2018年5月の読了本

『マニエリスム談義』高山宏×巽孝之 彩流社
「学魔」高山宏氏とアメリカ文学史の碩学である巽孝之氏による対談集。グスタフ・ルネ・ホッケが広げたマニエリスムの視点から、アメリカン・マニエリスムと呼ばれる文学作品の流れについて、ポーやメルヴィル、ピンチョンまでをいわゆる「英米文学論」の枠を遥かに超えて楽しく語り尽くす。キーワードは「見方の快楽主義」。そう、マニエリスムとは見方をずらすことで得られる快楽であり、それによってレトリックやピクチャレスクといった幅広い概念が統一されてゆく。軽い読み口だが結構深い。巻末には本編とは別に、ユリイカの2015年3月臨時増刊号『150年目の「不思議の国のアリス」』に掲載された両氏による対談「『不思議の国のアリス』と/のアメリカニズム」が特別収録されているのも良かった。
本書を愉しむには少し前知識があった方が良いかもしれない。「マニエリスム」とは元々は美術用語であり、イタリアルネッサンス後期の作品に見られる傾向を指す言葉。技巧的/作為的で素直な写実でない構図や、何らかの意図を加えた表徴が特徴なのだが、のちにグスタフ・ルネ・ホッケが著書『迷宮としての世界』においてシュールレアリスム等を含むもっと広い概念として展開した。ホッケはさらに絵画だけでなく文学のジャンルにもその概念を敷衍し、全く別の概念を借りて人工的な世界を作り出した小説(例えばSF)なども「マニエリスムの文学」として定義した。(ここまでくると最初の面影はまったくない。)日本では種村季弘氏、高山宏氏、若桑みどり氏らにより紹介され、美術史や欧州文学を中心とした研究が進んでいる。また「アメリカン・マニエリスム」とは、アメリカ文学の潮流をマニエリスムの観点から捉え直そうとする運動のこと。対象としては先述のエドガー・アラン・ポーやメルヴィルなどが挙げられる。
とまあ、背景についてざっくりと書いてみたけど、自分もそんなに詳しいわけではないのだ(笑)。読んでいると知らない研究者や書名が次から次へ出てくるけど、取り敢えずそのあたりはさらりと流しながら2人の会話を愉しめば良いのではないかと思う。
内容は結構刺激的だ。例えばポーの書いた探偵小説論においては、「統一性/unity」「多様性/variety」「独創性/originality」が三大原理とされているが、これは彼自身が編集者として腕をふるった「雑誌」の構成理論であり、そしてまた丸ごとマニエリスムの定義でもピクチャレスクの定義でもあるとのこと。フランス語でmagasin(マガザン)とは倉庫のことであり、さらにこれはドイツ語で言うところのヴンダーカンマー(驚異の部屋)に近い。
高山氏「だからポーの文学を見て、目がチラチラするとか言う人間はおかしいんだよ。何か変な展覧会見て目がチラチラするのと同じレベルの問題だからね。」「ゴシックはマニエリスムの最俗悪の部分を集めちゃった世界でしょう。一番世俗的に受ける、貴族趣味から落っこちてきた最悪の部分を全部ガラクタのように集めちゃった。」
うーん、面白い。中で冗談めかして書かれている「高山宏:本文訳、巽孝之:脚註訳の『白鯨』と『詳注 エドガー・アラン・ポー小説集』」はぜひ読んでみたい。実現してほしいものだ。
第二章は「ピクチャレスク・アメリカ」と称して、カント以来の造園術が織りなすピクチャレスクの伝統として、ポーの「アルンハイムの地所」における〈第二の自然〉やJ・G・バラードの「テクノロジカル・ランドスケープ」、W・ギブスンの「電脳空間(サイバースペース)」を捉え直したりして、これまた大変に面白い。
fact(事実)とfiction(創作)は語源的には区別がないとか、amazing(驚き)の中にはmaze(迷路)があるとか、何気ない言葉の端々に刺激を受ける。フーコーの『言葉と物』も読みたくなってくるし、いい本は次々に本を呼ぶのだなあ。

『ケンジントン公園のピーター・パン』バリー 光文社古典新訳文庫
ピーター・パンといえばアニメにもなった『ピーターとウェンディ』があまりにも有名だが、本書はそれに先立って作者バリーが小説『白い小鳥』の中で初めて語ったピーター・パンの物語だ。もとは語り手の男性がディヴィドという少年と一緒に、ケンジントン公園を舞台にした鳥や妖精たちの不思議な物語を作り上げるという「話中話」なのだが、本書はその部分だけを取り出したもの。母親の元から妖精の世界へと去った永遠の幼児ピーター・パンが初めて登場する哀しい話となっている。全編に漂う物哀しさについては、巻末の訳者・南條竹則氏による詳しい解説で理解できたが、なんとなく『アンパンマン』誕生の話を思い出した。

『海うそ』梨木香歩 岩波現代文庫
昭和のはじめに南九州の孤島「遅島」を民俗学のフィールドワークで訪れた「わたし」。そこでの人々との交流と神秘的体験は心に傷を持つ「私わたしに長く忘れ得ぬ記憶を残し、そして50年後の再訪による喪失と流転の合一は救済と得心へと結実する。美しい物語だ。
ウネさんによる、雨が降ると海から雨坊主がやってきて縁先にずらりと並んでおんおん泣くという話、あるいは小舟に乗るときは船霊(ふなだま)さんに手を合わせて無事をお願いするのだという話など、島に伝わる民俗学的な風習を読むのが愉しい。序盤からぼんやりと感じられた不穏な空気は、中盤にさしかかって平和な島に隠された廃仏毀釈の過酷な歴史が見え隠れし始めたところで腑に落ちる。中世哲学研究家の山内志朗氏による解説も、通時的な軸と共時的な軸をもとにして本書における神秘体験の本質を読み解いており、たいへんに面白い。

『飛ぶ孔雀』山尾悠子 文藝春秋
待ちに待った山尾作品。『歪み真珠』以来8年ぶりの新刊だが、連作長篇としては2003年の『ラピスラズリ』以来だから15年ぶりとなるのか。相変わらず一筋縄ではいかないが、そこが好い。相関図や作中の出来事を整理して何度も読み返す。しかし結局は藪の中となり、それが余韻となってまた再びページをめくりたくなってしまう。こうなると中毒みたいなものである。
「火を熾し難くなった世界」を舞台にした二つの中篇「飛ぶ孔雀」「不燃性について」は、カードの裏表の様に時に錯綜し時に重なり合って読者を迷わせる。不思議な街に蠢くおかしな人々や様々なメタファーも心地いい。
(それにしても山尾作品にはすり鉢状や円筒状の建物がよく出てくるな。)

『人間とはなにか(上)』マイケル・S・ガザニガ ちくま学芸文庫
認知神経科学の権威による、人間を地球上で唯一無二のユニークな存在たらしめている要因、いわゆる「人間らしさ」について考察した本。上巻では脳の大きさや構造、発達心理学や言語、父系制と攻撃性、社会集団の形成と倫理、情動と共感能力などについて取り上げられる。

