なものまで。様々な短歌を「賞味期限」や「今と永遠」「生殖」といったテーマ別に集めて、それぞれの鑑賞のポイントとともに紹介した本。様々な現代短歌のショーケースの如き一冊に収録された有名無名の歌人たちの歌が心に沁みてくる。自分の短歌に対する興味はこの人と西崎憲氏によって始まった気がする。自由律は好きだ。ちなみに古い短歌では、この本にも載っている次の歌がいい。
「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」(明恵)

『宝島』真藤順丈(講談社)
本土返還前の「アメリカ世(ゆ)」時代沖縄で、駐留基地から物資を盗んでは配って回り「戦果アギヤー」と呼ばれたならず者たちと、そして英雄と呼ばれたひとりの男がいた。 広大な土地を接収され兵士による狼藉に晒される沖縄の人々の苦悩と、それでも生き抜こうとする強さを描いた物語。コザの人々の英雄「オンちゃん」の弟レイと親友グスク、そして恋人のヤマコらが夜の街を駆け巡る。登場する多くの人々が織りなすのは、オンちゃん失踪の謎を巡って展開するミステリなのだが、それだけでは収まらない豊かさを併せ持っている。読んでいるうち、どことなく『日本三文オペラ』や『ぼくのキャノン』などを連想したりもした。(あ、そうそう。「ミステリ」といっても、あくまでもチャンドラー『さらば愛しき女よ』やライアル『深夜プラス1』がミステリというぐらいの意味なのでお間違えなきよう。決して御嶽の中で不可能犯罪が起こるといった小説ではありません。/笑)
現代史を関わる重いテーマをあつかったミステリがたまにあるが、本書もそのひとつと言えるだろう。SFには科学考証もへったくれもなく荒唐無稽な面白さを武器に色んなものを取り込んでしまう強さがあるが、ミステリにだってフーダニットとか関係なく、ひとつの謎さえ提示すれば凡ゆるものを巻き込んで物語に仕立て上げられる強さがあると思う。そういった意味で本書は現代にもつながる問題意識を持った、とてもよくできたエンタテイメント小説だと思う。アメリカ統治時代から今へと続く沖縄の人たちのつらい歴史が、当事者の視点で描かれていて、そういう記憶が積み重なって今の沖縄があり、先日亡くなられた翁長知事の言葉があったのだ。(クライマックスで描かれる1970年のコザ暴動とか、恥ずかしながら全然知らなかった。)物語の〈語り手〉に想いを馳せるとき、つらい日々にも喜びを見出せる「宝島」へと変わるのだろう。

『ヨーロッパの昔話』マックス・リュティ(岩波文庫)
ヨーロッパに伝わる昔話を伝説や聖者伝などと比較して共通する特徴とともに本質的な性格の違いを示し、それらがもつ機能を把握する試み。プロップやユング、小松和彦とはまた違う文芸学的・様式分析的なアプローチで、昔話がもつ広くて深い世界を示す。そして昔話について書かれているのに、色々な小説のことが頭に浮かんできてしまう。
たとえば昔話がもつ象徴性について、「豚飼いの少年や王女のことを昔話が語っているばあいには、ただ単にひとりの(中略)ことをいっているのではなくて、同時に人間一般のことをいっている。病気はただ病気というだけでなく、同時に苦悩を意味する」とあるが、これなどはムアコックの《永遠のチャンピオン》のシリーズが持っている昔話的な様式を思い出した。エルリックなど英雄伝説の面から神話的な特徴も勿論取り出せわけだが、それよりも平面的で図形的な登場人物たちがおりなす役割に注目した場合、昔話との親和性がより強く感じられる気がする。
また昔話の主人公たちには精神的な動揺や成長がなく平面的だという指摘もある。だからこそ主人公たちが立ち向かわなければならない試練は精神的ではなく物理的なものなのだと。昔話は登場人物たちを平面化して具象世界とまったく違った様相をまとわせるのだ。これを漫画に喩えてみると、「伝説」とは萩尾望都の作品であり、「昔話」とは赤塚不二夫のそれなのではあるまいか。
昔話における輪郭の鋭さは個々の事物の描写ではなく単に「名指す」だけで、話の発展を楽しむことに主眼が置かれているのだという指摘からは、アニメ『まんが日本昔話』における省略された描線は方法として正しかったのだという思いがする。
本書の中では「昔話の機能と意義」の章がたいへん面白かった。
「昔話はなにも要求しない。昔話は解釈せず、説明もしない。ただ見て叙述するだけである。(中略)われわれは幸福感をもってそれに身をまかせる。その意味で昔話はほとんどひとりでに生まれる」「昔話は、その説明を断念しているからこそ、われわれの信頼を得るのである。」だとか、
「昔話の興味は、最後に獲得される宝物とか王国、妻などにあるのではなくて、冒険それ自身にある。」 「昔話が図形的登場人物にあたえるのは、じつは物ではなくていろいろな可能性である」といった記述。
あるいは「昔話は単に叙述するばかりである。しかしながら純粋な文学として昔話は、叙述されたことの内面的真実を信じることを要求する。昔話は無用な遊戯としてふるまうのでなくて、ひとつの世界体験を具体的な像とする」「(昔話は)世界のそもそもの本質を見きわめようとしているのであり、そしてわれわれに深い信頼をこめて世界の本質の展望を見せてくれるのである。それは昔話自身が信じている本質の展望である」などなど、目から鱗が何枚も落ちる思いがする。示唆に富んだ良い本だった。
最後にもうひとつおまけを。このように作品の様式に着目した場合、稲垣足穂が『一千一秒物語』で行ったことは、人物たちの類型化・平面化や繰り返されるエピソードを通じ、昔話の手法で文学を表すことではないだろうかという気がする。ただ真性の昔話と違うのは、今はもう辿り着けない世界への「懐かしさ」を通じ、読者を現実へと引き戻すところなのだろう。

『羊飼いの指輪 ファンタジーの練習帳』ロダーリ(光文社古典新訳文庫)
本書は『チポリーノの冒険』『猫とともに去りぬ』などで知られるイタリアの児童文学作家が、ラジオ番組のために作った物語を集めたもの。収録されているのは全部で20あり、各話とも子供たちと一緒に作り上げた結末が三つずつ添えられている。いずれも古今東西の有名な童話の枠組みを現代風にアレンジしたものだが、結末はハッピーエンドから教訓的なものまで様々。本の最後にはその中で作者が好きな結末について明かされてもいるが、三つある結末はどれも間違いというわけではない。「子供たちと一緒に考えた」という事こそが大切なのだ。
ここでいう《ファンタジー》とは、そのまま想像力という言葉に置き換えてもいいだろう。いま自分が生きている世界に無いものや、より良い世界を想い描く力こそが、ロダーリをはじめとするイタリアの児童書の作者たちが子供たちに伝えたいことなのだ。
話自体は軽めのものばかりで現代を舞台にしたものが多いため、「ファンタジー」というよりは星新一のショートショートを思わせるような感じ。ちょうどマックス・リュティ『ヨーロッパの昔話』を読み終えたところなので、物語の作法の比較をしているようで興味深かった。