『太陽肛門』G・バタイユ 景文館書店
若きバタイユがロシアの哲学者レフ・シェストフやニーチェの影響の下に書いた宣言書。エロティシズムと挑発に満ちた難解な文章だが、訳者の酒井健氏による解題がわかりやすい。魂の危機に際してバタイユが辿った思想の遍歴とその到達点が興味深い。先に読んだ『マニエリスム談義』を思い出した。マニエリスムのお手本のような本である。エロで悪趣味で厨二でマニエリスムとは、バタイユはやはりすごい。そして頭がおかしい。

『ギョウザとわたし/餃子和我』南條竹則 惑星と口笛ブックス
焼餃子や水餃子に蒸し餃子は勿論のことワンタンや包子に焼売といった、著者がこれまで味わってきた様々な「餃子」の思い出を綴った味なエッセイ。国内の小さな店から本場中国や台湾の高級店まで、数多くの店と記憶が詰まっている。餃子とは庶民的な食べ物であり、かつご馳走でもあるため、餃子について語ることは文化について語ることにもなる。そしてなにより餃子をつまみながら中国酒を飲む様子がいかにも旨そうだ。氏は老酒より白酒の方が好みのようで、餃子のように気軽に読み進むうち過去の記憶が琥珀色に染まり、古酒の薫りが漂ってくる。(それにしても竹の香りの酒は聞いたことがあるが、蓮や菊や薔薇の薬酒というのは知らなかった。さすが『酒仙』や『中華満喫』の著者である。)
『「好吃不如餃子、舒服不如倒着」という中国北方の諺は、「餃子より美味い物はなく、寝るより楽はない」という程度の意味らしい。飾らない食は心をうつすのだ。

『ボウエン幻想短篇集』エリザベス・ボウエン 国書刊行会
7冊の短篇集から選んだ17の作品に加え、短篇集の序文4つを収録した日本オリジナルの短篇作品集。収録作には故郷アイルランドや戦時下を舞台にした作品が多いのだが、「序文」を読んで背景を理解することができた。幽霊譚はどれも味わいながら読んだが、それ以外にも一瞬のうちに現実に寄り添う超自然的要素が良い味を出している。彼女にとって幻想とは人と世界の狭間に生まれる不安定な関係なのかもしれない。過去の出来事がはっきりとは示されないまま、不穏な心理ゲームが進行してゆく様子がいかにも巧い。そして怖い話はほんとうに怖い。どうしたらこんな話を思いつけるのだろう。
特に気に入った作品は「嵐」「奥の客間」「林檎の木」「十六番」「あの薔薇を見てよ」「恋人は悪魔」「幻のコー」「闇の中の一日」とたくさんあるが、さらにベストスリーを選ぶとすれば「恋人は悪魔」「幻のコー」「闇の中の一日」あたりだろうか。怖い話が好きなら正統派のゴーストストーリー「奥の客間」や戦慄的なイメージの「林檎の木」などもお薦め。訳者の太田良子氏による解題も参考になる。ボウエンを丸谷才一が好きだったというのは何となく解る気がした。

『変愛小説集 日本作家編』岸本佐知子編 講談社文庫
題名は「恋愛」ではなく「変愛(ヘンアイ)」。様々な形の「変な愛」を描いた作品ばかりを集めたオリジナル・アンソロジーの文庫化だ。ここでいう愛とはひとりの人をめぐる関係性を指すものであり、即ち自分好みの変な作品ばかりという事でもある。収録されている作品は十六編あるがどれも変でどれも面白い。単行本から再録が叶わなかった作品があるそうなので、いずれ元本も読んで見なければなるまい。特に気に入った作品は多和田葉子「韋駄天どこまでも」、本谷有希子「藁の夫」、安藤桃子「カウンターイルミネーション」あたりだろうか。

『白魔』マッケン 光文社古典新訳文庫
『夢の丘』等で有名な著書による代表的短篇の表題作と、日常の世界の陰に潜むもうひとつの世界への誘いを描く中篇「生活のかけら」、そして『翡翠の飾り』の中から三つの掌編を収録。クロウリー『リトル、ビッグ』のように隠された真の世界が妖しくも美しい。訳者の南條竹則氏も書かれているが、マッケンが描く女性はいずれも他の幻想小説と違って「小説の飾り」ではなく血が通った存在なのが好い。だからこそ「白魔」では、少女が残した手記に登場する「白い人」や二重写しになる幻想世界が余計恐ろしくも魅力的に見えてくるのだ。
自分は結局のところレオ・レオーニ『平行植物』や中原中也「一つのメルヘン」のように、〈至高の世界〉やその反対の〈妖魔の世界〉ということでもなく、我々の住む世界とは違う世界がただ無関係に存在しているだけというのが好きなのだと、読むうちに改めて気づかされた。
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2018年4月の読了本

今月は光文社古典新訳文庫版の《ナルニア国物語》の一気読みに挑戦してみた。これまでのスタンダードである岩波少年文庫版(瀬田貞二訳)は著者ルイスが生前に刊行した順番になっているが、こちらは現在の欧米で主流になっている物語の中の年代順になっている。子ども向け文学はさほど読まずに来たので、このシリーズは今回初めて読んでみたのだが、色々な意味で愉しく読めた。イラストレーターのYOUCHAN氏による挿絵が土屋京子氏による現代風の訳文にぴったり合っていて、ともすれば重苦しくなる話を読みやすいものにしてくれていた。

『魔術師のおい』C・S・ルイス 光文社古典新訳文庫
年代順シリーズの第1巻。ナルニア国がいかにしてできあがり、第2巻に登場する魔女がいかにしてこの地に至ったかが語られる。語り口は平易で、紋切り型の展開が少々鼻につくところもあるが子ども向けの物語として、これはこれでわるくない。子供たちが「やってはいけないこと」をするたびに新たな展開があるのが、なんといっても懐かしい感じ。「禁忌の侵犯」は子ども向けの物語の王道だと思う。
禁忌といえば、いっぱいまで巻かれたゼンマイに付けられた留め金や、もしくは高所に持ち上げられた錘を支える柱のようなイメージがある。不用意に触ると蓄えられた大きなエネルギーが一気に解放されて大変なことになるのだ。(しかし子供というものは、なんでも触ってみて次にどうなるか知りたい存在なのだよね。)
ちなみに禁忌のもうひとつのイメージは「契約違反」。宗教的にはこちらの方がメインかもいれない。

『ライオンと魔女と衣装だんす』C・S・ルイス 光文社古典新訳文庫
ナルニア国物語の中で最も有名な作品。ライオンのアスランをはじめキリスト教的な象徴があちこちに散りばめられていて、躍動感ある描写と波瀾万丈なストーリーは確かに読む者を飽きさせない。「ほう、次はこうくるのか」という感じ。
本書で一番の見せ場である〈いにしえよりも古い魔法〉のくだりでは、「裏切りを犯したことが無いものが自ら進んで生け贄となり、裏切り者の代わりに捧げられた時、石舞台が割れ死は時を遡る」という定めが登場するが、これなどはまさに贖罪そのものであり、この辺りのキリスト教的な世界観が本書の欠点でもあり魅力でもあるのだと思う。(ちなみに、本書を読んでいる間じゅうエドマンドの不甲斐なさにずっといらいらしていた。もしかすると、子どもの頃だったら最後まで読み通せなかったかも知れない。)

『馬と少年』C・S・ルイス 光文社古典新訳文庫
前作で子供だった四兄弟姉妹が立派な王族になって登場する。(このように世代が移り変わっていくのが年代記の魅力であることを再認識した。)物語は一組の少年少女が波瀾万丈の冒険の末、ついに自由を勝ち取るというもの。この手の話は面白くないわけがない。ただ、ライオンのアスランによって無から創造されたはずのナルニア国が、本書ではアーケンやカロールメンといった蛮族の国にも見劣りするただの一小国になってしまっている点がすこし気になった。十字軍とか異教徒への布教など、現実世界のキリスト教にまつわる矛盾が無意識のうちに反映されているような気もする。
ところで、このあたりまで読んだところで、ピアズ・アンソニイが《魔法の国ザンス》を書くときには本シリーズの設定を参考にしたのではないか、という気持ちが強くなってきた。ザンスの方は本シリーズとは違ってギャグやパロディが満載だけど。(ザンスシリーズは最初のうちは普通のファンタジーだったのだが、『夢馬の使命』のあたりから「架空の国を舞台にした年代記」という体裁を捨てて、キャラクターものへと路線変更していったような印象がある。)

『カスピアン王子』C・S・ルイス 光文社古典新訳文庫
ピーター上級王らの治世から時を経て人間が支配する世界へと変わってしまったナルニア。昔のナルニアを取り戻すため〈古きナルニア人〉とともに立ち上がったカスピアン王子を救わんと、呼び戻されたピーター達が活躍する。これまでの「善と悪」あるいは「敬虔と欺瞞」と言った対立の構図から、今回は人間的な世界観とデュオニソス的・異教的な世界観の対立になっているのが大変に興味深い。より一般的(?)なファンタジーの技法に近付いている気がするが、作者的には本当にそれで良いのか?という気もする。アスランの存在を「喜び/JOY」の視点から繙いてみせる井辻朱美氏の解説が示唆に富んでいて大変によかった。

『ドーン・トレッダー号の航海』C・S・ルイス 光文社古典新訳文庫
前巻に続いてカスピアン王子、そしてルーシーおよびエドマンドの兄妹が登場する。本書で初登場なのは彼らの従弟である(いけ好かない)ユースティス。一行は帆船ドーン・トレッダー号に乗り奇妙な島々を巡りつつ、世界の果てまで驚くべき航海を繰り広げる。驚異の島々を巡る冒険はアルゴ探検隊などの正統的な末裔であり、個人的には本書がシリーズの中で物語として一番まとまっている気がした。(そういえば手塚治虫による漫画『三つ目がとおる』の「イースター島航海編」は、「死水島」など本書に登場する島々に何となく似ていた。『ナルニア国物語』は当然読んでいそうだし、インスピレーションをもらっていた可能性はあると思う。)
ちなみに巻末の立原透耶氏による解説(というより熱烈なファンレター)が最高だった。ここまで読んできた読者へのご褒美といって良いかも知れない。

『銀の椅子』C・S・ルイス 光文社古典新訳文庫
前巻まで続いてきた陽光と緑に満ちた世界から、雪と闇の世界へと舞台が大きく変わる。喪われし者を取り戻すために冥府へと赴く物語は様々な神話や説話で語られてきたが、まさかこのナルニア国物語でお目にかかるとは思わなかった。ムーミンシリーズでも『ムーミン谷の彗星』や『ムーミン谷の冬』など、明るいばかりでない世界が描かれていたが、本書は同じような位置付けにあたる物語ではないだろうか。本書はテーマをひと言で表すとすれば「裏ナルニア」あるいは「衰弱と死」。前半は若干つらかったが、後半になり安達ヶ原あるいは青髭のような人食い鬼のエピソードを経て、イナンナやオルフェウスの如き冥界下りになってからが面白い。(ただし昏い。子どもが読むとトラウマになるタイプの話かも知れない。本書ではカスピアン王子たちの老いもポイントになっている。)
今回重要になるのは「誓約」(=為すべきことを示す「しるし」とその履行)なのだが、それを守らなくても結果オーライで進んでいくのには少々ひっかかるものがあった。本シリーズでは精神的に幼い子どもが冒険を通じて成長するのがひとつのパターンになっていて、それが読者である子供たちの心をつかむのだろうが、主人公が二人揃って駄目な子どもというのはいかがなものかという気はする。ただそういった不完全と思われる部分も含めて本書は愛されてきたのだろう。シニカルだがいざという時に頼りになる〈ヌマヒョロリ〉族のパドルグラムが、まるでスナフキンのようないい味を出していてとても好かった。
本書ではさらに、ナルニア世界では「言葉をしゃべる」というのが魂の基準であることが判ったのは収穫であった。(もっと端的に言うと、〈もの言うけもの〉はナルニアの世界では「名誉白人」なのだ。)シリーズ中、もっとも異色作であるといえるのではなかろうか。

『最後の戦い』C・S・ルイス 光文社古典新訳文庫
いよいよ年代別ナルニア国物語も最終巻。全7巻の長大な夢と魔法と冒険の物語は、いわゆる「最後の預言者」にあたる詐欺師の大ザルによるあまりにも卑俗な企てで、あっけない最後を迎えてしまう。(てっきり『ライオンと魔女と衣装だんす』に出てきた魔女が甦って、アスランたちと最後の決戦をするのかと思っていた。若干肩透かしぎみ。)
しかし時の終焉とすべての「ナルニアなるもの」の顕現を経て辿り着く物語のグランドフィナーレは、哀しみと喜びとが入り交じる稀有な体験だった。物語の後半、約3分の一にも及ぶ世界の終わりと王国の幻視は、キリスト教的な神秘主義を間近にみているようで圧倒された。掉尾を飾る山尾悠子氏の解説も心に響くもので、とてもいい読書体験になった。

『話術』徳川夢声 新潮文庫
今でいうマルチタレントのはしりで漫談や朗読で知られた著者が、いわゆる「人前で話をすること」に関するあれこれについて綴った実用本。昔のベストセラーが今回改めて新刊で出たので読んでみた。前半は日常会話における話術が中心で、後半は話芸を生業にする職業について書かれている。書名が『話芸』ではなく『話術』になっているのがひとつのキモで、つまりは壇上で話をする商売ばかりでなく、普段のおしゃべりも含めた「ハナシ」全般ということだ。いずれも具体的な技術ではなく心構え等が中心となっていて、目新しくはないがなるほどと思うことは多い。これも著者の「話術」の巧さなのかもしれない。
本書の内容を少し紹介すると、たとえばハナシの目的は「相手にこちらの思っていることを伝授すること」なのだそうだ。それには大きく分けて3つあり、ひとつめは「あなたに◯◯して欲しい」と言った「意思」、二つめは「私は悲しい」などの「感情」、そして三つめは「◯◯は△△である」といった「知識」とのこと。「ふむふむ」と云いながら読み進める。
また、昔の実用本や随筆の楽しみ方はこういった当時の風俗や考え方に触れることにあるのではないかとつねづね思っているのだが、本書には人前で話をする職業のひとつとして、童話を読むことを生業とする「童話家」というのが挙げられていて面白かった。独特の「童話節」で語るともあるが、自分にはそういった朗読をみた記憶はまったく無い。奥付を見てみると本書の発刊は昭和22年とかなり古いが、そのころには一般的な職業だったのだろうか。
また、このころのノウハウ本には一種独特の雰囲気があるとも思う。人生訓を語るというか蘊蓄を語るというか。それを味わうのがもうひとつの愉しみでもある。ただし気を付けないと、あまりに説教くさくて閉口する本が無きにしも非ず。別にご高説を賜る必要はなくて、愉しく読めれば当方はそれで充分なのだが。(その点本書にはそのような説教臭さはないので大丈夫。)
ところで本書と直接の関係はないのだが、読んでいるうちに思いだしたことがあった。エライ人の話が時に鼻持ちならないのは、地位が上になるにつれて相手とのおしゃべり(=会話のやりとり)が減って、先方が聞き役に回る頻度が増えるからではないだろうか。長年そういう関係が続くと、相手が自分の意見に感服していると勘違いする輩が出てくるのかも知れない。話術は自分のことを伝える技術というだけでなく、会話をうまく続けていくためにも大切なものなのだ。
徳川無声という名を前から耳にすることはあってもどんな人物か知らなかったので、今回はいい機会になった。このところテレビを見なくなってしまったので良くは判らないのだが、最近は教養を持った所謂マルチタレントと呼ばれる人が、テレビの世界から少なくなってしまったような気がする。昔はこういった人たちが数多く活躍して放送文化を作り上げてきたのだろうが、今後はどうなるのだろうか。