『蔵の中・鬼火』横溝正史(角川文庫)
昭和8〜11年の、戦後の本格推理の前にあたる著者の第二期を代表する6つの作品を収録した中短篇集。耽美、妖艶、凄惨、稚気、幽玄など様々な貌を見せる犯罪小説群は、いずれも古き時代の香気を放つ。集中では「鬼火」「蔵の中」「かいやぐら物語」が特に好かった。ちなみに集中で最も長い作品は「鬼火」で、「蔵の中」が映画化されるまではこれが唯一の表題作だったと思われる。三人の男女が繰り広げる嫉妬と欲の地獄絵図が描かれ、引退した元警部の語りによる額縁効果で残酷さはやわらげられているが、陰惨で救いのない物語であることには違いない。戦前の変格探偵独特の味わいがファンにとっては堪らない。

『空を駆けるジェーン』アーシュラ・K・ル=グウィン(講談社)
《空飛び猫物語》シリーズの第四作。今回は一番下の妹猫ジェーンが主役で、田舎暮らしに飽き足らなくなった彼女が、兄弟たちの下を離れて自分のための居場所を見つけるまでを描く。軽く読めるけど何度も読み返したくなるシリーズだね、これは。

『ここは、おしまいの地』こだま(太田出版)
『夫のちんぽが入らない』で衝撃的な登場をした著者が自らの生い立ちと今を綴った自伝的エッセイ。ヤンキーと百姓が九割を占める集落での子供時代。心が壊れた家族。劣等感と不安感に苛まれた小中の頃など、ユーモアと共に描かれるのは強烈な記憶の数々だ。きっと前著を読んでいなければ、おかしな人ばかりが登場する爆笑の自伝的エッセイで済ませられたのだろうが(それでも衝撃的だが)、この人たちの生きてきた半生を考えるとなかなかつらいものがある。字でかかれたサイバラ、もしくは卯月妙子じゃないかという感じか。
でも不思議なことに、読み進むうちに浮かんでくるのは、どんな境遇でも生きていけるのだという妙な安心感だったり希望だったりする。軽く読めるが読後感は深い。第34回講談社エッセイ賞を受賞している。

『父が消えた』尾辻克彦(河出文庫)
芥川賞受賞の表題作ほか全五篇を収録した短篇集。まごう事なき赤瀬川原平の文章である。氏の文章は、一度発した言葉を後から自分で否定するのが特徴的。不安定なのだ。そしてもう一つの特徴は、暗喩か直喩か分からないような表現が、言葉の意味をずらしていく点。異化作用とでも言えばいいのだろうか。私小説的なのに詩的で幻惑される文体に魅了される所以である。まずは冒頭の表題作からでは、亡くなった父親の記憶を交えながら八王子霊園へと向かう旅の様子が、ゆらゆらとふらつきながら、ときどきぐっと傾いていつのまにか文学になったりしている。ガリ版刷りの天文同好会の会報原稿を鉄書く「矢川泰平」と小学生の娘の夏の午後を描く「星に触わる」、新婚の後輩から屋上を貰った「図学校の先生」と妻の不穏な日々を描く「猫が近づく」。いずれも著者の私生活がぎりぎり透けて見える。輪郭がはっきりしないのが味だ。
それにしてもこの人、気配を書かせたら本当に巧い。「猫が近づく」でかすかに見せた不穏は「自宅の蠢き」では決定的になっている。受賞の報せから始まる「お湯の音」はまるで櫻画報を見るような楽しさに満ちている。捉えどころのない語り口は著者の不安の裏返しなのかも知れないが、それでいて胡桃子ちゃんとの父子二人だけの家庭もきちんとして、しっかりと地面に立っている気もするのである。ここから『少年とグルメ』や『島の時間』に広がっていくと思うもまた楽しい。中では表題作と「お湯の音」が好かった。夏石鈴子氏の解説に「父が消えた」が芥川賞を獲った時の選考委員による選評が紹介されているが、開高健の「残念ながら私は支持することができない。書くことがない」という言葉は資質の違いとしてとてもよく分かる。逆に丸谷才一や井上靖、大江健三郎らが評価したというのも。

『醜聞の作法』佐藤亜紀(講談社文庫)
18世紀前半、ルイ15世の治世を舞台にある男が仕掛けようとする、高貴な人々についての一つの「醜聞」。それはやがてパリを揺るがす大騒動へと発展していく……。 二十二の書簡を通して、虚々実々の駆け引きとコンゲームのようなスリルが味わえる小説。たいへんに巧い。解説の渡邊利道氏が、本書の持つ歴史的背景を詳しく説明してくれていて、作品世界をより深く味わうためのよい手引きとなっている。メディアを利用して大衆を煽動し、社会を動かす戦略についても触れられているが、その危険性は本書刊行の2013年よりも今の方がより切実なものになっていると言えよう。

『怖るべき子供たち』コクトー(角川文庫)
ある一組の姉弟と彼らに翻弄される友人たちを中心に、色々な象徴を散りばめつつ悲劇のラストまで駆け抜ける。どの辺りが「怖るべき」なのか考えながら読んでいたが、当時の社会通念は今と違っているし、なかなか判断が難しかった。現代の視点からは、新しい価値観を持った世代の登場と彼らの生態がそれまでの世代に与える衝撃をこの作品に見るのは難しいのかもしれない。むしろまるで古典悲劇を見るような後半の構成の法に、「新しさ」よりも「普遍的」なものを感じてしまう。表題の「怖るべき」を象徴する二人の姉弟はエキセントリックな言動を終始繰り返すが、それは今で言うところの「厨二」に似ているとも言える。その意味で我々は怖るべき時代に生きているのかも知れない。

『踊る大地球』山口昌男(晶文社)
文化人類学者である著者が世界中の地域のフィールドワークで残したデッサンを、説明とともに多数収録したスケッチ集。聞き手が漫画『まんだら屋の良太』の畑中純だったのがびっくりした。まるで氏の業績のように躍動する素描がとても愉しくて、観ているだけでわくわくする。