『地球の長い午後』ブライアン・W・オールディス ハヤカワ文庫
黄昏ゆく遠未来の地球の悪夢的な様相と、やがて訪れるであろう黙示録的終末を、想像力の限りを尽くして描いた傑作SF。訳者・伊藤典夫氏による、植物の名前に関する独創的な意訳も素晴らしい。読書会のために数十年ぶりに読み返したのだが、記憶していた以上に面白かった。
自転が停止した地球を舞台に奇怪な植物が繁茂する昼の領域から永遠の黄昏の領域へ、そして夜の領域へと移ってゆく構成や、その中で描かれる奇怪な植物と無慈悲に死んでゆく退化した人々の姿、あるいは本能のままに快楽を貪る様子はまるでボッスの「快楽の園」を思わせる。世界は何の説明も無くあるがままに描写され、どんな世界なのかは物語が進むにつれて現れるヒントを元に読者が読み解いていく必要がある。こういった不親切さが本書を愉しむ上での障害になっている部分もあるが、それはまた大きな魅力でもある。直接的な後継作としては、椎名誠『水域』や『アド・バード』、酉島伝法『皆勤の徒』あたりが思い浮かんだ。
以下、読書会で面白かった話を備忘録代わりに書いておきたい。
物語としては行き当たりばったりでいい加減なところも多いと思っていたが、オールディスは第一長篇の『寄港地のない船』から一貫して、アメリカSFの見た目だけを借りて中身は感情移入出来ないキャラばかり登場する「アンチロマン」を書いていたとのこと。確かにドラマツルギーの否定を前提にして読んでみると、嫌な主人公や簡単に死んでいく主要人物、肩すかしの展開など腑に落ちるところが多い。また著者にとって登場人物とは物語を動かすコマに過ぎず、書きたかったのは寧ろその舞台となる「風景」そのものだったというのは目から鱗だた。本書を面白いと感じた人と詰まらないと感じた人の違いは、どうやらその辺りにある気がする。
アミガサタケに代表される「種の存続を目的とする知性」と、グレンに代表される「個の生存を目的とする知性」の違いには、知的階級と労働者階級との階級闘争も二重写しになって見える。ラストでアミガサダケが示す壮大なビジョンの方がSFファンとしては惹かれるものがあるけれど、それに背を向けた主人公グレンの「選択」もまた格好いい。まるで労働者階級の反乱でありパンクだ。全編を通じてシニカルなユーモアが感じられるが、キャラクターの扱い方やそういった独特のユーモアにJ・G・バラードと共通するものを感じるのは、英国人気質ということなのかそれとも両者がいずれもアジアでの戦争体験を持っているからだろうか。
なお本書の冒頭にはイギリスの詩人アレキサンダー・ポープの『人間論』の一説が掲げられているが、ポープは理神論(=宇宙の創造主としての神は認めるが人格神としての神は認めず、したがってその後の世界に神は関与しないという信仰)で有名な詩人でもある。すなわち本書は理神論に基づく「神無き後の世界(つまり諸行無常)」を描いていのではないかという意見を述べたところ、翻訳家の中村融氏からは賛同とともに「実はオールディスは無神論者だった」というコメントを頂いたのも大変面白かった。

『ザ・ファースト・ペンギンス』松波晴人 講談社
「フォーサイト・スクール」メソッドなる、企画の創出ならびに組織の中での実行に関する手法を小説仕立てで解説したビジネス書。こんなに上手くいくか?とは思うがまあ仕方ない。組織内の軋轢については身につまされた。

2018年3月の読了本

3月は2月に続いて目標の10冊に達しなかった。新しい職場に移るための引き継ぎや子供の就職など環境変化も色々あったが、本があれば乗り切れるのである。っこれからも本をたくさん読んでいきたい。

『日々の暮し方』別役実 白水uブックス
氏の本はどれも大好きなのだが、本書も相変わらず切れ味抜群だった。ところで本書は「エッセイの小径」の一冊になっているのだが、日常生活にまつわる様々な出来事に対して「正しい◯◯の仕方」と称して屁理屈を捏ねあげるこの本は、はたしてエッセイと呼んで良いものなのだろうか。(こういう書き方をするところが、すでに文章に影響を受けている。/笑)
全45篇に亘る「正しい◯◯の仕方」の中から特に気に入ったものを列記すると、「退屈」「煙草の吸い方」「風邪のひき方」「待ちあわせ」「お別れ」「ものの捨て方」「禿げ方」「日記の書き方」「ジャンプ」、そして「正しい『あとがき』の書き方」といったところ。続けて読んでいると頭が軽くトリップしそうになるが、こればかりは読んでみないと判らない。少し具体例を挙げてみよう。たとえば「正しい待ちあわせの仕方」においては、「待つ」という行為は一生懸命すればするほど「意図の余りの積極性」と「行為の余りの消極性」のバランスが悪いのだと主張する。従って待つ場合は「ほとんど待たない」か「待ってないふりをする」のが正しいやり方なのだそうだ。そして最後に示されるのは秘伝「ゴドー待ち」。(=ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』ですね。)いやほんと面白い。他にも「つまり『白髪』というのは、『禿』へのためらいから生じた、一種の妥協案にほかならない。それならいっそのこと、『禿』の方が潔いということになるではないか」だとか、論理のアクロバットというか論理のサーカスというか、こういった流れが別役エッセイの真骨頂といえる。中毒性が強いので読むときはちょっとご注意を。

『銘度利加』十田撓子 思潮社
第68回H氏賞を受賞した著者の第一詩集。明晰だがシュールな情景が考え抜かれた言葉によって表現される。SF好きで山野浩一やラングドン・ジョーンズの小説に親しんだ人であれば懐かしいと思うかもしれない。あるいは文字で表されたマグリットのようにも。読んでいてとても気持ちが良かった。
以下、「パニヒダ」の中から少し抜粋する。

天体から音が聞こえてくる

水が星座を読むように
胸の奥からふつふつと湧き出てくる
それは音のかたちを持っていた

その音を説明するために
しかし私は
言葉を使わなくてはならない

あるいは頭に浮かんだ音や時間を、言葉でそのままの姿に切り取ったものではないかとも思う。
ツイッターでは「やばい」という感想が流れてきたのだが、読んでみてその意味がよくわかった。まさしくこれは妄想である。しかも密度が濃くて非常に強固な妄想。こんな文章を、黒塗りの柩の中に閉じ込めたような装丁で目の前に差し出されたら確かに「やばい」。

『百年泥』石井遊佳 新潮社
第158回芥川賞受賞作。インドのIT企業で社員向け日本語教室の講師をする女性。百年に一度の大洪水で打ち上げられた泥の中から、彼女の前に様々な過去の残滓が出現する。魔術的な街チェンナイにおいては、自身の幻想的な過去もまた現実に溶けるのだ。
芥川賞という冠が仮に無かったとしても、普通の幻想文学として読んでも充分に面白い。川上弘美氏の作品が好きな人なら、きっと口に合うような気がする。インドの人々の描写にはかなりのリアリティを感じたが、そこから地続きでいつの間にかあり得ない光景が出現するのは何とも不思議。南米文学の魔術的リアリズムにも通じる香気がある。

『夢のウラド』F・マクラウド/W・シャープ 国書刊行会
著者はスコットランド生まれの男性評伝作家で、19世紀に女性名でケルト色の濃い幻想小説を発表した人物。本書は二つの名前で発表された短篇小説を精選して全部で20篇収録しており、両者の異なる作風が一冊で楽しめるお得感がある。マクラウドのパートはケルト神話とキリスト信仰がベースの幻想小説がメインで、シャープの方は美しい風景とえげつない人間関係が同時に描かれ独特の味がある。どちらにも好きな作品は多く迷うところだが、前者では表題作と「島々の聖ブリージ」「最後の晩餐」、後者では「ジプシーのキリスト」「フレーケン・ベルグリオット」あたりが好みだろうか。どちらかといえばマクラウドの方が自分の趣味には合う感じがする。
夢の紡ぎ手マクラウドにより奏でられる旋律は、時には月光が照らす谷に静かに流れる哀しき調べであり、そしてまた時には、碧い海の飛沫の中に浮かぶ安らぎの歌でもある。ページをめくるたび、今はもう失われてしまった世界、二度とたどり着けない世界への扉が開かれてゆく感じがとても好い。ただ、「聖なる冒険」と「風と沈黙と愛」は物語というより著者の神秘思想の直接的な発露のようにも思える。
読み進めるほどにウイリアム・シャープとフィオナ・マクラウド名義の作品との違いが際立ってくるのは、訳者・中野善夫氏の編集が上手いのだろう。ダンセイニなら『ペガーナの神々』と『ウイスキー&ジョーキンズ』くらい違うのではないか。いや『二壜の調味料』のほうがいいかも知れない、などと考えるのもまた一興である。

『ドラコニアの夢』澁澤龍彦 角川文庫
アンソロジスト東雅夫氏が膨大な澁澤龍彦の文章な中から選んだ「澁澤入門編」とでも言うべきセレクション。貫くテーマは「澁澤×文豪」。創作から評論、エッセイに対談まで、文豪ストレイドッグスに因んだ視点で澁澤ワールドを一望できる好著である。解説で明かされている編集の意図も面白い。
『高丘親王航海記』から選ばれた幻想的な小編も好いが、例えば「卵から林檎まで」は「初めから終わりまで」の意味で使われていたとかいった、澁澤らしいペダンティックが出てくるとやはり嬉しくなる。(前菜には卵、デザートには林檎が欠くべからざるものだったからだそうだ。)そして澁澤が一等好きな鏡花作品は「草迷宮」だと知り、「ほほー」などと意味のない感心をするのも愉しい。三島由紀夫との対談も収録されていたり、全体的に良いセレクションだった。

『蕃東国年代記』西崎憲 創元推理文庫
幻想の彼方の国、蕃東国を舞台にした、とろりとした東洋幻想譚。時代も主人公も異なる五つの物語が展開するが、その間に挟まる幻想の地誌や民俗学的考察がさらに味わいを深くしている。物語の方も、よくあるような現実世界をちょっと捻って幻想味をつけたものではなく、古今東西の神話や説話のモチーフを細かく裁断して混ぜ合わせたとても贅沢なつくりであると思う。読むほどに心地よく酔いしれる、幸福な読書時間である。
作品の中で一番読み応えのあるのはやはり最後の「気獣と宝玉」だろう。「竹取物語」を彷彿とさせる求婚難題譚であり、今後へと続く余韻を残す見事な中篇となっている。元々西崎氏の作品は大好きで本書の作品もすべて好きなのだが、あえて気に入ったのを選ぶとすればこの「気獣と宝玉」のほか「海林にて」と「有明中将」あたりだろうか。

『島とクジラと女をめぐる断片』アントニオ・タブッキ 河出文庫
太平洋中央部に位置するポルトガル領・アソーレス諸島を旅した著者が、その島の捕鯨と難破と人々の記憶で作り上げる緩やかな集積。薄ぼんやりしつつピリッとした何ものかに惹かれる。ラストの「ピム港の女」が見事だ。作風は違えども、全体の印象は開高健に似ているものを感じた。たとえば寂寥感であるとか虚無感であるとか。島の人々が崇める神々についてのエピソードが面白かった。たとえば後悔と郷愁の神は老人の顔をした子供で、憎悪の神は痩せさらばえた小さな黄色い犬なのだそうだ。(C・プリーストの『夢幻諸島から』を思い出した。)
アソーレス諸島に伝わる伝統的な捕鯨に同行した際の回想では、捕鯨手たちの見事な技と鯨の断末魔の叫びを目の当たりにして、「まもなく消えてしまう種族」が同族を獲る姿が淡々と描写される。須賀敦子氏による訳も見事で、自分も含めてある種の人は思いきり嵌るタイプの作品だと思う。

『涙香迷宮』竹本健治 講談社文庫
明治時代のジャーナリスト/小説家/翻訳家である黒岩涙香が作ったとされる“いろは歌”に隠された暗号と、「連珠」(五目並べから発展した囲碁のバリエーション)をめぐる殺人事件が見事に融合した超絶技巧のミステリ。黒岩涙香やいろは歌に関する蘊蓄が延々と披露されていくのがとても好い。蘊蓄ミステリ大好きなのだ。こういう本を読むと、とてもしあわせな気持ちになれる。いや本当に素晴らしい。全く予備知識無しで読み始めたのだが、『囲碁殺人事件』『将棋殺人事件』『トランプ殺人事件』に続く天才棋士・牧場智久のシリーズだったのにも驚いた。懐かしい。読んでいるうちに、天才を描くのは天才にしか出来ないという言葉とともにトーマス・M・ディッシュの『キャンプ・コンセントレーション』が思い出されてきた。黒岩涙香が残した隠れ家に飾られていた四十八のいろは歌がとにかくすごくて、これだけでも本書を読む価値がある。本当によくこんなの考えついたものだと思う。殊能将之『黒い仏』をちょっと連想したりもした。