川崎徹「ねこ」/深堀骨「人喰い頭の体操」(惑星と口笛ブックス)
電子書籍の専門レーベル《惑星と口笛ブックス》からシングルカット版で新しくリリースされた短篇二作品。「ねこ」はCMディレクターとして有名な著者が書いた作品なのだが、これが素晴らしかった。説明しようとすると大事なところがみんな抜け落ちてしまいそうで、この雰囲気を語るには作品と同じだけの言葉を費やさないといけない気がする。例えばお気に入りの喫茶店の空気感とかに近い。
続く「人喰い☆頭の体操」は『アマチャ・ズルチャ 柴刈天神前風土記』で独特の世界を作り上げた著者による最新描き下ろし作品。おなじく《惑星と口笛ブックス》からでたアンソロジー『ヒドゥン・オーサーズ』収録の「人喰い身の上相談」に続く人喰いシリーズ第2弾で、相変わらず人を喰った話である(笑)。古いテレビネタが多くてなかなか良かった。(出てきた「鉄火大将、知ってっか」の元ネタはよくわからなかったが。)毒と笑いと悪趣味とパワーがこの人の持ち味なので、ちょっと刺激が欲しい時に読むのが好いと思う。

『ほとんど記憶のない女』リディア・デイヴィス(白水uブックス)
なんとも捉えどころのない「変な話」が51編。物語ではない何かだ。どの作品でも、とてもユニークな思索や状況が述べられるが、大切なのはそこではなく「語られている」ということ自体とその語られ方だと思う。要約不能な書物はそれだけで面白い。こういうものを読むと、本を好きで良かったなあと思う。

『不思議な図書館』村上春樹:文/佐々木マキ:絵(講談社)
市立図書館に本を借りにきた男の子が体験する、恐怖と憧れに彩られた不思議な三日間。思えば村上春樹の本を読むのは『中国行きのスロウ・ボート』以来かもしれない。佐々木マキのイラストがあか抜けしつつ不気味な雰囲気にぴったり。そういえば装画が佐々木マキじゃなくなったあたりから村上春樹を読んでないのだよなあ。『羊をめぐる冒険』など、あの絵によってさらに格好良さが際立っていた気がする。 なにしろ羊男のイラストが出てくる話は『羊男のクリスマス』も含めてみんな好きなのだ。

『論理学』エティエンヌ・ボノ・コンディヤック(講談社学術文庫)
18世紀フランスの哲学者による論理学についての入門書。全体は二部に分かれ、基本的には「感官(≒感覚器官)で捉えられる感覚印象にのみ基づいて観念がつくられる」という、著者が拠って立つ経験科学的な実証主義に基づく考察がなされ、言語の誕生から分析と類推を経て「凡ゆる思考」が生まれるまでの経過が展開される。論旨は極めて解りやすく、当たり前のことが順を追ってひとつずつ積み上げられていくのが愉しいのだが、ただし(解説で訳者の山口裕之氏も述べているように)「経験論から導き出される概念がこの世の全ての概念である」という保証はどこにもない。いやむしろ著者は「経験から導き出されることの無い抽象的な概念が存在する可能性」に対しては敢えて目をつぶっているような気もするのだ。
具体的な内容についても少し触れておこう。第一部では知識を構成する観念と心の諸機能の成り立ちが考察されている。幼児は自然現象の観察と分析から得られた感覚印象により、秩序だった体系を成す集合(=知識)を得るとする。そしてすべての分析こそが正確な知識と思索の元となると説かれる。つづく第二部では言語の起源について考察がなされ、あらゆる観念(≒思考)が言語によって成り立ち、そしてあらゆる言語は直接的な経験や行動から生じるとされる。論理学といいつつある種の言語学のようでもある。「心の諸機能の分析」の章ではまるで現象学のような考察も展開されたりと、(「帰納法の限界」も含めて)経験論哲学の古典として、当初思っていた以上に愉しむことができた。

2018年7月の読了本

今月は全然読めなかった。次月こそは盆休みもあるしたくさん読みたい。読めないとストレス解消に買ってしまうので溜まる一方である。

『オレって老人?』南伸坊 ちくま文庫
ご存知シンボー氏による、「老い」をテーマにした面白エッセイ。色々なところに発表した文章なので年代はばらばらだが、およそ50代後半から70までの心境や身体の変化について、ユニークでそのうえ妙に納得出来る話が詰まっている。「現在百五十七才の老人からみたら、私もまだまだガキだろうし、ハナタレ小僧であろう。」なんてくだりにはつい声を出して笑ってしまう。南伸坊氏のエッセイには赤瀬川原平氏と同じニオイがあるのだが、これが美学校の空気というものなんだろうか。
それにしてもこういう年の取り方は良いなあ。偏屈だったり変に威張っている老人もいるけど、どうせ体にあちこちガタがくるなら不機嫌よりも、にこやかな方がいい。そして「おじいちゃん、また本を買ってきたの!?」といわれてエヘヘと笑うのだ。そうなると積読だろうがダブりだろうが怖くない。
は、もしかしてオレって老人?

『お供え』吉田知子 講談社文芸文庫
七篇を収録する短篇集で、表題作は第19回の川端康成文学賞を受賞。全体の印象をざっくりいうと、山尾悠子のような幻想味と今村夏子のような不気味さを併せ持ったような作風とでもいえばよいだろうか。とても自分好み。アンソロジーを除くと現在文庫で読める作品集がこれしか無いのはつらい。以下、個別の作品について少しふれてみる。
「祇樹院」「迷蕨」は、二篇とも一度も来たことが無い場所の記憶が蘇ってくるのが恐ろしい。夢野久作『ドグラ・マグラ』とか折口信夫『死者の書』などもそうだけど、記憶とか認知の歪みの話はぞっとするのが多い。なにが怖いかといって、自分の感覚が信用できないのがいちばん怖いと思う。
「門」は屋敷の中で迷う描写がとても愉しい。少し余談になるが屋敷(日本家屋)が面白い話というと、筒井康隆「遠い座敷」などが思い浮かぶ。西洋の場合は屋敷ではなくて「館」になるが、屋敷と館の怖さの違いは何かと考えるに、館では部屋が廊下で繋がる形になっていて個々が独立しており、いっぽうの屋敷では部屋同士が襖で仕切られている点ではないかと思う。洋館の場合、ドアを閉めると部屋が外部と隔絶される結界となるので安心感が生まれる代わりに、万が一閉じ込められた時の恐怖も半端ではない。一方の座敷の場合は閉じ込められることはないが、その代わりに外から容易に侵入される恐怖、あるいは地つづきでどこまでも追いかけられる恐怖というのはある。つまり「閉じた怖さ」と「開いた怖さ」ではないかと思うのだ。ちなみに洋館で日本家屋に近い恐怖を味わう場所があるとしたら、廊下ではないかと思う。(例えばキングの『シャイニング』など。)
閑話休題。収録作の続きを。「海梯」はすらすらと読み進むうちに突然ざらりとした違和感があって、世界の位相が切り替わる感じが怖い。表題作「お供え」は徐々にエスカレートしてゆく世界の歪みがどこかの時点で不可逆点を越える、いわゆる「やばい」話である。
「逆旅(げきりょ)」は語り手の歪さが徐々に見えてくるにつれて不気味さが増してきて、どことなく今村夏子を連想した。そして「艮(うしとら)」は唯一男性が主人公の作品。暴力的かつ破滅的な展開はいっそ分かり易く、いちばん「まとも」にさえ思える。
以上、七作品を通して読んでみて、明確にホラーとして読めるのは冒頭の「祇樹院」とラストの「艮」かと思うが、「お供え」や「逆旅」のようにもやもやした感じが後を引くのも決して悪くない。特に好みなのは「迷蕨」「門」「海梯」あたり。著者の作品群はいずれも幻想怪奇に属するものであるといえる。雰囲気で読ませる小説なのに、視覚的な描写に優れているのが珍しいと思う。もっと読んでみたいものだ。