2018年2月の読了本

『幻想秘湯巡り』南條竹則 惑星と口笛ブックス
作家であり翻訳家でもある著者が全国の鄙びた温泉を巡って旅の思い出をつづる。毎回その地に因んだ本が取り上げられ、時には幻想的なエピソードも挿入されたりと、一風変わった温泉ルポとなっている。飄々とした語り口がいかにも著者らしくて好ましい。取り上げられる作家・著述家は、幸田露伴に宮沢賢治、岡本綺堂に柳田國男、泉鏡花に鈴木大拙など。いずれも自分好みのいいチョイスだ。例えば岡本綺堂の『修禅寺物語』に因んで修禅寺温泉に行くとか、泉鏡花の「眉かくしの霊」や『山海評判記』に因んで山中温泉や和倉温泉の旅館に泊まったりする。ファンからしたら堪らない。

『その犬の歩むところ』ボストン・テラン 文春文庫
ギヴと名付けられた一匹の犬がいた。イラク戦争から心に傷を負って帰還した元海兵隊員ディーンはギヴと出逢い、彼の生涯を、その愛情と恐怖と誇りの物語を知ることになる。語り手の主人公が神の視点で語るところについては、まるで「見てきたような」過去の出来事の描写も含めて、若干の違和感を感じた。このあたりについては意見が分かれるかもしれない。しかし基本的には読んで気持ちのいい物語だ。ギヴが示す友愛と連帯、帰属と誇りの描写はきっと犬好きにはこたえられないだろう。これこそがアメリカの「善き部分」といっても良いのかも知れない。脳内BGMはRCサクセションの『山のふもとで犬と暮らしてる』だった。

『筒井康隆入門』佐々木敦 星海社新書
日本SF界の大御所・筒井康隆のデビュー作から最新作までの活動を「SF」「黒い笑い」「超虚構」「炎上」「GOD」の五つの時代に分けて俯瞰した作品ガイド。ガイドであると同時に「作家・筒井康隆論」にもなっていて、最終章では著者が提唱する新しい概念「パラフィクション」と筒井作品が見事にシンクロしてゆく。自分としては『脱走と追跡のサンバ』に始まり『虚人たち』以降へと続くメタフィクション系の作品群と、「家」や「遠い座敷」「ヨッパ谷への降下」などの幻想作品が好きで、なかでも『驚愕の曠野』を氏の最高傑作と思っていて、断筆から復活した後の筒井作品についてはさほど良い読者ではないのだが、本書を読んでいると他の作品も読み返したくなった。『ダンシング・ヴァニティ』とアラン・ロブ=グリエの『迷路のなかで』の方法論の比較など読んでみたい気がする。

『半分世界』石川宗生 東京創元社
創元SF短編賞を受賞した「吉田同名」の他、表題作を含む全4作を収録した中短編集。まさに「奇想」と呼ぶに相応しい作品ばかりで、しかもそのいずれもが楽々と世界文学のレベルに達している。「吉田同名」と「半分世界」は、まるでミルハウザーやブッツァーティを読んでいるような不思議な感覚が横溢しているし、「白黒ダービー小史」では架空のボールゲーム「白黒ダービー」を使って哲学や科学やスポーツのパロディ、そしてロミオとジュリエットばりのロマンスが語られ笑いが止まらない。円城塔にも通じるものがあるかも。いや楽しい。
しかし何と言っても圧巻はラストの中篇「バス停夜想曲、あるいはロッタリー999」だった。荒野の真ん中にあるなんの目印もない十字路、そこは999のバス路線が交差する停留所となっている。人々はそこでいつ来るとも知れぬ乗り継ぎバスを待ち続ける......。一つの地点を固定してそこを通り過ぎてゆく人々を描くのは、まるで逆パターンのチャトウィン『パタゴニア』のようだし、話が進むにつれ『百年の孤独』や『族長の秋』を思わせるような展開になってゆく。解説にもあるが、まさに南米文学の幻想性に通じるものがある。いやこれはすごいものを読んだ。

『ブッシュ・オブ・ゴースツ』エイモス・チュツオーラ ちくま文庫
アフリカの民話に着想を得て書かれた奇想天外な物語。「まだ善悪をわきまえないほど幼い」がゆえ、間違って幽鬼(ゴースツ)たちの棲むブッシュに入り込んでしまった子供が、様々な幽鬼に翻弄されつつ異世界を彷徨する。「悪臭幽鬼」や「強盗幽鬼」、「河幽鬼」に「こびと幽鬼」、「稲光を放つ眼の母親」など、次々登場する化け物たちはどれも魅力的。(なおここに出てくる色々な幽鬼はそのまま「部族」と考えていいようだ。)永遠に年をとらぬ彼ら幽鬼たちの棲むこの世界には、驚くことに死者が住まう町もあったりする。ブッシュとはすなわち黄泉比良坂でもあるのだ。
次々と出てくる幽鬼たちは、なんだか『猿飛佐助』とか『少年児雷也』といった杉浦茂の漫画を見ているようで、細かなエピソードの積み重ねも結構マンガチック。主人公の少年に知恵や徳など人に秀でたものがなく、淡々と流されてゆくのも面白いし、他の昔ばなしの仕掛けを裏側から種明かしされているような不思議な構成も含め、他では読んだことがないような不思議な読後感を得られる。この違和感は作者に特有のものなのだろうか、それともアフリカ民話に共通する特徴なのだろうか。

『なぜ世界は存在しないのか』マルクス・ガブリエル 講談社選書メチエ
従来の形而上学と構築主義を共に批判しつつ、無限に多様な「意味の場」の重なりとして存在を規定する「新しい実在論」を提言する。訳文もこなれていて口語調で非常に読みやすいし、なんだかよくできた青春小説を読み終えたような満足感がある。ベストセラーになったのも頷けるたいへん楽しい哲学書だった。ポストモダン思想以来のニヒリズムを克服する手段として、こういうやり方もあるのだと、ちょっと感心した。
本書の内容をとても乱暴に要約してしまうと、「全ての物の総体たる『世界』は存在しない、というテーゼを、唯物論や「構築主義」(一種の解釈主義)などの矛盾を指摘することで立証」しようとするものだ。では「世界」が存在しないとすれば何が存在するのか?著者は様々な事実と物による「対象領域」こそが「存在」するのだと主張する。おとぎ話の中の事物も宇宙に浮かぶ惑星も、市役所の事務仕事も全て「対象領域」として同一レベルで「存在」する。つまり基本単位はハイデガーを思わせるような「意味の場」なのだ。最初は少し頭を捻らなきゃいけないけど面白い。なお、本書は第4章が「自然科学の世界像」、第5章が「宗教の意味」、そして第6章が「芸術の意味」となっているのだが、これはきっとプラトンやカントの「真善美」に倣っているのだろう。先ほどのハイデガーといい、生物的な認知の違いによる「対象領域」の違いについてはユクスキュル「環世界」を持ち出したているところといい、色んな先達のいいところを集めている印象がある。ちなみに「世界」を否定した本書の最終結論はルイ・アームストロングの「What a Wonderful World」ではないかという気がする。