『ヒトラーとUFO』篠田航一 平凡社新書
新聞社のドイツ特派員を務めた著者による、ドイツ各地に伝わる有名な都市伝説や噂話を地元の識者へのインタビューとともに紹介した本。馬鹿げた話から、なるほどと思わず感心してしまう(信じるとは言ってない)話まで、様々な噂話が出てくる。ブティックの試着室から女性が消える「オルレアンの噂」や駐留米兵が目撃した人狼のような生物など盛り沢山で、軽い読み物だが比較文化の実例集のようでもある。表題は根強く残るヒトラー生き延び説と宇宙人来訪説から。他に日本でも類話が知られている「消えた乗客」の話や、あるいはフリーメーソンの陰謀説など有名な話が多いので親しみが湧く。面白かったのはドイツ西部の地方都市ビーレフェルトが、実は存在しない架空の都市だという都市伝説。絶妙に存在感が薄い都市だというのがまたいい。(日本だと自分が住んでいる名古屋みたいな感じかも知れない。)噂話の根底にあるのは、新しいものやよく知らない相手に対する不安だったりするのだろう。(ところでアメリカ大統領が宇宙人と接触しているという都市伝説は、トランプ大統領の出現によってトドメをさされたのではないか。彼やその取り巻きが黙っていられるわけがないから。)

『日本沈没(上/下)』小松左京 小学館文庫
ハードSFであり政治小説であり災害パニック小説でもある日本SFの金字塔的作品。昔は「日本が沈む」というイメージばかりに目がいっていたが、改めて読み直してみると、国家と国民の行く末に焦点をあてた極めて社会性・思弁性の高い小説だった。力作である。深海艇わだつみが日本海溝の底で出逢った驚くべき光景や日本列島が大地震とともに沈んでゆく様子が圧倒的な筆力で描かれておりとにかく凄まじい。著者は未知との遭遇の場面を描くのが上手いと思う。『さよならジュピター』では木星でのジュピターゴーストとの邂逅もそうだったが、まるで眼前にあるかの如く、解らないものを解らないまま描けるのが素晴らしい。災害のシーンなども主人公たちが不在のまま、何ページにもわたり淡々と書かれているのが却って恐ろしさを増している。やはりSFは人ではなく世界そのものを描く小説であるというのは、正しいのかも知れない。(ただ、ときおり挿入される、ホステスや愛人との取ってつけたようなロマンスは、いかにも昔の中間小説を思わせて少し気恥ずかしかった/笑い。)
小松左京はSFを書いてるけれど、SFでしか書けないものを(と思って)書いてるけれど、実は人間を書きたいのだ。本書もその点は同じで非常に熱い。献辞にある「すべて"大いなるもの"に立ちむかいつつある人々へ」という言葉を読むと、デビュー作の「地には平和を」や『果てしなき流れの果に』から希求するものが変わっていない気がする。大いなる自然を前にしてあまりにも無力な存在である人間が、それでも抗おうとする姿こそが、小松左京がその創作活動を通じて一貫して描こうとし続けたものであったに違いないのだ。(だから自分にとって人間ドラマとしても開高健『日本三文オペラ』のオマージュとしても、小松作品の最高作は『日本アパッチ族』なわけだが。)
話を『日本沈没』に戻そう。
そもそも小松左京の長篇は、綿密な準備に基づく書き込みで圧倒されるが基本的には思考実験なので、ドラマとしての面白さとSFとしての面白さが少しずれているように自分には感じられる。 (一方で短篇の場合は、力技で一気に押し込んだ切れ味鋭い作品が多い。)そういう意味では、『日本沈没』も先述のように驚異的なシミュレーションによる具体的で迫真性の高い描写と、日本と云う国とその国民の行く末に目を向けさえすればドラマとしての多少の欠点には目をつぶってもいいのかもしれない。
長くなってしまったが、最後にひとつだけ付け加えておきたい。『日本沈没』で描かれる政治家の振る舞いがいずれも素晴らしくて泣けるのだが、どこかで見覚えがあるとおもったら映画『シン・ゴジラ』だった。あの話は日本が沈まなかった『日本沈没』だったのだろう。

『パイドロス』プラトン 岩波文庫
弁論家リュシアスによる〈恋〉に関する論述をきっかけにして、ソクラテスと若者パイドロスが不死なる魂の求める真実性と、「知を愛する」ための技術としての弁論術のあるべき姿について語る対話篇の一冊。川辺で語る二人が気持ちよさそう。ところで本書では「自分を恋する者に身を委ねるか、それとも恋していないものと親密になるべきか」について議論がなされるのだが、ここで前提になっているのは壮年男性による少年愛。時代や場所が変われば「常識」も変わるのだ。

『真珠郎』横溝正史 角川文庫
金田一耕助とともに著者を代表する探偵キャラ由利麟太郎が活躍するシリーズ。妖艶で残酷な殺人鬼・真珠郎が一読忘れがたい印象を残す。横溝作品は視覚的イメージ豊かなものが多いが、本作も乱舞する蛍の中に佇む真珠郎や暗闇の洞窟など美しさと怖さの対比が巧い。『八つ墓村』のような冒険あり、『本陣殺人事件』のような凄惨あり、そして『犬神家の一族』のような耽美あり。思っていたよりかなり面白くて、もっと早くに読めばよかった。

『奪われた家/天国の扉』コルタサル 光文社古典新訳文庫
著者の実質的デビュー作にあたる『動物寓話集』を全訳したもので、現実と幻想と奇妙さが入り混じる八短篇を収録。 特に気に入ったのは表題二作と、「パリへ発った婦人宛ての手紙」「バス」。
「遥かな女」では訳者・寺尾隆吉氏による入魂の回文やアナグラムがすごかった。原著の雰囲気を残しつついかに他言語に置き換えるかという取り組みは、渡辺一夫氏による『ガルガンチュワ』『パンタグリュエル』や柳瀬尚紀氏による『フィネガンズ・ウェイク』を思い出させて大変に面白い。

2018年6月の読了本

6月は全部で11冊。土日に用事が入るとなかなか本を読むことが出来ない。
2か月またいでしまったので先月簡単にしか触れなかった『人間とはなにか』について、お約束通り上下巻あわせて書いてみた。

『人間とはなにか(上下)』マイケル・S・ガザニガ ちくま学芸文庫
認知神経科学の権威が、人間をユニークたらしめている点、あるいは人間を地球上で唯一無二の存在たらしめている点について、他の動物と人間の脳のはたらきに焦点を当てて生物学や心理学、医学や言語学など様々な角度から考察した本。上巻では脳の大きさや構造、発達心理学や言語、父系制と攻撃性、社会集団の形成と倫理、情動と共感能力などについて取り上げられ、下巻では芸術や美や、右脳と左脳の役割の違い、自己意識や知性などについて語られていて、結構たっぷりな内容である引用される先行研究も、リチャード・ランガムからアントニオ・ダマシオまで非常に幅広い。以下、かいつまんで中身を紹介してみよう。
たとえば人間とチンパンジーの「父系制」と雄の暴力性について語られた章ではランガムからの引用で、「人間とチンパンジーの攻撃性を引き起こす情動はプライド」「全盛期のチンパンジーのオスは、何をするにしても自分の地位に基づく」「すべての行為の目的はボスになることだ」 などなど、まるでどこかの国の政治家のような話が展開される。しかしその一方で人類は「互恵的な社会的交換」を長続きさせるため、「行動をしばらく抑制する」(=満足感を得るのを先送りする)能力と、「互恵的交換でごまかしをする者を罰する」能力という二つの能力を進化させてきたとのこと。これらは人間ならではの能力の例なのだそうだ。
次は芸術と美について。ナンシー・エイキンによれば、芸術とは①作品を生み出す芸術家、②作品自体、③作品の鑑賞者、④作品に鑑賞者が付与する価値、の四つの要素からなるものだそうだ。なんとなく同意できる内容ではある。またレイバー、シュワルツ、ウィンキールマンら3人の心理学者は「美」を美的な心地よさと定義し、知覚する者の処理ダイナミクスによるものであると神経科学の立場から主張しているそうだ。知覚する者が対象の心的な処理を滑らかに行えるほど美的反応がポジティブになるとのこと。なにを読んでも何となく納得してしまうのが面白い。またニコラス・ハンフリーによれば、「自然や芸術における美しい"構造"とは、事物の間にある"分類学的な"関係の証拠を、有益で理解しやすいかたちで示すことで(生物が自らの)分類作業を容易にするもの」だと結論付けている。してみると、美のパターン認識とは恐怖の感情等に起因する「ソマティック・マーカー仮説」に似たところがあるのかもしれない。
E.O.ウィルソンは著書『バイオフィリア』で「生物と生物でないものを見分け自発的に他の生物に関心をいだく生得的な傾向」について述べた。これは人間だけでなく動物にも共通の特徴といえる。しかし観察不可能な力に対して推論し、因果関係を説明しようとするのは唯一人間だけであるとも。たとえば疾病により左右の脳が分離した患者に対するテストの結果、右脳にだけ例えば「笑え」と指示を出すと、左脳は突然笑い出したことの適当な理由をでっち上げてしまうらし。知覚や情動に優位な右脳と、事象を解釈することに長けた左脳。人間はこれら二つの脳を使い分けながら、課題に優位な半球が主導権を握ることで問題解決を図るのだ。ふうむといった言葉しかでない。感心しながら読み進む。
自己意識について考察する章では、自己意識の有無を調べるのに、その論拠をエピソード記憶(=自分の経験に関する記憶)の実験で確かめようとする話がでてきて思わず唸った。さすがに実験心理学の人は頭がいい。ただ、人間以外の動物に自己意識があるかどうか結論が出ていないので、これが人間固有の特徴なのかどうかは判らないようだ。結論にはちょっと拍子抜けしたが、それはまあ致し方ないだろうと思う。知性の本質についての章では、AIとの比較を通じて検討を行うが、ジェフ・ホーキンスによる「記憶による予測説」というのを紹介していてたいへん面白かった。脳は外界からの入力に基づいて「計算」しているのではなく、膨大な量の記憶から合致するものを探して次に必要な行動を「予測」するのだそう。
以上、様々な角度から「人間とはなにか」について考察したようすをざっくりと紹介してみた。まるでデパートのように色々な話題が取り上げられているが、人間の脳のはたらきを調べるにはまさか侵襲検査をするわけにもいかないので、fMRIを使用したり、先天的な欠損を持つ人と健常な人との比較を行って調べた結果が中心になる。当然ながらなかなか「これだ!」という結論は出しにくいわけだが、読み終わると、人として生きることについて少し真摯になれるような気がする。そんな本である。

『新・繪釋夷蘇府(しん・ゑどきいそつぷ)』塚本邦雄[詞]/望月通陽[繪] 花曜社
旧仮名遣いで綴られた塚本版イソップ寓話に、まるでラスコー洞窟の壁画のような綺麗な挿画が添えられた美しい本。ページを開くと禽獣草木や農民猟師の、諧謔皮肉の効いた物語が目の前に次々と広がる。ひとつひとつはさらりと読めて、教訓はあるのかないのかよく分からないが(笑)、あとに残るビターな味わいがいい。オーウェル『動物農場』もそうだけれど、寓話は説教じみたものよりちょっと残酷な方が好い。

『里山奇談 めぐりゆく物語』coco/日高ともきち/玉川数 角川書店
こわい話に沁みる話、不思議な話など、人々が山と里で体験した出来事を聞き語りでまとめた『里山奇談』の第二集。「みちしるべ」「たずねびと」「牧場の怪」などは本当に怖いが、一方では「祖母の話」「はじまりの音」などはしみじみと好い。この本で良いのは変に脅かそうと構えたりせず、ニュートラルな姿勢に徹しているところ。著者が「生き物屋」の方たちゆえに山や里の自然への敬意をもち、あるがままに受け入れているからこそに違いない。タイプは違うが、いずれの話も読む者の心深くに分け入ってくる。それはきっと心開いているものにしか見えない世界を描いているからなのだろう。里山が自然と人界をつなぐ入口となっていることと関係しているのかも知れない。お薦めの本である。

『僕僕先生 恋せよ魂魄』仁木英之 新潮文庫
日本ファンタジーノベル大賞を受賞した人気作の第9巻で今回は「別れ」がテーマ。『僕僕先生』は今でも読み続けている数少ないシリーズのひとつ。自分は普段は本をキャラクターでは読まないのだがこのシリーズだけは別で、登場人物の想いについつい引き込まれて可笑しかったりつらかったりする物語を読み進むうちに、いつのまにか心のバランスがとれて楽になっている。じわじわと効いてくるのが、漢方や整体を施されているみたいでなんだか楽しい。まさに「読むクスリ」だ。