『お化けの愛し方』荒俣宏 ポプラ新書
幻想・怪奇小説に関する膨大な知識を駆使して、中国の志怪小説を振り出しに日本やアジアなど世界各地の怪談を考察し、生者と死者の彼岸を超えた恋愛のあり方について探る。まず中国からは『今古奇観』『三言』『情史類略』『剪灯新話』に『聊斎志異』。日本は『女人愛執恠異録』や『雨月物語』『牡丹灯籠』など。さらにはタイの『メー・ナーク』からドイツの『レノーレ』まで古今東西さまざまで取り上げられる作品は幅広く、最後にはスウェーデルボルグや平田篤胤まで登場するのには驚いた。中国の志怪小説や伝奇小説は挫折したエリートたちが社会制度に対してもった反骨精神から生まれたという話は面白い。
本書では考察対象を「恋愛怪談」にしぼっているので、『雨月物語』からは「浅茅が宿」のみしか言及されないなど作品に偏りはある。しかしそれ故に一貫性があってぐいぐい読ませる。特に『剪燈新話』の「牡丹燈記」から日本の『伽婢子』の『牡丹燈籠」や『雨月物語』の「浅茅が宿」、そしてタイの『プラカノーンのメー・ナーク』および映画『ナンナーク』と『愛しのゴースト』、そして三遊亭圓朝による『怪談牡丹燈籠』までの系譜を一気にたどる後半部は圧巻だった。(それにしても「恋愛怪談」の転機が怨霊とならぬ「怖くない怪談」の発明にあるというのは卓見だと思う。)
はたして生と死を超えた愛は叶うのだろうか?それは本書を読んで確かめていただきたい。

『猫は宇宙で丸くなる』シオドア・スタージョン、フリッツ・ライバー他 竹書房文庫
翻訳家/アンソロジストの中村融氏が編纂したネコSFアンソロジーで、珍しい作品や初訳の作品ばかりを十篇収録しているのが如何にも中村氏らしくて好ましい。特に好かったのはジェフリー・D・コイストラ「パフ」、デニウ・ダンヴァーズ「ベンジャミンの治癒」、ナンシー・スプリンガー「化身」、ジェイムズ・ホワイト「共謀者たち」あたりか。そしてなによりフリッツ・ライバーによる幻の名作「影の船」がいい。
猫はたとえ脇役であっても主役を食ってしまうほどの印象を残すので、「猫SF」とくれば物語の中心には必ず猫が居座ってしまい、最終的に「猫賛歌」みたいになってしまうのが魅力でもあり残念なところでもある。(喋らせると特にいい。)本書所載作では先述のベンジャミンやシュミッツ「チックタックとわたし」に出てくるチックタック、それにライバーの「影の船」のキムあたりがそうだし、同じくライバーでは「跳躍者の時空」のガミッチもかなりいい。いやあ愉しいアンソロジーだった。

『絶景本棚』本の雑誌編集部編 本の雑誌社
様々なジャンルの読書家の皆さん34名により作り上げられた本棚写真の饗宴。ただ本が並んでいるだけの写真なのに、いくら見てもなぜか見飽きない。持っている本に知らない本、欲しい本に要らない本。色んな本があるがどれも美しい。自分の家の「絶景」はどの辺りになるのか、本書を眺めては考えていた。

2018年1月の読了本

2018年初めての月は11冊だった。これを多いとみるか少ないとみるかは、これから読める量によって決まる。まあ何はともあれ今年も充実した「お気らく読書ライフ」を送りたいものであるね。

『美術愛好家の陳列室』ジョルジュ・ペレック 水声社
素封家のドイツ系アメリカ人にして美術蒐集家であったヘルマン・ラフケのコレクションの中から、『美術愛好家の陳列室』と名付けられた絵画を中心に様々な絵画について、その内容をただひたすら語り尽くす。絵の来歴などやたら細かいのだが、有名な画家や作品の間に全くの架空の画家が紛れ込んでいて、入れ子になった虚構が迷路のようだ。以前読んだミハル・アイヴァスの『黄金時代』に出てきた、註釈に註釈が付いて個々に掘り下げられた細部が突然結びついたりする不思議な本を思い出した。絵画を題材にして書かれたレムの『虚数』といってもいいか。
ラストで明かされる「真実」は物語としてはきわめて親切なのだが、それがこの本の読者にとって本当に「親切」なのか、それとも却って「不親切」なのかはわからない。いずれにせよこの本の作者が信頼できない語り手/騙り手であることは間違いないのだから。

『わたしの物語』セサル・アイラ 松籟社
セサル自身を語り手とする「自伝的」小説。歪んだ鏡に映った中勘助『銀の匙』とでも言うべきか、あるいは一人称による今村夏子『こちらあみ子』とでも言うべきか。不協和音と不穏が流れ続ける物語は衝撃的なラストへと帰着する。世の中にはこんな話もあるのかと驚いた。

『猪・鹿・狸』早川孝太郎 角川ソフィア文庫
著者は柳田國男や折口信夫らとの知遇もあった人物。寡聞にして知らなかったのだが、民俗学の古典的著作だそうだ。内容は愛知県は奥三河地方の山里で人々に聞いた動物との関わりをまとめたもの。原著は大正15年刊だが、もうすでにその頃には失われつつあった貴重な伝承が収録されていて読む者を飽きさせない。猪・鹿・狸はいずれも狩猟の対象であるため、どうしても狩りの話が多めだが、あちこちに話が脱線するので結果的に当時の風俗全般の貴重な記録になっている。中でも狸は人を化かすだけあって摩訶不思議な話が多くて楽しめた。さらに巻末には附録として「鳥の話」も収録されていて、なおのことお買い得感がある。(「鳥の話」は本編とは違い、著者が子どもの頃に出会った数々の鳥についての思い出話。憧憬は常に哀しみとともにあるが、それは失われてしまったものに対する想いだからなのだろうか。記憶のヴェールに包まれてこそ思い出は儚くも輝くのだ。)

『ホロホロチョウのよる』ミロコマチコ 四月と十月文庫
画家で絵本作家でもある著者が初めて書いたエッセイ集。子ども時代の思い出や今に至る活動の記録、折々の気持ちなどが綴られている。自由奔放な作風そのままの素直な文章を読んでいると、まるで心が晴れ渡ってくるようで気持ちがいい。こういう本との出会いは「ネットでぽちり」ではなく実際に本を眺めながら歩くことでしか得られないものではないか。読めてよかった。世界がまたひとつ広がった。

『屍人荘の殺人』今村昌弘 東京創元社
驚くような設定でクローズドサークルを構築した本格ミステリ。設定自体は評価(好み)が分かれるかもしれないが、ミステリとしてはいたってフェアなつくりをしており、突拍子もない設定を上手く使っていて好感が持てる。(『卍の殺人』や『ハサミ男』など良くできた作品を読んだ時と同じ感触を得た。)題名からしてもっと仰々しい感じかと思っていたのだが、出だしは《猫丸先輩シリーズ》みたいに軽くて読みやすい。このように良い味での「軽さ」がこの人の持ち味なのだとすれば、へんに読者受けを狙わず好きに書いてもらいたい気がする。きっと本書のように面白くなるはず。

『謎』パスカル・キニャール 水声社
キニャール・コレクションの一冊。その起源を民話や伝承まで遡る「物語(コント)」をモチーフに著書が綴った6つの作品集。冒頭の「失われた声」から、表現することの意味について自らの考えを述べたエッセイを付す「謎」まで、圧倒されて言葉がない。
特定の作り手がいない「物語(コント)」では語ることが即ち意味をなす。伝統的な意匠で語られる話を読み進むうち、物語ることそのものへと思いは広がってゆく。重層的で豊潤な読書体験はこの著者ならではの稀有なものだ。巻末の解説と訳者あとがきも、作品の文学的背景を解いてくれて有難い。特に気に入ったのは「失われた声」「舌の先まで出かかった名前」「死色の顔をした子ども」といったところだが、表題作の「謎」も悪くない。フィクションとエッセイの境が無くいきなり著者本人が顔を出すのは、幸田露伴の「幻談」のようでもある。
ちなみにキニャールは自分の頭の中でヴァーノン・リーやイサク・ディネーセン、石川淳やレオ・ペルッツなどと凡そ同じひきだしにしまわれている感じがする。自分でもどういうくくりなのかよく分からないが。