『眠る石 綺譚十五夜』中野美代子 日本文芸社
中国文学研究で知られる著者による幻想譚。七世紀の中央アジアや九世紀のジャワ、もしくは十六世紀のロンドンから二十世紀のアンコール・ワットまで古今東西さまざまな場所を巡って、そこに刻まれた過去の記憶を今に蘇らせる。そこに見えるは無常の影なのだろうか。カルヴィーノ『マルコポーロの見えない都市』や澁澤龍彦『高丘親王航海記』などが好きな人にはお薦めだと思う。中野美代子氏はこれまで『孫悟空の誕生』などの学術系の本しか読んでなかったのだけれど、創作もなかなかどうして。とても面白かった。同趣向の本らしい『ゼノンの時計』もぜひ読んでみたい。

『翻訳ってなんだろう?』鴻巣友季子 ちくまプリマー新書
文化センターで行われた翻訳講座をもとにして著者の翻訳論を紹介した本で、単なる「英文和訳」ではない「翻訳」の魅力を説明するため、有名な文学作品10作の一部を実際に訳しながら進んでいく。取り上げられるテキストも『赤毛のアン』『嵐が丘』『高慢と偏見』など有名なものばかりで親しみやすい。(ただ、取り上げられた作品で自分の守備範疇なのはキャロル『不思議の国のアリス』、ポー「アッシャー家の崩壊」の2作品ぐらいだったのが少し残念だった。趣味丸出しで申し訳ないが個人的にはブラックウッドやブラム・ストーカー、メアリー・シェリーなどもテキストに選んでもらえるともっと良かったとおもう。)
たとえば『嵐が丘』では人称を様々に変えて全体の印象がどう変わるかを試しているのだが、その中でヒースクリフとキャサリンの会話を関西弁で訳したのが滅法面白かった。
「これで、ようやっとあんさんのえげつなさがわかったで。つれのうて、うそばっかりや。」
文学作品を実際に訳してみると言葉の選び方による微妙なニュアンスの違いがよく判り、翻訳の面白さと難しさが見えてくるのだ。なお自分は普段は紙の書籍派なのだが、この本に限って言えば紙の書籍より電子書籍の方が向いていると思う。単語の意味を調べるのに電子書籍の方が圧倒的に便利だ。

『異妖新篇』岡本綺堂 中公文庫
〈岡本綺堂読物集〉の第六集。怪談とも探偵小説とも判然としない味わいの十短篇のほか、附録として「S君の話」「綺堂夜話」の二篇が収録されている。集中で好きな作品は、特に怖さが際立つ「西瓜」「くろん坊」「妖婆」の三つ。包みの中の西瓜が女の生首に変じたという古文書の記録をめぐる怪談「西瓜」など、基本的に怪異の原因について説明は無いのだが、そこがいい。ラフカディオ・ハーンの「茶碗の中」を引き合いに出すまでもなく、意味のない異変というのが一等怖いのだ。
話は変わるが綺堂の場合、ある場所を訪れた他所者がその土地や人にまつわる曰く因縁についての話を聞くというものが多いように思う。本書を読んでいてもしかして能のフレームじゃなかろうかと気がついた。懐かしい感じがするのは、そのせいもあるかも知れない。

『増補 健康半分』赤瀬川原平 デコ
本の存在自体を知らなかったのだが、古本市で見かけて購入。元は病院の待合室に置く小冊子『からころ』に「病気よ窓」という題名で連載されていたものだそうだ。絶筆となった「頭に広がる謎の答え」も収録され、解説は編集者の松田哲夫氏。古書とはいえ出会えて良かった。本書を読むと、赤瀬川氏は歳をとって肩の力がさらに抜け、老人力から健康半分へと進化したようだ。 「人には好きなものと嫌いなものとあるが、その『好き』の方が先に出る人と『嫌い』の方が先に出る人といるのではないか。」「人生も押し迫ってくると、『好き』が強いお人好しタイプの方が楽な気がする。」とてもいいなあ。

『キリストの身体』岡田温司 中公新書
キリスト教世界で様々な変奏を重ねながら表されてきたキリストの図像に関する解説書。第Ⅰ章「美しいキリスト、醜いキリスト」から第Ⅴ章「愛の傷」まで、肖像やイコン、聖体や聖痕、受難の傷や心臓が持つ意味が、多くの図像を用いて解りやすく語られる。
その容姿が伝えられていないナザレのイエスは、それ故に西洋の人々の宗教観と美意識を映し出す鏡となってきた。美と醜、二つのイメージを揺れ動くナザレのイエス。第Ⅰ章ではこれまで様々に語られ描かれてきたイエスの姿を通じて、キリスト教的な世界観を指し示している。光輝く美しいキリストと虐げられ痛めつけられた醜いキリスト。二つの異なるイメージが特徴的な信仰は、偶像への愛着と嫌悪という、相反する感情ないし態度を表しているのだ。なおこのようなあり方を偶像崇拝とも偶像破壊とも区別する意味で「イコノクラッシュ」と呼ぶことがあるそうだ。偶像破壊論者に対するイコン擁護の論説を読んでいると、密教における観想と仏像の関係につながっていくようで面白い。
つづく第Ⅱ章ではパンとワインがキリストの血と肉になることについて考察される、これまた面白い。最後の晩餐でイエスは自らをなぞらえたパンと血を弟子達に供した。この晩餐の起源はユダヤ教の過越の祝いの食事(セデル)にあるのではないかとのこと。食卓で小さくちぎって横に除けられる「アフィコメン」という種なしパンには、「到来するもの」という意味も含まれているという。やがて12世紀になると聖別されたパンとワインすなわち聖体の拝領を通じて教会は共同体として一体化し、「キリストの神秘体」と同一であるとみなされることになる。こうして聖体そのものが崇拝の対象として扱われるようになっていくのだ。
そんなに厚くない本なのに情報量が多くて読むのにすこし時間がかかる。この著者の本、中公新書で他にもいろいろ出ているがどれもハズレなしというのがすごいよね。

『タイタンの妖女』カート・ヴォネガット・ジュニア ハヤカワ文庫
SFという枠を超えてアメリカ文学を代表する存在となった著者の初期代表作のひとつ。登場人たちをみまう滑稽かつ残酷な運命の物語は、苦しくて皮肉だが諦観とは違う、宥しと愛情に溢れた人生を描いて秀逸である。読書会の課題本ということで久しぶりに再読したが、印象はまったく変わらなかった。やはり著者の中で一番好きな作品だ。
読書会の時に「読みにくかった」という声を聞いたのだが、自分はそんな印象はなかったので少し意外だった。そういわれてみるとたしかにヴォネガットの文章には一種独特な仰々しさというか、まだるっこしさみたいなものがある。(村上春樹や高橋源一郎が影響を受けたというのも、さもありなん。)でもこれは基本的に「慣れ」なのではないだろうか。読み慣れるとそれなりに心地よさを感じてしまう、そんな中毒性があるのがヴォネガットの文体ではないかと思うのだ。
実をいうと〈徹底的に無関心な神の教会〉についてはすっかりその存在を忘れてしまっていたのが、宗教(とくにキリスト教教会)に対する皮肉がかなり効いていて好かった。(ボコノン教よりも好きかも知れない。)
本書は登場人物がことごとく不幸に見舞われる救いようのない物語なわけだが、そんな中でも「かりちゃった、あ、テント」のような戯れ歌や、水星のシーンやラストの雪のシーンなどのリリカルな描写が奇跡のように心に残る。どんなにつらく理不尽な運命であっても心に救いはあるという、まるでバカボンパパの「これでいいのだ」のような全肯定感こそが本書の魅力ではないだろうか。ヴォネガットはアイロニカルではあるけれどシニカルではないのだ。やはり傑作と感じた次第である。
余談だが、時間等曲率漏斗に囚われて全時間を知るラムフォードに、はたして自由意志はあるのか?ということを考えると、SFファンとしてはシルヴァーバーグ『確率人間』(ミステリファンなら山口雅也『奇遇』?)を思い出す。もしかしたら本書の登場人物の中で最も不幸なのはラムフォードなのかも知れない。以上、読書会でラムフォードを目の仇のようにする意見があったのでちょっとつけたし。

『かもめのジョナサン【完成版】』リチャード・バック 新潮社
かつて大ベストセラーになった寓話に数十年ぶりに最終章が加わったもの。以前はキリストや仏陀のような解脱者の雰囲気が漂う終わり方だったが、追加された第4章では後の世代による神格化と再発見が描かれる。なるほどという感じ。惜しむらくは五木寛之氏による訳が、国重純二氏と菅野楽章氏による元の訳を「自由に」変えてしまったものだということ。ご本人は「創訳」と呼んでいるが、いわゆる「超訳」と同じようなものであろう。『イリュージョン』の作者による神秘化の否定の物語を、出来れば手を入れない訳で読みたかった。

2018年5月の読了本

『マニエリスム談義』高山宏×巽孝之 彩流社
「学魔」高山宏氏とアメリカ文学史の碩学である巽孝之氏による対談集。グスタフ・ルネ・ホッケが広げたマニエリスムの視点から、アメリカン・マニエリスムと呼ばれる文学作品の流れについて、ポーやメルヴィル、ピンチョンまでをいわゆる「英米文学論」の枠を遥かに超えて楽しく語り尽くす。キーワードは「見方の快楽主義」。そう、マニエリスムとは見方をずらすことで得られる快楽であり、それによってレトリックやピクチャレスクといった幅広い概念が統一されてゆく。軽い読み口だが結構深い。巻末には本編とは別に、ユリイカの2015年3月臨時増刊号『150年目の「不思議の国のアリス」』に掲載された両氏による対談「『不思議の国のアリス』と/のアメリカニズム」が特別収録されているのも良かった。
本書を愉しむには少し前知識があった方が良いかもしれない。「マニエリスム」とは元々は美術用語であり、イタリアルネッサンス後期の作品に見られる傾向を指す言葉。技巧的/作為的で素直な写実でない構図や、何らかの意図を加えた表徴が特徴なのだが、のちにグスタフ・ルネ・ホッケが著書『迷宮としての世界』においてシュールレアリスム等を含むもっと広い概念として展開した。ホッケはさらに絵画だけでなく文学のジャンルにもその概念を敷衍し、全く別の概念を借りて人工的な世界を作り出した小説(例えばSF)なども「マニエリスムの文学」として定義した。(ここまでくると最初の面影はまったくない。)日本では種村季弘氏、高山宏氏、若桑みどり氏らにより紹介され、美術史や欧州文学を中心とした研究が進んでいる。また「アメリカン・マニエリスム」とは、アメリカ文学の潮流をマニエリスムの観点から捉え直そうとする運動のこと。対象としては先述のエドガー・アラン・ポーやメルヴィルなどが挙げられる。
とまあ、背景についてざっくりと書いてみたけど、自分もそんなに詳しいわけではないのだ(笑)。読んでいると知らない研究者や書名が次から次へ出てくるけど、取り敢えずそのあたりはさらりと流しながら2人の会話を愉しめば良いのではないかと思う。
内容は結構刺激的だ。例えばポーの書いた探偵小説論においては、「統一性/unity」「多様性/variety」「独創性/originality」が三大原理とされているが、これは彼自身が編集者として腕をふるった「雑誌」の構成理論であり、そしてまた丸ごとマニエリスムの定義でもピクチャレスクの定義でもあるとのこと。フランス語でmagasin(マガザン)とは倉庫のことであり、さらにこれはドイツ語で言うところのヴンダーカンマー(驚異の部屋)に近い。
高山氏「だからポーの文学を見て、目がチラチラするとか言う人間はおかしいんだよ。何か変な展覧会見て目がチラチラするのと同じレベルの問題だからね。」「ゴシックはマニエリスムの最俗悪の部分を集めちゃった世界でしょう。一番世俗的に受ける、貴族趣味から落っこちてきた最悪の部分を全部ガラクタのように集めちゃった。」
うーん、面白い。中で冗談めかして書かれている「高山宏:本文訳、巽孝之:脚註訳の『白鯨』と『詳注 エドガー・アラン・ポー小説集』」はぜひ読んでみたい。実現してほしいものだ。
第二章は「ピクチャレスク・アメリカ」と称して、カント以来の造園術が織りなすピクチャレスクの伝統として、ポーの「アルンハイムの地所」における〈第二の自然〉やJ・G・バラードの「テクノロジカル・ランドスケープ」、W・ギブスンの「電脳空間(サイバースペース)」を捉え直したりして、これまた大変に面白い。
fact(事実)とfiction(創作)は語源的には区別がないとか、amazing(驚き)の中にはmaze(迷路)があるとか、何気ない言葉の端々に刺激を受ける。フーコーの『言葉と物』も読みたくなってくるし、いい本は次々に本を呼ぶのだなあ。

『ケンジントン公園のピーター・パン』バリー 光文社古典新訳文庫
ピーター・パンといえばアニメにもなった『ピーターとウェンディ』があまりにも有名だが、本書はそれに先立って作者バリーが小説『白い小鳥』の中で初めて語ったピーター・パンの物語だ。もとは語り手の男性がディヴィドという少年と一緒に、ケンジントン公園を舞台にした鳥や妖精たちの不思議な物語を作り上げるという「話中話」なのだが、本書はその部分だけを取り出したもの。母親の元から妖精の世界へと去った永遠の幼児ピーター・パンが初めて登場する哀しい話となっている。全編に漂う物哀しさについては、巻末の訳者・南條竹則氏による詳しい解説で理解できたが、なんとなく『アンパンマン』誕生の話を思い出した。