『虚ろなる十月の夜に』ロジャー・ゼラズニイ 竹書房文庫
ゼラズニイが怪奇小説や映画に出てくる怪物たちを題材にして書き上げた最後の単独長篇作。物語が進むにつれて徐々に明らかになってゆく設定、洒落た会話、そしてあっけなく終わるラストなど、どこをとってもまごう事なきゼラズニイ作品だった。
語り手は「ジャック」の相棒となるスナッフという名の犬。10月最後の日に行われる、ある「儀式」へ参加する者を助ける使い魔だ。他にも猫やフクロウ、蛇など色々な動物達が、儀式への参加者のパートナーとして互いに牽制したり協力したりを繰り返す。本書は同じ作者の《真世界シリーズ》やムアコックの《永遠のチャンピオンシリーズ》がSFであるのと同じレベルでSFといえる。(解りにくい喩えだがご勘弁/笑) まあファンタジーと言おうが怪奇小説と言おうが、面白ければどんなレッテルを貼ろうが別に構わないのだけれど。
本書を読んでつくづく思ったのだが、ゼラズニイはスタイルの人だ。何を書くか、ではなくてどう書くか。漫画家なら石ノ森章太郎みたいな感じだと思う。(思えば石ノ森氏のコマ割りは天才的であった。)この本に出てくる「使い魔」はどれも魅力的なのだが、二匹の使い魔が水晶の宮殿を訪れる場面がとても好かった。ゼラズニイの本では、こういった物語の本筋には直接関係のない細部が好きだったりする。

『悠々として急げ』開高健 角川文庫
強がりで孤独な文学者が学者や企業家など11名のユニークな面々と繰り広げる放談集。残念だったのは自分が知っているのがグラフィックデザイナー福田繁雄氏だけだったということ。他の人もきっと当時は有名だったのだろう。言葉の端々に1977年という時代を感じた。
少し中身に触れると、例えば「人を食った人たち」という対談では、中国を中心に「人を喰った」エピソードが次から次へと紹介される。開高健は艶談とかスカトロとかこういう話になると生き生きして大変面白い。食人の理由は、飢餓もしくは相手への憎しみ、あるいは呪術的な意味で相手の力を自らに取り込みたいからが殆どだが、中国では楽しみのために食人をしたと歴史書に書いてあるとのこと。(でもまあヨーロッパでもジル・ド・レやエリザベート・バートリなどがいるから残酷さではさほど変わるものではない。)
この人は対談集が多い印象があるが、対談のイメージが強い作家・文化人では、そのあとは立花隆、今は佐藤優あたりが思い浮かぶ。本書を今読むと、言葉の端々に「男女」の性や役割に囚われすぎる発言があるのだが、おそらくこれは時代背景だけではないだろう。今この本を読んで感じるのは、氏がいかにステロタイプな性的役割や価値観に囚われていたかということ。感性豊かな人だけに、無意識にせよ随分と生きにくかったのではないかと思う。(『輝ける闇』や『夏の間』にもそれが見え隠れする。)男とはどう生きるべきか、女はどうあるべきか。強固にも見えるそういった社会的規範もまた時代とともに変化していくものなのだ。開高健が開高健である所以である。(同様に立花は「知」、佐藤は「倫理」への拘りがみえると思う。)おもえばその昔は、文化人が「時の人」と対談を行う様子が中間小説誌や大衆誌などによく掲載されていたような気がする。ちょうど今ぐらいの時季だと「新春対談」とか銘打ったりして。そんな古い対談をこうして今読んでみると、人権意識の欠如やパワハラ、セクハラ的な発言が目につくことがままある。文学的には価値が低そうな、いわゆる埋め草的な対談を集めた古い対談集を読んでいると、おそらく今後も文庫や電子書籍で復刊される可能性は少ないのではないかと思える。逆に言えば、資料的な価値を見出せる人、あるいはその時代の空気を読むことに愉しみを感じる人は、昔の対談集を見つけたら買っておいて損はないのかも知れない。昔は「文化人」と呼ばれる人さえ、平気でこんな発言をしていたのかと、驚けることうけあいだ。対談は小説以上に時事的な意味合いが強いものなのだ。

『魔法にかかった男』ディーノ・ブッッァーティ 東宣出版
独特の魅力を持つ作家の二十の作品を集めたオリジナル集。信仰と罪、死と悲しみ、幻想と恐怖が入り交じる。表題作の他には「チェーヴェレ」「リゴレット」「エレブス自動車整備工場」「勝利」などが特に気に入った。素晴らしい。畳み掛けるような不条理が好い。同じ著者の『神を見た犬』を思い出す。ラストの作品を除いて殆どが短篇というよりショートショートに近い長さだが、ことごとく切れ味が鋭い。不安というより不気味、幻想的でありながら茫洋ではなくリアル。そしてその上で繰り広げられる「恐れ」が面白い。

『悪について』エーリッヒ・フロム ちくま学芸文庫
新フロイト派の流れをくむ思想家により、ナチスに代表される「悪」がいかにして人の心の中に生まれるかが考察される。人はいかにして、生きることの喜びを否定し自己撞着と退行に陥ることから「自由」になれるのか。誠実な答がある。今の日本に蔓延する病は無知とルサンチマンではないかという気がする。今読めて良かったと心から思う。

『四角い卵』サキ 白水uブックス
『クローヴィス物語』『けだものと超けだもの』『平和の玩具』と続いた、この叢書におけるサキの作品集の最後となる一冊。初期作品を含む落ち穂拾い的な面もあって、「クローヴィスもの」など定番のユニーク小説ばかりでなく政治風刺など珍しいものまで収録され、バラエティにとんだ作品集になっている。全体の雰囲気としては諧謔や滑稽というよりは皮肉と風刺で、スパイスが結構効いている。巻末のJ.W.ランバートによる評伝が素晴らしい。サキを「はぐれヴィクトリア時代人」と称して、人となりをT.E.ロレンスに比しているところなど、なんかもう、すごく分かる気がする。特に気に入った話を選ぶとするなら寓話である「聖者と小鬼」「エデンの園」あたりだろうか。
ちなみに「毒作家」といえばサキの他にはビアス、筒井康隆、ゴーリーなどが頭に浮かぶ。ストレスが溜まってるとこういった作家の「毒」がよく効くのだが「毒をもって毒を制す」という感じなのだろうか。(なおこの場合の「毒」とは作風に冷笑を含んでいるものを指す。ヴォネガットは毒というよりは「漢方」だし、オーウェルは笑いが無いので外した。スウィフトやバージェスは「毒作家」に入れて良いかも知れない。)
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舞狂小鬼

Author:舞狂小鬼
サラリーマンオヤジです。本から雑誌、はては新聞・電車の広告まで、活字と名がつけば何でも読む活字中毒です。息をするように本を読んで、会話するように文を書きたい。

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