『海うそ』梨木香歩 岩波現代文庫
昭和のはじめに南九州の孤島「遅島」を民俗学のフィールドワークで訪れた「わたし」。そこでの人々との交流と神秘的体験は心に傷を持つ「私わたしに長く忘れ得ぬ記憶を残し、そして50年後の再訪による喪失と流転の合一は救済と得心へと結実する。美しい物語だ。
ウネさんによる、雨が降ると海から雨坊主がやってきて縁先にずらりと並んでおんおん泣くという話、あるいは小舟に乗るときは船霊(ふなだま)さんに手を合わせて無事をお願いするのだという話など、島に伝わる民俗学的な風習を読むのが愉しい。序盤からぼんやりと感じられた不穏な空気は、中盤にさしかかって平和な島に隠された廃仏毀釈の過酷な歴史が見え隠れし始めたところで腑に落ちる。中世哲学研究家の山内志朗氏による解説も、通時的な軸と共時的な軸をもとにして本書における神秘体験の本質を読み解いており、たいへんに面白い。

『飛ぶ孔雀』山尾悠子 文藝春秋
待ちに待った山尾作品。『歪み真珠』以来8年ぶりの新刊だが、連作長篇としては2003年の『ラピスラズリ』以来だから15年ぶりとなるのか。相変わらず一筋縄ではいかないが、そこが好い。相関図や作中の出来事を整理して何度も読み返す。しかし結局は藪の中となり、それが余韻となってまた再びページをめくりたくなってしまう。こうなると中毒みたいなものである。
「火を熾し難くなった世界」を舞台にした二つの中篇「飛ぶ孔雀」「不燃性について」は、カードの裏表の様に時に錯綜し時に重なり合って読者を迷わせる。不思議な街に蠢くおかしな人々や様々なメタファーも心地いい。
(それにしても山尾作品にはすり鉢状や円筒状の建物がよく出てくるな。)

『人間とはなにか(上)』マイケル・S・ガザニガ ちくま学芸文庫
認知神経科学の権威による、人間を地球上で唯一無二のユニークな存在たらしめている要因、いわゆる「人間らしさ」について考察した本。上巻では脳の大きさや構造、発達心理学や言語、父系制と攻撃性、社会集団の形成と倫理、情動と共感能力などについて取り上げられる。

『太陽肛門』G・バタイユ 景文館書店
若きバタイユがロシアの哲学者レフ・シェストフやニーチェの影響の下に書いた宣言書。エロティシズムと挑発に満ちた難解な文章だが、訳者の酒井健氏による解題がわかりやすい。魂の危機に際してバタイユが辿った思想の遍歴とその到達点が興味深い。先に読んだ『マニエリスム談義』を思い出した。マニエリスムのお手本のような本である。エロで悪趣味で厨二でマニエリスムとは、バタイユはやはりすごい。そして頭がおかしい。

『ギョウザとわたし/餃子和我』南條竹則 惑星と口笛ブックス
焼餃子や水餃子に蒸し餃子は勿論のことワンタンや包子に焼売といった、著者がこれまで味わってきた様々な「餃子」の思い出を綴った味なエッセイ。国内の小さな店から本場中国や台湾の高級店まで、数多くの店と記憶が詰まっている。餃子とは庶民的な食べ物であり、かつご馳走でもあるため、餃子について語ることは文化について語ることにもなる。そしてなにより餃子をつまみながら中国酒を飲む様子がいかにも旨そうだ。氏は老酒より白酒の方が好みのようで、餃子のように気軽に読み進むうち過去の記憶が琥珀色に染まり、古酒の薫りが漂ってくる。(それにしても竹の香りの酒は聞いたことがあるが、蓮や菊や薔薇の薬酒というのは知らなかった。さすが『酒仙』や『中華満喫』の著者である。)
『「好吃不如餃子、舒服不如倒着」という中国北方の諺は、「餃子より美味い物はなく、寝るより楽はない」という程度の意味らしい。飾らない食は心をうつすのだ。

『ボウエン幻想短篇集』エリザベス・ボウエン 国書刊行会
7冊の短篇集から選んだ17の作品に加え、短篇集の序文4つを収録した日本オリジナルの短篇作品集。収録作には故郷アイルランドや戦時下を舞台にした作品が多いのだが、「序文」を読んで背景を理解することができた。幽霊譚はどれも味わいながら読んだが、それ以外にも一瞬のうちに現実に寄り添う超自然的要素が良い味を出している。彼女にとって幻想とは人と世界の狭間に生まれる不安定な関係なのかもしれない。過去の出来事がはっきりとは示されないまま、不穏な心理ゲームが進行してゆく様子がいかにも巧い。そして怖い話はほんとうに怖い。どうしたらこんな話を思いつけるのだろう。
特に気に入った作品は「嵐」「奥の客間」「林檎の木」「十六番」「あの薔薇を見てよ」「恋人は悪魔」「幻のコー」「闇の中の一日」とたくさんあるが、さらにベストスリーを選ぶとすれば「恋人は悪魔」「幻のコー」「闇の中の一日」あたりだろうか。怖い話が好きなら正統派のゴーストストーリー「奥の客間」や戦慄的なイメージの「林檎の木」などもお薦め。訳者の太田良子氏による解題も参考になる。ボウエンを丸谷才一が好きだったというのは何となく解る気がした。

『変愛小説集 日本作家編』岸本佐知子編 講談社文庫
題名は「恋愛」ではなく「変愛(ヘンアイ)」。様々な形の「変な愛」を描いた作品ばかりを集めたオリジナル・アンソロジーの文庫化だ。ここでいう愛とはひとりの人をめぐる関係性を指すものであり、即ち自分好みの変な作品ばかりという事でもある。収録されている作品は十六編あるがどれも変でどれも面白い。単行本から再録が叶わなかった作品があるそうなので、いずれ元本も読んで見なければなるまい。特に気に入った作品は多和田葉子「韋駄天どこまでも」、本谷有希子「藁の夫」、安藤桃子「カウンターイルミネーション」あたりだろうか。

『白魔』マッケン 光文社古典新訳文庫
『夢の丘』等で有名な著書による代表的短篇の表題作と、日常の世界の陰に潜むもうひとつの世界への誘いを描く中篇「生活のかけら」、そして『翡翠の飾り』の中から三つの掌編を収録。クロウリー『リトル、ビッグ』のように隠された真の世界が妖しくも美しい。訳者の南條竹則氏も書かれているが、マッケンが描く女性はいずれも他の幻想小説と違って「小説の飾り」ではなく血が通った存在なのが好い。だからこそ「白魔」では、少女が残した手記に登場する「白い人」や二重写しになる幻想世界が余計恐ろしくも魅力的に見えてくるのだ。
自分は結局のところレオ・レオーニ『平行植物』や中原中也「一つのメルヘン」のように、〈至高の世界〉やその反対の〈妖魔の世界〉ということでもなく、我々の住む世界とは違う世界がただ無関係に存在しているだけというのが好きなのだと、読むうちに改めて気づかされた。
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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